第96話

朝の目覚めは睡眠時間は十分とはいえないのに相変わらず調子が良い。単純にレベルアップの影響なのだろうか? それとも意識があちらの世界に行っている事が、俺の身体にも何か影響があるのか?

 前者ならまだ良いのだが、後者だとすると何か怖い。


「おはよう」

 リビングから流し台の前に立つ母さんに声を掛ける。

「おはよう」

 包丁仕事をしている母さんは、こちらを振り返ることなく返事をした。


『タカシおはよう』

 マルは寝床の中でお腹にユキを抱いた状態なため動けず、こちらに顔だけを向けて挨拶してきた。

『マルおはよう……ユキはまだおはようじゃないな』

『ユキちゃんはまだお休みだよ』

 完全にお姉ちゃん気取りでユキの面倒を見ているつもりだ。涼にもお姉ちゃん気取りなのだから何とか躾けて貰えないだろうか? ……無理だなというよりも、これでマルが涼を躾けてしまったら人間としてのプライドがズタズタだな。


 リビングの床の上に父さんと兄貴を転がす。

『あっ、マサル泥だらけ! いけないんだ。お母さんに叱られる』

 あちらの世界で指一本動かせなくなるまで俺にしごかれ、幸いにも俺には男の服を脱がす趣味は無いので、そのまま収納してきた結果だ。

 しかし散歩が終わって家に入る時は足や身体の汚れを落としてからと、きちんと躾けられているマルとしては許せないのだろう。


「どうしたの? ……まあ!」

 マルの訴えに、朝食の準備の手を休めてリビングに入って来た母さんが眉をひそめる。

「隆。こういうのはお風呂場に転がして頂戴」

 今兄貴のことを汚物を見るような目で『こういうの』扱いしたよ。


 一旦兄貴を収納してから、風呂場に向かい床に転がして顔に水をかける。

「ぶっふぁっ! ……また水!」

 飛び起きた兄貴に「おはよう」と声を掛ける。

「隆! もう少し起こし方を何とかしろ!」

「はいはい、さっさと服を脱いでシャワーを浴びろよ。次は父さんが浴びるだろうからさ」

 そう言い残して立ち去ろうとする俺の背中に「なあ、俺って少しは強くなれたか?」と兄貴が投げかけてきた。

「全くセンスは無いけど、身体に教え込んだ分は消化して身に付いてると思うよ……まだ、ホンのさわり程度だけど」

 それが消化出来たのはレベルアップのおかげだけど。


「そうか、だったら今日も向こうに連れて行ってくれ……ハイクラーケンの件については考えておいてやるからさ」

「……分かったよ。そういわれたら断れないじゃないか」

 それにしても兄貴にも強くなりたいという欲求があったとは思わなかった……余りにも意外すぎるので何か裏がある事を疑うべきかも知れない。


『マル。今日は散歩は止めておくか?』

 ユキがいるために身動きが取れないみたいなので、今日は一人でランニングに出かけようかと考える。

『マルをおいていったら駄目! お母さん! タカシが、タカシがマルをおいて散歩行くって意地悪を言うの!』

 意地悪じゃないだろ。大体母さんに告げ口とはいらん知恵ばかりつけやがって。

「どうしたの隆?」

『お母さん! お母さぁん!』

 駄々っ子状態で母さんを呼んでいる。

「マルの上でユキが寝てるから起こすのも可哀想だし、今日はマルの散歩は休みで良いかって聞いただけだよ」

「あらあら……」

『マルガリータちゃん。マルガリータちゃんは寝ているユキちゃんを起こしてまで隆とお散歩に行きたいの? ユキちゃんは小さいから寝るのが仕事なのよ』

『でも……でも……マルもお散歩が仕事なの』

 確かにマルはシベリアンハスキーだから走るのが仕事だし、走らないとストレスで体調を崩すほどだ。


『マルガリータちゃんはお姉ちゃんじゃなかったの? ユキちゃんはマルガリータちゃんをお姉ちゃんだと思って安心してこうして身を任せているのよ』

 その言葉に、マルは自分のお腹に半ば埋もれるようにして眠るユキへと目を向けると、溜まらずに尻尾をパタパタと振り始める……ストレスと書かれたゲージが凄い勢いで減っていくイメージが頭の中に浮かんだよ。


『うぅぅっ、マル……マル、我慢するよ! だからタカシもお兄ちゃんなんだからお散歩我慢して!』

 とんだとばっちりだよ!


 結局、朝のランニングをサボる事になってしまい、マルや目覚めたユキと遊んでから朝食をとり、母さんとマルとユキに見送られて学校へと向かった。



「高城。高城君。例の件なんだけど……」

 二時間目の理科の答案が返って来て、俺のグランドスラム達成が確定した直後、背後から小さく声を掛けてくる。

「来週の月曜日から日曜日までみっちり仕込んでやる……安心しろ一年生と同じメニューだから大した事は無い」

 空手部の基準ではな。

「そうか?」

「毎日二十キロ程度走ってから、ちょっと型や組手をして貰うくらいだ」

 大島が居なくなって下級生達が手を抜いていた事が判明したので、再び基礎体力重視の訓練メニューに戻っている。

「……終わった」


 昼休み、またもや図書室に集まって知識の詰め込みを行っている空手部三年生と香籐。

『呼び出しが掛からないぞ!』

 櫛木田からの【伝心】による突込みが入る。


『高城どういう事だ?』

『俺が知りたいくらいだ!』

 田村へそう吐き捨てる。

 全くどういう事だ? 大島に頭が上がらない腹いせに、奴の教え子でも有る空手部部員に嫌がらせをしてクラスでハブらせるように誘導する事も厭わない様な、理性と思慮と恥に欠けたアダルトチルドレンどもが、何故今回に限って賢明な選択を行えたというのだ?


