第112話

「うぅ……っ!」

 早寝早起き病知らずの俺だって、目覚めた瞬間に全力運転ではない。

 朝の夢心地なまどろみ楽しみつつ覚醒に向かうのだ。

 だが今朝は、明らかに何者かの気配が濃厚に漂い、それを許してはくれなかった。


 瞼を上げると目の前にはじっと此方を凝視するマルの顔があった。

 その手は俺の胸の上にあり、鼻息が顔にかかっている。

「おはようマル……どうした」

 眠気に目を擦りながら訪ねるといきなり。

『タカシ。マルの事お姉ちゃんって呼んでも良いよ』

 ……この馬鹿犬は、アムリタに対する姉の地位を失った代わりに、俺に対してマウントを取るつもりなのだ。

 呆れてものも言えないとはこの事だろう。


『……………』

『お姉ちゃんだよ!』

『マルは何歳だ?』

 マルの鼻のある顔から突き出した部分であるマズルを下顎ごとギュッと握りしめて問いかける。


『う? ……えっとマルはまだ一歳になってないから零歳?』

 嫌そうに首を振るも、俺が手を放さなかったのであきらめて答えた。

『そうまだ、生まれて一年もたってないベイビーだ。ちなみには俺は現在十四歳。分かるか、この積み上げて来た時間の圧倒的な違いが』

『……ま、マルが生まれてから過ごした時間の十四倍以上!? ……凄すぎる』

 その隔絶した時間の長さにマルは耳をピンと立てて緊張した顔をする。


『そうだ。兄貴は今年で十八歳。涼は十二歳。アムリタだって六歳だ』

『……もしかしてマルって一番年下?』

 

『ユキはマルより年下だから、マルの妹はユキだけだ……多分』

 ファンタジー世界の生き物だからもしかしたら成長が遅い種の可能性も捨てきれない。

『スズもマルの妹じゃないの?』

『妹じゃないな』

 無慈悲にそう告げる。

『マル。スズが妹だと思ったから沢山我慢したのに』

『もう怒っても良いよ。あいつは一度痛い目に遭うべきだ』

 マルに対しても傍若無人な……俺や兄貴に比べたら遥かに当たりは優しいが、生来の乱暴者である。

 そんな涼だけに、一度くらいガブリと噛まれて反省するべきだと思う。

『……分かった』

『でも手加減はして上げてね』

 本当に頼む。本気で噛んだら腕なんて千切れるから。


『ユキちゃん!』

 その後泣きながら、唯一の妹と呼べる存在でああるユキの元へと走るマルを見送りベッドを降りる。



 着替え始めたところで【伝心】が来た。

『おう、高城!』

 朝っぱらから一番聞きたくない相手の声に、温厚さには定評がある俺も流石に気分を害する。

 何だよ全くと心の中で吐き捨てながら応じる。

『おはようございます。そして朝っぱらから何だ?』

 取りあえず挨拶だけはしておく。大島にお前とは品格が違うと教えるために。


『すぐに早乙女さんを開放して、こちらに来させてくれ』

 何の見返りも提示せず、要求してくるとは流石に大島だ。呆れるを通り越して清々しい。

『何だピンチか? 死にそうなのか?』

 まあ、それは無いと思うが取りあえず煽っておく。

『どうにも手が足りねえ。このままじゃ面倒事が片付くのが予定より遅くなりそうだ』

 この野郎。そう来やがったか。一番痛いところを突いてきやがる。

『それにだ。もし二人で協力出来るのなら面倒事が片付いて、お前に協力して遣れるようになるのも早まるな』

 うっ……悔しいけどそれ魅力的。

 俺の苦悩を感じ取ったのか大島は畳みかけて来た。

『二人掛かりなら、単に二倍の働きが出来るだけじゃない。一番時間の掛かる移動時間を大きく削ることが出来る。それなら、もっと早く……あ? あ、あ~ぅ……』

『アムリタだ』

『そうそれだ。その餓鬼がお前の親の里子になる手続きも大幅に短縮する事も可能だがな』

 やる気だ。こいつ非合法的ルートで過程を踏んで、その結果を合法の範囲に収めるつもりだ……実に心強い!

 それにしても役人の買収か脅迫か? いや、そうじゃない政治家に伝手があるはずだ。しかもかなり上の立場の……この国はもうお終いかもしれない。


『どうする?』

 こいつは今、カナリヤを咥えた猫の様な表情を浮かべたメフィストフェレス。そんなクドイ表現が似合う顔をしているだろう。

 どうしたら良いんだ? 俺は一体どうすれば良いんだ。教えてくれDr.ファウスト!

『了解した。これから散歩に出て警察の尾行を振り切ってから解放する』

 ……ファウスト博士に答えを請うたのが失敗だった。奴はメフィストにノーとは言わないよと自分に言い聞かせる。

『分かった。解放したら連絡しろ』

 大島からの【伝心】が切れた。

 やってしまった感が強いが、決して目先の利益に飛び付いただけではない……本当に。


 すぐに何時ものトレーニングウェアに着替えて部屋を出る。

『マル! 散歩に行くよ』

『今行く!』

 そうは言っても、マルは胸元にユキを入れるバッグ付きのハーネスを取り付けるなどの作業は母さん任せなので、その間に洗顔と歯磨きをする。


「おはよう。それじゃあ散歩に行ってくるよ」

 母さんに声を掛けると、散歩の準備を済ませたマルの首輪にリードを着けて玄関から外へと出る。



 五月も今日を含めて残すところ三日となり梅雨の時期が近づいて来ているせいだろう、雨が少ないのが数少ない取り柄の一つであるS県友引市だが小雨が降っていた。

『雨だ! タカシ雨だよ!』

 マルは上機嫌で尻尾を振り、小躍りするかのようにはしゃいでいる。

『マル。今日は俺がユキを預かった方が良くないか?』

『何でっ!』

 いきなり牙を剥いて威嚇する。

『マルの為を思って言ってるのに、そんな態度とるんだ。あ~あ知らない』

『タカシは嘘を言っている。ユキちゃんをマルから奪いたいだけ』

 無視して、リードを引いて走り出すと、慌てる様にマルはついてくる。

 犬の散歩としてはかなりの速度だが、ギリギリだが「アスリートならあり得るよね」くらいのペースで走る事五分でユキの我慢が限界に達した。


「ニャ、ニャ! フィミャッ!」

 マルの胸元にあるバッグの中で暴れると止める間も無く脱出する。そして濡れた地面に毛を逆立てて「ンニャァー!」と一鳴きし、一目散に俺に駆け寄り、ジャージのパンツに爪を立てて駆け上る。

「痛いよ」

 そう言いながら、腰までたどり着いたところを左手ですくい上げて、首に巻いていたタオルで包んで拭いてからウィンドブレーカーの前を開けTシャツとジャージの間にタオルとごと入れてやる。

『ああっ! ユキちゃんが』

 マルが俺の胸に前足を突いて鼻先をウィンドブレーカーの中に突っ込もうとするが、マズルを握って遠のける。


『ユキは濡れるのが嫌なんだよ』

『濡れるのが嫌? マルはちょっと……かなり……大好きだよ!』

 自分が好きなモノは相手も好きであるに違いないという善意からの言葉なのだろう。


 キリストは言った。貴方がして欲しい事を相手にして上げなさいと。

 一方で孔子は弟子に教えた。貴方がして欲しくない事を他人にしてはいけません。

 どちらが正しいかなどは無い。どちらにしても、その場の空気を読む必要があるだけで、そんな事はキリストも孔子も分かっていただろう。

 そして空気を読めない馬鹿な子は自分の考えの正しさを全く疑う事無いのだ。


『マルがどう思うかはこの際関係ない。問題はユキがどう思うかだ』

『でもマルは……』

 耳を伏せて尻尾を垂らしながらもまだ抗弁するので止めを刺す。

『じゃあ、ユキが嫌がっても自分が好きなら良いんだな』

『でも、でも……』

『ユキのお姉ちゃん失格だな』

 未だ見た事の無い顔をするマル。まるでお笑い芸人の変顔の様な顔を犬がするとは思わなかった。

『お、お姉ちゃんに資格が必要だったなんて……』

『マルだって妹だと思ってたから、涼に乱暴な事されても怒らなかったんだろう』

『でも本当はスズがお姉ちゃんだった!』

 身を低くして悔しそうな唸り声を上げる。

『涼もお姉ちゃん失格なんだよ。だからマルが自分がお姉ちゃんだと勘違いしたんだろ』

『スズがお姉ちゃん失格なら、やっぱりマルがスズのお姉ちゃん?』

 絶望に満ちたマルの心の中に芽生えた。小さな小さな希望という花だが俺は容赦なく摘み取る。

『お姉ちゃん失格になっても妹にはならない。残念で頼りにならない。駄目な姉と蔑まされるだけだ。マルもそうなりたいのか?』

『嫌! スズみたくなりたくない!』

 俺はまた少しだけ自分の妹を可哀想だと思ってしまった……まあ九十九%は自業自得だなと思ってるけど。


『ずるい。タカシずるい!』

 俺の横を並走しながら此方を見上げながらずっと文句を言い続けるマルを無視して走り続ける事になった。



 しばらく走り、尾行する護衛の視界から逃れた事を【マップ】上で確認出来たので、右腕でマルを抱え上げ左手で服の上から胸元を抑え込むようにしてユキを支えると、土手から河原へと跳んで降りる。


