第九章「皇女」

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 そうして日は行き過ぎる。

 ヴェルヴィオイが、皇后ルドヴィニアの養子とされてから、瞬く間に三月が経過しようとしていた。


 勘弁してくれと言ったところで聞き入れられる筈もなく、毎日毎日ヴェルヴィオイが取り組まされてきたのは、まずは何をおいても礼儀作法。次いで座学。そして本格的な武芸の稽古を始める前の、基礎体力作りである。

 それらは科目ごとに、専門の教師が付く個人授業――必要に応じて、アミスターゼが手本になったり補助をしたりはする。武芸に関しては、アミスターゼ自身が総合的な師範を務める――であり、ヴェルヴィオイの学習進度を確かめながら、科目は少しずつ追加されていった。



*****



「では今日からは、乗馬の練習も始めてもらいます」

 と、宣言したアミスターゼに、着せられた外套の頭巾をすっぽりと被せられ、ヴェルヴィオイはその日朝から後宮外へと連れ出されていた。


 そこそこに顔が売れたアミスターゼが、今誰に仕えているかは宮廷中に知れていて、火宮と呼ばれる軍事施設の中にある、室内馬場とへ向かう道すがら、外套でその容姿を覆い隠したヴェルヴィオイに、方々からの視線が降り注ぐ。


 自室から離れて移動をする度に、そうして注目されてしまうことに、ヴェルヴィオイはうんざりしつつも慣れっこになっていた。油断なく歩を進めるアミスターゼに護られながら、やる気のなさを隠そうともせず、ヴェルヴィオイはほてほてと歩いてゆく。



「将となるには何をおいても、乗馬の習熟が必須です。剣は振れなくとも采配は執れますが、馬に乗れなくてはお話になりません」

「そんなん別になりたかないけど」


 乗馬の重要性を説くアミスターゼに、ヴェルヴィオイは感化されるはずもなく唇を尖らせた。既に自分の生きる場は、この皇宮に移されてしまっているのだと諦めてはいるが、ゼラルデの思う壺に嵌められることには納得していない。


「何をおっしゃる。ヴィー、あなたは今、兵法も学んでおいででしょう? ゾライユ皇家の男子は将となるのが倣いです。皇子殿下も、皇帝陛下の叔父君やご兄弟もおいでにならない今のゾライユで、それに準ずるご身分のあなたは、数個師団を動かすこともあり得るような、未来の将軍候補ですよ」


「げえっ!」

 アミスターゼの発言にヴェルヴィオイは目を剥いた。他者が――例えばゼラルデが言っていたことならば、「はいはい、戯言たわごと」と聞き流せもするが、アミスターゼの口から出た言葉なら、それは皇帝の御意にも等しい。


「そういうの、俺の柄じゃないって思うんだけどー」

「私もそう思っておりますよ。こんな向上心の欠片もない青白いひよっこを、一丁前の武将に育成せねばならないとは、まったくもって頭が痛い」


 ヴェルヴィオイに対するアミスターゼの当たりは、いっそ清々しいほど辛辣である。なのでついついヴェルヴィオイも、ああ言われたのでこう言ってしまう。


「あんたらみたいな使命感もないのに、向上心なんて持ちようがないって。せめて教師に色気でもあれば、ちょっとは張り切ってやろうかって気持ちにもなるのにさ、座学の教師はみんながみんな、入れ替わっても見分けがつかないような枯れたじじいばっかりだし」


「いい加減に教師陣の見分けぐらいはつけて下さい。意欲がないにもほどがあります。そんなあなたに朗報ですが、これからお会いになる乗馬の先生は、まださほどのお歳ではありませんよ。――色気の保障は致しませんが」


「じじいじゃないけどおっさんなんだ?」

「皇帝陛下と同年輩であられます」

「おっさんだよね」


 ヴェルヴィオイは繰り返し言い切った。アミスターゼは曖昧に微笑した。



*****



 というような会話をしながら、二人はようやく室内馬場に辿り着いた。戸口を潜って中に入ると、ヴェルヴィオイの練習時間は、彼らだけの占有になるというそこには、駈歩かけあしで馬を走らせる三十路頭の『おっさん』がいた。

