第99話

 結局、大島と早乙女さんを異世界に放し飼い状態というとても迷惑な状態のまま、俺達は帰ってきた。

 俺の奥の手を見せられて流石の大島も言葉を無くして立ち尽くしていたが奴の目は死んでいなかった。

 奴は俺の知らない自分の奥の手に磨きをかける一方で、必死にレベルアップに走るだろう。

 それが俺の罠とも気づかずに……精々誰からも尊敬され愛される素晴らしい大島になってしまうが良い!



 起きるとすぐに、紫村と香籐、それから櫛木田と田村と伴尾と床の上に転がしてゆく。

「……おはよう高城君」

「おう、おはよう。今日はこれで帰るから、後はよろしくな」

「ああ、妹さんが帰ってくるんだったね」

「そんなんだ」

「ちょっと待て、という事はイスカリーヤさんも一緒に?」

「それをお前が知ってどうするというんだ?」

「勿論、お前の家にお邪魔する!」

 櫛木田の顔面にアイアンクローをかける。軍用ヘルメットでさえ紙風船と大して違いが無い俺の握力に櫛木田の頭蓋骨が悲鳴を上げる。


「妹さんも可愛いのか? 可愛いんだろう? なあ? 可愛いと言えよ?」

「いいか田村。家の妹が可愛いくても可愛くなくてもお前の人生に全く関わりが無いんだ。夜空に輝く遠い星が、既に消えているのかまだ存在するのか以上に、お前にとっては意味が無い話だ。死にたくなかったら二度とその話題を口にするな」

「お……おう」

 俺の脅しに口ごもる田村に、ついでに何かを言いかけて止めた伴尾。


「でも主将のご家族なら興味がありますね」

「じゃあ、お前は家に来い」

「本当ですか! やったー!」

「差別だ!」

 アイアンクローを受けながら櫛木田が叫ぶ。

 良いんだよ。香籐は家に来てマルやユキと遊びたいだけだから。それに香藤は癒し系だからマルやユキと戯れる香藤に涼が癒されて、少しは性格が丸くなる可能性は……ないな。



 香籐と一緒に紫村邸を出て家に向かう。相変わらず護衛兼見張りがついている。

 ここで大島が戻ってきたとなったらどうなるんだろう? そういえば大島の手下達はどうしよう? 予定では大島や早乙女さんと一緒に平行世界から此方に戻ってきたという風に偽装するつもりだったのだが……まあ良いか。


 家に戻ると、父さん、母さん、兄貴。そしてマルとユキを居間の床へ取り出して寝かせる。

『おはようタカシ! お母さんは……まだ寝てるね。あれカトーが居るよ。どうして?』

 マルは香籐の匂いを嗅いで確認しているが、香籐に撫でられてすぐに尻尾を振ってじゃれ付いてる。


「……ああ家か。おはよう隆。それじゃあ、シャワーを浴びてから涼達を迎えに行く準備でもするかぁ~」

 欠伸を漏らしながら風呂場の方へと消えて行った。

 母さんと兄貴はまだ起きない様なので『散歩に行って来る』と書置きを残すとマルにリードをつけてカトーに渡し、目を覚ましたユキを抱くと家を出た。


『タカシ! タカシ! マルの背中にユキちゃん乗せて!』

『危ないから駄目』

『走らないから。マル静かに歩くから』

『本当に?』

『本当! マル嘘吐かないから』

『主将。マルちゃんの上にユキちゃんの二段重ね。最高じゃないですか!』

『カトー、オメガ高い』

 うん、そうだねオメガは高いね……この手の話題に関して香籐はポンコツ野郎で、マルとは愛称ばっちりだ。


 ただ景色を楽しみながら歩くだけの散歩を済ませて家に戻る……いや、散歩とは本来そういうものだな。

 香籐にシャワーを譲って、マルとユキに餌を上げて、床に胡坐をかいて食べる様子を眺めていると兄貴がやってきて俺の隣に座り込む。


「なあ、涼とどんなことを話せば良いと思う?」

「そんな事が俺に分かるなら、とっくに俺達兄弟は三人仲良くやってるか、俺と涼で兄貴をハブってるかのどっちだろ」

「そうだな……って酷すぎるだろ! 普通に兄弟三人仲良くってことにしとけよ!」

「きっと俺だけお兄ちゃんと呼ばれて、兄貴は、オイとか呼び捨てだな」

「それなら、今日俺が涼と和解して、お前をハブる!」

「その意気だ。頑張ってくれ……精々な」

 出来もしない事を口にされても心が動かない。


「隆も少しは頑張れよ!」

「何となく……無駄な足掻き?」

「何でもう諦めてるんだ?」

「失礼な俺は諦めてないぞ。奇跡は起きます。兄貴が起こしてみせます! ってな」

「……完全に他力本願かよ」

「そういえば、イーシャが言ってたよ。俺達は理屈っぽすぎるって。もう少し単純なら涼と仲良くやれるって」

「単純に……ってどういうことだ?」

「さあ、だけどそれを考えてしまうのが悪いんじゃないのか?」

「俺に考えるなというのか?」

 考えない兄貴というか、考え過ぎない兄貴は余り想像出来ない。似たような性分である俺が言うのもなんだが、敢て言わせて貰えば面倒な奴である……俺と兄貴は。


 香籐に続いてシャワーを浴びて居間に戻ると、玄関の方から車のエンジン音が聞こえてくる。

「帰ってきたみたいだな」

『お父さん帰ってきたの?』

『涼も一緒にな』

 俺の答えにマルの身体に緊張が走る。

『スズ来るの?』

『もう来てるんだよ』

 更なる答えに、マルは立ち上がりオロオロと落ち着きをなくする。


「主将。もしかして……」

「マルが妹を苦手としているのは確かだ。だけど別にマルをいじめているという訳じゃないんだ。手加減を知らないと、生まれつき粗暴というか……」

「もう良いんです。分かりました、もう良いんです」

 香籐は察してくれた。


「おかえり」

 居間に入ってきた父さんに俺が声を掛けると「ああ」と小さく応えるだけで、顔には不機嫌と大きく書いてあった……はて? 俺達兄弟の苦言を無視して甘やかしてきた娘と、可愛がっていた姪を連れて帰って来たとは思えない態度だ。


「ただいま」

「お帰りなさい」

「おはようございます」

「いらっしゃい。リーヤちゃん」

「お邪魔します」

「あら?」

 ……三人目誰? 男の声だよな……これが父さんの不機嫌の原因か?


「リューちゃん、ダイちゃん おはよう!」

「おはよう……久しぶりだな」

 前回兄貴は俺を見捨てて逃げて帰ってこなかったからな。


「おはようイーシャ。涼」

 入り口で挨拶もしないで、此方を睨んでくる妹に一応挨拶をしておく。どうせ注意しても噛み付いてくるだけだろうから。

「どうも初めまして。香籐って言いますよろしく」

 ミスター爽やか君の香籐が、爽やかに挨拶をする……さあ妹よ、何かリアクションを返すのだ。


「……そいつ誰だ?」

 いきなり、そいつ呼ばわりかよ!

「友北中の二年生で空手部でお兄さんの後輩で、何時も大変お世話になっています」

 香籐はそいつ呼ばわりも爽やかにスルー。マルやユキと戯れて、幸福度がMAXな香籐はまだまだ心に余裕があるようだ。


「あっそう。興味が無い」

 そう吐き捨てるとダイニングへと姿を消す。

 思わず唖然とするほどの無礼さ。本当にこいつは、その手の礼儀がうるさい体育会系バリバリの柔道部の寮生活でやっていけてるのだろうか?


「……すまないな香籐」

「妹が申し訳ない」

「いいえ、気にしないで下さい」

 謝る俺と兄貴に、香籐は笑顔で許してくれる。

 だけど香籐。お前が許してくれたことで、お前への無礼は気にしなくて良くても、涼の将来を気にしなくては駄目なんだよ。


「リューちゃんの後輩? 私はイスカリーヤ。よろしくね」

「どうも香籐です。貴女の事は何度か聞いた事があります。そうだ準優勝おめでとうございます」

「イーシャ。おめでとう」

「おめでとう」

 入り口に立つ三人目が気になりながらも無視して、俺と兄貴はイーシャの準優勝を讃える。


「うん、ありがとう……決勝戦で、ちょっと納得のいく試合が出来なかったんだけど、今はちょっと嬉しく──」

「あの……」

「今大事な所なんだから空気読んで黙ってろ!」と兄貴。

「他人の家で勝手に呼吸してるんじゃねぇぞボケ!」と俺が見知らぬ男を怒鳴りつける。

 そんな俺達の失礼さに香籐は「やっぱり兄弟妹なんだなぁ~」と溜息混じりに漏らしていた。



「それでお前は何者だ?」

 普通に考えるなら涼の彼氏と考えるのが普通だろう。そうでもなければ唯の知り合いの女の子の家に態々新幹線に乗ってやってくる男がこの世に居るはずも無い。


 だが、涼に彼氏が? ……はっきり言って信じられない。

 粗忽、粗暴、そして粗末な胸と三拍子揃った涼に彼氏だと? そんな馬鹿げた事、異世界以上に現実味が無い……でももしも──


『兄貴、やばいよ。もし涼の彼氏だとしたら、俺達は土下座しても涼の事をお願いしますと頼むべきじゃない?』

『おお、そうだよ。どうしよう俺達かなり無礼な態度を取ってしまったよ。もしかしたら涼の最初にして最後の男(チャンス)なのかもしれないの』

『待て、お前達。幾ら何でも彼氏なんてまだ早いだろう。父さんは許さないぞ!』

『何馬鹿な事を言ってるんだ。あんな性格の涼にチャンスがそんなにあってたまるか!』

『俺や兄貴だって、結婚出来るか分からないんだぞ。もしかしたら彼が父さんの血を未来へと受け継がせてくれるたった一つの希望なのかもしれないんだぞ!』

『いや、お前はともかく俺はちゃんと結婚するよ、してみせるよ。どんな手を使っても』

『どんな手を使ってもなんて言う奴に結婚なんて出来るか!』

『えっ、お前達、そんなに駄目なの?』

『…………そ、そんな事無いよ』

 俺と兄貴にはそれしか言えなかった。



「俺は国中 忠司(くになか ただし)。蓬栄中の柔道部で主将をしている。高城隆。お前と勝負したい」

「…………? 別に俺は妹が欲しければ俺を倒してみろなんて言わないぞ。シスコンになる事すら許されなかった男だからな」

 誰が許さなかったか? 勿論妹だよ!

