第100話

 昼食後の家族のまったりとした時間は、インターホンの音で終わりを告げる。

「どちら様でしょうか?」

 母さんが応対に出るが、母さん自身もマップ機能のおかげで家のインターホンを鳴らしたのが国中である事は知っている。

『すいません。そろそろ新幹線の時間なので迎えに来ました』

『それはお前が心配することじゃない。涼とイーシャはこちらで送っていくから、さっさと帰るんだな』

 割り込んで、そう告げるとインターホンを切った。


「隆?」

 俺の言動に憤りを感じたのだろう母さんがきつい目で睨んでくる。

「あいつはイーシャに懸想した挙句、俺との勝負にかこつけて二人に同行する事で、密かにデート気分を味わっていたという不埒者だから」

「え~っ! そうだったの?」

「お前以外の人間は皆気づいていたぞ」

 柔道以外はほとんどポンコツな涼が気づいていたんだから、他に周囲で気づかない奴がいるとは思えない。


「つまり俺の女に手を出すなって怒ったわけね……意外にやるわね、でも北条先生との二股はどうかと思うのよ、母さんは」

「そんな事は思ってない。ただ奴の性根が気に入らないだけだし、はっきり言っておくけど、俺はイーシャと付き合っていないし、そして北条先生には恋愛の対象としてすら見られていないから……」

 自分で言っていて泣きそうだよ。


「あ~、じゃあ隆が涼ちゃんとリーヤちゃんを責任を持って送っていくという事で、新幹線代を出してあげるわ……英さんが」

「…………大。父さん泣いても良いよね?」

「泣いても良いけど、どこか行って独りで泣いてよ」

 父さん無残……帰りは【迷彩】で姿を消して飛んで帰ってくるから片道分にジュース代でも付けてくれれば良いよ。



 父さんの運転で新幹線が止まる県庁所在地のある街の駅のコンコースに到着する。

 そこそこ周囲は栄えていて、そこそこ大きな駅なのだが私鉄が乗り入れる様なターミナル駅ではない。埼玉がとんでもない都会に思えて仕方がない関東のブラックホールS県らしい……基本的に公共の移動手段はバスがメインだからしょうがないんだよ。


「それじゃあ涼、リーヤ、風邪や怪我をしないようにしっかりと気を付けるんだよ。それから史緒さんじゃないけど勉強もしっかりするんだよ。それから……」

 オカンかっ! と突っ込みたくなる父さんの優しい気づかいにリーヤはともかく涼は嫌そうな顔をしている。

「はいはい、もういいから父さんは帰って」


「おじさん、今日はありがとうございました。またお世話になると思いますがよろしくお願いします」

 涼の塩対応とイーシャの礼儀正しい態度。父さんは自分の娘への教育の失敗を深く噛みしめるべきだと思う。

「それじゃあ隆、頼んだぞ。ちゃんと学校まで間違いなく送り届けてくれ」

 そう言って、俺に自分の愛用の自転車が入った輪行バッグを渡した上に、涼達には見えないようにこっそり交通費とは別に一万円札を渡してきた。

 ちなみに自転車は、俺が公共交通機関を使わずに帰宅するという状況の言い訳だ。


『これは小遣いにしても多いよ。どうせ帰りは浮遊/飛行魔法で十分で家に着くよ』

『構わない、途中で二人に何かスイーツでも食べさせて上げなさい。余ったら小遣いにしても良いから』

『……本当に涼には甘いな』

『…………』

 無言で【伝心】を切りやがった。そして目も合わせる事無く車に乗り込むと涼とイーシャにだけ手を振って去って行った。



「よう!」

「失せろ、十メートル以内に接近するな」

 ホームで何事もなかったかのように近づいてきた国中にそう告げる。


「おいっ!」

 身の程知らずが勝手に怒っている様なのではっきりと言ってやる。

「俺との勝負だけに、わざわざこんな田舎までやって来たのなら、愚かなるも殊勝と褒めてやるところだが、まさか妹達と新幹線でキャッキャウフフな気分での小旅行が目的とは、とことんおそ……見下げ果てた奴め、二度と妹達の視界に入るな消え失せろ」

「生まれてきてすいません」

 図星を突かれ真っ赤になった国中は、周囲からの視線もあって別の乗り口へと逃げて行った。


「今後奴、に声をかけられるような事があったら、すぐに俺に連絡を入れるんだぞ……涼もだからな」

「うん!」

「わ、わかった」

 真剣に話す俺を見て涼も頷く……こちらが真剣に向き合えば涼にも思いは通じるのだろうか? いや、元々俺と兄貴が真剣に向かえば向き合うほどウザがられて、最終的には暴力に訴えてきたのだからそれはない。


 正直、東京は恐ろしいところだ。あのような危険人物が沢山いるとするなら、涼やイーシャにもパーティーに参加させてレベルアップを施したいところだが、やはり涼がネックだ。

 涼に強力な力を与えたら、冗談じゃなく何かの拍子で死人が出かねないし、イーシャにだけという方法もあるが、すぐに涼にばれるだろう。


 新幹線は指定席は取っていない。そして土曜日の午後のこの時間は始発でもないので座席は当然のように空いていないのでデッキに立つ。

 デッキにはぎっしりというほどでもないが、他に乗客がいるので基本無言だ。

 涼とイーシャは女子中学生だが空気を読まないで騒ぐ事無く小声で何やら話している。俺は女の子の会話に割って入るような技能は生憎持ち合わせていないので、壁に身をもたれ掛けさせて目を閉じて寝ている振りをしながらマップ機能で周囲を伺う……便利すぎる。


 最近は慣れすぎて意識する事が少なくなってきている護衛兼見張りは、隣の国中と同じデッキ部分に待機している。

 他には何事もなさそうなので、警戒を続けながらも二人の会話に耳を傾けながら時間を過ごす。

 意外に内容はクラスの女子達と大して違いがなく、安心するやらついていけないやらで溜息が漏れた。



 東京駅から山手線に乗り換え、更にバスへと乗り換えて涼達の通う柔道名門校「太洋学院大付属中等学校」にたどり着く。

 途中、何か甘いものでも食っていくかと尋ねたのだが、夕食前に少し練習に顔を出しておくというので直行してしまった。

 流石に父さんに一万円は返さなければならないだろう……俺は一銭も使ってないので共犯じゃないし、母さんのいる前で返して父さんを説教コース送りにしよう。

 帰る前にとりあえずセーブする。


 これから交通機関を使わないで家まで帰る訳だが、いきなり俺が失踪すると護衛兼見張りの人達がパニックに陥るだろう。

 新幹線を使ったとしても上手く乗り継ぎが出来て二時間半程度の時間がかかるが、俺は新幹線に乗っていない事はすぐに確認されてしまうだろう。。

 そして、次に新幹線以外の鉄道。そして高速バスなどもチェックするのも護衛兼見張りの彼らにとっては可能だ。

 彼らの監視の目を逃れて、いかなる足跡も残さずにいつの間にか自宅に戻っているという状況が、超常現象を伴わずに受け入れられる程度の時間を、ある程度短縮してくれるのが自転車だ。

 父さんから渡された輪行バッグに入っている自転車。父さんが若い頃にこいつで旅をしたというロードサイクルで、今も年に数回は整備をして長距離を走るのだが、こいつを持っているという事で交通機関を使わないでも短時間で長距離を移動する説明がつき、明日の朝まで家の中に身を隠し、朝方家を抜け出して自転車で帰って来た振りをすれば良い。


「リーヤ、涼お帰り!」

 校門の前で二人に声が掛けられた。

 相手は学校の友人なのだろう。四人組の女子中学生……声を聴くだけで胸の中で苦手意識が頭をもたげテンションが下がる。


「北斗先輩。ただいま戻りました!」

 四人の中で一番身長が高く百七十センチメートル位はあり、全体的に均整の取れた身体付きだが、首から頬のラインが柔道で鍛え上げられているせいだろう男性的ですらある少女に、涼は元気よく挨拶する。


 ちなみに髪型はイーシャを除き涼を含めて全員、項が見える襟足で切り揃えたショートカットで前髪に多少バリエーションがある程度だが、まあ格闘技をやっているものとしては当然の心構えだろう。


「……誰?」

 涼に北斗と呼ばれた少女とは別の、涼より十センチメートルくらい背の高いちびっ娘が、こちらをチラ見してから涼に尋ねる。

 全く礼儀知らずめ、他人の名前が知りたければ自分が名乗ってから直接聞け。

 本人の目の前で他人を介して名前を知ろうなどとは個人情報保護法違反で死刑だ。


 ああこれだから満足に躾もされてなジャリ女は嫌いだ。礼儀知らずが闘うための技を磨くなど、熟れの果ては大島だ……と全く表情に出さず胸の奥で罵る。

 中学生女子というだけで俺にとっては親の仇にも等しいのだ……親は死んでないけど。


「鶴居! 誰じゃなくちゃんと自分から名乗ってから相手に尋ねなさい」

「あぅ……」

「自分がコミュ障だから、相手が気遣ってくれないと困るとか勝手な事を思っているんじゃないでしょうね?」

「お、思ってない……」

 はっきりとコミュ障扱いされて涙目のコミュ障。


「だったらちゃんと挨拶しなさい!」

「……鶴居……鶴居 雪裡(つるい せつり)……」

 なんとか自分の名前を口にして、やり遂げた感のある満足気な表情を浮かべた鶴居の頭がパン! と良い音を発した。

「痛い……」

 頭を押さえて蹲ると、恨めしそうな目で叩いた相手を見上げる。

「よろしくお願いしますでしょう。ちゃんとしなさい」

「よ、よろしくお願いします」

「……高城 隆です。よろしくお願いします」

 言わされた感たっぷりだが責める気は一切起きなかった。


「全く……申し訳ありません。うちの部員が失礼な態度を。私は柔道部で主将をしている北斗 文月(ほくと あやつき)と申します。どうぞよろしくお願いします」

 さすがは主将だ。きちんと礼儀をわきまえている。俺も主将として恥ずかしくない対応をしなければなるまい。

「涼の兄、高城 隆と申します。妹がお世話になっています」

 そう名乗り頭を下げる。

「いいえこちらこそ新入生の涼のめさましい活躍は柔道部の励みになってます……ところで涼のお兄さんという事はあの空手部の?」

「あのとは、どの空手部かは知りませんが、地元の友引北中学校の空手部で主将をしています」

「そうですか、あの……失礼ですが、噂は本当なのでしょうか?」

「噂とは?」

「えっと、OBの方々が素手で武器を持った不良達に百人以上をたった七人で倒したという……」

「……概ね事実です」

 実際の戦力差は一対二十程度だったけど、その辺のチンピラ相手なら今の空手部の二年生でも、囲まれないように移動しながら戦えば勝てる。

 闘いにおいて常にポジショニングで優位に立ち続けるために、俺達は重点的に走り込みを行う。

 チンピラ共では逃げる部員に追いつける足は無いので、ある程度ばらけたところで逆襲に転じて各個撃破して行けばよい。

 二年生部員に好きな言葉は? と尋ねたら間違いなく各個撃破と返ってくるくらい我々にとっては当たり前の話なのだ。


 しかも例の事件では、一対百数十人のつもりで油断していたところを背後から襲い掛かりパニックに陥った連中を殲滅していったので先輩達にとってはそれほど大変だったという意識はないらしい。


