1-5-4

 エクスカリュウトが出征してから、数日が経った。

 帝都アスハルフの市中には、いつ暴発してもおかしくない火種が燻り、外廷には忙しく伝令が出入りをしていたが、隔世の感のある後宮で過ごす、ルドヴィニアの日常は変わらない。変わらない――筈であった。


「謁見?」

 占領軍最高司令官アズワルドの若い副官に、ゼラルデは朝も早よから名指しで呼び出されていた。忙しなく告げられた、急な申し出に眉を顰める。


「はい。アズワルド卿が、妃殿下に大至急ご報告があるとのことでございます。ご足労をかけますが、アズワルド卿から後宮内に伺うことはできないため、玉座の間までお運び願いたいと」

 せかせかとそう述べる、落ち着かぬ様子の若造に向け、ゼラルデはおもむろに、これ見よがしな溜め息をついた。

「妃殿下は、朝の礼拝のお時間である。代理ではいけないのか?」


「ゼラルデ殿」

 アズワルドの副官ネモシリングは、親子ほどもといってよいくらいに、年嵩のゼラルデをきっと睨みつけた。内廷を切り回す、宮女の長としては優秀かもしれないが、こと軍事に関しては門外漢もいいところな、血の巡りの悪い乳母に対して苛立ちを滲ませる。


「遣いで事足りる話ならば、只今私の口からゼラルデ殿に申し伝えております。ルドヴィニア様よりのお返事を預かり、アズワルド卿にお届けすることも致しましょう。

 おわかりになりませぬか? 皇妃殿下の御前に、占領軍最高司令官御自らが、お足を運ばねばならないような事態であります。妃殿下のお心に、みだりに波風を立てたくないという、乳母殿のお心映えは天晴れでいらっしゃる。しかし内廷の静けさを、破らねばならぬような非常であると心得られよ!」


 生意気な若造の反駁はんばくにゼラルデは腹立したが、ひとまずは堪えてやることにして、急ぎルドヴィニアの居室に取って返した。

 それでも、主君に謁見の用意をさせるには、短くない時を要した。皇妃であるルドヴィニアを、普段使いの簡略的な衣服で、人前に立たせるわけにはゆかないからだ。



*****



「お久しぶりね、アズワルド。供の者も、お顔を上げてよくってよ」

 ゆったりと輿で運ばれてきたルドヴィニアは、正妃の玉座に着くと、跪くアズワルドと副官におっとりとそう声を掛けた。アズワルドは深刻に青ざめた、ネモシリングは苛立ちを隠そうともしない顔を、それぞれに上げる。

「は。大切なお務めの最中に、お呼び立てして申し訳ございません、ルドヴィニア様。早速ではございますが、どうか心を強くお持ちになってお聞き下さいますよう」


 アズワルドの表情を裏切らない前置きに、ルドヴィニアは眉を寄せて軽く身を乗り出した。

「何があったの……? まさかお父様かお母様のお身に何か?」

「いえ、それでしたら、ルドヴィニア様を差し置いて、我らに先に一報が届けられることなどございますまい」

「それもそうね。では、もしや、陛下に……? ねえアズワルド、エクスカリュウト陛下に何か――」

「申し上げます」


 非礼と知りつつ、アズワルドは勝手な想像にうろたえるルドヴィニアを遮った。主君の背後に控えている、ゼラルデが非難するような顔つきをして見せているが、アズワルドはいつ御出座おでましになるかわからないルドヴィニアを待つ間に、寸刻も惜しまねばならない貴重な時間を浪費してしまった。これ以上悠長にしてはいられない。



「一昨日の未明に、皇帝陛下の征伐軍が、遊牧民の騎兵による夜襲を受けたそうです。そしてその混乱に乗じて、皇帝陛下が野営地から離脱され、出奔された、と――」

「出、奔……?」

 言葉の意味が、ルドヴィニアにはすぐには飲み込めなかった。かわりにゼラルデが一歩を踏み出し、アズワルドを問い詰める。


「アズワルド卿、それは誠の話にございまするか?」

「かようなことを嘘で申せましょうか?」

「何故そのようなことに! 軍は皇帝を檻に入れ、枷に繋いでおかれなかったのか!?」


 考え違いも甚だしい、ゼラルデの傲岸不遜な放言に、ネモシリングは床に拳を打ち付け、大至急と伝えたにも係わらず、長々と待たされた間に溜まりに溜まっていた憤懣を爆発させた。


「閣下は、皇帝を対話のために、東夷どもの説伏せっぷくのために遣わされたのです! 反感を煽るに決まっている、そのような非人道的な真似をできたはずがないでしょう! それに、心理的な意味での枷ならば、内廷でこそ掛けておかれればよかったのだ、違いますか!?」


 ネモシリングの言葉の後半は、鋭くルドヴィニアに向けられた。皇帝夫妻の不仲は、そうなるに至った理由はうやむやにされていたが、占領軍の間にも広く知られるところである。