「誰がそんな事を! あんな切れたナイフはごめんだ」

「つまり、お前は涼の彼氏じゃないんだな」

「当たり前だろう!」

 涼の彼氏でもないのに、この家で俺をお前呼ばわりか……死ぬ気か?


 一方兄貴はがっくりを肩を落とし項垂れていた。

「そうだよな。涼に彼氏なんて出来るはずが無いか……夢を見てしまったよ俺」

「随分と面白い事を言ってるじゃないか……大」

 戻って来た涼が兄貴の後ろから声を掛ける。


「げぇっ! す、涼」

 孔明ではなく実の妹に「げぇっ!」は……良く分かります。

「てめぇは後で覚悟しておけよ……こいつは隆、お前と勝負がしたくてやって来た馬鹿だ」

「高城! 先輩に向かって馬鹿とは──」

 学校も違うのに先輩とか……柔道の先輩という事か? 俺には分からない感覚だな。

「素人相手に柔道の勝負を仕掛けに来たとか馬鹿としか呼び様が無い」


「……うっ!」

「しかも、それがリーヤが隆の事を誉めたのが気に入らないから、態々新幹線でやって来たとか……どうなんだ馬鹿先輩?」

「馬鹿で申し訳ありませんでした」

 涼の容赦の無い言葉攻めに、新幹線でやって来た馬鹿は全面降伏をする。


『あの追い込み方主将そっくりですね』

『おいっ!』

『香籐君、真実だけに止めてあげて』

『おいっ!』



「ともかく柔道の勝負と言われても、俺は柔道なんてやったこと無いから柔道着も持ってないしルールも知らないぞ」

「柔道着なら父さんのを貸そう」

 父さんの柔道着?


「……どうした」

「汚くない?」

 それが一番大事だった。

「失礼な! ちゃんと洗ってある」

「漂白と殺菌した? 加齢臭が残ってたら嫌だよ」

「お前は思春期の娘か? それともオネエなのか?」

「加齢臭が嫌いかどうかに、性別性癖は関係ないから」

 むしろ、オヤジの加齢臭を好むとしたら、よほどの変態だと思うよ。


「父さんは加齢臭なんてしません!」

 おいオッサン。開き直って嘘つくのは止めろよ。

「そりゃあ、自分の加齢臭だから分からないだけでしょう」

 冷徹に事実を突きつける俺の言葉に兄貴が深く頷く。

「ま、大?」

 兄貴にまで加齢臭が臭い事を肯定されて動揺を隠し切れない父さんは、怯えるようにゆっくりと涼を振り返り、娘が頷く姿に絶望してその場に座り込んでしまった。


「大丈夫ですよ英さん。臭くなんて無いですよ」

「史緒さん~」

 優しく慰める母さんに、泣きながらすがりつく。

「ちゃんと洗濯物はセスキ炭酸ソーダを溶いたお湯で漬け置きしてから洗ってますから、洗濯物は臭くないですよ」

(加齢臭の原因菌を六十度以上のお湯で殺菌し、原因物質である酸化した脂肪をアルカリ性のセスキ炭酸ソーダで鹸化、つまり液状の石鹸へと変化させて洗い流す)

「史緒さん~っ!」

 母さんから遠回しに加齢臭が臭いと指摘され、本当に泣きが入ってしまった。


「……まあ、それで結局どうしたいんだ?」

 馬鹿が新幹線でやって来たとしか形容しがたい国中に尋ねる。

「俺と試合え!」

「涼。こいつ真剣に馬鹿だぞ。一般家庭に押しかけて、さあ柔道だ試合え試合えって、一体何処で試合をする気なんだ?」

「馬鹿の考えなんて知るものか!」

「お前も考え無しにこんなの連れてくるなよ」

「悪かったな。勝手について来たんだよ! 何で父さんもこんなの車に乗せたんだよ!」

「乗せたも何も当然という顔で乗り込んでこられたら何も言えないだろ……」

 もしこいつが涼の彼氏で、そんな態度をとって愛娘に嫌われたらと思ったら何もいえなかったんだね……そんなのだからスポイルして涼をこんな風にしてしまうんだ。


「家族の揉め事は後にして、学校の格技室の隅でも借りれば良いだろう」

「お前が馬鹿なせいで揉めてるんだよ。大体、何が借りれば良いだろうだ? 勝手な事ぬかしてるんじゃねえぞ」

 馬鹿も度が過ぎると面白くない。むしろイラっとする。

「休みなんだから、空手部にだって格技室の割り当て時間があるだろう。その時間で俺は構わない」

 俺は構わない? 誰がお前の都合など心配してると思うんだ?

 もう決めた。こいつの望みどおり試合をしてやる。そして最高のピエロに仕立ててやろう。更にそれを撮影して顔出しで動画サイトに投稿してやる。


「空手部は、今顧問がいないので無期限活動停止で、主将の担任の先生のご好意で、ご実家の剣道の道場を借りて活動しているので、部外者を招き入れるのは問題があります。それに空手部としても迷惑です。さっさと新幹線で帰るのが良いでしょう」

 そう言って割って入った香籐のこめかみで血管をピクッピクッと動いている。馬鹿の態度が腹に据えかねたのだろう。


「部外者は口を挟むな!」

「何を言ってるんですか? 部外者も何も空手部の部員ですが?」

「うるさい!」

 馬鹿が手を出そうとした瞬間、香籐は小さく右膝を抜くと次の瞬間、膝を伸ばして床を蹴り、その力を左足で止める事で上半身に右回りの運動を生み出すと同時に左膝を内側に抜き、更に上半身に右前に倒れる力を生み出すと、肩から先を鋭く振りぬいて馬鹿の顎先を打ち抜いた。

 崩れ落ちる馬鹿の後ろ襟を掴んで止めて「主将。この馬鹿は川原に捨ててきます」と振り返りながら笑顔で言った。


「香籐。捨てて来なくて良いぞ。これから北條先生に連絡して、こいつを道場に連れて行く許可を貰うから」

「主将!」

「まあ落ち着け。こいつの望み通りに試合をしてやるさ。結果はこいつの望み通りには絶対にしないけどな」

「……なるほど。具体的にはどんな感じにするんでしょう?」

「散々弄くって恥をかかせて、その様子を動画サイトに顔出しで投稿するに決まっている」

「流石主将」

 はっはっはっ誉めるなよ。



 北條先生に連絡を取り許可を得てから、次に紫村に撮影する準備を頼んでから俺達は道場へと向かった。

「あれ? 高城は今日は午後からだったんじゃないのか?」

 門の前で、伴尾と出会った。


「妹と従妹がこっちに顔を出す事になったんだ」

「可愛いと評判の従妹さんが来るんですか?」

「妹さんの方も可愛いですか?」

 周りに居た二年生達が一気に盛り上がる。

「残念な事に俺の妹が可愛かった事など一度も無い」

 俺の答えに一瞬で盛り下がった。


 道場で空手道着に着替えて、門の前に戻り、待つ事五分で父さんが運転する車がやってきた。

 後部座席のドアからは涼とイーシャ。そして助手席のドアからは馬鹿が降りて来た。


「ったく、もったいぶらずに此処でやれば良いだろうに」

 香籐に殴られた顎に手をやりながら勝手な事をほざいている。

「お前は今日は空手部の練習に参加すると言う名目で特別に許可を貰った。すぐにランニングに出るから道場で着替えて来い」

「ランニング?」

「そうだ。唯の準備運動だ。文句は無かろう?」

「良いだろう」



 ……に十分後、いや着替えなどの時間もあったので、実際に走った時間では十分足らずで国中は路上に倒れ伏した。

 走った距離は五キロメートル程だというのに体力が無さ過ぎる。


「体力無いですねこの人」

「中一の女子でもちゃんとついて来てるのに」

「なさけねぇ」

 一年生達が、倒れた道端の草でつっついたり、鼻の穴に突っ込んだりして遊んでいる。


「ぺ、ペースが速すぎる……陸上部の長距離走じゃあるまいし……こんなペースで走れるわけが無い」

「我が空手部に長距離で陸上部に負けるような軟弱者は居ない!」

「だよな、鍋川の奴、俺達の1500mのタイム見て涙目立ったもんな」

 一年生達がそう言って笑ってる。

 鍋川は体育教師で陸上部の顧問だ。そりゃあ手塩にかけて育てた三年生の長距離代表選手と変わらないタイムを、二ヶ月前までは小学生だった空手部の一年生が出したら泣くだろ。


