第101話

 結局、朝方に自転車で帰ってきたと言う状況を作り上げるため、いつもの起床時間よりも早い朝の四時頃【迷彩】で姿を隠して家を出て、周囲に誰も居ない事を確認してから自転車に乗って帰宅した。


 このまま、すっと起きていて夢世界に行かないという事も考えたのだが、俺が夢世界に行かなかった場合は向こうの俺の身体はどうなっっているのか怖くて、取りあえず一時間ほどでも寝ようと、目覚ましをセットして寝た。


 夢の中で目覚める。言葉にすると違和感しかないがもう慣れてしまった。

 先日も泊まった同じ宿だった。

 ベッドをおりて入り口の脇に置いてある台の上にある洗面器へ、床の上に置かれた水瓶から水を注ぎ顔を洗う。

 石鹸は高級品なのでアメニティーグッズとして用意されていないので自分のを使う。

 小学校の頃は洗顔フォームを使っていたが今は石鹸だ。部活動後の水浴びや、合宿の事を考えると「それで十分だよね」という気持ちになってしまったのだ。


「おはようございます」

 店の従業員と挨拶を交わしながら階段を降りて一階の食堂に出るが、朝飯にはまだ早いのでそのまま通り抜けてエントランスへと向かい、カウンターで部屋の鍵を預けて外へと出る。



 特に目的も無く通りを人波に導かれるように歩いていると港に出た。

「マグロ!」

 思わず渡哲也の物真似をしたくなるほど見事なマグロが河岸(×かわぎし、○かし)に上がっていた。

 立派な魚体は全長七メートルオーバー……マグロじゃねえ! これは絶対にマグロじゃねえよ!!

 流石に母さんでもこれは捌けないだろう、そもそも専用の刃物が必要だ。マグロの解体ショーに使うような直刀の太刀の様な包丁でも長さが足りないだろう……デカければ良いと言うものでは無い……ないけど欲しい。


「随分と大きいね?」

 魚を陸揚げしている

「ああ……最近、以前と違って成長しきった大型のが沢山獲れるようになったのは良いが、こいつは足が速いから困りもんさ。頭を落として左右と腹と背に切り分けても、背の方は何とか売れるが脂ばかりの腹は売り物にならなくて始末にも困る」

 ……それを捨てるなんてトンデモナイ。


 欲しい。欲しいんだ。前回のマグロは確かに現実世界のマグロに比べて美味かったが、このサイズを標準とするなら一メートル二十センチだった前回のは若すぎたのだ。確かに腹身にもトロと呼べるほどの脂は乗っていなかった。


 だが腹身の方だけでも軽くトン越えの大トロ中トロだよ。毎日食っても食い切るにはどれだけかかる?

 想像しただけで胸やけがしてくる、食欲旺盛な中学生男子。未だかつて胸やけなど経験したことすらないこの俺が想像だけでだ。

 一方で胸やけするほどトロを食いたいとく欲求がある。三十代になって普通の肉で初胸やけ体験するくらいなら、俺は十四歳でトロを吐くほど食って胸やけした事を生涯の誇りとしたい。



「という訳で……マグロの一本突きだ!」

 どういう訳なのか自分でも分からないが、テンションが上がり過ぎたのが悪いんだ。

 気付いたら銛を手にしていた。所持金が減っていたので購入したようだが記憶に無い。完全なる無意識の行動だ……流石俺、武術の神髄に足を踏み入れていたという事にしておく。


 何故か俺はここがマグロのいる漁場だと知っている。

 ログデータを確認すると漁師に金を渡していた……つまりそういう事なのだろう。


 察するに俺には河岸でマグロの腹側の部分を購入し、一トンを大きく超えるそれを背嚢に突っ込んだ振りして【収納】し、立ち去る事に問題を感じる理性が残っていた様だ。

 つまり、購入出来ないなら自分で買って捌いてしまえば良い。失敗してもこれだけ大きいのだから身を崩してしまった部分は切り落としてしまっても十分な大きな冊が幾らでも取れる、切り落とした部分も叩いてしまえば贅沢なネギトロになるはずだ。



 マグロが遠洋ではない陸に近いこの海域を回遊ルートにしているという事は食事が目的なので、栄養豊富な河口付近に集まる小魚の群れを見逃すはずが無い。

 俺は高度を上げて鳥山を探す。

 エンカウントした事の無い種をピンポイントで探すのは不可能だが、海鳥で括って表示される全てが対象なので問題は無く、見下ろす視界の範囲の海鳥が全てマップ上に表示されるので、鳥山が完成する前に海鳥達の動きで小魚の群れの動きが分かる。

 俺は小魚の群れを探しながら、銛のグリップエンドに取り付けられた鉄環にロープを通して結び付け、もう一方の端を自分の胴に巻き付けて固定した。


 鳥山と言うほどの規模じゃないが既に上空から海鳥達が海面へと飛び込み小魚を嘴に捉えていくのが見えた。

 俺も高度を下げて海面付近を飛んでいると、波の下を巨大な影が素早く横切り小魚たちの群れへと突っ込んで行った。

「生きたマグロとエンカウント完了!」

 これでマップで水面下のマグロ達の位置を確認出来るようなった……はえ~よ!

 小さいのでも体長五メートルはありそうな巨大マグロたちが時速八十キロメートル以上で泳いでいる。

 小さい物でも二トンクラスが時速八十キロメートルで移動する……これはすなわち、マグロに銛を打ち込んだら俺が死ぬことを意味していた。


 マグロに銛が刺さった瞬間、マグロは逃げようとして深くに潜るだろう。俺は為す術も無く海深くへと引きずり込まれて溺れ死ぬだろう。

 銛を投げる前に気づいて良かった。このタイミングでロードを実行していたら巻き戻しが長すぎて大顰蹙だった。



 仕方が無いので海中へと飛び込む。

 キラキラと輝く小魚──イワシとアナウンスされた。確かにイワシだサイズ的に違和感が無い……マグロと比べて。

『デカいよ。イワシもデカいよ! これなら刺身にしてもいけるんじゃないかと思うくらいデカいよ!』


 俺は【昏倒】を掛けて周囲のイワシを気絶させていく。

 すると気絶したイワシに群がる様にマグロや大型の魚が寄って来るので、そちらもにも【昏倒】を掛けながらドンドン【収納】というサイクルを繰り返した。


 一方、その作業の最中、こんな海の中に居るはずの無い不確定人型の何かがゆっくりと暗い深海の淵へと沈んで行くのが見えた。

 まるでそれは自分が居るべき深き場所へと帰っていくようで……俺は何も見ていない。絶対に見ていない。




「それで本日は──」

 俺が獲って来たマグロのトロを刺身にしてわさび醤油でかっくらう残念な胸有りの美女。

 朝飯の材料を手にした俺は、忙しい朝の食堂に持ち込むような愚は犯さず、ミーアの店に持ち込んだのだが、俺が生食可能な新鮮な魚を持ち込んだとしった腹ペコエルフがあっという間に刺身にしてしまったのだった。

 この間、調理関係以外の会話は無しという恐ろしいほどの食への執念を感じた。

「どの様な──ご用で──」

「今更、それかよ! とにかく食うか喋るかどっちかにしろ」

 肯くと無言で食べ始めてしまった……普通、食うか喋るかどっちかにしろというのは、遠回しに「食うな」という意味だよね? 俺間違えてないよね?

 ちなみに胸の無い方は、最初から丼飯の上にトロを山盛りで乗せたのを無言で掻っ込んでいる。

 これでエルフとしては少食だというのだから恐ろしい。


「どんだけ食うんだよ?」

「お恥ずかしい……これしか食べられないなんて」

 胸の無い方が項垂れながら答えた……俺の想像の範囲を光の速度を超えワープして別の銀河へと旅立ってしまった。。

「私も、この辺りが限界かと……」

 ちなみに胸のある方は、俺の倍以上。胸の無い方は五倍ほどは食べている。

 それも体育会系の中学生男子がレベルアップで強化された消化機能を限界まで酷使したその上を行っているのだ。


「はっきり言ってお前らの食欲が羨ましい。俺はどんなに腹いっぱいに食べても、全力で身体を動かすと体力が切れて動けなくなるのに……」

「人間とは本当に残念な生き物ですね」

「全くだ」

「残念なのはお前等エルフだろう……」

「えっ?!」

 何その意味分からない顔?


 エルフは精霊術とかいう精霊を使役する魔法の類を使うために体力を消費する。そのためには沢山食べられる事が美徳となっているのだろう……価値観が違い過ぎる。


「あまりお勧め出来ませんが、身体に吸収され易く滋養強壮に優れた飲み物がありますが試してみますか?」

 お勧め出来ないと釘を刺されてると躊躇いを覚えるが、それでも食べ物全般が栄養価に優れているこの世界で、身体に吸収されやすく滋養強壮優れると言われては試さないという選択はありえない。

 いや、むしろそういうのこそ試してみたい性格なのだ……でも最初から負け戦と分かっているなら試さないよ。俺はチャレンジャーであって自殺志願者じゃないから。



「お待たせいたしました」

 大きな陶器製の白いミルクポッドを載せたワゴンを押しながらミーアが戻って来た。

「こちらになりますが、お飲みしますか?」

 ここまで来て確認されると、流石に怖く感じるが俺は大きく首を縦に振った。もう後には退けない。前に進むだけだ。


「実食!」

 自らを鼓舞する様にそう叫び、白い液体が注がれたカップを手にする。

 カップの中に生まれた波紋から、少し粘性のある液体である事が分かる、色は濃い白で透明度はほどんど無い。臭いは──

「無理せずおやめになった方が」

 中々飲もうとしない俺にミーアが忠告する。

「くどい!」

 そう言い捨てた俺は、いよいよ時間稼ぎも許されなくなり、覚悟を決めると一気に中身を呷った。


「……」

「どうされました? お戻しになられるならこちらに──」

 そう言って手桶を差し出してくるが、俺は首を横に振ると、一言「美味い! もう一杯!」と叫んだ。


「何を言ってるんだお前?」

 胸の無いエロフがそう告げる。言葉以上に表情が「頭大丈夫か? 死ぬの?」と雄弁に語っている……失礼な。

「ご乱心ですか?」

 峰のある方がもっとストレートに酷い!


