不在拒否


「自殺する勇気を失いました」

「それはお辛い……決心のほどはどれくらいあったんでしょうか」

「もう身辺整理もできるところまで全部やったんです。物も殆ど処分したんです。やれることも、やるべきこともやりました。だからもうあとは死ぬだけだったんです。実際、昨日なんかは死ぬ寸前まで行ったのです。なのに」

「なのに?」

「引き止められたんです。腕を掴まれて。とても痛かった。見ず知らずの名前も顔も知らないような人間です。そんな人に急に腕を強引に掴まれて、肩が外れるんじゃないかってくらい強く引っ張られて」

 この仕事をしていて、初めて自殺に失敗した人間に出会った瞬間だった。

 ちょうどこの電話に出会う前、アーカイブにて『灰色』という手記を読んでいたところだったから驚いた。向こうの人間は寸前で思い直して自殺をやめたわけだが、彼女は違う。自殺する意志がまだあるにもかかわらず、無粋な人間によって阻止されてしまった。

「それ以降、自殺しようとすると、いつもどこかで誰かが私を見張ってるような、そんな気分になるんです」

 深刻だ。

 何が深刻って、その「見張られている」という部分は、「気がする」では済まないから。

 数多ある手記にチラホラと出てくる言葉がある。まだその存在を知らない研究員がこれを読んでいるなら、どうか覚えていてほしい。

 思うに……その「見張り」は実在する。希望安全協会か、絶望保全機構のどちらかだ。初めて知る名前だろうか……そうかもしれない。暗黙の了解みたいに存在する、れっきとした団体だ。暗黙の了解みたいに存在するから、わざわざその存在を口にすることはない。口にする機会すら奪われるほどの……なんと言えばいいのやら。

 例えば、都会に人が存在しているのは当然だ。

 そして、彼らが存在しているのも当然である。

 彼らは……存在を認知されつつも、その存在を全く気にかけられない人間たち。ドラえもんのひみつ道具に「石ころぼうし」があるけど、彼らはみんなそれをかぶっていると思ってくれたらいい。存在しているし、認知されてもいる。だけど気にかけられることはない。

 当たり前のものが存在するのは当たり前だ。

 彼らはその法則をキチンと守っている。だから存在を知りはしつつもそれを当然としている。彼らの存在は我々にとって当たり前であって、考える余地もない。

 自殺する勇気を失った彼女は、そんな石ころみたいな人間に見張られていて、自殺することも叶わなくなってしまったんだ。

「どうすればいいですか?」彼女は泣き出しそうなか細い声で言ってくる。「やっぱり私死にたいんです」

 彼らの存在は、率直に言えば脅威であり障壁だ。自殺をしたいという人間の願いを叶えさせてくれないのだから。死なせてくれないというのはとても辛い。

「ちょっとだけ、このまま待っててくれるかな。すぐ戻るから」と、電話を保留にする。

 この研究所に入るときに受けた説明にあった。

 希望安全協会、或いは絶望保全機構の疑いが出たら報告するように、と。

 私はすぐに報告をした。自殺をしたいという彼女の意志もしっかり確認したという旨も伝えた。

 自殺の意志が未だあるということは、つまり彼らの手がまだ入っていないことを示す。

 最寄りの研究所がすぐに手配をするという判断が下ったので、私はすぐに保留を解除する。「大丈夫だよ、もうすぐ自殺できるから」

「本当ですか」急に明るくなった声を、私はまだ忘れられずにいる(改めて読み返した今でもしっかり記憶に残っている)。

 希望安全協会、或いは絶望保全機構の存在が疑われた場合に限り、研究所は直接自殺願望者・自殺志願者に対して直接的なコンタクトを取ることができる。本人の意向を最大限に尊重するので、親族や知人友人に対し何も知らせないままこのコンタクトに応じることも多い。

 この国じゃ年間八万人ほど行方不明者が出るが、三分の一は研究所とのコンタクトによるものだったりする。

 逆に言えば、八万人の三分の一は、既に自殺に失敗したり、未遂に終わるなどの何らかの状況を経て、協会や機構の監視を受けている状況だ。

 それほどまでに事態は深刻だったりする。

 世界からの不在を許されない人間は沢山いる。存在したくないという気持ちが許されないということは、あってはならないことなのだ。

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