 そして土手の上からは木々によって視界が遮られている場所を下流へと向かって戻る。

 そしてまんまと騙されて上流へと向かう護衛達に、ちょっと可哀想かなと思う優しさ……欺瞞である。

 はっきり言って、毎日のように護衛対象から撒かれ続けている彼等の評価は大変な事になっているだろう。

 しかし、彼等が監視役も兼ねている以上は俺も自分のプライベートを守らなければならないので……まあ頑張れとしか言い様が無い。



「ここは?」

 河原の石の上で一匹の熊が目を覚ました。

「お前か……大島はどうした?」

「大島なら、二日前にリリースしたんで我が世の春とばかりに好き放題してますよ……おかげで中国が内乱状態ですけどね」

 他人事の様に言っているが、リリースした俺の責任も重大だ。だからなるべき考えないようにしているのだ。


「……ちょっと何を言ってるのか分からない」

 熊こと早乙女さんっぽい何かは、考え込むような姿勢を見せたが、すぐに理解することを放棄した。

「すぐに理解出来たら怖いわ」


「なるほど確かに好き放題、やりたい放題だな……羨ましい」

 おっさん! 本音がだだ漏れだ。そこは嘘でも恐ろしいとかくらい言えよ。

「大島は手を貸せって言ってた。合流するもしないも好きにしてくれ」

 勿論、NOを選択する事は無いだろう。そして実際に無かった。


「よし! 今まで自重して来た事を好き放題にやってやる!」

 ああ、自重してたんだ……あれでも……あれでも。

 この今日の晩御飯はカレーライスだと知った小学生の様にはしゃぐおっさんを眺めながら、やっぱり世界は滅ぶと思った。

 そうならないためには、正義を為さなければならない……誰が? 何処かに正義の味方は落ちてないかな~



『高城どういう事だ!』

 櫛木田からの【伝心】であった。

『何で早乙女さんが解放されてるんだよ!』

 気づくの早いよ。

『今、大島のせいで世界が超大変な状況だというのにもう一発爆弾を放り込んでどうする気だ?』

『もう、穴掘って地下に逃れるしかねえだろ!』

 櫛木田の【伝心】が空手部三年に対するオープンチャンネル状態なので伴尾と田村からも突っ込みが入る。


『皆落ち着くんだ。高城君。君はこの状況を大島先生に委ねると判断したんだね』

『お前の理解力が怖い。勿論だ。昨日の今日で大島が早乙女さんの解放を求めて来たという事は、奴自身、この状況をコントロールし切れていない焦りがあるからだろう。本人はそんな事はおくびにも出していないつもりだろうがな』

『つまり、完全な無秩序な状況よりは、最低でも大島による統制が取れた状況の方がまだいいと言う判断というか諦めだね』

 完全にお見通しかよ!


『分かった。もう良いよ頭を使う事は兄貴と紫村に任せる事にする。俺は北條先生とキャッキャウフフする事に専念するよ』

『何を言ってるんだ高城?』

『遂におかしくなったか』

『高城も色々あったからな……色々あり過ぎたんだ。無理も無い』

 言いたい放題の三馬鹿だが、奴らは北條先生との昨夜の事は知らないし、何ら疑いすら持っていない。

 だが紫村は気づいているだろう。奴の目からは逃れる事は出来る気がしない。


『それじゃあ、僕は大島先生に情報を精査しつつ流しながら、僕なりにソフトランディングを目指す事にするよ』

『マジで頼む』

 世界の平和はお前に任せた。

『それは、柴村。お前だけが頼りなんだという事だね?』

『せめて情感は込めるのは止せ』

 世界は誰か一人の力で救われるようなちっぽけなモノではない……そう自分に言い聞かせた。



「それでだ。お前、昨日はインドを日帰りしたそうじゃないか」

「教えない」

 まだ旅立っていない奴が話を振って来たので最後まで言わせさせずバッサリ切り捨てる。

 しかし俺が三馬鹿の相手に時間を取られている間に、自分が【所持アイテム】内にストックされていた間の事は大島から情報を仕入れたという事だ。

 油断ならないというより自分の迂闊さを責めるべきだろう。

「せめて話を聞け」

「聞いても移動方法は教えねえぞ」

「……大島と取引したようだが、奴さんよりも俺の方が顔が利くぞ。幅広くな」

 大島よりも上手くこちらの弱点を突いてくる。その辺は先輩だけあって年の功というのだろう。

 だがしかし!

「あんたに伝えたら大島にも筒抜けだろ! どんだけ大島を可愛がってるんだよ」

 正直、あんなのを可愛がれるのは他に居ないだろう。実の親だって無理だ。

「まあ……そうだな」

 満更でもない様子で答えるおっさん熊に「しかし、あいつに伝えても熊には伝わらねえよ」とは言えなかった。

 可哀想だと思ったからではない。ここで大島との間に確執を生み出せば、状況のコントロールが大島の手から零れ落ちてしまうからだ。

 今の状況が落ち着いたなら「大島は、あんたを開放しない事に関して何の異存も口にしなかった」といってやろう。


 結局、奴らが使えるバージョンの一つ上を教えて追い払った。

 一つ上と言っても、最近は更新速度が落ちているとはいえ多い時は一日に数回アップデートされていたので最新版には程遠いので、恩は着せたがこちらの懐は痛くも無い。

 まあ、向こうが恩を着せられたという認識があるのか……いや、無いだろう……つまり痛み分けだ。



 家に帰って、タオルを持って来て身体を拭こうとした母さんの目の前でブルブルをかましたマルはガッツリ叱られた。

『……どうして? 今までお母さん怒らなかったよ』

 尻尾を股の間に挟み、耳を頭蓋骨に沿って張り付くように伏せたマルが、涙目でそう訴えて来る。

『今までは、言葉が通じなかったから叱っても理解出来ないと諦めていたんだよ』

『うう~、叱る前に駄目って教えて欲しかった』

『マル。本当に母さんが嫌がってたの分からなかったのか?』

『………………』

 マルは顔を背けると床の上で丸くなって寝そべった。

 こいつ悪戯感覚で楽しんでたな。

『よし、母さんに──』

 そう言いながら立ち去ろうとする俺の右脚を、両の前足で抱え込んできた。

 そして、悲し気に訴えかけるチワワの目にすら負けない表情で「きゅ~んきゅ~ん」と鼻を鳴らす。

『し、仕方ない。今回は黙っててやるからな』

 俺は弱い人間だ。



 木曜日だというのに今週二回目の登校。

 何だろう。もう登校したら負けの様な気がしてきた。

「高城。昨日は如何した? お前が病欠で休むなんて盲腸の手術でもしたのか?」

 教室に入るなり、挨拶も無しに意味不明な事を言ってくるのは前田だ。

「虫垂炎ならせめて一週間くらいは休ませてくれ」

「何を普通の人間みたいな事を言ってるんだよ。お前に一週間も休まれたら俺が困る」

「俺はお前の宿題係じゃない」

「宿題係だなんて……宿題係様だよ」

 殴った。話を聞いていたクラスメイト達ですら肯くほどなので、例え裁判で争っても勝ってみせる。



 俺が受けていない昨日の数学授業で出された宿題を前田の代わりに俺が解く。

 驚くべき事に、全部じゃなく前田が解けなかった二問だけだ。

 そう、以前なら全部俺の解答を丸写しだった前田が、五問中三問も自分で解いていた。しかも正解している。

 何という成長だろ。やれば出来るんだ。人間は変わろうと思えば変われるんだ。男子三日会わざれば刮目してみよだ。

 決して前田は腐ったミカンなんかじゃない──「高城早く解けよ、先生来ちゃうだろ」

 この子は腐ったミカンだ。エチレンガス注意報発令だよ。



 北條先生が教壇に立ちHRが始まる。

 何度見ても凛として美しい。

 その美しさの前に、月雲間に隠れ、花恥じらいて萎む……つまりだ。古の言葉を借りなければ俺には表現しようが無いくらいの美しさって事だよ。

 それなのに身の程知らずの十四歳の童貞風情が彼女に告白した。これが他人から聞いたのならば身の程知らずの馬鹿め笑い飛ばすだろう。

 そんな事を俺はしたのだ……冷静に考えれば考えるほど自分のやった事だとはとても思えない。

 一体どういう精神状態で、そんな決断を下したのか不思議でならない。

 だが、これは快挙だ。一世一代の快挙だ。俺にとっては過去の偉人や英雄達が成し遂げたどんな歴史的な快挙をも超えている。

 それほどの事を成し遂げた自分の勇気を俺は生涯の誇りとするだろう。


「なあ、先生……何かこっちへの視線を避けてないか?」

 自分の身体が震えようとするのを精神力で押さえつけた。

 間違いなく俺のせいだからだ。北條先生は「あの場の勢いであんな風に気を持たせることを言っちゃったけど、やっぱり無理よ。でも今更はっきりと断るのも……顔を合わせづらいわ」なんて考えているのかもしれない。