「いや、普通にかなり美味いだろう」

 濃厚なミルク、少し独特な癖の様な物があるが決して不快ではなく、むしろ面白いと感じる。味は甘みが強いが、ベトッとした甘さではなくさっぱりと後味を引かない甘さでとても飲みやすい。香草なのか薬草なのかは分からないが茶の様な香りと苦みがあって甘さと相まって、調和のとれたほろ苦さを生み出している。


「っ!!!!!!!!」

 二人の表情はまるでウンコを美味しそうに食べている人を見る目になっている……いや、そんな人も、そんな人を見てる人も見た事無いけど。

「いや、だって美味しいだろ。飲んでみろよ!」

 そう答えながらカップを差し出す俺に、二人はプルプルと首が千切れそうなくらい高速で頸を横に振りながら後ろに下がる。

「これの何が嫌なんだよ?」

「苦いじゃないですか!」

 こみ上げて来るやるせない感情を一言にまとめて叫ぶ。

「子供かっ!」


 後で、インスタントコーヒーをブラックで飲ませたら、二人はその場で倒れてピクピクと痙攣し始めた……本当に苦いのが駄目な生き物なようだ。

「幾らプレイでも酷すぎます!」

 胸の無い方が猛然と抗議してくるが、断じてプレイではない!

「……でもそれが良いかも?」

「おい! 本当においっ!」


 流石に絡みたくないのでミーアに話を振る。

「本当にエルフは苦いのが駄目なんだな」

「駄目です。苦いは悪まのあじです。えるふにがいのたべない、ぜったい、ぜったいたべない……口にするのはくすりとして、がまんしてがまんして……」

 途中から胸のある方は壊れてしまった。それほどなのか? と思うが悪い事をしたとは全く思わない。

 今度、甘いミルクチョコレートを食べさせた流れで、カカオ百パーセントのチョコレートを食らわせてやろうと思うくらいだ。


「つまり、エルフ達は精霊術を使うために、我慢して薬だと思ってあの飲み物を我慢して飲むけど、お前達姉妹はあれを飲めないという事か」

「……はい」

「……面目ない」

「じゃあ、エルフって森に住んでるのに野草とかは食べないのか?」

「食べるはずありません、あんな苦くて栄養にならないものを食べるほど胃に余裕があるのなら肉を食べます」

 この世界のエルフは、俺の知るエルフではない。そう結論付ける。

 そもそも、この世界のエルフ以外に実際のエルフを知らないのに何を考えているのかと疑問に思わない訳ではないが、そういうのを全て飲み込んだ上で、こいつらは俺の知るエルフではないのだ。



 まるでRPGのマジック・ポーションのように体力が回復するのを感じられるほど効き目を感じられたので購入を希望したのだが──

「在庫が無い?」

「申し訳ありません、生産分は森に送る契約になっております。そのためお譲り出来るのは一壺分までとなっています」

 それでも三十リットルはありそうな大きな壺なので、当面はこれでしのいで生産量を増やして貰い、それを分けて貰えればと思ったのだがそうはいかなかった。


「原材料の調達が難しく生産量を増やす事が出来ないのです」

「原材料とは? 条件次第では俺が獲って来る」

「ハチの仲間なのですが、そのハチの蜜が原料となります。使用される量こそ全体の一割程度ですが、あの悪魔の飲み物にとって一番重要なのがその密なのです。問題なのは何処其処に行けば見つかるというのではないので……」

「主にどういう場所に?」

「生態は良く分かってはおりません。採取されるのは人里に巣を作った場合に限られていますが、発見数自体が少ないのです」

 そりゃあ難しいな。しかもハチミツが原料という事は一つの巣から採れる量も限られているだろうし、発見数自体が少ないなら……むしろ良く、あの大きな壺一杯分も分けてくれたものだと思う……


「醤油をくれ?」

「はい。あの魚を食べるために存在するような素敵なソースをいただきたく」

 ミーアが貴重な液体──経口高カロリー摂取液、略してK(経)K(口)K(高)K(カロリー)ドリンクと勝手に命名した。分かっている後で紫村にめちゃめちゃ嫌味を言われることも、カロリーの頭文字がCである事も、だってKKKCじゃ座りが悪いだろ。仕方ないんだ──を渡した代金として要求してきたのだ……むしろ納得出来た。


「だが、ミーアに醤油を使いこなせるのかな?」

「な、何故です?」

「……醤油は肉にも合う」

「そ、そんな!? それじゃあ万能じゃないですか?」

「基本的に何にでも合う」

 好みにもよるだろうが、醤油自体が嫌いだというのでもなければ合わない食材は思い浮かばない。基本的に旨味成分と塩味だからケーキに掛けたら合わないだろうけど、そもそもケーキは食材じゃない。

 それに甘味にだって醤油を使うものがあるくらいだから甘いものに合わせる事も出来る。

「……神?」

 トンでもねえ、あたしゃ……ゲフン、ゲフン。

「取りあえず醤油は渡そう」

 そう言って少し減ってはいるがほぼ一杯の一升入りのペットボトルを渡した。

「ああ、こんなに沢山。今晩はせっかくなので肉料理にもためしてみないと」

「姉さん。私も! 私にも! ……何故目をそらすの姉さん」

 無言で妹に背を向けると胸にペットボトルを抱いたまま、鍵の吐いた棚に仕舞い込む。


「今後も、あれと引き換えに醤油を渡す事で良いか?」

「勿論、可能な限り融通させてもらいますわ!」

 振り返ったミーアは眩しいほどの笑顔だった。



「まあ、だが今後遭遇して密を採取出来るかもしれないから、そのハチの詳細を教えて欲しい」

 どうせ、そのハチもオークなどと同様に報奨金が出るだろうし、更に採取した蜜も競にかけられるだろうから、発見されたという情報を俺が知る前に全てが終わってるだろうけど、万一にも俺自身が遭遇した時の事を考えて聞いてみた。


「正式名は、エピンス。働き蜂の体長は八十センチほどにもなる巨大ミツバチで、形状は普通のミツバチよりもスズメバチに近いそうです」

「そんなのミツバチじゃねえ!」

 間髪入れずにそう叫んだのは品たないだろう。

 普通のミツバチは大きくても二センチメートル程度、異世界と言えども三センチメートルを超える様なミツバチはいないだろう。

 そうなるとエピンスの体重はミツバチの六万四千倍となる。ミツバチの重さはコンマ三グラム程度だろう──トノサマバッタの五分の一──とするとならば二十キログラム弱にもなる。

 そんな巨大ミツバチの巣から獲れるハチミツの量は比較的収穫量の少ない日本ミツバチの場合、一度に獲れる量は三キログラムにもなる。しかも継続的に採取するために根こそぎ取る訳ではないが、エピンスの場合は駆除なので根こそぎ採取してしまう。

 単純に体積比で考えると一つの巣から三キロの六万四千倍、更にすべて採取する分を考えて二倍。つまり三百八十四トンが採取可能になる……うん、あり得ない。

 それだけ一個体が大きいなら、一つの巣のハチの数も少なくなるはずだ。

 普通の大きさの巣に数千匹のミツバチが居るとするなら、エピンスはその百分の一で数十匹程度と考えるのが自然だろう。

 だとするなら四トン弱のハチミツが獲れると推測する。


「……結構沢山作ってるな?」

「ですが、全てを郷に送るという契約になっているのです」

「じゃあ、俺が貰ったアレは?」

「私達に飲めと言う嫌がらせです……ご主人様以外にそんなことされても嬉しくありません」

 俺もお前を喜ばせても嬉しいとは全く思わない。

「分かった、お前達が郷のみんなの思いを踏み躙ってまで俺に分けてくれた事を感謝ししょう。ありがとう……例えそれが醤油欲しさの為だったとしても、ありがとう。本当にありがとう」

 俺の感謝の言葉にに心を打たれたのか、二人は言葉を失う。

 顔を背けているのはきっと頬を流れ落ちる感涙を見られたくないのだろう……多分。




------------------------------------------------------------------------------------




『タカシ散歩行こう! 散歩散歩散歩!』

 俺が起きると……いや起きる前から俺の顔を舐めまわしていたのだろう、顔がベトベトな上に、枕や襟、肩のあたりまで涎で濡れている。

 直接的に舌が舐められた事だけで濡れている訳では無く、大型犬は口元の黒いゴムパッキンが緩く何かと涎が滴るのだ。


「おはようマル……今日は朝から元気が良いね」

 マルの頭を小指と親指で挟んで固定して遠ざけながら残りの三本の指で額の上の部分を軽く掻いてやる。掴んで遠ざけるだけではマルが凹むので、こういう細かい気遣いと小技が必要になる。


『うんマル元気だよ。今日はお散歩楽しみだったの!』

 ここしばらくはユキにべったりで散歩を控えていたくらいだから、散歩への欲求が我慢しきれなくなったのだろうと思えば納得も出来る。

『だから早く準備して散歩行こう!』

 マルの尻尾はブンブンと左右に振れて残像による分身の術状態だった。


 枕カバーを外し枕をファブっておき、枕カバーを持って洗面所に向かい、洗濯籠に枕カバーと共に寝間着代わりのTシャツを放り込む。

 顔を洗い、歯磨きを済ませてから自分の部屋に戻ると、お座り姿のマルは自分の前でユキが寝転がりながら身をくねらせ、前足で宙を掻く様にする仕草に目を細めてうっとりと眺めていた。


「ユキと一緒に散歩に行くなら俺がユキを抱っこする事になるぞ」

 そうするとすぐに機嫌が悪くなるくせに……

『大丈夫! お母さんがこれ作ってくれたの!』

 自分の『所持アイテム』から取り出した何かを口に咥えてテンションマックスといった感じにピンと耳を立てて尻尾を振りまくるマルの姿を【伝心】で香籐に送り付けて、返信が返ってくる前に一方的に遮断した……


「何だそれ?」

『これはね、お母さんが作ってくれたユキちゃんと一緒お散歩バッグなの!』

 ユキちゃんと一緒お散歩バッグ……多分、これが母さんが名付けた名前なのだろう。見た目はペットボトルホルダー。それも最近のペットボトルのネック部分を挟むように取り付けるアルミ製の金具と吊るすためのカラビナの組み合わせになったタイプじゃなく、保温機能付きの袋にハーネスが着いたタイプだった。


『これマルに付けて! そして格好いいって褒めて!』

 身に付ける前から格好良い前提? 褒めるの決定? 納得のいかない思いを胸に抱え込みながらも装着する。

 畜生……想像していたよりも格好いい。胸に小型の樽をつけた山岳救助犬みたいであり、胸を張ってすくっと立つ姿は、オオカミを思わせるシルエットを持つシベリアンハスキーだけに凛々しい。


『格好良い? 恰好良い?』

 ノーと言われる事など夢にも思っていない様子のマルにただ頷くのが悔しい。だから俺は素直に認める事無く「マルに格好良さなど不要! 可愛ければいいんだよ!」と言って抱きしめた。


『マルが可愛い……それは分かってるよ。ずっとお母さんやタカシ達に可愛い可愛いと言い続けられてきたからマルは疑い様が無いくらい可愛いの』

 な、何だと? この図々しいまでの自負心。しかもそれを育てたのが俺自身だと?


