世界の全て



「ヘーイ! ウィルー! ソフィアが呼んでるぜー!」


 ある日、踊る石膏像が警備員室にいる僕を呼びに来た。

 美術館のどこでも歩ける彼の行動力を使うとはさすがの僕も予想出来なかったが、人の気も知らない能天気な彼に苛ついた僕は、ひたすらそれを無視した。

 しかし気にも留めない彼は、隣に同僚が座っていようと、僕が寝ているフリをしようと、果ては用を足している時だろうと、どんな時でも関係無く僕を呼びに来た。

 休みなくそれが二週間ほど続き、さすがに我慢できなくなった僕は仕方なくソフィアの招集に応じることにした。


 数ヶ月ぶりに、僕は一番好きな彼女の姿を目にした。

 ソフィアは額縁に頬杖をつき、柔らかな明かりを放つ月を眺めている。

 淡い月明かりが白いドレスを照らし、その姿は今まで見たどの彼女よりも幻想的に見えた。


 とても美しかった。


「ウィル。貴方、一度この町を出てみたらどうかしら」


 まるで僕の心の奥底を見透かしているかの様な言葉だった。


「……どういうこと?」

「私やダヴィデの話で外の世界を知った気になっているみたいだけど、私達が知っていることなんてこの世界のほんの一部でしかないのよ。ダヴィデから色々話を聞いてわかったわ。それに、他人から話を聞くのと実際に自分の目で見るのでは、感じるものも全然違うわよ?」

「そうは言っても……」

「若いうちに見聞を広めないと、考え方の凝り固まった可哀想な大人になりますわよ? 出来るうちに行動ですわ!」

「でも、君がまた一人に……」

「あら、自惚れないでくださる? 貴方がいなくても、別に私は寂しさなど感じませんわ。私のことが気掛かりなら、心配せずとっととお行きなさい」


 以前の僕なら、素直になれない彼女の言葉の真意を見抜けたかもしれない。

 しかしこの時の僕は冷静ではなく、その言葉を鵜呑みにしてしまっていた。今でも後悔している。


「……そうだよね。僕がいなくても、君にはダヴィデがいるしね」

「どういうことかしら?」

「言葉通りだよ。僕もそろそろ絵画のお友達と卒業する時期が来た。そして君には彼がいる。つまりはそういうことだろう?」

「……貴方がそう思うのなら、そうかもしれませんわ。この町の外に出て、世界を見て来なさい。きっと全てが変わるわ」

「この町を出て外に行った人間は、必ずと言っていいほど戻ってこない。それだけこの町には魅力がないからだ。それでも、僕に行けって言うんだね?」

「ええ」

「……わかった。なら、僕は明日にでもここを発つよ」

「……そう」


 その時のソフィアは、一瞬だけどとても悲しそうな顔をしていた気がする。

 彼女の表情の意味を理解することが出来ていれば、あるいはもっと賢い答えが出せたかもしれない。

 彼女への想いを伝えられたかもしれない。


「今まで楽しかったよ、ソフィア。君と出会えて本当に良かった」

「私も……とても楽しかったですわ、ウィル。あなたと出会えて本当に良かった」

 

 僕達は互いの名を呼び、互いを見つめ、そして決別した。

 ソフィアの元を離れ、しかし名残惜しくて振り返った時に見た彼女は、何かを堪えている様な顔で僕を見つめていた。

 彼女に想いを伝えられなかったことだけが心残りだったが、そんな想いも勢いに任せて振り切り、そして次の日には町を発った。

 家族も僕を止めなかった。おそらくいい厄介払いが出来たと思っているのだろう。

 唯一妹だけは寂しそうにしてくれたが、半ば自棄だった僕はそれだけで思い止まることはなかった。


 彼女に対する自分の気持ちを伝えられなかったのは、その想いが彼女に伝わることの嬉しさよりも、その想いを拒絶されることを恐れる気持ちが強かったからだ。

 僕はそれほど臆病で、小さくて、弱い男だった。

 だから広い世界をこの目で見て大きくなってやろうと思った。

 僕やソフィアが知らない世界を知り、人として成長する為に。

 僕にとって世界の全てだった彼女を、世界の一部にする為に。






 ソフィアの言う通り、この世界は僕の想像を遥かに超えていた。

 彼女やダヴィデが話していた世界はこの世界のほんの一部だったし、それ以上に未知と魅力に溢れていた。

 黄金に輝く塔が並ぶ灼熱の国。

 太古の遺跡を山頂に残す空の国。

 地平線まで白一面の広大な大地。

 地面から空まで金属で出来た街。

 氷の大地と青い山々。

 奇妙な生き物達が住む島。

 僕が旅をした十五年間は一生分の体験をしたのでは無いかと思う程に刺激的だった。


 最初は大してお金も無く、行くあても無く、一年もしないうちに野たれ死ぬかと思っていたが、とある遺跡に訪れた時から一変した。

 どこの遺跡だったかはもう覚えていないが、その遺跡に訪れた際に昔から聞こえた『不思議なもの』の声に導かれて、その奥深くで古代の遺産や秘宝を見つけたのだ。

 その時にようやく気付いたが、どうやら僕の力は物に宿る魂の姿を見たり、声を聞いたりすることが出来るらしい。だから僕にはソフィアやダヴィデの声が聞こえ、その魂が見えた。

 僕は発見したそれらを行く先々で売ってはまた別の場所で宝を見つけてを繰り返し、トレジャーハンター紛いのことをやってなんとか旅を続けることが出来た。

 芸術品に近しいそれらを売るのは心苦しかったが、故郷に泣き帰るよりはマシだった。

 もちろん、遺跡の罠とか守り人とか盗賊に襲われて何度か死にそうな目に遭うこともあった。決して順風満帆だったとは言えないだろう。

 それでも僕は他人に聞こえない色々なものが聞こえて、他人に見えない色々なものが見えることに感謝した。

 その力があったからこそ、ソフィアとも話すことが出来たのだから。


 旅をしている間、僕は彼女のことをできるだけ忘れようとしていた。

 考えているだけで彼女に会いたくなってしまい、故郷に戻りたくなってしまいそうになるからだ。口ではああ言ったけど、やっぱり僕は彼女のことが好きだったから、必死に忘れる為の努力をした。

 忘れる為に様々な国で友人を作った。

 忘れる為に色々な作品と出会い、その声を聞いた。

 忘れる為に美しい女性に恋をして、愛を語らった。

 その毎日は楽しくて、刺激的で、とても充実していた。


――でも結局、たとえどんな時だろうと、頭の片隅には必ず彼女の姿があったと思う。


 初めて美術館で会った時の不遜な彼女。

 今まで見てきた世界の話をしている時の得意気な彼女。

 僕の下手な踊りを見て笑う陽気な彼女。

 古い映画を見て涙ぐむ儚気な彼女。

 夜空に浮かぶ月の朧げな明かりに照らされ、それを物憂気に眺める彼女。

 そんな彼女の姿が、僕の瞳に焼き付いていた。

 

「今頃、ダヴィデと仲良くやっているだろうか」


 ふとした時にそう思うことが何度もあった。

 しかし単純に、今どうしているかなと少し想像するだけに留める努力をしていた。

 二度とあの町に戻るつもりは無かったからだ。


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