第95話

 目覚めて最初に思ったのは、結局父さん達がルーセに関して一言も口にしなかった事だ。

 やはり精霊の干渉は徹底している。これでは干渉される範囲から移動して外に出るというのも不可能かもしれない。範囲から出る事ではなく、範囲自体が世界を網羅している可能性すらあるということだ……


 居間で父さん、母さん、兄貴、マル、ユキを順番に床の上に寝かせてから開始された目覚ましグランプリは圧倒的な早さでマルが優勝した。

『タカシおはよう! ユキちゃんおはよう!』

 マルは一瞬だけ俺に顔を向けて尻尾を振ると、すぐに伏せの体勢をとってユキに顔を寄せる。

『ユキちゃんふわふわ! 可愛いね、可愛いね』

 完全にユキに心を奪われている……俺もだけどな! マジでユキはふわっふわっ!


 次に目覚めたのは母さんだった。

「それじゃあ、後は母さんに任せてマルと散歩行ってくるからよろしく」

 その時マルは、仰向けに寝転がって逆さの状態でうっとりとユキを眺めていた。

『ユキちゃんはこんな風に見ても可愛い……』

 アホがおる! アホになる魔法を食らったアホがおる!


『マル散歩に行くぞ!』

 強い口調で話しかける。

『ユキちゃんも一緒に……』

『まだ寝てるからそっとしておきなさい。赤ちゃんと猫は寝るのが仕事なんだよ。猫で赤ちゃんの雪は寝るのがとても大事な仕事だよ』

『くぅ~ん』

『分かった。今日は久しぶりに思いっきり走らせて上げるから』

 そういった瞬間、マルの耳と尻尾がぴんと立った。


『本当?』

 先ほどまでのトロンとした目から、男前な顔つきへと変貌する……雌なのに凛々しすぎる。

 夢世界の方では全力で運動しているとはいえ、基本人目を避けての森の中なので地面を走るということはほとんど無い。

 マルとしても木々の間を跳躍しながら移動するのも好きなようだが、やはり地面の上を全力で走るというのは本能なのだろう。


 マルを抱かかえて【迷彩】で姿を消すと、窓から浮遊/飛行魔法でゆっくりと外に出て高度を上げると、そのまま北上して川沿いに移動する。

『高いねぇ~』

 俺の腕の中で暢気な口調で下の景色を見下ろしている。

『何処まで行くの?』

『この先にダムがあるから、その近くまで行けば道はダムへの一本道になるから、その区間なら幾ら走っても人に見つかることは無いよ』

『じゃあ、そこなら思いっきり走っても良いんだよね?』

『ああ、良いよ』

 以前マルが全力で走ろうとした時は止めたので、その後も機会が無く今日までお預けになっていた。


 目的の場所に辿り着いてマルを地面に下す。

 マルは鼻を鳴らして周囲の状況を確認する。俺もマップで周囲を確認して人や監視カメラなどが無い事を確認した。

『大丈夫?』

『大丈夫みたいだけど、本当に自分でマップ機能を使えるようになってね』

『……前向きに検討するよ』

『どうしてそういう事は憶えちゃうかな?』

『お父さんがお母さんに言ってたよ。こういう時に使うんだよね?』

 何やってるかな父さんは。


『時々お母さんもお父さんに言ってるよ』

 本当に何をやってるのかな、あの夫婦は!


 先日更にレベルを上げたマルの全力疾走は間違いなく失敗するだろう……うん、絶対失敗するね。

 体勢を低く構えて『行くよ!』と尻尾を振りながら能天気に俺を振り返ると、一歩、二歩と小さい歩幅でスピードを増して行き、十歩目を踏み切った瞬間、身体が浮き上がり、十一歩目が地面を捉えることなく空を切る。

『あっ!』

 慌てたマルは必死に後足を伸ばし、ギリギリ届いた足が地面を蹴ってしまった事が致命的だった。

 下半身が持ち上がり、それに引っ張られるように身体全体のペクトルが一気に上向きになり、連続前方宙返り状態で道を外れて川とは反対の左手の森の中へと消えていった……俺の予想が外れたのは、落ちるのが川じゃなかった事くらいだった。


『楽しかった! マルは今のが気に入ったよ!』

 すぐにマルは葉っぱや折れた枝を身体中の毛に絡ませた状態で凄い勢いで戻ってきた。

 失敗を反省せずに楽しんでるだと? くよくよせずに前向きなシベリアンハスキーのでマルにはそういうところがある。


 もし「失敗を楽しめ」とどこかの大企業の創業者が言ったのならNHKかテレ東辺りが勝手に良い風に解釈して再現ドラマで放送しそうだが、マルの場合は含蓄も何も無く本当に楽しんでしまっているので頭が痛い。


『今のもう一回やる! タカシ見てて』

『……』

 俺の返事を待つことなく、マルはダッシュすると先ほどよりも大きく跳んで森の中に消えて行った。

 そして再び戻ってくると、今度は川の方に跳んで濡れ鼠状態で戻って来て、そしてわざわざ俺の前でブルブルをやりやがった。

 嫌な予感がしていたので【操水】で飛沫を絡め取り直径三センチメートル程の球にしてマルの鼻先にぶつけてやった。


「キャン!」

 驚いて飛び退くと首を左右に振って水を振り飛ばし、更に前足で水を拭う。

『タカシひどい! 意地悪駄目!』

『じゃあ、どうしてマルは俺の前でブルブルをやって水をかけようとしたの?』

『マルは水に落ちて冷たかったから、タカシに慰めて欲しかったの! だから一生懸命戻って来る時は気にならなかったけど、タカシの傍にきたら安心して、ムズムズしてきて止められなかったの!』

 ……確かにブルブルは犬にとって欠伸などと同じカーミングシグナルだった。


『でも俺も、目の前でブルブルをやられて水に濡れるのは嫌なんだよ』

『……そうなの? マル水浴び好きだよ』

 なるほど、マルは自分の行動を俺や家族は嫌がっていないと思い込んでいた訳か……なんて迷惑な。

『あれは水浴びと違うし、それに人間は服を着て水浴びしないの』

『へぇ~……分かったからマルを慰めて! 大丈夫大丈夫って撫でて!』

 この流れから慰めるの? ……まあ、慰めたんだけどさ。



「お帰り隆。マルガリータちゃん」

 俺達が散歩に出てから目を覚ましたのだろう母さんが、朝食の匂いと共に玄関で出迎えてくれた……エプロンの大きなポケットからはユキが顔を出して「ニャ~」と鳴きながら前足で手招きするように動かしていたけど。


「おはよう隆。マル」

 洗面所から顔をタオルで拭きながら父さんが現れる。

「なんだ……隆が言っていたルーセって言う女の子事だが、向こうの世界に居た時は少しも思い出せなかったぞ……全くどういう理由か分からないが気持が悪いな」

「だろうね……」

 俺としてはそれ以上何もいえなかった。



「じゃあタカシ。父さん今日は早く仕事を終わらせて帰ってくるからな!」

 何を言ってるんだろう?


