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 出征を直後に控えて、エクスカリュウトは霊廟に籠っていた。

 ロジェンターの駐留軍は、みな大忙しで戦支度をしているが、傀儡の皇帝は、軍服に着替えてしまえば何もすることがない。何もさせてもらえないのだから仕方がない。

 なので、開き直っての神頼みである。


 アウロウラ・レダ・デシルシタ。

 それが、ゾライユで広く信奉される、双面の女神の名前である。

 ゆるしの左面アウロウラと、断罪の右面デシルシタ。二つの顔を持つ女神は、冥府の門をくぐった死者の魂を審判し、来世の試練を定めるのだという。

 人の一生の始まりと終わりと、その双方に携わるがゆえに『運命の女神』、そして、輪廻転生を司る『無限の女神』ともされる。



*****



 皇帝侍従が開いた扉から、ルドヴィニアは厳粛な霊廟の中にそっと足を踏み入れた。この廟を訪れるのは、ゾライユに輿入れしてから初めてのことである。

「陛下――」

 遠慮がちに呼び掛けると、エクスカリュウトは祈りの姿を解いて、ものぐさそうに振り返った。


 裾の長い黒の上衣に、それと共布の段袋ズボン、襟から覗く詰襟の襯衣シャツ、膝下までを覆う軍靴、銀の飾りの付いた革の剣帯、季節によって変わる外衣マント、そして皇帝位を表す、双頭の狼の紋章が刺繍された美しい肩章。

 騎馬民族の伝統衣装をもとにした、ゾライユ帝国軍の皇帝の礼装は、大人になったエクスカリュウトに素晴らしくよく映る――、憎らしいことに。出征の際にはこれらに加えて、長短二本の剣を吊るし、円筒形の帽子を被った、めったにお目にかかれない完成形が目にできるだろう。


「こちらにおいででしたのね」

 喜び勇んで駆け寄るような仲ではなく、かといって、愛想笑いをするような気にもなれず……、結果としてルドヴィニアは、無に近い表情をして、大きな女神像の前にいる夫にゆっくりと歩み寄る。


「何をしにきた?」

「陛下に、出征のはなむけをしたいと思いまして……」

「このような場所でか?」

 霊廟の地下はゾライユ皇家の墓所となっている。つまりここは墓の上であり、アウロウラ・レダ・デシルシタの石像が祀られた聖域であって、皇妃とはいえルドヴィニアが、ずかずかと踏み込みこんで、騒がせてよいような場ではない。


「わたくしをここへ連れて来て、中へ入れたのは陛下の侍従ですわ。文句なら外の侍従におっしゃって」

 むっとしてルドヴィニアは、呆れた様子を見せるエクスカリュウトを睨んだ。

 ルドヴィニアの心情からすれば、こんな薄気味悪い霊廟から早く出て、外で待たされている乳母たちと合流したい。ウォストラル三世の娘であるルドヴィニアには、ゾライユ皇家の祖霊と祭神に、祟られてもおかしくない理由がごまんとあった。


「お気に召さないのなら、外へ出ませんこと?」

「いや、よい。私の侍従は、そなたと私が水入らずで話をできるよう、気を利かせたつもりなのだろうよ。それともそなたは、乳母に耳打ちしてもらわぬと、私とろくに会話もできぬか?」

「できますわ。先ほどからしていますでしょう?」

「そうであるな。ならばこのままでよかろう」


 売り言葉に、買い言葉で、言ってしまった強がりを、ルドヴィニアは悔やんだが後の祭りだ。

 さっさと済ませろといわんばかりに、エクスカリュウトは腕を組み、顎先で用を促した。

 そんな夫のつれない態度に、ルドヴィニアもつい、すげなくしてしまう。どういう風に伝えたものかとさんざん悩みながら、繰り返し練習してきたはなむけの言葉を、その努力を全て無にするようなつっけんどんさでエクスカリュウトに投げつけた。


「陛下、どうかご戦勝を」

「戦勝?」

 聞き咎めて、エクスカリュウトは鼻先でわらった。

「私がこれから、同胞殺しに手を染めに行かされるのだと、そなたはわかってそう言うのか? 残酷な嫌みを口にするものだ」

「そんなつもりは……! わたくしはただ、陛下に、どうか無事にお戻り下さるようにと、そう申したかっただけです」

「ならば最初からそう言えばよい」


 取り付く島もないエクスカリュウトに、ルドヴィニアは唇を噛む。本当に嫌みのつもりはなかったのだ。戦地へ向かう将帥への、決まり文句を告げただけだ。夫の置かれた難しい立場に思い至らず、ほんの少し、考え足らずに……。



「……お邪魔を、致しましたわ」

 いたたまれない気持ちで一礼し、その場から辞そうとしたルドヴィニアを、思いがけず夫の声が引き止めた。

「ルドヴィニア」

 それだけでルドヴィニアは、ぎゅっと心を掴まれる。エクスカリュウトにただ名を呼ばれることが、今でも、こんなにも、嬉しいなんて……、悔しい……!