「それで今日はどういったご用件でしょうか?」

 その質問には涼が答えた。

「えっと……兄に勝負に負けた国中が何をするかわからないということで付き添いで来たというか……」

「えっ! アイツ負けたのダッサ!」

 しかし、身長百六十センチメートルくらいの粗野と粗暴を兼ね備えたような女が、まるで奴が格下に足元をすくわれて負けたような言い方をした。


 まあ良いさ、こんな先天的に女としての魅力を持たない小娘にどう思われようが知った事じゃない。役目も果たしたことだしさっさと帰ろう……べ、別に悔しくなんてないんだから! 単に早く帰って紫村達と一緒に国中の動画を編集して動画サイトにアップしたいだけなんだから!


「リューちゃんは──」

 抗議の声を上げようとしたイーシャの肩に手をのせて止める。

「良いんだ」

「でも……」

 拗ねたように上目遣いをするな……畜生、破壊力抜群だよ。


「イーシャが分かってるだけで良い。そもそも彼女達が知る必要もない話だよ」

 実際、凄く嬉しかったしな。

「えへへ……イーシャが分かってるだけで良いなんて……もうリューちゃんは……」

 俺がほっこりする一方で、イーシャの頭のネジが飛んでしまったようだ……どなたか、この娘の頭のネジ穴に合うネジをお持ちの方はいらっしゃいませんか?


 そんな俺とイーシャのイチャついてるとも取れる、やり取りに誰一人として突っ込まなかったのは、同時進行で別のイベントが進行していたためだ。

「先輩。国中の馬鹿は馬鹿なり真剣に闘いました。そんな言い方は闘った二人に対して失礼です」

 何が起こっているのか全く理解出来ない。もしかしてこれって涼が俺の為に先輩に反論しているの? いやまさか? はっはっは、狼狽えるな。これは孔明の罠だ。


「失礼も何も油断して素人に負けるようなダサ坊主じゃないか」

 頭の悪い奴だな、実際に見た涼が真剣に闘ったと言っているのに、それを無視して自分の勝手な思い込みを前提にしていやがる。

 俺の名誉を守ろうとしている……ような気がしないでもない妹の思いを無下にする言葉にお兄ちゃんは流石にイラッと来てますよ。


「国中は油断して何度もやられてましたが、最後は本気で臨んで完全に一本を取られました」

「高城ぃ、お前身内贔屓で目が曇ってるんじゃないか? 海外試合で活躍したからって調子に乗ってんじゃねえぞ」

 涼の胸倉を掴んで言い放つと、平手を打ち下ろしやがった。


 手が振り下ろされる前に割って入り手首を掴んでへし折ってやりたかったが、距離を一気に詰めるにはウサイン・ボルトの二倍以上の速さで駆け寄る必要があったので出来なかった。

 代わりに時間停止状態を使いながらのコマ撮りで──ただのガラケーに連続撮影機能は無いし、時間停止状態では動画撮影は無理──涼が打たれる様子を余すことなく撮影して証拠とする。


「調子になど乗っていません」

 頬を張られながら涼は毅然として言い返す。進化が遅れて未だ人類に到達していないようなメスが激高してしまう。

「舐めてんじゃねえぞ、この餓鬼が!」

 そう吐き捨て胸倉を掴んでいた手で、そのまま涼を突き飛ばした。

 その一連の動作も全て撮影してから、後ろへと倒れそうになった涼を抱き止めた。


「大丈夫か?」

「あ、ああ……ちっ」

 舌打ちしてからするりと俺の腕の中から抜け出す。最後の「ちっ」という舌打ちは何ですか?お兄ちゃん泣いちゃいますよ! この場でわんわんと泣くぞ!


 俺は涙を堪えながら、多分類人猿のメスに歩み寄る。

「何だお前?」

 そう言いながら俺の胸倉を掴みに来たので、そのまま掴ませてやる。

 だからその代わりに、俺も手を伸ばして額を包むようにアイアンクローを食らわせ、そのまま持ち上げて爪先が地面に着かない高さに持ち上げてやる。

「涼。こんな可愛くないペットは山に返してきなさい。可哀想だろう。人間社会に馴染めずストレスで凶暴化してるじゃないか」

 俺の言葉にイーシャと北斗が噴き出す。


「てめぇ、放せこの!」

 俺の腕を掴み爪を立て振りほどこうとしているが無視する。

「しゃ、喋ったぞこいつ! どんな風に躾けたら喋るようになったんだ?」

 次の瞬間、涼も噴き出した。


 それまでとは態度を変えて、俺は非情の山、K2と並び称される目付きで睨み付けながら低い声で話しかける。

「俺の妹はな身内贔屓どころか、俺と上の兄貴の事が控えめに言っても大嫌いで、普段は口も利いてくれないんだ。だけどな柔道に関してだけは嘘が吐けないから本当の事を話しただけだ……理解出来るか?」

「くそっ! 放せ馬鹿野郎!」

 言葉が通じない、やはり類人猿ですらない涼が山で拾ってきた新種の猿なのだろう。だが人間社会に身を置く以上は猿なら猿らしく躾けるのが人間の役目だ。


「お前、妹を含めて下級生に暴力を振るったのは今回が初めてじゃないだろう?」

「うるさい! 何が悪い」

 ……うん、駄目だ本当に猿だ。ゴブリンだってもう少し知性があるだろう……良く知らないけど。


「馬鹿すぎて言葉が通じない。相手をする意味も無い」

 そう言って手を放す。同時に【中傷癒】で俺の指先が喰い込んで出来た痣を消し去る。

 これで俺にアイアンクローを食らって宙吊りにされたと訴えれば、信憑性を失い証言自体を疑われるだろう。

 この場にいる全員がそう証言しても、仲間同士で口裏を合わせて不条理な言いがかりをつけて来たと反論すれば良い。


「ふざけるな!」

 猿が再び掴みかかって来る。

 何故だろう? 先程、はっきりと格の違いを見せつけたはずなのに、また同じ事を繰り返そうというのだろう?

 もしかして、この数秒間に奴は驚異的なパワーアップでもしたというのか? もしかして戦闘民族サイ──

 試しに、アイアンクローを食らわせると簡単に吊り上げる事が出来た……解せぬ。

 再び手を放して【中傷癒】を掛けると、また懲りずに掴みかかって来る……これは何時まで繰り返せばいいのだろう?


「ふざけてるのはお前だ! あれほど下級生のへ体罰は止めろと言ったのが理解出来ないのか?」

 俺が悩んでいる間に堅苦しいまでに折り目が正しい態度をとっていた北斗がブチ切れていた。


「……上下関係をはっきりさせるのも指導だ、これは安浦先生も認めているだろう」

 主将の北斗が馬鹿を怒鳴りつけるが反省素振りを見せず、それどころか開き直って見せた。

「もういい、お前がいてはまとまる話もまとまらない。さっさと寮に帰れ。お前達もだ」

 鶴居と呼ばれたのは頭下げてから、そして暴力女ともう一人は不満そうな表情を浮かべて立ち去った。


「涼、さっきあの女が言ってた教師が上級生による下級生への暴力を認めているというのは本当なのか?」

 そうだとするなら、涼が転校するか教師が学校を辞めるか、それとも教師を俺の手で強制的に人間辞めさせるしか選択肢が思い浮かばないレベルだ。


「はっきりとは言ってないけど多分……」

「良し分かった……ちょっと、その馬鹿に話があるから案内してくれ」

「待て隆! そんな事をしたら私が柔道部にいられなくなる」

「リューちゃん、それはまずいよ」

「私の方からも注意を促すので、思い止まって下さい」

 涼達と北斗が止めるが、既に止める訳にはいかないのだ。何故なら涼が殴られる様子は【伝心】で父さんと母さん、そして兄貴に送られている。


 兄貴からは『何故止めなかった!』とお叱りの言葉が届いていて、父さんに至っては怒りの余りに『ぶったね? 親父の俺だってぶったことないのに!』と訳の分からない事を口走って母さんにぶたれている。

 ついでに言うと、涼とイーシャを何事もなく送り届けるためにここまで来た俺のメンツも丸潰れだよ。


「それは出来ない相談だ。この件は父さんと母さんに報告しなければならない。当然長家の伯父さんと伯母さんにもだ。家の一族に、こんな事を笑って済ませるような鷹揚な人間はいないぞ」