『北條先生が止めてくれたんじゃないかな?』

『なら仕方が無い!』

 紫村の意見に全員で応えた。


『君達ね……僕に準備をさせておいて』

『北條先生が教師たちの中で発言力を発揮したとするなら、良い事だと思います』

『そうだな粛清だけが全てではない。集団の空気を少しずつ変えていく事で、集団をより良い方向へと導く事が出来るならそれに越した事は無いな』

 香籐の意見に櫛木田がそう応える。この男は下級生達を大事にするように空手部の中でバランサーとして動くので、穏便に済むならそれでよしとする傾向が有る。


 尤も教師達に対しては「死ねば良いのに」と恨みは持っているのは間違いないが、学校という集団に関しては、既に教頭の退職が迫って居る中、鈴中と大島が対外的に失踪した事になっており、先日から校長と三年の学年主任が不祥事による自宅待機状態という中、これ以上の教職員の減少は望んでいないのかもしれない。


 この辺は甘いという考えもあるが俺は嫌いではない。だが──

『北條先生が止めたとするなら、多分今日が明日にずれ込む程度だ……残念だがそれ以上の影響力は発揮出来ないな』

『そうだね。僕もそう思うよ』

 俺の意見に紫村も同意する。すると『そうか紫村が言うのなら』と皆が納得する驚きの説得力。

 ……おい! 俺の言葉がそんなに信用出来ないのか? と言っても、どうせ肯定されるので思ってても言わない。


『それにしても北條先生には面倒をかけた上に心配までかけてしまった事になるのか……』

『だが、北條先生が俺のためにと思うだけで、ぐっとこみ上げて来る感情を抑えきれない高城であった……』

 そう北條先生が俺のためにと思うだけで、ぐっとこみ上げてくるものが……おいっ!


『分かるぞ高城!』

『俺にも分かる!』

『うっせー俺が言ったんじゃない! 紫村勝手な事を抜かすな!』

『そんなに照れなくても良いじゃない?』

『照れるんだよ! お前と違ってこちとら思春期のガラスのように繊細な少年なんだからな』

『まあ、照れる高城君もまた良いんだけどね』

 紫村を除く全員のページをめくる指の動きが止まった。

『……解散!』

 櫛木田がそう宣言すると同時に、我々は紫村を残して図書室から撤退した。



「高城君。ちょっと話があるので数学準備室の方に来て下さい」

 帰りのHRが終わる前に北條先生に呼ばれる。理由は察しがつく。

 クラスの連中達がざわめき、その中に気に入らない単語が混じっていた……橋本の奴だ。

 この優等生君はクラスでトップの座を俺に奪われた事が我慢なら無いようだった。

 チートな能力を手に入れてテストで全教科満点を取るのは卑怯かもしれないが、少なくとも俺はチートを手に入れるために命懸けでレベルアップしている。しかも何度もだ。


 もしシステムメニューを手に入れて夢世界に飛ばされたのが橋本で、俺と同じ目に遭ったなら、既に死んでるはずだと断言出来る。

 それどころか俺だって、生き残れたのはかなりの運に恵まれた結果だと思う。

 狼に出会う前にシステムメニューに気付いてなかったら確実に死んでいただろう。

 だから良いだろう。俺だけは許して欲しい。恨むなら俺以外のパーティーメンバーを恨んでくれ……パーティーに入れたのは俺だけど。


 そう自己正当化した事で、橋本の刺さってくるような刺々しい視線や言葉は無視する。これから北條先生と二人っきりでお話するんだからそんな些細な事で気に病んでいる場合じゃない。


『北條先生に呼び出されて、一緒に数学準備室まで移動なう』

『うぜぇ~』

『何がなうだよ。古いんだよ、お前は江戸時代の人間か?』

 浮かれて言ってしまったとはいえ、お前等俺の事嫌いだろ?


『それはともかく実況よろ~』

『リアルタイム中継キボンヌ』

 よろ~はまだしも、どう考えてもキボンヌの方が酷いのに誰も突っ込まない。

 このアウェイ感……だが全ては連中の嫉妬だと思うとむしろ心地好い。

『前を歩く先生の一歩ごとに揺れるお尻に時々視線が流れてしまうのを止める方法を教えて欲しいなう』

 優越感から来る余裕の発言で煽る……本当の事なんだけどさ。


『いいから死ねよ』

『自分で目を抉れ』

『さすがに正直すぎます』

『庇いようが無いね』

『映像で送れよ』

 そんな馬鹿をやっていると、すぐに数学準備室の前に着いた。


「どうぞ入って」

「失礼します」

 頭を下げて、中に入ると先生はコーヒーを淹れながら俺に席を勧める。

 俺は席に着くと同時にセーブを実行した。ここは慎重に行くべきだろう。


「……それで高城君。今回の貴方のというより空手部員達の試験結果についてのことなのだけど……」

 躊躇いがちに、言い辛そうにしながら切り出してきた。まあ、立場的に俺達の疑いを晴らす必要があって、そのためには第一に疑う必要があるからだろう。


 こんな場合に私は信じてるとか言うのは偽善者だ。本当に疑って疑って全ての疑いが晴れて初めて信じられるのであって、最初から口先だけで信じてるなんて言うのはただの無責任であり何の意味も無い。


