002『情報取集:西の沢村』


 昭和十年。――私の記憶が確かなら満州事変の後、日中戦争の起こる前である。


 この宿の主人が嘘を言っているようには思えない。

 時代考証は得意では無いが、今見たものはそれだと確かに納得できる。


 ――タイムスリップ……。一瞬その言葉が頭をよぎる。


「あの、失礼ですけど私の持ち物は他にありませんでしたか」私は料理を卓袱台に並べている主人に声を掛けた。

「無か」嫌な顔もせず主人は答える。

「そうですか……」――いや、だとすると、服や靴もこちらの時代の物だから、むしろ自分の頭に未来の記憶が入ってきたと考えた方がしっくりと来る……。だったら、迂闊な事を喋らない方が良い。場合によっては気が変になったと思われかねない。だが、この時代なら……。


「あの、ここに電話ありますか」

「ある事はあるけんど、今は雨で崖が崩れて線が切れて使えんたい」

「え?」――崖崩れ? いや待て。そもそも本当に昭和十年だとしたら一体どこへ電話を掛ければいいのだろう。自宅はまだないだろうし、箱根のおじいちゃんの家くらいしか思い出せない……。

 と言うか自分は一体誰だろう。自分は元々はこの時代には存在していないはずだ。この身体に記憶が入ったとすれば、この身体の持ち主は誰だったのか。とにかく、何とか現状を把握しなくては……。


「あの……」

 私は主人に取り留めのない話をしながら情報収集に努めた。


 この西の沢村は福岡から佐賀方面の山深くにあり、元は修験道者の湯治場としてひっそりと開かれた村であるらしい。

 その後、近隣の村々の水源と電気の確保の為、上流にダムが築かれバスの通る広い道が出来、二十戸程の集落になった。産業は林業やシイタケの栽培が盛んな様子である。

 この村の中心は修験道者の集ったとされる泡嶋神社。元は山陰に在ったものがいつの頃からかここへ移転してきたものらしく、この村で祀られている現人神のマヒト様が信仰を一身に集めているとの事だ。

 ただし、主人は他の県からこの宿への入り婿で詳しい事はあまり教えて貰えないらしい。


 そして、問題はダムのほとりから出ているバス道。

 現在は数日前から降り続いた雨の所為で途中の崖が崩れ、唯一の交通手段であるこの道が通行不能になっている。何でも軍まで出動しての復旧作業中であるらしい。

 実は私は最初ここの作業員と間違われたらしいが、こちらでいなくなった作業員はいないとの事で、反対側の村の西側、山向こうのトンネルの作業員と言う事になったようだ。

 ただし、その山向こうの作業現場の蓮池には、険しい山道を一日近く歩かなければ行けないらしく、雨の降りしきる現在は確認が取れていないのが現状である。


「ふぅー、どうしたものか……」

 朝食を終えた私は一人溜息を付いた。

 勿論、メモに合ったセイラの事も聞いてみたが主人には心当たりの無い様子だった……。

 ――私はその人を探すためわざわざ山を越えてここまでやって来たのだろうか? 何のために? わからない……ただ、このメモ帳のページ……機械で切断された角丸。正確に開けられた四角のパンチ穴。どうにもこれだけがこの時代にそぐわないように見える。だとすると、その人だけが私の現状を知る突破口になるのかもしれない……。