「……別に父さんが早く帰ってきてもゆっくり帰ってきても俺は全く気にしないよ」

「えっ?」

「何がえっ? だよ。今まで一度も今日は早く帰ってくるとかなんて言われた事無いよ」

「だけど、ほらあっちの世界に行くのに……」

「もう行かなくても良いよね?」

「何で?!」

「……いや、もう十分レベルは上げたし、今の父さんなら何かあっても十分自分の身は守れるでしょう? それに俺も今日は向こうでやることがあるから、父さん達に付き合ってる暇はないんだけど」

 そう、ハイクラーケンの雷撃封じに、昨日買った針金が使えるのか確認もしなければならないし、更には奴がまだ隠しているだろう奥の手を引き出しておく必要もある。


「大丈夫、父さん隆の邪魔はしないぞ」

 必死に目でも訴えかけてくるが、休みの日に居間で寝転がって、掃除をする母さんに邪魔扱いされている男が言って良い台詞ではない。


「何で行きたいの? 言っておくけど父さんが自分で倒せる範囲の魔物を狩ってもレベルアップは無理だよ」

 今の父さんのレベルなら小型の龍なら一匹で精々レベルが二も上がれば御の字といったところだ。しかしレベル的にはともかく、命のやり取りの経験の無い父さんに龍が倒せるとは思えない。


「別に龍を倒そうとまでは思っていない。だがお前が言うように今後何かあるとするなら、家長として家族を守るために戦う経験を積んでおきたい」

 そう言われると……なぁ。

「じゃあ、一緒に兄貴も連れて行くから、向こうで少し鍛えてやってくれる? 正常な判断力を持った状態で戦えるように精神修養も兼ねて」

「えっ! 俺も?」

「分かった。大の面倒は父さんに任せろ!」

「あれ決定事項?」

 完全に巻き込まれた形だが、実際兄貴はまだ鍛えておく必要があるのは確かだ。


「なら母さんは良いのか?」

「往生際が悪いぞ兄貴。母さんやマルを守るためにも長男としてしっかりして貰いたいという事だよ」

「長男扱いされた記憶は無いのに、ここぞとばかりに長男扱いぃぃぃぃぃ……」

「いや、俺は結構兄貴を立てている方だと思うけど?」

「…………そうだな」

 まあ、これから兄貴を血と硝煙が似合うよな戦士に鍛え上げるから、その辺の扱いはかなり流動的になる予定だが、この場では口にしない。


「それに涼に兄扱いされてないのは俺も一緒だし」

「そうだよ。妹にお兄ちゃん扱いされない悲しみの前では、弟にちゃんと兄貴扱いされるなんて些末過ぎて記憶に残らなくても当然だな」

「お前はもっと弟に敬意を払え!」

 兄貴にボディーブロウを三連発で叩き込んだ後で「今日はさっさと帰って来るんだぞ、バックレても探し出して寝る暇無しで連れて行くから覚悟しておけ」と脅しつけてから家を出た。



 二時間目の授業時間になった直後に母さんから【伝心】で連絡が入ってきた。

『隆、授業中にごめんね。今大丈夫かしら?』

『まだ、奥田(社会科教師)が来てないから大丈夫だよ。それで何の用?』

『あのね、マルガリータちゃんは【伝心】を使えるようになったの』

『何だって!』

 俺が教えても一向に憶えようとしなかったあのマルが、僅か二時間程度で【伝心】を使えるようになっただと? 喜びよりも驚きと悔しさの方が遥かに大きいわ!


『だ~か~ら、マルガリータちゃんが【伝心】を使え──』

『どうやって?』

『どうやって? ……普通にやっただけに決まってるでしょ』

 違う。絶対に違う。俺と母さんでは『普通』にカテゴライズされている中身が全く違っている。

『俺はどんなに普通にマルに教えようとしても上手くいかなかったから』

『……ちゃんとおやつ上げた?』

『えっ?』

『だから、マルガリータちゃんの意識をこっちに向けたり、集中させるのにおやつを上げたか聞いてるのよ』

『そんな事しなくてもマルはレベルアップする前から、こっちの言う事はある程度分かってるくらい頭良いし──』

『はぁ……』

 何だろう。母さんが頭を抑えて首を横に振ってるイメージが流れてきた。


『……いい? マルガリータちゃんは人間じゃなく犬なのよ。犬に犬以上の事を求めては駄目なの』

『いや、でもね──』

『隆。犬というのはとても優れた生き物よ。優れた運動能力や、嗅覚など感覚器官。これは絶対人間には勝てない優れた生物としての能力よ。だからそれ以上のものを勝手に犬に押し付けてはいけないの。もしも隆のように犬に人間的な能力まで求めてしまったら、人間が存在する意味って何なの? という事になると思わない?』

 実に正論であって口を挟む余地が無い。しかし、一番マルをか可愛がっていたはずの母さんの感情を排したようなドライな考えに納得は出来なかった。


『母さんはマルの事を犬としか見ていなかったのか? 家族だと思ってたんじゃないの?』

『何言ってるの? マルガリータちゃんは大事な家族に決まってるでしょ。隆は犬なら家族じゃないとでも言うの?』

『そういうわけじゃないよ。でも家族というなら──』

『人間扱いしろって事? 隆、差別と区別は違うから、そこの意味を履き違えないでね。マルガリータちゃんはどう頑張っても人間にはなれないの、生物的に無理だって事くらいは理解出来るでしょう。犬だから人間と同じ食べ物は食べられないし、毎日身体を洗われるのは嫌がるし、毎日散歩に行かないとストレスが溜まって体調さえも崩してしまう。だからマルガリータちゃんが犬として幸せに生きられる環境を整えて上げるのが家族である私達の義務なのよ。ただ可愛がるだけではなく、ちゃんと威厳を持って接して、叱り、誉めて、教えて上げないと家族という群れの中で自分の立ち位置も分からなくなってしまうわ。大体、英さんも大も隆も、マルガリータちゃんと遊んで構って甘やかすだけで、全然躾けたりしないで…………』