 実際に父さんと母さんは既に激怒しているし、伯父さんと伯母さんは……間違いなく、もっと怒るだろうなあの人達は。


「父さんと母さんには内緒にしてくれ!」

 そんなことを言うから、『涼が俺に内緒?』『英さんにならともかく私にも内緒なの?』と落ち込んでるじゃないか。


「お前の気持ちも分かるが答えはNOだ。これが練習時の指導の中での体罰なら俺も目くじらを立てるつもりはない。だがな今のは妬みからの暴力だ。これが日常茶飯事だというならば、そんな学校にお前達を通させておく事は絶対に認められない」

 折角の珍しい涼の頼みだがそれにOKを出す訳にはいかない。もし「お兄ちゃんお願い」なんて言われたら二つ返事でOK出しだろうけど。


「リューちゃん、私の事をそんなに心配して……」

 イーシャ、今は真剣な話をしてるんだから少し黙っていてよ。

「……迷惑だ……誰が……誰がそんな事を頼んだ?」

 ……俺は小さくため息を漏らした。


「じゃあ父さんと母さんが、お前を転校させると決めたら、お前は二人にも言うのか? そんな事誰が頼んだってな」

 この馬鹿ちんが、そもそもお前は父さんと母さんに頼んでこの学校への進学を認めて貰った立場だろうに。

「それは……だけど」

「大体、お前が文句を言うべき相手は学校だ。今後このような事が再発しないための具体的改善策の提示と正式な謝罪。そしてこのような状況を作り上げた責任者の処分。これが行われない場合は……」

「場合は?」

「まあ、父さん次第だろうな」

 転校の二文字は口にしない。俺からその言葉を出したなら涼の怒りは確実に俺に向かう。

 ここは無難にパスを回すに限る。ちなみに父さん「達」と言わないのは母さんを敵に回さない生活の知恵である。


『なんて酷い裏切り! もう息子を信じられない』

 父さん……何とでも言ってくれ。俺は全く気にしないから。


「待って欲しい。高城と長家は一年後には我部のエースとして活躍してくれる大事な選手なんだ。転校されては困る」

「それじゃあ、柔道部の指導者やその上の責任者を挿げ替えるしかないな」

「それは無理だ。確かに人間としては最低レベルで言動にも問題があるし、指導能力も最低レベルではあるが、柔道界では色々と顔が利く男なんだ」

 想像以上の低評価に驚く、それなら何でさっさと追い出さなかったのか不思議なレベル。

 やはり顔が利くというのは大きいのだろうか? 大島のおかげで大会にすら参加出来ない我空手部を思えば、理解したくないけど理解出来る気がするが……


「いや、それにしても柔道名門校だろう指導力に問題のある奴が指導してたら強くなる者も強くなれないだろ」

「柔道は、ある程度基礎となる練習法は固まっているから……それに全くの無能という訳でもないから……」

 かなり言い辛そうに答える。


「それにセクハラするよね」

「リーヤ!」

「リョーちゃんは完全に対象外だけど、私は厭らしい目で見られて気持ち悪いよ」

 何だとう!

「それは本と──」

「……おい」

 俺の怒りの声を遮った涼の目には憎しみの炎が灯っていた。


「あいつがロリコンじゃなくて良かったね」

 イーシャは見事に空気を読まずスルー。

「……おい!」

「いや、中学生にセクハラする段階で完全にロリコン……だとするなら何故?」

 北斗の言葉に全員の憐憫の視線が涼に集まる。

「誰が女としてもロリータとしてさえも魅力が無いだと!」

 誰もが思っているけど、誰もそんな恐ろしい事は言ってないよ。



「……安浦、柔道部の顧問なんですが、彼を排除するとするなら、まずはセクハラの証拠を集めてそれをネットに流すのが一番かもしれませんね」

 俺の考えそうな事をさらりと口にする北斗は、何か吹っ切れた顔をしていた。

 冷静に状況を考えて、穏便に済ませる気を失った様だ。


「つまり北斗さんにとっては、顧問よりも涼やイーシャが大事だと?」

「そうです……ところでイーシャって長船の事ですか?」

「そうなの、リューちゃんだけが呼んで良い私の愛称なの」

「分かった分かった。イラッとするから惚気るな……顧問に関しては、むしろもっとまともで優秀な人に替わるなら、それに越したことはないと思っています」

 笑顔で答えるイーシャに凄い笑顔で返しながら答えた。しかしだ……


「現状では優秀な指導者は無理だと思う」

「何故?」

 涼が俺を睨みながら言う。まだ怒っているようだ。

「そもそもこの学校のお偉いさんが、選んで招いたのが安浦って奴だったんだから後釜も同じようなレベル。多分お偉いさんとコネのある奴って事になる」

「駄目じゃないか!」

 駄目なんだよ!


「それでは排除しても無駄という事ですか?」

「いや、そのお偉いさんごと排除すれば良いんじゃないか……その上も含めて全部」

「リューちゃん凄い悪い笑顔してるよ」

 失礼な……左右から頬を挟んでマッサージを行いながら、ちょっと引っかかる事があったので尋ねてみる。


「ところでどうして、そこまで協力的なってくれてるんですか?」

 その瞬間、周囲を取り巻く空気が変わった。

「理由ですか? 簡単な事ですよ奴を社会的に葬ってやりたいだけです」

「何故に?」

「奴は私にセクハラ……いえ、あれは既にわいせつ行為を行ってくるからです。最初は指導中に偶然を装って胸を掴んで来たのですが、こちらが抵抗出来ない事を良い事に、次第にエスカレートして直ぐには手を離さず下種な笑みを浮かべながら揉んできたり」

「完全に犯罪者だな」

 納得した。

 鈴中を知っている俺にとっては小者感しか感じないが、それでも涼やイーシャの……まあ、涼は関係なさそうだが、それでも傍においておけば教育上よろしくない汚物である事は間違いない。


 単に失職だけではなく、刑務所にぶち込んだ方が良いだろう……となるとセクハラや指導方針の問題だけでは足りないから、挑発して暴力をふるわせて、その証拠をガッツリと押さえ、それを周知する必要がある訳だ。

 人手が必要になったので早速、紫村と香籐を呼ぶ。


 あの二人が最新バージョンの浮遊/飛行魔法を使って全力で飛べば、直線で百二十キロメートル少しの距離なら十分もかから無い。

『なるほど、要するにうちの学校でやった事をもっと規模の大きな名門校でやるという訳だね……わくわくするね』

『やりましょう』

 紫村はともかく香籐もかなり乗り気だ。そもそも俺達の空手部の部員は学校という組織が大嫌いだ。俺達を大島から助けるための手を差し伸べるどころか、むしろ差別的にすら扱ったのだから、学校に対する幻想など全く持ち合わせていないのだ。


『女子柔道部なら俺も』

『勿論、俺も』

『行かない理由がない!』

 櫛木田達の弁だが、勿論『下級生達への指導を頼む。そして来たら殺す!』と丁重にお願いし納得して貰った。



 校門より敷地内に入り、来客用玄関に向かうのだが玄関までが長い。そしてなにより敷地が広い。

 涼達は途中で分かれて生徒用玄関に向かう。

 靴を脱いでスリッパに履き替えると玄関脇の事務室の窓口に向かう……休日にも事務に人がいるとはさすが有名私立校だけあって金を使ってる。うちの学校では事務員は公務員だから土日には誰も居ないから。


「こちらの用紙に生徒名と保護者名を記入して、来校目的の欄へも記入をお願いします」

 渡された用紙に名前を書き込む。

「来訪目的……生徒である妹への指導について、柔道部の顧問に相談あり……と」

 校門での揉め事は伝わっていないのだろう、用紙を提出すると面会申請はあっさりと通った。

「それでは第四柔道場の待合室でお待ちください」


 既に来客用玄関に来ていた涼達に案内されて第四柔道場へと向かうのだが、名称通りこの中等学校には柔道場が四棟存在する。

 中等学校とは中学と高校の一貫校なので、柔道部だけでも中学の男子と女子、高校の男子と女子の部ごとに、友北中学の柔道、剣道、空手部兼用の格技場の二倍から三倍の広さの道場が存在するのだから恐ろしい。


 他にも合気道や薙刀、空手などのさほど人数が居ない部活にも大きな合同道場の中に、我校の格技場より広い格技室が各部ごとに与えられ、更に共同のトレーニングジムなどが用意されていると聞くと、もう笑うしかない。

 十数年前に二十三区内から現在の広い敷地へと移転したそうだが、それだったらもっと地価の安いS県の我校ならもっと凄い事になっていても……止めよう比べる対象が悪すぎる。自分が傷つくだけだ。



 中学女子柔道部棟の玄関脇の待合室に入ると紫村と香籐から【伝心】による報告が入る。

『高城君。無事に所定の場所へ侵入に成功したよ。久しぶりのピッキングは緊張したね』

 犯罪臭溢れる単語を聞いた気がしたがスルーする。

『こちら香籐、現在、待合室の外で撮影準備完了しています』

『了解。指示があるまで待機していてくれ』


「なあ隆。本気でやるつもりか?」

 この期に及んで何を言うんだろう。もう諦めて試合終了の段階だろ。


「いい加減覚悟を決めろ。この学校が変わるか、お前がこの学校を辞めて転校するかのどちらかしかない」

「私はもう覚悟を決めたよ。この学校にいられなくなったら、リューちゃんと一緒にリューちゃんの学校に転校するからね」

「リーヤ! お前は」

「リューちゃんと同じ学校に通うってことは、リューちゃんと同棲するって事だから、むしろラッキー!」

「この色ボケが同棲じゃなく同居だ! それに柔道はどうする気だ?」

「柔道なら父さんに教われば良い」

 涼のごく真っ当な疑問に俺が答える。


「父さんに~?」

 涼。そこで胡散臭いって顔しないように父さんも俺の視点でリアルタイムに見てるんだから……良いぞもっとやれ!

