中編:怪盗の出現と密室殺人

「きゃああああ」

 部下達のベッドルームの方から甲高い叫び声が聞こえた。

 茉空まそらは急いでベッドルームに行こうとすると、サフィスが叫ぶ。

「見て下さい!」

 そこには十階の高さに浮かぶ、茶色のスーツを着た大臣の姿があった。茉空まそらは窓に張り付いて、今起こっていることを確かめようとする。夕焼けでシルエットになってよく顔は見えないが、体格も髪型も大臣に見えた。大臣姿の者はまるでブランコで遊んでいるかのように、窓を左右に移動する。茉空まそらがさらに凝視すると、そいつは太いワイヤーで体を繋げ、屋上辺りからぶら下がっているのだ。

「大臣を! 早く大臣を呼んで来て下さい!」

 茉空まそらは秘書とメイドに叫んだ。メイドは腰が抜けたらしく、「人が道具も使わず空を飛ぶなんて、そんなこと、そんなこと無理よ……」とうわ言のように繰り返していた。ミアにはワイヤーが見えていないようだ。

 サフィスが大臣の部屋へ駆け、「大臣入りますよ!」と飛んで入って行った。数秒してから大臣が部屋から姿を現す。大臣は右手をポケットに入れたままゆっくりと左手でドアを閉め切ると、ようやくこちらを向いた。あまりにもどかしくて怒鳴りそうになる。

「一体何事だ……なっ」

 窓に近寄ろうとした大臣はぎょっとした顔でたじろぎ退しりぞいた。それもそうだろう、なんせ自分の姿形と同じものが窓の外に浮いている、いやぶら下がっているのだから。

 茉空まそらはなんとか窓を開ける方法は無いかと窓枠を見たが、さすが大統領クラスが泊まるスイートルームだけあって、窓は嵌め殺しになっていた。茉空まそらはこの部屋の防犯の高さを呪った。

 見ているだけしかない茉空まそら達をあざ笑うかのように大きく右に見切れ、再び茉空まそら達の前に現れた時は大臣の姿ではなくなっていた。誰かが「きゃああ」と叫んだ気もするが、茉空まそらは誰かを気にかけている余裕など無かった。

 そいつはシルクハット帽に黒いマント、そして顔の四分の三を覆うドクロの仮面をしていた。

 気味の悪い仮面――師匠が言っていた仮面はこのことだったんだ。あれが怪盗セラビ。

 ドクロはニカッと笑ったまま手を振って地上へ降りて行った。窓から必死に覗き込んだが、角度と夕焼けの暗さが邪魔で見えない。

 捕まえなければ。

 茉空まそらは直感的に考えた。大臣は扉の前で立ち尽くしたままだったが、手にはちゃんと指輪がしてあるのを確認した。

「ミアさんはここに居て下さい! 私は奴を追います!」

 茉空まそらはスイートルームを飛び出した。


 エレベーターを呼び一階まで行くのに三分ほどかかってしまった。ホテルのロビーや怪盗が降りたであろう方向、さらにはゲレンデへの出入り口とショッピングモールを駆け抜けて見回してみたが、怪しい人物も何か騒ぎがあった形跡も無く、怪盗セラビは茉空まそらの前に現れただけで忽然こつぜんと気配を消した。

 午後五時になるとショッピングモールやゲレンデは閉められるため、一階にいる人間はまばらで、誰でも景色を見てくつろぐことができるホールには一人も人がいなかった。フルートとピアノの演奏が優雅に暗くなる雪国をいろどっている。

 ホールの緑で統一された絨毯もチェアも、今は夕焼けの赤に染まっている。

 怪盗はどこへ行ったのだろう。なぜ誰も騒がないのだろう。まばらだが歩いている人に聞いて回ってみたものの、中華系や東南アジア系観光客ばかりでうまく英語も伝わらないし、茉空まそらを避けるようにそそくさと行ってしまう。目撃情報は皆無だった。