『だけど今、可愛いの最先端はユキちゃんに移っているの、だからマルは可愛いだけでは駄目なの! マルはこれから格好良い女を目指すの!』

 か、母さんだ。こんな事を吹き込んだのは間違いなく母さんだ。そもそも母さん以外にいないだろ! マルと話が出来るようになって以来、俺等が学校に行っている間ずっとマルとガールズトークで盛り上がっている様子が頭に思い浮かぶ……何してくれてるの!


 マルは散歩用バッグの口が丁度ユキの前に来るように伏せをして頭を上げて胸を張り、入れと促すように小さく「ワン」と吠える。

 ユキは「ニャ~」一声上げると慣れた様子でバッグの中へと入ると、中で反転してバッグの口から頭を出し、右手を伸ばして招き猫のように手招きをしながら「ニャ!」と短く鳴いた……滅茶苦茶可愛いじゃないか!

 そして、マルのどうだユキは可愛いだろうと言わんばかりの表情に敗北感を覚える。


 俺ではここまでユキの魅力は引き出せない……ま、まあ別に誰が引き出そうともユキが可愛ければどうでも良いんだ。全然負けてないし、むしろ労せずして可愛いユキを見られたんだから勝ってるんじゃないの俺?


「おはようございます主将」

 玄関を出ると香籐が待ち伏せしていた。こいつめ俺の【伝心】を受けて、文字通り飛んで来たな。

「うっ、何ですこの可愛さは!」

 素早くマルとユキを撮影しながら興奮して大声を上げた香籐へ抉るようなレバーブロー。六時前から他人の家の前で大声を出すな。

「それで、お前も散歩に付いてくるのか?」

「はい、御一緒させてください」

 常人なら肝臓破裂は確実な一撃だったのに大してダメージを受けていない様子なので、次回は脇腹に穴が開くような一撃を喰らわせようと誓うのだった。


 散歩に出る。マルは胸元のユキが外の景色が良く見えるようにピンと首を高く持ち上げ胸を張る。

 ユキのためにだろうか今までそんな走り方をしたことが無い上下の振れ幅の小さい側対歩で軽やかに走るのだ。

 大型で精悍な顔立ちと体形のシベリアンハスキーだけに、そんな歩き方が恐ろしいほどよく似合う。


 その様子を香籐が締まらない顔で撮影している。

「ユキの写真はネットにアップしたりするなよ。専門家の目に止まったら見た事ない種だと騒がれたら面倒だ」

 心地好い揺れに身を任せ、顔だけを外に出して夢の中へと旅立ったユキの寝顔を地面に這いつくばって接写する香籐に釘を刺す。

「そうですね。僕の中の可愛い動物フォルダに記録しておきます」

 ユキが異世界生物だと思い出したのだろう、素直に頷いて撮影を止める。

 まあ、外に連れ出す以上は何れ誰かに撮影され、拡散して専門家の目に止まる事もあるだろうが、いざとなったら「さあ、何かの雑種でしょう」でしらを切るつもりだが、こちらからあえて面倒を呼び込む必要はない。



「ちょっと待て、おかしくないか?」

 家を出て三十分ほどが過ぎて、俺は初めて周囲に護衛兼見張りが居ない事に気づいた。

「何がですか?」

「護衛の連中が追いついてこない」

「……確かにおかしいですね」

 奴らが徒歩ではついてこれない速度で振り切ったのだが、そうなれば車を使って追跡するはずなのだ。そんな事にも気付けないほど俺は、香籐もだがマルとユキに夢中になっていたのだった……正直なところ今マップを確認するまで何処を走っていたのかも分からないくらいに夢中だった。


 それはともかくとして俺達が彼らの予想する移動範囲外に出ていたとしても、半径十キロメートル圏内に反応が無いのはおかしい。実際彼らは十五キロメートル以上離れた俺達の家のある友引町(友引市北川区友引町)に展開して……シンボルが敵対・戦闘中を意味する赤に変化している。


「何かが起きているんですか?」

 何かか……俺達に何かがあるとするなら、近隣の不良、それに暴走族。驚く事に我がS県にはリーゼントに特攻服姿の昔ながらの暴走族が普通に生息している。絶滅する前に国が手厚く保護すべきじゃないかと笑い話になるほどだ。


 だが連中が政府がつけた護衛をどうこう出来る訳が無いので除外だ。

 同様に大島関連でヤクザ者が絡んで来たとしても無理だろう。所詮お上には正面切っては逆らえない連中だ。

 ならば可能性は三つしか想像出来ない。


 一つ目は、何らかの大きな事故でも起きた可能性。最近の俺の周囲でのトラブル発生率の高さを考えると十分過ぎるほどにありえてしまう。

 二つ目は、再び転移などの超常現象が起きた可能性だ。これも色々と身に覚えがありすぎて、無いなんて事は絶対に口に出来ない。

 そして最後は、本来俺達に護衛を付けた理由……そう、生還者である俺達の身柄を狙う存在。つまり問題児だらけの日本の隣国達が手を出してきた。

 事故だのオカルトだのよりは、常識的に考えて一番目か三番目なのだが、余り常識的とは言えない自分とその周囲を考えると胸が苦しく感じる。



『櫛木田! 田村! 伴尾! 様子がおかしい護衛達が持ち場を離れて移動中だ。何が起こるか分からない。周囲を警戒して家族の安全を確保しろ!』

 そう告げると俺も戦闘態勢に入る……その前にやる事があった。


『マル。面倒な事が起こりそうなんで、とりあえず眠って貰えるか?』

『……マル頑張るから、タカシの役に立つよ』

 仲間外れにされたと思ったのだろう。マルは悲しげに訴えかけてくる……ズキューン! っと効果音が頭の中で鳴ったよ、鳴り響いたよ。


「主将。胸が痛みます!」

 黙ってろ馬鹿野郎。俺はお前の何倍も心が痛んでるわ!

『……でもユキはどうする?』

『ユキちゃん……寝てるよ。収納!』

 お散歩バッグごと消え去った。

『これで大丈夫!』

 まあ、大丈夫といえば大丈夫なんだが、しかし随分と躊躇いも無くユキを収納したものだ……そうかマル自身よく俺に収納されてるから収納に対する不安とかは無いのか。


『じゃあ、マルここにおいで』

 そう言って自分の左肩を叩く。するとマルは軽くジャンプして俺の左肩に乗っかると両の前足を背中にかける。そんなマルのお尻を左腕で抱えてがっちりとホールドする。

『これ好き!』

 そう言いながら首の後ろで鼻をクンクンと鳴らしながら、頭を擦りつけるようにしているマルに『行くぞ!』と声をかけてから跳んだ。



『マルは戦ったらだめだよ』

 飛び立った後で気づいてマルには釘を刺しておく。

 はっきり言って、マルがどこまで力の加減を出来るのか分からない。オークを狩る時のように一撃で首と刎ね飛ばす様な状況が脳裏に浮かぶ。

『どうして?』

『マルが強い事は今は秘密にしておきたい。マルが強いって事を他の知られているよりも、誰も知らない方がいざという時にとても役に立ってくれるんだ』

 正直に話さずに、丸め込む方針をとる。マルは普段は素直だが一転、ユキに関する事ではそうであるように頑固な部分も多分に持っているので『大丈夫! ちゃんと手加減できるよ』という話の流れになると、むきになる可能性は捨てがたい。


『……? マルが強い事を知っていれば、マルに喧嘩を仕掛けてこないよ』

 確かに犬の世界ではそうです正論です。

『悪い人は、マルが強いって知っていたら、マルが力を発揮出来ないような方法を考えるんだよ』

『どんなの?』

『例えば、マルが眠ってる時にそっとお母さんを攫ったり』

『!』

『マルが散歩している間に、お父さんに怪我を負わせたり』

『大変! どうしよう? お母さん。お父さんが危ない! タカシどうしたらいいの?』

『いや、今のは例えだから、もしかしたらそんな事が起こるかもしれないって事だよ』

『お母さん、お父さん大丈夫?』

 まだ心配そうで、尻尾が垂れ下がってしまっている。


『大丈夫だよ。だからマルが強いって知らない悪い人は、マルを警戒しないからマルの目の前で悪い事をする。それならマルは?』

『悪い人をやっつけるよ! お母さん、お父さんを守るよ! ……分った! だからマルが強くなった事は内緒なんだね?』

『そうだよ』

『タカシ頭良い!』

 尻尾をブンブンと振っている。

 丸め込めた安堵と、嘘を吐いた罪悪感。

 騙される身が辛いかね? 騙す身が辛いかね? ……取りあえず太宰治は最

低だが、嫌いじゃないと思った。


 全力で飛ばすと十数キロメートルの距離などまさにあっという間というのは言い過ぎだが、一分もかかっていない。

『主将。前方のあれは?』

 香籐が注意を促してくる。多分指で指し示しているんだろうなとは思うが、残念な事に【迷彩】を使用している香籐の姿は俺にも目を凝らしても薄っすらと輪郭の辺り微妙に見えたり見えなかったりする程度だ。それでも一緒に並んで飛べるのはマップ機能で互いの位置を確認しているからだ。