 説教が始まってしまった。


『……あっ! 先生が来たみたい』

 そう言って【伝心】を切った……勿論、まだ来てないけどな。



 四時間目の国語の授業において、採点を終えた答案が戻って来た。

「何があったんだ?」

 クラス一の秀才と誉れ高い橋本が俺を親の仇を見るかのような目で睨みつけている……そんなに睨むなよ悪いとは思っているからさ。

「これで三教科満点ってどうなってるんだよ高城!」

 後ろから俺の椅子の背もたれに自分の机をガンガンと当ててくる前田に、俺はゆっくりと振り返り笑顔で「お前が俺たちの練習に参加して血反吐を吐いて死ぬまで残すは二教科って事だよ」と応えてやった。


「待て! 俺はその賭けには応じてないぞ」

「元々はお前が言い出したことだし、そもそも俺はお前が降りる事を認めてない」

「えっ? 俺から賭けを持ち出したのか?」

「ああそうだ」

 嘘だけど。


「……やっちまった!」

 俺の嘘を信じて、がっくりと項垂れる前田を無視して、前を向くと教師のテスト問題の解説に集中する振りをした。

 正直、現代国語の問題に解説なんて必要ないというのが俺のスタンスだ。読み手が漢字が読めないとか極度に語彙が不足しているなど以外の要因で、書かれている文章の意味が読み取れないとするなら、それは全て書き手の無能が原因だ。そしてそんな駄文を教科書に載せた馬鹿が全て悪いと思っている。



 昼休みに空手部の三年生達と香籐は図書室に集まり勉強会を開いていた……ふっふっふ、お前等のやっている事は既に俺が一月以上も前に終えた事だ。

 なんて悦に入っていても仕方が無い。俺は時間停止を使えないこいつらのために、座って読めるようにと指示された本を取ってきて、読み終わった本を戻す作業に従事している。


 こいつらは時間停止こそ無いが、速読ってレベルじゃないほど凄い勢いで本の内容を頭の中に叩き込んでいく。はっきり言って開いたページを読む時間よりもめくる時間の方が三倍はかかってそうで、周囲の生徒からは気持悪そうな目で見られているが、普段から俺達に向けられている視線と大して違いが無いので誰も気にしていないのが悲しい。


『ところで高城の言う通りに満点狙いで全力でやったけど、クラスメイトの目が厳しいぞ』

 ページをめくる手を全く緩めることなく櫛木田が【伝心】で話しかけてくる。


『俺はかなり露骨にカンニングしたと仄めかされたな』

『だが気分は悪くなかったぞ。奴等の態度は何時もの事だし妬まれる方が遥かにマシだ』

 俺は最近北條先生へのクラスの連中の態度が好転し始めた事で、クラス全体の空気が変わりつつあるので、俺が満点を取り続けている事に関しては橋本以外は風当たりはさほどでもなかったが、それを口にすると自慢とも受け取られかねなく、こいつらは僻むだろうと思うと何も言えなかった。


『それで教師達は僕等に仕掛けてくると思うかい?』

『明日にもでも仕掛けてくるだろうな。お前達にカンニングの疑いがあるとか言ってな』

 楽しみだ。奴等が何処まで手を打って来るのか実に楽しみだ。ああ、出来るだけ足掻いて下種な手段を用いて俺達を陥れようとして欲しい。

 間違っても中途半端な真似をして、奴等を決定的な状況へと追い込むのを躊躇ってしまうような事だけは避けて貰いたい……躊躇う気は最初から無いんだから。


『奴等がそう言ってきたらどうするつもりだ?』

『疑うなら適別の問題を用意して来いと言ってやるさ』

『彼等がまともな問題を作ってくると思うかい?』

『おい、それって中学レベルではない問題を引っ張ってくるって事か?』

 紫村の突っ込みに櫛木田が驚く……俺としては櫛木田が内心の驚きを一切表に表さず、表情一つ変えずにページをめくり続けている事の方が驚きだ。


『櫛木田は素直な良い子だな。ひねくれ者の俺と紫村とは大違いだ……俺としては是非そうして貰いたいな』

『失礼だな。僕ほど自分に素直で正直な人間は珍しいと思うよ』

 ……三秒ほど時間が止まった。

 確かに紫村は自分に正直かもしれないがそれは俺達にとって美点ではない。


『本当に失礼だよ君達は……それで中学生に解けないような問題が出てきたらどうするつもりだい?』

『決まっているだろう。無回答だ』

『なら明日は、色々記録するための準備が必要だね』

『勿論、頼んだ』

 こんな事を言葉も無しに理解してくれる紫村が捻くれてない訳が無い。

『お前等二人だけで納得してないで説明しろよ』

 ……まあ、普通はこうだよな。こうじゃないと困る。


『つまりだ。呼び出しを受けて出頭後から全ての会話を記録する。奴等が出してきた問題は俺がオリジナルのシステムメニューの時間停止を用いて、携帯で撮影しておく。そして、俺達が無回答だった事に奴等がどう出るかで奴等の残りの人生がどうなるか決まるって事だ』

『ヒュ~……怖いな』

 田村の発言に俺以外が震撼した……田村は【伝心】で口笛の音を再現して伝えて来たのだ。でもマルは結構鼻を鳴らす音を伝えてくるので驚かなかった。


『お前、今一体に何をやった?』

『えっ? 俺何かやったか?』

『お前は【伝心】で口笛を音で伝えてきただろ。どうやったんだ』

『えっ? ……何となく?』

『もう少し具体的に言えよ』

『いや単に、気分的に口笛の一つも吹きたい心境だったとしか』

 漫画じゃあるまいし、口笛を吹きたい心境って何だよ?

『つまり、口笛を吹いたイメージで【伝心】を使ったと?』

『そんな感じだな』

『待てよ。イメージで伝わるなら……』

『顔文字は止めておけ』

『何故分かった?』

 嫌な予感がしたので櫛木田を止めたが図星だったようだ……伴尾。いきなりデスメタルを流すな耳が痛い!