 強いて言うなら、システムメニューを身につける前の俺が、陸上部の一年生に空手で負けるようなものだ。もしそんな事になったら責任を取って腹を斬るだろう……大島が。

「そ、そんなの空手部じゃねぇ……」

 そう良い残して国中は意識を失った。アスリートの癖に筋肉の上に贅肉をたっぷりトッピングした柔道の重量級ならそんなものだろう。


「じゃあ、こいつの面倒は任せた」

 俺達のペースについて来るのはやはり厳しかったのだろう。額に汗を浮かべて息を乱した涼とイーシャに告げる。

「こんなの連れて戻れないよぅ~」

「連れてかいらなくて良いよ。ただ、こんなのが道端に転がってたら警察を呼ばれるから、こいつが目を覚ますまで傍で介抱している振りをしていてくれ。それで目覚めたら道場に戻る様に言ってくれれば良い」

「こんなのの横で立ってられるか冗談じゃない!」

 君達二人とも「こんなの」扱いか、何でこんなのを連れて来たのか、何でもっとはっきりとお断り出来なかったのか本気で教えて欲しいよ。


「じゃあ、俺達はまだ半分以上ランニングが残ってるから。行くぞ!」

「イスカリーヤさん、また後で!」

「ランニングなんてさっさと終わらせて帰ります!」

「待っててくださいね!」

 こいつら分かりやすく張り切ってやがる。


 結局、一年生や二年生達が張り切ったお陰で、ランニングコースを何時もより二キロメートルほど伸ばしたにも拘らず、時間は何時もより短縮されてしまった。

 連中はドヤ顔だが、明日以降は今日の結果が考慮される事は思いもしていないのだろう。

 大島も復活したことだし、最終的にはこっちの世界に戻って来るだろうから、それまでにこいつらを鍛え上げておかなければならない。


 戻って来た大島に「何だ後輩の指導も満足に出来ないのか? 俺がやってた事をそのまま真似すれば良いのに、真似すらも出来ないって無能だなぁ~」と言われたらと想像するだけではらわたが煮えくり返る。


 ともかく、後輩達、そして櫛木田、田村、伴尾の三人は我先にと道場に駆け込んだが、涼もイーシャも、そしてどうでもいいが国中も姿が無かった。

「あの野郎。まだのびてるのか?」

「先輩、あいつ使えませんよ。何で練習に参加させてるんですか?」

「主将が連れて来たみたいなんだけど……」

 一年生の栗原と二年生の岡本が俺の方を見る。


「何か知らんけど、いきなり家に押しかけて来て、さあ試合え、試合えと言ってな」

「はぁ主将と? 頭大丈夫なんですかあいつ?」

「大体、あいつが着てたのは柔道着ですよね? 柔道で主将に挑む気なんですか?」

 柔道をやっている人間は空手を下に見る傾向があるが、同様に空手をやっている人間は柔道を下に見る傾向がある。

 勿論俺もその思い込みからは完全に自由という訳ではなく、ある程度囚われているのは間違いない。

 人間は自分が打ち込んできたものが一番であって欲しいに決まってる。

 問題があるとするならば、未だに自分がやってるのが空手だという確信を持てない事だ。


「というか俺にも柔道でやれと」

「主将って柔道の経験あるんですか?」

「全く無い」

「…………それで、相手の柔道の腕前はどうなんですか?」

「一応、中学柔道では日本でもトップクラスらしい……良く知らないけど」


「はぁ! それで素人相手に柔道で試合しろと言ってるんですか?」

「ふざけた奴ですね……ちょっとヤキ入れてきます」

 立ち上がりかけた森口の肩を掴んで押しとどめる。


「俺が例え柔道であっても奴に負けると思うか?」

「幾らなんでも……柔道のルールさえも知らないんですよね?」

「知らない。だが知らないから面白いアクシデントが生まれる。そもそも奴は俺が柔道の素人と知って試合をしろと言っているんだ。どんな面白アクシデントが起きても奴自信の責任だとは思わないか?」

「撮影は?」

 分かってるな森口。


「勿論、紫村に頼んである」

「僕も手伝います!」

「頼むぞ。撮ったのは動画サイトに投稿するからな」

「それならばっちり気合を入れて撮影します!」

 悪そうな笑顔でテンションを上げる森口に対して、空手部の水にまだ馴染んでいない、いや大島の毒に犯されていない一年生達は軽く退いている。



「それで? 無様にも練習前のランニングにすらついて来れずに失神した国中君は、まだ俺と試合をしたいというのかな?」

 一時間後、ようやく戻って来た国中は「さあ勝負だ。試合え、試合え」と懲りもせず喚きだしたので、たっぷり挑発しながら尋ねる。

 ちなみに既にカメラ四台で撮影中だ。


「試合をして俺がお前より強い事が証明したいだけだ」

 他人を指差してお前呼ばわりなんて、その指をへし折られても文句を言えない国も多いというのに、こんなのを国際試合に出して大丈夫なのか?


「経験者が未経験者相手に試合をしろと強要か……俺なら恥ずかしくてとても言えないような事を平気で口にするとは、お前恐ろしい奴だな」

「お、長家は、お前は柔道でも俺より強いと言っていた」

 俺がイーシャを振り返って睨むと悪びれる様子も無く笑顔で「ゴメンネ!」と言った……その様子を森口のカメラが撮影しているようだが、それは使えないからな。


 俺は涼に近づくと「何でイーシャが俺が強いというと、あそこまでむきになるんだ?」と耳打ちする。

 すると涼は、こいつは馬鹿か? と見下すような目で俺を見ると「奴がリーヤの事を好きだからに決まっているだろう」と声をひそめて答えた。

「す、すると奴は俺との勝負にかこつけて、ここまでイーシャとデート気分でやって来たというのか?」

「それは……否定出来ない」

 なんて高度な手段を使うんだ? モテないならモテないなり僅かな可能性を残すことなく泥臭く拾い上げていく。

 俺にはそんな発想は無理だろう、恋愛というのはもっと綺麗なものだという妄想を捨て切れない……ともかく恐ろしい奴だという事は分かった。

 東京にはあんな奴がたくさんいるのかよ。さすが日本の首東京都だな。

 正直、所沢が日本の首都だと言われても騙される様なレベルのS県の田舎者にとっては格というより次元が違う。


「先ほども言ったが、俺は柔道の技は幾つか知っていてもルールは知らないぞ」

「構わない! お前に何もさせるつもりは無い」

 おお格好良い! 格好良ければ良いほどピエロとなった時の惨めさが引き立つのだから、もっと吹かして貰いたい。


 嫌々ながら父さんの柔道着に着替えた俺は、道場の真ん中で国中と向かい合う。

「始め!」

 涼の掛け声と共に国中は組手争いの距離まで詰めてきたので、俺は組手争いを無視して掌底で鼻頭を打つと、怯んだ一瞬の隙を突いてコブラツイストを決めた。


「そんな柔道あるかっ!」

 涼の怒声が道場中に響き渡った。

「だからルール知らないって言ったのに、こいつが自信満々に何もさせるつもりはないとか言って聞く耳持たなかったのが悪いんだろう」

「……まあ、そうだな。この馬鹿の自業自得だな」

 一部の隙も無い正論に、いくら涼でも俺を責める事は出来なかった。


「こ、今度は殴るなよ! 殴るのは反則だからな!」

 鼻血は止まったがまだ鼻が赤く腫れている国中が叫ぶが「はいはい、殴らなければ良いだろ」と投げ遣りに答えた。

「始め!」

 掛け声と同時に、先ほど同様に距離を詰めてきた国中の鼻頭に向けて掌底を放つ。

「ひぃっ!」

 怯えた声を上げ、完全に腰が引けた状態で頭を抱える国中の鼻の一寸手前で掌底を止めると、余裕でコブラツイストをかけて、グイグイと締め上げやった。


「止め! 隆、わざとやってるだろ? 柔道のルールを分かった上でわざとやってるだろう? そして何故コブラツイストなんだ?」

「父さんに最初に教わったプロレス技がコブラツイストだったからだ。ちなみに涼の練習台としてかけられる方だったがな……苦しかった。幾らギブアップと言っても、力を緩めるどころか笑い声を上げながらグイグイ締め上げてくる妹が怖かった。確かその後、俺は失神したよな?」

「…………まあ、コブラツイストはもう止めろ」

 気まずそうに涼は視線をそらした……むしろ気まずいという感情を持っていた事にお兄ちゃん吃驚仰天だよ。


「な、殴る振りも駄目だからな」

 俺を責めるというよりも怯えた目をしている。鼻骨を折られた訳でもないのに、ただ鼻っ面に掌底貰った程度でビビってしまうなんて信じられない。


「なあ、もうやめた方が良いんじゃないか?」

 試合じゃなく柔道を。格闘技に向いてない気がするよ。

「うるさい! ちゃんと柔道で戦えば俺の方が強いんだ。卑怯な手を使うお前が悪いんじゃないか!」

 よし、今のシーンと「構わない! お前に何もさせるつもりは無い」のシーンを交互に三回ほど流せば効果的だな。


「始め!」

 少し投げ遣りな掛け声で試合は始まる。

 今度の国中は慎重に距離を取りながら、俺の周りを右へとゆっくりと回る。消極的だな、ここで俺から先に仕掛けると面白みが無くなる。あくまでも柔道をやろうとする国中に対して俺がギャグで返すというスタイルを変えるのは得策じゃない。


 わざと隙を見せてやると、国中は踏み込みながら俺の右肘へと右手を伸ばして袖を掴み引き寄せようとした。

 これが立ち関節で相手の間接を痛めつける大島が好きな技だと分かった俺は、右肘が伸ばされない様に逆に身体に引き付けると同時に左手で右の袖を捲くって国中の右手の上に被せてから、袖口を絞り上げて手を引き抜けないように固定すると、身体ごと左へと回転して半ば手首と肘をと肩を極めた状態で国中を引き回し、一回転したところで足を引っ掛けて転倒させる。

