火葬場の煙突

 自殺願望にもいろいろある。ふと灯台だとかビルだとか煙突だとかの高い建物を眺めては「飛び降りて死にたい」と思うことだって当てはまる。火葬場の高い煙突を眺めては、いつかそこから這い出て飛び立つのだろう、だとか。「ああ、死のう」と、思いつきで死ぬ人間だっている。そんな人間も、自覚のない自殺願望を持って死んでいく。

 もしくは、自分が「死のう」などと考えていることにすら自覚がないままに予兆が出て、感覚に影響を及ぼしたり、というのもよくある。

 精肉を見て吐き気を催したり。

 空がくすんで見えてきたり。

 無音の空間に耐えられなかったり。もしかしたらその逆もあるかも。

 視覚が色を失い始めるという人間もいた。雲一つとして見当たらないのに空の色が青くない。青く見えていないのか、それとも青空が隠されていたのかどっちだと思う?

 訊くまでもないようなことだ。気象情報を見れば簡単にわかる。

 でも電話をかけてくる人は、その手順にたどり着かないくらいには追い詰められていて、思考も鈍ってる。思考が鈍ると感覚も鈍る。だから色を認識できないことも、不思議な話じゃない。

 そしてそんな予兆は突然訪れる。

 昨日までは。一昨日までは。一週間前までは。

 皆そう言う。

 普通だった。好きだった。それなのに。

 突然やってくる。

 珈琲が泥水に思えてきた。

 小説の文字が蠢き始めた。

 テレビのニュースキャスターに罵倒された。

 トマトジュースから血の味がした。

 エトセトラエトセトラ。

 予兆は様々な場所に現れては、様々な感覚に影響を及ぼす。

 例えば、珈琲が泥水に見えてきた人について話すと。

 ドリップしている最中にそれがやってきて、突然珈琲の粉が土に見え、更に熱湯を吸ったら泥のように見えてきた、と。そんなあたりだ。

 土の細かい部分が水に混ざって、カップの底からゆっくりと泥水が満たされていく。今からそれを飲むのかと思うと反吐が出るし、今までそれを好きで飲んでいたのだと思うと吐き気がしてくる。

 だけど数分もすればそんな感覚は消えていて、珈琲を飲みたくて仕方がなくなっているのだと。そう語っていた。

 そういうものが、今までは「希死念慮のサイン」という見解だったけど……今はそのプロセスを踏まずして自殺したいと考える人間の方が多い。漠然と手にした死の概念に対して、ただ傍観できる人間ってのは、今じゃそうそういない。

 気がついたら刃物で傷をつけていた。気がついたら屋上の縁に立っていた。そんなことがほとんどだ。

 記憶はあっても自覚が無い。電話をしてくる人間の大半がそう。何故か手首を切ってしまっている、と。血が止まらない、どうすればいいのか、と。

 自覚のない自殺願望は、一時的に人格を乖離させることがある。自殺専用の、自殺するための人格が、意識の薄れた瞬間を狙って少しの間だけ生まれる。

 その人格は、主の人格の意識が薄れた隙に出てきて、手首を切ったり首を吊るための準備をしたりする。高いところに登ったりするのもそうだ。主人格の意識回復はランダムに起こるし、人によっても違う。だから自殺専用の人格が意識を取り戻した主人格に割り込まれて動作を停止する。自殺専用の人格もまた消える。そこで主人格は自分がしようとしていること、もうしてしまったことを理解しようとする。

 もし意識を取り戻した瞬間が空中を舞っている間だったならば、自殺するための人格は、己の悲願を全うしたことになると言っても……過言ではないのかな。

 でも大抵は間に合う。だから生きているのだし、電話をかけることができる。そんな選択肢、あるのかどうかもわからない。

 ともあれようやく電話の出番だ。大抵の人間はその状況で電話をかけてくる。相談もできない、解決のしようもない、けれど研究所の番号は知っていて、彼らならどうにかしてくれるだろうって。そういう思いでかけてくる。