 前方に目を凝らしてみると空に張り付いた小さな黒いシミの様なものを発見した。

 前方三キロメートル先の百メートル程の高さに飛行物体が見える。それほど大きくは無いためにはっきりとは確認出来ない。

 これは視力の問題ではなく、朝の澄んだ空気とはいえ三キロメートルも先にある一メートルにも満たない小さな物体は、気圧や気温による空気の歪み、そして空気の水蒸気によってぼやけて見えるので仕方が無い。


『あれはドローンだね』

 突然紫村が割り込んできた。

『ドローン?』

 頭の中でテレビでやってた昭和ギャグ「では、この辺でドロンさせていただきます」を想像する。

『カメラ付きのラジコンヘリと思ってくれれば良いよ』

 貴様、俺の心を覗いたな! と思ったが言うと悲しくなるのでやめた。


『ああ、SFなんかに出てくる監視用ロボットとかもドローンとか言ってたな』

『主将ヘリが』

 青地に赤い縦線が一本入ったヘリ。機体本体の後方にS県警と書かれているので疑い様もなく警察の航空隊の機体だ。やはり大きな問題が発生していると言う事なのだろう。

 何かが起きているなら、ヘリが飛んでいる下だと当りをつけると高度を下げながら飛ぶ。


 するとドローンが警察のヘリへと接近していくのが見えた……撮影? 意味が分からんよ。

 一方ヘリは接近するドローンに外部スピーカーで警告を行いながら退避行動で高度を上げようとするが、ドローンは警告を無視すると速度を上げて接近していく。

 そしてドローンがヘリに接触すると同時に爆発が起こった。


「ちょっと何やってんの!」

 監視用でカメラがついてるだけじゃないのかよ?

『爆弾付とは僕も想像していなかったよ』

 爆発に巻き込まれたヘリは後部のテールローターが壊れたようで、メインローターの回転に対して発生する逆回転のトルクを抑える力がなくなり、次第に機体は回転を速めながら降下を始める。


『行ってくる!』

 そう口にすると、マルには申し訳ないが【昏倒】で眠らせると収納し、香籐の返事を待たずに最大加速で落ちていくヘリへと向かう……俺の町(縄張り)で住宅へのヘリ墜落など許せない。


 最高加速を絞り出すことで気流制御が追い付かず、身体が周囲を覆う風防魔法の膜ごと激しく上下左右にブレるが構わず無理矢理接近し、急制動を掛けて機体尾部に取り付くとテールローターの代わりに回転を抑え込む。


 しかし簡単には回転は止まらない。車に比べれば遥かに軽い素材を使って造られているとはいえ、全長十メートルを軽く超える巨体だけに二トンはあるだろう。それが勢いよく回転するエネルギーは大きく。気流などの制御で最高速度こそは上がったが推力自体は自分とマルの体重を合わせても百キログラムに満たない質量を五G程度で加速する浮遊/飛行魔法では短時間に回転を止めるのは無理だった。


 推力が高すぎると姿勢制御不能になる事から、幾つか前のバージョンから推力に上限をつけたのが災いした。

「くそっ! このままじゃ……」

 次の瞬間、機体の回転する力が弱まる。

 パイロットがメインローターの回転速度を下げる事で機体の回転を抑えたのだ。

 その狙いはすぐに分かった。ヘリは緩やかな螺旋を描きながら少しずつ東側にある空地へと移動している。つまりある程度の操縦性を回復させるためにメインローターの回転を抑えた……だがそれでは落下速度は上昇し、パイロットを含め乗員が助かる可能性はより少なくなる。


「ちっ!」

 ニュースなんかで、飛行機が住宅地に墜落して民家にいた住人が死亡なんてのを聞くと「他人の家に落ちるな、勝手に川にでも落ちて死ね」と思う。

 それが人として最低限の責任感だと思うが、こうして自分の命を懸けて住宅への墜落を避けようとする彼等を前にすると、それが当たり前の事ではなく人として尊い行いに思えてならない。

 何とかして……一線を越えてでも助けたいと思ってしまう自分に舌打ちする。どうしてこうも情に流されるんだろう? クールではいられないんだろう?


『主将! 迷うくらいなら助けましょう!』

 地上まで三メートルを切った状況で香籐の声に押されて俺は行動に出る決意を固めた。

 テールローターの位置で回転を抑えながらヘリと一緒に降下して行く。

 比較的幅の広い住宅地の路地を目指しているようだ。近くに公園が無いわけではないがこの時間はむしろ路地よりも爺さん婆さんで人口密度が高い。

 道幅は五メートル程度。東京の様な人口密集地帯と違って土地の使い方が贅沢なのが救いだ。

 タイミングが難しい、着地……墜落の前に乗員を【昏倒】で眠らせて収納する。

 勿論、収納して終了なら都市伝説が生まれてしまうので、すぐに元の位置へと取り出す。取り出されたヘリは運動エネルギーを失っているので取り出した高さからの落下する。

 ここで問題となるのはどの高さで取り出すのかだ。

 墜落ぎりぎりまで粘れば着地と呼べる状況を作り出す事が出来るが、それもまた都市伝説になる。

 理想的なのはヘリは壊れるが修理が可能な範囲に収め、乗員も骨折程度の怪我を一人くらいはして貰わないと「不幸中の幸いでしたね」では済まないだろう。

 問題は、理想的条件にするにはどれだけの高さから落とせば良いのかが分からない。

 ヘリへのダメージを考えるとニ~三メートル程度ぐらいが良い気がするが、乗員達が意識を失った状態で落とす事になるので、一切の防御行動がとれない状況なのでその高さだと死人が出かねない。


「ええい、儘(まま)よ! 【昏倒】【収納】からのこんなん出ました!」

 元の二メートル高さに出現したヘリはそのまま落下する。地面との衝突でランディングスキッド(ヘリの足)はひしゃげ、胴体部分は腹を打ち繊維強化樹脂製の外装部分が割れて粉を飛ばす。

 周辺マップはで乗員を確認すると全員生きている事は確認出来た。


『どうか骨の一本でも折って、奇跡的に死者は出ませんでしたで済みますように』

 罰当たりな事を祈りながら中央右側の開いている入口から中に入る。

 チェックするとパイロットが脚を骨折しており、もう一人が右手首を負っていたので、それは治療せず、頭から胴体の重要な器官がある分だけに【大傷癒】で治療を施した。


 ヘリコプター本体のダメージは、素人目にはもしかしたら修理したら飛べるようになるかもしれないね。という感じで修理するにしても一億とかかかるんじゃないだろうかとも思う。まあ新品で三百万ドル以上する機体なので、頑張って修理して飛ばして欲しいものである。

 県警本部の偉い人達が涙目になる姿が目に浮かぶが、それは俺が気にしても仕方が無い話だ。


『他のドローン五機は僕と香籐君で全て回収したよ!』

『ヘリの墜落に気を取られていたようで、こちらのドローンに注意を向けている者はいなかったので、収納して消える瞬間は目撃されて居ないはずです』

 流石抜け目なし。ヘリ墜落の大惨事を防ぐためとはいえ不自然な形で力を行使してしまった考えなしの俺とは違う。

 良いんだ高城家の教育方針は『拙速でも良い、逞しく育って欲しい』と昔父さんが言ってたんだ……当然、嘘だ。



『どうやら、撤退を始めたようだね』

 不測の事態により上空の目を失った事で作戦の遂行を諦めたのだろうが、それより気になったのは──

『被害はどうなっている?』

 自分で絞り込みを掛ける手間すらもどかしく紫村に尋ねる。

『犠牲者は無しとはいかなかったようだね』

『どれくらいだ?』

『僕達の護衛に来てた警察官達の内五人が撃たれて、三人が重傷、二人が重態だね』

『空手部の部員、その家族、そして一般人の怪我人や犠牲者は?』

『死傷者は警察と襲撃者だけだね。この時間帯だった事と日本の警察が有能だったお陰だよ。他には襲撃側の奴らが五人死亡。これは負傷して動けなくなった見方を口封じに始末したみたいだ』

 流石に彼らを大島のように生き返らせる訳にはいかない。一時的にとはいえ彼らをパーティーに入れてシステムメニューの存在を、そしてそれを持っているのが俺だと教えることは出来ない。


『そうか……櫛木田! 田村! 伴尾! 一匹たりとも逃がすな、この町で俺達に喧嘩を売ったの愚かさを思い知らせてやれ』

 この抑えきれない怒り、それはまるでシマを荒らされたヤクザのようであり、実行犯の下っ端風情からけじめを取って終わらせてやる気などない。今回の絵図を描いた本人からきっちりとけじめを取るまで治まる事は無いだろう。


『殺る(やる)のか? ……よし、殺ろう』

『これで俺も童貞卒業か』

『大島はいつ、この一線を越えたんだろう?』

 動揺する様子もなくあっさりと覚悟を決めてしまう。普通の人間とは神経が違うというか人間として何か大事な部分が壊れてしまっているのだろう……最大の理由は、平衡世界への転移事件だ。お化け水晶球との戦いによって、紫村……はちょっとわからないけど、香籐が変わったように三人も変わった。そして他の部員達にも大きな影響を与えたのは間違いない。