 そして俺は人差し指を立てた右拳を高々と突き上げて「イッチバーン!」と叫んだ。


「だから柔道をやれと言ってるだろ! 柔道を!」

 また涼が怒鳴る。

「一体何が柔道じゃないんだ?」

 妹よ、お兄ちゃん今の何が悪いのか本気で分からないよ。


「袖で覆って相手の手を動けなくするな!」

「そんなのも駄目なのか? 柔道にだって確か相手や自分の柔道着を使って締め上げたりする技は有っただろう」

「駄目なものは駄目だ! 柔道舐めるなよ! ……それから国中! 手前ぇ脇固めで隆の肘を壊そうとしただろう」

「な、何を証拠にそんな事を……確かに多少痛い思いをして貰おうとは思ったけど、壊すとかそんな真似を俺がするとでも?」

 国中はすっとぼける。あの瞬間の奴の目は明らかにやらかす人間の目だったよ。


「はっきり言って、何を根拠にそんな風に自信満々に『俺がするとでも?』なんて言えるのか全く理解出来ない。そういうのは普段から相手との信頼関係をしっかり築いてから言え、それとも何か? お前は私との間に信頼関係を気付けてるとでも勘違いしているのか? 笑わせるな、そういう所が信頼に値しないんだ。寝言は寝て言え」

 容赦の無い啖呵に、場が静まり返る。


 アレは確実に相手の憎しみを生み出す。相手を確実に始末するくらいの覚悟が無ければ使うべきではない。

 少しでも場の空気を和ませるために、俺は明るい口調で「うわぁ~凄い啖呵聞いちゃった」と言った。

「高城君は普段からあんな感じだよ。兄妹だね良く似ているよ」

 流石紫村だ。上手く話の流れを関係の無い方向へと流してくれた。

「えっマジ!?」

 態と大袈裟に尋ねる。

「残念な事に……」

 目を合わさず頷く紫村。他の部員を振り返るも全員顔を背けた……えっ、本当にマジなの?



「それでどうすれば良いんだ? そろそろ俺も飽きてきたし、練習を再開したいんだけどな」

 ……というか傷心。俺だって傷つく事はある。

 そこで涼が妥協案を示した。


「仕方が無いから、両者相手の襟を取った状態から開始だ……国中。これはお前にくれてやったアドバンテージだ。これ以上柔道をやる者として恥を晒すなよ」

 どういう理由かは分からないが勝手に俺はハンデを負わされてしまったようだ……そうそう、よく「ハンデを貰う」とか「ハンデをあげる」という使われ方をしているが、ハンデキャップは負ってる方が不利なんだから、貰って喜んだり上から目線で相手に押し付けるものじゃないだろうと思うので、「ハンデ頂戴」とか言うのを聞くと笑いがこみ上げる。


「そんなものいるか! 俺は実力で勝つ!」

 こいつはこいつで実力差を理解出来てない。俺がやった事が反則かどうかは関係なく、俺はこいつのアクションに対応出来ているが、こいつは自分が俺のリアクションに何一つ対応出来ていないと気付かないのが怖い。

 野生本能の欠片も感じられないハムスターを、もし野に放ったらどうなるんだろうと想像するのと同じくらい怖い。


「この馬鹿がっ! 隆分かってるな……始め!」

 涼よ。分かってるななんて言われても、お兄ちゃんもお前とそんな以心伝心な関係は築いてなんて居ないぞ……という事を前提にして、お兄ちゃん何の事か分からないや~。


 胸元で両腕を内側に捻った状態で構えて、襟を取りに来る国中の人差し指と中指の間に自分の人差し指を挿し入れ、中指と薬指の間に中指を挿し入れる。

 そして内側に捻っていた腕を逆に外側へと捻り戻しながら、自分の人差し指と中指の間の付け根に挟んだ国中の中指を中心に、人差し指と中指の先でロックした国中の人差し指を、奴の中指に巻きつけるようにしながら外側へと回転すると両手指四字固めの形だけは完成するのだが、奴の方が上背があるのでこのままだと腕を上から前へと突き出すようにされると技の効きが悪くなるので、両手指四字固めを極めた状態で肩から先の腕全体を外回りに回転させ下へと移動させることで互いの両の掌を上向きにする事で両手指四字固めは真の完成をみる。

「何を? ……お、おい、止めろ……痛、痛い、痛ったったったった!」

 今にもポッキリと折れてしまいそうな中指の痛みに悲鳴を上げる。

「ギブ?」

「痛い! 痛い! ぎ、ギブ、ギブ、ギブッ!」

 涙目の国中の指を開放してやると、今度は人差し指と小指を立てた右の拳を突き上げて「ウィーーーッ!」と叫んだ。


「もう止めた! 私は知らん! お前等みたいな馬鹿と付き合ってられない!」

 全く柔道をしようとしない俺に、涼がついに切れた。そしてダンダンと床を踏み鳴らしながら道場の出口に向かって歩いて行く。


 まあ無理も無いが俺にはこいつを道化にするという大事な仕事があるんだよ。

「リューちゃんが苛めるから、リョーちゃん怒っちゃったじゃない。い~けないんだ、いけないんだ!」

 可愛く身体を左右に揺らしながら歌われると、何故だか懐かしさと共に罪悪感が沸いてくる。


「イーシャ? そんな小学生みたいな──」

 しまった。こいつは2ヶ月前まで小学生だよ。

「い~けないんだ、いけないんだ!」

 小学生から最も遠い三年共が唱和し始めた。だが、そんな野太い声で歌われても罪悪感どころか嫌悪感しか沸いて来ない。


「待て涼。次で決着をつけるぞ」

 このまま涼を不機嫌にして帰してしまったら、兄貴に馬鹿にされてしまう。

 きっと『何が涼と向かい合ういい機会だって? お前って想像以上の馬鹿だな』などとネチネチと責められるのだ……だって俺ならそうするから。


「次だと? てめぇ、やっぱり遊んでたんじゃないか!」

 はい、しっかり遊んでました。しっかり撮影もして貰ってます。

「もう遊ばないから機嫌直して……な?」

「うるさい! もう知るか!」

 そう言って道場を出て行ってしまっ──


「きゃっ!」

 飛び出した直後誰かにぶつかって、小柄な涼は反動で転がり戻って来た……さすがに受身は万全で頭を打つような事は無かった。

「大丈夫?」

 この声は北條先生。


「大丈夫です。ごめんなさい」

 ……俺はてっきり「何処見てんじゃボケ!」と漫画のチンピラのように絡むのかと思ったが意外に普通だよ、我が妹は。

「先生こそ怪我はありませんが? 愚妹がご迷惑をかけて申し訳ありません」

 俺は素早く駆け寄って謝罪する。


「怪我はありませんよ」

 そう言って、尻餅を突いている涼に手を差し伸べる。

「あ、ありがとうございます」

 北條先生の手を借りて立ち上がった涼は、頬を赤くして照れた様子で頭を深々と下げる……何だ、この可愛い生き物は? こんなのは決して涼ではない。


「可愛い妹さんね」

 ……涼が可愛いかどうかには色々と意見があるが、俺は大人の対応で「はい」と答えるしかなかった。

「涼です。よろしくお願いします……あ、兄が何時もお世話になっています」

 ANI? 今、涼の口から出たANIとは何だ? 俺へのどういう罵倒を意味する言葉なんだ? ……このパターンはもうやったわ!


 それにしても兄と言ったのか……やはり兄なのか? 涼が俺の事を兄と呼んだのか? 一体何年ぶりだろう十年とまでは言わないが八年振りくらいだろう。

 何だろうこの胸の中にこみ上げて来る温かい感情は?


「いいえ、私の方こそお兄さんには色々とお世話になってます。とても頼りになるお兄さんですね」

「…………はい」

 涼は顔を強張らせながら答えた。嫌だったんだね、お兄ちゃんも結構微妙だったけど我慢したよ。

「私は、お兄さんのクラスの担任で北條 弥生です。そうそう柔道の国際大会で優勝したんですってね。おめでとう。お兄さん嬉しそうに自慢していましたよ」

「……あ、ありがとうございます」

 涼が素直だ。まるで借りてきた猫を被ったとも言うべき態度。

 何故それが普段から出来ない! 悔しいから兄貴に【伝心】で今の一連の流れを動画イメージで送りつけてやった。

 すると混乱した兄貴から『もしかして、高城家に代々伝わる掟によって別々に育てられた涼の双子の片割れ?』とか言い出したので『アホ』とだけ伝えて兄貴との接続を切断した。



「隆……弥生さんってどんな人なんだ」

 道場の中に入って部員達に声を掛けている北條先生の姿を目で追いながら涼が尋ねてくる。

「俺の担任の北條 弥生先生は、この家の主の娘さんだ。ちなみに担当教科は数学、とても切れのある良い授業をする」

「美人で優しくて、教師としても優れていて……羨ましい」

「ちなみに剣道四段の腕前だ」

「隆には勿体無いな」

 自慢したら睨まれた。


「俺の学校の教師は北條先生以外はほとんど糞だけどな」

「お前にはお似合いだ」

 なんと口と性格の悪い。流石俺の……兄貴の妹だぜ!