 自分の想像だが、あり得過ぎて心が痛い。


「お前また何かやったのか? 北條先生が視線を背けるとか余程だぞ」

 取りあえず動揺を抑えると後ろを振り返ることなく、全てを前田に押し付けた。

「俺のせいかよ」

「他の思い当たる理由が無い」

 という事にしておく。

「冤罪だよ。平成史に残る大疑獄だよ」

 後ろから俺の座席を蹴って来るので「犯罪者は皆そう言う」と返しておく。


「前田君。静かにしてください」

 北條先生から注意される。

 今までほとんど使い道が無かった【伝声】で、俺の小さな呟きをピンポイントで前田の耳元に送っていたので、傍からは前田が突然暴れ出したようにしか見えなかったはずだ。

「何で俺だけ?」

 当然ながら、北條先生を含め前田より後ろの席と俺の周辺のクラスメイトは「何を言ってるんだ?」と思ったはずだ。


「何その反応? 高城と話してたよね」

「何を言ってるんだお前?」

 そこで初めて後を振り返る。

「だって、また何かやったのかって言ったよね? 高城!」

 俺は残念そうに肩をすくめながら首を横に捻った。

「嘘だ! 皆、高城は嘘を言ってるよ……」

 そこで自分以外の皆が可哀想な人を見る目を自分に向けている事に気づいたのか顔を強張らせる。

「ど、どうして? 俺が間違っているのか……これはまさか」

 右手で自分の頭を指先を立てて掴み、大きく見開かれた前田の目には狂気の光が宿っていた……これはいかん。

「これは心霊現象!」

 別の意味の狂気だよ。オカルトに走りやがった。

「凄いと思わないか高城。本物の心霊体験だぞ」


 一同解散。

 一人で勝手に盛り上がる前田を無視し、手早く連絡事項を済ませてHRが終わったのは仕方のない事だろう。



 授業を終えると部員達と合流して学校を出て北條家へと移動する。

「主将。昨日はどうして学校を休んだんですか?」

 二年の中元が訪ねて来る。大島が居なくなって一番伸び伸びとしているのはこいつだ。

 そう長くない我が世の春を楽しんで貰いたい。本当に長くないから。


「体調不良だと言っているだろう」

「主将が風邪とか想像出来ません」

 そう言うのは同じく二年の岡本。思いっきりが良いのが取り柄だ。

「馬鹿は風邪ひかないんじゃないかと疑問らしいぞ」

 田村の言葉に俺が岡本に視線を向けると必死に首と手を左右に振る。それを見ながら余計な事を言った田村に「じゃあ、お前は疑い様も無く馬鹿だと思われている訳だ」と上げ足を取ってやった。

 田村が振り返り、目が合ってしまった岡本は「そんなこと言ってません」と言えば良いのに、焦っていたのだろう左右に振っていた首と手を二倍にスピードアップするのだった。


 そんな岡本に田村は満足気だ。

 乗っかった俺が言うのもなんだが後輩虐め格好悪い。



 北條家の門を通る前に日課なので道場の看板をココンっと人差し指の第二関節で二度叩く。

「やめんか小僧!」

 何処からともなく現れた爺が叫ぶ。その声は悲痛ですらあった。

「爺が俺の言いつけ通りにきちんと直したか確認しているだけだ」

「直しただろう。お前の言う通りにきちんと直し……だから叩くなと言っているじゃろっ!」

 再び看板を叩いた俺に激怒した爺は仕込み杖の刀の方の柄を握ると、解放金具に左手の人差し指を添える。

 やるというのならやってやるぞ、今度は木の繊維に沿って斬らせる様な気遣いは無い。木目に逆らって斬らせて修復不可能にしてやる」

 おっとまた口に出してしまった。

「小僧、お前は鬼の子か?」

「爺、お前には言われたくない」


 睨み合う爺と俺。

 一瞬の間に果てしなく繰り返されるシミュレーション。

 俺は爺に勝てるのか?

 技量と経験は俺を隔絶している化け物だ。

 だが技量も経験をも凌駕するのは速さだ。

 俺はスピード信者である。モットーは「速さは力」……よく別の事も言うが気にしない。

 単純に速度だけ相手を二割超越し、その速度を支配出来るのなら、戦いにおいてその他の要素は全て意味を失う……はずだ。

 しかし、大島達と同様、いやそれ以上に、この爺にも底知れない恐怖を覚える。

 【気】だけではない俺の知らない何かを幾つも抱え込んでいるような気がしてならない。



「お久しぶりです北條の御隠居様」

 三馬鹿どもでさえ割って入るのを控えるような状況を無視して声を掛けて来たのは、最近珍しいオーソドックスなセーラー服を着た俺よりも一つ二つ、もしかしたら三つ年上の少女。

 一見すると竹刀袋を手にしていること以外は妙に目力の強い女子高生なのだが……どこか北條先生に似ている? つまり美少女と呼んでも良いだろう。

「おうおう、東條とこの嬢ちゃんか久しぶりじゃな」

 俺に向けた警戒や殺気を些かも緩めることなく、女性に笑顔で声を掛ける。こういう器用な真似が俺には無い引き出しだ。


「それにしても御隠居様。この様な人通りのある場所で、あの様な……」

 そこまで言って口ごもる。

 命のやり取りを演じようとしていたなんて口には出来ないだろう。


 それは逆に俺と爺の間に交わされた殺気を読み取れるという事でもある……何者だ?

 そう言えば爺が「とうじょう」と呼んでいた。とうじょう……東上、東城、東条……東條! もしかして爺の親戚なのか?

 そして北條に東條という事は、南條も西條も居るのか? そしてそれぞれに独自の流派があるのか?


 いやいや、まさかそんな事はないだろう。もしそうだとするなら悲しいくらいマイナーな高城流柔拳術のみじめさが一層引き立ってしまうじゃないか。

 別に高城流柔拳術を受け継ぐ気は全くないが、仮にも一族の名前を看板にした流派に悲しさを感じてしまうのは仕方ないだろう。


「……そうじゃな。小僧命拾いしたな」

「そうじゃなじぇねえよ。別に人目のある場所でその仕込み杖で襲い掛かって来たのは初めてでもねえだろ。親戚の子供の前で良い顔したいのか? 孫娘に嫌わてる癖に格好付けるな!」

 物分かりが良い普通のおじいさんの様な態度を取ろうとしたのを俺が許すはずも無く、容赦なく煽る。

 むしろ爺が、俺がスルーしてくれるはずと甘えた事を考えていたのが理解出来ない。

 俺と爺は隙あらば噛み付く飢えた野犬同士の様な関係だというのに。


「儂は弥生や皐月に嫌われてねえ!」

 爺、仕込み杖の鞘を払うと細い刀身を活かして真っ直ぐに喉元を突いて来た。

 しかし余りに痛すぎる図星を突かれて我を忘れたのだろう。そのタイミングと動きは完全に俺の予想と一致していた。

 分かるぞ爺。俺だって北條先生に嫌われたらと思っただけで立ってすらいられなくなるだろう。


「だが、またさようならだ」

 俺の喉元へと走る電光石火の一撃は、的を捉える十センチメートル手前で、俺の交差した左右の掌底によりその刀身を二つに折られている。

 これで通算二度目の爺の仕込み杖との今生の別れであった……まあ、どうせ第三、第四の仕込み杖が現れるのだろうが、何度現れようがさようならしてやる。喜んでな!


「何っ!」

 爺は愛用の仕込み杖の最後に悲鳴にも似た声を上げるが、本当の悲劇はその後に訪れる。

 カツ! という乾いた音に目を向けた爺が目にしたのは、道場の命とも言うべき看板に突き刺さる仕込み杖の折られた刀身の切っ先側だった。

 そして当然だが、偶然ではなくそうなる様に仕向けたのだった。



「ああああぁぁあぁっ!」

 心を折られた者の悲痛な叫びだった。

「さあ、遊んでる暇はない部活だ。さっさと入って準備するぞ」

 その叫びには何の感傷も覚えず、むしろ清々した気持ちで門を潜って中へと入ろうとする。

「お待ちなさい! 武士の魂である刀を折り。道場の命ともいうべき看板に傷を付け、何食わぬ顔で何処へ行こうというのですか!」

「俺は武士じゃないし爺も武士ではない。そもそも武士なんてものは既にこの世には存在しない。万が一にも爺が武士だという証明がされたとしても、その魂が折られた以上は既に武士として死んでいる訳なので、やはり現段階では武士ではない」