「父さんをただのプロレス好きのおっさんだと思うな。ああ見えて柔道に関しては並みの腕ではない……多分」

 俺の言葉に父さんが『隆、良く言った! さっき渡した金のお釣りはいらんぞ!』とはしゃいでいる……父さんは涼とイーシャが途中でスイーツを食べて残金が僅かだと思っての事だろうが、とにかく儲かった。

 そして父さんも説教コースを免れて幸せになれたのだから礼は言わない。


「信用出来ない」

 しかし、言葉の刃で一刀の元に斬り捨てられた父さんの親心……内心、思いっきり笑った。甘やかしてスポイルするだけでは子供の信頼は得られないんだよ。

「少なくとも俺は、父さんと柔道をやって全く勝てる気はしない。その程度には強い」

 俺の言葉に父さんが、俺の名を呼びながら感激しているが、単に事実を述べただけで父さんを擁護するつもりは一切なかった。


「そんな馬鹿な隆に? ……あの父さんだぞ」

 もう止めて、泣いてる父さんもいるんですよ!

「それが分からないのはお前が未熟ゆえだ。もっとも俺にだって父さんが何処まで強いかは分からない。不気味なほど底が読めない。それでも山でツキノワグマを何頭も絞め殺すくらいはしてるはずだ」

 そうれなければ、この世界でレベル八に相当する経験値をため込んでいたはずが無い。


『隆、何を言ってるんだ? 父さんはそんなことした事無いよ?』

 棒読み過ぎて事実がという事がはっきりした。


「冗談だろ?」

「冗談だったら良かったんだけどな。まあ夏休みにでも家に戻った時に確認してみろ……あっ!」

「何だよ」

「……父さんってお前に甘いから、ちゃんと指導出来るかは分からないと思って」

「ああ、叔父さんってそういうところがあるよね。悪い人じゃないんだけどリョーちゃんや私に甘いから厳しく指導する姿が想像出来ない」

 父さんが『やります。ちゃんと指導します。英君はやれば出来る子です』と訴えているが、肝心な涼やイーシャには伝わらないので黙ってて欲しい。


「まあ大丈夫だ。例え厳しく出来なくても、効率良く実戦的な技術を教えてくれるさ」

 ……きっと、と後に続く言葉を飲み込んだ。そうしなければこの話は終わらないから。



「これから隆は如何する気なんだ?」

「心配するな。最初はきちんと正攻法で紳士的に行くから」

「本当か? 本当に大丈夫なんだろうな?」

 全く信用されていない。


「心配ない。いざとなったら肉体言語も駆使してお話しするから」

「止めろ! 頼むから止めろ! 本当にマジお願いします!」

 涼のお願いしますなんて生まれて初めて聞いた気がする。テンション上がりまくりです。兄貴が嫉妬に狂っているがそれすらも心地好い。


「はっはっは俺に任せておけ。お兄ちゃんは話し合いで相手を怒らせる事と、肉体言語による表現力の高さには定評があるんだ」

「駄目だ、心配しかない。お前は全てを目茶目茶にする気満々だろう!」

 妹よ破壊無くして再生無しだよ。

「そうそう、ここでの話し合いの様子は証拠として記録しておきたいから、各々撮影しておいてくれ」

「それは良いけど、本当にやり過ぎるなよ、話し合いだからな」

「大丈夫、大丈夫」

 妹よ……絶対話し合いじゃ終わらないよ。俺に終わらせる気は無いから。



 待つこと五分ほどで扉が大きく開け放たれ入ってきたのは黒ジャージの髭のビア樽親父だった……その背後には【迷彩】で姿を消している香籐がいることが周辺マップで確認出来る。

『香籐。騒がしくなるから入り口は閉めておいて』

『了解です』

 誰も触れていない扉が突然動き出し、ゆっくりと閉まっていく様子はちょっとホラーだったが、幸い誰も気づいていない。


「何だ居ないじゃないか? おい、お前は誰だ?」

 多分、父兄と聞いて父さんか母さんを想像していたのだろう。髭のビア樽は大人でも生徒でもなさそうな俺に目をつけて詰問してきた。

「おい涼。この髭の生えたビア樽は何だ? どういう目的でこんなオブジェが?」

 もうこの手の無礼者にはうんざりなので余計な手順は踏まずに最短コースで喧嘩を売りつけるため。第一印象をぼかす事無くありのままの言葉にして伝えた。


「ぷっ! ……おい隆、お前何を」

「何をってお前笑ってるんじゃないぞ、髭の生えたビヤ樽に失礼だろ」

「わ、笑ってなんていないぞ!」

 ……残念だが、それを笑っていないというのなら『黄金のガチョウ』をもってしてもお姫様は笑わせられないだろう。

「てめぇ、誰が醜く肥えた薄汚い髭だと?」

 安っぽい挑発に乗ってくれたのには感謝するが、誰もそんな事まで「思っていても」言ってない。


「涼、質問に答えるんだ」

 髭ビア樽を無視して涼を促す。

「ああ、もう! 柔道部の顧問の安浦先生だ」

「お前、こんなのから指導を受けているのか? 道理で弱いはずだ……日本柔道終わったな」

「何だと!」

 涼と髭ビア樽が同時に叫ぶ。


「自分が誰に喧嘩売ってるのか分かっているのか?」

 髭ビア樽が威圧をかけてくるが、大島に比べたらチワワが吠えているようなものなので全く意に介さない。

「誰に? 知るか! そもそも名乗りもしないで、尋ねて来た生徒の父兄にお前呼ばわりするような礼儀知らずが」

「何を餓鬼の分際で!」

「生徒の父兄を名乗る相手を餓鬼呼ばわりするとは、頭おかしいんだろ? 悪い事は言わないから病院行け。それとも黄色い救急車を呼んで欲しいか?」

 ある一定以上の年齢層にはお馴染みのフレーズをぶつけてやる。


「……父兄だと、餓鬼がふざけたことを抜かすな」

 父兄という言葉を浴びせられて多少は冷静さを取り戻した髭ビア樽はトーンを下げてた。

「高城涼の兄で、高城 隆。両親から任されて妹達をここまで送って来たんだ父兄を名乗るになんの不足がある?」

「ふん、その父兄気取りの餓鬼が何の用だ?」

 そう言いながらポケットから煙草を取り出して口にくわえると火を着ける。

 俺は右手を伸ばして、煙草を中指と人差し指でそれぞれ上下から挟んで奪い取る。

「あ──」

 俺に文句を言おうと口を開けた瞬間に、中指と人差し指の上下を入れ替える事で煙草を反転させると、火先から口の中に突っ込んでやった。


「ぶっはっ! て、てめぇ」

 慌てて吐き出す。

「許可も得ずに勝手に他人の前で煙草を吸い始めるな。ましてや生徒の前でとか馬鹿なの阿呆なの死ぬの?」

 ネットスラングも用いて挑発する。ネットというのは仲の悪い者同士が、匿名で文字だけでやり合う場なので、この世の煽り文句の全てがそこにあるといった感じでとても勉強になる……勉強と言って良いのか俺にも分からないが。


「俺が煙草を吸うのに、お前の許可などいるか!」

「イーシャ。こいつは普段からも生徒の前で煙草を吸ってるだろう?」

「うん」

「せめて生徒の前で煙草を控える程度の常識さえわきまえる事の出来ないニコチン中毒。そして不摂生な食習慣で太った身体。それに目の充血……どうせ毎日の深酒で肝臓にも問題があるんだろう。駄目な大人の典型……自分の身体の管理も出来ない馬鹿が体育会系の部活の指導者で顧問だなんて非常識もいいところだ」


「言いたい放題言ってくれるじゃないか、おい?」

 近寄って来て臭い息を浴びせてくる。

「言いたい放題? お前はやりたい放題だろう? 生徒に生活態度から食生活の指導も行うのに手本となるべき当人がそんな様で、一体どうすれば指導に説得力を持たせられるんだ?」

「お、俺の指導をお前に文句を言われる筋合いはない!」

 正論に狼狽えるなら、普段からまともにしておけよ無様な。


「生徒の父兄が、学校側の指導力に対して苦言を呈す筋合いも無いと……これは学校側の正式な発言だと捉えて問題ないのだな?」

「うるせぇっ! この餓鬼!」

「吐いた唾は飲み込めないって事を憶えておけよ」

 全部、ネットなどに拡散するつもりなので、一生後悔と共に心の中に残り続けるから忘れる心配など必要ないけど。



「まあ、それはどうでもいいさ。それよりも本題だ。先ほど学校の校門の前まで二人を送り届けに来たのだが、いきなり俺の妹が柔道部の上級生から暴力を振るわれたんだが、柔道部ではいったいどの様な指導を行っているのか教えて貰いたい」

「暴力? 指導だ? ……何の問題もない」

「問題無いとは、どういう事だ?」

「上級生が下級生を殴って何が悪い?」

「……意味が分からない。流石の俺もビア樽語は理解出来ないので日本語で頼む」

「上級生が指導で下級生を殴る程度の事は問題ないと言っているんだ! 一体何が悪い? どうせお前のような文系の口ばっかり達者な坊やには体育会系の流儀なんて理解出来ないんだろう?」

「……俺が文系」

 思わず鼻で笑ってしまう。

「どう考えても俺は理系だろう」

 ……えっ、そうじゃない?