『紫村! 人の頭の中に色んな意味で如何わしい動画を送りつけるな。お前の性癖になぞ興味は無い!』

『香籐君。まさか味覚まで伝えてくるなんて、凄いよ!』

 その後、収拾がつかなくなったが、【伝心】のイメージ伝達能力には大いなる応用性を秘めている事が分かった。これを使えばマルの教育も一気に進むはずだ。


 とりあえず母さんに【伝心】で……いや、また説教されそうだから帰ってからにしよう。説教されるなら父さんや兄貴を巻き込んだ方が俺の被害が小さくなる。


『……とにかく、教師達が穏便ならざる手を使ってきた場合は如何する気だ?』

『先ず問題がまともじゃなかったのなら、そのまま問題を回収して証拠として教師には渡さないという態度を示す。同時にそれまでの会話を全て録音している事を告げる』

『それで大人しく諦めると思うか?』

 俺の答えに、櫛木田は底意地悪そうな笑みを浮かべて、更に尋ねてきた。


『俺なら大人しく諦めるだろうが、お前は諦めて欲しいか?』

 先日以来、校長と赤原が学校から姿を消してしまった理由を知っていて、そんな馬鹿な真似をする訳が無いと思うが、学習能力がないのが馬鹿の馬鹿たる所以だから。


『いや、出来るだけ足掻いて傷を広げて貰いたいに決まってる。気に入らない生徒をいじめる。奴ら教師にとっては極々些細な事で、人生破滅してしまう。そんな喜劇を見られるなんて最高じゃないか』

 全く、空手部には俺を含めて筋金入りの捻くれ者が多いようで結構じゃないか。もっとも、それだけ教師達には煮え湯を飲まされてきたとも言えるわけだ。


『勿論、そんな事はないとは思うが、もし馬鹿が仕掛けてきたらどうするんだ主将さんは?』

 白々しい。期待しまくってる癖に。


『そうなると、多分今学期の三年生の授業は困ったことになるだろうな。何とか二学期までには居なくなった先生の代わりを用意しないと大変だな。そういえば校長も居ないしどうなるんだろう。この学校?』

『別に良いだろう。心配してやるほど親しいクラスメイトとかが居る訳じゃないし』

『お前達と違って俺には居るぞ』

 心外な言葉に反論する。


『見栄張るなよ高城』

『高城に友達? ナイナイ』

『主将には孤高が似合うと思います』

『俺には前田とか前田とか前田が居るから……』

 いかん、言ってて自分で泣きそう。


『うん、そうか友達を大事にするんだぞ……ああ、ごめんごめん友達って複数形だよな』

 あれ、空手部部員以外に話をする相手すら居ない櫛木田に同情されちゃったんだけど、どういうこと?


『……そうそう、良い忘れてたけど、その前田と賭けをしていて、俺が今回の中間で全教科満点取ったら、前田を空手部の部活に一週間参加させるからよろしく』

 俺の言葉に奴等のページをめくる指の動きすら止まってしまった。そして三秒が過ぎて……

『たった一人の友達を大事にしろと言ってるだろう。馬鹿なのお前? いや馬鹿なんだな!』

『いきなり俺達の練習に参加させるって鬼だ』

『いや友達だったらそんな酷い事はしようと思わない。つまり高城には最初から友達なんて居なかったんだよ』

『やっぱり主将は孤高でしたね』

 お、お前等……随分嬉しそうだな?



『お帰りタカシ!』

 放課後の練習を終えて家に戻ると背中にユキを乗せたマルが玄関で迎えてくれた。

「なぁ~」

「ただいまマル。ユキ」

 二匹の頭を軽く撫でてから居間へと向かう。

『あのね。マル、お母さんと話せるようになったよ!』



 夕食時……明らかに晩御飯のおかずの量がかなり増えている。

 母さんに視線を送ると「今日はお腹が減ったの」と恥ずかしそうに答える。

 父さんや兄貴の食欲も旺盛で、おかずはともかくとして炊飯器の中のご飯は瞬く間になくなり、追加でスパゲッティーを茹でる事になった。


「朝、時間の許す限り歩いてみようと思ったら調子が良くて、結局役所まで歩いて遅刻しそうになったよ」

「俺も大した息切れも無く学校まで走って行けたんだ」

 二人とも職場と学校には五キロメートル以上離れている。父さんはまだしも兄貴がその距離を走るなんて、もし俺がレベルアップのことを知らずに、その姿を見たなら兄貴の幽霊が走っていると勘違いするだろう……そもそも、自発的に走る兄貴と想像するだけで不吉だ。


「お陰で母さんの弁当だけじゃ足りなくて、おにぎりを買って食べたよ」

「俺も、だからお小遣い欲しい」

「そういえば隆はどうしているの?」

 手のひらを上にして差し出してきた兄貴の手を払い落としながら母さんが尋ねてきた。


「俺は朝食を多目にして後は我慢してるよ」

 最近は夢世界から持ち込んだ、屋台料理をこっそりと時間停止状態で食べてるけど。

「明日からおにぎりを作ってあげるから、給食が足りなかったら食べておきなさいね」

「母さん、俺はお小遣いが良い──」

 俺には全くの謎だが、どうすればこの状態で、再びその話を切り出そうと思ったのか余計な事を口にする兄貴。

 瞬間、母さんの右手が獲物を捕らえる蛇のように兄貴の顔面に伸びて指を頭蓋骨に食い込まんばかりに突き立てる。


「大は少し黙ってようね、良い子だから」

 レベルアップによって軍用ヘルメットを遥かに越える強度を持つ筈の兄貴の頭蓋骨が軋む音を聞きながら、何故か俺がコクコクと首を縦に振ってしまった……不思議だね。不思議じゃないけど不思議だね。