 私達が一番気にしていることは、「本当に自殺したいのか」だ。

 その気持ちが突発的であれ慢性的なものであれ、死にたいと確固たる意志を持っているのなら、私達は止めない。サポートして、背中を押してあげる。

 だけどもし電話をかけて、状況を話していくうちに死にたくないという気持ちが一ミリでも生まれたのなら、考え直すよう促している。別に電話をかけてきたからと言って、手当たり次第に自死を勧めるわけじゃない。あくまでも彼らの気持ち、思いの強さが大事なのだ。

 ​だから、自治体が運営したりしているホットラインとの違いは、言うほどのものじゃない。なにがなんでも自殺を止めるか、止めないかのどちらかだ。

 自殺願望や自殺志願は、希死念慮よりもわかりやすい。なんといっても、死にたいと言う確実な意志を持っているから。「なんとなく死にたい」というような、漠然とした気持ちは凄くわかりにくい。まあそれについては、希死念慮観測所が請け負ってくれているから助かっている。

 その点、希死念慮ではない自殺に関する感情は、ほぼ無自覚に表明しているようなもので、すごくわかりやすい。電話をかけてきた相手は、自殺を考えているからこそ電話をかけてきたのであって、自殺をしようと思っていなかったら、こんな所に電話しようなどとは思わないし、そもそも番号だって知らないだろうし。

 でもそんな人間でも、電話をかけてくることはある。

 どこでこの番号を知る羽目になると思う?

 ニュースだ。

​ 時々自殺はニュースになる。

 研究所に電話をしてきた相手が、その末に死んでいった事実を、国民の殆どが知っていることもたまにある。研究所にもテレビがあるし、インターネットも通じているし、新聞だって毎朝毎夕届く。私がここに来てから、一面を自殺が飾ったことはない。せいぜい社会面に進出するくらい。だけどニュースになり、テレビやインターネットでも話題になることに変わりはない。

 昨日も自殺がニュースになっていた。今更社会現象として問うたところで、と私自身は思うが、どうも世間はそうもいかないらしい。

 後追い自殺というものがあって、自殺がニュースになれば、自ずと数は増えるのに。

 有名人が自殺を図ったときのことを思い出してほしい。人々が話題にすればするほど自殺は増えていくし、ここにかかってくる電話だって増えてしまう。事実、増えている。電話を切って数秒すれば電話がかかってくる。

 自殺がしたい。死んでしまいたい。

「この番号をどこで?」どうやって? 誰から? 私は訊ねる。

「人伝いに」と電話口の女の人の声は言う。

 聞き覚えのある声だったような気がしたが、数秒後には別の声に変わってた。

「インターネットで飛び降り自殺の動画を見たんです」ああ。あれか。「あんな大きな音がするんですか」

「頭のほうが重いから、どうしても頭が下になって落ちるんですよ」私は言う。鈍い破裂音が悲鳴に混じって響いていた。​あれは頭が叩きつけられる音です。私は言う。

「私にもそんな音が出せますか」

「出せますよ」私は答える。「できるだけ高いところから落ちてください。中途半端に意識が残って死ぬに死ねないので、今よりも苦しむことになります。お気をつけて」

「ありがとう。やってみます」電話は切れた。​

 ありがとう。確かに彼女はそう言った。自殺を止めるどころか寧ろ成功させようとした。

 できるかどうかわからないことについてアドバイスをしてあげた、と言えば聞こえはいいけど……内容が内容だし。

 ありがとう。

 いい言葉だと思う。

 彼女からはもう、その言葉を聞くことはない。

 私は彼女を思い出しながら、また電話を取る。



 P.S.

 ところで今書いているこれは、誰かが読むことを前提として書いてはいない。もし今読んでいるのなら、誰かが故意に公開したんだろう。なおかつ、どんな形にせよ、私はもう研究所を去っているということだ。そうならなければ公開できない規則になっている。

 つまりはいずれ誰かがこれを読む可能性があるということを私は分かっているわけだけど……これを読んだ責任を私に負わせる気になるのかな。

 今は亡き恋人の言葉を借りて、追記についてはおしまい。


『火葬場の煙突を眺めていれば、私に会うことができる』

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