「とにかくだ、今時の世情がその言い分を認めるかどうかは別として、俺個人として指導の為に上級生が下級生を殴るのはある程度ありだと思っている。だが、妹は指導で殴られたのではなく、単に感情的に殴られたのだが、それでも問題は無いと?」

「感情的だ? どうせ高城が生意気な事を抜かしたからだろう」

「何故決めつける? お前はその場で見ていたのか? どうして自分の都合良いように勝手に話をすり替えるんだ? 恥を知れ!」

「お前の一方的な言葉を信じる必要などない」

「俺の言葉を信じ無い事と、頭から否定するのでは意味が違う。俺の言葉を信じられないなら、お前がするべきと否定では無く事実の確認だ。そんな事すら分からないで良くも指導者でございますと名乗れたものだな」

 実を言うと本当に確認されたら少し拙い。何故なら仲間内で庇い合って涼が先輩に暴言を吐いたと先ほどの三人が口裏を合わせられると、水掛け論になってしまい、それを覆すだけの証拠は無いのだ……静止画だけではなく動画で音声も拾っておけば違ったのだが。


 勿論、ロードし直して、涼が平手で殴られる前からその状況を撮影しておくというも手だが、妹が殴られるのを止められるのに黙って見ている事など出来ない。

 だからといって殴ったという事実がなければ、この問題だらけの柔道部のあり方を見逃すという事となり根本的な解決にならない。

 つまり、ロードなしで決着をつけるために策を弄する必要がある。


 単純に考えるならば今のはったりが効いている間に、状況を進めて髭のビア樽……もう髭樽で良いや。その髭樽から決定的な問題発言なりを引き出して決着をつけてしまう短期決戦で勝負に出る。

 その為の策を練る必要がある訳だが、柔道と同じでもっと揺さぶりを掛けてから仕掛けるべきだろう……だがそれは無駄になった。


「うるさい! 柔道部において上位に立つ者の言葉は絶対だ。上級生に下級生が逆らうなんて事は認められない。上級生が下級生を殴るならそれは正当な理由があるって事だ。部外者が口を挟むな!」

 あ~あ、言っちゃったよ。

 香籐からも『音声と画像ともにばっちり録りました!』と喜びの報告が届く。


「要するに、顧問のあんた自身が上級生が下級生に暴力を振るう事を認めているという訳だな?」

「そうだ、何が悪い!」

「悪くない。悪くないよ。実に悪くない。自分がトップに立つ職場で上位者が絶対であるというヒエラルキーの構築は、快適な職場環境の完成と同意義だからな。あなたは成功者だ、小さな小さな王国を王様になれたんだから誇っていいよ。本当に素晴らしい。あなたの豚小屋の王国では、上位者は絶対で間違わない。批判を口にする事は許されない。すべての成功は王様のモノで、全ての失敗は下の者責任だ。そうマインドコントロールを施す事で人間を従順な豚に変えて支配する。素晴らしいのはその階級制度を豚達の間にも当てはめることで、大多数の豚の下に立場の弱い豚を作ることで体制を維持するというやり方だ。三年制のいや中高一貫で六年制の学校において、最下層の中学一年生を過ごすのはわずか一年間のみ、残りの五年間を上級生としての立場で過ごす事が出来るなら、誰もその状態に不満を持たない。持っていても一年後には忘れて、新たに王国に入って来た最下層の新入生に上級生として思うがままに自分達が受けて来た屈辱の全てをぶつければ霧散してしまう。実に素晴らしく何処にでも転がっているありふれた豚小屋の王国だ。独創性というものが欠け過ぎていて、そして余りに醜悪で反吐が出そうなのが唯一の欠点だな」

 俺は髭樽にチェックメイトをかけた。


「言うに事欠いて、俺の柔道部を豚小屋だと?」

「お前の? 本当に所有物気取りとは驚きだが、だとするならやはりお前は豚小屋の王様だ。人と呼ぶにはその性根が醜すぎる。そんな奴に大事な子供を預けている親達は本当に憐れだな」

 父さんと母さんからは何のリアクションも返ってこない……これは怒りが限界を突破してるね。


 今の発言が最後のトリガとなった様だ。髭樽は「うおぉぉぉぉぉぉっ!」と叫びながら突進してくる。そして俺はそれを避けずに受ける。

 推定身長百八十五センチメートル体重百三十キログラムの樽が突っ込んでくる衝撃をまともに受ければ、レベルアップによる身体能力なんて関係なく俺の体重では支えきれるはずもない。


 髭樽と一緒に壁まで吹っ飛ばされて、壁と髭樽……もう樽で良いや、樽の間でサンドイッチにされる。普通というかレベルアップの恩恵を受けていない人間なら、どんなに鍛え上げられた強靭な肉体を持っていても肋骨の骨折は免れないだろう衝撃を受け、そして反動で樽共々床に投げ出される。

『見るものをぞっとさせるような衝撃映像が撮れましたよ。こいつの人生終わりですね』

 香籐、少しは俺の身を心配してくれ。イーシャなんて驚きのあまりスマホを持ったまま固まってるくらいだぞ……うん、肝心なところを撮影していないね。


「この餓鬼が! この餓鬼が! 餓鬼の癖に生意気な事を抜かしやがって!」

 樽はすぐに起き上がると、力なく横たわる演技をする俺に圧し掛かり上から殴りつけてくる。

 実は激突の瞬間、壁に背中だけではなく両肩と両肘を付け、続いて突っ込んでくる樽の胸の両脇を受け止めるように構えていたので、衝突の衝撃がそのまま伝わり奴の肋骨は左右数本ずつ折れている筈なのだが、その痛みを気付かせない怒りとは凄まじいものだ。


 一発、二発とその拳をわざと受けるが、それ以降は右拳には左に、左拳には右へと教科書通りのヘッドスリップによる防御を行うと、所詮打撃の素人の樽なので、力任せに振るう拳は全て的を外してコンクリートの上にリノリウムを貼っただけの床を強く打ち付けていく。


 怒りによる興奮状態で脳内へ過剰分泌されたβ-エンドルフィンによる鎮痛効果で痛みを感じていなのだろうが既に樽の両の拳は砕けているが殴るのを止めない。


 数か月は両手ギブスで箸も握れないだろうが、どうせ数か月は留置場と刑務所暮らしだから刑務作業をサボれて良かったのかもしれない。 まあ自業自得なので俺が心配する事でも無いだろう。



『主将。もう十分だと思います』

 香籐の言葉を合図に俺は反撃に転じる。マウントポジションからのボディーコントロールの利いた打撃ではなく馬乗りになった素人の力任せな打撃は体重を乗せて前のめりになって打ってくるので、下から簡単にカウンターを合わせることが出来る。


 カウンターで鼻先に入った一撃に仰け反る樽の左膝を取って、持ち上げてやると簡単にバランスを失い俺の上から転がり落ちる。

 そこで樽は初めて柔道の寝技に持ち込もうとするが、同時に砕けて使い物にならなくなっている自分の両手に気づく。

「ああぁぁぁぁぁっ!」

 興奮が醒めた事で一気に襲い掛かってくる両手の痛みに悲鳴を上げて転がりまくる。

 本来ならその顔面に膝を叩き込んで、前歯を全部へし折ってやるところだが、この場はあくまでも柔道部顧問の暴力にあった生徒の父兄という被害者でなければならないので自重して【昏倒】を使って眠らせた。


『紫村、作戦実行だ』

 紫村がいるのは放送室。

 この状況を香籐が撮影していた動画データの入ったSDカードは共有された【所持アイテム】通じて放送室の紫村に渡り、ミニノートPCでエンコードし、ミニノートをUSBケーブルで放送機材のHDDレコーダーに繋いでデータ落とすと騒ぎの一部始終を校内に放送するのだった。


『ばっちり撮れているね。それにしても流石、金持ちの私立校だね。校内のあちらこちらに校内放送用のモニターが設置されてるんだから、うちの中学じゃ考えられないよ』

 放送開始直後、紫村は内側から鍵をかけた状態で外側から扉を閉め、更に鍵穴には細くねじったティッシュをピッキングツールで押し込んでから放送室を脱出した後、廊下に配置されているモニターで動画を確認しながら話しかけてくる。

『どんな立派な施設でも中身があれじゃあな』

『それにしてもどうしようもない奴でしたね』

『あの手の人間は他にも沢山存在するぞ。何故なら恥を知らない人間にとってはあれが一番やりやすい形なんだから……それにうちの学校もこの学校を馬鹿に出来るような立派な学校じゃない』

『救われないね、この世は……』

 三人で浮世を嘆いていると、北斗から突っ込みが入る。


「これは、どういう事なんだ?」

「どういう事って?」

「セクハラ問題でこいつを追い込むのでは?」

「ああ、そういう事か。セクハラ問題じゃ弱いだろ。証拠を出せと言われても困るだろし、それにお前さんも自分がセクハラされましたなんて広言出来るか?」

「それは……」

「分かりやすい傷害事件が一番良いんだよ。俺が殴られれば済む話だし」

「……私の為に?」

「リューちゃん、身体は大丈夫なの?」

 北斗を突き飛ばしたイーシャが不安そうに聞いてくる。

「大丈夫だ。ちゃんと受けているから」

「イーシャびっくりしたんだから!」

 泣きながら抱き着いてくる。

 か、可愛いじゃないか、それに胸の感触が……もうイーシャで良いんじゃないか? そんな色々と失礼な思いが頭を過るが、次の瞬間、胸元でクンカクンカと鼻を鳴らす音に、真下に見える旋毛めがけて手刀を振り落とした。



 突然扉が開く。

「安浦君!」

 息を切らせながら飛び込んできた初老で眼鏡をかけたスーツ姿の男が樽の名前を叫んだ。

「安浦……君?」

 床の上で大きな鼾をかいている樽に戸惑い勢いをなくす。

 いや、ビア樽体形のおっさんが頭を打って脳震盪で倒れているとすると鼾は脳溢血のサインなんだから呆気にとられるなよ。

「これは一体? あっ、き、君たちその携帯はしまいなさい!」

 男は自分に向けられた携帯電話やスマホに驚き、恫喝すると開け放った扉を自分で閉めた。

 この行動はこの後の話を周りに知られたくないという気持ちの現れなんだろうが、その様子は香籐が先ほど同様にしっかりと撮影している。

 部屋の中の何かを探すように見渡しているが【迷彩】で姿を消し、気配を消して背後に立つ香籐を捉える事は出来ない。

 大島レベルとは言わないまでも、空手部の二年生レベルなら何かおかしいと気づけるだろうが、この男は武道に関しては素人のようだ。


「この状況を撮影されると困る事でもあるんですか?」

「何もありません。しかしここは学校です、こちらの指示に従って貰います」

 三人は俺に「どうする?」と言った視線を向けてくるので「しまいな」と答えた。

 記録されてないと勘違いしている方が本音が出てやり易いからだ。


「ところで、一体もなにもありませんよ。この男がいきなり飛び掛かって来て、僕を壁に叩き付けた上に、馬乗りになって殴りかかって来たので何発か殴られた後で、避けたら床を殴りまくって拳が砕けて痛みに悲鳴を上げながら転がり回った挙句に失神したんですよ。頭を打った様子はないので両手の人差し指と中指の第三関節の骨折。もしかしたら複雑骨折でしょうね。救急車と警察を呼んでください」