「何を、無礼な――」

 呆然としたままのルドヴィニアに代わって、まなじりを吊り上げたのはゼラルデである。アズワルドはこの場に不必要ないがみ合いが始まる前に、血気盛んな副官をたしなめた。

「ネモシリング、お前が言上するようなことではない」

「ですがっ……!」


「本当に……出奔なの……?」

 ぎすぎすとした大人三人の視線が、ぽつりとつぶやきを落としたルドヴィニアに集中した。信じられないといった顔つきのルドヴィニアを、アズワルドは痛ましげに見上げる。

「妃殿下」

 呼び掛けるアズワルドに視線を合わせ、ルドヴィニアは不安げに、指を組んだ両手を胸元で揉み合せながら訴えた。


「だって、陛下が、ご自分からお逃げになられたのだとどうしてわかるの? 陛下は、このアスハルフの皇宮に、還るつもりがおありでしたのよ? かどわかされたとか、はぐれておられるだけだとか、そういうことではなくて……?」


「遺憾ながら、エクスカリュウト陛下は、ロジェンターの兵たちに躊躇い無く手を掛け、奇襲を仕掛けた東夷どもに守られて、共に夜暗の中を駆け去られたとの証言がございます。状況から推測するに、どうやら陛下の逃走幇助ほうじょを目的とした襲撃であったらしいと……。情報が漏れていたのではないかと思わしいことも多く、陛下御自らが手引きをされたのではないかという疑いが濃厚です」


「そんな……!」

 ルドヴィニアの額には、霊廟でエクスカリュウトにされた口付けの記憶が、まだ熱く残されていた。今朝方も鮮明な夢に見てしまって、起き抜けの寝具の中で、一人じたばたとしていたくらいだ。


 エクスカリュウトに出奔の意志があったなら、あの甘やかな口付けは――、いや誓いは、一体何であったのか? 何のために誓わされたのか? この先何があっても、いつまでも、エクスカリュウト唯一人の妻でいる――何があっても・・・・・・……?


 強張るルドヴィニアの顔から、ざっと血の気が引いた。

 いつから?

 いつから、エクスカリュウトは、出奔する計画などを立てていたのか? そしてそれは、何のために――?



「陛、下は……」

「はい」

「出征の直前まで、皇家の霊廟に籠って、祈願をなさっていたわ。そして仰っていたわ。運命の女神が、陛下のお祈りを聞いて、陛下を生かして下さるならば、アスハルフに還って来られるだろうって。その時に、わっ、わたくしがっ……、待っていなくても構わないって……!」


 ひくつく唇から、絞り出されたルドヴィニアの声は悲鳴のようになった。心配げに伸べられたゼラルデの腕に、ルドヴィニアはがたがたと取りすがる。

「何、ですと――!?」

 愕然とするアズワルドの隣で、ネモシリングは詰問するようにルドヴィニアを見据えた。


「何故隠しておられた? 妃殿下」

「わ……からなかったの、ですものっ……! 陛下がどうしてあの時、そんなことを、仰られたのかっ!」


 ただ単に、アスハルフにいるのが危なくなるかもしれないから、機会があれば故国へ落ち延びろと、そう言われたのだとルドヴィニアは思っていた。そうしてそれを契機に、名ばかりのゾライユ皇妃でいることをやめて、他の男の許へ嫁ぎ直せばいいと――。


「ゾライユの皇帝が、双つ顔の邪神に、一体何を願っていたというのです!? 少なくとも、我らロジェンター軍の必勝祈願ではありえぬでしょう。いかなる形で帰還なされるおつもりか。叛意がありありではありませんか!!」

「控えよ、ネモシリング!!」

 やり場のない苛々を、ルドヴィニアにぶつけるネモシリングに向け、アズワルドの叱責がぴしゃりと飛んだ。

「閣下。しかし妃殿下が、一言でも下さっていたならば、みすみす皇帝を出奔させるような過ちは――」


「ネモシリング、我らの侮りの責任を、ルドヴィニア様に被せて何とする? 皇帝陛下の叛心に気付かず、こちらの意のままに動かせるものと慢心し、皇宮から解き放ってしまったのは自分の落ち度だ。

 ズウェワとタンディア、そしてゼウロウとキルメリス……、部族間の軋轢から、よもや結ぶとは予想できなかった有力土侯らが、蜂起の中核を成していると判明した時点で、肥大する乱をいかに鎮圧するかよりも、『誰にそれが成し得たか』ということを、より深く考察すべきであった」


 アズワルドは、いや彼のみならず、ゾライユの中枢に係わるロジェンター人たちは、自分たちの主君によって帝位につかされたエクスカリュウトを、与えられた生にしがみ付き、傀儡に甘んじることしかできない哀れな木偶と見くびってきた。

 エクスカリュウトがそれを隠れ蓑に、屈辱を耐え忍んで、復讐の牙を研いできたことに気付かずに。



「ルドヴィニア様。ゾライユの統治のために、ロジェンターが掲げてきた皇帝という大義が、土侯や民衆の側に回ってしまった以上、この争乱はもはや反乱という名で片づけられません。ロジェンターとゾライユは、再び戦争状態に突入しているのだと捉えるべきでしょう。

