善は天国、善意は地獄
誰かが自殺を止めてしまう。彼らに何ら悪気はなくて、むしろ善意しかない。その善意も、「人は無闇に死ぬべきではない」だとか、「死は忌むべきものである」みたいな思想が根底にあるからだ。宗教を抜きにしてもしなくても同じだ。
地獄への道は善意で舗装されている。天国は善で満ちているのに。
本当の悪意が、建前の善意によって隠されているようなことはあまりない。見破れないだけかもしれないが。ほとんどの善意には悪意などなくて、善意一〇〇%で成り立っている。その光景を地獄と形容するのが不謹慎だと言う人がいるのなら、その人は舗装に手を貸しているのだと思っていい。経験則だ。
自殺を阻止され、それでも負けじと自殺を試みる人間はやはりいるし、対抗して自殺を止める人間もやはりいる。
+ + +
「多分、色んな人間の恨みを買ってきたんじゃないかなって思うんです」自殺願望に当てられた人間が今日も電話をかけてくる。
「色んなことに首突っ込んで引っ掻き回してきたんです。そのツケが回ってきたんですかね」
「具体的にはどういうことをやってきたんですか?」私が聞く。
「ここに電話をかけてきてる時点で、だいたいお察しとは思いますが……」わからない。ここに電話をかけてきたからといって、何かがわかるわけではない。統計は取ってないし、経験則から推量するのも困難だ。
「色んな人間がいますから、やはりどういうことをやってきたのかは気になるんです」
「そうですか。これまで何人もの自殺を止めてきました。寸前でです。死にたがっている人に何度も出会ってきました。人は本来、そうそう無闇に死ぬもんじゃないんです。だからそうやって命を粗末にしようとする人たちを見かけては、全力で自殺を止めてきました。おかげで英雄扱いです。命を救ってくれてありがとう。何度もお礼を言われました。色んな人にお礼を言われました。ありがとうって言葉が心底出てきている人間の言う「ありがとう」って言葉は、他のそれとは違うんですよ。単純な感謝の言葉だけど、その奥深さに感動したほどです」
一度喋り出すと止まらないらしい。かと言って、こちらから遮ったりすればどうなるやら。
以前それをやったせいで相手の話を最後まで聞けず、相手はパニック状態に陥り、見事そのまま電話口で死んでしまった。
「君の命は君だけのものじゃない。みんなのものだし社会のものだ。そういう風に何度も何度も色んな人間に教えてきました。君が死ぬことによって、社会は大混乱に繋がるんだと。風が吹けば桶屋が儲かるみたいに、たった一人の自殺が思わぬ規模の社会問題になったりするんだと。昔ありましたよね、一人の学生の自殺によって、いじめ問題が本格的に議論されだしたり、あるいは一人の会社員の自殺によって、労働問題が露呈して問題になったりしましたよね。そんな風に、たった一人の自殺が、社会を大きく変えてしまいかねないんだと、これまで言ってきたんです」
隠されていた問題が露呈したのは良いことなんじゃないのかと思ったりもした。話さなかったが。
話せばこう返ってくるだろう、「一人が犠牲にならないと社会は良くならないなんて馬鹿げていると思いませんか」と。
なんとなくわかる。
実際、ここに書いてはいないが似たようなことを言っていた。
「しかし、時代の流れって恐ろしいものですね。これまで易々と死ぬんじゃないなんて言って自殺を止めてきましたが、返ってきたのはお礼だけじゃなかったんです。恨み節も混ざっていました。なんと言うんですかね、逆恨みとでも言えばいいんでしょうか。なんであの時死なせてくれなかったのか、などという馬鹿げた妄言を吐いてくるんです。生きてるだけありがたいと思いなさいと言い返しました。今の方がよっぽど辛いと口答えをしてきました。自殺しようとしたんだから当たり前だと言ってやりました。命を粗末にしようとしたんだから、その報いを受けるのは当然だと。今はその報いを受けている時期であって、辛いのは当たり前だ、いずれその報いもなくなる時が必ずくるんだから、その時までは大いに苦しみなさい、と」
頭痛がしてくる。
この相談者はまだ「死にたい」という言葉を発していない。
これほど饒舌に言葉を引き伸ばし繰り返すパワフルな人間は、仕事をしてきた今までの経験上からしてもいなかった。
死にたくないのであれば、この電話もクレームとして処理することになるだろう。
だが、雄弁に騙る人間でも、密かに自殺願望を抱えていたりするものだ。だから彼の言葉を無碍にできない。
それがすごくもどかしい。
葛と藤が絡みつく。