 ちなみに伴尾は大島が殺人を犯している事を前提にしているが、俺がそれを確信したのは空手部のお試し入部期間を終えた翌日の事だ。

 思えば、田村なんてお試し入部期間の初日に「あれは人殺しの目だ」と断言していた。


 つまり我々は、平衡世界への転移事件よりももっと前に、人間は人間を殺すものだというあきらめにも似た認識を心には刷り込まれている。

 人間が人間を殺す生き物ならば自分や大事なものを守るためには、何時か何処かで命のやり取りをしなければならない時が来る。

 そんな確信を持たずに我々がここまで強くなる筈が無い……もっとも、その命をやり取りする対象は大島だったんだけど。


『殺した殺せばいい。だが何人かは生かしておいてくれ、異世界送りにした上で聞かせて貰う事がある。それから証拠になりそうな物は残しておけよ。警察だって犠牲を払って戦ったんだ。せめて何か手掛かりくらいは欲しいだろう……例え答えに届かなくてもな』

 どうせ特殊部隊の連中が自分の身元が割れるような証拠を残すはずがないだろうが、何らかの仕事をしたという状況が警察には必要だろう。


『何なら全員生かしてやっても構わない。一方通行、全員あちらの世界から戻れないんだから』

 俺達のホームを汚した以上は、後悔という言葉の意味を必ず身をもって理解させてやる。

『それから目立たなくやるのは当然だが、無理に隠す必要はない。むしろ自分達がやったという痕跡は残せ、そしてどうやったかは警察だけじゃなく敵に対しても徹底的に隠せ。疑われても追及出来ない状況なら問題ない』

『良いのか?』

『どうせ疑われるんだ。俺達がやったというのを完全に隠しても無駄だろ。むしろ徹底的に隠蔽したとしたら、どうやって隠蔽したのか方が重要視され追及される。だから普通に奇襲をかけて倒したのだろうと解釈出来る程度の証拠は構わない』


 仲間達が遅れをとるなんて心配はしていない。

 俺達は大島から訓練を受けた職業軍人五人相手に奇襲をかけるとするならばという条件でレクチャーされた事がある。

 先ずはタイミングを計ってやり過ごしてから、走る連中の前方十メートルほどの位置に落ちるように石を高く放物線を描くように投げる。


 ほとんど真上から落ちてくる石が、後ろから投げられたのか前からは投げられたのかは一瞬では判断は出来るものではない。

 判断は石が転がる方向が基準になる。

 その為に強くバックスピンを掛けて投げ上げる。地面に落ちた瞬間に僅かでも手前に転がれば相手は足を止めて前方へと注意を向けるので、その一瞬の隙をついて攻撃を仕掛ける。


 注意すべきは投げる石の形状だ。風を切ってしまいそうな凹凸のある物や平たい形状の場合は強いバックスピンで風切り音が鳴り全てが台無しになってしまうので石を用意する場合は形状に気を付ける。


 最初の一人に対しては、完全に背後から襲い掛かり、最小限の打撃力で十秒程度の相手の戦闘力を奪う事が出来、正確な狙いが必要ない攻撃、つまり股間への打撃が最適だろう。

 何せ下から腕なり脚なりを振り上げれば、特に狙いをつけなくても相手の内腿がガイドとなって必ず股間の急所へと導いてくれるという親切設計……人体って不思議だね。

 喰らった瞬間目の前が真っ白になり、身体を動かす事だけではなく、何かを考える事すら出来ぬままに数秒は経過し、立ち上がれるようになるまでに、どんなに鍛え上げられた肉体と精神、そして揺るがぬ決意を秘めていようと最低でも十秒は必要な打撃……思い出すだけで俺の可愛い可愛いタマタマがキュッとする。俺なら立ち直るのに十秒どころか一分間は欲しい。


 不意を突いての奇襲は最初の三秒間が勝負だ。訓練されている人間なら三秒間あれば頭の切り替えが出来る。

 なので自分が圧倒的に優位にあると信じてノリと勢いだけで倒し切るのが大事であり、少しでも「アカン!」と感じたなら全力で逃走を図るべきだ……そうだ。


 そう教えを授けた大島だが、奴が敵に背を向けて逃げるという状況は容易に想像出来ない。しかし大島が奇襲という手段を選択する段階で相手が相当ヤバイって事は察しが付く、謎の海外渡航期間に奴が何をしていたのか疑惑kが深まる一方だ。


 背後から身を低くして襲い掛かり、同時に二人目の股間の急所を、腕をすくい上げるようにして打ち戦闘不能に陥れ、更にそのまま二人目を前にいる敵へと突き飛ばしながら、追いかけるように前に出て距離を詰める。


 三人目の敵は物音に振り返るだろう。だが武器を持っている人間は意外なほど自分が持っている武器への攻撃に対して備える意識を持たないので、相手の武器が狙い目だ。

 武器が刃物で右手に持っているなら、右回転で振り返る──右手に武器を持っていて、反射的に左回転で振り返る奴はいない。常に武器を相手と自分の間に置いておきたいと思うのが人間だ──敵に対して接近すると、自分の左手を刃物を持つ相手の右手の甲に重ねて、小指と薬指を相手の手首の内側に回し、そこを支点として被せるようにして手首を内側に曲げてやる。


 人間の関節は基本的に内側に曲げる力が強い分、外部からの内側に関節を曲げる力に対して抵抗するのは難しいので、タイミングさえ間違わなければ、女の細腕でも屈強な男の手首を捻る事は可能だ。


 後は刃物の切っ先が相手の身体に向いた状態で、空いている右手でグリップエンドを平手で強く打ってやると刃先は相手の左肩の関節の内側辺りに突き刺さる。余程関節が柔らかくない限り、そうなる様に人間の身体は出来ている。


 相手が持っている武器が拳銃ならもう少し簡単で、先ほど同様に相手が拳銃を持っているのが右手なら、左手を相手の右手の甲に重ねて、手首を折り曲げてやりながら親指を相手の人差し指に重ねて押してやると、撃鉄を引いてある状態なら銃弾を発射する。

 刃物と違って拳銃の場合は、銃口を身体に押し付けておけば良いのであまり深く考える必要はないが、三回に一回位は心臓を打ち抜いてしまうそうだ……これは人差し指も柄を握り込む刃物に対して、人差し指はグリップを握り込まずにトリガーガード内に差し入れてる状態の拳銃との違いで、人差し指を握り込んでいない分、手首が内側に曲がり易いためだ。

 そして何より注意するべきは自分の人差し指は相手の親指の第二関節の下を握り込んでおかないと発射時に後退する遊底のエッジで指が削られるから注意する必要があるそうだ……あの男は中学生に何を教えているんだろう? 大体相手の心臓を打ち抜いて死なせない方を普通は注意するだろ。


 五人中三人を一時的に戦闘不能に陥れた後は、流動的に対処する必要がある。この段階で、最初の二人の股間への攻撃を加えてからすでに一秒は経過しているので、残りは一人一秒のペースとなる。

 問題は想像される位置取りが三人目を挟んだ先に残りの二人が居るという状況になっているだろうという事だ。

 ここは自分が回り込むよりも、障害となる三人目を移動させるべきだろう。

 つまり三人目を残りの内、より近い位置にいる方へと突き飛ばすが正解だ。


 一対複数の場合、複数側の人間は自分よりも相手に近い位置に味方が居ると、良くも悪くも心に余裕を持ってしまう。

 そこで、こちらで順番を変更してやる事で短期決戦には何よりもありがたい相手の動揺を作り出す事が出来る。

 隙を突いて四人目との距離を詰めるが状況次第では、こちらの間合いに入る前に相手が動揺から立ち直る可能性がある。

 その為には飛び道具を用意しておく必要がある。一握りの砂でも良いし小石でも十分だ。それらを闘うと決めた段階で用意するのが俺にとっては常識だ。


 きっと櫛木田達は最悪な道具を用意しているだろう。何せ、大島の例の仕掛けの事を「まさにドラゴンブレス」「その手があったのかと思った」などと感心していたから必ず用意しているだろう……だが大島の真似をしては大島を出し抜くことは出来ないという事は奴らの頭にはないだろう。


 俺なら、最初に投げる小石を拾う時に他にも二、三個は見繕ってポケットにでも忍ばせておく。それを手首のスナップだけで相手の顔目掛けて投げつける。

 人間は自分の顔に向かって飛んでくる物は良く見える。そして良く見えるからこそ、目にでも当たらなけばどうって事の無い小石に対処してしまう。

 そして受ける躱すなどの行動をとろうとして、肝心な敵自体から目を切るというミスを犯す。

 俺にとっては一瞬の隙があれば十分だ。後は眼球、股間に次ぐ俺が受けたくない攻撃ベスト三。先ほど香籐に食らわせた肝臓への打撃が良いだろう。


 レバーブロウのダメージは股間への一撃と同様に内臓器官自体から発せられる痛みではなく内臓器官を包む腹膜が由来の痛みだが、何故か同じ腹膜でも痛みの質が違う。

 股間への何も考えられない痛みじゃなく、何というか痛くて何もしたくないと思ってしまう痛み……この痛みが引くまで大人しく地面に蹲っていようと冷静に頭が判断してしまう。そんな痛みだ。


 残り一人、ここまでくると相手の状況、行動は共に読めはずが無い。同じ条件でのリアクションの多彩さが高度な知能を持つ人間の特色だ。

 だがしかし、相手が準備万端で構えていない事だけは確かなので、十分主導権は握る事は出来るはずだ。

 主導権を握った状況とはいえ一撃で勝負を決められるかどうか? 愚問だ。それが出来ない化け物クラスの実力者相手なら、もっと早い段階で全力で逃走に移っている。

 そこまで実力差が無いなら、既に四人を倒して良い感じに脳も身体も全力運転状態になってるこちらに対して、相手は、あっという間に仲間を倒され状況が良く把握できていない状況だ。

 強気で行けば必ず相手を呑めるし相手もこちらに呑まれる。ただ相手を呑んでかかるだけでは負けフラグだが、相手が呑まれてくれるなら必ず勝つ、それが闘争の本質だ……そう大島が言っていた。