「そ、それじゃあ父さんは、あっちの世界に備えて風呂に入って寝るよ」

 子供達を庇う素振りどころか、躊躇いすら見せない見事な逃げを打つ。

『マサルは馬鹿。お母さんを怒らせるのは駄目』

 言ってる内容には同意するが、しっかり俺の背後に隠れて盾にしやがる。

「なぁ~う」

 唯一、膝の上に陣取り恐怖に固まった俺の手のひらに頭を擦り付けているユキの存在が正気を保つための命綱だ。


「あっ! そういえば母さん。【伝心】について面白い事が分かったよ」

 そう格好良い隆君は、この殺伐とした状況を打開する素敵なアイデアが閃いたのだ。

「……何かしら?」

「居間まで【伝心】は言葉としてのイメージで情報を伝える事が出来たんだけど、実はそれ以外の形でも情報を送れることが分かったんだよ」

「どういうこと?」

「例えば──」

 母さんが若い頃に聞いていただろう80-90年代にヒットしただろうポップの曲を【伝心】で家族全員に送りつけた。

「これって……凄いわね」

「やるじゃないか隆」

 父さんと母さんが食いついてくる。ちなみに兄貴にはまだ母さんの右手が頭に食いついている。


「それだけじゃなく、視覚情報もそのまま送りつけることが出来るんだよ」

 今朝のマルとの散歩の、マルが勢い良く走り出して跳んで行く場面を送りつける。

「まあ、マルガリータちゃんったら」

 頭の中で再生される楽しいペット動画に微笑む母さんの手から兄貴の頭が外れてボトリと床に落ちて倒れ伏した。

「隆、これは本当に凄いじゃ──」


「今度からは、父さんの帰りが遅い時に、これで今何をしているのか送って貰えば良いよ」

「──た、隆?」

 父さんが凍りつく。子供を見捨てようとした報いと呼ぶには、余りにも酷い仕打ちかもしれないが俺は気にしない。

「そうね、それが良いわ。ねえ英さん?」

 何が良いのか子供の俺にはワカンナ~イけど、母さんの笑顔の奥では有無を言わせる気は全く無い事だけは、動物的本能によって理解出来た。



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 宿の木張りの床の上に父さんと兄貴を転がす。

 今日はマルもユキも居ないというのに、この二人とは……癒し成分が何処にも無い。むしろマイナス?

 【水球】を二つ発動させて二人の顔の上に落として起こす。

「ぶはぁっ! 何だ? 何なの!」

「げほっ、うぇ……水?」

 効果はてきめん。勢い良く上体が跳ねる様にして起き上がった。


 二人にタオルを投げかけ、ベッドの上においたマントを指差す。

「おはよう。それは替えと予備のマントだから、前を紐で結んで閉じておけば父さん達の格好でもおかしく見えない……ただし足元はだめだから、金を渡すから靴屋でサンダルを買って、それからちゃんと足形を取ってブーツを注文しておいて。後は適当に此方でも不自然にならないような服装を揃えて……食べ物はちゃんとした店や表通りの屋台で食べなよ。こっちの世界で汚な美味い店なんか探すと、食材に何を使ってるか分からないから」

「お、おう……それから、おはよう」


「じゃあ二人は【迷彩】で姿を消してから窓から出て行って」

 それだけを告げると部屋を出て、1階の食堂へと出ると朝食をとる。毎日、朝飯分も金は払っているのに食べてなかったからな。一度くらいは食べておかないと勿体無い。


 十分ほど待って出てきたのは、港町の宿だけあって魚料理だった。ソテーされた白身魚の表面に掛かっているソースの匂い……これは醤油? いや魚醤か。


 魚醤とは、魚だけではなく魚介類全般を長期間塩漬けにし、たんぱく質が発酵分解される事で生まれるアミノ酸による旨みとミネラル・ビタミンなどを栄養分を豊富に含んだ発酵調味料であり、古来より世界中の魚の獲れる海岸部などで多く作られてきた人類の友である。

 しかし、欧州においてはグルタミン酸を豊富に含むトマトの食用化、日本では大豆や穀類を使用する醤油の台頭でマイナーな調味料へと追いやられてしまったが。

 ちなみに、魚介だけではなく獣肉を使用したタイプも存在するが、中国で問題になった人毛醤油もその仲間と言って過言ではない。

 醤油とは要はたんぱく質を多く含む材料を発酵分解しアミノ酸を作る化学変化が基本となった食品であり、そもそも中国に限らず、日本でも人毛醤油は戦後の物不足の頃に研究されたりもしていた……コスト面で折り合わず、実用化はされなかったが。


 うん、醤油には無い深みもあるが癖もある。それに衛生管理という概念自体の欠如から入り込む雑菌の影響で、僅かだが臭みと雑味がある……だが、それすらも味わいと言えば有りだ。 加熱無しで口にするには難があるが加熱調理後ならむしろ正解だとさえ思えてくる。



『それじゃあ、これからセーブを実行してから実験に入るから、しばらくは危険な事はしないでおいて欲しいんだけど大丈夫?』

 別行動中の父さんと兄貴に【伝心】でそう告げる。


『ああ、問題ないが何をするんだ?』

 ……まあ当然聞かれるよな。

『ちょっと危ない実験。死にそうならロードしてやり直すつもりだけど』

『待ちなさい隆。どんな事をするのか言ってもなさい』

 だから今日と明日は連れて来たくなかったのに……


『つまり週末にハイクラーケンという大物を狩るのに、下調べに色々と相手の情報を探ろうとしていた訳か……』

『まあ、そういう事だよ』

 これは止められるな。


『なら実験は父さんがやろう。父さんなら死んでも隆がロードすれば問題無いようだし』

『いや、それはどうかな? 普通の人間にはトラウマになりかねないし』

 空手部に一年以上在籍した人間を俺は普通の人間だとは思っていない。


『馬鹿を言うな! 息子が命を危険に晒すような真似をするというのに黙って見過ごせる親があるか!』

 現実世界で母さん怖さに、俺と兄貴を見捨てて逃げようとしてなかったら、その台詞に感動して涙しただろう。


『大体、隆はどんな実験をするつもりなんだ?』

 実験と聞いて黙ってられないのが兄貴だった。

『ハイクラーケンは天候を操作して雷を落す。それを避雷針代わりに──』

 俺の考えを披露すると『ふっ!』と鼻で笑われた。


『確かに触手を避けるために高度をとる必要があるのは分かった。にわかには信じられないが天候を操作すると言うのも大負けに負けてよしとしよう。だけど結局は何処で空気放電が始まるか分からない状況で1本の避雷針(w)で避けられると思ってるのか? それに失敗して直撃を貰って耐え切ってロードする余裕があると思ってるのか? ……馬鹿だろうお前』

 兄貴め、(?)なんてイメージまで上手い事送り付けて煽るとは芸が細かいじゃないか。


『どうせ気候操作と言っても空一面に雲を作り出すなんて神懸かった真似は出来ないだろうから、狭い範囲に強い上昇気流を発生させて積乱雲を作り、何らかのトリガを発生させて自らのタイミングで落雷を起こすって事だろ。だったら簡単だ積乱雲の下限より上の高度を維持して水平方向に移動すれば落雷を受けることは無い。横方向へ雷が放たれるには広い範囲に雲が横へと広がり発達している必要がある。幾ら魔法とはいえ一瞬で積乱雲を発生させるのは無理なんだから、上昇気流を感じたら高度をとって安全位置に移動しろ』

『おお、やるな兄貴』


『それから、安全地帯で雷が落ちた時にハイクラーケンがどのような行動をとるかを確認しろ。海に潜ったなら雷の直撃を避けているという事で、直撃を食らったら自分もただではすまないって事だし、そのまま潜らないなら確実に落雷を受けるはずなので雷は奴自身には効かないって事だから、高度千以上から岩を正確にハイクラーケンの上に落す方法を考えた方が良い』