 馬上豊かに堂内を廻るその姿を、ヴェルヴィオイは単純に楽しそうだな、と思った。将になるならないはさておいて、乗馬くらいは真面目に習ってみてもいいかもしれない。


「お、おいでなすったな」

 ヴェルヴィオイとアミスターゼを発見し、人馬はそのままやってきた。若い主従を前にして、ひらりと身軽に馬の背から降りたのは、ご陽気に笑う気さくな風貌の『おっさん』である。


「いよう、アス、ファルの野郎は元気か?」

「お早うございます、カザンヤ。師匠ならば、殺しても死なない程度にお元気ですよ」

「お前らの師弟関係だと洒落に聞こえねえな。前にファルが嬉しそうに言ってたぜ、年々手口が巧妙になるってな。――まあそんなことよりもだ」


 カザンヤは馬の口を取ってその場に止めながら、知人同士の挨拶に置いてけぼりにされていた、ヴェルヴィオイに向かいひょいと頭を下げた。


「初めまして、噂の若様。俺は若様に、乗馬やなんかをお教えすることになった、馬丁のカザンヤっていうもんです。お顔はちゃんと拝ませてもらえるんですかね?」

「勿論です。視界を狭めての乗馬練習は危険でしょう。頭巾を脱いでいいですよ、ヴェルヴィオイ様」

「ん」


 短く答えて、ヴェルヴィオイは被っていた頭巾を背中へ下ろした。ぺしゃんとへたっていそうな血色の癖毛に、手袋を嵌めた指を入れる。


「はー、こりゃ、おったまげた! もうそこまで寒くないのに頭巾を下ろして、厳重にお顔を隠しておいでなわけだ!」

「そんなにびっくりした?」


 髪をくしゃくしゃと掴んで起こしながら、ヴェルヴィオイは目を皿のようにしているカザンヤを見返した。皇帝に似た容貌に、驚かれることにはいい加減慣れたが、カザンヤの反応はこれまで見てきた中でも図抜けて大きかった。


「皇帝陛下のご尊顔を知っていて、びっくりしない方がびっくりってもんでしょう。特に俺なんかは、今の陛下よりも、成人したてのお若い頃をよーく存じ上げているもんですからねえ……。はー……、かみさんにいい顔したくて、軽くこの役を引き受けちまったが、皇后陛下はどえらいもんを持ち込まれたこって……」


 ちらほらと髭を剃り残した顎を撫でながら、カザンヤは穴があくほどまじまじとヴェルヴィオイを眺めた。

 無遠慮な態度ではあるが不快さは感じず、へりくだりの不完全な庶民言葉に親近感を覚えながら、ヴェルヴィオイはふと疑問に思ったことをカザンヤに尋ねてみた。



「俺の乗馬の先生をすることが、何であんたのおかみさんのご機嫌取りになるわけ?」


「ああ、うちのかみさんはロジェンターの女で、祖国の王女だった皇后陛下を、常々お気に掛けているんですよ。毎朝欠かさず向こうの言語で、バリアシ教の光神様だかなんかに、ルディ様がどうだかこうだかってお祈りをしてるんで」


「へえ……、あんたはどこの人? ロジェンター人のおかみさんなんて珍しいね」


 普通ならばありえない、奇特な国際結婚をしたというカザンヤに、ヴェルヴィオイは興味を惹かれた。皇帝と同年輩だというカザンヤは、戦争とロジェンターによる属国支配に、多感な青春時代を暗く塗りつぶされた世代である。それがどうして、敵国の女を、妻に迎えるに至ったのだろうか?


「俺はキルメリス族です。かみさんは皇帝陛下からの賜りもんなんですが、これが灰金髪の可愛い女で、一目惚れってえのをしちまいましてね。妾にしとくと周りの連中に、貸せ寄越せって集られちまうから、迷わずかみさんにしたってわけで。

 ――ああそうだ、若様、小姓いりませんか? 小姓」


「小姓お?」

「そうです、小姓。――おおい、アス」


 カザンヤは、ヴェルヴィオイの相手を自分に任せ、馬具や装備の点検をしていたアミスターゼを呼び寄せてから、いきなり始めた小姓の売り込みを続けた。


「ぶっちゃけて言えば、うちの上のせがれなんで。小姓勤めを始めさせるにゃあ頃合いの歳でして」


「うーん……。じゃあ頂戴って、気軽にもらっていいもんじゃないって思うんだけど。それに添い寝の相手なら、宮女たちとアスターで足りているから、俺にお小姓さんは必要ないよ」


