第104話

 紫村と香籐、そして櫛木田、田村、伴尾に【伝心】での『話がある』の一言で呼び出してマルとの散歩に付き合わせた。


 暫く無言で走る俺に、櫛木田がしびれを切らして話を促してきたので大島について話した。

 まあ、護衛兼見張りの目があるので【伝心】なので別に集まる必要も無かったのだが、俺は全員の反応を直接見たかった。


『奴がこっちに来ただと?』

 櫛木田が深みのある面白い顔になる。

『何故連れて来た?』

 肩を震わせながら田村が掴みかかって来るのを右手の掌を下にして、あっちに行けと手で払う動作で人差し指から小指の四本を使い目潰しをかます。

 直接眼球は叩かず、涙袋から瞼を硬い爪で強く撫でただけでなので失明の危険性は無いので、あの距離でなら頭突きを喰らわすより優しい対応といえる。

『楽園も終わりかよ』

 両目の辺りを抑えて「ノゥッ!」と叫ぶ田村を無視して皆が再び走り始める中、伴尾が力なく溜息を漏らした。

 そうだよな大島さえ居なければ俺達にとっては何処だって楽園だよな。


『暫くは表立って動く気は無いそうだ。学校にも来ないから安心しろ』

 ちなみに朝の散歩の最中に大島だけを放流した。そもそも、条件には元早乙女さんは含まれていない。そして二人セットにするよりはマシだろう。

『それじゃあ何のために』

『自分のシマに鉄砲玉を送り込んで来た連中に挨拶回りするんだとよ』

 ……こんな言葉で全てを察してしまう悲しい奴らだった。

『ちょっと待て! それは拙いだろ。もしも中共のトップをまとめて暗殺でもしたら人民解放軍がどんな行動をとるか分からないぞ』

 櫛木田の大島への信頼の無さが良く分かる。最悪の事態しか想定していねえ。

 だけど心配ももっともだ。 中共の私兵である人民解放軍は政治のトップである最高指導者でさえも手綱を握るのに細心の注意が必要な存在である。

 その手綱から解き放たれたとしたらどんな暴走を始めるのか想像もつかない。


 【迷彩】によって光学的に捕捉が不可能で、音も無く飛行する人間大の物体で低空をも自在に飛び回れてホバリングも可能なので奴の接近を防ぐ方法を人類は持ち合わせていない。

 更に奴のマップ機能は第一段階の拡張を済ませているので、周辺マップの範囲は三百メートルとなっている。

 相手は一国の最高指導者であり公式の場に立つ事が多々あるだろうから、三百メートル以内に標的を捉えるのは難しい事ではないだろう……ヤベェ! オラなんだか不安になって来たぞ!


 猫が手を伸ばせば届く位置にいる金魚やカナリアを見てどう思うか? 俺には大島の忍耐力が猫に勝るとは思えない。

 明日の朝、いきなり『高城、わりぃ~な、ついヤッちまった』なんて【伝心】が届かないとも限らない……


『済まんが、いざとなったらロードによる巻き戻しをするので、面倒だろうが覚悟しておいてくれ』

 同じ時間をやり直すなんて、ゲームで長い時間セーブしてなくて失敗してやり直す苦痛どころじゃない。今のセーブポイントから考えると数日間巻き戻してしまうのだから堪ったものではないのだが、我慢してもらう事になる。

 今からセーブしたとしても手遅れになる場合も考えられるので、セーブを実行する事も出来ないし、むしろ他のオリジナルシステムメニュー所持者の事を考えると、安易にセーブを実行したくはない。


『別に数日程度なら構わないぞ』

『良いのか? 記憶と違って身体の方はセーブ時の状態に戻るんだぞ』

 単にやり直しが面倒臭いという問題だけじゃなく、アスリートにとっては頭の中の記憶が保持されても、練習で鍛えた肉体が巻き戻されてしまうのは大きな痛手なはずだ。

『別に今更練習が辛くて嫌だとかは言わないぞ』

『それに、やり直したい失敗なんかもあるからな』

『あるある。一日に一回くらいはヤッちまったってのがあるよな』

『俺に一日に三度は生まれ変わってやり直したいと思う』

 ……櫛木田の心の闇は深かった。


『それよりもだ。大島の使う高等打撃法の正体が分かった』

『何だってっ!』

 櫛木田達だけでなく紫村と香籐も食いついてきた。


『それで何なんだ正体ってのは?』

 田村よ知りたいか? 知りたいだろう。しかし俺は言いたくない。言えばお前らがどういう反応を示すか分かってるから言いたくない。

 俺がされたように問答無用。こいつらの意志なんて関係なく【伝心】で【気】の使い方を押し付けてしまいたい。


『言えよ、勿体付けるな』

 俺は伴尾に背中を押されるように『【気】だ』と答えた。

『へぇ~そうか』

『はいはい、解散解散』

『引っ張るほど面白くねえだろ』

『主将。疲れてるんですね』

 ああ分かってるよ。こうなる事くらい分かってました! 分かってても傷つくんだからな!


『ちょっと待てお前等!』

『待たねえよ! 何が気だ……気でも違ったか?』

『その手のを一番否定していたのはお前じぇねえか、今更何を抜かしてるんだ?』

『お前には失望した』

 駄目だ信じてくれねえ。そしてこいつらに信じさせる言葉が見つからない。

 何せ、立場が逆だったら俺は鼻で笑ってから、とことん馬鹿にしてやるのだから。


『その【気】は使えるようになったのかい?』

『信じてくれるのか?』

『君がこんな嘘を吐く理由は無いからね』

 他人から理解されるという事がこんなに嬉しいなんて……ホモに転びそう。

『嘘は吐かなくても、下らない冗談は良く口にするだろ』

『高倉健の人に言われたら高城もお終いだな』

 余計な事を口にした櫛木田は田村の的確な突っ込みによって凍り付いた……多分、こいつは一生言われるのだろう。俺も高倉健は頭の片隅をかすめていたので言わなくて良かったと心から思う。


『勿論【気】は使えるようになった。そしてお前等が使えるようにするのも簡単だ』

『どうやってだ?』

 伴尾が喰らいついてきた。

『【伝心】を使って、気の練り方、使い方のイメージを直接お前の頭に送り込む。すると俺達の身体は既に大島の指導によって【気】を使えるようになっているから練習すれば、大して苦労しないで使える様になる……と思う』

