水槽の底

 今どきの火葬場には煙突なんてない。

 それこそ火葬場には「高い煙突」が付き物だったが、イメージ脱却のためだとか、火葬環境の改善だとかが進んだ結果、煙突なんてものはなくなった。今じゃ普通に排気口があって、人間の塵はそこから吹き飛ばされる。

 彼女が遺していった『火葬場の煙突』だが……よもや書いている当人が後追い自殺をした本人だったなどとは思えまい。

 ほんの数日前のことだ。

 研究所でひたすら鳴り続ける電話をひたすら取り続けている間に、気を病んでしまった。気を病む要素はあったし、予兆だってあった。私達も危惧していた。危惧していたことが見事に起こってしまった。止められなかったのかだとか、そんな批判は来るだろうが、これでも説得し続けたのだ。ちょうど飛び降りる予定の人間に対し、飛び降りをやめろを説得する人間みたいに。聞けばあの説得は五十分続いたそうだが、それで自殺の意志がなくなるというのならば苦労はしない。

 私達も執拗なくらいに、休めと言った。電話を取るのをやめろと言った。だが、彼女が安らかな気分になるには、ただ電話を取り続けるしかないのだと言うのだ。それだけならばまだいい。問題は、電話を取らなければ、今以上に悪化すると言い出したことだ。

 それで研究所は業務を任せた。

 そして後日、電話口から彼女は声を現した。

 そのまた後日に、彼女は死んだ。

 研究所への自殺願望についての電話であれば、その願望や意志を止めることはない。どんな内容であろうとも、私達は自殺を止めてはならない。必ずうまく行くと、背中を押してやる必要がある。

 それをわかっていての電話だった。研究員がこうして自ら自殺願望を電話口から発露することはよくある。研究所の人間だったと後から行われる調査で判明したりするし、電話口で事前に研究員だと申告する者もいた。希死念慮観測所の人間から? もちろんあったさ。

 彼女には恋人がいた。その恋人を自殺でなくしたのだった。聞けば、恋人から研究所に、そして彼女に、電話をよこしてきたのだと。

『火葬場の煙突』の最後に記されていた言葉。

『私に会いたければ火葬場の煙突を眺めていてほしい。そうすれば私も見つけることができるから』

 その言葉を最後に、電話を切らずに飛び降りたらしい。

 煙突から。

 煙突の縁に座っていて、そうして底へと沈んでいった。

 実際、ニュースにもなっていた。煙突の上の人影。ハッキリと思い出せる。映像はそこで切り上げられ、煙突の中に飛び降りていったとキャスターは説明していた。

 インターネットでは煙突の中に人影が消えるまでの一部始終が収められていて、私もリアルタイムで見ていた。ハッキリと思い出せる。悲鳴が上がって静かになる。映像も、音も。ハッキリと思い出せる。

 リアルタイムで煙突と人影の様子がネット上に配信されている最中、研究員だった彼女は、その人影からの電話を受けていた。

 電話口から自殺したいとくれば、その背中をそっと押してやらなければならない。恋人であろうと、なかろうと同じだ。

 彼女は背中を押した。

 それに合わせて、人影も煙突へ。

 そうした末、彼女に遺されたのは「どうやって煙突に登ったのか」という疑問だけだった。


 + + +


 今じゃ事故や事件などには揃ってカメラを向ける時代になった。今までそれはカメラを持つ者達の特権だったし、カメラを持ち歩くこと自体がそうそうあることではなかったからだ。カメラマン。観光客。記者。それくらいだった。

 それがどうだ。

 携帯とカメラが合体してからその前兆が起き始めた。もう誰でも簡単にスナッフフィルムを撮ることができる。物好きが自分のセックス動画をアップロードするのと大差無い。その機会さえあれば、何かに出くわせば、簡単に映像は撮れる。そういうのは、映画やドラマよりもリアリティがあって、ニュース映像よりも迫力がある。警察? 救急車? そんなものは誰かがとっくに呼んでいる。全員がそう思い込んで通報しない。記録ばかりが増えていく。

 そしてそれを見ることもできる。ライブリークにでも行ってくるといい。スナッフの宝庫だ。スプラッタも盛り沢山。好奇心と謎の高揚感を得るには最適だ。

 ふうむ。集団心理の批判をしに来たわけじゃない。久々に自分自身に反吐が出る。こんなのは嫌いだ。自分だってカメラを向けるだろうし、状況が状況ならネット上に流していたかもしれない。だからこんなのは不毛だ。

 入水自殺を試みようとしている人間から電話がかかってきた。それについて書こうと思う。

 この場所はそもそも、王様の耳がロバの耳だったことを吹き込むためのものであり、そうやすやすと他人には言えないような事情を書き込む場所だ。読むことができないわけではない。きっと『火葬場の煙突』を読む人間は、私の前にも後にもいただろうし、いるだろう。