『潜った場合は?』

『奴がどの程度の深さまで潜るのかを確認しろ。それより長い鉄筋を奴に突き刺して海面上に、そうだなハイクラーケンが潜るなどして立つ波の高さを考えて三メートル程度飛び出すくらいの長さがあれば、必ず雷はハイクラーケンに落ちる。雷は地面の上に設置された物体の中で一センチでも他より高い物体に落ちるから、波以外に海面上に高い部分が存在しなければ鉄筋に落ちるしかない……まあ、お前も上昇気流を気にしながら触腕を避けるのは大変だろうから、雷に関してはもう少し根本的な解決策を考えておいてやるから、今日は安全地帯に逃げて、その後にハイクラーケンがどういう手段に出るか観察しておけ』

『兄貴……俺が狙ってるハイクラーケンって全長が四百メートルを越えそうなんだけど』

 上空千メートルまで届く触椀の中が差を含めると普通の長さでも四百メートルを切るとは思えない。


『ふざけるな……ふざけるなよファンタジー! そんなもん誰が想定するか! そんな化け物のなら何をやらかすかなんて俺に分からん! 分かってたまるか! 海面近くで軽く動いただけで三メートル以上の波が立つだろ。そもそもその巨大な体内で作りだした成体電流を魔法で昇圧して打ち出したとしても何の不思議もない。そもそも魔法の存在自体が不思議なんだからな!』

 兄貴がブチ切れてしまった。仕方がないとは思うが、俺にブチ切れられてもなあ……


 結局分かったのは俺の策も兄貴の策もともに駄目だという事だけだった。

『やっぱり身体を張るしかないか』

『駄目だ隆。それは父さんがやるからな』

『そうだぞ。お前が死んだら俺と父さんも現実世界に帰れなくなるんだ。死ぬのは父さんにやって貰え、父さんなら何十回死んでも大丈夫だ』

『……別に進んで死ぬ気は無いのに、家の長男が酷すぎるだろ』



 一時間後、父さん達の合流を待ってセーブを実行する。そして──


『ロード処理が終了しました』


「はい死んだ! 父さん死んでしまったぞ!」

 父さんの浮遊/飛行魔法を扱う能力では、まだハイクラーケンの触腕の攻撃を避ける事が出来ずにあっさりと死んだのだ……それにしても何故そんなにテンションが高い?


「じゃあ次は兄貴で」

「えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 まさか自分が指名されるとは全く考えていなかった兄貴は、断末魔の如き叫びを上げる……ハイクラーケン相手なら、叫び声を上げる暇すらないだろうから今の内に思う存分上げておくと良いよ。

「何で俺?」

「想像以上に父さんの浮遊/飛行魔法が下手だったんでチェンジとなると、他に選択肢が無いから」

「無理無理、俺は肉体派じゃないから頭脳派だから、無理、絶対に無理」

「魔法は肉体に関係ないから。首から下は脳の生命維持装置に過ぎない兄貴でも大丈夫……理論上はいける」

「何処にも理論無いし……それにしても上手い例えだな」

 ……完全な悪口だというのに、兄貴は感心しやがった。恐るべき自覚とでも言えば良いのか?


『ロード処理が終了しました』


「はっはっはっはっはっ! 死んだぞ。俺死んだぞ!」

 この辺は親子なんだなぁ~と思わせるロード後の似たような反応だ。

「それで何か掴めた?」

「いや全然、気付けば脳がシャットダウンしていくというかその瞬間を感じた! これは何と言うか、どう役立てたら良いのかまだ分からないけど凄い経験だ。多分、脳を専門に研究している人間なら羨ましがるんじゃないか?」

 そうか、父さんも兄貴も自分がどう死んだのかも分からない。痛みも無く、そして真っ先に頭を破壊されなかったので死ぬ瞬間だけを味わったからこんな感じなのだろう。


「言っておくけど、身体中の骨を砕かれたり、手足を切り飛ばされたりとか、楽じゃない死に方もあるんだから死を簡単に考えるなよ……下手をすればトラウマどころか廃人状態もありえるんだから」

 ただし、一年生以外の空手部部員は除く。

 はっきり言って、香籐以外の空手部の二年生達にも是非体験させてあげたいと思っている……これは強制だ。



 結論として、雷をクラーケンに直撃させるのは意味が無い事が判明した。水バケモンの癖に電気攻撃が無効だなんて、全世界の電気バケモンファンが怨嗟の声を上げるぞ。


 そしてハイクラーケンのもう一つの引き出しの中身も分かった。

 俺も平行世界で超空の要塞B-29(仮称)を撃墜するために使ったダウンバーストを起こしやがった。

 崩れ落ちる積乱雲に巻き込まれた空気が起こす風に引きずられて吸い込まれて地面に叩きつけられて死んだ父さんは、ロードで復活した瞬間「チョー! スペクタル!」と全力で叫んだのでトラウマなどの心配は無いが、別の意味でかなり心配だ……母さんに報告すべき事案なのかもしれないが、正直に話すには勇気が必要だ。俺自身正面から受け止める自信が無い。


「どうやら、奴は自分の真上にしか積乱雲を発達させられないようだ」

 父さんの後に自分もダウンバーストに巻き込まれた兄貴がそう結論付けた。


 ちなみに兄貴は「良いか、俺が地面に叩きつけられる前にロードするんだぞ。絶対だぞ。これは振りじゃないからな!」としつこく念を押してきたので死んでいない……だけど四回に一回くらいの失敗は許されるんじゃないかと俺は思っている。


「それに積乱雲も普通のものよりずっと範囲が狭いのに成層圏にまで届く分厚いという異様な形だよ」

「つまり、単に上昇気流だけを起こしているわけではなく、何らかの魔法的な制御が行われていると考えるべきだな……良い方法は思いつかないか?」

 兄貴の言葉に俺は頭を捻るがそう簡単に対応策は見つからない。


「一瞬の魔法制御なら阻害する方法はあるけど、継続して行われる魔法制御を崩すのは難しい。ハイクラーケンは雷の発生トリガもかなりの遠隔操作で起こせる事から【場】自体を遠くに設定する事が出来るのかもしれない」

 発動した魔法の現象を維持し離れた場所にまで現象自体を移動させるために、場によって与えられた操作により離れた場所にまで魔力と魔粒子を移動させるのが魔法の前提であるのに対して、ハイクラーケンはどうやら離れた場所に【場】を発生させられる様だ。


 俺自身離れた場所に【場】作る練習はしていて日に日に伸びている。多分この調子なら最終的には100mは無理だろうが50m位まで伸ばす事は可能だと思う。今はまだ20mにも及ばないほどの遅々たる成長だが。

 しかしハイクラーケンの【場】は本体より10㎞以上離れた場所でも発生しているようだから比較にもならない。この決定的な違いの理由は何か?