「えっ……え? ちょっと待って下さい」

 余り頭の回転は宜しくないのか、俺の適当なロジックを、計算問題でもないのに何故か指折り数えながら追いかけ始めた。


 ……どうやら長くなりそうなので、邪魔しないように静かに退散する事にする。

 目配せだけで皆は俺の意図を理解したのか、何かぶつぶつ言いながら頭を悩ませる女性を置き去りに、無言でその場を後にするのだった。


「結構美人だったよな」

 着替えながら伴尾が鼻の下を伸ばしながら言う。

「だが俺は皐月さんから、美人だったら何でも良い訳じゃないという事を学んだから」

「貴重な体験だった。この世の真理の一端に触れた思いだ」

 美人と残念は両立するという悲しい事実に触れた事で、俺達は大人の階段を一歩上ったのだ……別に上りたくも無い階段だが。


「ここかっ!」

 突然、薙刀道場の扉が勢い良く開かれる。当然その向こうにいたのは噂の残念な美人さんだった。


「キャーッ! 変態! 痴女!」

 敢えて普段よりも野太い声でそう叫んでやる。

「いやー! なんて大胆な覗きなの!」

 そうなれば人生ノリだけで生きているところもある田村は黙ってはいなかった。

「見ないでエッチ!」

 そんな事を言いながら隠す素振りを見せるどころか、むしろ進んで己の鍛え上げられた肉体を見せようと扉の方へ肌蹴てみせる伴尾。

 やり始めたのは俺だが、やはりこいつらアホだ……そして決して嫌いではない。つまり類友という奴だ。


「し、し、失礼しゅました!」

 顔だけでなく耳まで真っ赤にして、そう叫ぶと開いた時の倍の速さで扉を閉めた……壊れるぞ。



「や、やあ。着替えは済んだのかな?」

 五分後、何事も無かったかのように扉を開けて入って来る残念さん。まだ紅潮した顔が彼女の努力を裏切っている。

「また覗きに来たのか痴女め」

「痴女じゃない。覗きでもない! ……って何でそんな恰好をしている。それじゃまるで空手着みたいじゃないか!」

「我々は近所の中学の空手部の部員だよ」

「……か、空手部? 何で! 北條流は何してるの! ……じゃなくて中学生!? こんな強面の中学生なんて聞いた事無いわ!」

「失礼な。うちにだってイラっとするくらい爽やか系のイケメンもいるぞ」

 横にいた紫村の肩を掴んで、前に突き出す。


「えっ、イラっとしてたの?」

 そこで紫村が素で驚く。

「そこは突っ込むな非イケメンの僻みなんじゃ!!」

 魂が叫びを上げた。

「高城と違って非イケメンじゃない俺は別に僻んでないぞ」

「俺も!」

「勿論、俺も!」

 三馬鹿共は速攻で裏切りやがった。

 しかし隆は。どう見てもイケメンではない自分を非イケメンじゃないと強弁する彼等の胸の中に去来する感情を慮ると腹が立つよりも胸が切なくなるのであった」

「だからナレーションは心の中だけにしておけよ!」

「だが言葉にしなければ伝わらない想いがあるだろ」

 俺は人として、言葉で伝える事の大事さを説く。

「それ、こういう状況で使う言葉じゃないし!」

「ああ、もう面倒臭いな~」

「とうとう面倒臭いと言い出したぞ! どうするんだこれ?」



「うるさい! そんな事はどうでも良い! 近所の中学の空手部員が、ここで空手着を着て何をする気だと聞いているのです!」

「お前は。空手部員がこんな格好して空手の練習をせずに、暗黒舞踏の練習をするとでも思ってるのか?」

 YESなら、一体俺達を何だと思っているのかとことん問い詰めたい。

「そうではありません! どうして空手部がここで練習しようとしているか聞いてるのです!」

「個々の前は近所の運動公園だったし、単に流れ流されてここにたどり着いたとか」

 俺としては「毎度おなじみ流浪の部活。友北中空手部です」と言っても良かったのだが。


「学校の部活が何故校外で活動してるんですか?」

「それは顧問が今までの自分の生き方に疑問を抱いて新しい自分を探す旅に出たために無期限活動停止状態だからです」

「それなら部活動を休めばいいでしょう」

「ふっ、惰性でやってるような、にわか剣道娘が言いそうな戯言だな」

 多分、俺の空手歴よりこの女の剣道歴の方がずっと長いだろうが、煽りに理屈は不要だった。

「にわか? この私をにわか呼ばわりしたか」

「簡単に修行を止めろと言い出すお前は、余程のにわか。そうでなければ他人との共感能力が欠如した精神分析で自己中心的とか自己愛が強いとか書かれる自己○○女だよ」

「……好き放題言ってくれるじゃないか?」

 口調が変わった。彼女の発する怒気に被っていた猫が慌てて逃げ出す様子が目に浮かんだ。

「ほう、違うとでもいうのか?」

「独善的と言われても自己中心的だなどと言われた事は無い」

 一斉にずっこける。

 彼女の己の身を削った渾身のギャグに、人としてリアクションで応えない訳にはいかなかったのだ。



「久しぶりね美椿(みつば)ちゃん」

 声だけなら少女の様な透明感のある声。俺はこの声が背筋が凍るような冷たさになる事を知っている……爺に対して。

「奈緒子様。お久しぶりです」

 現れたのは北條先生の祖母の奈緒子さんであった。

 正直、爺とは性格的にアンマッチ過ぎると思うのだが、それでもこの歳まで連れ添ったのだが男女の関係は分からないものだと思う。

「ここで何をしているのですか? 皆さんの練習の邪魔をしては駄目ですよ」

「邪魔なんてしていませんわ」

 一斉に猫が集まって来て彼女の頭や背中がおすなおすなの大盛況状態の様子が見えたのは気のせいじゃなく【気

のせいだろう。

「ごめんなさいね。私の姪孫(甥・姪の子供)がご迷惑をおかけして」

「迷惑などかけていません」

 何故お前が言うと口にしなかった事は褒められるべきだと思う。


「本当にごめんなさいね……美椿ちゃん。この子達は弥生の教え子達よ、とても良い子達なのだけど顧問の先生と他の先生達との間が上手くいってなかったようで、顧問の先生が辞めてから色々とあったみたいなの」

「ですが……」

「この子達はとても真摯に武に向き合っているわ。例え流派が、目指す道が違っていようとも、前を向いて道を進もうとする者に私は手を差し伸べたいわ」

 目頭が熱くなる。眉間に力を入れて耐えなければ涙が零れていただろう。

 空手部に所属して、こんな言葉を掛けられた事があっただろうか? いや無い。


 泣くな櫛木田。泣くな田村。泣き過ぎだ伴尾。そうしてお前は泣けよ。クールすぎるぞ紫村。

 二年生は泣き崩れてしまう。今までの自分達がやって来た事をただ純粋に認めて貰えた事に打ち震えている。

 一方で一年生は上級生達の様子に困惑するだけで今一まだ理解出来ていない。

「そうか……まだ分からないか……分かるようにしてあげた方が良いな」

 そう小さく呟きながら、訓練の質を一段階上げてやろうと決意したのだった。



「でも……」

「不満ならが立ち会ってみなさい。私達は所詮は言葉ではなく、実際に立ち会ってみなければ理解出来ない武張った不器用者です」

 いいえ、別に立ち会わなくてもちゃんと言葉でも分かり合えますよ。人間だもの……



「別に俺が相手しなくても良いだろう?」

 はっきり言ってレベルアップの恩恵無しの三年生部員とでは【気】が使えてもどうにもならないほど力量の差がある。

「俺にはお前に負けた美椿さんを慰める役目があるから」

「いや、その役目は俺のモノだろ」

「お前等ではそのチャンスを活かせない。俺に任せろ」

 相変わらずの馬鹿どもである。

 少しでも自分にチャンスがあると思っているのが憐れだ。

 一方、柴村は彼女に全く興味を示さない。こっちも相変わらずだ。


「香藤。お前が相手をしてやれ」

 香藤ならレベルアップの恩恵無しなら、彼女と良い勝負だと思う。

「僕は女性と立ち会うのはちょっと……」

 いや、俺だってそうだよ。


 そんな俺達のやり取りを美椿は不満そうに睨み付けている。

「あんたが部長なんでしょ。あんたが立ち会いなさいよ」

「良いから猫を被り直せ」

 こういう強気な女はもうお腹一杯だ。癒しが欲しい。癒して欲しい。例え猫をてんこ盛りで被っていても良いから癒しが欲しい。無いよりはずっとましなのだから。


「失礼ね。猫なんて被ってないわ」

 何を言ってるんだこいつは?

「何を言ってるんだこいつは?」

 思った事をそのまま口にした俺に罪は無いと思う。


「何よ失礼ね!」

「事実が失礼に当たるとするならば、それはお前が自分自身に対して失礼な……真摯に向き合っていない証拠だ」

「?」

「だから何言ってるのこの人。みたいな顔をするな! 俺は特に難しい事は言ってない」

「しんしってジェントルマンの紳士?」

 想像以上の馬鹿だ。

 待てよ、凄い馬鹿と女子高生とオーソドックスなセーラー服の組み合わせとなると……大明日(ダイミョウニチ)女子高等学校?