「け、警察?」

「当たり前じゃないですか傷害事件なんだから」

「傷害事件?!」

 放送を見て駆け込んで来た癖に白々しい。だがそれを指摘はしない。あくまでも放送されたのは俺達とは関わりの無いというスタンスを取る。


「いちいち繰り返さなくて結構。人の話聞いてないんですか? 僕はこの男に壁に叩き付けられた上に、馬乗りで殴られたんですから立派な傷害事件ですよ。ちゃんと警察に被害届を出すつもりですから状況確認をして調書も作成して貰わないと」

「ま、ま、待ってくれ!」

「待って『くれ』? ……さてとあなたが呼ばないのなら、自分で電話して呼びましょう」

 そう言って携帯を取り出す。

「いや、待ってください!」

 この瞬間、この場における主導権どころか関係性がどちらがプライマリーでどちらがスレイブが決定した。

「待つのは良いんですが、あなたはどういった立場の方ですか?」

「私は太洋学院中等部体育会部活動系統括部長の花沢と申します」

 そう言って流れるような動作でさっと名刺を出してきた。


「ああなるほど、つまり今回の問題の学校側の責任者ととらえて間違いありませんね?」

 名刺をじっくりと眺めながら、次なる口撃を加える。

「責任、責任者ですか?」

「当然じゃないですか? この学校内で統括者である貴方の部下の女子柔道部顧問が生徒の父兄に暴力を振るった訳ですから、直接事件を起こした彼は刑事責任が問われるとして、民事では当然あなたと、この学校の管理責任も問われないはずが無いでしょう。明日は日曜日だから月曜日の新聞にはこの事件が載るんじゃないですか?」

『今の主将、とても輝いてますよ!』

『そんな褒めるな』

 割と本気で照れてしまう。


「待ってください。何とか穏便に済ませる訳にはいきませんか?」

 学校にとっては警察以上にマスコミへのリークが怖いのだろう。

「傷害という犯罪をなあなあで済ませて、犯罪者に刑事的責任を科さずに野に放とうとお考えな訳ですね。学校経営という意味では理解出来るんですが、子供達への教育に関わる者としての貴方の見識を疑いますね」

「いえ、私は教育の現場に直接関わる立場ではなく、あくまでも学校をマネジメントする立場の人間ですので」

「つまり、この学校は上の立場の人間ほど、教育とは全く関係ない理念に従って学校を運営しているという事ですか……いや、正直な方ですね。驚くやら呆れるやら」


「いい加減、そういう上げ足を取るようなやり方は止めてもらえませんか?」

 目つきが変わり、態度もメッキが剥げてきたようだ。

「止めて欲しいも何も、あなたが学校側としてどのような対応を取るのかはっきり示さず、下らない駆け引きをしようとするからこうなる」

「つまり学校側から何らかの誠意を見せろと……つまり脅迫ですね。そういう態度をとるのならこちらとしても──」

 やはりこの学校にはろくな大人が居ないようだ。徹底的に叩いて潰して涼とイーシャには転校という形を取って貰った方が良い。

 はっきり言って、これ以上二人をこの学校に通わせておく事は出来ない。


「もしもし警察ですか? あのですね傷害じ──」

「うわぁぁぁぁぁぁっ!」

 再び携帯電話を取り出すと警察に電話を掛ける、すると花沢が叫び声をあげながら携帯電話を奪おうと飛び掛かってくる。俺は左足を左後ろに大きく引いて体重を乗せる事で上体を逃がしながら、残した右脚で花沢の脚を引っ掛ける。状況についていけず呆然として椅子に座る涼の隣の椅子に突っ込み椅子ごとひっくり返った。

 ちなみに携帯はわざと奪わせるという絶妙なタイミングでそれは行われたのだ。


 床から起き上がった花沢は眼鏡がどこかへ吹っ飛び、さらに額から血を流しているが口元には卑しそうな笑みを浮かべている。

 俺から奪った携帯を真っ二つにへし折ると床に叩きつけて「これでお前も傷害犯だ覚悟しておけ!」と叫ぶ。

 実は二枚腰のタフな交渉者であったという面白そうな展開ではなく、ただの小物の逆切れだった。


「俺の携帯を奪って勢い余って勝手に転倒しただけに見えましたが? ちなみに俺の携帯への器物破損であんたも犯罪者の仲間入りだ。おめでとう」

 そして俺の携帯電話がスマホに生まれ変わって戻ってくるチャンスをくれてありがとう! 本当にありがとう! そして父さん残念!


「うるさい! お前が勝手に言ってるだけで何の証拠もない!」

「ここには当事者の俺とあんただけじゃなく目撃者が三人もるけどな」

 花沢は部屋を見渡してからおもむろに鼻で笑った。

「そんな餓鬼の証言が何の役に立つ」

 香籐がしっかり証拠映像を撮影している事を知っているので彼がピエロ過ぎて笑うのを堪えるのが辛い。


「役に立つかどうかは自分の人生をかけて確認してみるんだな」

「……ふん、ここは学校だ。こちら側の証人なんて幾らでも増やせる。せいぜい吠え面をかくんだな」

「ねぇ、リューちゃん吠え面って何? 初めて聞くんだけど」

 空気を読まないイーシャの疑問の声に、俺も挑発の意味で乗っかる。


「そうだな、今時吠え面なんて古臭い言葉使うのは爺くらいだよな。いいか、吠え面っていうのは泣きっ面という意味で、これは犬の吠える事を鳴くともいう事から鳴き声の鳴きを、涙を流す泣くにすり替えた昔の人間の言葉遊びじゃないだろうかと俺は思うんだけど、信じるか信じないかはあなた次第です」

「へぇ~昔の人って面白い事考えるんだね」

 俺が適当に今考えたそれっぽい話をあっさりと信じちゃいましたよ。こいつは将来、訪問販売詐欺に百万円単位で金を騙し取られるだろう。


「うるさい! 何を下らない事をしゃべってる。もうお前たちは終わりなんだよ。お前は刑務所にぶち込まれて、その三人は全員退学だ! ざまあみろ! はっはっはっはっは……」

「ちなみに撮影はしてないけど録音はさせて貰った。お前を破滅させる証拠として十分だろう。お疲れさま」

 タコかイカのように一瞬にして顔から血の気が失せる。ついでにあらゆる感情も抜け落ちた。

「……な、何だって?!」

 もう十分に喋って貰ったので、呆然としているところを【昏倒】で失神させた。


『紫村先輩、後はよろしくお願いします』

 花沢が失神したところで香籐はカメラを止めた。

『了解したよ』

 ちなみに紫村が今居るのは、高校の校舎の放送室だ……もう本当にご愁傷さまとしか言いようがない。

「それにしても、この学校もろくな人間がいないな。お兄ちゃん、ますます学校という場所が嫌いになりそうだよ」

 涼にそう話しかけるが、頭を抱えながら「柔道部が……も、もうお終いだ。どうしてこんな事に……」と呟くだけで返事は返って来なかった。

 どうした諦めるのが早くないか?

「私はもう開き直ったから良いよ。リューちゃんの家から最低でも中学三年間は通わせてもらうから、その間に既成事実を……ふっふっふ」

 イーシャが怖い。も、もうお終いだ。どうしてこんな事に……


「さすがに私もこの学校には失望しました」

「まあ、そうだろうね」

 流石に上がこれほど酷ければ色々と考えてしまうだろう。

「今のが表沙汰になったら、この学校自体が終わりですよね」

 もう既に高校の方では一部始終が放送されているので手遅れなんだけどね。


「トップの人間達がまともなら立て直すチャンスもあるんじゃないかな?」

 可能性はゼロではない。

「花沢って結構トップに近い人間ですよ」

「……ほ、ほら、校長とかが──」

「校長は部活動にはほぼ無関係です。この学校にとっては部活動の成績が広告代わりなので、そこを統括する花沢の発言力は、ある意味校長をも上回ります。つまりこの学校はもう救いようがないって事ですね……ならばこの手で引導を渡してやるのが……ふっふっふ」

 なるほど涼が諦めモードに突入したのはそういう事なのか……北斗、あんた黒いよ。


「どうしたものか……」

『もういいから。こんな学校には涼やリーヤをおいてはおけない!』

『そうね。だったらもう涼達とは関係ないんだから徹底的にやってあげないと駄目ね』

 母さんが黒い。真っ黒だ。



 それから五分後、新たなる挑戦者によって三度(みたび)扉が開け放たれる……私は誰の挑戦でも受ける!