 茉空まそらは脱力した気持ちでチェアに腰掛け、白い雪原と赤い空を見た。

 私は逃してしまったんだろうか。やはり師匠のようにはいかないのか。師匠無しでは私はただの、ただちょっとした魔法が使えるだけの微力な、いや無力な人間なのだろうか。

 ブーツで来たことを後悔した。前回いかに師匠がうまくやっていたかを思い知った。こんなに走ることになるとは茉空まそらは想定もしていなかった。もっと走りやすい靴にすれば、いやこの依頼を受けなければ、師匠と一緒にイギリスへ行っていれば、茉空まそらの後悔は尽きなかった。その時。

「こんなところにいたんですか、探偵さん」

 その声はサフィスだった。けれど茉空まそらには顔を上げる元気が無い。

「どうしたんです。怪盗はどうなりました?」

「サフィスさん、私、逃してしまったようで、その、やっぱり私には大役すぎたんじゃないかと……」

「そうですか。そうですね、私もいつもそう感じながら仕事をしています」

 意外な言葉だった。

「でも自分でできることをできるだけやる。昨日できなかったことが、明日は少しできるようになっているかもしれない。今日分からなくても、来年には分かるかもしれない。きっとみんなそうやって日々を過ごしているんです。今できないからといって投げ出すことはありません。逃げていてはできないままですが、挑めはそれだけで貴女あなたのものになっていきますよ。ほら見て下さい」

 茉空まそらの目の前に立つ男の顔は逆光になって見えない。男が指さした先にはホテルに沢山飾られている装花の一つだった。夕焼けの暗さで見えづらいが、透明な瓶に入れられた青色の薔薇だ。

「人間はあの薔薇のように不可能も可能にできるのです。それに事件はまだ終わっていません。まずは大臣のところへ戻ってはいかがですか」

 茉空まそらが顔を上げると男の姿は無く、足元に青い薔薇が一本落ちていた。


 茉空まそらはもう一度挑むことにした。怪盗にではない、自分にだ。

 十階へ上がるエレベーターの中で自分に気合いを入れた。黒いアイシャドウもつけまつげも手やハンカチでこすり落としてやった。服はどうしようも無いが、自分を大きく見せようという物を茉空まそらは少しでも取り払いたかった。

 エレベーターを降りてスイートルームへ進むと、ベージュと白のタイルが敷かれた廊下に、サフィスがドアからこちらを覗き込む姿で見えた。ドアの先の床には布のかたまりが落ちている。茉空まそらは声をかけた。

「サフィスさん、もう戻っていたんですね」

「いえ、僕はずっと部屋にいましたよ。ところで大臣の姿を見ませんでしたか?」

「部屋にはいないんですか?」

「さっきの騒動以来お姿が無くて、どうしたものかと」

 茉空まそらは床に落ちている布をしゃがんで手に取る。

 チェック柄の茶色スーツ一式と、乳白色のバックルがついた茶色いベルトがスラックスに通ったまま無造作に置かれていた。誰かが脱ぎ捨てた感じだ。乳白色のバックルはガラスのようにも石英のようにも見える光り方をしていた。

「それは大臣のお召し物です」

 サフィスが青くなってつぶやく。なんでこんなところに、茉空まそらも思わずつぶやいた。

「これはいつからここにあったんですか?」

「僕がついさっき部屋から覗いた時にはもうありました」

 茉空まそらが少し持ち上げるとカンカンとごく小さな高い音で何かが落ちた。銀色の残骸と割れた青いガラスと透明なガラス。

「まさかそれは大臣の指輪では」

 そんなばかな、サファイアがこんな風に壊れるはずはない、と茉空まそらは頭の中で即座に否定した。だとすると、これは誰かが用意したイミテーションか?