 体育科があり、解答用紙に自分の名前さえかければ頭の程度は考慮されないとされ、全国から集められたフィジカルエリート集団として高校女子スポーツシーンでS県どころか全国に名を轟かせる超弩級の馬鹿集団。

 何せ授業を受けずに、ただただ己の競技の練習だけに毎日を費やす様な他のスポーツ名門校からも「あれはやり過ぎ」と言われるそうだ。


「もしかして、お前は大明日女の?」

 俺の言葉に美椿は「ふふん」と鼻を鳴らすと、意外にある胸を張り「大明日女剣道部エースにして、去年のインターハイ個人優勝の東條美椿こそが私よ!」と告げ、ドヤ顔でこちらの反応を伺うので。

「悪い。剣道に興味ないから知らない」と本気で申し訳なく見える様に応えた。


「うがぁぁぁぁっ! 北條流の道場に来て、剣道に興味が無いで済むか!」

「はっきり言って、うがぁぁぁぁっ! と叫ぶ女って無いわ」

 ちなみに女どころか人類でそう叫ぶのは妹の涼の他に俺は知らない。

「そこじゃねえっ!」

 そして地団太を踏む女もどうかと思うのは俺だけではないはずだ。


「美椿ちゃん」

「は、はい!」

 奈緒子さんの菩薩の様に穏やかなはずのお顔の眉間には、くっきりと縦皺が刻み込まれている。

「もう少しお淑やかにしましょうね」

 これは言葉通りの提案ではない。ハイかイエス以外の返答は許されない強制に他ならない。

「えっ、はい」

 しかし、そう答えた美椿の顔には納得した色が無い。素直じゃない悪餓鬼が叱られた時の表情だ。

「那深恵(なみえ)にもちゃんと伝えておくわね」

「お婆様に? そ、そ、それだけは!」

「他にもしっかり勉強もさせる様にと伝えておくわね」

 その言葉に、膝から崩れ落ちると「終わった……終わっちゃったのね、私の青春」と呟き項垂れた。



「それでは練習を始めても良いでしょうか?」

 奈緒子さんに伺い立てる。

「ええ、お邪魔して申し訳あ──」

「待ってください奈緒子様。このままでは、このままでは終われません。何卒、立ち合いだけは立ち合いだけはお願いいたします!」

 妙に慣れた感じの土下座だった。嫌だな土下座に慣れるような人生は。



 流石の奈緒子さんも疲れたように小さくため息を漏らす。

 そして俺達に向かって「申し訳ありませんがどうかお願いします」と頭を下げられてしまった。

 お世話になっている彼女に頭まで下げられては断る訳にもいかない。

「どうかお顔を上げて下さい。分かりました立ち合いましょう」



「竹刀で良いのか? 木刀でも真剣でも構わない。何でもいいから好きな武器を使って構わない。まあ当てるのが目的なら軽い竹刀が一番か」

 竹刀を手にした美椿にそう告げる。

「ふん、東条流の剣士が手にした以上は竹刀だろうが刃を持つと知れ」

 確かに【気】が使えるのだから間違ってはいないが、それも全ては「当たらなければどうという事も無い」

 俺の挑発に簡単に頭に血が上ったようだが、そこは仮にもインターハイ個人戦の覇者であろう。

 すぐに呼吸を整えて冷静さを取り戻した。


「始め!」

 奈緒子さんの声と共に俺は前に出る。

 美椿は一瞬戸惑う。リーチの短い俺が一度下がって間合いを取ると思っていたのだろう。正面から前に出た事が彼女のセオリーから大きく外れたために隙を見せてしまったのだ。

 突くか、リーチを活かして退きながら打つか? だがそれらの選択肢は既に手遅れであり、俺は素早く左腕を伸ばして竹刀の剣先を掴み取った。

 当たり前の事だが、位置的に剣先と俺の身体との距離よりも、俺の手と剣先との距離の方が近いのだから、一瞬でも躊躇えば必然的にこの結果になる。


「くっ!」

 剣先を握られてしまった竹刀は引く押すもかなわず武器としての意味を失ってしまった。

「続けるか?」

 どうあがいても勝負は既についている。

「放せ!」

 この状況でも諦めないのは立派だが、これはただの甘えだ。

 放せと言われて自らの優位を手放すはずが無い。東条流とは随分と甘ったれな流派の様だ。


「可愛く放してくださいと言えば手を放すかもしれないぞ」

 嘲笑交じりでそう伝える。

 勿論、この女の可愛さなど顕微鏡を使おうがMRIを使おうが見つける事は不可能なので無理だが。

 そして答えを出せない美椿に変わって奈緒子さんが「それまで」と戦いの終わりを告げた。



「納得出来ません!」

「納得しようがしまいが美椿ちゃん。貴女は負けたのよ」

「でも──」

「死者に口なし。敗者に語る資格なし。負けて死なずに済んだのだから、黙ってこの敗北を受け入れて明日の糧にしなさい」

 俺の中で東条流<<(越えられぬ壁)<<北條流という図式が構築された。

「うぅぅ……」

 美椿の目から涙が溢れる。べ、別に俺は悪くないよな!



「それにしても高城君も意地悪ね。もう少し分かり易い負け方をさせてくれると期待していたのですが?」

「申し訳ありません。でも彼女はそれでも負けを素直に受け入れるとは思えなかったもので」

「……そうかもしれませんね。那深恵ったら孫にちゃんと教えてないのかしら?」

 口元に人差し指の先端を沿えて、少し首を傾げる姿は可愛らしさすら感じたので、少しからかってみたくなったので、一言「皐月さん」と口にする。

 すると効果は覿面で、奈緒子さんの目が泳ぎ出す。

「や、やっぱり孫の教育は子供達の責任よね!」

 あっさりと責任放棄。

 いや、確かに孫の教育は親の責任だけど、その親の親は貴女だよ。



「もう一戦、彼女に機会を与えるのはどうでしょう? 二年の香藤となら、もう少し分かり易い負けを出来ると思いますよ」

 奈緒子さんを追いつめても絶対に良い事は無いので話を逸らした。

「もう一戦するなら相手はお前だ! 次こそは倒す!

 俺の言葉に復活した美椿がそう叫ぶ。

「言っておくが、俺ならあと百回くらいお前に何もさせずに勝つための方法があるぞ。お前が泣いてもう許してくださいと言うまで延々と勝負するか?」

 百回は嘘だが十回くらいはすぐに思いつく。


「わ、分かった。その二年生の相手をしてやろう!」

 その言い様に俺は切れた。香藤は俺と戦ってもあんな無様な負け方はしない。

 そもそも実力、知能、人品全てにおいて香藤に劣る格下の分際で何様だ。

 美椿を睨み付けると「吠えるな。相手をしてください香藤さんと頭を下げろ負け犬が!」と怒鳴りつけていた。

 同時に叩きつけられた【気】によって打ちのめされて呼吸すら出来ない美椿の胸倉を掴みそうになったが、セーラー服の相手の胸倉を掴んで吊し上げるようものなら、裾が大きく持ち上がって俺の社会的立場が失われる可能性が高いのでやめた。


「お前……もしかして使えるのか?」

 そう言われて【気】以外にありえないだろう。

「だったらどうする?」

「何故使える!」

「美椿ちゃん。この子達は鬼剋流の大島さんの教え子なのよ」

 大きく口を開けたまま固まった後、何とか言葉を紡ぎ出す。

「お、大島……って、下の名はしゅん……さくとか?」

 奈緒子さんが小さく肯くと、顔を青褪めさせてがくがくと身体を震わせ始める。

「もしかして……私ってレイプされてソープに沈められるとか? いやよ!」

 震える両腕で自分の身体を抱きしめて涙ながらに訴えてくる。

 おい、一体どういう誤解が生じてるんだよ。冤罪だよ! 巨大な闇の組織が俺達を嵌めようとしているよ!



「美椿ちゃん。私はこの子達を良い子だと言ったはずよ。失礼は許しませんよ」

 失礼というより名誉棄損だよ。

「だって……だって空手部って友北中空手部だなんて聞いてないもの」

「おかしいわね。弥生の赴任先は友引北中学校だって知っていたはずよね?」

「……そう言えば!?」

 これには流石に奈緒子さんも頭を抱えるしか無かった……まあ、妹の孫への教育を責めれば、皐月というブーメランが自分を直撃するしね。あれ?