 だが、今は手掛かりすらも無い。主人が知らないと言うのならこの村の人物ではないのだろう。とすると、今この村に居いるかどうかも分からない。

「これは一旦保留だな……」私は思わずつぶやいた。


 幸い主人には雨が止むまでここに居て良いと言ってもらえた。お金は後日用意できたときに送ってもらえばそれで良いらしい。何ともおおらかな時代である。


 とは言え、このままここで寝ている場合では無いだろう。

 食べ終わった食器をお盆に乗せ部屋を後にする。

 まだ肩と腰の痛みは引いていないが何とか歩ける。ギチギチと音を立てる階段をゆっくり一歩ずつ下り一階へと降りた。


 階段を降りてすぐが食堂というか自炊場になっており、流しにテーブル、少し離れて土間がありかまどが四つ設置されている。土間の片隅には薪も積まれているのが見て取れる。

 ふと壁を見ると紙に書かれた案内図が貼ってあった。

 この自炊場から奥の方へ、一旦外へ出た離れが厠。その向こうに温泉があるようだ。


 テーブルにお盆を置き、流しの亀の子タワシで食器を洗う。水気をよく切りお盆に乗せて宿の玄関の方へと向かった。

 玄関口には取って付けた様なフロントがあり、その中に宿の主人と女将らしい女性が宿の名入りの半纏を着て仲良く座っていた。

 その後ろの棚に置かれた大きな真空管のラジオが聞いたことも無い物悲しいメロディーを奏でている。

 女将は私の顔を見るとすぐに立ち上がり奥の部屋へと去って行った。


「もう食べられたと」主人の十吾さんが此方へ声を掛けてきた。

「はい、ごちそうさまでした。これ、何処へ下げましょうか」と言ってお盆の食器を差し出した。

「ここでよかよ」主人がそれを受け取る。「そいより、ラムネいらんと」

「へ? ラムネですか」

「ラムネったい。ここで造っとーよ」主人がカウンターの内側の水桶から水色のあの特徴的なガラス瓶を取り出す。

 ラムネの原料は確か重曹とクエン酸そして砂糖水だったか……。そこへレモンの香料を加えるとラムネ。リンゴの風味を加えるとサイダーになる。有名な所ではあの戦艦大和の中でも製造されていたらしい。

 今女将が去って行った扉の向こうに、厨房の様な物が見えるのでそこで作っているのだろう……。


「いや、でも私お金無いですし……」

「一緒で、良か」

「では頂きます」私は笑顔でラムネ瓶を受け取りながら答えた。

 渡された木の棒を瓶の口に突き刺してビー球を中へと押し込む。プシューと小気味よい音を立てて泡が噴き出た。慌ててそれを口にする。


 その時、主人がこっそりと内緒話の様に耳打ちした。「後で 〝熊ん乳〟 もあるたい」

「!」


 熊の乳・白馬・馬の乳これらはどれも同じものを指す隠語である。

 それは、〝どぶろく〟……発酵を止めていない濁り酒の事であるが、この時代でも製造には確か特別な許可がいるはずだ。主人のこの態度からすると恐らく密造酒の事を指している。ここには神社もあるので祭事に使う分をこっそり飲んでいるのだろう。――これは夜が楽しみだ……。


「あの、少し村の様子を見て回りたいのですけど……」ラムネを飲み干した私は主人にそう尋ねた。

「強か雨が降りよるとよ、危険たい」

「いや、そうなんですけど……でも、私の見つかった場所を見れば何か思い出せそうな気がするんです……」

 嘘である。本当のことを言えば今が昭和十年で間違いないのか外に行って確認してみたいだけである。


「そげんか……そやったらこれ持っていきんしゃい」

 主人はそう言って玄関横に掛けてあったゴム引きの黒の合羽と宿の名入りの番傘を差しだした。

「ありがとうございます」

 そしてフロントにあった紙切れにこの村の簡単な地図を書いてもらった。


 この村の構造は簡単に言えば深い谷底で縦長の十字になっている。北はダムで遮られ、南は渓谷になっている。中心に大きく泡嶋神社があり、その東にこの温泉。西は段々畑でその端が私が見つかった崖である。崖の上には墓所があるらしいが、いつ崩れるか分からないので上らない方が良いらしい。そしてバス停はこの温泉から山の斜面を北に上ってダムへ出るのだそうである。こちらも、軍隊が来ているそうなので近づくと追い返されるらしい。


「気―付けて、行きんしゃい」主人は言った。

「はい」


 私は扉を開らき、降りしきる雨の中へと身を乗り出した。

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