『俺にイメージを送ってくれ』

『まあ待て。この【気】ってやつの習得にはメリットとデメリットがある』

 一瞬、望み通りにしてやろうかとも思ったが、俺が欲しいのは仲間であって敵ではない。


『デメリット……君は大丈夫なのかい?』

『今のところはな』

 まだ鬼に出会ってないし。


『それでデメリットって何なんだよ?』

 流石にいきなり鬼という単語を口にする勇気はない。

『先ず鬼剋流について説明した方が良いだろう』

 ワンクッション挟む事にした。


『滝口武者、皇室……』

『ひでぇ~異世界よりもリアリティー無いなんて……』

 おい田村! 俺もそう思ってるけど言うな、切なくなってしまうだろ。

『だがそんなの良く信じたな』

『その【気】を使った一撃で大島が気絶したから……』

 俺の言葉に全員が凍り付いた。

『じょ、冗談だろ? そもそも当てる事が出来るはずない』

『それは早乙女さんが奴を押さえつけていたから当てられた』

 元早乙女さんが居なくても当てられたと口に出来るほど俺はビッグマウスではない。


『それにしてもあの大島を一発で?』

 田村がごきゅりと喉を鳴らす。分かる……俺達がずっと求めていた物が目の前で手招きしているのだ。

 欲しい。欲しくてたまらない。どんな代償を払おうとも、何を捨てようとも欲しい。そんな田村の心の叫びが俺の心の中に響き渡るようだ。


『まあ、話を信じるかどうか別として、言いたい事は分かった気がする……それでデメリットって何だよ?』

『……鬼が見えるようになそうだ』

 伴尾の問いに、俺は仕方なく答えた。


『鬼って何かの例えじゃなく本当に鬼が見えるのか?』

 普通はそう思うだろ。実際、俺もまだ見た事無いので疑いを捨てきれていない。


『そりゃあ鬼とやらと戦うっていうんだから見えなきゃ困るだろうけど……』

『つまりスルー出来なくなるって事だな』

『なるほど……確かに怪しいのが目の前をウロチョロしてたらボコるな。空手部的に』

『詳しくは聞き出せなかったが、なし崩し的に鬼を狩る事で、鬼との敵対関係に陥る事が考えられる』

『鬼って奴等は、そこまで組織的に動いているのか?』

『知らん。そもそも俺はまだ鬼なんて見た事も無いよ。早寝早起きで余り出歩かない生活をしていると遭遇する可能性は低いらしいし』

『それじゃあ、デメリットにならんだろ? よし俺は──』

『伴尾君、それは早計だよ。高校生・大学生・社会人になって同じ事を言えるかい? 一度身につけた【気】は多分一生ものだよ。もう少し真面目に考えよう』

『……はい』

 これはまさに子供の反論を許さない『オカンの正論』と、それに打ちのめされた中学生だった。



 散歩の折り返し地点でマルに水を飲ませていると伴尾がやって来て、周囲を確認して誰も居ない事を確認してから「そろそろ見せろよ」と言ってきた。

 ここで「何を?」と答えて焦らす気も無いので、奴が左手の親指と中指で首の辺りを抓んで持っているスポーツドリンク入りのペットボトルを奪い取ると、逆さにして中身を地面にぶちまける。

「何するんこら!」

 叫ぶ伴尾に空になったペットボトルを投げ、奴が受け止めたところで「掌の上に立てて乗せろ」と告げ、右手で手刀を作って構える。

「アレをやるのか? ……出来るのか?」

「優しく小突いて、失神させるというのも出来るが、そっちが良いか? 一応大島に食らわせた奴と違って手加減するけどな」

「や・め・ろ!」


 そう叫びながら慌てて掌の上に空のペットボトルを立てる伴尾に向かって、構えた手刀を水平に振る。

 往年の名プロレスラー、ジャイアント馬場の水平チョップを彷彿させる緩やかに振られた手刀。その小指の付け根がペットボトルの首の部分を捉えると、何の抵抗も感じる事無く飲み口が宙を舞った。

 そう、大島がやったように鋭く振る必要も、硬い親指の爪で捉えて見せる必要もない。それらは俺達をミスリードするためのフェイクだったのだ……畜生! 騙されて必死に研鑽した俺達はピエロじゃないか。

「えっ? えっ? 手品?」

 目の前で起きた事を受け入れようとしない田村にはデコピンをプレゼントして一撃で失神させる。

『今の何? 何か毛がぶわって逆立ったよ。何したの?』

 興奮するマルの背中を撫でて落ち着かせる。それにしてもマルは【気】に対する反応が良い……野生的感覚と言う奴なのか?


「とにかく、これが【気】の一端だ」

 自分でも顔がドヤ顔になっているのが想像出来る。

「他にも何かあるのかい?」

「ああそうだ。自分の身体の中に練り上げた【気】を循環させる事で身体能力の向上も出来る」

 これが、レベル差によって技量すらも凌駕する身体能力の差を埋めて俺を相手に大島が戦えた理由だろう。

「他にもまだあるが、【気】を習得したいというなら使い方を含めて全部【伝心】で送ってやるよ」

「もう少し考えさせてもらうよ」

「そうしてくれ、そもそも鬼の事だって正体すら分からないんだ。迂闊に喧嘩を売って良い訳が無い」

 紫村と俺のやり取りに、櫛木田や香籐達も頷いた。



 家に戻ると、ダイニングテーブルの上に新聞を広げた母さんが「あら、朝刊には間に合わなかったみたいね」と言っているが何の事なのか俺には全く分からない……世の中には分かっていても認める訳にはいかない事があると思うんだ。



「よう大変だな。また事件に巻き込まれてさ」

 教室に入ると、唯一能天気に接してくれる前田の存在が有り難くて仕方がない。これからはもう少しだけ優しく接してやろうと決めた。

 何せ他の連中の目が厳しすぎるんだよ。完全に犯罪者を見るような目だ。


 まあ銃器で武装した複数のテロリスト──という事になっている──が暴れて、爆発物で警察のヘリを破壊し、住宅地に墜落させた事件が起こり、休校になった原因を俺達だと勝手に決めつけているのだからな全く……鋭い!