 自分の思い付きを奈緒子さんに耳打ちする。

「彼女には文武両道で品行方正な姉か妹がいてバランスがとれているという救いは?」

「……いいえ」

 尋ねた自分が申し訳なく思うほど残念そうに答えるのであった。



「結局また俺が戦う訳ね」

 紫村を除く全員直立不動で、視線だけは絶対に合わせない。

「こういう時ばかり仲良いなお前達」

 直立不動は崩さない。ただ視線の泳ぎっぷりはクロールからバタフライへと運動量を増している。

「憶えてろお前等」

 櫛木田、田村、伴尾の三人はニヤニヤと笑い。下級生達は狼狽する。

「二年生と一年生は良い。気にするな……多少練習がきつくなるだけだから、気にせず練習に励め」

 俺の言葉に彼らは地面に膝をついて歓喜の涙を流す……うん歓喜だ。歓喜以外ありえない。

 ついでに言うと、しばらく後に「ちっとも多少じゃない!」と再び涙するだろう……勿論、歓喜の涙だ。

 この寛大な処置は、香藤を除いた二年生では美椿には勝てないからだ。

 心技共に二年生達なら美椿を上回るが、【気】を使われたら勝ち目はないだろう。

 レベルアップの恩恵無しでは香藤でもギリギリ勝てるかといったところだ。それくらいに【気】を使えるという事は戦いにおいて大きなアドバンテージを得る事になる。


「そして三年生と香藤は……本当に憶えておけよ! 特に櫛木田。田村。伴尾はな」

「何で俺達だけ特別扱い?」

「それは君達が特別な存在だからです」

「何故、ヴェ○ター○ オリジナル?」

「知るかボケ!」

「自分で言って自分で切れる理不尽さ」

「酷すぎる!」



 またもや立ち会う事になってしまい、やる気の無い俺に対して美椿にやる気があるのかといえば……

「剣道三倍段。剣道三倍段。剣道三倍段!」

 そんな文言を呪文の様に唱え続けるている。それくらいしか縋る事が出来るものは無いならやめろよ


 だが俺は容赦なく、僅かな希望の芽すら摘んでいく。

「ああ、それって何の根拠も無いから」

「えっ?」

「そもそも空手は、無手同士が戦うのが目的じゃなく、武器を持った相手に無手で勝つための武術だぞ。そんな差があるはずねえだろ」

「えぇぇっ!」

 これは事実だ。スポーツ化して無手同士の戦いしか想定していない現代空手ならともかく、無手で【鬼】と戦うのを目的とした鬼剋流の流れを汲む俺達が武器を持った相手は苦手なんですぅ~なんて甘っちょろい事は有り得ない。

「三倍段って話は、武器として刀より薙刀の方がそれくらい有利だよねって話が先にあって、それが創作の中で改変して剣道三倍段ってお話がつくられただけだぞ……そうですよね?」

 奈緒子さんに尋ねると、とても良い笑顔で「私もそのように聞いています」と答える。薙刀使いだけあって誇らし気ですらあった。

「えぇぇえぇぇぇっ!」


「前提条件が違うんだよ。こちらは相手を選ばず戦えるように仕込まれているが、剣道どころか剣術でも、無手の相手との戦いなんて大して重視してないだろ」

 美椿の顔色が今までにないほど白い。



「まあ、良いぞ。お前が先程の負けを納得出来ていない事も考慮して、三分間攻撃しない。その間、好きに攻撃してみろ。武器を持つというデメリットを教えてやる」

「上等だ!」

 その後三分間、道場の中だけではなく北條家の敷地内を走って逃げ、疲れ切った彼女から竹刀を奪った。


「納得出来るか!」

 肩を上下に揺らしながら叫ぶ。百メートル走の勢いで三分間走ったせいだ。そしてそうなる様にペースを配分して走ったのだ。


「だからデメリットを教えてやると言っただろ。普通に走るより邪魔な竹刀片手に走ればバランスも崩れて速度も遅くなるし無駄に疲れる。道理じゃないか」

「道理じゃない! 何でお前は普通に立ち会わないんだ? 何故だ? 教えろ。教えてくれ!」

 実に痛いところを突く。そうか遂に、それを話すべき時が来たのか。


「俺が真面目に戦う。圧倒的、一方的、そして必然的にお前はコテンパンに負ける。心が折れる。子供の様にみっともなく泣き喚く。空気が悪くなる。何となく俺が悪いって雰囲気になる。繊細な心を持つ俺ちゃんは他人に嫌われるのが大嫌だった。以上だ」

 俺だって人並みに、女子供に泣かれるのは嫌だ。甲高い鳴き声は動物を本能的に不安にさせるだろ。


「誰が子供の様に泣き喚くか! 大体、何故負ける事が前提なんだ」

「えっ! 俺に勝てる要素が少しでもあると思ってたの?」

 正直、驚いた。そもそも竹刀を持ってたにしても追いつけず、一度たりとも、それを振る事すら出来なかったのに何で?

 もしかして、これは空手部だけの基準で普通では通用しないのか?

 空手部において重要視されるのは体力だ。ほら体力さえあれば厳しい練習にもついていけるだろ。

 つまり、体力が二倍あれば二倍練習して二倍強くなる……だから先ずは徹底的に走らせて体力をつけるさせる。即ち体力とは強さのバロメーター。

 おかしいのか? これって間違ってるのか?


「高城君。ただのスポーツの枠組み。ルール上の勝敗だけで完結している者達にとって体力は、必ずしも絶対的な価値を持たなないんだよ」

 今回は一言も口にしていないのに、勝手に俺の心を読むなよ!

「それじゃルールの外ではどうなるんだ?」

「種内淘汰の為に無駄に肥大した角を持つヘラジカの雄は、雌との繁殖には優位に立てるけど、種外淘汰。つまり外敵との戦いに際しては肥大した角は武器として作用するどころか邪魔となって命を失うんだよ」

 ルールの中では強くなる半面、ルール無用の戦いにおいてはそのスタイルが足枷になるという事だ。

「結局こいつのは道場剣法ということか」と俺が吐き捨てると紫村は小さく肯いた。


「誰が道場剣法だ。東条流を馬鹿にするな!」

 激高するのを無視して奈緒子さんに「北條流と比べて東条流は?」と尋ねると、沈痛な顔で首を横に振る。

「奈緒子様!」

「だから安易な拡大路線は駄目だと私は言ったんですよ。我々の流派の目的はそういうものでは無いと」

 どこかで聞いたような話だ。最初は何故かほうとうの思い出とリンクし、最終的に高級焼肉の味にたどり着く。そんな記憶のほつれ……きっと大した話じゃない。所詮はほうとうと焼肉のおまけの様な出来事だろう。


「やっぱり道場剣法じゃねえか。道場流、東條剣法?」

「止めろ! 変な呼び方するな! 泣くぞ、お前が引くくらい泣いてやろうか!」

「ならば俺はその姿を撮影してネットに流す」

「………………マジで?」

「無論だ」

「………………マジで人でなし」

「褒めてくれてありがとう……さあ泣けよ」

 携帯のカメラを起動して構える。

「さあ!」

「泣けるかバーカッ!」


「随分と仲が良いじゃないか」

「何でお前が女子高生とイチャついてるのを俺は見せられてるんだ?」

 櫛木田と田村が文句を言ってくる。

 幾らモテないからってこれでも良いの? 外見はともかく内面は控えめに言って……いや、喜んでこいつらに押し付け……ではなく譲ろうではないか。

「何だお前等羨ましいのか? 何ならかわ──」

「そうだ。イラっとするのに全く羨ましくないとかどういう事だ?」

 伴尾……お前、正直すぎるだろ。


「だったらお前等が相手してやれよ」

 そう話を振ると「さてと、一年、二年そろそろランニングに行くぞ。高城いつまでも遊んでないで、さっさと決着つけて合流しろよ」と言って櫛木田は急いで道場を出て行く。

 下級生達も面倒事に巻き込まれるのは嫌なのだろう、そそくさと櫛木田の後に続いて出て行った。

「おーいっ!」

 呼び止める俺の声が空しく響くだけで、一瞬の遅滞も無く進む軍隊の行進の様だった。


「人望無いね~」

「ほっとけ!」

 最近は大島という天敵がいない分、大島の横暴から部員達を守る頼れる主将という構図が解消されつつあり、同時の俺の人望の低下が著しいのだ。

「へえ~気にしたんだ。無神経な事を言ってごめんね~」

 全く謝意は感じられない。

「よし分かった。本気で戦ってやろう。お前の心を完全にへし折ってやる」

 俺の顔に浮かぶ素敵な笑顔に感激して美椿は黄色い悲鳴を上げる……特に嘘は言っていない。本当だ。



「今度は竹刀を掴まないから存分に掛かって来い。お前に自身の無力さを思い知らせてやる」


 正眼の構えから摺り足で間合いを探る様に距離を詰めて来る。

 剣道、剣術において刀の動きには左程自由度は無い。

 金属製の刀を用いる事を前提としているので、それを振り上げて振り下ろすという動作には初動の段階で何処に振り下ろすのかは決まっており、それを大きく変える事は出来ない。

 更に自由度を狭めているのは刃筋を通すという大前提があるのが原因だ。


 刃を持たない棒術の類は、長い短いの差はあっても刃筋を通す必要ない分自由度が高くなる。

 そうとはいえ、棒術に限らず空手であっても本来の狙ったラインから逸れれば逸れるほど打撃は力を失う。

 しかし、素手の場合は相手に触れる事さえ出来れば、大島や父さんほどで引き出しは多くないが、そこからはやれる事は幾つもある。


 しかし剣道、剣術同士で戦うなら、そこは問題化しない。互いにその事は理解した上で、その先の攻防で勝敗を決めるのだから。

 だが、こちらにはそんな常識に従う必要はない。相手には無手に対して武器を持つという強みがあるのだから、無手に対して武器を持つ弱みを攻めるのは当然の事なのだが、まあ今回は避ける事だけにしておく。



