第八話 すべては目覚めなければならない

 聞こえる、泣き声が。


 小さな子供がすすり泣く様な、聞いているこちらが駆け寄って背中をさすってやりたくなるような悲しげな声。


 それでも、真っ赤なダッフルコートを纏った一颯は動かない。彼女がいるのはビルの上――竜之助が事務所を構えるビルの、最上階。


 今にもボキリと音を立てて壊れそうな手摺の上に、彼女は幼子のように足をぶらぶらさせながら鼻歌交じりに、その悲鳴を聞いている。


「ここは意外にも景色がいいよなぁ、そうは思わないか? 竜之助」


 一颯の言葉通り、このビルは周辺一帯のビルよりも年老いている代わりのように、周りのビルよりもひときわ高い場所にある。


 そのせいか、薄くかすんだ青空が遠くまで見通せる。確かにいい景色ではあった。


 彼女の背後に立った竜之助は顔を渋くして、ふわりと髪を風に遊ばせる一颯を睨む。


「この声を聞きながら鼻歌を歌う人でなし。実の弟を窮地に追いやろうとする奴にも景色を綺麗と思う心があるとはな」


 彼の吐きだす言葉は、辛辣の一言に尽きた。


 穂香に向ける様な親しみも、学人に向けるような年下を思いやる心もない。


 ただ、言葉という冷ややかなナイフを、一颯に突き付けているかのようで、麗しい空の下にただならぬ緊張感が張り詰める。


 ――だが、それすらも。

 振り返った一颯は、鼻で笑い飛ばした。


「それが『上司』に対する言葉かい? 竜之助」


 奇しくも、それは竜之助が穂香に向けるのと同じ親しみを込めた言葉。

 ただし――その言葉の根底にあるのは、嘲笑。


「私の目は、残念ながら君よりも節穴じゃあないんでね。物事にはタイミングってものがあるだろう」


「弟を窮地に陥れる、タイミングがあるってのか?」


「残念ながらね、アレはそうしなければいつまでも目覚めないボンクラなんだ。まぁ、好きな女の子を守るっていうテンプレの正義感で、どこまで覚醒するかは謎だけど」


「……学人は、俺みたいな【マレビト】じゃあないだろ」


 苦しむように、竜之助はその言葉を吐き出した。


 ――【マレビト】。

 本来は、高名な民俗学者である宮本常一が提唱した、外から来た神を意味する民俗学用語。


 ただし、今、竜之助がつぶやいた言葉の意味は本来の意味とは全く異なる。


 竜之助の苦悩をいたわるように、一颯が肩越しに振り返りながら薄く笑う。


「そうだね、君みたいに「常世」と関係のある子じゃないよ、あの子は。けど、学人には学人なりの生き筋ってものがある」


「……それを見つけさせるための荒療治にしちゃあ、ちょっと危なすぎるんじゃねえの。今回の件」


「だから君を付けたんじゃないか。あの子はこのご時世ではちょっと見ないぐらいの見鬼だからこそ、今までは情報収集というやり方で活用してきた。けども、ちょっと事情が変わってね」


「なんだって?」


 竜之助は驚愕の表情を浮かべる。一颯はそれを見ると、すっと白い指先を正面の一点へと伸ばした。


「近いうちに、アレが、起きる」


「……!」


「だから、あの子は目覚めなきゃならない。……とういか、【あわい】にほど近い場所にあるこの町全体が目覚めなきゃいけなくなった。アレが起床する前に」


 アレ、と一颯が呼ぶ指の先。


【マレビト】である竜之助の目には、確かにそれが見えている。


 ―――一山分ほどある、どす黒い黒の塊が。

 それは本当の山のように微動だにしない巨大なものだ。けれど、竜之助は知っている。一颯に教えられ、自分でも苦しんだことがあるからこそ、「アレ」がどれほど恐ろしい存在かを知っている。


 竜之助の耳に届くすすり泣きが大きくなる。それは、この街の地霊が流し続ける鳴き声だったのだと、今更、思い知った。

 一颯は手摺の上で仁王立ちになる。ともすれば、風で吹かれて投身してしまいそうな危うさを、自身が宿す強靭な【力】によって支えながら。


「私は【鬼使】だ。アレを倒すのが私の役目だ。そのためなら、実の弟を窮地に落とそうが、地霊が泣き叫ぶのを鼻歌で嗤おうが構わない」


 もう、竜之助が彼女に言うべき苦言はなかった。いや、もう喉から声すら出なくなってしまった。


 いうべき言葉はただ一つ。


 「ちっ……我が上司、【鬼使】の言うとおりに、俺を使え」


 「そうするよ。【】が目覚めては、この世界はあっさり終わるだろうからね」


 一颯は微笑む。不敵に、不穏に、研ぎ澄まされた刃のような、人間離れした眼光で。


 姉のこの姿を、学人はまだ知らない。彼女の正体を知らない方が幸せだと、竜之助も、一颯でさえも思っている。

 

 でも――事態は青年一人のささやかで穏やかな生活さえ、許さない。


 この非人間じみた一颯が唯一憂うことがあるとすれば……弟の平和を、守ってやれなかったことだろう。


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