1-9-2
「そうよ、来てあげたのよ。マルソーずうっと楽しみにしてたのに、いつまで待っても挨拶がないんだもの」
声高に文句をつけながら、まだまだ子供子供した年頃の少女は、すたすたとやってくる。
少女の柔らかそうな巻き毛は、夕焼け色をしていた。長い睫毛に縁取られた子猫のような瞳は、黄昏時の空を思わせる菫色である。
周囲をぱっと明るくするような愛らしさであったが、その鮮やかな容姿よりも、少女が纏っている緋色の
ニィスボーシャは、生粋のゾライユ人であるゾライユ族、それにキルメリスやゼウロウといった騎馬遊牧民の部族に伝わる、乗馬に適した女子用の民族衣装である。裾が前で割れる形の膝下丈の上衣の下に、たっぷりとひだをとった生成色の腰巻を巻き、さらにその内側に、男子と同じく
平原を駆け巡る、遊牧部族の間では今なお現役だが、普段着にも、晴れ着や軍服にも、定型を残された
馬に跨ることをやめ、家の奥に隠される時間が長くなった女性たちは、帝国が拡大するごとに流入した異国文化の影響もあり、活動的な段袋を脱ぎ捨てて、服の裾を踝丈まで――上流の奥方たちは、床上すれすれになるまで長く――伸ばすようになって久しい。なのでその古風ともいえるいでたちが、ヴェルヴィオイにはかえって新鮮であった。
「殿下、またお一人で……」
その場に膝を折って少女を迎えながら、アミスターゼは渋面を作った。彼の小舅気質は、どうやらヴェルヴィオイにだけ向けられるものではないようである。
「あら、マルソーは一人だからどこにだって行けるのよ。宮女や衛士が一緒にいたら、あっちに行ったら駄目、こっちに行っても駄目、あれしちゃ駄目、これしちゃ駄目、駄目駄目駄目って駄目しか言わないもの」
「それだけのことを、殿下がやらかしておいでなのでしょう? お言い付けを守っておられたら、そこまで駄目駄目言われますまい」
「だって、お部屋にいたってつまらないんだもの。ファルネンケルがくれた『猫』たちだって遊んでくれないし……」
「あれらはそのように躾けられております。そもそもが、『猫』にはあまり情を移すものではないと、お譲りした折にファルネンケルが申し上げませんでしたか?」
宮女や衛士と代わり映えのしないアミスターゼの口小言に、少女は頬を丸く膨らませてぶーたれた。
「……つまんない。つまんない。つまんないったらつまんないっ。だからお后様のお人形さんを見に来たの。アスターがマルソーのお部屋まで、さっさとお顔を見せに連れて来てくれないのが悪いんだから」
跪くアミスターゼから、顔ごとぷいと逸らされた少女の瞳が、その隣で立ちん坊になっていたヴェルヴィオイを捉えじいっと見上げてくる。たじろぐことなくヴェルヴィオイは、まだぺたんとした身体つきの少女を観察し返した。
「この方は、そう簡単にはお連れ出しできぬのですよ。殿下が今、こちらへお越しになっていてはならないのと同じです」
立ち上がってアミスターゼは説教を続ける。視線を彼に戻して少女は訴えた。
「アスターが告げ口しなきゃわかんないわ。カザンヤはいつも黙っていてくれるもの」
「いつも?」
「あー……、殿下は馬たちとひっじょーに仲良しでね、俺ら馬丁も知らん間に、厩舎に出入りされていることがしょっちゅうで……。てか、お后様のお人形って……」
アミスターゼに刺すような眼差しを射込まれて、少女になつきかかる馬を好きにさせながら、カザンヤは言い逃れらしきことを口にした。馬が摺り寄せて来る首を撫でてやりつつ、少女はふふんと得意げに、母親の口真似をした。
「母上様が言ってたわ。お后様はお寂し過ぎて、とうとう生き人形を拾って来たって。夜な夜なお床でお胸に抱いて、愛でておいででおじゃるかのうって」
「え、えげつなー……。左側妃殿下は、お子様の前でなんつーことを……」
微妙になる空気の中、カザンヤは思わず漏らした。
「マルソー変なこと言った?」
きょとんとする少女に、カザンヤはぶんぶんと首を横に振った。そこにいた男三人が安堵したことに、意味を分かっていなさそうなのが救いである。
「や、滅相もございません。馬丁が殿下にご意見できることは何も無いんで」
「ふうん」
「えーっと……、俺は向こうでこいつの鞍の乗せ換えだとかあれだとか、何か色々やってますんで。適当なところで声掛けてもらえたら……」
カザンヤは逃げの一手で少々強引に、まだ少女に構って欲しそうな馬の轡を引いて行った。一人と一頭がそこから離れると、少女は興味津々でヴェルヴィオイに近付き、ためつすがめつ眺めながらその周囲をくるりと一周した。
「あなたがヴェルヴィオイよね? お后様のお人形さん」
「まあ、間違ってるとは思わないけど……」
「ねえねえ、ヴェルヴィオイは、毎日お后様に着せ替えとかだっことかされているの?」
「そんなことされてない。俺はそれ用の人形じゃないってことじゃない?」
