第二章「皇宮」

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 まどろみから覚める瞬間は、いつも少し切ない。


 欲望にまかせて情を交わした夜も、そうでない夜も、ヴェルヴィオイの傍らには、体温を分け合う誰かが一緒に休んでいるのが常であった。

 ヴェルヴィオイの方から望んで、他人の寝台に潜り込んでいた――という言い方が正しいのかもしれない。


 ヴェルヴィオイが幼い頃、売れっ子の娼婦であったミレーヌは、息子が乳離れをすると決して共寝を許してはくれなくなった。母親の温もりを探して泣く愛らしい幼児を、花街に生きる女たちは憐れみ慈しんで、かわるがわる胸に抱いて眠ってくれた。


 そのようにして長じたヴェルヴィオイが、十を過ぎる頃には、既に他人と肌を合わせることを知っていたのは、当然の成り行きと言えるかもしれない。

 最初のうちはわけもわからぬままに、いいように弄ばれていただけであったが、夜毎の遍歴はヴェルヴィオイに多くのことを学ばせていた。


 その水色の瞳以外は、まるで似ても似つかぬような母子おやこに見えたが、ヴェルヴィオイは正にミレーヌの息子であった。

 盛衰の激しい花街において、女帝のように君臨し続けている母親の魔性と強かさを、ヴェルヴィオイは確かにその身に受け継いでいた。




*****




 すべすべとした肌触りのよい布の感触を頬に感じながら、ヴェルヴィオイの意識はゆっくりと覚醒を始めた。


 ……今日はやけに寝台が冷えている気がする。昨日は誰の寝床で眠ることにしただろうか……? 確か、ダニエラ……。美しい皮膚をした年上の女。情の深い寂しがり屋だから、先に目覚めても隣で待っていて、口付けをねだってから寝台を降りるような性質たちなのに……。


 ぼんやりとそこまで考えて、ヴェルヴィオイは一気に目を覚ました。


 違う――!!


 ダニエラと別れて、彼女の部屋を後にしたことまでは覚えている。階段を下り集合住宅アパートから出てみると、外で待っているはずの客など見当たらなかった。薄気味悪く思いながら、もといた部屋に戻ろうと踵を返したところで、抗う間もなく背後から絞められた。そこから先の記憶は、ふっつりと途切れている……。



「……何処だよ? ここ……」

 寝台に身を起こして、ヴェルヴィオイは呆然と周囲の様子を窺った。『小夜啼鳥の館』の広間ほどありそうな、だだっ広い部屋の中心的な場所に、四人は悠に休めそうな大きな寝台が据えられていて、彼が今まで眠っていたのはまさにその上であった。


 薄絹の帳を分けて寝台を下りてみると、信じられないほど毛足が長い、ふかふかした絨毯に素足が埋まって、ヴェルヴィオイをまた驚かせた。

 赤々と燃え上がる、暖炉の灯りに頼る薄暗い部屋の中、その全容は窺い知れなかったが、自分が今まで見たこともないような、高価な家具調度品に囲まれていることだけは感じ取れる。


「何だか妙な所に連れて来られたなあ……」

 ヴェルヴィオイが途方にくれて独りごちていると、急に厚い帳が左右に開かれ、雪明りに照り映える外の光がさっと差し込んだ。


「うわっ!?」

 眩しさに思わず瞑ってしまった目をヴェルヴィオイが開けると、窓の帳を分ける仕掛け紐から手を放しながら、権高な鷲鼻を持つ壮年の女が、低い声で見下すようにこう言った。


「妙な所とは心外だな。ここはゾライユの皇宮であるぞ」

「はあっ!? 皇宮!?」

 ヴェルヴィオイはわけがわからず頓狂な声を上げた。


「驚くのも無理はないが、もう少し上品に話せないか」

 女は厭うように目を細め、ヴェルヴィオイをたしなめた。


「ふん、そんなのあんたに関係ないね。それよりも、あんたずっとこの部屋で、俺が起きるのを待っていたのかい? いい年した婆さんのくせにさあ、若い男の寝台を覗くなんてよくない趣味だと思うよ」

 生意気に言い放つヴェルヴィオイに、女はあからさまな溜め息を零した。


「クリスティナは、息子の養育に失敗したようだな」

「クリスティナ? 誰だよそれ? 俺の母親はミレーヌだ」

「お前の母親の本当の名だ、ヴェルヴィオイ。憐れなことよ、お前は何一つ聞かされていないのか?」

「何……?」


 不意に足元を掬われたような気がして、不安げにヴェルヴィオイは眉を寄せた。ミレーヌは一人息子の彼が知る限りミレーヌでしかなく、他の名で呼ばれるのを聞いたのはこれが初めてだ。


「よほどお前を、隠しておきたかったのだな、クリスティナは……。まあわからぬではない。もしも秘密が漏れていたならお前の命は、もう既にこの世にはなかったであろうからな」

「……気味の悪い婆さんだなあ、さっきから一体、何を言ってるんだよ! それからそうだ、何であんた、俺の名前を知ってんだよ!?」

 嫌な寒気を背筋に感じて、ヴェルヴィオイは怯えを隠すように声を荒らげた。


「そのうちに知れることだ。さあ――」

 女は寝台の脇机から、呼び鈴を取り上げチリンチリンと鳴らした。その澄んだ音色に応じ、控えの間からしっとりとした女の声がかかる。


「――お召しでしょうか?」

「入れ」

「はい」

 大人しやかな返事の後に、その声にふさわしい楚々とした女が入室してきた。二十代の半ばほどの女で、年若い二人の娘を従えている。


「お目覚めだ。すぐに湯の用意を運び込め。わたくしは皇后陛下にご報告に上がる。ご準備が整い次第に先触れを出し、ルドヴィニア様の御前にお連れするように」

「畏まりました」


 宮女たちに命を下して、鷲鼻の女はヴェルヴィオイを振り返った。

「先に言っておくが、この部屋の周りは衛士えじが見張っている。逃げ出そうなどとは考えぬことだ」

「――くそばばあ!!」


 皇宮では聞きなれぬ口汚い罵りに、宮女たちは驚いてヴェルヴィオイを見上げた。そして初めてはっきりと目にしたその容姿に、さらに驚愕を重ねる。


 成長途中の少年特有の、華奢にも見えるすらりとした身体つき。白い膚に鮮やかに映る血のような赤い髪。淡く明るい色でありながら、きつい印象を与える水色の瞳。

 その思わず目を奪われるような、絶妙な組み合わせもさることながら、清涼で凛とした端麗な顔立ちには、彼女たちが恐れ敬う皇帝の面影がある。


「お前には一からの矯正が必要なようだな。早急に守役を選ぶとしよう」

 立ち去りかけていた鷲鼻の女は、じろりとヴェルヴィオイを睥睨し、はしたなく彼を凝視している宮女たちを叱りつけた。

「何をしている! 早くお支度をさせないか!」

「申し訳ございません、ゼラルデ様」


 ゼラルデと呼ばれた鷲鼻の女が退出し、宮女たちが右往左往を始めるのを、ヴェルヴィオイは腹を立てたまま眺めていたが、次第に馬鹿らしくなってきて寝台に戻り、まだ微かに残っていた、自分自身の温もりの中に潜り込んだ。

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