「花沢君、君は何をやってるんだ! 学校中に全部流れている……花沢君!?」

 倒れている花沢に気づいて駆け寄ろうとする小太りの六十がらみの爺さんに声をかける。

「何が全部流れているんですか?」

「げぇっ!」

 多分、高校の校舎の放送で花沢の醜態を見て来たのだろう、俺の顔を見て潰されるカエルのような悲鳴を上げた。


「他人の顔を見てげぇっとは、熟(つくづく)この学校の人間は礼儀知らずですね」

「あっ……やあ、私はこの学院の中等部の校長で島村です」

 動揺を隠し切れずにぎこちなく名乗った。

「僕は高城。ここにいる今年の新入生で柔道部に所属する高城 涼の兄で、同じく長家 イスカリーヤの従兄です」

 いつものように最初は人当たりの良い態度で接する。


「それで、今日はどのような用件で?」

「実家から妹達を学校まで送って来たんですが、校門の前で柔道部の上級生が妹に『調子に乗ってる』などと難癖をつけて殴り、更に『舐めるな餓鬼』などと暴言を吐いて突き飛ばしたんですよ」

「それは、誠に申し訳ありません。我々の指導不足と申しましょうか、今後そのような事が無いよう──」

「その件で、上級生が下級生に暴力を振るうのは柔道部の指導者が認めているという発言があったので、その事に関して問い質したく面会を申し込んだのですが」

「安浦先生にですか……って安浦先生どうしたんです!」

 壁際に倒れている安浦を発見して半ば悲鳴のような裏返った声を上げて駆け寄る。

 安浦が鼾をしている事を確認して安心している。だから脳震盪で倒れた場合は鼾は危険のサインだから安心するなよ。


「それで彼と面会したところ、上級生が下級生に柔道の指導と関係のないところでも体罰と称して暴力を振るう事には何の問題も無いという意見を頂きまして」

「……はっ? 何でですか?」

「そんな不思議そうな顔をされても間違いのない事実です。その様子は撮影してありますから」

「撮影……そうだ!」

 島村は慌てて背後の扉の付近を振り返ると何かを探しているかのような首の動きを見せる。

 香籐の撮影は、その辺りで行っているので、カメラが仕掛けてあると勘ぐっているのだろう。


「そんなところに隠しカメラ何てありませんよ。彼女達が撮影したんですよ」

 隠しカメラはないがカメラマン自体が隠れてるだけだがな。

「それから意見の相違という奴で口論になりまして、そこで突然叫び声を上げながら突っ込んできて、僕を壁に叩きつけて、倒れたところを馬乗りになって殴られましたよ」

 その場にがっくりと崩れ落ちる。

 すっとぼけているのかと思ったが、どうやら本気で花沢の件の放送は見ているが安浦のは見ていない、しかも花沢の方の放送もしっかりとは見ていない様子だ。


「やはり本当なんですか?」

「本当ですよ全て」

 間髪入れずに即答する。

「……分かりました。この際、膿は全て絞り出し切りましょう」

 おお、この学校に来て初めて建設的な意見を耳にしたような気がする……だけど校長って実権は余り無いんだよな?


「具体的にはどうするつもりですか?」

「残念ですが、安浦先生と花沢君には職を辞して貰い。その後刑事罰を受けてもらいます。安浦先生は傷害罪。花沢君は脅迫、器物破損となるでしょう。そして安浦先生は起訴されるのは間違いありませんが、花沢君は起訴されるかどうかまでは分かりません。その件に関しては学校側の力が及ぶところでないので、ご理解下さい」

「それは構いません。学校側が身内を庇うような事をしなければ、後は司法に判断を委ねれば良いと思います。ただし彼らが、再び今の様な職には就けないように、全ての学校に話を入れておいて下さい」

「分かりました」

「それからもうひとつ。安浦は女子生徒へのセクハラ行為も行っていたようです」

「セクハラ? まさか中学生にですか?」

「そのまさかです。この件に関しては表沙汰にすると傷付くのは生徒達なので内々に処理をして貰いたいのですが、他の部でもそのような問題がないのか、生徒への体罰と合わせて、アンケート調査、そうですねあくまでも部の指導者達が関わらない方法で、生徒達に直接行った方が良いでしょう」

「内々にアンケートを実施して、その結果を踏まえて処分を行う事にしましょう」

 随分と積極的だな。


「でも良いんですか? 警察沙汰になれば学校側にも大きな痛手でしょうに」

 気になったので尋ねてみた。

「構いません。学校側が自主的に彼らの排除を行えば信頼回復も早いですし、それに体育会系の部活動偏重の学校経営には疑問を持っていたので、彼らの勢力を削ぐというのは私個人としてのメリットのある話ですから」

 良いね、こういう人。ふんわりとした正義感に酔ってる奴等と違って、裏切る事はあっても行動原理がブレる事の無いタイプだから、利害関係が一致とまではいかなくても互いに調整出来ている間は信頼しても大丈夫だろう……その間だけはね。


「それでは、当たり前の事ですが、妹達を含めて柔道部の部員が何の杞憂もなく柔道に打ち込めるように、教師が生徒を上級生が下級生を弱い立場の者を虐げる様な事が無い艦橋を作るとよう約束してください」

「……分かりました」



 俺と島村とのやり取りを見ていた北斗が疑わしそうに俺を見詰めている。

「……高城の兄。君は本当に私と同じ中学三年生なのか?」

 真顔で言うな。それはよく言われる言葉だから、慣れているからと言って何でも無いわけじゃなく、良く言われるからこそ嫌だという事もあるんだぞ。

「えっ! 中学三年生……高校じゃなくて?」

 島村が、俺の顔を見詰めたままで口を開けて固まるのは止めろ。俺だって傷つくことぐらい……ある。

 好きで中学生にして幕末の人斬りみたいな目つきはしてないんだよ。


「リューちゃん、頼れる大人って感じで格好よかったよ!」

 中学生に見えないから良い、発想の転換で少しだけ救われた気分になれるよ。イーシャは俺の癒しだな……時々。



『高城君。どうしよう?』

『何だ?』

 真剣な様子の紫村に、俺は先を促した。

『高校の放送室で流した奴には、最後にスーパーインポーズで「続きはウェブで」って入れたのに続編はお蔵入りになるみたいだけど』

『勝手に入れるなよ』

『だって、あそこは徹底的にやるなって期待してたからね』

『僕も期待していました』

『酷い奴等だな、人の妹の人生を左右するような話だというのに……だが、お前達の期待は叶うぞ』

『へぇ~』

『どうしてです?』

『最後に奴に話しかける前に俺は闇属性レベルⅢの【看破】を使った』

『まさかあの使いどころの分からない。相手が嘘を吐いたかどうかし分からない中途半端なあれをですか?』

 やっぱり評判が悪い。というか魔術はほとんどが評判悪い。

 【看破】は相手に掛けて、こちらの質問などに対して、答えた時にそれが嘘の場合に自分だけに聞こえる「ブゥーッ!」という音で知らせてくれるのだが、普通の会話の流れの場合は、どれに対して嘘を吐いたのかが判断付きづらいという欠点がある魔術である。

 しかも本当は何なのかも分からない、正解の解説をしないクイズ番組のような不親切さも使いづらさに拍車をかける。


『そうだ。カマを掛ける前に使う位にしか役に立ないあれだ。あの野郎すました顔で「分かりました」と嘘吐きやがったよ』

『でも【看破】を使ったという事は疑いを持ってたんですよね? 一体どのタイミングで疑いを抱いたんですか?』

『花沢達体育会系の人間が力を持った状態を改善したいって言ってただろう。だがそれを行うには花沢を排除しても余り意味はない。別の新たな人間が花沢の立場を就くだけで、学校の体制自体は変わらない。だとするならば島村は自分が学校、というか本体の大学を含めた組織のトップに立ち、運動部の成績で学校の知名度、評判を上げる構造を変えるつもりと考えるべきだろう。つまり柔道部をはじめとする運動部をいずれは縮小するはずなんだ』

『でも自分には奴が嘘を吐いているようには見えなかったんですが』

『それはそうだ。奴は嘘は吐いていない。嘘を吐かずにこちらを騙そうとしていた』

『そんなことが?』

『簡単な事だ。奴にとっての「わかりました」は涼達が中学を卒業するまで柔道部を存続させれ良い。指導者も適当な普通の人間を据えれば満たされる返事だった。結果嘘を吐かずに自分に都合の良い話の流れに持って行った』

『何故そんなことをするんですか?』

『嘘を吐くのはデメリットが大きいからだ。相手が証拠を記録していれば致命的になるし、それに普通人間は嘘を吐くのが嫌いだから嘘を吐けばストレスがかかるし、何より相手に見破られ易い』

『でも主将は──』

『それ以上何も言うな』

 誰が平然と嘘を吐きまくるサイコパスだ。この野郎!


『だけど面倒だね。彼を破滅させてあげるだけの証拠を集めるのに時間がかかりそうだけど、彼は今回の件が公表された後、早い段階で……多分、来週中にでも決着をつけてトップを取ると思うよ』

『同感だ。だからこちらも今日中に決着をつける』

『どうするんだ隆?』

『奴にとって致命的な爆弾がこちらの手の中にあるからね』

『彼女達が撮影した。そして彼女達が放送したと思っている動画データだね』

 やはり紫村は気づいていたか。


『奴としてはそれを何としても回収したい。自分のコントロール下にない爆弾の存在は許容出来るはずが無いからな』

『そしてそれを彼が穏便に手に入れようとする提案を高城君が理由をつけて蹴る。すると彼は何らかの直接的なアクションを起こすという訳だね』

 流石紫村だ。俺の黒い発想を完璧に読み取る黒さ。


『それじゃあ、涼やリーヤが!』

『大丈夫だよ兄貴。先ずこれ以上学校の中で事件が起きる事は、学校自体にとっても致命的だし、次に島村には体育会系に所属する涼達へ直接的に手出し出来る手段は無いだろ。そして何より肝心の動画データを俺が持っている事を分からせてやれば確実に狙いは俺になる。俺の護衛として張り付いてる人達にも仕事をさせてあげないとね』

『なるほど、お前を襲って捕まった連中は背後関係を洗いざらい徹底的に調べられるから、誰の命令で襲ったのかも明らかになる訳だ』

『それなら、続きをウェブで発表しても良いんだね?』

『構わん、むしろやれ。ただしタイミングは俺が襲われて、島村が捕まった後だ』

『それなら時間があるようだから、先ほどの分もしっかり編集して解説もつけておくよ』

 一つの大きな学校という組織を破壊しつくす事を楽しんでるな。


『それは良いんですけど、扉の向こうに張り付いてる奴はいつまで無視するんですか?』

 香籐の言葉に俺は困る。周辺マップには明らかに部屋の外で、扉の廊下側にぴったりと張り付いて、多分中の様子を伺っている奴がいるのは島村が入って来てすぐに気づいたのだが、それがどういう人間なのか分からないので放置している状態だ。

