中編:怪盗の出現と密室殺人
「きゃああああ」
部下達のベッドルームの方から甲高い叫び声が聞こえた。
「見て下さい!」
そこには十階の高さに浮かぶ、茶色のスーツを着た大臣の姿があった。
「大臣を! 早く大臣を呼んで来て下さい!」
サフィスが大臣の部屋へ駆け、「大臣入りますよ!」と飛んで入って行った。数秒してから大臣が部屋から姿を現す。大臣は右手をポケットに入れたままゆっくりと左手でドアを閉め切ると、ようやくこちらを向いた。あまりにもどかしくて怒鳴りそうになる。
「一体何事だ……なっ」
窓に近寄ろうとした大臣はぎょっとした顔でたじろぎ
見ているだけしかない
そいつはシルクハット帽に黒いマント、そして顔の四分の三を覆うドクロの仮面をしていた。
気味の悪い仮面――師匠が言っていた仮面はこのことだったんだ。あれが怪盗セラビ。
ドクロはニカッと笑ったまま手を振って地上へ降りて行った。窓から必死に覗き込んだが、角度と夕焼けの暗さが邪魔で見えない。
捕まえなければ。
「ミアさんはここに居て下さい! 私は奴を追います!」
エレベーターを呼び一階まで行くのに三分ほどかかってしまった。ホテルのロビーや怪盗が降りたであろう方向、さらにはゲレンデへの出入り口とショッピングモールを駆け抜けて見回してみたが、怪しい人物も何か騒ぎがあった形跡も無く、怪盗セラビは
午後五時になるとショッピングモールやゲレンデは閉められるため、一階にいる人間はまばらで、誰でも景色を見てくつろぐことができるホールには一人も人がいなかった。フルートとピアノの演奏が優雅に暗くなる雪国を
ホールの緑で統一された絨毯もチェアも、今は夕焼けの赤に染まっている。
怪盗はどこへ行ったのだろう。なぜ誰も騒がないのだろう。まばらだが歩いている人に聞いて回ってみたものの、中華系や東南アジア系観光客ばかりでうまく英語も伝わらないし、
私は逃してしまったんだろうか。やはり師匠のようにはいかないのか。師匠無しでは私はただの、ただちょっとした魔法が使えるだけの微力な、いや無力な人間なのだろうか。
ブーツで来たことを後悔した。前回いかに師匠がうまくやっていたかを思い知った。こんなに走ることになるとは
「こんなところにいたんですか、探偵さん」
その声はサフィスだった。けれど
「どうしたんです。怪盗はどうなりました?」
「サフィスさん、私、逃してしまったようで、その、やっぱり私には大役すぎたんじゃないかと……」
「そうですか。そうですね、私もいつもそう感じながら仕事をしています」
意外な言葉だった。
「でも自分でできることをできるだけやる。昨日できなかったことが、明日は少しできるようになっているかもしれない。今日分からなくても、来年には分かるかもしれない。きっとみんなそうやって日々を過ごしているんです。今できないからといって投げ出すことはありません。逃げていてはできないままですが、挑めはそれだけで
「人間はあの薔薇のように不可能も可能にできるのです。それに事件はまだ終わっていません。まずは大臣のところへ戻ってはいかがですか」
十階へ上がるエレベーターの中で自分に気合いを入れた。黒いアイシャドウもつけまつげも手やハンカチでこすり落としてやった。服はどうしようも無いが、自分を大きく見せようという物を
エレベーターを降りてスイートルームへ進むと、ベージュと白のタイルが敷かれた廊下に、サフィスがドアからこちらを覗き込む姿で見えた。ドアの先の床には布のかたまりが落ちている。
「サフィスさん、もう戻っていたんですね」
「いえ、僕はずっと部屋にいましたよ。ところで大臣の姿を見ませんでしたか?」
「部屋にはいないんですか?」
「さっきの騒動以来お姿が無くて、どうしたものかと」
チェック柄の茶色スーツ一式と、乳白色のバックルがついた茶色いベルトがスラックスに通ったまま無造作に置かれていた。誰かが脱ぎ捨てた感じだ。乳白色のバックルはガラスのようにも石英のようにも見える光り方をしていた。
「それは大臣のお召し物です」
サフィスが青くなってつぶやく。なんでこんなところに、
「これはいつからここにあったんですか?」
「僕がついさっき部屋から覗いた時にはもうありました」
「まさかそれは大臣の指輪では」
そんなばかな、サファイアがこんな風に壊れるはずはない、と
サフィスは大声で慌てながらドアノブから手を離して、こちらにしゃがんだ。
「サフィスさん、開けてもいいですか」
「構いませんが、どうやって」
「一体どうしたのです」
背後からスラスト女史が大声でやって来た。
「急いで確認しなきゃいけないことがあるんです。申し訳ありませんが、開けさせてもらいます」
「
明かりに照らされた部屋は応接室と変わらない広さで、一人で泊まるには十分すぎるほど広かった。キングサイズのベッドにソファ、ローテーブル、机、大型テレビ、まるで一人暮らしができる
ベッドの上にはYシャツがくしゃくしゃに丸めて置いてあった。スラストは綺麗にしていないと気が済まないのか、Yシャツを手にして畳もうとする。
広げたYシャツの
「きゃああ」
スラストは忌み嫌うようにYシャツを手放す。
「どうしたんです?」
ミアが大臣の部屋を覗き込んできた。黒いシャツとのコントラストでさらに白い顔がより白い。具合が悪いようだ。
バスルームの引き戸を開けると、ヒノキの匂いではなく
大柄な男性でも優に足が伸ばせる立派なヒノキ風呂の横、木のすのこの上にナイフで何箇所も刺されて絶命している下着姿の大臣があった。
右の首筋には致命傷と思われるナイフの傷が深々とつけられていた。Yシャツの血と合わせると、後ろからいきなり突き立てられたのだろう。水の石を持っていても反撃できなかった可能性がある。
大臣がうつ伏せで顔が見えないことと、刺された後ずっとシャワーがかけられたためか血痕が派手ではないことが、現場の悲惨さを少しばかり薄めている。手には何も嵌められていない。凶器と思われる刃渡り十センチほどのナイフがすのこの上で、シャワーに濡れていた。
だが執拗に刺された背中は痛々しく、特に背中の左側の傷が多いように見えた。
「大臣いました……?」
おどおどとミアが
事務次官、秘書、メイドの三人は一斉にバスルームを見た。
そして口々に声を振り立てるように言った。
「水の石が、水の石が盗まれています!」
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