 鍛え上げられているが実戦経験の無い素直な太刀筋。

 故に大島から教えられた剣術使いを相手にした時の対処法から一歩もはみ出る事無く見切る事が出来る。

「何故だ!?」

 打ち掛かる事十度を超えてなお、惜しいと思えるような場面も無く焦りが美椿の剣を鈍らせていく……最初から鈍いんだけど。

「言っただろう。此方はお前達武器を使う武術は研究し尽くしている。そしてお前達は此方に関しては精々、通り一遍の知識しかない。つまり敵を知らないお前は戦う前から負けているんだよ」

「くっ、当たれ! 当たれ! 当たれっ!」

 俺の言葉にやけになったのだろう更に手数と速度を上げるが、逆に動きは単純で読み易くなっていく。


「例え冗談でも、この程度の一撃を貰うなどしたら、どれほど恐ろしいしごきが待っているのか分かるか?」

 戦いの駆け引きも無く、自分が最も良いと思う形で気持ち良く技を繰り出す。

 スポーツ化された剣道だからこそ、ルールの中で様々な駆け引きが行われるはずなので、これでインターハイを制したというのはそれなりの技量があるという事なのだろう。

 しかし、これなら大島が練習中に振り回す、壊れて剣道部が廃棄した先がささら状に割れた竹刀の方が遥かに速く、鋭く、繊細で、厭らしい動きを見せる。


「うるさい! うるさい! うるさいっ! ぐぁっ!」

 雑になり始めた上段からの一撃を左の裏拳で弾き返すと、太刀筋がずれた竹刀の切っ先が自身の右足の親指を直適して爪を割り、痛みに動きが止まったところを、竹刀を両手ごと下から蹴り飛ばす。

 そして床を転がる竹刀を視線で負う美椿に「どうした。もうあきらめるのか?」と挑発の言葉を掛ける。

「くっ!」

 身を翻し、床の上の竹刀に手を伸ばすのを後ろから尻を押すように蹴り飛ばした。


「いきなり、こちらに背を向けるとは随分と余裕だな」

「うぁ……あ……あぁ……」

 転んだ時に受け身も取れず、胸を強く打ったのだろう呼吸が出来無く苦しんでいる……胸を強打するととても苦しい。良く分かります。

「さっさと竹刀を掴んで立ち上がれ」

「ぐぁ……く、くそっ!」

 胸を抑えていた右手を伸ばして竹刀を引っ掴み、素早く身体を捻る様にして立ち上がろうとする美椿の額を俺の左足の踵が捉え、軽く突き飛ばすとバランスを崩して後ろへと転がる。

「状況を考えずに、ただ立ち上がろうとするな。リングに戻ろうとするプロレスラーだってちゃんと考えてるぞ」

 奈緒子さんが「何故プロレスで例えるの?」と呟いたが無視する。


 結局、美椿は立ち上がろうとする度に床の上を転がる事になり、その数が十度を超えると奈緒子さんが彼女の負けを判断を下した。

「この程度の事なら、空手部の三年生は全員出来るからな。二年生でも次期主将の香藤なら出来る程度だから、安心して、自分の無力さを実感して落ち込め。もう自分には才能が無いと絶望して剣の道を捨てるのもありだぞ。この程度で心が折れるなら、どうせ先には進めないから」

 美椿がこの先の領域に踏み込むとしたら、余りある程の天賦の才に恵まれるか、決して折れない強靭な精神を持つか、強制的に追い込まれるかの三つしかないだろう。

 前の二つには当てはまらない様だし、かといって最後のは、それが本人にとっての幸せへと繋がる選択肢だとは思えない。

 別に武術の腕を磨いて強くならなくても人間は幸せを得る事は出来るはずだろう。


「嫌だ! 剣の道を捨てるなら、私の今までの人生は何だったというんだ!」

「自分に相応しい道を見つけるための寄り道?」

 所謂、自分探しの旅を自宅で実行していたようなものだ。お手軽で素敵やん。

「疑問形は止めろ。私は真面目に話してるんだ!」

「まあ、自分を追い込むな。たかが棒っきれを振り回すのが上手いかどうかなんて趣味にしておけばいいだろ? 迷ったなら暫くは放り出しておいて、他の何が出来るかゆっくり探してみろ。それでも剣の道に立ち返りたいと思ったならやり直せ」

「そんな一度止めて、また簡単に戻れるようなものじゃない!」

「そうか? 中学に入って空手部に入部するまでは、殴ったり殴られたりなんて事には全く無縁だった。それがたった二年間でこの有様だ。それでもやり直せないと思うか? 思うならどのみちお前に剣の道には先は無い。止めておくのがお前の為だ」

「単にお前に才能があっただけじゃないか! 自慢するな馬鹿!」

 俺に才能? そいつはびっくりだ。


「俺を指導した大島から見ると俺には才能が無いそうだ。奴から見たら空手部の全員が才能無しらしいが、特に俺にはなかったらしい」

 そう、恐ろしい事にあの紫村をもってしても大島にとっては空手の才能は無いらしい。


「お前に才能が無い?」

「そうらしいな」

「だったらどうして、才能が無いと分かっていてそこまで自分を鍛えられたんだ?」

「簡単だ。空手部に入部したら卒業まで退部する事が出来ないからだ」

「…………えっ?」

 彼女は何か強い信念によって、俺が才能の壁を乗り越えたのだとでも思っていたのだろう。

 そんなドラマチックな展開は空手部には存在しない。空手部にあるのはドラマチックではなくドラスティックなんだよ。

「俺達の空手部というのは、一度足を踏み入れたら最後、否応なく徹底的にしごかれて強くなるしかない地獄だよ」

「そ、そうなの……?」

「先ず三年生になっても受験間際の冬休みにも雪山で合宿を強要される。勿論逃れる術は無い」

「いやいや、それはおかしい」

「合宿と言っても泊まる宿などない。そしてテントも無い。身につけている防寒着だけで生き残る事を強いられる」

「おかしいというか頭がおかしい」

 その通りだよ。

「一年生には食料が与えられるが、二年生は食料も雪山で暢達する必要がある。そして三年生は下級生達を探して救助しなければならない」

 もう美椿は何も言葉を発しようとはしなかった。

 ただ、その後も説明という名の愚痴によって語られる空手部の全貌に首をかくかくと上下に振るだけの反応しか示さなくなった。

 そして俺が語り終えると彼女の態度が百八十度変わった。



「私が教えを受ける事すら出来ない北條流で中学生が、しかも空手部の人間が道場を借りているという事が受け入れられなかった。悔しかった……」

 美椿は事業拡大(儲け主義)でスポーツ化に舵を切った東条流に疑問を感じており、同じ央條流(決して中條流ではない)の流れを汲み、親族筋である北條流の門を叩き教えを乞うているが、彼女の実家と東條流の看板への配慮もあり願いは退けられていた中で、当たり前の様に北條家の一角の道場で修行する俺達に対して嫉妬を覚えたのだった。


 物心ついた頃には既に竹刀を握っていた自分が修行を認められないのに、北條流の門下生でもない余所者がと恨みにすら思った事だろう。

 だが、それも俺達が受けてきた大島の指導……しごき……暴力……可愛がりの説明に、自分がこれまでに積み上げてきたものが、仮にも高校生日本一に成れるほど積み上げてきた努力が、意外に大したことなかったと認識してしまったのだった。

「そんな非常識な修行して来てないし、確かに今までは辛い修行をしてきたと思ってたけど、何かごめんねと言いたくなるほど常識的だったよ……うん」

「うんじゃねえ。ここにきて俺の心を抉るな」

 こいつから同情されるほど可哀想な自分の立場に傷付く。


「あの嘘臭い友北中空手部の伝説も、今なら理解出来る気がするわ」

「無視するなよ」

「たった二年間で【気】の素養を叩き込むカリキュラムって意味が分からないわ……」

 ちなみに北條流ではどんなに短くても五年を切った例は無いらしい。


「大島さんは指導者として有能だったのでしょうね。普通ならそこまで修行を課せば大半が身につける前に壊れてしまうでしょう」

「生かさず殺さす。この匙加減が難しい……と大島が言ってました」

「……一体何処の大権現様でしょう?」

 眉間を右手の中指で押さえて左右に小さく首を振っている。

「でもあのじじ……ご隠居ならもっと狂気染みた修行をしてるんじゃないですか?」

「爺で良いわよ。あの人はね東雲で失敗しているから」

「失敗とは一体?」

 小さく溜息を漏らしてから語り始めた。


「あの子。東雲は北條流の【気】の神髄を使う事が出来ません」

「【鬼】とか【鬼気】とか言うやつですか?」

「そう。【気】使いこなした先にあるのが【鬼気】です。鬼を倒すために自らに鬼を……いえ、自らの中にある鬼を呼び覚まし、それを用いて戦う。その業はまさに業深いというべきでしょう」

 【気】と【鬼気】の区別が全く分からないが、北條流の神髄とまで言われて、簡単に「何ですか?」と尋ねられるほど図々しくない。

 そもそも【気】さえも魔力と似て異なる何かとしか認識していない。

 その手の事を調べるのは兄貴や紫村に任せたいが、【気】を身につけていないので無理だ……自分では面倒なのでやりたくない。


「でも、どうして」

「焦り過ぎた。そして夫が急かし過ぎたのでしょう。無理に覚醒させた【鬼気】を扱い蹴れず……そして二度と【鬼気】を使えなくなったのです……あの子は、自分の器が足りなかっただけと……」

 母としての悔しさが言葉の端々から滲み出していた。


「器ですか?」

「そうです【鬼気】を抑え込んで使いこなす器を自分の中に育てる必要があるのですが、東雲は自分には育てる事が出来なかっただけだと……」

 育てる……それならレベルアップすれば使えるようになるんじゃないだろうか? 【鬼気】自体が正体不明だから分からないが、育てて強くすれば何とかなるものなら、レベルアップでどうにかなる可能性が高い。

 今はその気はないが、今後彼を「お義父さん」と呼ぶようになったならば協力するのも吝かではない……勿論、爺ぃ、貴様は駄目だ!