「俺達が事件に関わっているみたいな事を勝手に言うな」

「へぇ~関わってないのか?」

「全く関わってない」

 ……というのが警察の、そして政府の見解だ。

「ふ~ん、そうかそうか、とりあえず宿題見せて貰おうか」

 全く信じてないが、良いから宿題を見せろという偉そうな態度は大物の片鱗なのかもしれない……可能性はゼロではない。


 予鈴が鳴り暫くして北條先生が教室に入ってくる……今日も溜息が漏れるほど美しい。

 突然後ろから椅子を蹴られ振り返ると、必死に宿題を写している前田に「気持ち悪い溜息漏らすな」と叱られる。この俺が奴にである……何たる屈辱。

 日直の掛け声と共に起立し、挨拶をして着席する。毎日繰り返されるこれに何の意味があるのか? 好意的に考えるのなら火災などの緊急時の避難で号令一つで集団行動出来る下地を毎日刷り込み続けているのだろうが、俺は好意的には捉えている訳では無い。

 只々今日も北條先生に出会えた事を感謝するだけだ。


 一時間目の国語の授業に小野が憎しみ、それ以上の殺意すら感じる目つきで俺をねめつけている。

 間違っても教師が自分の生徒にとるべき態度ではない。クラスの連中もざわつき始める。

 それでも止めようとしない小野に対して、俺は睨み返すわけでもなく悠然と目をそらさず受け止める。

 そんな状況が一分間以上も続いて、流石に大きくなったざわつきに気づいた小野が目を反らした瞬間、ぎりぎり奴の耳にも届くような音を出して鼻で笑ってやる。

 瞬間、首が外れて飛んでいくんじゃないかという勢いで振り返った奴の目に映る様に『負け犬』と太字の油性ペンでくっきりと書かれたノートを見せてやった。


「た、高城ぃぃぃっ!」

 教卓を蹴倒す勢いで前列の生徒を掻き分ける様に迫ってきた奴に「何ですか?」と涼しげに答えるが右の口角が僅かに持ち上がるのを抑え切れなかった。

 沸点が低すぎる。明らかにこちらをなめてるからこそ、軽く煽られた程度でこうも簡単に激高出来る。

「ノートを寄越せ! 絶対に職員会議で問題にして処分してやるぞ!」

 先程の書き込みの事を言いたいのだろうが、そのノートは既に収納済みで、机の上の国語用のノートにもカバンの中の他の科目のノートにも書き込まれてはいない。

「ノートを提出したら職員室で問題にされて処分されるのか意味不明過ぎて笑える」

 実際には吹き出したいのを全力で我慢しているので全く笑ってはいない……腹筋と表情筋が痙攣してるけど。


「馬鹿が黙って寄越せ! これでお前もお終いだ……何だ? 無いぞ……馬鹿な! 何処にやった! 他のノートを出せ!」

 国語のノートを床に叩き付けると、寄越せとばかりに手を伸ばす。

「あんたの頭がおかしいかどうかには興味は無いが、まずはそのノートを拾って謝罪しろ」


 クラスの皆が見ている言い逃れしようも無い状況で、こいつを社会的に葬る事に決めた。

 元々、学校内でも人望が無い事に関しては大島にも匹敵する小野には味方は少ない。

 教師としてはとにかく派閥を形成して教員内での隠然たる力を持っていたアカハラ先生こと生活指導の赤原に比べると小者も良いところである。

 大島が居ない今こそ自分の天下と調子に乗った赤原の失脚。その現状に自分の出番だと勘違いしたこいつと、後に続くだろう二・三人ほどを葬りされば、少しはましな学校に生まれ変われる転機になるのは間違いない。


「何だと馬鹿野郎! あの書き込みを見つければ、お前を処分するなんて簡単なんだぞ!」

 俺のノートを足で踏みにじりながら叫ぶ小野……見つかっても処分にまで持ち込むのは簡単じゃないというより無理だろ。そもそもお前には見つけようがない。


「書き込みって何の事ですかね? 全く身に覚えが無いんですけど。訳の分からない言いがかりは止めて貰いたい」

「黙れ! 隠したノートを寄越せって言ってるんだ!」

「話になりませんね……前田。悪いが職員室に行って教頭を、いなければ北條先生を呼んで来てくれ」

「合点承知。授業がつぶれるなら望むところだっ!」

 中学生としてあるまじき事を叫ぶと脱兎如く教室を飛び出していった……まあ、俺もこいつの授業なんて受ける意味は無いと思ってるけどさ。

 前田の余りの速さに皆が呆然と見送ってしまう。

 ただ一人、その隙に小野は俺の教科書などを詰めた学校指定のスポーツバッグを引っ掴むと逆さにして中身を床にぶちまけた。


「無い! 無いぞ! 何処に隠した!」

 こいつにとっては証拠さえ押さえれば後はなんとでもなる。逆言えば証拠が見つからなければ自分の立場がヤバイと焦っているのだろうが、証拠があっても、俺は「朝っぱらから親の仇のような目で長々と睨みつけられてイラッとしたので煽っちゃった。テヘ」で済む話だ。

 もしも済まないというなら出るところに出て問題にしてやる。そして、それに関わった人間をもっと不幸にしてやるだけだ。


 大体、全教科満点取って何が悪い。数学・理科・社会は九十五点以上は普段からキープしている。英語だって常に九十点前後で八十五点を切た事は一度も無い……めちゃ優等生だろ俺。


 問題は国語だけだ。俺が答えるのも馬鹿々々しいと思う問題以外も、小野のおかしな採点で正解が不正解にされたりしていつも六十点台になっているだけだ。

 今回は、奴が上げ足すら取れないように一文字一文字、止め、払い、ハネまできっちりと書いた上で、唾棄すべき奴の持論も黒板に板書したのと一文字一句変わらずに解答してやったのだ。

 俺以外にお前の下らない授業を一字一句憶えてくれるような奇特な生徒がいるのか? むしろ感謝して貰いたい。


「机の中を見せろ!」

 机を引き倒して、中から辞書などを引っ張り出して投げ捨て「無い! 無い!」と喚いている。床の上の教科書も踏みつけれれて酷い有様で、クラスの連中は巻き込まれたくないとばかりに机と椅子ごと逃げて俺の席を中心に円を描いた空間が出来上がってしまった。