「良いな弥生先生……憧れる」

「このにわかが北條先生を弥生先生などと呼ぶなど100年早いわ」

「ふっ、お前の100年などこの涼様にとっては──」

 そう言って涼は気取ったしぐさで右腕を斜め前に突き出すと指をパチンと鳴らし「この程度に過ぎない」と嘯(うそぶ)いた。


「弾指の間……そんな言葉を知っているなんて、お前何者だ? 涼を、俺の妹をどうしたんだ!」

 勉強は嫌いで、そもそもお頭の出来がいまいちな涼が、そんな気取った言い回しが出来るはずが無い。

「お前の中で私はどんだけなんだよ!」

「一言で言えば、残念!」

「よし、その喧嘩買った! 隆、さっさと国中と決着をつけたら私と勝負しろ」

「え~~っ、涼ちゃん小さいからお兄ちゃんと試合するのは無理だと思うよ」

 涼は中学一年生としても小柄で身長は百四十センチメートルは無いだろうという手のひらサイズの中学生……勿論冗談だ半分は……

 柔道の階級的には中学女子の最軽量の四十四キロ級のはずだが、実際の体重は筋肉がしっかりついているので、この身長にしては体重はあるだろうが、四十キログラムを大きく割り込むだろう。

 その体重で四十四キロ級を制したのは大したものだが、リーチと体重が大きく掛け離れた俺とでは例え柔道の試合といえども涼に勝ち目は無い。


「誰にものを言ってるんだ? 隆如きが」

 今晩、鏡を見て真似る練習をしようと思ったほどの、実に惚れ惚れとする様な不敵な笑みである。不敵というと大島だが涼の方が見栄えが良いというか、奴のは少し下種いのだ。



「そろそろ前座試合の時間はお仕舞いだ」

 ピシっと国中を指差して告げる……良いんだよ指さしたって、俺は海外なんて行かないから。

「……前座だと、ふざけるな!」

「ふざけてなどいない。そもそも今回の涼の帰郷で、俺は宿命の兄妹の因縁に蹴りをつけて、俺の事を可愛く上目遣いで『お兄ちゃん』と呼ぶようにしてやるつもりだった」

「おぞましい事を言うな!」

 道場の隅で、イーシャと北條先生に壁を作って貰い着替え中の涼が叫ぶ。


「そして、その計画に割り込んできた邪魔者がお前だ!」

「……もう少し兄妹仲何とか出来ないのか?」

 意外にもいきなり冷静に突っ込んできた。

「うるさい! 生後一年の妹に目を抉られそうになった俺の気持がお前に分かるのか? 初顔合わせで、生後数日の妹に差し出した手の指を一瞬で脱臼させられた兄貴の気持がわかるのか?」

「うん、ごめん無理……何かすまなかった」

「同情するな!」


 俺が切れると同時に涼も切れた。

「うるせい! 隆、てめえ余計な事抜かしてるんじゃないぞ!」

 暴れているようだが、北條先生から「可愛い顔でそんな汚い言葉遣いしたら駄目よ。それに高城君の事は、お兄ちゃんと呼んで上げた方が良いわよ」と諭されて「……うん」と小さく答えたのが耳に届いた……俺は初めて北條先生への嫉妬の念を覚え、この感情を持て余していた。



「始め!」

 着替えを終えた涼が戻ってきて開始の合図を出す……物凄い表情で俺を睨みながら。

 少し警戒しながら取りに来た襟を何もせずに取らせてやる。想像していなかった事態に戸惑い色を一瞬浮かべるが、すぐに感情を消し去ると体格差を生かして揺さぶりをかけてくる。

 だが足腰の強さに関しては、レベルアップの効果など関係なく明らかに俺の方が鍛え上げられているので、国中は思うように揺さぶりをかける事が出来ずに焦りの色を浮かべる。


 そして、より強く俺の体幹へ揺さぶりをかけるために奴自身の体幹が乱れ始める。それを待っていたのだ。

 今までの流れで国中の呼吸を読み切った俺は反撃に移る。

 掴んだ襟ごと俺の胸を押した状態から、一気に引き寄せて投げに入ろうとした瞬間、国中が体重を乗せ変えようとする途中の左脚を自らの左足で払い、そのまま左足で踏み込み、腰を右へと捻り国中の腰に当て、バランスを崩してすがるように強く俺の襟を握り込んだ奴の両手と腰を支点に、勢い良く身体を右前へと捻りながら倒す事で自分の両手を一切使う事無く国中を投げた。

「一本、それまで。一本勝ち」

 涼は俺の方である右手を高く上げて、俺の勝ちを宣言するが、その顔は驚きに歪んでいた。



「……待て」

 床の上にひっくり返ったままの国中が声を掛けてきた……床に叩きつけられる直前に奴は手を離しているために、力の方向が横へと逸れて大してダメージを受けていないはずなのに起き上がろうとしないのは、単に自分が負けた事が信じられないのか、それてもあんな投げ方をされたからだろうか?


 正直なところ、普通に柔道の試合をするならレベルアップ前の俺なら国中には勝てない。

 基点となる動作から、どのような動作を派生させて技につながるのかが分からないからだ。何せほとんどが初見となってしまうため自分のセンスだけで推測して対応しろと言われても限界がある。


 その点、柔道経験者なら長い歴史の中で積み上げられてきた技が頭と身体に刻まれているだろう。個人の素質とセンスだけでそれを上回るのには余程の天賦の才が必要となる。

 ましてや同じ中学生として世界でも上位に食い込む相手ならば、体重差を考慮しなくても、紫村ほどの才をもってしても勝つのは無理だろう。


「今の技は何だ?」

「何だと言われても唯の遊びで技でも何でもない」

「遊びだと? ……俺は、遊びで負けたのか」

「遊びで良かったじゃないか、本気なら病院送りだ。俺等のやってるのは武術であってスポーツじゃないから安全なんて言葉は無いから……本当に無いんだから」

 言ってて泣けてくる。

 空手部の二年生、三年生も涙を堪えている。

 辛かったもんな、痛くなければ身に付かないじゃなく、痛ければ身に付くはずだ。だからもっともっと身体に教え込んでやるが大島流。


「生徒への指導で安全を考慮しないなんて大問題だ」

「何故か大問題にはならず空手部は長きに渡って存続してきたんだよ……迷惑な事に」

「迷惑なのか?」

「迷惑でないはずが無い。何で空手部の部員がこんな技を身に付けなければならない? ただ強くなるというならまだ分かる。だが何で山でサバイバル訓練を受けなければならない。何で冬山に捨てられなければならない? これに何か理由があるんだ?」

「それって本当だったのか?!」

 跳ねるようにして起き上がるほど驚いている。


「ああ、そうだ」

「じゃ、じゃ、じゃあ、工業高校が廃校になったって話は?」

「……先輩達がやった事だ」

 つまらない事を知っていやがる。


 当の先輩達も「若気の至り」と言ってる事を引っ張り出してきやがって、先輩達だって反省してるんだ。工業高校のトップを浚って【空手の試合をきちんと決着がつくまで何度もやり、その様子を撮影する】事で問題を回避すれば、これほどの大事にしなくて済んだのにと……どう考えても誘拐と脅迫で犯罪だな。


「俺は殺されるのか?」

 そう言った国中の顔の強張った顔には、はっきりと怯えの色が浮かんでる。

「物騒な事を言うな。それじゃあ俺達が普段から間単に人殺しをしてるみたいじゃないか」

 態と凄みを利かせた笑顔で答えると「ひっ!」と小さく可愛い悲鳴を上げて、再び崩れ落ちて失神した。



「一応、あいつを相手に実力は見せたと思うけど本気でやるの?」

 男子で二学年上で、涼が出場したのと同じ大会の九十キロ超級で優勝しているのだから涼よりは強いはずの国中に一本勝ちしてるのに、これ以上戦えといわれても、俺は打撃系なんでそろそろ引き出しが無いんだよ。


「お前が誰と戦って勝とうが関係ない。私に負けを認めさせたければ私に勝て!」

「それじゃあ、俺が勝ったら上目遣いで──」

「黙れボンクラ! その干乾びたちっさい脳みそが耳の穴から転がり落ちるまで蹴り飛ばされたくないなら、二度とそのおぞましい事は口にするな!」

 マゾならば涙を流して喜びそうな切れのある罵声……その気は無い俺だけど目覚めてしまったらどうするんだ?


「涼ちゃん!」

「ごめんなさい」

 北條先生には速攻で謝る……蘇る北條先生への嫉妬心。これを癒すにはやはり涼に勝って、上目遣いで「お兄ちゃん」と可愛らしく呼ばせるしか無い……無いんだ!


「はいはい、始め!」

 イーシャが何故か俺を睨みながら適当な合図を出す……おっと涼に集中しなければ。

 想像通りに涼は最初から攻勢に出る。

 圧倒的なリーチの違いから組手争いには持ち込まず、体勢を低く取って下半身を狙いに来る。

 空手部的には足技によるえげつない対応法もあるし、例え足を取られて寝技に持ち込まれたとしても、その状態でも使える急所への打撃もあるので、基本に寝技に持ち込まれることに対して特別危機感とかは抱かないのだが、幾ら糞可愛くなくても妹にそれを使うのは躊躇われる。ただでさえ円滑とは程遠い兄妹の仲は完全に崩壊して、二度と口を利いて貰えなくなる自信がある……大島め、もっとマシな技を教えろよ。


 淀みない水の流れのようにするりと足元に滑り込んでくる。狙いは足首。

 そう判断するとその場でほとんど予備動作すらなく前方宙返りを行い、空中で丸見えの涼の背中手を伸ばすと帯を掴んで、着地と同時に反動も利用して一気に引き抜くようにして頭上へと持ち上げる……なんて勝ち方をしても涼は絶対に負けを認めないだろう。むしろ暴れる。引掻かれて噛み付かれる様子が目に浮かぶようだ。

 仕方が無い。俺は涼の攻撃を受け入れ、それを正面から返す事で兄としての威厳を示そうと──

「はいリョーちゃん反則。もう面倒臭いから反則負け!」

 イーシャがやる気がなさそうに左手を上げて俺の勝利を告げた……タックルから足首を取ってなんてむしろ常識じゃないだろうかと思うんだけど、柔道って本当にスポーツなんだな。


「違う……ほら、講道館ルール的な?」

 涼は焦った様子で必死に言い訳をする。

「私達は中学生だからね」

 なるほど中学生だとルールが変わるのか、確かに剣道も中学校では突き禁止とか年齢によって使えない技はあるからな。子供なら分別もつかずに危険な技を使って大怪我をさせる事もあるから仕方が無いのだろう。

「た、隆が悪いんだ! フェイントだったのに避けないから思わず掴んでしまったんだ」

 涙目である。


「リョーちゃん、そんな言い訳するんだ……」

「そんなつもりは──」

「良いんだイーシャ。涼の攻撃を正面から受け止めて、その上で勝とうとしたんだけど、今までが今までだから涼は混乱したんだよな。それに俺自身がルールを知らなかったから足首を取らせてからが勝負だと思い込んでいた。涼、悪かった」

 そう言って涼に頭を下げた。紳士である。自分でもうっとりするほどの立派な紳士ぶり。これは北條先生も惚れるな……櫛木田に話しかけられて見てないし!