「自分達の実力でテストに臨んで相応しい結果を取っただけですよ」

「今回、いきなり三年生全員と二年生の香籐君が全教科満点を取ったのも実力に相応しい結果だったという事?」

 北條先生はメモを取りながら尋ねてくる。

「……これは、今日私が高城君と面談した内容を、他の先生達に説明する必要があるの」

「構いません。どうぞ……それで満点を取った事ですね。それには理由があります」

「理由とは?」


「大島先生の失踪です。その為に我々は時間的な余裕が得られるようになったので、その時間を勉強に割く事が出来ました。ご存知だと思いますが我々の成績は決して悪くはありません。ほとんど家庭での学習に割く時間が無い状況で成績を維持するために効率良く勉強した結果ですが、今回は時間も十分に取れたので今回の結果に繋がったのでしょう……と説明しておいてください」

「説明しておいてって……」

「勿論、本当は先生が我々の事を心配して時間と場所まで提供して貰い、しかも親切丁寧に教えていただいた恩に報いるために奮起したのです。全て先生のおかげですね。ありがとうございました」


『自分だけ良い子ぶりやがって! 高城ずる──』

 折角リアルタイムで中継してやってたのに田村が文句をつけてきたので【伝心】を切った。

 丁度、俺の言葉に照れる北條先生というレアな場面だったのでザマアミロだ。


「そんな風に言ってくれるのは高城君くらいね」

 照れながらの笑顔でのその台詞……ふぅ、危なかった。思わず理性が弾けとんでどうなるか分からなくなるところだった。セーブしておいて正解だった。

 有頂天になる事無く冷静に対処する。この世の何処に誉められて調子に乗るような馬鹿な男に好感を抱く女性が居るだろうか?

 万一、そんなのに引っかかる女性が居たとしても、北條先生はそうではない……という絶対的な思い込み、恋するというファンタジーな状況には大切な要素だと思います。


 ……セーブまで済ませて「YOU告白しちゃいなYO」状態を確保したにも関わらず、俺はヘタレて当たり障りの無い話に終始してしまった。


 どうせ俺は将来「愛される事よりも愛する事が大事なんだ」とか戯言を抜かしながら童貞をこじらせて魔法使いになるんだ。

 既に魔法を使えるようになった童貞が、三十過ぎまで童貞を抱え込んでしまったら神になるんじゃないだろうか?

 俺が神になったらモテる男は全員、死後自分の趣味の正反対にいる女に言い寄られ続ける地獄に落としてやる。永遠にな!

 ……童貞をこじらせるのは俺の中では既定事項なの? 何で童貞をこじらせる事を前提にして、訳の分からない八つ当たりという名の復讐劇を企んでるの?




 放課後、今日も道場を借りるために北條邸に辿り着くと、門の前に北條先生のお母さん──雰囲気は母上って感じ──である芳香(よしか)さんが立っていた。


「今日もお世話になります。よろしくお願いします」

「こちらこそ。練習頑張ってくださいね」

 柔らかな上品な微笑と口調。その顔立ちそのものは妹の方が僅かに似ていると思うが、アレと一緒にするのは冒涜だという思いを強く感じさせる。

 多分将来的には北條先生の方がお母さんに似ると思う。妹の方はどこかで軌道をそれて変な方向へ飛んで行き、管制室が自爆コードを入力して汚い花火となるのだろう。


 それにしても、北條先生が歳を重ねてこのような上品なご婦人になるとするなら二十年後でも十分行ける! と思った。

 つまり十一歳違いなど、俺にとっては何の障害にもならないという事だ。

 そもそも俺にとっては障害なんて最初から無かったよ。 ただ問題なのは北條先生にとって俺が十一歳も歳下の子供であるということだ。


 先ずは生徒と付き合うという体面の悪さ。そして俺が経済的に独立していないという問題……ハードルが高過ぎる。そういうのを無視して強引に突っ走れるタイプなら良かったのだが、ヘタレな俺には無理な話だ。


