少し眠るだけ

 彼の名前を忘れそうになる。

 なんだか、今でも隣で眠っているような感覚になるのに。


 何て呼んでたっけ。


 不意にそう考えてしまう。

 忘れられてからがいよいよ本当に死ぬことなんだって言ってた気もする。

 彼がもうすぐ二度目の死を迎えようとしていることは、多分間違いない。

 そうはさせまいと、必死にしがみついて彼を死なせないようにしていたけれど、それも限界らしい。

 彼が死んだ日の、最後の会話を思い出そうとする。


 ご飯はちゃんと食べて。

「約束するよ」


 しっかり睡眠取って。

「約束するよ」


 嘘はつかないで。

「約束するよ」


 無理しないで。

「約束するよ」


 私に言って。

「約束するよ」


 報告して。

「約束するよ」


 教えて。

「約束するよ」


 約束。

「約束するよ」


 要求はどんどん短く簡潔になっていった。どの要求に対しても彼は、返事をしてくれた。承諾をしてくれた。私の言う通りに。私の言葉よりも、彼の返事のほうが長くなっていっても。

 彼は約束をしてくれた。


 どの時点で嘘をついてたんだろうか。

 私に隠れて不摂生な生活を送って、最後の会話の最後の「おやすみ」を、どんな気持ちで言ってくれたのか。

 忘れた方がいいのかな。


 今日あたり、電話してみようかと思う。

 彼は電話を置いていった。


 読まれることのないメッセージとか。

 聴かれることのない留守番電話とか。

 そういうもの全部が蓄積されていく。


 彼の携帯のロックを外さないまま、充電だけ保ってきた。

 解約さえできていないものだから、未だに携帯会社は彼が生きていると思っている。


 SNSのアカウントもまだ残っている。

 亡骸がインターネットを彷徨っている。

 今も。


 アカウントにメッセージを送ると、通知が彼の携帯に表示される。

 表示できる許容範囲を超えた通知の量が、携帯画面を埋め尽くす。


 もしかすると、彼は死ぬ前に何かメッセージでも残してるんじゃないかと、必死に携帯のロックを解除しようとしたこともあった。結局諦めたままだ。

 私にとって諦めるってのは行為じゃない。状態だ。

 生きることを諦め、生物であることを諦めて、人は死ぬ。

 諦めたまま。

 後悔すら。

 反省すら。

 私は、せめてその状態から抜け出してから終わりたい。生きているうちにできることは全部終わらせてから、ようやく私は私を辞めることができるんだと思う。

 私は、彼に会いたい。


 少しだけ眠る。

 私と彼が交わした「おやすみ」の前に、彼が口にした言葉だ。

 私も、帰ったら休もうと思う。


 大丈夫だよ。

 少し眠るだけ。

 

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