「えっ? 若様とアスはそういう仲で?」

「うん。アスターってば、宮女たちとだって寝てもいいけど、女はほどほどにしとけって煩くって」


 などと答えて、カザンヤの頬を引きつらせているヴェルヴィオイの頭を、アミスターゼは近付きざまに背後からはたいた。


「痛っ、アスター、ご主人様の頭を叩くー?」


「躾です。誤解を招く言い方をなさるんじゃありません。私はあなたに寝かし付けをさせられているだけで、あなたが下の世話までさせておいでなのは宮女たちだけでしょうが。

 あとそれから、誤った知識をお持ちのようなので訂正しておきますと、小姓の仕事は侍従兼衛士えじ見習いで、主君の男色の相手などではありません。今のあなたにお仕えする場合には、学友の色合いが濃くなるでしょう。たるんだあなたに発憤して頂くには、よい刺激になるかもしれませんね」


「え? 何? お小姓さんと一緒にオベンキョウして競争でもしろって?」

「競争になればよろしいですね」

「うわ、むかつく」


 何ともお粗末な言われようであるが、それだけヴェルヴィオイの勉強姿勢がなっていないということである。二人のやり取りを受けてカザンヤはにやりとした。


せがれの歳は十二だ。若様の尻を叩かせるには、うってつけだと思うぜ、アス。俺が親父だっていうのがお気に召さないだろうけど、母親の出所は確か過ぎるほど確かだから、皇后陛下だってご安心だろ?」


「カザンヤが父親ですから、皇帝陛下もご安心、とも言えますね……。わかりました、両陛下には私から打診をしておきます。先々を見越して、お歳の近い小姓を付けておくのは悪くないでしょう」


 主君と切磋琢磨し成長を共にする、小姓上がりの忠臣は貴重だ。エクスカリュウトにスタイレインがいたように、乳兄弟がいれば言うことはないのだが、乳母などを持たないヴェルヴィオイに、今さらそれは望めない。


 カザンヤは、本人の希望と適性により、現在は遊牧生活をやめてアスハルフ市中に居を構え、軍属の馬丁などに納まっているが、ひとたび戦場いくさばに立てばキルメリス族屈指の勇士であり、後宮の女を下賜されるようなエクスカリュウトの功臣だ。そして当の息子はといえば、ルドヴィニアと同郷の、ロジェンター人との混血児ときている。ヴェルヴィオイの側近として育てるならば、これ以上はない人選だろう。



「おう、頼むわ。せがれは今、郷の兄貴んところに預けているが、春になったら帝都に戻って来っから」

「と、いうことは、乗馬では完全に出遅れていますね。さあ、ヴェルヴィオイ様、びしびしいきますよ、びしびし」


「真顔でやなこと言ってるしー、いつの間にか鞭なんか持ってるしー」

 アミスターゼの手元を見やって、ヴェルヴィオイはうげっと表情を歪めた。その手の内には、壁のかぎから取り上げてきたらしい、乗馬用の鞭が握られていた。


「逆らわないなら打ちませんよ」

 アミスターゼは見せつけるようにもたげた鞭を、もの慣れた手付きですいとしごき、先端を掴んで軽くしならせた。嗜虐的な香り漂うこの守役には、あまり持たせておきたくない代物だ。


「……馬をってことだよね?」

「それはあなた次第です」

「あんた次第の間違いじゃないの?」


「まーまーまー、初日から鞭の使用は無しで、無しで。まずは馬に慣れるってことから始めましょうや」

 カザンヤがそう取り成すのと前後して、ぷっ、くすくすっと場違いな、女の子の吹き出し笑いが聞こえた。


「あちゃー……、来ちゃったんですか? 殿下」

 駄目だって言っといたのにとぼやきながら、厩舎へと繋がる出入り口を、困ったような顔つきでカザンヤは振り返った。

 ヴェルヴィオイが視線を誘導されたその先で、顔だけをひょこりと覗かせていた猫目の少女は、悪びれることなく、赤い衣服で包んだ全身を現した。

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