 その癖、俺の紳士ウェーブは予期せぬところへと波及する。


「リューちゃんのお兄ちゃん力が未だ嘗て無いほどに高まっている。もしかして、これがフォースの目覚め? I'm your brotherって言う気よ。恐ろしい……」

 イーシャは混乱した。

「だ、誰だこいつは? くっ、この中の人が兄だったら私はもっと……」

 涼は混乱した。

 隆は逃げ出した……だが回りこまれていた。



 結局試合は仕切り直しになった。

「今度は反則しないでね」

「しないよ!」

 イーシャの突っ込みに涼が噛みつく。


「それでは、始め!」

 俺は両手を前に差し出す。涼が良いのか? という視線を送ってきたので、黙って頷くと左手で俺の右袖の肘下の部分を下から掴み、右手で左袖の肘上の内側を掴む。

 身長差があるので涼が両の袖を掴んだ段階で俺は前傾体勢になっているので、涼は容赦なく投げ技をかけてくる。

 ちなみに俺には背負い投げと体落しと跳腰などの区別は良く分からないので全部投げだ。


 投げられながらの対応は身体を捻ってうつ伏せで落ちて一本を避けるんだろうが、うつ伏せの体勢へ首を絞めるような技を使われたら力技で抜け出すしかなくなる。

 仕方がなく身体を前に投げ出しながら右足で床を蹴り跳ぶ、空中で涼の背中を見ながら掴まれた袖を大きく捲らせる様にして腕を伸ばし、両脇腹の辺りで帯を掴むと、左足で床を蹴って高さを稼ぐように跳ぶ。

 涼の身体を自分の胸に引き付けて、そこを重心として前方宙返りで着地。衝撃で帯がずり上がるので、右腕を涼の右脇に差し入れて、左手で両膝を救い上げて抱っこの体勢にした。

「こんなもんじゃ駄目か?」

「…………」

 涼は俯いたまま何も答えない。


「抱っこ固め一本。それまで! リョーちゃんだけズルイ! リューちゃん私も抱っこ! お姫様抱っこして!」

 イーシャが走り寄ってきて、涼ごと俺を抱きしめる。

「抱っこ固めってなんだよ?」

 幾ら俺でもそんな技は無いことくらい分かる。

「知らない! 知らないけどイーシャも抱っこ固めにして!」

「リーヤ苦しい!」

「じゃあ代わってよ! 何で何時までも大人しく抱っこされてるの?」

「べ、別に大人しくなんて──」

「リョーちゃん降りて!」

 涼の頬を引っ張る。涼も負けじとイーシャの頬を引っ張り返す。


「い、今は敗因を分析してるんだ。黙って待ってなよ!」

「分析なら降りてでも出来るでしょう」

「や~め~ろ~!」

 俺から引き剥がそうと必死に引っ張るイーシャに涼も必死に抵抗する。

「何よ今更、お兄ちゃんに甘えたくなったの?」

「そ、そんなことあるか!」

 涼は俺の胸板をドンと突き飛ばして俺の腕の中から抜け出すと、俺に向かって「バーカ!」と叫ぶと道場を出て行った。そして、周辺マップを見る限り家に向かっているようだ……柔道着のままで。


「あぁぁぁぁぁっ!」

 イーシャは膝を曲げて座り込むと、やっちまった感たっぷりな表情で頭を抱えている。

「どうしよう? 自分だけのお兄ちゃんを取られたみたいな気分になって……リューちゃんはリョーちゃんのお兄ちゃんなのに……」

 確かに、俺も兄貴も実の妹に愛情を注げなかった分、イーシャにたっぷりと兄妹愛を注いできた。


「俺がいきなり涼にばかり構ってたから焼餅焼いたか?」

「うん……でもそれだけじゃないけどイラついてたの。あんな事言う気はなかったのに、リョーちゃんがりゅーちゃんやダイちゃんと仲良くなれるようにってずっと思ってたのに……ごめんね。リューちゃんごめんなさい」

 そう言いながら立ち上がって、俺の胸に顔を埋めて肩を震わすイーシャを叱る事など俺に出来るはずも無い。

そもそも妹との仲を破綻させた俺と兄貴が悪いのだから。


「イーシャは悪くないよ。むしろずっとイーシャに心配かけててごめんな。それからありがとうな」

 慰めるために頭に置いた手でそっと撫でてやると、本気で泣きに入ったのでうろたえた……こんな時の女の子への対応なんて俺には荷が勝ちすぎる。

 荷が勝ちすぎたので、そのままイーシャの頭を撫でながら【伝心】を兄貴に繋ぐと『任務失敗。対象はそちらに向かい移動中』と報告した。


『失敗って何が?』

『俺と涼が戦って、涼を傷つけないようにして勝ち、少し涼の態度が解れたんだけど、涼のことばかり構っていたのでイーシャがご機嫌斜めになり涼と口論になってご破算』

『あちゃ~っ! だけどリーヤがなあ……他に何かあったんじゃないのか? 心当たり無いか?』

『いや、特には……あれ? そういえば他にも理由があるような事を言ってたけど』

『まあ良い、リーヤの理由は置いておこう。今はどう涼に対処するかだ……』

『兄貴に任せた』

『待て!』

『言っておくけど、どうせ俺は何の役にも立たない』

『それは分かっているが……』

『同様に兄貴が役に立たない事も分かっているから、俺も今まで兄貴を頼らなかった』

『おいっ! 事実だけに、おいっ!』

『超頑張れ兄貴! 以上』

 無事に引継ぎは終了した。俺と兄貴の間には兄弟愛と書いて『非情』と読む、深くて澱んだ長い川が横たわっているのだ。



「悪いが、今日は先に帰らせてもらう。国中が目覚めたらさっさと自力で東京まで帰れと言って追い出してくれ。練習が終わるまで起きなかったらたたき起こして帰せ。以上頼んだ」

 そう伝えると、涼の荷物を持ちまだ落ち込んでいるイーシャを連れ、まだ昼前だというのに練習を抜けた。

 背後から「ああ、貴重な女子分が一気に不足状態!」と悲鳴が上がるが知った事か。


「ねえ……」

 しばらく互い無言で並んで歩き続けていたが、ためらいがちな呟くような小さな声。何時ものイーシャとはまるで違った様子だ。

「どうした?」

「リューちゃんは、あの先生の事が好きなの?」

「えっ? ……」

 即バレに驚き、言葉が出てこない。


「そうなんだ……」

 何も口に出来ないでいる間に疑問は核心に変わってしまった。

「どうして好きになったの?」

「分からない。気付けば好きになっていた……」

 最早、隠す意味は無かったので、事実をそのまま話す。


「綺麗な黒髪が良いの?」f

「いや、髪の毛が綺麗なだけで好きなったりはしないよ。それにイーシャの髪は綺麗だと思うよ」

「それじゃあ、大きい胸が好きなの? イーシャの胸だって大人になれば負けないくらい大きくなるから……」

 一人称が「イーシャ」なのは久しぶりだ。小学校三年生か四年生の頃には「私」になっていた。何故かと聞いたら「もう大人だから」とこたえていたのに……


「イーシャ……外見じゃないんだ」

 すいません、私めは今嘘を吐いています。もちろん外見だけじゃないが外見も大変重要です。そして北条先生の外見は本当に素晴らしいものだと、日々感心する事しきりであります。


 だから、北条先生の濡烏とも呼ぶべき艶やかな長く、そして癖のない真っ直ぐな髪は、先生の微笑みにも匹敵する魅力で俺の目を惹きつけてやまない。

 スタイルだって抜群だ。一見して露出が少なく身体のラインが出ない地味なスーツ姿に隠されているが、エロ孔明の称号を手にした選ばれし者のみが持つ【全てを見通すエロい魔眼】の前にはマルっとゴリッと全て見え見えだ!