「どうかしましたか?」

 考え込んでしまった俺に、怪訝そうに尋ねてくる。

 まさか、北條先生もお母さんのように美しく歳を重ねるのかと思うと胸熱からのちょっと鬱とは正直に答えられず「……いえ、少し見惚れてしまいました」と答えてしまった。

 ああ! 幾ら嘘には真実を混ぜるとそれは混ぜたらアカン奴だ。


 直後、後ろからケツを蹴り飛ばされる。

「イテェッ!」

「何をナチュラルに人妻を口説いてるんだ!」

「いや、あのな、ほら……先生もこんな風に素敵に歳を取るのかと思うと……ちょっと色々と考えて──」

「何を色々考えてるんだ恥しら──」

「まあ待て」

 いきり立つ伴尾の肩を掴んで田村が止める。

「何だよ?」

「俺にも高城の気持がわかる!」

 直後、伴尾の踵落しを頭頂部に受けた田村はキリッとした真剣な表情を変化させる間もなく地面に沈んだ。


「伴尾! お前には分からんと言うのか?」

「分かるのと認めるのは違う!」

 櫛木田と伴尾が互いに至近距離で放った右の上段の回し蹴りが激しくぶつかり合う。


 強靭な体感とバランス感覚、そして柔軟な股関節によって成し遂げられる視界の外から跳んでくる足技は互角ではない。

 伴尾の蹴りを櫛木田が読んだ上で迎撃したのだ。

 僅かなタイミングの違いを制したのは櫛木田で、タイミングを失した伴尾はバランスを崩したところを、蹴りの軌道を逆回しにたどった櫛木田の右足で軸足を払われ地を舐める。


 これは櫛木田を誉めるより伴尾を責めるべき結果だった。櫛木田は異能と呼ぶべき特殊な感覚を有している。

 それは周囲の人間の歩調を察知し把握する事で、相手の未来位置を正確に読み取る事だ。相手が意図的に歩調を変えない限り、周囲にいる人間の三歩後の左右の親指先の位置を半径一センチメートル以内の円の中に捉える事が出来る……正直意味が分からない。


 勿論、空手部に半年以上在籍していれば、似たような事は嫌でも覚える事になる。だがそれは対象は一人で誤差は五センチメートル程度はある。

 大島にさえも「これだけは櫛木田には勝てない」と認める異能だ。


 伴尾は技を放つ前に技を出す距離を合わせる為に途中で微妙に歩幅を短く変えていた。これは普通の相手ならむしろ当然のフェイントだが、脳の処理能力の八割をこの異能に割いていると言われる櫛木田相手には致命的であり、どのタイミングで蹴りを放つかまでも読まれたのだ。

 ちなみに俺が櫛木田を相手にする時は、歩幅は一切調整せずにその間合いで使える技を繰り出して倒すだけだ。


「認めろ! 北條先生が二十年後にも母君の様に美しい姿である可能性が高いという希望を抱ける奇跡を!」

 また変な言い回しが始まったよ。

「それと人妻に懸想するのとは話が別だろう! ましてや北條先生のお母さんだぞ、お前等恥ずかしくないの?」

「美しいもの美しいと認めるのは人間の正しき心だ。昔のインドの偉い人も『美しいものが嫌いな人がいて?』と言っているだろう」

「それはアニメの話だ馬鹿野郎!」

 もう何の話なのかさっぱり分からなくなってしまった。


「こんなおばさんを相手に美しいとかお世辞を言ってないで、学校で気になる女の子に言ってあげなさい」

 そう言って、櫛木田と伴尾の呼吸の間に絶妙なタイミングで割って入る……流石は北條流に嫁ぐだけの事はある。

 後、機嫌を損なうどころか、むしろ嬉しそうなので良かったのですが、我々が学校で気になってるのは女の子ではなく、女性で貴女の娘さんだって事は空気を読んで理解して貰いたい。


「せめて貴方達が二十歳くらいだった娘達を勧める野だけど……」

 空気を読んでた! でも次女の方は結構です。北條家でずっと秘蔵しておいてください。

「娘達は上も下も問題があって……」

 深く溜息を吐く。


「皐月さんの問題は分かりますが、先生に何の問題があるとは思えませんが?」

 むしろ女神!

「弥生は、きっとお義父様の血が濃かったのね、魂の奥底に鬼を飼っているの……」

「鬼ですか……先生に?」

 いまいちピンと来ない。確かに女子剣道部では厳しい指導から鬼と呼ばれていると自分で言っていたけど。


「弥生は、面を付けるとちょっと人が変わるというか、戦闘モードにスイッチが入ってしまうというか……色々と加減が出来なくなってしまうの」

 言葉の上では別に気になるような話ではない。俺達だって本気になるとスイッチが入ってしまうのは普通に起こる。だが芳香さんの表情と「色々」

という言葉が妙に引っかかる。


「そんなに凄いんですか?」

「容赦なく人を斬る事が出来るとお義父様は言っていました」

「……でも、斬ると言っても竹刀ですよね」

 面を被ると人が変わるというのだから剣道の枠からは離れることは無いだろう。

「竹刀でも何人も病院送りにしていますから」

 それでは鈴中は手加減されていたのだろうか、それとも単に鬼を起こすには力不足だったのか……後者だな。


「武術には怪我はつきものですし」

 単なる怪我と病院送りでは意味が全く異なる事を分かっているが苦しいフォローをする。

「娘を庇ってくれるのは嬉しいのですが、私は練習や試合で相手を病院送りになどした事はありませんよ」

 どうやら芳香さんも剣道か何かの武術は修めている様だ。


「気をつけなさい。貴方達の中にも鬼は潜んでいるようです」

 貴方達にもと言いながら、その目は真っ直ぐ俺を射抜いている……

「僕にもですか? まさか──」

「お義父様にあって、夫と私にはなく弥生にあり、貴方の仲間にある……特に貴方は随分と強い鬼を秘めていそうですね」

 心の奥を覗き込んでくるような眼差しに、焦燥感がじりじりと胸底を焼く。


「僕は極普通の中学生ですよ」

 背後からダウトのコールが掛かる……お前等な、覚えてろ!