 単に魔力の問題だけなら魔力番長としては魔力だけはハイクラーケンにも負ける気は無い。

 ならば何が原因か? すると身体のスケールの差ではないだろうかという斬新な閃きが浮かんだ……俺は多分疲れているんだろう。


「まあ良い。ダウンバースト自体は雷と違って発生してからでも避ける事は出来る。根本的解決も考えてみるが、現状では避ける方向で作戦を立てるんだ」

 実際、現時進行形で父さんを巻き込んで発生しているのは、ダウンバーストの中でも範囲が狭く、その分強力なマイクロバーストと呼ばれる現象であり、高度1万m以上から落ちてくる空気の塊が、積乱雲を発達させる上昇気流とぶつかり合う事で、より圧を高めてから一気に吹き降ろすので、発生する前から予兆はあるので、超空の要塞B-29(仮称)の様な機動性皆無なのとは違って俺が受けることは無い。

 ちなみに父さんが巻き込まれているのは、どの程度の距離なら安全か調べると称して遊んでいるからだ。地面と激突する直前に俺がロードするからと安心して。


 伸びる触腕に落雷、そしてダウンバーストが判明した奴の奥の手だが、俺はまだ隠してある可能性が高いと思う。

 それはもっと接近した時に使う奥の手。そして海面に落ちた相手に使うような何か、更には海中の敵に対して使う何かも当然あるだろう。

 だからこそ、触腕の届かない高さから葬り去る方法を考えるべきなのだろう……



 その後、父さんと兄貴のオーガ狩りを実行して貰う。

 さすがに二人のレベルなら、オーガ相手には全く引けをとらないはず……兄貴が引けをとらないのは逃げ足の速さだけだろうけど。


 父さんは、対格差から完全に油断しているオーガに対して、ゆっくりと周囲を左へと回り込み続ける。

 その油断ゆえに身体の向きを変えるのに無造作に右足を外へと踏み変える時に、膝の伸びきった右足に体重が乗る。

 父さんはその隙を見逃すことなく右膝へ体重の乗ったタックルをして間接を破壊する。

 痛みに膝を抱えたオーガの背後に素早く回りこみ、背中を登ると首を締め上げると「大! お前が止めを刺すんだ!」と叫ぶ。


「……」

 兄貴の顔が表情筋だけで「何言ってるのか分かりません」と語っている。

 突然の状況に頭がついて行かず、こんな三文芝居に乗せられている。


「早くしろ! 何時までも持たないぞ。やらなければ二人とも死ぬぞ!」

 自分の力が既にオーガを大きく上回っている事を分かっているはずなのに父さんノリノリでピンチを演出しています。

 一方で兄貴は追い込まれてオロオロしている。チラチラと俺に助けを求めるように視線を向けてくるが俺は取り合わない。


「急げ! 急ぐんだ大!」

 正直もう吹き出しそうなのを堪えるのが苦痛なレベルなんだけど我慢する。

「た、頼む大! ……もう……」

 腹筋が激しく痙攣する。


 だが我慢の甲斐あって兄貴が行動に出る。

「うわぁぁっ、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 貸してやった決して壊れない不思議な剣を力任せに鍬を振り下ろすようにしてオーガの頭に叩きつける……おいおい、中学校で剣道を習ったはずだろう。

 はっきり言って仮にも剣を振り下ろす形ではなかったが、現在の兄貴の腕力で思い切り叩きつけただけあって刃筋は通って無かったが、オーガの頭蓋骨を砕いて中まで食い込んだ……普通は剣が折れるんだろうが、流石は不思議剣だ。


「うぇ、えっえっえっ、ぐうぇぇぇぇぇぇうぇぇぇぇぇぇぇ……」

 兄貴は自らの手で為した事に驚くと二歩、三歩と後ずさりし、やがて膝から崩れ落ち両膝両肘を地面に突くと、胃の中の朝飯を材料にして大きなもんじゃ焼きを作っている。その姿を見てまだまだ可愛いものだと生温いで見守る。


 俺がこんな状態にならずに済んだのは、空手部の合宿で罠で捕まえた生きたウサギを締めて解体するという経験もあるが、生きる事とは戦う事だと、こちらの世界で最初に出会った敵である狼達に教えられたからだろう。

 むしろこの状態で平気な顔をしている父さんが不思議だ。例え四十五年生きようが普通なら今の状況に匹敵する様な体験はしないだろう。

 この一見するとただのオッサンに過ぎない一介の市役所勤務の公務員である父さんが、どのような人生を送ってきたのかちょっと興味が出た……勿論、今まで父さんの過去について興味を持ったことなど一度も無いよ。