 何度も大島から拳を交えた説教を受けながら、その課題をクリアする。つまり今俺達が三年生でいられるのは、大島が俺達の技量がそれに叶うレベルになったと判断したからだ。

 もしも、二年の三学期を終えてそのレベルに達していなければ、素敵な春休みを大島とずっと一緒に満喫する事になるのだ。

 むしろ俺達は、伴尾がそうなれば自分達は平和な春休みを過ごせると期待していたくらいだ……人でなし? いや人間として当たり前のエゴだよ。



『紫村。敵は正確に何人いる?』

『現在、二十八人だね』

 一人頭五人で計算すると、二人も足りなく喧嘩になりそうだ。

『死んだのを含めると三十三人、一個小隊……特殊部隊なら二個小隊ってところか? とにかく紫村は上空で俺達に指示を出してくれ』

 紫村を上空に待機させることで三人余った。これで三馬鹿が喧嘩をしないで済む……良かった良かった』

『誰がそんなので喧嘩するか!』

『そうだ。俺は大人だから櫛木田に譲るぞ』

『俺も我慢して櫛木田に全部譲るよ』

『何たる思いやり、良かったじゃないか櫛木田』

『お前等、上等じゃねえか!』

 喜んでもらえて俺も嬉しいよ。


 それにしても特殊部隊二個小隊なんて豪華な編成は普通無いだろうとは思う……俺の身柄を確保する意味に奴等が気づいていない限り。

 そして日本でこんな真似を行えるのは、普通の軍人なはずが無い。つまり特殊部隊を送り込む程度の疑いを持っているのだろう。

 本気でヤバイ気がする。国家レベルというのは流石に手に余る……政治、軍事のトップを根こそぎ狩り尽くしでもしない限りは絶対に終わらない戦いになってしまう。出来無いとは言えないのが悩ましい。



『了解。早速だけど高城君から見て北東の方向で組織だって撤退をしている九人の集団がいるよ。他は彼らの撤退を助けるように強く抵抗して警察の目を惹きつけている事から、間違いなくどうしても逃がさなければならないスタッフが集団の中にいるようだよ』

『どうしても逃がさなければならないだって? そんな奴を態々こんな現場に連れてくるなんておかしいだろ……それって誰かを拉致したんじゃないのか?』

『ああ、なるほど……じゃあ高城君頼んだよ』

『任せろ!』

 そう答えて上空から接近していくと……おかしい。


 スーツ姿──それぞれ違う色や柄のスーツだが、似たような鍛え上げられた身体付き──の集団の中心にいるのは、一人だけ休日の繁華街に幾らでも良そうな格好をし、ひょろりとして身長だけは高い男。そのニキビ面から十代半ばの少年に見えるが、別に拘束されている様子はなく自分の足で歩いてるので拉致されているように思えない。


『紫村。拉致されてるようには見えないのがいるぞ!』

『だろうね』

 おい、その態度は何だ?


『だろうねって、お前も俺の意見になるほどって言っただろ』

『なるほどそういう可能性も否定出来ないよね。略してなるほどだよ』

『略すな!』

『だって僕が間違いないと太鼓判を押したのに無視するから……』

『どういう効果を狙ったかは知らないが、拗ねても全く可愛くないし、可愛かったら気持ち悪い』

『冗談だよ……黄砂と共にやってきた迷惑な一党独裁政党の私兵共の中で、同じ拳銃程度の装備でSPと互角以上に戦えるとしたら特殊部隊の類でしょう。そして貴重な特殊部隊を二個小隊も日本まで送り込んで大事にするのなら、システムメニューに気づいてる可能性が濃厚だから、そうなれば向こうも対抗策としてシステムメニューを使えるスタッフを用意するはずじゃないかな?』

『そ、そうだね……』

 俺達以外にレベル六十に達している奴はいないだろうが、例えレベル一でも厄介な能力が紫村達とは違うオリジナルのシステムメニュー所持者には備わっている。

 それは【セーブ&ロード】だ。


 俺以外に【セーブ&ロード】を使用可能なオリジナルシステムメニュー保持者が複数いるはずなのに、今まで一度も俺以外による巻き戻し現象を体験というか認識出来ていない。勿論、俺以外の誰もロードを実行したことが無いなんて事は無いだろう。つまり自分以外のオリジナルシステムメニュー保持者のロードにより時間を巻き戻された事は、オリジナルシステムメニュー保持者にも認識出来ないという事であり、それは自分で実行した巻き戻しとは違い、記憶情報すら保持出来ないという訳だ。


 つまり自分よりも古いセーブポイントを持った相手と闘う場合、どんなに俺が相手よりも強くても自分では気付く事すら出来ない永遠のループに引き込まれる可能性がある訳だ。

 そうなった場合、相手のセーブポイントの方が古いので、途中で何かの拍子に俺がロードを実行して状況を変えたとしても、最終的に相手にロードを実行されると元の木阿弥になる。

 こちらはループしている事に気づけないのに、相手は何度でも同じ時間の中でこちらの行動を観察し対応手段を探し出して、最終にこちらを出し抜く事が出来る……勿論、無限の選択肢の中に俺に対抗する手段が存在したらの話であり、相手がロードを実行する前に殺すか意識を刈り取れば良いので、絶対に勝てない訳では無い。だが非常に厄介なのは確かだ。


 マップ機能でシステムメニュー保持者で検索を掛けると眼下の少年を示すシンボルにチェックマークが出た。

 【迷彩】で姿を消しているとはいえ、百メートル以上離れた俺の存在を認識出来ないのは、レベル六十でのマップ機能の拡張が行われていないためだろう。


 面倒だからここで始末してしまうか? そんな思いが頭の中を過る。仕掛けてきたのは相手側であり、俺や俺の周囲の人間にとって害悪になる以上手加減の必要はない。


 それでも躊躇うのは、人類愛とかそんな気取ったお題目ではない。単に自分が一線を越える事への躊躇だ。

 本来なら、無理に殺す価値もないので一瞬で気絶させて収納して、その存在を記憶の底に沈めて二度と思い出さないというのが一番だろう。


 だが今なら殺しても生き返らせる方法がある。どうせずっと収納しっ放しになるならば、気絶した状態であろうと死体であろうと何ら変わりはない。

 むしろ何らかの理由で俺が死ぬ事で解放されてしまう可能性があるので、【反魂】により蘇生させるという手順を踏まない限り完全に無力化されているという方が望ましい。つまり、復活させるかさせないかはともかく現状で生かしておく理由が無い。


『うん、殺そう!』

 そう呟いた時には、夢世界の市場で買った梅に同じくらいの大きさに硬い食感。そして桃に似た香りを放つ甘い果実が、音速の三倍の速度で奴の頭蓋骨の額の部分をぶち抜いて、中で脳と甘い果肉が混ざり合っていた。


 脳を破壊されてロード実行をシステムメニューに指示する事も出来ずに崩れ落ちる。

 急降下しながら、まだ何も状況を飲み込めていない他の八人を【昏倒】で気絶させて収納する。そして着地と同時にオリジナルシステムメニュー保持者を収納しようと手を伸ばした──


 直後、奴の死亡をシステムメニューが確認したのだろう。【所持アイテム】内に収納していた物品が幅六メートル弱の路地を埋め尽くすように溢れ出したので、慌ててシステムメニューを開いて時間停止状態にすると遺品を次々と収納した。

 時間停止までのタイムラグは数百分の一秒程度に抑えたので、人間の目どころか、ハイスピードカメラでも無い限りは普通のビデオカメラでは撮影さえ不可能だろう。

 それにしても俺も死んだらこんな風に……いや、違うな俺が収納している量を考えると、周囲は百メートルくらいは俺がぶちまけた物に飲み込まれるだろう。

 しかもその大半が生ものだ……想像したくない。


『レベルが一上がりました。レベルアップ前の余剰経験値はそのまま繰り越します』

 いきなりのレベルアップのアナウンスで俺はレベル百七十八になった。

 余剰経験値の繰り越しという言葉に、システムメニューで経験値をチェックしてみると、レベル百七十七になるために必要な経験値分を超えていた分がそのままレベル百七十八になるために必要分の経験値に上乗せされていた。


『今レベルアップした?』

 他のメンツに【伝心】で尋ねる。今の状況なら他の奴らにも経験値が分配されている筈だが、答えは『何の事だ?』『別に殺してないしレベルアップするはずないだろ』『というかお前殺したのか? 殺したんだな!』と突っ込まれた。

『オリジナルシステムメニュー保持者だ。面倒だから殺して収納した。生き返らせる必要が出来たなら【反魂】を使えば良いだろ』

『流石高城。命を弄ぶ悪魔め!』

 事実だけに胸に鋭く突き刺さり、思わず笑った。


 レベル表示の右斜め上に星のマークがついている。所謂撃墜マークなのか?

