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 マルソフィリカは、悪戯された猫のように髪を逆立て、小さな肩をぷりぷりといからせながら、つっけんどんに厩舎の中へと消えて行った。


「なーに固まってんのさ、アスター」

 嵐が去った室内馬場で、ヴェルヴィオイはアミスターゼを振り仰いだ。思春期手前の皇女に、性の芽生えを経験させておきながら、悪びれる様子は微塵もない。


「……何て真似をなさるんです。もしもこの狼藉が、皇帝陛下や左側妃殿下に発覚したら、おそらくただでは済まされませんよ」


 そのヴェルヴィオイの行いは、アミスターゼにしてみれば、怖いもの知らずもいいところだ。おまけに冗談に過ぎないのだろうが、卑猥な口約束までさせている。もしもマルソフィリカが先々まで、覚えていたらどうするつもりだろう?


「狼藉って、大げさだなあ。つるぺたながきんちょは、お呼びでないから唇にはしてないし。それにあの子は、きっと誰にも言わないよ。あんな気位の高いお姫様に、俺みたいなどこの馬の骨だかわからないのに油断して、ちゅーされましたなんて言えるわけないじゃない」


「何故そう思われます?」


「それはアスター、あんたのほうが詳しいんじゃないの? お姫様っていうのはどんだけ美人でも、清純にしとかないと価値がぐんと落ちてしまうもんなんだろ? 勝手に俺を見に来たってことだけでも不味そうなのに、あんなことぐらいで大騒ぎしてみなよ、軽率だの尻軽だのって陰口いっぱい叩かれてさ、最終的にはあの子の損になるだけだって」


「そこまでお考えになられた上での行動ですか?」


 不敬な言葉の連発に頭を痛めつつも、アミスターゼはヴェルヴィオイの洞察力に舌を巻いていた。向学心の欠如によって学業不振だが、ヴェルヴィオイは決して馬鹿ではない。アミスターゼが思うに、ヴェルヴィオイの目には物事が、非常によく見えている。


「まっさかあ。くっそ生意気で可愛かったからね、ちょっと懲らしめてやりたかっただけ」


「ヴィー……、マルソフィリカ様は、軽い気持ちで懲らしめて良い女の子ではありません。再三申し上げますが皇女殿下なのですよ」


「そんなこと、あんたにくどくど言われなくたってわかってるって。そうだ。いっそのこと、俺が自分でばらしてまわったら、皇帝陛下は俺のこと、皇宮から追い出してくれるかな?」


 よいことを思い付いたと言わんばかりに、ヴェルヴィオイは不謹慎な期待で瞳をきらきらとさせている。褒めてやるにはまだまだかと、アミスターゼは肩を落としながら忠告をした。


「およしなさい。そんなことをなさったら、間違いなく陛下に殺されますから」

「おっかないなあ。『狼心皇帝』なだけに八つ裂きにされちゃうとか? そんなんでお嫁にやる時、一体どうするつもりなんだろうね」

「お嫁にはやらないおつもりかもと存じます」

「へえ?」


 ヴェルヴィオイのささいな疑問にかこつけて、アミスターゼはマルソフィリカの立ち位置を教えてやることにした。宮中の状況を知るのも、ヴェルヴィオイには学習のうちだ。


「もしもこのまま、陛下が太子にお恵まれにならなければ、帝位を継がれるのはマルソフィリカ様の婿殿です。廷臣や土侯国との関係維持には、引き続き陛下がお妾方を可愛がっておられればよろしいわけですし、貴重な皇家の血を分散させるよりも、皇帝或いは摂政に向きそうな御方を、婿として皇家へ取り込まれるのが妥当でしょう」


「なーるほどねえ。けど、嫁に行こうが婿を取ろうが、相手の男とちゅーだけで終わらないことすんのは一緒だって。自分だって誰かの娘さんたちと、さんざん気持ちいいことしてきてるくせにおっかしいの」


 そう言ってけたけたと笑うヴェルヴィオイに、アミスターゼは嘆息した。曲がりなりにも皇后の養子である男子の、感想がそれとは嘆かわしい。


「あなたにかかれば陛下も形無しですね。一遍殺されておいでなさい」

「やだよ。俺はあんたの師匠じゃないから、簡単に死んじゃうって」


「では、そう簡単には死なないように、びしばしお鍛えするとしましょうか。――カザンヤ、何も見なかった、聞かなかったことにして、そろそろ馬を引いて来て下さい」



*****



 さて、室内馬場でヴェルヴィオイが、ようやく乗馬練習に取り組まされ始めた頃、厩舎を後にし火宮も抜けて、後宮へ辿り着いたマルソフィリカはというと、そのまままっすぐ自室へは帰らずに、母親の室へと立ち寄っていた。


 マルソフィリカが覗いてみると、母親の左側妃ヘルガフィラは、化粧室でゆったりと身づくろいをしているところだった。普段着でないところを見ると、女だらけの後宮生活に不安や不満を抱く妾たちを迎えて、相談に乗る準備でもしているのだろう。


 そういったことは、本来ならば、後宮の女の頂点に立つ皇后の役割である。

 しかし妾どころか側妃という存在すらも、許せず疎んじているルドヴィニアに、後宮の調整役が務まる筈もなく、代わりに押しかけ女房ならぬ押しかけ妾であったヘルガフィラが、エクスカリュウトに女が貢がれ始めた当初から、持ち前の押しの強さで買って出ていた。公平無私である、とは言い難かったが。



