004『温泉:7月10日』
すっかり遅くなってしまった昼食の時間に宿へと辿り着き、主人に温かいお蕎麦を頂いた。
そして、それから入り放題の温泉に浸かる事にした。四畳ほどのヒノキの内風呂と二畳ほどの露天風呂がある様だ。
泉質は炭酸水素塩泉、効能は疲労・冷え性・高血圧・動脈硬化・皮膚病・美肌のぬるりとしたお湯が特徴である。
私は脱衣場で衣服を脱ぎ、体を簡単に洗い場で洗い鏡を覗く。
どうやら、頭に出来ていた腫れも引いたようだ……。
――あれ? そう言えば今まで気にしなかったが、この顔は間違いなく自分のものだ……。いや、記憶に自信がないので言い切れないが顔や体つきに違和感はない。と言う事は身体が入れ替わった訳では無いと言う事だ……。一体どうなってるのだろう。
訝しみながらも外へ出て石造りの露天風呂の方へと浸かる。
――それにしても、今日は色々あったな……。その割に得られた情報はここが昭和十年で間違いないだろうと言う事だけだ……。本当ならもっと人の多い場所に行き情報を集めたいところだが、軍が通せんぼしている状態では無理だ。現状この温泉宿がどちらとも対立しておらず一番安全ぽいので、しばらくここに留まって静観するのが正解だろう……。
「ふぁ~、疲れがぶっ飛ぶ~~」――うん、今日の探索はここまでだな……。もう疲れた。
お湯に浸かっていると小さな気泡が肌についていた。
――あれ、もしかしてここのラムネはこのお湯から作ってるのだろうか。まさかな……。
十分にお湯を堪能してからお湯から上がる。
下着類をお風呂のお湯で洗い浴衣に着替えた。
ロビーに置いてあった夏目漱石の小説 〝坊ちゃん〟 を主人に借りて、部屋に持ち込み読みふけることにした。
高校生時代に読んだ時は、ノスタルジックな純文学ものとして読んだ記憶があるが、さほど時代の変わっていない現状で読むと、これが純粋に破天荒な主人公の青春物語として書かれているのが良く判る。新しい発見だ。
物語も終盤に差し掛かかりいよいよ師範学校との喧嘩のシーン辺りで、主人が夕食を運んできた。
メニューはご飯に味噌汁、野沢菜漬けとヤマメの塩焼き、それにどぶろくの入ったお銚子が一本ついている。
宿の主人は振り子時計のゼンマイを素早く巻くとニコニコしながら出て行った。
「いただきます」
うん、質素ながらもこの時代の料理はどれも大変味わい深い。「どれ……」と塩焼きを突きながらお猪口にどぶろくを注ぎ一杯煽る。
きりりと冷えた酒精に僅かな酸味、独特のねっとりとした甘みにチョコレートの様な華やかな香りが口中に広がる……。
「あ、これ大吟醸のどぶろくだ……」
学生の頃、地方の田舎の民宿に泊まると、時折宿の主人が自家製のどぶろくをこっそりふるまってくれた。それらはどれも独特な味わいがあり美味いと思って飲んでいたのだが、これはそれらと比べても格別な味である。間違いなくちゃんとした杜氏の居る造り酒屋の作だ。美味過ぎる……。この村のどこかに造り酒屋があるのだろう。
料理も美味しく頂き、しばしくつろぐ。
その後、一階へ行って食器を洗いフロントへと持って行った。
「どげんやったと」主人の十吾さんが聞いてきた。
「大変美味しく頂きました。でもあれ大吟醸ですよね」
「そげんこつ内緒たい」主人は嬉しそうに破顔しながら答える。
まあ、教えてくれるわけはない、酒の密造はこの当時でも結構な重罪なのである。
一旦部屋へと戻り、坊ちゃんの続きを読み終えてロビーへと返した。
この時、時刻は既に午後の九時を超えていた。
それからもう一度、お風呂に入り直す。
外は相変わらずの雨模様。降りしきる雨の中、露天風呂へと浸かった。
淡い電球の明かりに照らされて、吹き付ける風に湯けむりがたなびく。
「何か、こう言うのも良いな……」――今が過去で無ければだが……。もし、元の時代に戻れたらもう一度旅をするのも良いかもしれない。しかし、戻れなくても要領よくやって行けば、ここでも何とかなるかもしれないな……。
湯船に仰向けに浮かび、雨に打たれながらぼんやりと考えた。
身体を夜風にさらしながら何度も風呂に浸かり直し、しっかりと体の芯まで温まってから部屋へと戻った。
部屋の隅に畳んでおいた布団を敷き直し、電灯を消してその上に寝転がる。
コツコツと規則正しい音とシトシトと不規則な音を聞きながら目をつぶった。
――明日からの事は、明日考えよう……。そして、私は眠りについた。
……どれくらい時間が経ったのだろう……。
不意に人の気配がした。パチリと電気が付けられる。
私は驚き目を覚ました。
「気が付いたと」枕元には和装の小柄な初老の男性。宿の主人の和泉田十吾さんが立っていた。
「?」あれ……? 目覚めの挨拶にしては何やら可笑しいが……。「お、お早うございます」
振り子時計の時刻はまだ三時半である。
「まあまだ、寝とりんしゃい」
――へ? どう言う事だ……。「あ、あの……どう言う……」
「大丈夫、ここは西ん沢村たい。あんさん何処から来たと」
「え? それって昨日も同じこと言いませんでした……」そう、どこかで聞いたセリフである。
「なんば言いよっと、あんさんしこたま頭打っとるとよ、その所為かもしれん」宿の主人は心配そうにそう答えた。
「はあ……」――いや、昨日確かに聞いた。一体どう言う事だ? 頭の包帯はお風呂に入った時に外してしまっている……。
「あんさん、村の西の端の崖下に転がっとったげな。畑ん見回っとった栄作が見つけて運んできたたい」
「ええ……」――それも聞いた。まさか……。
「ところであんさん、お名前は?」
「わ、私は浅見真と言います」
「わいは和泉田十吾。この西沢渓谷温泉の主人をしとるたい」男は少し嬉しそうにほほ笑んだ。「まあ、朝までもうちょい寝とりんしゃい」
そう言い残し主人は電気を消して部屋を去ろうとする。
「はい……あ! あの今日はいつですか?」
「今日は七月十日たい」
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