 そんな中で俺は『まだかな~まだかな~』と前田が教頭か北條先生を連れて戻ってくるのをワクワクしながら待っている。


 周辺マップで確認すると、現在前田が職員室で声をかけているのは教頭。

 小野に引導を渡す相手としては北條先生よりずっと適任なので大いに結構…………教頭の足が遅い! 十秒足らずで後悔した。

 教頭が教室にたどり着くにはまだ三分はかかるだろう。小野の立場を決定的にするためには教頭が来るまでこの狂騒を維持して貰いたい……つまり燃料追加だ。


 だが余りに露骨にやると、証言者となるはずのクラスメイト達を敵に回してしまう。しかし、良く考えればこいつ等を味方と思った事は無いし、それ以前に既に十分やり過ぎなような気もしないでもない。

 だから、傍から見て分かる様に直接的に煽るのは駄目だと思っていたのだが、俺が何もしなくても小野の行動は勝手にエスカレートしていた。

 俺の荷物だけではなく隣の席の奴の分まで床にブチ撒け、負け犬と書かれたノートを探していたのだ……もう終わりだね。


 だがいきなり奴の動きがぴたりと止まる。

 諦めたのか、それとも自分の醜態を第三者の視点から見つめ直すきっかけを得たのか知らないが、表情に理性の色を感じる。

 だが教頭の到着まではまだ一分以上残っている……仕方がない。

 このタイミングで燃料を投下するべく、小野の視線を確認した上で、さり気なくブレザーの左の脇腹辺りを何かを確認するかのように触れて見せる。

「馬鹿がそこに隠してるのが丸分かりだ!」

 狙い通りに食いついた。理性が蒸発して消え失せ、再び双眸に狂気を光をたたえて掴みかかってくる。


 椅子に座ったまま小野の手を避ける様に仰け反り、椅子の後ろの二本の脚に重心を預けた状態から、右足で床を蹴り、その反動を左側の脚を軸にした回転力に変える。右回りに二百十五度回転し、次いで椅子の右後ろの脚へ軸を切り替え、反動で弧を描くように軸足を滑らせながら右回りに二百七十度回転すると椅子に座ったまま小野の背後を取った……俺達って無駄に鍛え上げられた運動神経をこんな下らない事ばかりに使っているのだと思うと少し切なくなる。

 しかしクラスメイト達にはこの曲芸が好評の様で「お~!」と驚きの声が上がり、少しだけ切なさが癒された。


 手が届く近距離から一瞬で背後に回った俺の姿を小野は見失い左右に首を振るが、後ろに移動されたとは思ってもい無いようだ。

 完全に見失ってしまったようで「何処だ!」と大声で叫ぶ……これは教頭がたどり着く前に隣の教室から怒鳴り込まれそうだ。


 まあ、勿論答えてやる義務はない。しかし生徒達の視線が自分の背後に注がれている事に気づき、慌てて振り返る。

 しかし、その動きを読んだ俺は席を立つと素早く奴の視界の外へと移動する。

 動きを読むといっても難しい事は無くただ足元を見れていれば良い。膝を内側に入れて踵を外側に向けた足の反対側を振り返るのだから、それに合わせて上半身だけを逃がせばよい。

 小野との距離は五十センチメートル程度。ここまで近くで背後に立たれると肩越しに振り返っても、自分自身の肩が目隠しになってしまって俺の下半身は奴には見えない。

 なので鏡を使わずに自分の背中を見る事が出来るような特技でも無ければ、相手の移動する音や息遣いなどの気配を察しなければ無理だろう。

 勿論、興奮して冷静な判断力も無く、更に息を切らせている小野には絶対に無理だろう。


 まるでコント様に、小野の背後に張り付きながら奴の視線を避け続ける様子に、クラスメイト達からは笑い声が漏れ始める。

「生徒の癖に教師を笑うな!」

 この手の教師は少なからず存在する。教師と言う立場は無条件に生徒から敬意を受けるべきだと勘違いしている。

 先生などと言われて勝手に自分が偉い存在だと思い込み、自分には『先に生まれただけ』と書いて『先生』でしかない事を理解しようとはしない。


 尊敬と言うのは、自分の言動に対して他者抱く感情であり、立場が無条件に与えてくれるものではない。

 彼らは古い儒教的思想に支配されているのかと言えば、確かに親族・先輩後輩などの関係の中では目上の人間をある程度重んじる一方で、その枠外では上司などの目上の人間に対して敬意を払う訳では無い。それでありながら生徒に対しては一方的な敬意を期待するのだから救いようがない。


 これは教師と言う職業特有とまでは言わないが、多く現れる症状だと思う。

 ついでに言うと教師の職業病にはロリコンもあると思う。

 ロリコンが教師になりたがるというよりも、教師を続ける内にロリコンに転ぶ奴が多いのだ……だから北條先生は多少ショタコンを患ってくれても良いのではないだろうか?

 などと考えが脇道に逸れている間にも、クラスメイト達はその笑いの方向を直接小野へ、そして質を嘲るようなものへと変えていく。

 この状況を作り出した俺が言うのもなんだが、いい歳してみっともない真似を晒しているのだから当然だろうが、子供って残酷だよねと思わないわけでも無い十四歳の俺。


 小野は他人には無神経な割には自分に向けられた侮蔑には敏感だったようで、耳だけではなく薄い頭頂部から首にかけてを真っ赤に染めて肩を震わせると、笑っていた生徒の一人に向かって俺の椅子の背もたれを掴んで振り上げた……だが残念ながら時間切れだ。


「何をやっているのですか小野先生!」

 ゆっくりと振り返った小野の顔が、前田が飛び出した時に開け放ったままの教室後側の扉。その向こうにいる息を切らせるほど走って来た為だけではない紅潮させた顔の教頭に固まる。


「な、何……を? 何で……」

 自分が両手で頭上に振り上げた椅子に視線を這わせたまま固まる。自分が何をし、何をしようとしていたのか、それが教頭がどう理解するのか客観的に認識出来たようだ。

「何をやっているのか聞いているのですよ」

「なっ……私は悪くない。私が悪いんじゃない」

 そんな訳はない。

「貴方が悪いかどうかを判断するのは貴方ではありません。さあ、その椅子を置いて下さい」

 穏やかではあるが有無を言わせてやる気は全くないと言わんばかりに話を進める。


「それでは行きましょう」

 分かりやすく言うと、これからお前の処分を決めるからちょっと来いである。

「……嫌だ。こんな事で終わってたまるか!」

 俺としても、穏便な形で終わらせられてたまるものか。

 小野が、どう終わらせないつもりなのか全く分からないが、はっきり言って何らかの処分を受けて別の学校に飛ばされるのが一番無難な終わり方だろう。

 だがそれでは面白く無い。この中学校は県立ではなく市立なので教職員の移動も市内という事になるので、引っ越す必要も無く新たな職場で新たな教師生活を始めるだけだ。

 多少、処分の内容から周りの目が厳しいだろうが致命的と呼べるデメリットではなく、単に定期的な移動が早まっただけとも言える処分だ。


 大体、この手の人間は新しい赴任先でも同じような事を繰り返すだけだろう。学校は生徒にとっての学びの場であり、教師の職場としての側面はおまけに過ぎない。

 教育もやり直す機会を与える寛容さも生徒に与えられるものであって、教師に与えられるべきものではないのだ。

 失格の烙印を押された教師がやり直すならば、他の職種で人生をやり直して貰うのが筋というものであり、他の学校で何食わぬ顔して教師を続けるというのは実におかしな話だろう。