 そして兵を得られたエクスカリュウト陛下が、『アスハルフに還る』――つまり、帝都と皇宮の奪還を目指して、上って来られることは明白です。ゾライユにとって、ルドヴィニア様は重要な人質となり得る御方、遠い本国よりの裁定を待たずして、ルドヴィニア様をロジェンターへ護送する算段を、検討したく存じます」


「でき……ないわ」

 緊迫したアズワルドの提案に、ルドヴィニアは瞳一杯に涙を溜めて、ふるふると首を左右に振った。

「何ができぬのです、妃殿下?」


「できないわ、わたくし……、わたくしは、ロジェンターには帰れない……。だってわたくし、エクスカリュウト陛下に、神かけて誓いを立ててしまいましたもの。ずっと陛下の妻でいますと。絶対に陛下をお待ちしておりますと」


 敬虔なバリアシ教徒であるルドヴィニアにとって、神かけて立てた誓いはとてつもなく重い。その神聖な誓いを立てさせた夫こそが、不倶戴天の敵となり、ルドヴィニアに仇なしに来るのだと言われても。


「何故そんな、浅はかな真似をなさった?」

「浅はか……?」

 重苦しい空気が満ちる中、言葉を選ばないネモシリングの問いかけに、ルドヴィニアは弾かれたように立ち上がった。


「それではお前は、わたくしにっ、陛下にゾライユから去れと言われて、『喜んでロジェンターに帰らせて頂きます』とでもお答えすれば良かったというの? そんな恥ずべきことができたと思って? 貞女は二夫に見えず――、それが、バリアシ教徒の女人にょにんの美徳だわ。お前たちだって、自分の妻や恋人には、お墓に入るまでの貞節を求めるのでしょう? 二夫に見える女を軽蔑するのでしょう!? 違って!? 嫁した御方に一生の貞淑を誓って、一体何がいけないの!?」


 たとえ実の無い政略結婚でも。

 ルドヴィニアにとって、夫婦は添い遂げてしかるべきものなのだ。

 それだけでなくルドヴィニアは、十分過ぎるほど傷付けられ、新たな裏切りを重ねられた今でも、初恋の夫のことを思い切れていなかった。だから、許せない。だけど、怖い……。複雑に捻じれたルドヴィニアの恋心は、無情に切りつけられながらも、一度もこちらを振り向かせることができぬまま、エクスカリュウトと引き裂かれることを拒んでいた。



「ルドヴィニア様とエクスカリュウト陛下の婚礼は、ゾライユの神式で執り行われたもの。ロジェンターの法規に照らし合わせれば、お二方は世に夫婦と認められるための、結婚契約書を介さぬ仲でいらっしゃる。御国元に戻られ、教皇猊下げいかに申し立てをすれば、ゾライユでの婚歴など、いくらでも無効にできるのですよ」


 積極的な婚姻政策により、各国王家の継承権を次々と手に入れ、周辺国を吸収あるいは属国化してきたロジェンターには、数限りある王子王女を有効に活かすため、バリアシ教の厳しい教義の裏をかく、周到な離婚再婚の手立ても揃えられている。

「……酷いわ……」

 アズワルドから諭すように語られた、薄汚い大人の詭弁に、ルドヴィニアの踏み付けにされた純情は激しく反発した。


「お父様も、お前たちも、みんな嫌い! 大っ嫌いよっ……!! みんなわたくしの気持ちなんて、考えてみたこともないんだわ!! 猊下に頼んで、何も無かったことにしてもらえば、わたくしの心や身体まで、まっさらにできるとでも思っているの!?」


 ルドヴィニアは、崩れ落ちた玉座の上にわっと泣き伏した。その小作りな身体を、ゼラルデが庇うように抱き締める。

「もう、よろしゅうございましょう」

 唸るようにゼラルデは言い、乙女心などわかるはずもない軍人二人をぎろりと睥睨した。

「これ以上、妃殿下を悲しませること相成りませぬ。次は皇帝を捕縛するなり、妃殿下をお逃がしする算段を整えるなりなさってから参られませ!」



 ルドヴィニアの涙に戸惑うアズワルドとネモシリングを玉座の間から叩き出し、ゼラルデは泣きじゃくるルドヴィニアの背中をそっと撫でた。

「おいたわしや、妃殿下……」

 優しく慰めてくれる乳母の胸に顔を埋めて、ルドヴィニアは声を上げて泣き続ける。


「乳母や、乳母や、わたくしは……」

 止め処もない涙にくれながら、いつしかルドヴィニアは、熱に浮かされたように一つの考えに囚われていた。

「陛下を待ちたいわ……、待ちたいの……。陛下は、わたくしの誓いを胸に出征しようと、そう言って下さったの……」


「ルドヴィニア様……」

 ゼラルデの親身な憐れみが、ルドヴィニアの心に届かず、上滑りしてゆく。

 己の空想の中にしかない、まやかしの幸福に、ルドヴィニアは逃避する。


 ああそうだ、ここにいれば、夫はきっと還ってきてくれるだろう。

 人質でも、何でもいい。

 ルドヴィニアの、誓いに応え、ルドヴィニアを、手にするために――。

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