「芳香さんのお義父さんと旦那さんなら、圧倒的に旦那さんに親近感を覚えていますし……そこはかとない小市民感覚?」

「貴方は自分の中の鬼に気付き怖れているからこそ、普通でありたいと願っているのではありませんか?」

「……それは」

 痛いところを突かれた。絶対に認めたくない核心を一発で撃ち抜かれてしまった。


 確かにその通りだ。自分の中にある大島への奇妙な親和性に怖れて自分に言い聞かせるように小心者と思い続けてきた。

 更にレベルアップによる精神変化に驚き、あえて大島的に振舞った結果、後戻りが聞かないほど大島に近づいている自分に気付くたびに自分が小心な小市民だと強く言い聞かせてきたのが、自分を騙し続けるにもそろそろ限界が来ていた。


「夫は自らの気質が小市民的で良かったなんて安心などしていません。安心するという事はそうではない事を自分で理解しているから、そう振舞う事が出来る自分に安心しているだけです……自らの中に棲む鬼を否定するのではなく、受け入れてあげなさい。そして積極的に御する努力をするべきよ」

「……はい」

 反論の余地が無かった。



 芳香さんの言葉に色々とこれからのことを考えさせられてしまった。

 別の意味で頭が痛い存在である爺が、鈴中の代役として我が校の男子剣道部の指導に出向いているのが救いだった。お陰で普通に練習を終わらせる事が出来た。



『ところで高城、香籐以外の二年生達はどうする?』

『流石に紫村の家が大きくても、客が十一人もいると狭いというか変だよな?』

 田村の問いに俺は少し迷った。何せ俺達にはまだ護衛兼見張りがついている身だから、余り不審に思われるような行動は控えるべきだろう。

 不審に思われる行動を取った場合のデメリットとかを予想するだけの情報は持ち合わせていないけど、余計なリスクは犯したくない。


 そしてそれ以上に俺達は二年生達に対して失望感を抱いていた。

 さもなければ一度決まった話を今更蒸し返すような真似はしない。

 まさか二年生が大島が居ないのを良い事に、サボるようになるなんて信じられない出来事であり動揺を隠せなかったのだ。

 実質半月ほどしか大島の指導を、しかもほとんどランニングしかしていない一年生に対して、一年以上も指導を受けて来た二年生が、サボり続けて身体を鈍らせるなんてありえなかった。

 俺達なんて毎日最低二十キロメートルは走らないと体調を崩しストレスを溜める。もう後戻り出来ないほど大島色に染め上げられたというのに、あいつらにはまだ普通の十代の少年に戻れる可能性が残されているのだ。


 一年生達にはまだ同情の余地がある。突如として理不尽な状況におかれて、それが日常となる前に開放されたのだから自由を謳歌したとしても当然ともいえる。

 それに対して二年生達への俺達の目は冷めている。特にこの件に関しては香籐から何時もの様な気遣いに基づく弁護の声が出てこない。彼にしてみれば仲間に裏切られたという気持があるのだろう。



『……先ずは大島と早乙女さんの復活を急いだ方が良いんじゃないか?』

 伴尾がとんでもない事を言い出した。

 全員が顔を顰めて嫌そうにする中、伴尾は続ける。

『大島がドSの糞野郎なのは確かだが、少なくとも命までは取らない。命よりも大切な何かを失うような気もするが多分気のせいだ』

 そう結論付ける伴尾の顔に浮かぶ表情が言葉を裏切っていた……奴自身が気のせいだと思いたいのだろう。


『短期間で一年生達を鍛え上げるには大島の指導力が必要だ』

『実際、最後まで俺達を守って戦ったしな……』

 田村の顔には大島に助けられたという事に対する複雑な思いが浮かんでいた。

『あれを指導力と呼んでいいのならばな』

『だが有効なのも事実だろう』

『お前、しごかれるのは一年生だから良いやとか考えてないか?』

『一年生だからなんて考えるはずないだろう。一年生には必要だと言ってるんだ』

『その口元に張り付いた笑みなんだ?』

 櫛木田の言葉に思わず口元に手を伸ばしてしまう伴尾。


 つまりハイクラーケンの経験値で自分のレベルを上げたいという正直者な伴尾。

 大島が復活すれば、差し迫って一年生まで慌てて強くする必要も無くなるのも事実だ。そうなれば香籐以外の二年生達をパーティーに入れてレベルアップさせるのも夏休みまで待つのありだと思う。



『それなら今日は俺達だけ、紫村の家に集まるという事で問題ないか……紫村?』

『問題は無いよ』

 ホモの家にノンケの男達が集まるという、ある意味凄く世間体的に問題はあるが、それは仕方ないと割り切るしかなかった。


『今回は俺の父と兄が参加するから、俺は一旦家に戻って二人を回収してから戻ってくる事になるから』

 ちなみに俺が家族をパーティーに入れた事は皆にも話してある。

 香籐は「マルちゃんと話が出来るようになったんですね!」と眩しい位に目を輝かせている。


『ここのところマルはユキにベッタリで多分お前の相手をする気は無いぞ』

『ユキって何ですか?』

『ああ、話してなかったか。向こうの世界で拾った雪猫という猫に似た種類の赤ちゃんで、白くてフワッフワで可愛いが主成分という素敵な存在だ』

 ついでに画像イメージも送りつけてやる……可愛い家の子を自慢したいんです。


『何故……?』

『いや、何故って言われてもむしろ何?』

『どうして主将のところばかりに可愛い子が集まって、僕の家にはいないんですか?』

『知らんがな! お前の母さんが嫌いなのは犬なんだろ。猫なら問題ないんじゃないか?』

『父さんが圧倒的な犬派です。多分、犬が飼えないのにどうして猫を飼うんだと怒りますね』

『本当に知らんがな!』


『……では主将。お父さんとお兄さんを連れてくる時に、一緒にマルちゃんとユキちゃんを連れてきて下さい。良いですね?』

『良いですねってお前……』

 俺は続く言葉を飲み込んだ。話して通じるような目をしていなかった。


『だけど、マルは自分にユキを懐かせるために必死で、知らない人どころか父さんや兄貴がユキに構うのも嫌がるくらいだぞ』

 実力行使には出ないが、悲しそう表情でずっと見られるので精神的にきついらしい。ちなみに俺に対しては自分よりも俺にユキが懐いているので嫉妬を込めているのだろう、とても犬とは思えないような微妙な目付きでこっちを睨んでくる。