 ある学校で供しての資質に難があると判断された教師を別の学校でそのまま使い回す。

 はっきり言って正気の沙汰で無い。どんな学校であろうと学校で教師としての資質に問題があるなら、他のどんな学校でも同じなのだ。

 食品会社の賞味期限表示の偽造事件と本質的に変わらない。

 故に奴に対する同情なんてものは全く無い。同情するなら相手を選ぶべきだろう。そもそも奴の方が俺達を排除しようとしたのだ。先に噛み付いて来た負け犬には相応しい報いがあるべきだ。


 追い込まれて奇声を発しながら教頭に向かって振り上げた椅子を、俺は後ろから掴んだ。

「ぐっ!」

 全力で教頭の頭に振り下ろすはずの椅子が一センチメートルたりとも動かなかったのだから、反動で肩が抜けそうな痛みを覚えているはずだ。

 もしこれが大島だったなら一ミリメートルたりとも動かないようにするだろう。そうなれば小野の肩は脱臼、酷ければ骨折しただろう。

 つまり、俺が一センチメートル足らずとはいえクッションとなる遊びを作ったのは思いやりであり、決して大島に技量で劣る訳では無い……と言ったら誰が信じてくれるだろう? 俺なら鼻で笑うな。


「……あっ」

 息を吐き出しながら小さく呟くような悲鳴を上げると、そのまま膝から崩れ落ち、前のめりになった身体を両手で支えた状態で固まる。

 身体は、特に腰の角度はピクリとも動かないが息遣いは荒い……ぎっくり腰という奴だろう。

「腰をやってしまいましたね」

 まるで同情する様子も無く、痛みに顔から血の気の失せた小野に告げる。

 自分に向けて振り下ろそうとした椅子を止められて腰を痛めた馬鹿に同情出来るのはお花畑か天使なので当然だろう。

 クラスの男子達は勿論、女子達でさえ駆け寄るどころか心配する様子すら見せない。


「あっ……あっ……あっ……」

 呼吸の度に苦しげにか細く声を上げる。そんな状況でも首を捻りこちらに向けて睨みつけてくるので、俺は「誰を睨んでるの?」とばかりに自分の後ろを振り返って見せてやった。


「き……きさっ……まだ。かならっ……ず、こ……うっ……かい……させてっ……やる」

 執念だけでそれだけを言い切った小野だが……

「逆恨みなど……完全に貴方の自業自得ですよ。この件は私の権限において、貴方を刑事告訴と言う形を取らせて貰います」

 教頭はそう告げる。


「なっ……んだと……」

「授業中に暴れ、それを止めようとした私に対して椅子を振り上げて殴りかかろうとしたのですから当然です。私が怪我を負ったかどうかは関係なく、貴方が害意をもって私に暴力を振るおうとした段階で暴行罪で訴える事は出来ます。私も今学期一杯で退職するので詰まらない柵を気にする必要もありませんからね」

 小野も居なくなるので、教頭が今学期一杯で退職させてもらえるか疑問だが、気持ち良く辞める気満々の彼に冷や水を被せるような真似をしても仕方がない。


「そんっ……な」

「安心して下さい。多分、執行猶予は付きますから」

 何一つ安心出来る要素の無い宣告を下すと、小野は完全に崩れ落ちて泣き叫ぶ……正直、どうでも良い。奴は自分が可哀想で可哀想で仕方なく、自分の為に泣いているのだから。



 結局その日は、空き教室に移動して授業を受けた。

 色々と昭和感に満ち溢れたS県ではあるが、流石に出生率の低下の影響は他県と変わることなく生徒数の減少に伴い学年毎に四クラスが削減され、実に教室の半数が空き教室になっているので教室の移動には何の問題も無く、五時間目の理科と六時間目の社会は少し埃っぽい開かずの五組で行われた。

 三時間目と四時間目は技術/家庭科で、技術が大島が居ない為に一学期中は自習の予定の為に、俺と前田を含めた男子生徒数名が警察の事情聴取に付き合わされた以外は滞りなく進んだ。


「ところで小野って結局どうなるんだ?」

 放課後のHR前の一時、前田が尋ねて来た。

「教頭が訴えると言っている以上、起訴された段階で懲戒免職だろうな」

「随分あっさり言うな」

「別に小野には何の義理も無い。それどころか今まで毎回俺のテストの点数を好き勝手に下げてくれたからな」

「はぁ? それ初めて聞くんだけど」

「今までの問題と解答を残してあるから、二学期の中間テストの後にでもまとめて表沙汰にして、教師終了させてやるというサプライズを予定し──」

「そんなサプライズはいらねえよ!」

「ちっ」

 お蔵入りしてしまった自慢のプランをそんな呼ばわりされて舌打ちする。


「それにしても、どんな風に点数を下げられたんだ?」

「記述問題は何を書いても全部不正解。それ以外も色々いちゃもんを付けられて不正解。酷いのになると字が汚いで不正解だ。俺の字が汚いならお前なんて氏名欄の名前が汚いから零点だっていうのにヒデエ話だろ」

「お前も十分ヒデエよ!」

「いや、一番ヒデエのはお前の字の汚さだよ。お前の字を読んで採点しなきゃならないという点では、仕事とはいえ小野に同情したいくらいだ」

 前田は本当に字が汚い。小学一年生の時に担任の教師を「こんなに字の汚い教え子は教師生活において初めて」と嘆かせたという逸話は伊達ではない。

「事実だけに本当にヒデエよ!」


「ともかくだ。生徒相手に好悪の情を表に出す段階で教師としての資質に欠けるが、公文書である内申書にテストの成績を含めた評価が書かれる以上、テスト採点にまで私的感情を持ち込み生徒に不利益を与えるため意図的に歪められた点数を付けた段階で教師失格なのは当然だ」

