第五話 悪夢

 すっと、陶磁器のように白い指が動いた。


 その動きを目で追うと、口紅もつけていないのに鮮やかな赤色をした一颯の唇へとたどり着く。


 真っ赤な唇が動く。聞きなれた、アルトの美しい声が耳に届く。


「学人、これは秘密だ」


 姉はそう言って、小さな少年の手を取った。


 これは、夢だ。


 今と姿の変わらない二一歳の一颯が、六歳ぐらいの身長をした学人と手を繋いだまま、ふわりと翼をもった天使のように浮かび上がる。


 馴染んだ自分の部屋の窓から、悠然と空を歩く彼女の姿を見て、まるで子供の頃に見たディズニー映画のようだとぼんやりと思う。


 姉は、赤いコートを身に纏っていた。派手な色を好まない一颯は、現実ではこんな服を着ない。


 だから、これは夢なんだと学人は勝手に納得する。


 赤いコートの裾が翻る。


 学人と一颯は、いつの間にか月に届きそうな場所まで飛びあがっていた。


 風はない。冷たくもない。


 都心では見ることの叶わない天の川が視界いっぱいに広がって、思わず自然の絶景に見入ってしまう。


 そんな学人を引っ張るように、一颯はしっかりとした足取りで、宙を歩いていた。

 しかし、幼い学人は彼女に引かれる風船のようにふわりと宙に浮いたままだ。


 不思議に思っていると、学人の疑問を見通した一颯が悪戯っぽい顔で振り返る。


 「良い風景だろう? これが私の特権。月の真ん前を堂々と歩くことができ、星々を絵画のように鑑賞できるのさ」


 「僕に見せたかったのは、これなの?」


 「いいや違う。残念ながらね。私が見せたいのは、あれだ」


 すっと、陶磁器のように白い指が動いた。


 その動きを目で追うと、眼下、美しい夜景が広がるはずの地上が、どす黒い靄によって汚されている。


 それは、息を呑む光景だった。

 西洋の絵画に描かれた地獄のような、そうでなければ見るに堪えないゴミだめのような、一人の人間の手で救うことのできない世界の巨悪が可視化された光景。


 一颯に言われる前に、学人は悟った。


 これは、姉が常に見ている光景なのだと。


「――驚かないね、学人」


「うん」


「あれは現実だ、夢ではないよ」


 実際のところ、学人はしっかり驚いている。けれども、それ以上に「自分にはどうしようもないことだ」と諦めている。


 姉は、一颯は、この世界をどうにかできる人間だ。そういう風に生まれついた、特別な人間なのだ。


 ――いつからだっただろう。

 こんな風に、一颯に見せられて、あらゆる怪異や風景に心を怯えさせることが無くなった。


 手に負えない事情になれば、それは姉がどうにかしてくれる。そう思うようになってから、学人は「諦める」ことが多くなった。


 いや、それだとまるで一颯のせいみたいな言い方だ。


 そうじゃない。そうじゃない。たぶん、今、一颯が言いたいことはそれじゃない。


「どうして俺は、諦めちゃうんだろうね、姉さん」


 そう呟いたのは、一九歳の今の学人だった。


 もう、幼子のように姉に手を引かれてはおらず、姉と同じように宙に足をつけて歩いている。


 今回の依頼――鏑木沙也の「自宅の二階に上がれない」という問題を、学人は心のどこかで放棄していた。


 もちろん、依頼を受けたのだから、それを完遂しないわけにはいかない。


 手を抜かずにやり遂げるつもりだし、そのために、片思いの相手の家に下宿するという、本来の自分だったら躊躇うような大きな決断もした。


 けれど、それを報告した時の姉の顔は、微妙な顔をした。


 学人が、下心があるような常識外れの「下宿」という選択をしたからではない。そんな常識を、一颯は持ち合わせてはいない。


 きっと、一颯には透けて見えているのだ。

 学人がすでに、何か大事なことを「諦めている」ということが。


 姉と共に、眼下の闇を見る。とぐろを巻く闇。

 あれに飛び込んだら、きっと自分は死んでしまうのだろうと確信できる絶望に満ち満ちた、学人たちの住む街を覆う闇。


 ――僕らは、それと共に生きている。


 だから、諦めるのだ。自分には、もうどうしようもないのだと。


 闇はすぐ隣にいて、いつでも牙を剥き出して、無力な学人のような人間たちを喰らおうとしている。そして、それをいつでも一颯がどこかで止めている。


 ――僕には、何もできない。


 学人は諦めている。


 だから、常人が見れば吐き気を堪えるか絶望に呑まれてもおかしくない闇を見ても、学人は何とも思わない。



 ――そう、もう、なんとも思えない。



「そうやって、何でも僕は諦めちゃうんだよ、姉さん」



 だから、姉さんが、全部やっつけてくれる?



 そう言おうとした瞬間、夢はぶつりと音を立てて途切れてしまった。


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