 ……だけど、イーシャの外見に魅力が無いという訳では無い。将来への期待を含めるなら北条先生にさえ匹敵する魅力がある。

 そういう全てをひっくるめて、外見じゃないんだ……ほら、なんとなく良い事を言ってるかのように綺麗にまとまったな。


「出会いなら、イーシャの方がずっと前からリューちゃんの事を好きだったよ。なのにどうして?」

 イーシャの頬を涙の玉が滑り落ちる。

 マズイ! 何がマズイかと言うと、ここは路上であり、人通りは少ないとはいえ周囲には通行人がいる。

 どう見ても中学生カップルの痴話喧嘩。しかもイーシャは人目を惹くロシア系白人とのハーフの妖精の如き美少女である。そして致命的なのは、ここは既に家まで数百メートルというご近所圏内であり、このままではこの町で暮らすのが、今まで以上に辛くなってしまうという事だ。


 何としても早急にイーシャの涙を止めなければならない。

 システムメニューを開いて時間停止状態にし、セーブを実行する。

 ロードを実行すると、パーティーに入っている全員に迷惑をかけることになるが、そんな事を気にしている場合じゃない。

 後でどんな突込みが入ろうとも、今この場での被害を最小に止める必要がある。


 今の状況で俺には三つの選択肢があると思う。

 先ずは、泣き止んでもらうためにイーシャに譲歩しまくる。当然「好きだよ愛しているよ」なんて正気では言えないような事を口にすることになる。

 そうすると俺に待っているのは、イーシャとゴールインしてしまう未来だろう。

 何せ親戚同士だ簡単には別れられ無いから、例の二文字に達する可能性が高く、当然北条先生と結ばれるという未来はなくなるだろう。


 次は、イーシャには誠実に自分には正直であるという選択。「北条先生が好きなんだ。彼女と結ばれたい。彼女以外ありえない」という事になる。

 そうすると、今の状況は更に悪化するだろう。当然、この町に住み続けるにはかなりのストレスを伴う様になるのだ……

 高校は県外の全寮制の学校を選ぼうか? でもそれだと北条先生との縁も薄くなってしまう事になる。

 それ以前に、この醜聞が北条先生の耳に届くかと思うだけで胸が引き裂かれそうになる。


 最後は、折衷案。つまり「君の事【も】好きだよ」……最低だ。

 そして確実に、一番酷い結果を招く事になる事くらい俺にだって分かる。

 もしそれで上手くいったとしよう。だが二人の女性と同時に付き合うなどという器用な真似が出来るとは自分でも思わない。むしろ地獄! ストレスでハムスターの様な小動物のように死ぬんだ。


 こうなったら四番目のプランを思い浮かべるんだ。

 話をそらす。

 何も言わずに(言質を与えず)抱きしめて誤魔化す。

 逃げる!

 ……真剣に考えろ馬鹿野郎が! 自分なんかを信じた俺が馬鹿だった。


「イーシャ……」

 何の解決手段も思い浮かばなかった俺は、ハンカチを取り出して彼女の涙をそっと拭う……ハンカチは紳士の嗜みというか、もしそれが北条先生の為に使う機会があるかもしれないとしたら、僅かな可能性でも逃さないように常にアイロンの掛かった綺麗なハンカチをポケットに忍ばしている。勿論自分では絶対に使わない。もしもの時に汚れていたらアカンだろ。

「リューちゃん……」

 俺の二の腕の辺りをぎゅっと掴み、額を胸に押し付けてくる。


「ご──」

「私あきらめない!」

「めん……えっ?」

「良く考えたら、あの人ってリューちゃんより十歳は上よね。リューちゃんが結婚出来る年齢になるまで待ってたら三十歳。リューちゃんが大学進学をするなら結婚は三十代半ばだから、普通に考えたらそんなには待ってくれないから」

 あっさりと意気を回復すると、俺が考えまいとしてきた重過ぎる事実を、こうも残酷に口にするなんて……慰めが必要なのはイーシャではなく俺だろ。


「お、俺は大学なんて行かないから、高校卒業したら働いて生活基盤を築いてプロポーズするから」

「ふっ」

 鼻で笑われただと?

「リューちゃんのそういう可愛いところ好きだよ」

 何この上から発言。確かに大人の女性である北条先生に掌(たなこごろ)の上でコロコロと転がして貰いたいという願望はあるが、妹のように思っていたイーシャは中学一年生にして俺をコロコロしようとしているだと? ……恐ろしい女って生き物は、年齢に関係なく「女」であるんだ。結婚したら負けなのかな?

 いや俺はどんなに絶望しても希望だけは諦めない。男子中学生の限りなき美しい(おぞましい)夢(妄想)よ世界の理すらも捻じ曲げて見せろ! ……本当に頼む!



 家の近所の曲がり角の向こうから突然現れた涼と鉢合わせになる。

「な、何だよ!」

 家まで戻って自分が着替えなどの荷物を全部道場において柔道着姿のまま家まで戻った事に気づいて戻ってきたのだろう、さすがに気まずそうだ。


「忘れ物だろ。ほら」

 俺に対して野生の動物のような距離感を持つ妹に、俺は忘れ物のスポーツバックを放った。

「おう……」

 両手で抱えるように受け止めると、何か言いたそうにしているが、さらに気まずそうに黙り込む。

「何この不器用な父と息子の寸劇みたいなのは?」

「誰が父だ誰が!」

「百歩譲ったとしても息子とはどういう事だ?」

 俺と涼の抗議に対してイーシャは「だとするなら私がお母さん? リューちゃんの奥さんなのね……」

「俺の話を聞け!」

「そうだ!」

 二人の意見が一致するのだが……


「駄目よリョーちゃん。お父さんに先ずありがとうでしょう」

「こいつ止める気がない。妄想の翼が力強く羽ばたいてやがる!」

「し、幸せそうなのが怖い」

 肩をすくめた涼の顔にははっきりと怯えの色が浮かんでいる。正直なところ俺も怖い。誰かの幸せそうな顔を怖いと感じる事に対する言い知れぬ恐ろしさ。


「怖いって酷いよ!」

 涼の率直な言葉を浴びせられて、流石のイーシャも正気に返る。

 酷いのはお前の妄想だと言うのを堪えた自分を褒めてやりたいくらいだが、俺が言わなくても言ってしまうのが妹様だった。

「リューちゃん、リョーちゃんがいじめるの」

 勿論、俺としては涼に同意だが……畜生。卑怯なほど可愛いじゃないか。

「涼、思っていても口にしないで上げるのが思いやりだぞ」

「リューちゃんも酷いっ!」

「思っても口にしない……リーヤ、率直でごめん」

 そう言って深々と頭を下げる

「いや! 何よ全然仲良いじゃないの。何で私をいじめるのは息がぴったり合うのよ?」

「……何となく?」

 俺と涼は同時に答えると「……もういいわよ」と力なく頭を振りながら、すっかりやさぐれてしまった。



「ねえダイちゃん。リューちゃんとリョーちゃんが酷いの私の事二人していじめるの」

 家に戻ると、ダイニングでコーヒーを飲んでいた兄貴にイーシャが縋り付く。

 窓辺でユキと一緒に日向ぼっこをしながら昼寝をしていたマルが一瞬、こちらに耳を向けるが、そのままゆっくりと耳を伏せて再び眠りに落ちた。


「うぉっっと! ……お帰り早かったな」

「ただいま」

「お、おぅ……」

「あのね、二人して私の事を可哀想な子扱いするのよ」

「……よく状況が分からないけど、隆と涼の意見が一致したという事は余程の事だよ。それは人として動かしがたい普遍的真理って事じゃないかな?」

 ナイスだ兄貴。俺達兄弟妹の仲の悪さを活かして上手い事言ってくれる。

「ダイちゃんまで私の味方してくれないの?」

「何を言うんだ。俺はいつだってリーヤの味方だよ。そして味方だからこそ、早く事実を受け入れた方が良いと思うんだ」

「うっ! 心遣いが痛いよぅ~……あっそうだ。ねえダイちゃん。リューちゃんが私というものがありながら他の女に色目を使ってるの!」

 嫌な方向に話をずらしやがる。ついでにこちらにちらりとドヤ顔で視線を投げてきた……むかつく!


「ほう……それはそれは」

「父さんも聞かせてもらおう!」

 畜生、居間で新聞を読んでいたはずの父さんまで寄ってきた。

「へぇ~、それは私も興味があるわね。家の子達は誰もそういう話題が持って来た事が無くて寂しかったの……それで誰なの?」

「学校の剣道部の先生」

「ああ、北条先生か、隆。分かるぞ! ……以上、終了」

「北条先生ね。美人だしまだ若いし、中学生の男の子が憧れてしまうのも無理ないわ……終了」

「えっ? どういう事? 大も史緒さんも即納得って、どういう人なの?」

「弥生先生なら……お姉ちゃんって呼んでも良い」

 よく言った妹よ……俺が心の底からそう思ったのは人生で初めてだよ。


「涼まで?」

 ブルータスに裏切られたシーザーの様な顔をする父さん……見た事無いけど。

「だけど、リューちゃんと結ばれるのは私だから!」

 ……ネバーギブアップだね。

「リーヤの事はお姉ちゃんと呼びたくない」

「そこは呼んでよ! 私の方が誕生日が早いんだから、私は従える姉と書いて従姉。リョーちゃんは従う妹と書いて従妹なんだから」

「たった三日早く生まれただけの癖に」

「双子なんて数時間差で兄弟姉妹の秩序が決まるのよ」

 両雄一歩も譲らず……女だけど、いや女だから空気が悪くなっても間には割って入る事など出来ない。某、男故に。


「涼ちゃんもリーヤちゃんも喧嘩しないで、それより学校の勉強はどうなってるの? そろそろそっちの学校も中間試験は終わってるんじゃないの?」

 しかし母さんは遠慮なく割って入って話題を変えた。


「うちの学校は一学期に中間試験は無いから」

「そうそう、中間試験なんて無いよ」

 一瞬にして旗色が悪くなった二人は共同戦線を張る。

「本当に?」

「本当、本当!」

「うんうん、リョーちゃんの言う通りだよ」

 疑わしそうに尋ねる母さんに、二人は断言した……これは嘘は吐いてなさそうだ。


「じゃあ、中間試験は良いけど……」

 矛先が逸れてほっとため息を漏らす二人だが、次の瞬間、触れられたくない核心を突かれる。

「でも普段から勉強はちゃんとしてるの?」

「べ、べ、勉強はちゃんとしてるよな?」

「してるよ! リョーちゃんは知らないけどリーヤちゃんとしてるよ!」

 いきなりイーシャは涼を売った。

「リーヤ、裏切るな! 私だってちゃんとしてる。リーヤがどうかはしらないけど!」

「あっ! リョーちゃん」

「喧嘩しない! それじゃあ涼。リーヤが勉強してるのを見たことがある?」

 母さんの目つきが厳しくなり、二人の名前の後には「ちゃん」が抜け落ちた。


「…………」

 口ごもる涼に母さんは「ちゃんと答えなさい!」と追い込む。

「あ、あるよ」

 苦しそうに答える。

「授業中を除いてよ」

 母さん毛の先ほども容赦なく追及する。

「ありません……」

「りょ、リョーちゃん……」

「すまないリーヤ」

「リョーちゃん~~」

「ごめん、リーヤ」

「それじゃ、リーヤは涼が勉強しているのを見たことがある?」

 二人の愁嘆場の様な空気を無視して母さんは話を進める。


「授業中も含めて全くありません!」

 あっさり売りよった!?

