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 上空を流れる大気はいきおいを増して山脈にぶつかり、山を駆け上ってゆく。


 高度が上がると大気はみるみるうちに真っ白になり、霧のかたまりになった。それは盆地の上空に押し戻され、折り重なって、厚い灰色の雲になる。


 しかしそれでも大気の流れは止まない。


 そしてそれがある臨界に達した時に、別の動きが始まった。

 零下の温度で飽和ほうわした水蒸気が、空気中の微細びさいな塵を核に結晶を作りはじめたのである。


 顕微鏡で見るならばそれらの無数の結晶は美しい幾何学美きかがくびを有する対称構造たいしょうこうぞうを示し、しかもそれらの形はいずれも異なっており、一つとして同じ形のものは存在しないことが分かっただろう。


 そのきっかけは、大気の状態が少しだけ変化することによる、ごくわずかな一押しであった。しかしそれは一度始まってしまうと止まるところを知らない。


 一瞬のうちに大気は白い結晶で満たされ、間髪かんはつをいれずそれらの結晶は自らの重みで次々と落下を始めた。


 最後尾の車両のデッキの扉を開けて、トキ子は外に出た。


 さあっ、と流れるように上の方から大気が白くなった。最初のひとかけら、トキ子の手の甲に舞い降りた白い結晶がそのまま体温で溶けた。


 車両の後方に流れゆく線路。その向こうへ吸い込まれてゆくように、いつしか無数の雪が舞い散っていた。そして見わたすかぎりの荒野も、次第に薄白く覆われ始めていた。


 その向こう側。


 トキ子は耳をそばだてる。

 はるか上から。


 狂おしい風の音にかき消されそうな、言葉にならない言葉。声にならない声。


 キ タ

 ・・・

 カエッテ キタ

 カエッ テ


 きこえる!


 「トキ子さん。何をご覧になっておられるのですか」


 後ろから声がした。いつのまにか車掌の黒猫が立っていた。


 「ここは何もないところですよ」

 「車掌さん。誰かの声が」

 「声?」


 車掌は帽子のツバを少し持ち上げて耳を動かした。ヒゲが探るように少し前にしなる。


 「ああ、あれですね」


 「あれ?」


 「ま、ともかく、戻りませんか。ここは寒い。それに探偵さんが大変なのです、前の車両に行きましょう」


 に落ちないまま、トキ子は車掌にうながされて車内に戻った。


 「探偵さんは先ほど食堂車にいらっしゃいました。どうも調子が良くないということで、熱冷ましをお買いあげになったのですが、そのまま個室でおやすみ頂くことに……」


 「そういや、アイツ、今朝からくしゃみしてたっけ」


 トキ子は苦笑した。


 「幸いなことに、車内のお客様に協力頂いて、現在治療中です」

 「お医者さんがいるのね、よかった」

 「お医者、……まあそんなところです」


 車掌はちょっと首をかしげた。


 「それはそうと、あの声はなに?」


 車掌は立ち止まって、トキ子を見た。


 「ええ。説明は難しいのですが、このあたりを通りかかる時には、よくあることなのです。トキ子さんのように、聞こえる方もおられます」


 「あれはヒトの声なの?」


 「分かりません。昔の人ではないかと言われています。ほとんど記録にも残されていないのですが、この平野にはずいぶん昔に集落があったという言い伝えがあります」


 トキ子は窓の外を見た。


 荒涼こうりょうたる大地は固く、冷え切っていた。


 そこにかつて人が住んでいたという事実があったとしても、それはほとんど想像に難かった。そこは昔から変わらず不毛の地であり、今後もそうあり続けるだろうとしか思われなかった。


 いまや、何もない空間は雪によって覆い尽くされていた。夕暮れの薄明の中、しかし、大地は白く鈍いかがやきを残していた。


 それはすべてをおおい隠す冷たいぬくもりだった。


 (かえってきた)


 トキ子は声にならない声でつぶやいた。


 帰ってきた。雪とともに。

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