「――はい」

 泣きたくなるような心の内を隠しながら、ルドヴィニアは夫に向き直った。エクスカリュウトは、暗い翳りの中に強い決意を秘めた瞳で、ルドヴィニアをひたと見据えた。


「運命の女神が、私の祈りを聞き届け、私を生かして下さろうとするならば、私はかえって来られるだろう。アスハルフに、この皇宮に――。しかしルドヴィニア、その時そなたが待っておらずとも私は責めはせぬ。まだ若く、血統に優れたそなたならば引く手も数多だろう。機が得られればゾライユから去るがよい」


 後にして思えば――、それは、エクスカリュウトのせめてもの情けであったのかもしれない。

 けれどもこの時ルドヴィニアは、夫からかけられた言葉の真意を、一つたりとも読み取ることができなかった。乳母によって手厚く守られ、世事から遠ざけられた十四歳の皇妃にしてみれば、現実味の湧かないもしもの事態などよりも、今まさに夫から、離縁じみたことを言い渡されたことのほうがよっぽど悲劇だ。



「どうしてそのようなことを仰るの……? 貞女は二夫にまみえずとわたくしは教わりました。 たとえ陛下が早死にをなさっても、お父様がこの結婚を白紙に戻すとおっしゃっても、わたくしの夫は陛下だけです。だからわたくしは待っています。ええそうですわ、絶対に!」

「形ばかりの夫婦であるのにか?」

「それ、でも、です……!」

「ほう」


 ぐいと腰を抱えて引き寄せられ、顎を掴んで上向かされてルドヴィニアは震える。エクスカリュウトと、これほど間近に接するのは一体いつぶりだろう?

 夫のことも、閨での行為も、ルドヴィニアにはやはり怖い。夫婦の寝台を汚して行われていた、不貞を許せてもいない。

 それでいながら、エクスカリュウトの腕も体温もたまらなく懐かしく、今にも口付けられてしまいそうな体勢に、ルドヴィニアの中で、恐怖心だけではない何かが疼く。


「育ったのは、この身体ばかりではなかったか。あれほど私を嫌い、故国に戻りたがっていた子供が、一端いっぱしの口を利くようになったものだ」

「いつと比べてそう仰せなの?」


 エクスカリュウトの視線はあからさまで、どこを見て『育った』と言われたのか、ルドヴィニアにもすぐにわかった。赤らんだ顔はしかし、固定されて背けることができず、ルドヴィニアは恥ずかし紛れにエクスカリュウトをねめつける。


「それだけまともに会っておらぬのだから仕方がなかろう。なのに、二夫に見えぬと言い切るのだから奇特なことよ。この先何があっても、いつまでも、私の妻であると言うならば誓うがよい、ルドヴィニア。我が奥方に敬意を表し、その誓いを胸に出征してやろう」


「……構いませんわ。何に誓えばよろしくって?」

 揶揄するような夫に応え、ルドヴィニアはつんけんと受けて立った。表に出した態度とは裏腹に、エクスカリュウトから求められているものの重大さに、ルドヴィニアの心臓はばくばくとして破裂寸前であった。


「そなたにとって、最も尊きものに」

 尊きもの――。エクスカリュウトの肩越しに、ルドヴィニアはアウロウラ・レダ・デシルシタの石像を見上げた。それはエクスカリュウトの神であって、ルドヴィニアの神ではない。信じてもいない女神に、立てられる誓いはない。ルドヴィニアにとっての神は、光そのものだ。


「それではわたくしの神に掛けて。バリアシの光輝に誓って。わたくしはこれまでもこれからも、ゾライユ皇帝エクスカリュウト陛下、あなた様唯一人の妻でありますわ。――陛下と違って」


 ゾライユ皇妃でありながら、その皇家の霊廟で祖国の神に誓う冒涜を働き、積年の恨み言を付け足すのを忘れないとは……! 我ながら、可愛くないこと甚だしいと、ルドヴィニアにもわかってはいる。

 しかし、譲れないものは絶対に譲れない。きゅっと唇を引き結ぶ、ルドヴィニアの傲慢さと頑迷さに何を思うのか、エクスカリュウトはくっと笑った。

「我らが女神に誓われるよりはもっともらしい」


 喰われる――! とっさに目を瞑って、ルドヴィニアが慄きながら受け止めた接吻は、思いがけず額の上に落とされた。それは生々しく唇を合わせられるよりもずっと甘美な出来事で、ルドヴィニアを茫然自失にさせた。



*****



 かくして、傀儡の皇帝エクスカリュウトは、ロジェンターの将兵から成る征伐軍に担がれ、アスハルフ市民の鬱屈した瞳に見送られて出征する。

 既に、大きく動き始めていた時代のうねりの中に、何も知らないルドヴィニアを投げ込んで。

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