「だがな──」

「小野がお前の事を気に入らないっていう理由で、国語の点数を三十点下げられ成績表に一を付けられたらどう思う?」

「奴にアルゼンチンバックブリーカーを極めた状態で側転して五十メートルを十秒切ってやる」

「……楽しそうじゃないか」

 そう、思わずニヤリと笑みをこぼしてしまうほど、本当に楽しそうだ。機会があったら誰かに食らわせてやろう。




 放課後、いつもの様に練習の目に北條家の道場へと向かう。

 システムメニューを開き【マップ機能】の情報共有をONにしてワールドマップを確認すると中国に個体シンボルが表示されている大島の動向にドキドキして胸が痛くなる。


「来たか小僧……」

 物騒な仕込み杖を突きながら門前で爺が出迎える……今の俺には分かる。爺の身体から大島達を凌ぐ濃密な【気】が立ち上るのを。

「随分とおっかねえ鬼を目覚めさせたじゃねえか」

 獲物を前にした獣の様に楽しそうに口元を歪ませやがる。

 俺が【気】を使える様になった事で爺も本気の一端を見せて来たのだ。


「北條流では【気】を【鬼】と呼ぶのか」

 そう言えば大島達というか鬼剋流でも元々は【気】を【鬼】とも呼んでいたと言っていたな。


「あの空手遣いの若造の流派では、そう呼ぶらしいが少し違うのう」

 不気味に笑う爺。

 しかし、今のやり取りで爺は鬼剋流とある程度、親交は無いが交流はあると事が分かった。

 それにしても大島のが可愛らしく思えるほど【気】の質が禍々しい。

 単なる武ではなく【気】込みならば、大島以上かと思わせるだけの脅威というか、踏み込む事を躊躇わせる不気味さを感じさせる。


「単に【気】を使えるだけなら、うちのボンクラ息子や弟子共にも使える奴はいる。だが人の身で【鬼】を宿すに至るには本人の資質が大きいからのぅ」

「止めてくれ、俺をあんたの同類みたいに──」

 瞬間、背筋を冷たい感覚が迸る。

 恐るべき達人の業だった。

 技の始まり、静から動へと移るその瞬間こそ、受ける者にとっての最初の警鐘ともいうべき瞬間。

 正面、しかも目の前に居ながら、俺にそれを感じさせなかった。

 【気】による肉体強化を受けただけではない。技の錬度が違う。これに比べるなら大島の技すら大雑把と呼ぶしかない。

 それどころか、大島を下手糞呼ばわりしていた元早乙女さんですら錬度では劣る。


 しかも動き始まりを技とは別の何気ない動作の中に隠していたので、何かが来るという違和感や予感すらなく。

 爺が鯉口を切って踏み込みを始めているのを見て『あれ?』と初めて気付いたのだ。

 そんな状況でも辛うじて対応出来たのは、このやっとうキチガイの爺は必ず斬り付けてくるだろうという絶対的信頼感から、予めどんな攻撃にも対応出来るように、全ての関節を僅かに緩めて構えていた……なんて負の信頼だろう。

 爺の「相手が強ければ斬れるかどうか試してみたい」という生態が分かっていなければ何も出来なかっただろう。逆にいうならば、爺にとっては、抑えきれない己の好戦性が仇となったのだ。


 白刃から逃れる様にそのまま後ろに飛び退く。普通ならこれは悪手だ人間は後ろに下がるよりも前に進む方が速い……しかし今回は最初の一手から身を外に置きさえすれば良かった。

 飛び退きながら門に掲げらた道場の看板を収納すると、そのまま自分の目の前に出現させる。

 看板は木目の繊維方向に音も立てずに両断されると、アスファルトの上でトドンと跳ねて転がった。

 これだはやりたくなかったと思う最悪のカードを切ってしまった……俺笑ってないよな。


「ぬっ!」

 爺は転がった二枚の板を見やり、そして門柱の看板が掛かっていた場所へと視線を向け、有るべきものが無い事にぎょっと目を見開く。

 鼻の上に嫌な汗を浮かべながら再びアスファルトの上の板を注視する。

 見たくない何かを発見したかのように目を閉じて首を左右に振ると、再び門柱に目を向けてから、既に本人も疑い様も無く分かって居るだろう道場の看板の残骸に三度視線を落とす……次いで膝も落ちた。

「ぅぉぉぉぉぉぉぉぉ……」

 小さく、しかし深い絶望の慟哭が耳を打つ。

 そんな爺の背中に視線を向ける俺の顔には悪魔のような笑みが浮かんでいるだろう。何故なら我が胸裏には悪魔すら逃げ出す様な企みがあるからだ。


「うわぁぁぁっ! 何をする!」

 わざとらしいにも程がある。そんな悲鳴を上げた……今はこれが精一杯。

 俺の悲鳴にも爺は全く反応を示さなかったが、門下生達はわらわらと飛び出して来て、それを目にしてしまう。

「こ、こ、こ、これは……師範を東雲師範を呼ぶんだ!」

 当然ながら大事になった。



「つまり、父上が斬りかかって来たので咄嗟に看板で受けたら真っ二つ。どう考えても殺す気満々だったと」

 東雲師範はこの世の不幸の全てを肩に乗せたかの様に沈痛な顔つきで噛みしめるかのように確認する。


「こ、この切り口……本気だ……本気で中学生相手に斬りかかった?」

「はい。普通死ぬよなという感じで斬りかかってきまし──」

 これに関しては嘘は言っていない。


「申し訳ありません!」

 それは凛として美しいほど見事な土下座だった。

 その様に思わず見惚れていると、土下座から土下寝へのコンビネーションを決めようとするので止めた。

「親子とはいえ無制限に親の責任を子供が取れる訳では無いでしょう。お気になさらずに……」

 結果としては爺が自分で道場の看板を真っ二つにして落ち込んだだけの話で、そう仕向けたのは俺自身だし……



 練習を終えて帰り際、門前で木工用ボンドで必死に看板を治そうとしている惨めな老人を見かける。

「爺。木工用ボンドは二・三日かけてゆっくり乾かすもんだ。そんなところで作業しても直ぐに直るなんて夢見てるんじゃねえ。とっとと道場にでも持っていけ。それから百円ショップに行って、自転車の荷台に使うゴム紐買って来て接着面同士が圧着するように縛って三日放置しておけ。そうやって乾燥させた接着面の強度は本来の木の強度より上になる」