 サフィスは大声で慌てながらドアノブから手を離して、こちらにしゃがんだ。茉空まそらはオートロックの扉を急いでつかみ、服を放ってスイートルームに滑り込んだ。

 茉空まそらとサフィスが大臣の部屋を何回もノックする。反応は無い。茉空まそらがドアノブに手をやると手が痛くなるほど冷たかった。冷たさを我慢してドアノブを押すが開かない。

「サフィスさん、開けてもいいですか」

「構いませんが、どうやって」

「一体どうしたのです」

 背後からスラスト女史が大声でやって来た。茉空まそら達の騒ぎを聞いてベッドルームから出てきたらしい。

「急いで確認しなきゃいけないことがあるんです。申し訳ありませんが、開けさせてもらいます」

 茉空まそらそでをまくって左腕につけていた腕輪を右手首につけ替えた。腕輪には小指の先くらいの大きさの黄緑色をした宝石、楔石スフェーンが飾られている。茉空まそらは小さく確実に念じながら唱えた。

トビラ・開け《ヒラケ》」

 茉空まそらがドアノブを押すと、なんの抵抗も無くドアは開いた。スラストに「どうやって開けたの」と驚かれたが、今はそれどころではない。大臣を確認しなければ。

 茉空まそらと秘書のサフィスと事務次官のスラストで、大臣の部屋に入る。日はすっかり暮れており、明かりのスイッチを入れなければ朧気おぼろげな家具の輪郭しか分からない。

 茉空まそらが部屋の中央まで進んだところで、サフィスが部屋の電気をつけた。秘書や事務次官が「大臣」「大臣どこです」と言いながら部屋を回る。

 明かりに照らされた部屋は応接室と変わらない広さで、一人で泊まるには十分すぎるほど広かった。キングサイズのベッドにソファ、ローテーブル、机、大型テレビ、まるで一人暮らしができるしつらえだ。

 ベッドの上にはYシャツがくしゃくしゃに丸めて置いてあった。スラストは綺麗にしていないと気が済まないのか、Yシャツを手にして畳もうとする。

 広げたYシャツのえりに、赤黒い染みがあった。

「きゃああ」

 スラストは忌み嫌うようにYシャツを手放す。

 茉空まそらも部下二人も息をのんで静になる。静寂の中にジャーと水音が響き聞こえた。

「どうしたんです?」

 ミアが大臣の部屋を覗き込んできた。黒いシャツとのコントラストでさらに白い顔がより白い。具合が悪いようだ。

 茉空まそらはミアに説明をしたかったが、それよりも音の正体が気になった。この水の音がしそうな場所は一箇所しかない。

 茉空まそらはベッドや呆然としているスラストをすり抜けて、大臣の部屋の唯一視界が遮られている水場に向かった。簡易的なドアを開けると、半ユニットバスとなっていて、洗面所とトイレがまず目に入った。音の正体はさらに奥、バスルームだ。

 バスルームの引き戸を開けると、ヒノキの匂いではなく鉄臭てつくさい匂いが鼻をついた。バスルームは外に向かって全面ガラスの開放的なお風呂になっていて、大臣がお風呂でくつろいでいたら、ここから怪盗の派手な登場も見えただろう。

 大柄な男性でも優に足が伸ばせる立派なヒノキ風呂の横、木のすのこの上にナイフで何箇所も刺されて絶命している下着姿の大臣があった。

 右の首筋には致命傷と思われるナイフの傷が深々とつけられていた。Yシャツの血と合わせると、後ろからいきなり突き立てられたのだろう。水の石を持っていても反撃できなかった可能性がある。

 大臣がうつ伏せで顔が見えないことと、刺された後ずっとシャワーがかけられたためか血痕が派手ではないことが、現場の悲惨さを少しばかり薄めている。手には何も嵌められていない。凶器と思われる刃渡り十センチほどのナイフがすのこの上で、シャワーに濡れていた。

 だが執拗に刺された背中は痛々しく、特に背中の左側の傷が多いように見えた。

「大臣いました……?」

 おどおどとミアが茉空まそらの背中に聞いた。これは見せられない、と茉空まそらは思ったが遅かった。

 事務次官、秘書、メイドの三人は一斉にバスルームを見た。

 そして口々に声を振り立てるように言った。

「水の石が、水の石が盗まれています!」

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