Packaging Of Suicide

 人間の死が物語としてパッケージされていく様子を、電話越しにいくつも聞いてきた。研究所にある数多の手記は全部全部物語の体を成していて、編集さえすればいくらでも本が出せるほどある。短編集にするか、それともアンソロジーにするか。一人分だけでも一冊出せるレベルのものもあるのでエッセイだってできる。

 もうみんな分かっていることだけど、「死」ってのはエンターテイメントへの汎用性が凄く高い。映画にも小説にも漫画にもドラマにも音楽にも「死」が溢れてる。

 愛する人が死んだら悲しいし、無残に人が死にゆく様は恐ろしい。悲しさと恐ろしさ。まあ人によっては、楽しさもあるだろうし、悦楽すらある。「死」は色んな人に色んな感情を呼び起こす。それだけじゃ飽き足らず、エピソードの一つになればいくらでも感情を生み出せる。赤の他人から色んな感情を引き出せる。現実だろうと虚構だろうと変わらない。人の死は悲しいし、人の死を悲しんでいる人間を見るのもまた悲しい。

 人には感情移入という便利な機能があって、それさえ動けば悲しい気分になりたい時にいつでもその気分になれる。人の感情を模倣するだけで、感情はいくつも増えていく。

 私は電話越しに聞こえてくるひとたちの声を聞いてると、色んな感情のスイッチが勝手に入ってしまう。泣いてるひとの声を聞けば私は泣いちゃうし、怖がってるひとの震えた声を聞くと、私の背筋も凍ったようになる。友達はそれをエンパスと呼んでた。そうなのかもしれない。自覚なかったけど。

 パッケージングってのは、ただ包装をするわけじゃなくて、他人に買わせるために包装に一工夫入れることを言う。

 人の死をただ売るだけじゃ閑古鳥も鳴かない。

 でも、それに「恋人」とか「殺人鬼」とか「貧困」とか、そういうもので包んであげれば、色んな人が泣きながら買ってくれるし、怯えてくれるし、憤る。

 寧ろ、そういう一手間がないと「死」ってのは誰にも見向きされない。

 本来そういうものなんだけどね。

 誰が始めたのかは知らないけど、「死」に対する資本的な価値観を見出した人間がいたみたい。こうすればお金が取れるだなんて思ったんだと思う。人が死ぬのは自然なことだし、それを悼む気持ちも自然なことだと思うけど、いつからか人の死が物語にできるようになってから、「死」に対する価値観は一変しちゃった。

 赤の他人の死に対して、ただ死ぬだけじゃ何も面白くない何も悲しくない何も感情が湧いてこないようになった。

 でも本当はそれが正しかった。

「好きな人が自殺したんです」

 私は電話してきた彼女の言葉で涙を流す。その人の気持ちだとか、生い立ちだとか、どういう気持ちで電話をかけようと思ったのか。そんなことがいっぱい溢れ出して、私はどうしても泣いてしまう。

「お金がなくて、もう死ぬしか無いなぁって」

 その言葉で私は社会に対する憤りを覚える。「酷いですね」なんて、社会に対する怒りを私のほうが強く表明してしまう。

「みんなで自殺しよって決めたはずなのに、一人抜け駆けしようとして友達がみんな殺されたの。助けて。死にたいけど殺されるのは嫌!」

 背筋に寒気が走る。鳥肌が立っていて、「落ち着いてください」と宥める私の声まで震えてしまう。

 そんなことが時々あるけど、大抵は何も思ってないみたいな表情のない声で電話をかけてくるので、私も落ち着いた状態でいられる。

 ここにはいろんな物語がある。人が死ぬまでの他人との会話劇。独白みたいな私小説。もしかすると色んな人からの視点でひとつの出来事を描いた複雑な物語を作れるような、いろんな証言。ドキュメンタリーとかエッセイとか。ここじゃ「死」はバラエティに富んでいて飽きが来ない。

 今、私はすごく幸せな気分だ。

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