「入水」というと、一九七〇年辺りに起きた、中学生による集団入水自殺を思い出す。

 この研究所に入るにあたって、いくつか自殺に関する事例を教えられるわけだが、大抵の研究員は覚えることなんてない。印象に残りはする。だから入水自殺と聞けば、私はそれを思い出してしまう。

 四人が濁流を見て、三人が飛び込み、二人が死んだ。助かった一人の証言によれば、学校で嫌なことがあったという。濁流を見て飛び込んでみようかと友人が言い出し、一人が止める中三人で飛び込んだ、と。

「巨大な水槽が目の前にあるんだけど、飛び込むべき?」

 電話はそんな内容だった。状況を聞かずに「飛び込めばいいのでは」と返した。

「水槽は水槽でも、魚がたくさんいるんです」

「水族館……ですかね」

「そうです。幻想的じゃない? 綺麗な魚に囲まれて死体が沈んでるの」絵画としては成立するかもしれない。オフィーリアか。水中で髪をはためかせる少女の写真を見たこともある。グラビアとしての写真なのであの少女は生きているが、幻想的ではあった。

「いいですね。想像するだけでも綺麗だ」

「そうでしょ? 下手な写真を撮り続けるよりは、いっそのこと私が作品そのものになってやろうと思って」

「写真ですか」

「そう。カメラマンだったの。もうすぐそうじゃなくなるけど」

「それで水族館に?」時計は十二時に差し掛かっている。

 夜のだ。

「昼の水族館も、夜の水族館も好き。だから死ぬなら水族館で死ぬって決めてた」

「そして午前零時に、あなたは作品として身を捧げる」

「察しがよくて助かるなぁ。いい写真が撮れないからって、私自身が被写体になろうとするなんて。変じゃない?」

「とんでもない。先程もおっしゃっていたじゃないですか。幻想的だって」

「まぁ、そうなんだけどさ……やっぱり現実ってのが立ちはだかってくるわけでしょ? 死ぬにしてもそう簡単にはいかないし、死体だって無様に映るんでしょ?」

「溺れて死ぬのは、かなり難しいですね」

「やっぱり難しい?」

「少なくとも、無意識にもがき苦しむことにはなります。死ぬときの表情も、あまり理想的には行かないかも。数時間もすれば、体内にガスが溜まって浮かびます」

「あー、そうなんだ……」

「あと、溺れるよりも先に、体温を奪われて死ぬかも」

「それは知ってる……けど、どっちにしても綺麗に死ぬことはできないんだね」

「綺麗に死ぬための条件は、かなり厳しいんです」

「……もしかして、自殺を止めようとしてる?」

「まさかそんな。参考までにお話させていただきました。理想を持っていたあなたのためにはならなかったかもしれませんが……すみません、どうしても、性分なので」

「あーそういう。わかるよ。そこらへんはどうにもできないよね。私にも譲れない性分ってあるもん。自分に妥協できなかった。それを変えようと必死になったけどダメだった。どんだけやってもダメだったから、もうしょうがないよね?」

「ええ。どうにもならないことなんていくらでもあります。あなたはよく頑張ったのだと思います。こうして私が現実的な話をしても、自殺するという意志に変わりはないんですよね」

「そうね。もう変わらない。寧ろますます決心がついたかも。聞いてほしかっただけだし、あなたの話を最後に聞きたかった……まあ、誰でもよかったんだけどさ」

「それでいいんです。それが仕事ですから」

「だよね。じゃあ、そろそろお別れだね」

「ええ。どうか安らかに」

 電話口から水飛沫の音が聞こえて、通話も途切れた。恐らく携帯も水槽の中に放り込んだのだと思う。

 次の日にはニュースで彼女のことを話していた。

 水族館で入水自殺だと。

 最後の最後に奇跡でも起きたか、それはそれは綺麗な光景だったと発見者は言っていたが……当然ながら水族館側は開館前に発見し、即休館としたため、本当のところは知らない。

 そして、水族館の一部の従業員以外、誰も水槽の様子を知らない。死体だって、周囲の魚達への命の影響だってあるからそのままにしてはおけない。警察が来る前に、早々に引き上げられたそうだ。カメラの入り込む余地すら無かった。

 誰も彼女の様子を残せていないのだ。

 下手な作品を作り続けるくらいなら、自らが最高の作品になる。そう言っていたが、多分それは叶ったのだろう。

 どちらにせよその幻想的な姿を見る人間は殆いないのだと、死ぬ間際の彼女に言ってみたところで、その決心は揺らがなかったと思う。

 巨大な水槽の底で、魚達に囲まれながら、命を賭して踊り切った。

 それだけで満足だったのかもしれない。

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