第十話 『人ならず』

「ついておいで」といわれ、竜之助に連れてこられた先は、町の郊外に近い廃墟だ。

 普通の生活をしていたら決して近づかないであろう場所。不思議と浮浪者が溜まることもなければ落書きもないところ。


 学人の横にいるカブラギが、もう耐えられないといわんばかりに竜之助に向かって鋭く言葉を放った。


『うつけが! ここは『人ならず』の出る場ではないかっ!』

「そう。隣の幽霊君は知ってたわけだ。鏑木沙也を狙う者の正体が」

「えっ」


 竜之助の言葉に、学人は驚いてカブラギを見る。


『おぬしは知らぬだろう。何せ見鬼であるだけの徒人に、わざわざ『人ならず』の正体を知らせるまでもないわ』

「で、でも沙也さんが危ないんですよ?」

『お主とて危ういのだ。我はおぬしが鬼使より寄越されたとき、信じられぬ思いだった』

「……でも覚悟だけはあります。教えてください、二人とも」


 竜之助とカブラギに向かって、学人は決意を向ける。だが、竜之助から返ってきたのは気の毒そうな視線だった。


 竜之助の気持ちを代弁するかのように、カブラギが珍しく優しげな口調で学人に言う。


『……覚悟だけではどうにもならぬ。『人ならず』は鬼使でなければ消せぬものよ』

「そんな……」

「俺もね、そう思うよ、学人君」

「竜之助さんまでっ」

「……でも、きみの姉さんはそう思っていないらしい」


 どくり。鼓動が一つ、強く鳴る。


 それは警鐘か、それとも期待されたことへの誇らしさか。


 どちらにしろ、学人は今、試されている。


 ここにはいない姉、一颯に、「お前はこちらの世界に来るか」と聞かれている。


 竜之助は、今度こそ煙草に火をつけながら、微かに手が震えている学人に同情の視線を送る。


「俺は、此処から今すぐ立ち去ることをお勧めする。『人ならず』を狩れるのはこの世でただ一人、君の姉さんだけだ。――そんで、俺は今回、君をここまで連れてきて、『人ならず』と対決させることを指示されている」

『なんと無茶な……』


 唖然とするカブラギ。まったくだと頷く竜之助。


 瓦礫に埋もれた廃墟の窓から見える太陽は、ゆっくりと沈んでゆく。鮮やかなオレンジ色が天蓋に広がり、得も言われぬほど美しい夕焼けが見れるだろう。


 ――幼いころ、姉が無邪気に言っていた言葉を思い出す。



 ――『夕焼けは誰そ彼。学人、影がない人を見たら話しかけちゃあいけないよ。それはもはやだれでもないんだから』



「『人ならず』は、誰でもない……?」


 学人が思わず呟いた言葉は、竜之助に表情に緊張を走らせた。


「あの女、何も知らない子供に教えてたのか」

「昔、言われたことがあります。話しかけてはいけないって……」

『おぬしら、少しは緊張せい! 来るぞ、『人ならず』がっ』


 カブラギの言葉に、二人ははっと緊張を走らせる。


 瓦礫に埋もれた部屋の太陽の反対側、日の当たらない場所。


 そこに凝り固まるようだった闇が、ぶるりと震えたのを、学人ははっきりと見た。


 それは、ぞわぞわと。


 それは、がくがくと。


 それは、もの悲しい悲鳴を上げながら、人のようなものへと姿を形成してゆく。

 しかし悲しいかな。それは『人ならず』。


 ――『それはもはや、だれでもないんだから』


 幼い姉の言葉が学人の脳裏に木霊する。嗚咽にも似た産声を、闇が凝縮したような歪な人型が吐き出した。でも、音は音にさえならず、べちゃりと影の塊を血のように吐き出しただけ。


 竜之助は、学人を背後に庇い、胸元から何かを取り出した。


「目を合わせるなよ!」


 彼が手に持つのは白銀の銃弾。竜之助が口の中で何かを呟いたとたん、それは白銀の銃へと一瞬にして変貌する。


「これは偽神器だ。牽制程度にはなるが、倒せるものじゃないぞ」


 驚いて言葉を失う学人にそう言うと、這いずるように学人たちに向かってきた人ならずに向かって二発撃つ。


 驚いたように後退する人ならず。その隙を突こうといわんばかりに、カブラギが白銀に輝く懐刀をもって人ならずを切り付ける。


『……我のも似たようなものだ。おい、不審者、鬼使を呼べ』


 カブラギがそう言い放った途端、人ならずが再び咆哮する。嫌な音を立ててまき散らされる血のような影。しかし、人ならず自体に影は存在しない。


 ……姉の言葉通りだ。影がない人こそ、人ならずなんだ。


 人ならずが何なのか、学人にも、ようやく、わかった。


 ソレは忌むべき存在。人ではないのだから。


 それは消すべき存在。人ではないのだから。


 それは―――悲しみだけの存在。人になれないのだから。


 学人ははっきりと思い出していた。今朝見た夢。住み慣れた町の上を、闇がとぐろして包み込んでいる。


 学人ははっきりと分かった。―――人ならずの正体は、あの闇なのだ。


 詳しいことは分からない。どうしてこのようなものがいるのか。それがどうして人を襲うのか。


 ただ、唯一分かるのは―――。


「……二人とも、どいてください」


 学人は、涙が流れるのを止められなかった。


 人ならずに、近づいてゆく足を止められなかった。


「学人君……? やめろ、危ないぞ、それ以上は」

「黙ってて!!」


 ぜいぜいと、苦しく息をするような人ならず。

 周囲にはにわかには耐え難い匂いが立ち込めて、それが人ならずが吐く息から発されていることが近づいていくごとによくわかる。


 それでも、学人はためらうことなく片膝をついた。人ならずの前で。


 ――後ろの二人が慌てて動こうとするのを、片手で制する。もう片方の手は、人ならずの歪んだ頭の方へと向ける。


「『触るなっ!!』」


 二人の警告と同時に、学人の手は、人ならずに触れていた。

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