『……話し合えるようになったのですから、きっと分かり合えます』

 お前、復活した大島を前にその寝後を口に出来るのかと言いたくなったが……聞いてみる間でもないだろう。



 紫村家のお手伝いさんの小母さんに、今回は袖の下代わりにオーク肉を渡すと「今度は豚肉なの? 前回の鶏肉も凄く美味しいから楽しみね」と言いながら受け取り「汚れた食器とかは明日の午前中に来て片付けるのでそのままにしておいてください」と実に良い笑顔で帰って行ったそうだ。


 その気持はとても良く分かる人間美味いものには勝てないのだ。

 美味いものは話題だけでも人間関係を潤滑にしてくれる。ましてや美味しい物を贈られれば尚の事である。

 今度はミノタウロス肉をプレゼントしよう。大抵の無理は引き受けてくれるようになるだろう。


 今晩のメニューも庭でバーべキュースタイルと思ったのだが、生憎夕方から天気が崩れたのでキッチンで料理する事になった。

「じゃあ俺はから揚げを作るわ」

「俺はオーク肉で生姜焼きにしよう」

「圧力鍋があるなら角煮も良いな」

「ローストビーフは時間が掛かるから、シンプルにミノタウロスはステーキにするよ」

 ……何故だ? こいつら普通に料理のレパートリーを増やしている?


「田村。何時からから揚げなんて作れるようになったんだ?」

「そりゃあ、余り大っぴらに出来ない美味い肉が手に入るなら自分で料理出来るようになった方が得だろ。夢世界の方でも此方から調味料とかを持ち込んで料理出来る方が良いしな」

「それなら俺も──」

「だがお前は駄目だ!」

 田村だけでなく全員で一斉に否定しやがった。


「主将はおいしい料理を食べる役で良いじゃないですか?」

 何の慰めにもならない。

 畜生! どうしてシステムメニューはスキル制じゃないんだ? レベルアップでスキルポイント貰って、料理スキルにポイントを振ってチート料理人になりたい。

 ちなみに【良くある質問】先生に尋ねたら、スキルは練習や実際に行う事で磨かれるもので、魔物を倒して戦闘とは全く関係ないスキルが磨かれる訳ないじゃないですかプップクプーと返ってきた……これはどういう事だ責任者出てこい!


「嗚呼美味しい美味しい。自分で仕留めた獲物の肉は美味しいな。これで自分で料理したならもっと美味しいだろうな」

 今日も下ごしらえ以外は火を使ったり味をつけたりなどの料理の核心部分の作業には全く関わらせて貰えなかった事に関して嫌味を漏らす。


「お前に限ってそれは無い」

 一言でばっさりと心を真っ二つに切り裂かれてしまった。

「……俺の何がいけないんだろう?」

 弱気になった俺がそう愚痴る。

「はっきりって高城の料理下手は全く意味が分からない」

「どういう理由か分からないけど、ちゃんと料理しているように見えて最終的に食べてはいけないモノが出来上がってしまうからな」

「アレはオカルトの類だろ」

「だったら御祓いして貰うのも良いかもしれないね」

「そこまで? 神の力が必要なレベル?」

「主将の料理は神か悪魔かというなら間違いなく後者ですし」


 何処にも俺の味方は居ない。香籐だって実際に俺の料理を食べるまでは擁護してくれたのに、一口食べた瞬間に否定派へと鞍替えした。

 何と人の心の移ろい易さよ……だが認めない。絶対に認めないよ。俺が俺だけが信じてあげないと、誰が俺の料理の腕を信じるというんだ? 俺が信じなかったら俺の料理はゲロマズでファイナルアンサーだよ!」

「お前の料理はそもそも料理ですらないでファイナルアンサーだよ」

「何で俺の心が……エスパー?」

 俺の心を読むとは、現状では俺の手に余る精神系の魔法の糸口を見つけたとでも言うのか?

