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「ああ……、ヴィー」

 女は鼻にかかる甘え声でヴェルヴィオイを呼び、その癖のある赤い髪に指を絡めてねだった。

「ねえ、もう一回」

「仕様がない姐さんだね」


 言いながらヴェルヴィオイは、まんざらでもなさそうに、女の濡れた唇に自らの唇を重ねた。

 時に誘い焦らすように、時にしなやかに受け止めるように、時に激しく挑むように……。相手に合わせ、状況に合わせて、口付けを愉しむようになったのは、いったいいつからだっただろうか?


「満足した?」

 ヴェルヴィオイは邪気のない顔で微笑み、寝椅子の上で放心したようにへたり込んでいる女に意地悪く問いかけた。


「うーん……。あんたってば子供のくせに、どうしてこんなに接吻が巧いわけ……?」

 余韻に浸っているような、とろりとした眼差しをヴェルヴィオイに向けて、女は人差し指で少年の唇をなぞった。


「そりゃあ姐さんみたいないい女たちが、競って色々と教えてくれるからさ」

 女の指先を軽くついばんでヴェルヴィオイは答える。女は妬心で眉を顰め、ヴェルヴィオイに詰め寄った。


「女たち・・? それに色々・・って何?」

「言葉のまんまだよ」

「憎らしい子ねえ、一体誰に何を覚えさせられたのか、その身体に聞いてみようかしら」

 女はヴェルヴィオイの襟元に手をかけようとした。身の危険を察知して、ヴェルヴィオイはするりと寝椅子から逃れる。


「駄目だよ、姐さん。これから仕事なんじゃないの?」

「生意気ねえ、居候のくせに」

 女はつまらなさそうにヴェルヴィオイをねめつけた。


「だけど元締めは怖いんだろ? 俺は姐さんの綺麗な顔に、痣ができるのは見たくないな」

 女を心配するような表情をつくり、殊勝な口ぶりでヴェルヴィオイは言う。

「平気よ、あたしの顔も身体も売り物なんだからさ。傷物にしたら商売上がったりだって、元締めはよーくわかってるんだから」


 女は酒場の酌婦である。媚びを売り、酒の相伴をするのが主な仕事だが、望まれて気が向けば、酒場の二階にある宿で床の相手をすることもあった。一番人気の彼女は店の稼ぎ頭であり、店を取り仕切る元締めも彼女には甘いという。


「それじゃあやばいのは俺だけなんじゃない」

 女に寝椅子へ引き戻されながら、ヴェルヴィオイはぶるりと身を震わせた。

「大丈夫よ。ミレーヌの息子だってわかったら、ここいらの男は誰だって見逃してくれるから。みーんな彼女に骨抜きにされててさ、情けないったらないわよね」


 街の男たちを小馬鹿にしたような女の発言に、母親譲りの薄い水色の瞳を細めてヴェルヴィオイはぼやいた。

「十五にもなって、いい年した母親の色香になんかに、頼っていたくないなあ」

「ならあんたも、この顔と身体を売り物にして世の中を渡ってみなさいよ。ヴィーはきっと高く売れるわ。なんなら元締めに紹介してあげましょうか?」


 女はヴェルヴィオイの頬に手を伸ばして愛撫を与えながら、その整った容貌を惚れ惚れと見つめた。

 花街の中で生まれ育ち、その退廃的な空気に骨の髄まで浸っているにもかかわらず、他の住人とは一線を画するような清涼さに惹かれて、多くの大人たちがこぞって彼を手に入れたがっていることを彼女は知っていた。


「元締めって、姐さんの店に来るのは男ばっかりじゃないか」

「ヴィーなら男にも売れるわよ、大丈夫」

 妙な保証をしてみせる女に、ヴェルヴィオイは肩をすくめた。


「俺はどっちかっていうと、男とするより女とやる方が好きなんだけど」

「それならあたしが買ってあげるから、とりあえず今は味見をさせなさい、ね」

「本当に姐さんは仕様がない人だね……」


 呆れたように言いながらも、ヴェルヴィオイは今度は逆らわず、女にされるがままになっていく。

 こうして奉仕されることは決して嫌いではない。求める相手を焦らし自分を高く売ることは、母親から盗んだ処世術だ。この一度の、労せずして得られる快楽が、今しばらくの宿を提供してくれるであろうことをヴェルヴィオイは知っていた。




*****




「ダニエラ、いるんだろ?」

 突然、女の部屋の扉が乱暴に叩かれ、外から野太い声が掛けられた。


「ダニエラ! ダニー!!」

「ああもう、煩いわねえ!」

 女は押し倒したヴェルヴィオイの身体の上から身を起し、乱れた髪をかき混ぜながら玄関に近づいて、扉向こうに怒鳴った。


「ちょっとっ、これから愉しくなるとこなんだから邪魔しないでよっ!!」

「悪いが中断してくれ、ヴィーに客が来てる」

 野太い声は苦笑混じりに答えた。女の部屋の家主は、近頃女のヒモのように居着いているヴェルヴィオイが、まだ十五の少年であることを知っていた。


「俺に客?」

 ヴェルヴィオイは脱がされかけていた服をかき合わせ、寝椅子から立ち上がって、女の傍らまで進んだ。


「一体誰が来てるんだい?」

「ヴィーか? 何だか妙な連中だよ。余所者みたいなんだが、どうする?」

「そんなの、ヴィーに聞くまでもなく追い返しちゃってよ! あたしの家まで突き止めて、ヴィーを捜してるなんて、絶対ろくな人間じゃないわっ!」


 始めたばかりの情事を寸断され、女は怒り心頭である。家主は冷静に切り返した。

「十五の子供に、色事を仕込んでるお前さんだってろくな大人じゃないだろう」

「本当にうるっさいわねえ!」


 激昂する女の肩を抱いて、ヴェルヴィオイはその耳元で囁いた。

「扉を開けて、姐さん」

「ヴィー」

 見上げる女に微笑んで、ヴェルヴィオイは声を潜めた。


「姐さんに迷惑をかけるわけにはいかないよ。ろくでもない人間はね、俺が会わないって答えたら、この部屋の扉を破って押しかけて来るもんなんだ。

 ねえ――、俺はすぐに行くから、外で待ってるように言って!」

 後半は大きな声を上げて家主に伝え、ヴェルヴィオイは女の肩を離すと、壁にかけていた外套を取った。


「ヴィー」

 女はヴェルヴィオイを呼び、その首に抱きついた。ごく自然に求め合った唇が情熱的に重なる。女は言い様のない不安を覚えてヴェルヴィオイに懇願した。


「ちゃんと帰ってくるのよ。ミレーヌのところでも、他の女の家でもない、あたしの部屋によ。間違えちゃ駄目よ」

「うん、戻ってきたら続きをしようね」

「勿論よ、待ってるわ……」


 一度固く抱き締めた後で、ようやく女はヴェルヴィオイを解放した。扉を開けた女を振り返って、ヴェルヴィオイは悪戯を思いついたように笑った。

「じゃあね、ダニー」


 初めて呼ばれた名は、甘く切なく女の耳に残った。ヴェルヴィオイの姿を、彼女が目にしたのはこれが最後である。

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