「私にしてみれば、恩を仇で返そうとしているわけですから、そんな怨みつらみの言葉を投げかけられるいわれなどないと思っています。今もそうです。尊い命です。未来を担うべき貴重な存在なんです。何人たりとも、たとえ自分自身であろうと、それが失われるなんてことはあってはならない。私はね、これまで善いことをしてきたと思っています。人の命が無駄に減っていくのを食い止めているんです。少子化もあって国の人口は減っている一方なのに、自殺で更にそれを加速させるだなんてあってはならないんです。自殺は悪なんです」
電話口の言葉がようやく止まったので、質問をする。
「この電話が、どういったものかについてはご存知ですか」
「ええ、知っています。自殺をしたい人のための番号ですよね」
「そうです。あなたのお話を聞く限り、我々はとても悪い人たちであると言っているように思いました」
「そうですよ。あなたはその言葉で自殺を止めようとしましたか」
「止めることはしません」
「そうですよね。むしろ自殺を推し進めている」
「そうですね」
「ならばあなた達の存在は悪でしょう」
こうもきっぱり言われるか。
「あなたは抗議をしにお電話を?」
「いえ、違うのです」
「違う? ご意見を言いに来たわけではないのですね?」
「あなたがたの存在は確かに悪です。醜悪です。人の命も、人の死も軽んじている。そのことに変わりはありません。ですが、ですがですよ、私自身はもう十分に生きました。若者たちとは違って、私はもう歳も重ねて体の自由も効かなくなりつつあります。そんな私が自分で自分の生涯に幕を下ろしたいというのは、そりゃあ傲慢かもしれません。赤の他人の死にたいという気持ちを否定して、無理やり生かしてきたわけですからね。でもそれは、彼らが未来を背負っているからです。年老いて未来も無い私とは違うんです。彼らには未来があるんです。私にはもう未来はありません」
くそったれ。
散々死にたい人を死なせずに不幸にしておきながら、自分はのうのうを死のうというのか。
文字通りの生き地獄に放り投げて知らん顔か。何が未来だ。未来を潰してる側にいる人間がそれを言うのか。
反吐が出る。
ボールペンが折れてしまった。
……とはいえこんな人間でも、自殺願望者であることに変わりはない。
悪人が急に改心して自らの罪を悔いているような、そんな胸糞悪い場面でも見ているようだ。法廷に立たされた途端に人が変わったように自らの罪を嘆くようなサイコパス。サイコパスでなくてなんだというんだ。
これじゃまるで。
「あなたに未来がないなんて断言できるんですか。償いとかではないんですか」
「償い?」
「幕を閉じられるべきだった彼らに対する償いです」
「なぜ償う必要が? あなたがたにとっては悪行かもしれません。しかし私や他の人間にとっては善行以上の何物でもない。殺人は悪です。ましてや若者を殺すなど」
「あなたがお考えの自殺だって殺人ではないのですか」
「要は未来があるかどうかです。それだけですよ」
「本当に?」
「本当に」
話が通じない。理解できないし、向こうも理解してはくれないだろう。
「……ご存知かもしれませんが、当研究所へのダイヤルコールに、そのまま電話口で自殺を図る方のための番号が割り振られています。四番です。しかしあなたは五番を押した。私達と死ぬ前に話をしたい方のための番号です。何故押したのですか? 懺悔ですか?」
「ご家族はいますか」
「はい?」
「もしくは恋人などは」
「僕にですか?」
「そうですよ。もしもあなたのご家族や恋人が自殺を考えていたならば、あなたはどうしますか? みすみす止めることもせず死なせてあげるのですか?」
愚問だ。同じようなことを、色んな人間に何度も訊かれた。この研究所に入るにあたって、面接を主催した研究員にも訊かれた。
答えはずっと変わっていないし、これから先も変わらない。
「気持ちを受け止めて、自殺を見送りますよ」
「そうですか」
ため息が受話器から漏れる。
確信していたし、覚悟もしていたが……。
俺の名前を呼ぶ声が、受話器から漏れ出てくる。
やけにイラつく会話だと思っていたんだ。
それはきっと聞きたくもない声と、聞きたくもない話し方のせいだ。
「お前は最悪の息子だな」
最悪な親父の、最悪な断末魔を最後まで聞いてから、電話を切った。
こんなことってあるのか?
あっていいのか?
匿名のはずだろ?
電話はランダムのはずだろ?
誰か助けてくれ。
休みたい。
メンタル診断をするしかなさそうだ。誰かが自殺をしやすい遺伝子がどうのこうの言っていたが、俺もその類を受け継いでしまってるのかもしれない。
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