『どうしたものかな?』

『じゃあ開けますよ』

『えっ?』


 止める間もなく香籐が扉を開く。

 すると扉に身体を預けて聞き耳を立てていたのだろう男ががバランスを崩して転がり込んできた。

「そ、総長!」

 その言葉にS県人たる俺の頭に真っ先に思い浮かんだのは暴走族の頭だ……いや、本当に多いんだよS県には、暴走族同士の抗争で機動隊が出動とか、平成の世でそんな事が起こるオンリーワンなS県万歳だよ。


 だが、乱入者は革ジャンにサングラス、そして気合の入ったリーゼントの「どけぇ~い、どけ、どけぇっ!」という感じではなく、長い白い髭を顎に湛えた島村よりも十歳以上は齢を重ねた和装が似合う老人だった。


 ただ者ではないと感じさせる佇まい。総長と呼ばれるだけの事はあり人を従える事に慣れた者特有の空気をまとっている……例え床に転がっている姿を晒していても。

 そして倒れる瞬間のぎりぎりまでの粘りからも、老いた今でも肉体の鍛錬は欠かしていない事を感じさせる……そう、俺には分かる。この老人はカバディの達人に違いない。根拠はないよ。


「島村君。やはり君は己の野心を抑えきれなかったようだのぅ」

 立ち上がると、先程の醜態などなかったように口火を切った。

「な、何を馬鹿な事を……」

「先ほどの話は、廊下で聞かせてもらった」

 盗み聞きだけどな。


「くっ! ……」

「はっきり言おう。我太洋学院大はスポーツ名門校という看板を下ろせば経営は成り立たない。君の思惑通りにする訳にはいかんのだよ」

「スポーツ名門校と言えば聞こえは良いが、実際世間の評判は運動馬鹿校という不名誉なものじゃないですか!」

 島村の発言に、俺が涼やイーシャ、ついでに北斗に視線を投げかけると三人ともさっと視線を外した……おい馬鹿ども!


「運動馬鹿校から運動を取ってしまえばただの馬鹿校になってしまう……それだけは避けたい」

「だからこそ、体育会系だけではなく学習指導に力を入れて進学率を上げて──」

「人を育てるという事に関して、文と武に優劣がある訳ではない。何を恥じる必要がある!」

 いや、馬鹿専門学校に劣はあっても優は無い。そもそも勉学が学生の基本なんだから。

「貴方には分かるまい、『ねぇ、お祖父ちゃんの学校って馬鹿製造プラントって本当?』と孫に訊かれた私の気持ちが!」

 うま……酷い事を言うな。この部屋にいる製造中の馬鹿三人が、がっくりと肩を落としているぞ。


 そもそも、そんな個人的な理由で学校の制度改革を行おうと考えたのか? 馬鹿だろ。

「そんな事で僻んでいたのかね?」

「そ、そんな事だと! 私がどれほど──」

「孫にそう言われたのが自分だけだと思うなっ!」

 カバディで鍛え上げられた老人離れした肺活量による大音声(だいおんじょう)で一括された島村は堪らずに尻餅を突いてひっくり返る。

「総長も……それならば──」

「喝っ!」

 気合に打たれて仰け反りでんぐり返り一回転。

「……儂はな、そう言った孫に三時間に渡り正座して話し合って分かって貰えたよ。小さな子供とはいえ腹を割って話し合えば理解してくれる、それが教育なのではないか?」

 それはただの拷問だろう。下半身を重点的に鍛え上げる空手部の俺は正座が苦手だ。発達した脹脛などのボリュームたっぷりの筋肉が正座の姿勢により圧迫されて常人以上に膝から下への血流を妨げるので、三時間の正座など考えただけでゾッとする。

 俺ほど苦手じゃなくても、子供が三時間も正座で説教されたら「OK!OK! グランパ。あんたの言いたいことは分かったぜ。分かったからもう勘弁してくれ! 膝から下の感覚が無いんだ」と泣きを入れるのは間違いない。


「君には教育者としての信念が、いや哲学が足りない!」

「哲学?」

 哲学とは我々現代日本人にとっては思想的なものを想像するだろうが、本来の哲学とは全ての学問の根幹にあり、学問ではなく論理的な思考活動全般を意味する。つまり哲学とは活動を示すものであり人生そのものであるのだ。

 だからこそ孫に拷問を加えて自説を通し、それお教育と豪語する人間が使ってはいけない。哲学に対する冒涜といえる。


「そうだ哲学だ。何故諦める? 何故己の信念を貫き通さない? そもそも幼き子供の意見に己の考えを屈するなど、それでも教育者なのか?」

「私は……間違っていたのか?」

 何かを分かって居るような気分になっているようだが根幹の部分から間違ってる。その爺のいう事は全部間違ってるからな。

「やり直すのだ。我校に問題があるのも事実だ。一から仕切り直そうじゃないか」


 俺の思いを無視して総長が島村へと手を差し伸べる。

「そ、総長……」

 島村は差し出された手を両手でつかむ。

「島村君……」

 涙を浮かべて見つめ合う爺二人に、俺は「何これ?」と呟くしかなかった。



 もうね、涼がすっかりこの学校でやっていく気をなくしてしまいましたよ。こんな学校にいたら馬鹿になるってね。

 既にどのクラスにも一人いる。ダントツで勉強出来ない子レベルだと思うんですが、これ以上馬鹿になるのは嫌なんだと好意的に解釈したよ。

 まあ、気持ちは分からないでもないのだが、大学を含めた学校全てのトップである総長が、折角部活動の改革にも力を入れる気を見せているのだから、様子を見てからでも良いんじゃないかと説得している。


「ほら夏休みにこっちに戻って来て、父さんの指導を受けてみて、その結果、転校して実家に戻るか判断しても遅くはないだろ?」

「じゃあ、私もリューちゃんの家に行くからね」

「国に帰るんだな。お前にも家族がいるだろう」

 ソニックブームを出しそうな勢いで俺は断固として拒否する。


「じゃあ、電話するね……もしもし、お母さん? うん私。あのね今年の夏休み、リョーちゃんと一緒に叔父さんの家に行ってもいい? ……うん……うん、ありがとうね。じゃあまた電話するから!」

 通話を終えると「お母さんが頑張りなさいだって」笑顔で言った。

 ナニを頑張るんだ!?

『頑張るんだ』

 と、父さん?

『頑張れよ』

 兄貴? ……

『お母さん、信じてるから、ちゃんと自重してね』

 自重って何を?


 とりあえず涼とイーシャの転校は保留となった。

 涼に家に電話をかけさて父さんと母さんに話をして貰った。

 父さんがうっかりとまるで見ているかのように話しかけて母さんに足を踏まれたのは想定内の出来事だった。


 その後は警察と救急車を呼んで、警察からは現場で調書を取られ、更には病院で診断書も取られた。

 診断書と共に警察署に向かい、そこで更に改めて聞き取りが行われる。

 何度もしつこく同じ事を尋ねて来られるのはかなりイラッとするが、これには嘘を吐いていた場合に証言がブレたり、または新たな事実を思い出すという事もあるので、事件捜査において重要な手法なので怒ってはいけない……怒ってはいけないのだ……怒ったら負けだから。


 結局、涼達と共に解放されたのは五月下旬という日の入りの遅い季節にも関わらずとっくに日は沈んでからの事だった。

 涼とイーシャと北斗、それに学校関係者は警察車両で学校に送り届けて貰えるようだ。俺は駅に送ると言われたが「自電車でS県まで戻るんだよ……これから」と言ってやった。


「電車賃が無いなら貸そうか?」

 俺の聴取していた刑事がそう言ったが「借りても出費だ。余計な気を遣いをするくらいなら、俺が輪行バッグに自転車を入れてる事がどういう意味なのか察して、聴取を早目に終わらせる程度の気遣いが欲しかった」と嫌味をぶつけてやる。


 そもそも俺の所持品である輪行バッグの中身を確認したのはこの刑事なのだから、これくらいの嫌味は許されるだろう。

 こんな時間になるまで拘束されるとは思ってなかったので、これから街灯もない山道を走って帰るという設定は無理があるんじゃないかと思うのだ……だが、無理を通せは道理は引っ込むと昔の偉い人も言っていた。


 自転車で家まで帰る振りをするために輪行バッグから取り出した自転車のフレームに車輪を取り付けて跨ると、そのまま警察署の門を通過し、表通りで張り込んでいる護衛兼見張り達の横をすり抜け、加速し一気に振り切ると人目のない路地に入ると【迷彩】で姿を消して自転車を収納する。

 そして浮遊/飛行魔法で上空へと移動すると、紫村、香籐と合流する……こいつらしっかりと滅多に来ない東京で買い物したのだろう紙袋を両手に持っていやがる。


 途中、飛ばし過ぎて飛行機雲が出来てしまい、一部ネットで話題になってしまった。

 月齢が二十五頃の細い月なので油断していたせいだが、夜空に三本の雲が水平に伸びていくが、その先頭には航空機であることを示す航空灯・衝突防止灯の明かりが存在しない動画にはさすがにヤバイと思った。


 ともかく飛行機雲の発生は、折角の視認もレーダーによる捕捉も不可能な高い隠密性を誇る浮遊/飛行魔法の優れた特性を無にしてしまう重大な問題だった。

 原因は飛行時の風除けの為に形成する風防の形状が高速飛行する場合に正面から受ける風の影響で不規則に歪む事で、本来ならば水平に直進するだけなら発生しないはずの飛行機雲が発生してしまったと結論付けたが、その解決には速度制限を行うか、ただでさえ浮遊/飛行魔法全体の魔力消費の四十パーセントを占める風防の強度を上げて風圧によるゆがみを無くすが、魔力消費量を大幅に引き上げてしまう以外に解決方法が思い浮かば無い。

 現在の目標である超音速達成の為には抜本的な解決策を講じる必要があるだろうが、それは余りにも難しい問題だ。

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