少女は無邪気に聞いてくるが、その口を通して、左側妃にされているとすればとんでもない質問だ。逆に自分の言葉を持ち帰られることを想定して、ヴェルヴィオイは答えを選んだ。
もっとも、左側妃が勘繰るようなことは一切ないどころか、そもそもルドヴィニアとはろくに話もしていない。
ヴェルヴィオイの作法が、ようやくルドヴィニアに不快を与えない水準まで達したということで、朝夕の食事の席を――ゾライユの食事回数は一日二食である――、皇后の食事の間の、長い食卓の端と端とで向かい合い、同じくするようになったばかりだ。ルドヴィニアから会話を持ち掛けられることもあるにはあったが、間に挟んだ二人の宮女に伝言させてするそれが、楽しく弾むはずもない。
「ふうん、違うのね……。あ、そっか、そうやって遊びたいなら女の子のお人形さんにするものね。ねえねえねえ、馬に乗れないって本当?」
少女は思い付くままに質問を重ねてくる。まるで好奇心の塊だ。すぐにばれる嘘をつく気はなく、ヴェルヴィオイは正直に答えた。
「乗れないよ、乗ったこと無い」
「ふーん」
「何?」
「マルソーは上手よ。男の子のくせに、馬に乗れないなんて格好悪いの」
「へえ……。こんな女の子に、そうやって馬鹿にされちゃうくらいに、ここじゃあ男の評価はそういうことでされるんだ?」
自分を下手に見るような少女の含み笑いに、かちんと来ているヴェルヴィオイの様子を察して、アミスターゼが口を挟んだ。
「ご理解されたならば精進なさって下さい、ヴェルヴィオイ様。後宮に居られれば感ずることは少なくあられましょうが、同性の目はさらに厳しゅうございますれば。それと、その御方を『こんな女の子』呼ばわりされるのはいかがなものかと。宮廷儀礼の実践です、皇女殿下にご挨拶を下さいますよう」
「皇女殿下……、殿下ねえ、堅っ苦しいなあ」
先ほどから、アミスターゼやカザンヤにそう呼ばれている目の前の少女は、この国で最高峰のお姫様なわけだが、皇后や皇帝にすら常と変わらぬ口を利いたヴェルヴィオイに、改めて皇女でございと紹介されたからといって、畏まるような殊勝さはない。
「マルソフィリカよ。マルソーと呼ばせてあげる」
「マルソーって、自分でそう呼んでる愛称だよね? 俺も呼んでいいんだ?」
「そうよ、お后様のお人形さんだから特別よ。ちゃんと名乗って接吻して頂戴」
つんと顎をあげ、少女は――皇女マルソフィリカはヴェルヴィオイに向けて小さな手を差し伸べた。
「ええと……どうしろって?」
助けを求めてアミスターゼを振り返ると、守役は自身の右手の指を左手で掬い、口元へもたげるという仕種をヴェルヴィオイに示してみせた。
「先日お習いになられたでしょう。お許しを下さった貴女への挨拶です。それだけは一発合格をもらってらっしゃった、あなたのお得意分野ではありませんか」
「お得意分野、ねえ」
ちょっとした意趣返しの気持ちもあり、アミスターゼのその言葉に、ヴェルヴィオイは悪戯心を触発されながら、でき得る限り恭しくマルソフィリカの指先を取った。
「よろしくマルソー、俺のことはヴィーでいいよ」
簡単に名乗ってヴェルヴィオイは、軽く膝を屈めてマルソフィリカの手指をもたげ、視線を合わせて魅了するように笑いかけてから、その口の横すれすれにわざと軽い音を立てて口付けた。
「……い、今――、何して――」
あってはならない出来事に、呆然とマルソフィリカは立ち尽くした。
マルソフィリカが求めていたのは、ふりだけで終わらせる手の甲への接吻だ。宮廷儀礼の基礎を学習して、そんなことは、百も承知していたヴェルヴィオイだが、気付かぬふりをして揶揄するように回答した。
「何って、接吻。マルソーがしろって言ったんでしょ?」
青くなっていたマルソフィリカの顔は、ヴェルヴィオイのその返事で一気に逆上せた。
「い、言ったけどっ!」
「期待していたのと違ったんだ?」
「おっ……大違いよっ」
ヴェルヴィオイは困ったような微笑みを浮かべながら、目に見えて動揺しているマルソフィリカの頭を撫でた。
「そうかあ、ごめんね。だけど、マルソーにはまだ早いからね。本物の接吻はそのうちいつかしてあげる」
その自分をからかい、小馬鹿にしたような扱いが、マルソフィリカの癇に触れた。取り沙汰されているものの是非も考えずに、マルソフィリカはヴェルヴィオイに噛み付いた。
「いつかっていつのことっ?」
「そうだね。マルソーに父上様や母上様より大好きな人ができたらね。その時が来たらマルソーは、俺なんかとはしたくないって言うんだろうけれど、そうじゃないならたーっぷり時間をかけて、相手の脳味噌をぐでんぐでんにするような、ものすごいのを教えてあげるよ」
「絶対よ! 嘘だったら承知しないんだからっ!」
「はい、はい」
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