 まあ、これは大島の授業の受け売りだ。

「小僧……」

「何だ爺?」

「……ツンデレ乙」

「……まあ想像はつく。剣術しか取柄が無くて趣味も無い。偏屈で家族からも持て余されるくらいだから交友関係も極めて狭い。そんな老人が逃げ込む少ない場所がネットだと言う事だろ」

 呆れたという空気感丸出しで、そう指摘してやった。


「てめぇ、人の隠居生活を十秒でまとめるんじゃねえ!」

「爺はいい歳してネット用語を使うな」

「仕方ねえだろ年寄りの数少ない娯楽だ」

 うわっ……本人の口から言われると想像以上にきつく、そして切ない。


「それでだ。小僧、あの場にもう一人いたはずだな?」

 ……爺は収納して看板を盾にした事を一人で出来たはずが無いと常識の範囲で結論を出したようだ。

「爺がそう思うならそれで良いんじゃないか?」

 あの場にもう一人いたはずと勘違いし、もう一人いた事を気付けなかったと勝手にプライドを傷つけられている……故に煽ってやる。

「…………」

 そのもう一人がどうやって自分に気づかせずに潜み、どうやって俺に看板を渡したか? 聞きたいのだろうが聞くのは矜持が許さないってところだろう。

「……小僧も使えるようになったなら【鬼】とやり合うのか?」

 話を逸らしたな。


「さあな、何れはそうなるかもしれないが、今は知らん」

「弥生が今晩も狩に出る。暇なら手伝ってやれ」

「北條せん──弥生さんが? 可愛い孫にそんな事をやらせているのか? 腐れ外道!」

 ちなみに北條先生と呼べば、爺を先生呼ばわりしている様で気持ち悪く、弥生さんと呼ぶと腹の底から何かがこみ上げて来た。


「鬼剋流の若造がいなくなったせいで手が足りねえ。この老いぼれを過労死させる気か?」

「俺は一向に構わんぞ。大体、都合の良い時だけ年寄りぶってるんじゃねえ!」

「はぁ? 耳が遠くて聞こえんな」

 わざとらしく首を傾げて、耳の横に手のひらをかざしやがる。


「まあいい。北條先せ……弥生さんは何時頃から?」

 マップで確認しておけば分かる事だが聞いておかなければ、爺からすると不審に思えるだろう。

「ほうデート気分か」

「いや、まずは尾行してやり方を見せて貰う。何せ初心者だからな」

 嘘だ。いきなり北條先生と二人きりでというシチュエーションが童貞には荷が重くて、何か恥ずかしい事をやらかしてしまいそうなんだ……というよりやる。きっと、必ず。

「……このビビり童貞がヘタレやがって」

 何とでも言え。事実だけに何も言い返せねえよ。



 夜の十時を過ぎてマップ内で北條先生のシンボルが自宅の門の外へと移動した。

 予め用意を済ませ、黒のジャージに着替えていたので、床に広げた新聞紙の上で今は使ってない古いスニーカーを履くと【迷彩】をかけて窓から外へと出た。


 移動中、爺の動向もチェックする……予想通り尾行してやがる。

 大きくマージンを取るために百メートルの高度を取って接近していく。

「ふっ……真上から見下ろす旋毛までもが美しい」

 もしかしたら俺にはストーカーの気質があるのかもしれない……つうかこれじゃ完全にストーカーだよ。

 色々と溜まり過ぎてるんだ。だからおかしくなっている。これなら正面からぶつかる覚悟で告白して振られて、すっぱり諦め……何で振られる前提だ俺? どうして輝かしい未来を自分で信じられないんだ?



 気配と言う言葉があるが、俺はそれを五感から得られる僅かな情報を統合して感じるモノだと漠然と理解していたが、そこに【気】という新たな要素が存在する事を知ってしまった。

 以前大島が部室の外から壁に耳を押し当てて聞き耳を立てているのを、壁越しに殴って鼓膜を破壊してやろうとして反撃を喰らったのも【気】による気配察知だったのだろう。

 その為に必要と考えられるマージン、五十メートルの更に倍の距離を取ったのだが【気】を身に着けた事で得た異能は異能をも捉えた。



 たすき掛けに身に着けているランニングポーチからキャップを取り出して、目深に被り大きく深呼吸すると、北條先生の周囲に薄ぼんやりとした気配が広がっていく。

 いや、先生のだけではなく後方に張り付いて尾行している爺からも同じ様な気配が広がっていく。

 更によく観察すると、その気配は均一に広く広がっているのではなく紐状に伸びた数千本の【気】が、やわらかな風に靡くリボンの様にゆっくりと空中で波打っている。

 北條先生の周囲十五メートルほどに広がる気配と、北條先生の背後二十メートルにいる爺を中心とした約半径六十メートルに広がる気配。

 しかも北條先生の周囲十五メートルの範囲を避けて包み込むように展開している。

 北條先生のように自分の周囲に【気】を張り巡らせるのならば俺にも出来ると思う。だが爺の様には絶対に無理。大島達にだって出来る事やら。


 俺や大島達の場合は自らの身体に【気】を纏わせて攻防に使う事は出来るが、北條流の場合は武器に【気】を纏わせる必要がある。

 その分【気】を操作する能力に長けているのだろう……という事にしておく。



 爺の水平方向への範囲は俺の予想以上だったが、上への備えは流石に薄いようで高さは十メートルにも届かない範囲。

 だからと言ってマージンを減らす様な楽観主義者では、俺はこれまで生きてはこれなかっただろう……ビビりです。

 上空から二人を追って移動する。

 百メートルの距離なら双眼鏡などは要らない。

 光学的情報を神経信号に変換する網膜の視細胞の数と密度が上昇し光受容体、つまり解像度が増した訳では無いが、変換効率の上昇・神経伝達の速度の上昇、そして脳での神経信号の分析などの情報処理能力向上により視力はかなり上昇している。