「話の腰を折るようで申し訳ないが……どうか私を空手部の練習に参加させて貰えないでしょうか?」

 口調を改めて話しかけてくる美椿。

 はっきり言って、こういう姿勢で接していれば俺や紫村はともかく、三馬鹿は鼻を伸ばして彼女の言いなりになった事だろう。

「練習と言ってもまずは体力作りから始めないと、練習に付いていけないぞ」

 空手部は夏場のスキー部もびっくりするほど走るので、走らない運動部として定評のある剣道部員では無理だろうと思ってしまう。

「大丈夫です。私も物心ついた頃には既に竹刀を握っていたのです。身体は鍛えています」

 でも空手部の新入部員も最初は皆、そんな風に言うんだよな……


「お願いです。私はどうしても強くならなければならないのです。強くなって東條流を変えなければならないのです。どうかお願いします。私に出来る事なら何でもします。どうか力を貸して下さい」

 何故、そこまでと喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

 一族が綿々と受け継いできた武術を、自分が継がずに断絶させようとしている俺に、それを問う資格など無かった……色んな意味で。

「空手部の練習に参加すれば必ず強くなれるという保証はない。確かに大島は指導した相手を強くする事に関してのみは優れた力を持っていたが、その大島が今はいない。奴は部員一人一人の限界を見極めた上でギリギリを攻める指導を行う事で高い指導実績を示してきた。だからこそ奴の指導方針を踏襲する事で、一年生の指導も出来るが、お前に関してはその限りではない。限界を超えて身体を壊すかもしれないし効果的に成長出来るかも分からない」

「それでも私は強くなりたい。強くなれる可能性が少しでもあるならあるなら何でもしたいのです」


「明日以降、こちらの練習に参加するとして剣道部はどうするんだ?」

 結局押し切られてしまった俺はそう答えるしかなかった。

「しばらく休むことにします」

「良いのか? 大明日女の体育科だろ。そんなの認められるのか?」

 美椿の立場は剣道部のエースというだけではない。剣道部に所属し大会で活躍する事で高校生の肩書を得ているナンチャって女子高生だ……こう呼ぶと風俗臭が半端ない。

「大会で勝ちさえすれば問題は無いと思う。そもそも私に下級生の指導とかは期待されていないから」

 そんな自虐的な事をどうして彼女は平然と答えられるのだろう?



「まあ、一年生達と同じように体力づくりをするなら問題は無いかと思いますが……一年生と同じ程度の体力があるかが問題だと思います」

 ランニングから戻って来た皆に事情を説明すると、香藤が不安気に話す。


「大丈夫じゃないか? インターハイ個人優勝だろ。いくら剣道部でも最低限の体力はあるだろうさ」

「うちの学校の女子剣道部は、北條先生が指導しているだけあって剣道部としてはかなり体力作りに力を置いているから余り参考にはならないぞ」

 気軽に言う田村に、櫛木田が釘を刺す。


「家の流派は戦場(いくさば)での剣です。一対一で一人斬れば良いなどとは考えていません。そして何より体力が切れれば集中力も切れると考えていますから」

 そう話す奈緒子さんの口元に少し自慢気な様子を感じた。

「東條流はどうなんですか?」

 深く溜息を吐くと「先代までは……」

「だ、大丈夫。頑張るから。本当に頑張るから……」

 頑張ってどうにかなるものでは無い。


「斉藤」

 一年生部員に声を掛ける。

「はい!」

「明日からランニングではお前が彼女の面倒を見ろ」

「自分がですか? 東田の方が良くありませんか」

 斎藤は一年生の中でも一番足が遅く、ランニングでは最も苦労した男だ。だからこそ俺は斉藤に任せたい。

 多分、現状の美椿の体力は入部当時の斉藤よりは多少マシな程度だと推測する。それだけに一番美椿の気持ちを理解出来ると思うのだ。


「しかし……」

 渋る斉藤の肩を抱いて、皆から離れた位置に移動する。

「お前は彼女をどう思う?」

「そ、それは……いえ、自分の口からは……」

「分かってる美人だが口うるさくて苦手なタイプってところだろう?」

 だろうもクソも、俺が感じたそのままだけどな。

「…………」

 口には出さないが顔に出ている。

「分かる。確かに口を開けばやかましい。しかし逆に考えろ。口を開かなければ美人のお姉さんだと」

「口を開かなければ……」

「そうだ。走り出してしばらくすれば口を開く余裕も無くなる。そして最後は疲れ切って歩く事すら出来なくなる。つまりだ」

 そこで俺は話を切って間を空ける。

「つまり?」

 そして斉藤はまんまと俺の誘導に乗る。

「ただの美人のお姉さんをお前は背負って戻って来る事になる。首筋に掛かる熱い吐息。背中に感じる体温と胸の感触。汗をかいた事で強くなった少女の甘い体臭……俺が変わってやりたいくらいだ」

 そう心にもない事を口にする。北條先生似の美人だろうが中身があれでは俺の心は動かない。俺は下着よりも下着の中身にこそロマンを感じる漢なのだ。


「やります。やらせてください」

 そう言うと思っていたよエロ小僧……中学生男子がエロ小僧でない方が心配だ。

 だが俺には斉藤には言わなかった事が一つある。

 それは「俺はお前が俺の背中で吐いた事を一生忘れないよ」である。

 初対面の俺にも分かるほど負けず嫌いな美椿の事だ。限界まで走り、背負われた斉藤の背中で吐く確率は高いだろう。

 明日は俺の古いジャージとファブリーズを持って行こうと思う優しい先輩な俺である。



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今回は何処で区切れば良いのか判断がつかず、長い話になってしまいました

一か月半も更新が途切れた事は……謝罪しない。絶対に謝罪しない。一度謝罪したらこれからも毎回謝罪する事になるから! ……まるで反省していない。




「天気の子」を観てきました


おっさんは前作「君の名は。」の主人公に対しては「これが若さか……」と感嘆したものですが

今回の主人公に対しては「若いって怖い」と慄いてしまった


評価としては間違いなく面白かった。

しかし前作と比べてしまうと、それを超えるものでも並ぶものでも無かったという印象


止せばいいのにIMAXで観たのだが、音量が大き過ぎて辛かった(予告のアクション映画の爆発シーンは完全に音が割れていた)のと液晶が駄目になってるの、発色にかなり斑があって気が散り

IMAX画質がどうこう言う以前の問題だと思ったのも影響しているかもしれない

(画質は気にしなければどうという事も無いのだが、IMAX料金を払っているので文句が出るのも仕方ない)



>エチレンガス注意報発令だよ。

果物等が熟した時に出すのがエチレンガス

周囲のまだ熟していない果実等にも熟成を促す効果があり、箱の中の腐ったミカンは他のミカンをも腐らせる原因である

ちなみに作者はエチレンガスと言おうとすると何故かアセチレンガスと言ってしまう


>美椿

家から自転車で十分ほどにある人気のラーメン屋より名前を頂戴した


>「あんたが部長なんでしょ。あんたが立ち会いなさいよ」

立ち合いと立ち会いの違いを美椿が理解出来てないと表現したかったのだが、そもそも誤字脱字が多くて、いつもの事かと思われるだけだろう


誤字等に関しては、一番執筆が進む深夜帯には疲れて目が霞み、ディスプレイに目を30cmまで接近させないとしっかりと見えない状況で、基本心の目で書いているので手直しするとむしろ誤字だ脱字が増える状況なので、しばらく勘弁してください……じゃあ心の目が曇ってるとか思っても言わないで下さい


>夏場のスキー部

作者が卒業した高校のスキー部(スノボじゃない)は、夏場は大雪山合宿くらいしか滑る事は出来ないので、掛け持ちで陸上部に所属し、専属陸上部員よりもストイックに走り込みと筋トレに励み長距離は専属よりも強かった。


>走らない運動部

剣道部は走りません。そして部活の時間もすごく短い

中学の剣道部の顧問曰く、剣道は体力よりも集中力が大事との事……吉岡一門の様に宮本武蔵に殺される気かと思った

そして高校時代、格技の授業が剣道で、人類が面や篭手を着け続けられる時間には限りがある事を思い知った

それで良いのかと言われれば、まあスポーツ化という事なのだろうと納得するしかない

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