 自分以外のシステムメニュー所持者。多分、オリジナルのシステムメニュー所持者を倒したという証……つまり、システムメニューは他のシステムメニュー保持者を狩る事を推奨している可能性が高いって事だ。

 これは認識を改める必要がある。システムメニューは俺達にデスゲームを仕掛けているという事になる。

 その目的は……間違いなくたった一人の絶対的強者を生み出す為だろう。

 夢世界で戦いレベルアップを果たした者だけがアドバンテージを得るゲームだ……


 夢世界での戦闘では頭打ちになったレベルを、システムメニュー保持者同士の星の奪い合いでより高みへと引き上げる訳だ。

 多分、いや間違いなくこのゲームの現在のトッププレイヤーは俺だろう。しかし全く安心する気にはなれない。

 システムメニューは何者かに作られた物だ。製作者の意図が必ずある。そしてそいつの性格は『いい性格している』という言葉がぴったりだと確信している。

 そんな奴が、後半になってダレるような展開にゲームをデザインするはずが無い。俺なら絶対そうしない……い、いや、俺の性格には何の問題も無いよ。


 とにかくだ。終盤で一つ二つどんでん返しを入れてくるのは間違いないと断言出来る……カシオミニを賭けてもいい。

 しかもそれだけではないだろう。たった一人の絶対的強者を生み出すのは手段であって、そいつに何かをやらせるのが真の目的なはずだ。

 馬鹿な奴だ。それなら俺などにシステムメニューを与えるよりも大島に与えておけば良かったのだ。奴がこのゲームに最初から参加していたなら、今頃はレベルは四桁に達してゲームをクリアし、次なるステージを攻略している事だろう。

 そして地球も、夢世界も、そして平衡世界も全て大島の手によって滅んでいるだろう……うん、何者かは知らないがナイス判断。俺に任せて大正解。



 溢れ出した物品の中で一際目立つのはヘリコプターと三十フィート級のプレジャーボートだ。

 正規ルートで入国したが、日本で騒動を起こしたら正規ルートは使えないので、帰りの足とするつもりなのだろう。

 他には銃器の入った木箱、堂々と他国に輸出しているライセンスを結んでない中国製のクローン銃ではなく欧米の銃器メーカーの純正品だった。

 まあ当然だろう、中国製クローン銃を使えば、どう言い繕っても中国の関与が疑われる。

 日本から遺憾の意を表明されても中共のトップどもは歯牙にもかけないだろうが、国際社会から非難されると途端に面子が潰されたと喚き散らすので現場レベルで配慮したのだろう。


 それから大量の弾薬と爆薬類などの装備品。そして食料など。他には活動資金なのだろう円で千五百万とドルで十万の現金。

 そして……「それにしてもとんだおき土産だな糞野郎が!」

 数十体の人間の遺体があった。


 よく考えれば、自分の手を下さないだけで修行と称して紫村や香籐、櫛木田達を何度も何度も死ぬ目に遭わせていたのだから、こいつ如きを殺す事に対して躊躇いを感じたのは幾らなんでも紫村達に失礼過ぎだ。


 更に胸糞が悪いのは【所持アイテム】内のリストでシステムメニュー持ちを表示すると【危険物が内蔵されています】という警告が出た。チェックすると体内に爆弾が仕掛けられている事が分かった。

 しかも心臓の鼓動を一定時間確認出来ない状況になると自動的に爆発するという糞っ垂れ仕様。本当にどいつもこいつも糞ばかりだ。


 【所持アイテム】内に収納した物をリスト表示すると、遺体の中に四人の日本人がいる事が確認出来た。

 レベル百四十での【所持アイテム】機能の強化で、収納アイテムリストの説明がより詳細になっているおかげで死者の名前から死亡日時までも分かる。

 日本人は、全てこの数日中に殺されており日本への潜入時に目撃者などを始末し、死体を隠すために収納したのだろうか?

 いや北朝鮮の工作員のようにボートで日本海側に潜入しなくても、普通の旅行客としいて入国すればいいだから、大きなへまをやらかさない限りは目撃者を始末するなんて状況にはならないだろう。だとすると答えは一つ、遺体が全て女性であるという事はそういう事なのだろう。

 しかも乱暴されて殺されてから【収納】されるまでにかなりの時間が過ぎていた様で【反魂】も不可能だろう。


 奴は死体のままで【所持アイテム】内で塩漬けに決定だ。

 だがとても頭の痛い問題が残った。それは奴がまき散らした物の中に、失神した状態の別のオリジナルシステムメニュー所持者がいたという事だ。

 本当にどうしよう? 分からないので保留にして、とりあえずは忘れよう……本当に忘れてしまいたい。



『こちらは終わったぞ』

 櫛木田から連絡が入る。続いて田村、伴尾から完了の連絡が入る。

『取りあえず全員、両肘両膝は砕いて無力化してから収納した。そちらに送るから受け取れよ』

『ああ、分かった』

 今回は殺さなかったという三人の判断は尊重しよう。人を殺さずに人生を全う出来るなら、それは素晴らしい事なのだから。


『主将。僕の担当ですが既に北条のご老人に倒されてました』

 あの爺なら間違いなくやるだろう。大島と同じ人種で、自分の目の届く範囲で自分以外の乱暴狼藉は絶対に許さないだろう。


『うん……そういう事もあるよね。それで連中は真っ二つか?』

 横や縦、もしくは斜めに二つにされた肉の塊がゴロゴロと転がっている惨状が頭に過る。

『いえ、生きてます』

『たまにはブレーキが利くこともあるんだな……じゃあ、手足がバラバラとか?』

『両肘、両膝を砕かれてますが繋がってます』

『……やるなブレーキさん。想像以上に使えてびっくり!』

 あの中学生にすら真剣を振るうような、やっとう(剣道・剣術の意)キチガイだから獲物を前にして斬らずにはいられないと思ったのに、住宅地を血の海に変えないだけの自制心という名の安全装置を搭載していたという事実に驚きだ……もしかしてマイナーチェンジした新型?


『あのご老人。【迷彩】で姿を隠して身を潜めていた僕に気づきましたよ』

『老いたりといえども大島と同じカテゴリーの生き物だ。出来ても不思議はない』

 霊長類ヒト科というより『霊長類、人か?』に属する危険種だ。その程度の事が出来ずに人類の天敵を名乗る事は出来ない……


『それで爺は、連中を倒した後どうした?』

『銃やナイフなどの武器と財布を回収して立ち去りました』

『追剥だろ!』

『実に自然に手慣れた様子でした』

 ……本当に恐ろしい爺だ。奴の頭の中は戦後の色々どさくさ時代のままか?


『ま、まあ良い。櫛木田と田村と伴尾は武器の類はどれでもいいからスーツを脱がして、それに包んで電柱にでも吊るしておけ。財布は中身を抜いてごっつあんして良いぞ。それから俺が回収した分の千五百万円と十万ドルは山分けにする』

『千五百万?』

『た、高城、ドルは当然米ドルなんだよな?』

『一人頭二百五十万円と一万六千六百六十六ドル!』

 額を聞いてはしゃぐが、大学生くらいになっているなら中古で車を買おうとか、海外旅行にでも行こうかとか、趣味にガッツリ突っ込んでみよういう考えも出てくるのだろうが、中学生の俺には額がデカすぎて使い道が思い浮かばない。

 特に趣味の薄い俺達には「猫に今晩は」状態だろう。、唯一、紫村が「これっぽっちじゃ何も出来ないよ」と嘆くくらいのはずだ。


『高城君。櫛木田君達に渡すと出所不明の大金の使い道が問題になりそうだから止めておいた方が良いよ。それより我々の活動資金としてプールするか……』

『プールする……か?』

『僕に預けててくれるなら多少は増やしておけると思うよ』

『良し預けた!』

 紫村以外が言うのなら「この詐欺師め!」と一発ぶん殴って警察に突き出すところだが、紫村なら大丈夫だろう。俺は紫村にならケツ以外なら命さえ預けても構わないくらいに全幅の信頼を寄せている。


『えええええっ!』

 だが三人は動揺した声を上げる。

『うるさい。連中の財布から抜き取った金で我慢しろ』

『横暴だ!』

『金よこせ!』

『今年の夏は遊ぶんだ!』

 『ああっ? 今年は三年の夏だぞ』

 最後の伴尾のふざけた発言に全員から突っ込みが入る。


『今更、真面目に受験勉強をしろって言うのか? 馬鹿らしいだろ』

『先輩。我々はチートです。ある意味ズルをしているんです。せめて周囲に対して努力をしている姿勢くらいは見せましょう』

『加藤の言う通りだ。他の連中の手前それくらいの配慮はしろ。受験でも満点を取れる自信があるからとこれ見よがしに遊びまくるのは、流石にどうかと思わないか?』

『だけどなぁ~』

『想像じてみろ。お前だけがレベルアップが出来なくて、俺達が遊びまくって適当に受けた試験で満点を取る様子を』

『……俺って最低だな』

 そう認めた伴尾に対して『そうだお前は本当に最低な奴だ!』『この最低な蛆虫め!』などと、ここぞとばかりに櫛木田と田村の吊し上げが始まる……仲が良いなお前ら。


『おい、こいつらの財布の中凄いぞ!』

『全部で五十三諭吉と三十五ベンジャミン(一ベンジャミン=百ドル)だぞ!』

『一万、三万、五万、十万……一杯?』

 ……結局、彼らは財布から奪った金もそれぞれが十万円ほどを自分の財布に移して、他は紫村に預ける事になった。


 やはり、悲しい事に十万円を超える現金を手にして怯んでしまったのだ。

 最後まで金に拘った伴尾でさえ、二月に発売された国民的ゲーム機の第四弾を買おうにも積みゲーが多すぎて「そんなの買ってる場合じゃねぇ!」と言ってしまうくらいだ。

 おしゃれに興味がある訳でなければ、趣味に掛ける金以前に趣味に掛ける時間が殆どない。精々たまにゲームやCD、雑誌を買うか位で、他には月に数回程度の部活帰りにする買い食いくらいで、毎月の小遣いも殆ど手つかず状態。

 もうお金の使い方も良く分からないんじゃないかと自分で心配になるレベル。これでよくも二百五十万円を寄越せとか言えたものだ。


『言い忘れたけど、ドルは円に換えるから最初は目減りするからね』

『やっぱりドルの交換は難しいか?』

 五十ドル以上の高額紙幣は普通に偽札だと疑われ、百ドル以上の現金を持ち歩く者は薬の売人と疑われる国の金の金だから。


『まあ、中国人を通すと円にするのは難しくないけど、監視付きの今の状況では大っぴらには出来ないからね』

 確かに自国通貨よりドルの方が圧倒的に信用のある国は多い。しかし監視付きじゃなければドルを円に換える伝手を持っている中学生が怖い。

『それでも来年の三月中までには最低でも二桁増にはするよ』

 紫村の言葉を疑う奴は誰もいなかった。

 最低でも二桁増の意味するのは普通十パーセント増ではあるが、紫村の場合は最低でも九九パーセント程度で、最低でないなら勿論三桁増で、そして狙うはそれ以上という意味だと疑わなかった。