 取り次ぎの宮女を介することもなく、どこからかひょこりと現れたマルソフィリカを鏡の中に認めて、ヘルガフィラは何やらもじもじとしている愛娘を自分の側へ手招いた。

 珍しく甘えを見せて、いきなり首に齧り付いてきたマルソフィリカの身体を優しく抱き止め、愛しみながらもヘルガフィラは、それから漂う異臭に鼻を歪める。


「マルソー……、獣の臭いをぷんぷんさせて、そなたまた宮女と衛士を撒いて、厩舎で遊んできたでおじゃるか? 火宮には荒くれどもが集っておる。そなたのような子供でも女子おなごは女子。皇女であろうと見境なしに、悪さをする痴れ者がおらぬとも限らぬ。勝手に出入りをするなと言うておろうに」


「マルソーには『猫』がいるもの平気だわ。……ねえ、母上様」

「何でおじゃるか?」


 本当は、平気ではなかった。『猫』は『蛇』の縄張りには立ち入れず、初対面の痴れ者に、マルソフィリカは思わぬ悪さをされてしまった後だ。

 たまらない後ろめたさに今になっておじけながら、ひときわぎゅうっと母親にしがみ付いて、マルソフィリカは声を震わせた。


「母上様、お后様のお人形さんは、父上様にそっくりなお顔をしていたわ。ヴェルヴィオイはマルソーの継兄上あにうえ様なの……?」

「おお、マルソー、馬鹿を申すでない!!」


 マルソフィリカの発問に驚き青ざめながら、ヘルガフィラは一旦娘から身体を離し、マルソフィリカの頬を両手で挟むと、目と目を合わせながら強く言い含めた。


「陛下の御子はマルソー、そなた一人でおじゃる! 皇后の生き人形如きがゾライユの皇子――ましてそなたの継兄まませなどであるものか! 皇后の養子ヴェルヴィオイは、皇后だけの養子であって父上様とは無関係でおじゃると、父上様から直接お話があったであろう?」


「……よかった」

「何がよかったのじゃ?」

「何でもないっ……! そうよね、父上様は、マルソーだけの父上様だわ。母上様に、はっきりそう言ってもらって安心しただけ」


 常の朗らかさを取り戻して、マルソフィリカは母の手の中からすいと抜け出すと、ぱっと身体を翻した。


「これ、マルソー、今度は何処いずこにおいでじゃ?」

「マルソーお部屋に帰るの。馬臭いみたいだから、身体を拭いてお着替えをするわ」

「着替えが済んだら、今日の分の手習いをするでおじゃるよ」

「はあい」



 明るい声で返答し、快活に左側妃の室から飛び出して、慌てて付いてくる母の宮女に送られて自室に向かいながら、マルソフィリカは口の横にそっと指先を当てた。

 そこに触れた唇の柔らかな感触、処女雪の肌を湿らせながら、いやらしく吸い付く音がたちまちに蘇り、マルソフィリカはどきどきとしてくる。


 よかった――。


 唇のすぐ隣にするだなんて、あれはきっと、兄が妹にしてよい種類の接吻ではなかった。父母が強く言う通りに、ヴェルヴィオイが継兄でないならば、マルソフィリカは禁忌を犯したと、死後の世界で【双面の女神】アウロウラ・レダ・デシルシタに断罪されることはない。


 安堵をすると続いて、ふつふつと怒りが湧いてくる。兄がしてはいけない口付けを、では、誰ならばしてよいのか? そんなものは決まっている。皇女であるマルソフィリカに、挨拶以上の接吻をしてよいのは、いつか結ばれる未来の夫だけだ――。


「男の子のくせに、馬に乗れないなんて、格好悪いの……」


 飛躍した自分の考えが無性に恥ずかしくなって、マルソフィリカはそれを打ち消すように独りごちた。馬にも乗れない男の子が夫だなんて困る。困るから、それは無しだ。


「殿下、何かおっしゃいましたか?」

「言ったけど、お前には言っていないわ。マルソーが何を言ってても、聞かないでいいし、聞いちゃ駄目」

「はい」


 要約すれば、独り言だ聞き流せ、というマルソフィリカの命に、宮女は大人しく従った。

 取り澄ました宮女を連れて黙々と廊下を歩きながら、マルソフィリカはだけど……、と思う。


 だけど、そう……、格好悪くて、意地だって悪かったヴェルヴィオイは、光り輝くような笑顔を持っていて、マルソフィリカの大好きな父上様に、見た目ばかりはそっくりだ――。

「どうしよう……」


 ――結婚するなら父上様がいい。父上様とできないのなら、父上様みたいな人がいい。


 それは父親に溺愛されるマルソフィリカが、幼い頃から夢見てきたことだ。

 マルソフィリカの父親、『狼心皇帝』エクスカリュウトは、この国に比肩する者など一人としていない、美々しく偉大な英雄だ。まだよく知るはずもない中身の方は、まるで違っているのだろうけれど、だけど、それでも……。それでも……。


「どうしよう……」


 ヴェルヴィオイにとっては、寝たら忘れる程度のちっぽけな懲らしめが、マルソフィリカには大いなる混乱を与えていた。初めてされた口付けの刺激は強烈で、知り合ったばかりの男の子のことが頭から離れない。誰にも内緒の悩みを抱えるのは生まれて初めてで、マルソフィリカは途方に暮れていた。

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