「お前は、考えが口から駄々漏れだ!」

 なんだ何時もの事か。

「納得してないでその癖はなおせよ!」

「なおらないから癖なんだ!」

 開き直る。相手を怒らせる時にも使うが三回に二回は素だから……



『タカシお帰り!』

「なぁ~!」

 玄関まで出迎えて待ってるマルの後ろからユキが一生懸命走ってくるのが見える。未だしっかり走ることは出来ないのでヒョコヒョコと足取りは覚束ないが、その必死さがラブリーである。


 だが次の瞬間よろけてマルの前足に身体をぶつけると転倒し、コロコロと言う表現がまさにぴったりな転がり方で三和土(たたき)へと落ちる所を左手で救い上げた。

 俺の手の中で何が起きたのか分からないといった様子で怯えた様子で身を低くして全身で緊張し腹這いになる形で周囲を見渡すが、俺と目が合うと安心したかのように身体中の力を抜いて「なぅ~」と小さく鳴いた。

 ……マル。そんな恨めしそうな目で俺を見るのは止めてくれ。


『タカシずるい』

『タカシずるくない』

『ずるい!』

『だったら、ユキが落ちるのを放っておけば良かったんだ。マルひどい』

『マルひどくないもん!』

『隆! まだ一歳にもなってないマルちゃん相手にむきになって恥ずかしいと思いなさい』

 台所で晩飯の後片付けをしているだろう母さんの雷が落ちた。


 同時に何故か昔に「小学生にもなってお兄ちゃんを苛めて恥ずかしいと思いなさい!』と涼が兄貴に暴力を振るって叱られた事を思い出してしまった。

 アレは実に悲しい出来事である。兄貴のプライドが雪崩を打って壊れたのだから。



『今日はマルも一緒に向こうの世界に行かないか? 最近ユキと一緒で散歩もしてないだろから、向こうで思いっきり身体を動かした方が良いんじゃないか?』

『ユキちゃんも一緒?』

『ユキを連れて行って、何かあったら大変だから置いて行こうと思うんだけど』

『……どうしよう?』

 思いっきり身体を動かした欲求もあるのだが、ユキと離れたくないという気持も強いといったところだろう。


『マルちゃんも行くならお母さんも行こうかな? 向こうでもっと色んな面白い食材を探してみたいし』

 ここ数日は、食卓に異世界の野菜や果物を使った料理が載るようになって、これがまた美味い。


 食材としては全般的に味が濃厚で旨みや甘みが強く、普通の野菜などと同じように料理に使うと自己主張が強すぎてまとまりが無い味になってしまうだろうが、母さんはそれを上手く使いこなしてくれている。

 なので母さんが新しい食材探しの目的で夢世界に行くことに反対する理由は無い。

 レベルアップによって人間離れした能力を得た母さんをどうこう出来る様な人間はほぼいない筈なので、街さえ出なければ脅威となる存在とは遭遇する可能性は低いし、しっかり運動をさせた後でマルを母さんに預けておけば万一の事が起こっても十分に対応出来る筈だ。


 それでも何とかならない場合は、マルとユキを抱きかかえて、浮遊/飛行魔法で全速力で逃げれば風龍だろうが追いつく事は出来ない。

 そして最悪の事態が起こったとしてもロードすればやり直しが利く。何か心配するのが無駄なような気がしてきた。


『お母さんも行くならマルも行くよ!』

 椅子に座る母さんの膝の上に頭を乗せて、上目遣いに「撫でて、撫でて」と訴えかけている。

『それじゃあ、今日は家族皆であちらの世界にお出かけね』

『お出かけ!』

 母さんに頭を優しく撫でられてうっとりと目を細めながら尻尾を振る。

「なぁう」

 そしてユキもなんだか分からないが鳴いていた。


 ところで母さん……お忘れでしょうが我が家にはもう一人家族がいるんですよ。たとえどんなに離れていても大切な家族が……



『今日はマルも一緒に向こうの世界に行くんだから、今日は夜の散歩は止めて早めに寝た方が良いぞ』

『散歩も行く』

『向こうなら散歩なら好きなだけ出来るぞ』

『向こうは向こうなの。こっちはゆっくり歩いて散歩したいの。タカシはマルと散歩嫌なの? 倦怠期?』

 誰だ。マルに余計な言葉を教えたのは? 最重要容疑者を振り返るとそっと目を逸らす母さんが居た。


『ごめんね、マルガリータちゃんと一緒に昼ドラを観てたの』

『昼ドラ?』

『お母さんがね、人間の事を勉強するのに一緒に見ようねって言ってくれたの!』

 お母さんと一緒なら何でも嬉しいマルは尻尾ふりふりで答える。

『母さん……』

『だって仕方ないじゃない。一人で見るよりマルガリータちゃんと二人でおしゃべりしながら観た方が楽しいの』



 マルと夜の散歩に出る。

 普通の速さで走り続けていると、背後から俺達を追う護衛達からは「良かったちゃんと仕事が出来る」「振り切られないのって素敵」という声が聞こえた。


『マル。昼ドラ楽しい?』

『う~、良く分からないよ。でもお母さんとおしゃべり楽しいの!』

『そうか、じゃあこれからも母さんと一緒にいて上げて』

『うん! 一緒にいるよ』

 確かに専業主婦の母さんは、朝俺達を送り出すと午前中に掃除洗濯をテキパキと終わらせてしまうので、午後はマルが居ても話し合う事も出来なかったので暇だったのだろう。


 そう思えば、マルや家族を巻き込んだ事は、ナイスな判断として来年のお小遣いの査定にも大きく影響するだろう。

 来年は中学校だけじゃなく空手部も卒業して、普通の高校生として高校デビューを果たす。そして勉学に励みながら趣味や恋愛とか恋愛とか恋愛とか何かとお金が必要になるだろう。