『かなりまとまった資金が出来たから、やりがいがあるなぁ~』

 お願いだからやり過ぎないで欲しい。倍に増えるだけで万々歳なんだから……無駄だと思いつつもそう願わずにはいられなかった。



 その後、俺達は解散し学校へとはいかなかった。

 家には警察が待ち構えていて逮捕……ではなく保護されてしまった。

 確かに俺達護衛対象を狙った外国人武装集団が、警察のヘリを墜落させるは、護衛の警察官が撃たれて重傷を負わされるとなれば護衛体制が距離をおいての警護から対象の身柄確保に移るのは、考えてみれば当然の話だった……だが理解するとの納得するのは別問題だ。


「ところで……今朝の事件だが、重傷を負ったテロリスト達の発見現場の周辺で君達の姿が目撃されたという話があるのだが?」

 護衛達の隊長格の坂本がそう話しを切り出してきた。

 テロリストね……まあ良いか。

「さあ、僕は知りませんね」

 俺と香籐はマルの散歩に行っていて現場には居合わせていないという設定だから、余計な事は一切言わないよ。


 ちなみに俺は玄関前で身柄を確保されてしまったために、マルとユキは母さんに任せた。現在は家でそれそれドッグフードとキャットフードを……マルはおまけでオーク肉も食べて『美味しい美味しい!』と喜んでいる。


 一方、俺はまだ朝食にありつけていない。口の中に直接食べ物を取り出してやろうかと思ったが、いきなり口をもぐもぐと動かし始めたら不審に思われるし、それに俺が食べ始めたら櫛木田達もすぐに気づいて真似して食べ始めるだろう……密室で聴取中に突然四人が牛の反芻の様に口をもぐもぐと動かし始める。そんなシュールな状況に俺の繊細な神経が耐えられそうにない。


「君と香籐君、紫村君の目撃情報は無いけれど、櫛木田君。田村君。そして伴尾君の三人が現場近くで目撃されているんだよ」

 俺は分かってるんだぞと言わんばかりの視線を投げかけてくる。

「櫛木田、どうなんだ?」

 そんなまさかという表情を作り話しかける。

「あの時間はランニングに出てたから、その現場が何処かは知らないけれど、その近くで俺を見たという人がいても不思議じゃないな」

 そう答えながら『くさい演技して……笑わせるな腹筋が、腹筋が……』と【伝心】が来る。

 表情を取り繕っているが、地味に顔が赤くそして目も充血している。


 坂本は「そんな場所には行ってない」と言って欲しかったのだろう。そして「何故現場が何処だったのか知っている?」と突っ込みを入れるつもりだったのだろうが、櫛木田は華麗にスルーした。

「俺もそんなところだ」

「同じく俺もランニングに出てからな」

 田村と伴尾もそれに乗っかる。


「それでは君達は現場には行っていないと?」

「もしかしたらすれ違ったり、遠くから目撃しているかもしれませんが、ランニング中にテロリストだと疑いを抱くような集団とは会ってません」

「集団? 何故集団だと?」

「貴方が重傷を負ったテロリスト【達】の発見現場と言ったからですよ」

 櫛木田は焦らず冷静に切り返す。


「確かにテロリスト達とは言ったが、各現場で発見されたのは一人かも知らないんじゃないかな?」

「例えそうだとしても、そもそも僕らは発見された現場が何処で、現場が複数かそれとも一ヵ所なのかどうかも分からないから、テロリスト達と言われたら集団を想像しても仕方がないんじゃないですか?」

「しかしだ、二、三人だったとしたら集団とは呼ばないんじゃないかな?」

 もう半分諦めムードを漂わせながらも食い下がる。

「狙いが僕達空手部の部員全員だとするなら二、三人のはずが無いですよね?」

 はっきり言ってレベルアップ関係なしでも俺達は彼等より強い。その事を彼らも理解しているので、それが止めの一撃になった。

 苦虫を噛み潰したように顔を顰めると安いプラスチックのボールペンの柄の尻で、カツカツと机を突きながら「そうだな」と肯くしか出来なかった。

 これで警察は俺達が工作員達を再起不能状態にしたという確信を持ちつつも、それを追求する足掛かりを失った……ニヤニヤ。


「ともかくだ。君達には暫く我々の保護下に入って貰う事になる」

「それは困る」

 喰い気味にそう告げる俺に、まさか断られるとは思っていなかったという感じに目を剥いて固まった。

「どういう事だ?」

「僕達にも家族がいる。自分達がいない間に家族を狙われたら困るんですよ」

「分かった……残念ながら我々には君達の家族を守れという命令は受けてないし、君達の家族まで守れるほどの人員は無い」

 深く溜息を吐いて肩を落とす。


「随分物分かりが良いですね」

「護衛対象を敵に回して出来る仕事ではないからな」

 話の通じる相手で良かった。

 通じないのなら通じるよう治るまでぶん殴るところだ。


「という訳で学校もあるので帰らせて貰いますよ」

 そう言えば今日が学校で用事があった。

 俺達が全科目満点を取った事が許せなくて許せなくてたまらない馬鹿共を──

「流石に、このまま学校に行かせるのは無理だ。まだ色々聞き取りをして上に報告を上げる必要がある」

「おいおい」

「悪いがこれも我々の仕事だからな」

 これには何も言い返せなかった。護衛である前に警察官だから……お役人だものな。


 午前中には開放するという条件で聞き取りに付き合っていると、北條先生からのメールが届く。

 勿論、キター! なんてぬか喜びはコンマ二秒も持続しない。件名に『本日の休校について』というただの学校業務上の連絡メールだからだ。

 休校に伴う家庭自習の指示内容と宿題が入った添付ファイル付き。

 学校が休校になっても中学生には自由は無いのだった……何だまたメールか? 北条先生か。

『件名:本日予定の再テストに関して 本文:テスト自体が中止となり高城君達への再テストは必要なしという事になりました。それでは明日も元気に登校してください』

 俺は、俺は北条先生から明日元気に登校する事を期待されているんだ!



 聞き取りが終わり、俺達はそれぞれの家に車で送り返された。


「父さん、そういえば涼の学校の事はどうなったの?」

 野球放送を見ながらビールを飲んでいる父さんに、先日の件を尋ねてみる。

「理事会で例の二人は解雇が決まったそうだ。それから後任の指導者は未だ見つからず……あのビア樽……なんて言った?」

「髭樽だよ」

「違う。ちゃんとした名前があっただろう?」

「……安浦かな?」

「ああ、そんな感じの名前だったな、それで安浦を顧問に抜擢した柔道連盟にコネを持つ理事も厳重注意処分になったそうだから仕方ないな」

「指導は?」

「安浦の下にコーチが二人いるから当面の指導には問題が無いそうだ」

「そのコーチも髭樽の息が掛かってるなら意味なくない?」

「いや、コーチは女性で安浦の事はセクハラ豚と呼んで嫌っていたそうだ」

 その二人が当てになるか分からないが、何かあったら連絡する様にと母さんが涼に釘を刺したので、問題があれば何か言ってくるだろう。



 母さんとマルに色々と質問されながら、俺はずっと周辺マップと広域マップを開きっぱなしにして事件現場の周辺をリアルタイムでチェックしていた。

「来たな……」

『何が来たの?』

「朝の連中の仲間だよ」

 顔を上げて俺を見つめるマルの頭を撫でながらそう答える。


「どうするの?」

「やるべき事が残っているんだ……連中のシステムメニュー持ちの【所持アイテム】内に日本人の死体が幾つもあったから」

「まあ……」

 顔を顰める母さんに、被害者の多くが女性でしかも乱暴された形跡があったとは言えなかった。


「このまま【所持アイテム】に入れっぱなしにも出来ないでしょう?」

「そうね」

「彼らの遺体を早く発見して貰って家族の元に帰れるようにするつもりだよ。単に善意だけじゃなく知らない人間の死体を入れておくのが嫌だというのもあるけどさ」

 冗談交じりに口にするが、正直なところ、それは【所持アイテム】内に気絶した状態で放り込まれている連中と、そしてマップ上で確認出来たその仲間をこの手で殺すという事だ。

 連中のアジトを突きてめて強襲し、【所持アイテム】内の連中共々皆殺しにした上で被害者達の死体をアジト内に置き、入り口を開け放ち、連中の死体をその辺にばら撒き、奪ったMP5Kを乱射してから逃走するのがザックリとした計画だ……何処のどんなアジトなのかも分からないのに事細かな計画など立てるのは不可能。


「隆。この件は私とお父さんに任せなさい」

「はい?」

 任せろと言われても、一体どうする気だ?

「大丈夫。私が完璧な密室トリックを完成させるから」

 ……母さん、貴方が好きなのは密室モノの様な精緻なトリックによる一つの殺人事件にじっくり迫る話ではなく、ドミノ倒しの様な勢いで人が無残に殺されていく上に、異なる犯人による殺人があるために動機などの面から混乱する系な話だろう。

 しかもその混乱が好きというよりも単に連続殺人事件というシチュエーションが好きだというのだから、我母ながら心に抱えた闇が深くて恐ろしい。


「どうする気なの?」

 そう尋ねながらも物凄い残酷な場面が幾つも脳裏を過る。

「隆が心配するような事は何もないから、安心して任せてね」

「あ、あのね?」

「もう心配するような事が無い様にするから」

 やる気だ。徹底的にやる気だ。レベルアップで人間の範疇を超えるような力を手に入れたとはいえ、数日前まで普通の主婦だった筈の母さんが……あの物騒なミステリーを読みながら、普通絶対に笑うところでは無い場面でクスクスと笑う様な母さんだが、完全に殺す気と書いてやる気だ。

「家族に手を出そうとしたんだし、もう戦争よね……」

 いかん! 母さんの中で殺人事件が戦争にまでスケールアップしようとしている。



------------------------------------------------------------------------------------------------


何故かarcadia投稿版には五月二十五日の夢世界のエピソードが存在しなかった。

何か理由があったような気がするが、どうしても思い出せないので追加する事にしたけれど、後の話との釣り合いを考えると新しいネタを放り込む事も出来ずに悩む。そして「ネタがないなら短く流せばいいじゃん」と気づくのに二日も掛かってしまった……何してるんだろう俺?


>『ドローン?』

作中の時間は、まだドローンが話題になっていない2014年。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る