 オーガ狩りも五体まで倒すとさすがに兄貴も吐く事はしなくなった……慣れたというより、もんじゃの材料がなくなったようだ。

「大は駄目だな」

「駄目だね」

「これが普通! 普通なの! おかしいのは父さん達だろ! 何だよそのスプラッター耐性は?」

「俺の場合は、兄貴と違ってこっちに来て狼に襲われて、両腕をズタズタにされて殺されかけたせいで、他の命を奪うのは良くないとかそういう考えは速攻で捨てた」

「……」

「俺が最初の洗礼で学んだのは、生きるって言うのは生存競争に勝ち残るってという事で、負けたら死ぬって事だよ」

「……弟が歴戦の兵(つわもの)の様な空気を醸し出している件。駄目だ送信出来ない!」

 現実逃避にネット掲示板にスレ立てしようとして、ネット接続が出来ずに暴れてる。

 まあ無理も無いのだが、むしろ吐きながらでもオーガを倒し続けた兄貴のメンタルには敬服する。


「ところで父さんはどうして平気だったんだ?」

 疑問を口に出してみる。

「それはまあ……父さんにも色々あるんだ」

「色々ってなにさ?」

「秘密だ。格好良いお父さんには秘密の一つや二つあるものだ」

「キモイ」

「二人して即答! えっ何、父さんがキモイっていうの? もしかしてドッキリ?」

 何だその有り得ないといわんばかりの表情は? 何処から見てもキモイ親父だろ……はっ! これはまさか──


「父さん。煙に巻いて誤魔化そうとしてるだろ?」

 俺より一瞬早く気付いた兄貴が突っ込んだが、父さんは下手糞な口笛を吹いて誤魔化す……絶対に言う気は無いようだった。

 予想通り、兄貴が突っ込み続けるが父さんは言を左右にしてまともに取り合おうとしない。


「兄貴、無駄だよ。これは生きるか死ぬかの状況で『話せば助けてやる』とでも言わないと駄目だ」

「……そうだな」

「ちょっと待って! 何物騒な事を言ってるんだ? 大体、父さんが命が危険に晒されても質問に答えないと助けないってどういう事? 父さん子供の教育間違った?」

「……そもそも涼がああなったのは父さんが甘やかしたのが最大の問題だったと俺は思っているよ」

 兄貴の言葉に俺は大きく頷いた。


「そこから駄目出しだった?」

 自覚無いのか? 涼の暴力的な傾向を抑えるよう躾けるのは兄より親の責任が大きいのに、全く手を打たず可愛がるだけ可愛がったのは父さんだ。


「それが我が家の最大の問題だろ」

 今度は俺の言葉に兄貴が大きく頷いた。

「いつの間に一1対二。完全にアウェイ?」

「父さん、そもそも父さんは家庭内で完全にアウェイでしょ。家庭内に居場所の無い男親の姿を見せられるにつけて、俺達も男として結婚というモノに幻想すら持てなくて困っているよ」

「兄貴それは言い過ぎだ」

「た、隆ぃ」

「本当の事だからこそ言葉を選ばないと駄目だろ」

 一瞬俺が庇ってくれたのだと希望を抱いたのだろうが、俺は止めを刺した。


「……そうだな。ごめん父さん言い過ぎたよ」

 そして本気で謝る兄貴の姿が駄目押しだった。

「畜生グレてやる!」と叫びながら父さんはエスロッレコートインへと一目散に飛んで行った。


「……逃げたな」

「そうだね逃げたね。ああまでして隠したい事って何だろうね?」

「どうせ大した事無いだろ」

「隠したい理由は大した事無いかもしれないけど、隠している内容自体は大した事あると思うけどな」

 父さんからは鬼剋流や北條流の親子のような血生臭いに何かと関わりがあるような気がしてならない。

 想像するだけでも嫌だな。もし俺が将来普通の家庭を持ったとしてで、直接ではないとしても鬼剋流と関わりがある事は家族には絶対に話さないだろう。

 ……………………はっ! ま、まさか?



 兄貴に戦い方の基本を教える。

「戦うって事は躊躇わない事だと思うんだ」

「躊躇わない?」

「そう。孫子は『勝利の軍は開戦前に勝利を得ている』と言い、 ブルース・リーは"don't think feel"と言った。つまり考えたり悩むという行為は戦いには不要。勝つためには、勝利のためには悩む考えるなどを含めて全ての準備を戦いの前に終わらせておく必要がある。」

「言っている事はかなりおかしいが、敢えてそれを飲み込んだ上で言おう……だからどういう事なんだ?」

 適当な事を言ったがばれてしまった。

「ちっ……要するに躊躇ったら負けるって事だよ」

「不貞腐れて言うな! ……それじゃあ躊躇わなかったら勝てるとでもいうのか?」

「そんな訳あるか! 躊躇ったら勝ち目はないただそれだけじゃ!」

「何でお前が切れてるの?」

 ……確かに俺が切れるのは理不尽だ。


「要するに闘いの中で躊躇うような奴いは、そもそも闘いの場に立つ資格も無いベイビーだって事だ! 兄貴に至ってはまだ卵子と結合もしてないちっさなオタマジャクシって事だ」

「失礼な」

「じゃあ、兄貴は将来自分が科学者になった時、自分の作り出そうとしている技術が兵器に転用されて、多くの人命を奪う事になると知ったらどうする?」

「勿論、何の躊躇いも無く完成させる!」

 まさに躊躇いもなくそう言い放った……この人怖い。


「そうだ。そんな人でなしのマッド界の期待の星の兄貴が、オーガを自分の手で殺す事を躊躇うなんておかしいだろう」

「自分の兄を人でなしの頭がおかしい奴、扱いするお前が一番おかしい」

「つまり、自分が直接手を汚すのは嫌だが、間接的なら心が痛まないというエゴイズムか? それともバーチャル世代?」

「俺がバーチャル世代なら、お前もバーチャル世代だろう!」

「いやいや、俺は痛いほど実体験を積み上げて来た男だよ……痛いほどにね」

 凄みを利かせて笑ってやると兄貴は鼻白む。


「だから兄貴も実体験を大切にしよう。すぐに慣れるから大丈夫」

「でも色んなものを無くすんだろ。人として大切な何かを」

「人の在り方なんて星の数ほどある。どれだけ大切な何かを無くしても、残ったものと新しいもので、新たな自分という人間が出来上がるんだよ」

「新たな自分なんて嫌! 今の自分が大事!」

「そんな風に思っていた事が俺にもあったよ……」

「嫌だ! 弟が名状しがたき何かに乗っ取られてる!?」

 そういえば小さな町で、住民が次々と宇宙からの侵略者に乗っ取られていく映画があったよな……それに比べたらまだマシだよ。



 そして空手部方式で兄貴をビシバシと鍛え上げていく。

 やがて泣いたり笑ったりしなくなったところでオーガと一人で戦わせる。

 勿論、そんなに簡単には成果は出ない。何度もオーガに殺されて続ける事三十回を超えると、目に光がなくなり死んだ魚のようになる。

 大島が無茶振りした後に高笑いした時の部員達の目である。


 そこからは人変わったように、全く感情を外に表さずセンスは無いが合理的に無駄一つなく戦う様子はまるで機械の様だった。

 兄貴が自分へ下したオーダーは、オーガよりも早く動き始め、オーガより速く動く、そして速やかに命を奪う。ただそれだけだった……ちょっとやりすぎたかな?


「訓練終了!」

 俺の言葉に兄貴の目に光がよみがえる。

「……続いて特訓に入ります」

「意味わからねえよ!」

「特訓が終われば、次は猛特訓です」

「本当に意味わからねえよ!」

「大島にそう言われただけで、俺にだって意味わからねえよ!」

「そんな事を言われても、もう一年分の運動量を今日一日で使っちゃったんだよ!」

「ふざけるな!」

 猛特訓の上のカテゴリーを考えるべきだと決意した。

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