 今までは単なる預金通帳に並んだ数字に過ぎなかったお金が大事になるのだ。


「ナァ~」

 トレーニングウェアの胸元から顔を出したユキが「自分も一緒」だと言わんばかりに可愛く鳴く。

「ワン!」

 マルがピョンピョンと跳ねながらユキに視線を合わせる。

 俺にはユキが何を思っているのかは分からないが、マルには少し分かるような……

『タカシ。ユキちゃんがマルの背中に乗ってお散歩したいって言ってる!』

 ……振りをしているだけだね。




「……そ、そういえば明日、涼とリーヤちゃんが泊りがけでこっちに来るんだけど」

 散歩から戻り、全員まとめて【昏倒】で眠らせる準備が終えた段階で、父さんが言い出しづらそうに家族からの戦力外通告を受けた涼の事を話題に出す。

「それを早く言え!」

 俺と兄貴の口から出たのは批難の言葉だった。


「……俺は明日はネットカフェにでも泊まるわ」

 兄貴は速攻で逃げをうつ事に決めたようだ。

「何も逃げなくても、レベルアップのお陰で多少殴られても痛くないんじゃない?」

「痛い、痛くないの問題じゃなく、俺は暴力を振るわれる事が自体が嫌なんだ。人間が人間を殴る。そこにある相手を傷つけようとする感情が嫌だ。それに殴られて気持良い変態じゃないんだよ」

「…………」

「何不思議そうな顔をしてるんだよ! 俺っておかしな事言ったか?」

「そうか、普通の人ってそうだよな。俺って空手部だから普通に殴られ慣れしてて……」

 特に大島から。


「な、殴られ慣れ……その件に関しては俺の方こそすまない」

「それは良いんだけど、今回の件は兄貴が涼と向かい合ういい機会じゃないのか?」

「機会?」

「涼を怖れて避けるのではなく向かい合って話し合う事が出来る状況が整っていると思うんだけど」

「そうだな……そうかもしれない…………それで隆。お前はどうするんだ?」

「それは当然、兄貴が涼と和解する。そこで良い感じにほぐれた空気に俺が乗っかって、ついでに俺も涼と和解する」

「台無しだ!」

 その後、母さんの介入により結局は、俺も兄貴も明日は家にいる事になった……困った、予定が狂うじゃないか。



「明日は向こうにいけないとすると、ハイクラーケンを今日倒すことになるんだけど。兄貴、何か良い方法思いついた?」


「あれ相手に? おかしな事を言うな隆は」

「お手上げかよ」

「いや方法が無い訳じゃない」

「あるのかよ!」

「一週間くれれば純粋水爆をつくってやる……いや、作らせろ! そして使わせろ!」

 純粋水爆とは核融合爆弾である水爆──水素爆弾の核融合反応の起爆剤として核分裂爆弾──原子爆弾を使わないものである。

 その為、放射性物質を放出しないので綺麗な水爆とも呼ばれるが、大量の中性子を放出し、爆風や熱による被害以上に中性子被ばくによる人間だけではない生体への広い影響がある……などと考えながら兄貴の首を絞めていたのは仕方のない事だろう。



「我が子ながら恐ろしきマッド。そして次男は長男の首を容赦なく締める……何を間違ってしまったのだろう?」

「そう思うなら止めればいいのに」

「いや、大はそのまま絞め落として良いよ」

 父さんの許可を得て俺は兄貴の頸動脈の流れを止めて絞め落とした。



「ところで大が言っていた純粋水爆ってどういう事なんだ?」

「それは魔法技術の転用だと思うよ」

「魔法技術の転用? どうやって?」

「魔法の基本の【場】なんだけど、あれって自分の魔力を通して魔粒子に触れて操作するのは理解出来てるよね?」

 父さんや母さん、そしてマルは術式を丸暗記して使ってるに過ぎないので、細かい操作なんて意識して行ってはいない。

 それはあちらの世界の魔法使い達の多くも同じで、一部の魔法を作れるマスター級の魔法使いと、その直弟子以外は全て教わった

魔法の術式を発動させるだけの存在に過ぎない。

「まあ、何となくは……」

「向こうの世界にも自分で新しい魔法を作り上げる事の出来る魔法使い達は、それが出来るんだけど、ある程度レベルアップしてるシステムメニュー保持者ならともかく、普通の人間が数十数百以上の魔粒子を魔力を通して触れて、形状や運動を認識して操作するなんて事は出来るはずが無いんだ。もしそれが出来るとするなら【場】には元々、使用者の認知能力や知能全般を向上させる機能があると疑うよね?」

「そうだな……」

 既に怪しくなっているがりかいしているとして話を続けよう。

「そこで兄貴は【場】自体の術式をリバースエンジニアリングを行い、認知能力を向上させる部分の術式を突き止め、改良した事で【場】の中の範囲で原子や分子の動きまでも認識して操作出来るようになったんだよ」

「それはつまり?」

「……マッドサイエンティストの夢。神の目と神の指先を手に入れたんだよ!」

 復活した兄貴が、いきなり立ち上がるとそう叫んだ。そして次の瞬間、俺に延髄切りを食らってまた失神した。



「……まあ、大の事は放っておくにして、隆はハイクラーケン対策は出来ているのか?」

 放っておいても兄貴の病気が治る訳じゃないが、良いのだろうかとも思ったが、こればっかりはお医者様でも草津の湯でも治る病ではない。ただ時間だけが解決してくれる……かもしれないのだ。


「奥の手を使えば勝てる。奥の手を使わないなら、それこそ爆弾でも使わない限りは打つ手がない」

「あの化け物相手に奥の手を使えば勝てると言い切る息子が怖い」

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