「リーヤ……?」

「だってリョーちゃん授業中も寝てるでしょ」

「それは言っちゃおしまいでしょうが?」

 本当におしまいだよ……本当に色んな意味で。


「涼?」

 母さんの声が極北の地に吹く風の唸りの様にも聞こえた。

 一方マルは、咄嗟にユキを口にくわえると猛スピードで居間を脱出すると階段を駆け上がり、多分俺の部屋に逃げ込んだ。


「か、母さん?」

 恐る恐るといった様に母さんに目をやり、「とんでもないものを見た!」と言わんばかりに目を背けて、助けを求めるように父さんへと縋る様な目を向ける。

 父さんは、涼と目が合うと小さく頷き母さんの方を向くが、目が合うと即逸らして、涼に「無理!」とばかりに首を横に振って見せた……駄目だ。父さんは母さん以外なら、大島にすら立ち向かう強者だが、母さんには無力。完全に尻に敷かれている。


 続いて兄貴も、同様に涼に小さく頷くと母さんの方を向く。そして一瞬で勝負が着く……だが、俺は【伝心】で『良いのか兄貴? ここが重要な分岐点だぞ』と訴えかけると土壇場で踏み止まり、延長戦に突入する。


「か、母さん……涼の学校は大学までエスカレーター式だから、今はまだそれほど問題視する状況じゃないと思うんだ」

「ま、大……」

 まさかの救いの手に涼の中で兄貴の株が急上昇。

「へぇ、大は妹が馬鹿のまま大学まで行って、馬鹿のまま卒業して社会に放り出されて、それで良いと思ってるんだ? 随分と妹思いのお兄ちゃんだったのね」

 寒い。成層圏付近で感じた寒さとはまた別次元の凍り付くような寒さが俺達の心を襲う。


「でも、大学卒業後も柔道の指導者としての道も──」

「馬鹿に指導者が出来ると思うの? 第一涼は技術や努力で強くなったというより、生まれつきの才能で強くなったようなものよ。そんな選手に後進の指導が出来るとでも思ってるの?」

「……涼。ごめん」

 兄貴弱っ!

「…………」

 涼も何も言えない。正論過ぎて言い返すことが何もないのだろう。そして最後に一縷の望みをかけて俺に視線を向けた。


「任せろ……」

 力強く頷くと涼が感動のためだろう目を潤ませる……そう、そこで「お兄ちゃん」と言ってみろ……言わないわな。畜生!

「隆も何か言いたいことがあるのかしら?」

「母さん、涼は柔道をやる上で決して恵まれた資質を持っているわけじゃない」

「そうかしら?」

「そうだよ。とにかく身体が小さいのが致命的だ」

「でもそのための体重別のクラス制じゃないの?」

「涼は身長はあと五センチ以上伸びる事は無いよ。今後柔道を続けていくなら四十八キログラム以下の階級で戦う事になるから、体格で劣る涼は勝つために技術面を強化するしかない。だから涼が柔道を続けるのなら決して才能だけの選手では終わらない」

「……そうね」

 俺の言葉に母さんは少し納得したような様子だが、納得しない馬鹿がいた。


「うがぁぁぁっ! 勝手な事を言うな! 私の身長はあと十センチ以上は伸びる。階級ももっと上で戦うんだ!」

「……はぁ?」

 思わず出てしまう溜息交じりの疑問形。

 俺が口にした五センチメートルだってかなり気を使って多目に出した数字だよ。正直なところあと一から二センチメートルが妥当な数字だと思う。


「リョーちゃん。おばさんとリューちゃんは真面目な話をしてるんだから冗談はやめて」

「ごめんね涼。お母さんがこんなに小さく産んでしまったせいで……」

「史緒さん、僕にも責任はあるんだ……」

「涼。無理な事を言って母さんを悲しませるなよ」

 家族親戚からの総叩きに涼は半泣き状態だ。


「冗談はさておき……涼は中学卒業後、四十八キロ級になるけど、そこでもかなりの重量差のハンデを背負って戦う事になるだろう。

 しかし四十八キロ級を制覇したら、絶対に計量前に大量に水を飲んででも上の階級を目指すから、負けず嫌いで上を目指す性格だから、技に関しては誰よりも上手い選手になるって保証するよ」

「そう……でもね──」

 まだ不安そうな母さんに最終的な決着案を出す。

「後は学校側に、中学生なんだから柔道だけじゃなく勉強もきっちり教えろ。成績が悪かったら保護者として試合出場は認めないと脅しをかけておけば良いよ。そうなれば学校側だって必死になるし、授業中に居眠りなんてさせないと思うよ」

「それは良いわね!」

 母さんの顔に喜色が浮かぶ。

「おい隆!お前、全然良くないよ!」

 そう叫ぶ涼は、半泣きどころか全泣きの一歩手前で掴みかかってくるが、リーチの差を利用して上から頭を片手で鷲掴みにして押しとどめる。


「まあ、暫くは真面目に授業を受けて頑張るんだ。それでも駄目だったら今度帰って来た時に、空手部に伝わる短時間で確実大幅成績アップ術を教えてやる」

「胡散臭い!」

「そういうな、空手部の部員は勉強をする暇もないほど練習を科せられているのに、理不尽な事に成績優秀であることまで要求されているんだぞ。人間は必要性が生命に係わるほどのレベルに達すると分厚い壁だって突き破るんだぞ。効果的な学習方法を編み出さずにはいられるはずもない。そして、その切実さは教える立場の人間が感じられるような生温いものではない」

「だったら今、それを教えろよ!」

「涼。今のお前には必死さが足りていない。しかも圧倒的にだ!」

「ひ、必死さ?」

「そうだ。本当にぎりぎりまで追い込まれたなら、その状況を打開するためなら、俺に『お兄ちゃん、涼にお勉強の仕方を教えて、お願い』と上目遣いで言うようになるだろう。お前にはそれほどの必死さが無い!」

「てめぇ、いい加減そこから離れろよ、ぶっ飛ばす──」

「そう言えば、俺は勝負に勝ったよな?」

 ふとある事を思い出したので、涼を無視してイーシャに話を振ってみた。


「確かに勝ったよね。勝った時の条件って何だっけ?」

 俺の意図を察してくれたようで期待通りの展開に持ってきてくれた。

「い、言っておくが、私はそんな事は認めてないからな!」

 激高する涼だが、そこに母さんが喰いつた。

「そんな事ってどんな事?」

「! ……いや、その~……」

 涼の顔が激高したまま青褪める……器用だ。

「あのねリョーちゃんはリューちゃんと勝負して──」

「黙っていろ!」

 イーシャの背中にジャンプし腰に両脚を巻き付け、右腕を首に回すと左手で固定して締め上げる。

「涼ちゃん邪魔」

「い、止め……うひゃひゃ……てっ!」

 母さんがイーシャの脇越しに手を伸ばし、涼の両の脇腹を擽ると堪らず裸締めを解いて落下し腰を打った。

「それで何なんだったの?」

「リューちゃんが試合する条件として、リョーちゃんが負けたら、上目遣いで可愛く『お兄ちゃん』って呼んで貰──」

「わぁーーーっ! わぁ~~~~~! わぁ────っ!」

 声を上げるのが遅い。すでに肝心な部分は全て隠さず話し終えてるよ。


「何だと! 父さんだって涼から可愛く上目遣いで『お父さん』って呼んで貰いたいというのに、隆だけなんて実にけしからん!」

 結構涼とは上手く親娘関係を築いていたはずの父さんですらやって貰ったことないのかよ。この分なら「大きくなったらお父さんのお嫁さんになるの」もやって貰ってないな……憐れ。


「……涼ちゃん。大と隆に言ってやりなさい。ついでに英さんにもね」

「それは無理」

 うるうるとした涙目に上目遣いで、プルプルと首を横に振る……それだよ。そういう可愛らしいのが我が家の男衆の乾いた心には必要なんだよ。何故それをやってはくれない? 無理なんですね、分かってますよ!

「お母さんのいう事を聞けないの?」

「嫌! だって気持ち悪いから」

 衝撃的な言葉が俺達の胸を貫く。嫌われているのは分かっていた…父さん以外。


 だけど気持ち悪いとまで思われているとは……キモイのは父さんだけにして欲しかった。

「涼。お父さんに気持ち悪いはないでしょう。加齢臭とかでデリケートな年頃なんだから」

「史緒さん……まだそれで引っ張るの? ……それに気持ち悪いのは僕限定?」

 少なくとも俺は父さんと違って気持ち悪くない。何処にも気持ち悪い要素なんてない。あってたまるか……そうだよね?

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