 特に情報処理能力の向上は暗視能力を著しく向上させた為、街中の暗がり程度は物ともしない。

 もっとも空気自体のコンディション。埃などの光を遮る浮遊物の濃度や、温度差や風による空気密度の差によって視力だけではどうにもならない要因もあるが百メートル程度なら目の前にいるかのように見る事が出来る……ますますストーカーっぽい。



 北條先生はこの数年流行りの夜のジョギング・スタイルと言った服装だが、羽織っている上着やキャップ、スニーカーの色が、夜間ならドライバーからの視認性の良い蛍光色を使うのに対して目立たない色になっている。

 キャップを目深に被っているので、上から見下ろす俺は勿論として、すれ違う通行人達にも北條先生と特定されるほど顔は見えていないだろう。

 アングル的にまるで面白く無い眺めなので高度を落として斜め後方から追う形にしたいのだが、そうなると建物や信号・電柱・標識・街路樹、そして通行人が邪魔になって視界を遮られるので、建物の中などに入られない限りほぼ真上から見下ろす今の形が一番だ。



 暫く繁華街を軽く流していた北條先生がペースを落とし、何かを探すかのように首を左右にめぐらせる。

 一方爺は、ゆっくりと後退して北條先生から遠ざかる。あくまでも尾行している筈の俺を見つけて監視するのが目的で、孫の手伝いをする気など全くないのだろう。


 北条先生は鬼の気配を探り当てたのだろう、ビルの間の狭い路地へと入っていく。

 マップでその先を確認すると、周囲をビルに囲まれた歪な空間に人間を現すシンボルが二つ……しかも意識が無い。

 【気】を練り目を凝らすと闇の中に気配を感じる。【気】が宙を舞う淡い光の小さな粒の集まりのような存在として見えるのに対して、それは黒く蠢く黒い粒の集まりだ。

 はっきり言おう。ゴキブリの大群のようで気持ち悪いというか、ここまでくると怖い。世界で最も邪悪な一族の末裔を復活させ「焼きハマグリェ~っ!」と叫びたくなる。


 現場を見下ろせるビルの屋上に着地すると、ちょうどそこへ北條先生が踏み込むと、慣れた手つきで右手でウエストポウチから三段式の特殊警棒を引き抜き一振りして伸ばすと、そのまま無言で練り上げた【気】を特殊警棒に纏わせるというか流し込んでいく。

 北条先生の【気】に反応して、鬼(?)は全体を震わせながら触腕のように身体の一部を彼女に向けて伸ばしていく。

 無言で特殊警棒を下から掬い上げる様に一閃すると、それは光に照らされた影の様に呆気ないほどあっさりと消え去る……弱くねえ?

 そのまま、一歩踏み込んで右へと薙ぎ払い。そして更に一歩踏み込んで両手で上段から鬼の本体を切り裂いた。


 まるで血を払うように一振りすると、特殊警棒を畳んでウェストポウチに戻すと、倒れている二人に近づいて、一人の首元に手をやる……脈をとったのだろう、すぐにもう一人の脈をとって頷いた。

 そして深呼吸をすると、北條先生の身体を通して強い【気】の鼓動が響いてくる。

 しっかりと【気】を練り上げてから、二人の額に両の掌を添えてるとゆっくりと吐き出す息と共に気を送り込んでいく。

 元早乙女さんから送られた【気】に関するイメージ情報の中にある【鬼落とし】という方法だ……北條流で何と呼ぶかは知らないけど。

 一分間ほどだろう長く息を吐きながら【気】を送り終えた北條先生は肩で息を視ながら、スマホを取り出して何処ぞへか電話をかける。


「どうだ小僧、これが現代の追儺(ついな)……鬼剋流では追儺(おにやらい)と呼ぶものだ」

 いつの間にか背後に現れた爺が話しかけて来た。


「思っていたより弱くて安心した」

「あれは雑魚だ。まあ雑魚じゃない鬼が出てくるのは稀だ」

「そうなのか?」

「雑魚も放っておけば成長する。そうなれば人死にが出る。そうならない様に儂等が払っている」

「お前は税金から払ってもらってるだろう?」

 俺の一言に爺は視線を逸らせた。


「ところで頭に【気】を送り込むのは何だ?」

「あれは【気】で鬼の気を払っているだけだ」

「払わなければどうなる?」

「……色々だが、最終的には本人の身ならず周囲の人間を巻き込んで碌な事にならなんな」

「鬼は人を操るのか?」

「そうじゃのう……種を植えると言った感じだのう」

「種?」

「植え付けられた種はやがて芽吹き……まあ、それぞれってところだな」

 この勿体ぶった言い回し、それに軽く引き込まれていた自分に気づいて話を変える。

「しかし弱かったな」

「あれはな。もう二枚くらい上手になると弥生では厳しいじゃろう。そこでお前が盾になって死ね──じゃなくて弥生を娶っても良いじゃぞ」

「……本音はともかく魅力的な提案だが、北條流を継げと言われても今更、剣術やるにはちと遅くねえか?」

 まあ、中学生から空手を始めた俺が言うのもなんだが、そういうのは物心つく頃には刀を握ってるようなイメージ。

「別に遅くはねえし、お前が無手の業が染み付いて剣術に向かないというなら、弥生が産んだ子に継がせればいい。その子が一人前になるまで儂はどうか分からんが東雲はしぶとく生きとるだろ。奴に修行を付けさせれば問題あるまい」

「俺はただの種馬かよ……それはそれで魅力的な話だが」

 俺と北條先生の子供……想像しようとしただけで脳みそが沸騰しそうだ。


「別に東雲や弥生が勝てないような道場破りが来たらお前が出ってってぶちのめしても構わんぞ」

「今時、そんなのがいるとは思えんが、仮にも剣術道場に道場破りに来て空手でぶちのめされたら全米が泣くわ」

「えっ?」

「えっ!」

 どういう意味で「えっ?」なのか分からないが驚く。

「お前の師匠の若造、家に道場破りに来たぞ」

「それは想定外だ!」

 何やってるの大島!

「それに空手で倒すのが嫌だというなら、木刀持って蹴り飛ばせば良いじゃねえか」

「それは剣術関係ないよ」

「別に構わんだろ。ほれトンファー・キックみてぇにな」

 駄目だこの爺、早くなんとか……ならねえ! 手遅れだよ。


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>小学一年生の時に担任の教師を「こんなに字の汚い教え子は教師生活において初めて」と嘆かせたという逸話は伊達ではない。

紛う事なきノンフィクション……俺の事だよ!

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