第94話
朝だ。試験二日目、最終日の朝だ。
いつもなら今日も試験という憂鬱さと、今日で終わるという開放感。そして今日から部活再開だという憂鬱さの二対一で憂鬱の勝利という心境なのだが、現在部活は休止中で自主練習だから憂鬱感は無いし、試験そのものへの憂鬱な思いも今更残っていない。
全国の受験生から見たら呪われてしかるべき立場ともいえるが、その分厄介事ばかりが増えている気がするので、自分の立場を喜んで良いのやら悪いのやら分からない。待てよ元から俺は大島と書いて「やっかいごと」と読むような、特大の厄介事に巻き込まれていたので、とても不幸だったのが少しだけ不幸が薄れた……これ以上考えるのは止めよう。
『マル。今日は雨だから散歩はやめておく?』
『えっ! 雨なの? マル雨大好きだよ!』
尻尾を振りながら軽く興奮している。確かにマルは雨の日の散歩を嫌がった事は無かったが、まさか好きとまで思っていたとは……だが問題はマルが好きかどうかではなく、塗れたマルの始末が大変だという人間側の都合だ。
『でも今日は雨が強いから、マルはびしょびしょになっちゃうよ』
『大丈夫。塗れてもタカシがすぐに乾かしてくれるから! あれ凄いね、ブルブルよりずっと凄いよ!』
『マル。アレは内緒だから使えないよ』
『……じゃあ仕方が無いからアレ着るよ』
マルの尻尾がダラリと下がる。
アレとは母さん手作りのマル専用のレインコートで、手足の部分も筒状に縫ってほぼ全身をカバーするという優れものだが、ちょっと熱が篭るので母さんとのゆっくりとした散歩ならともかく、俺との激しい全力疾走の散歩には向かない。
『だったらこっそり涼しくなるようにしてやるから我慢しなさい』
『本当に! 暑くないなら動きづらいのはマル我慢するよ』
出来るなら散歩を我慢して欲しかった。
マルとの散歩は身体を動かしたいという欲求は、夢世界で十分に満たされているので、ハーフマラソンレベルからは一般的な散歩に近いレベルになってきている。
『これ楽しいよ!』
マルはかなりのペースで走る俺の歩調に合わせて、股の間をジグザグに潜り抜けるながらついて来る。テレビのペット番組を見てやってみたかったようだ。
すれ違うジョギング中の小母さん……お姉さんや、犬と散歩中の爺さんはその様子に驚き、視線を向けてくるが、そんな状態でもリードを見事にさばいて脚に絡ませない俺のテクニックにも注目して貰いたいものだ。
『あのね、マル高いのを飛び越えるのやりたい!』
次なる要求に走りながら左腕を水平に横に伸ばすと、マルは一度足を緩めて距離をとってから加速し、一瞬で左腕の飛び越えていった。
『タカシもっと高く』
『普通の犬はそんなに高く飛ばないから駄目』
『えぇ~!』
「高城。社会の山を~」
HRの前に前田が後ろから俺の両肩を掴んで揺する。
「あ~き~め~ろ~」
揺すられながら答える。
「何かあるだろう。これを憶えておけば何点か上載せられるという豆知識!」
「前田。社会という科目には他の主要教科にはない変わった特徴がある──」
「そうだ。そういう裏技的なのが知りたいんだ!」
「前々からずっと思ってきたことなんだが、今日ここで言わせて貰う。実は社会科の授業虫に先生がする面白い話は……」
「話は?」
「試験には出ない!」
俺の断言に聞き耳を立てていた周囲のクラスメイト達からも驚きの声が上がる。
「ど、どういう事だ?」
「社会科の授業では、なるほどと思うような話を良く耳にすると思うが、アレは記憶がメインのクソ面白くない授業を、巧みな話術と裏話、豆知識で楽しませて自分の話に興味を向かせようとする社会科教師の陰謀で、試験に出るような重要な話はクソ面白くない部分にしか存在しない!」
「そ、そんな……馬鹿な!」
クラスの男子の三分の一が崩れ落ちる。
「事実だ。だから漠然と授業を受けて社会科って面白いなどと思ってる奴等ほど点数は伸びない。脇にそれてないでさっさと糞詰まんない授業進めろよと思ってる奴等の方が点数を取れる」
クラスの男子の三分の一が肯いた。
「マジで?」
「大マジだ。だから今、お前の頭の中に残っている社会の授業の記憶の中に、点数に繋がるような知識は入ってない……だから今更足掻いても無駄だと言ってるんだ」
「社会の授業……好きだったのに……酷すぎる」
俺の肩から手を離して机の上に泣き崩れる。
「俺も結構好きだぞ。授業に関係ない脱線した部分の話はな……だけど、好きなものは好き。それで良いじゃないか? そこに点数を求めるのは不純だ」
「高城……何、上手くまとめてるんだよ! 問題に出そうな所を早く教えろよ」
どうして前田はこの必死さを試験一週間前に発揮出来ないのだろう。そんな疑問が一瞬頭に浮かんだが考察する程の価値は無いので考えるのを止めた。
「ただいま」
「お帰りなさい。もうご飯は出来てるわよ」
朝食時に学校から帰ってきたら昼飯を食べたら自主練へ行くと告げてあったので、準備は完了してあるようだ。
「それで試験はどうだったの?」
「ばっちりだよ」
そう答えるとマルが駆け寄ってくる。
『タカシお帰り!』
『ただいま』
ズボンに毛を沢山くっ付けるマルを撫でながら三和土から上がって廊下へと上る。一度三和土に降りたマルはきちんと玄関マットの脇に置かれた雑巾に足の裏を擦りつけてから上がる。
前までは足を拭いてやる必要があったのだが、レベルアップしてからは汚れを家の中に持ち込まないという事を理解してくれて、母さんも「お利口さんになってうれしいわ」と喜んでいる。
「母さん。貰い物なんだけど今晩はこれで焼肉にしない?」
ダイニングテーブルの上に用意されている昼食を確認しつつ、筆記用具くらいしか入っていないカバンの中に手を突っ込んで【所持アイテム】の中から、夢世界でポリ袋に詰めておいた肉を取り出して渡す。
「どうしたの、このお肉?」
オーク肉とミノタウロス肉、そしてコカトリスの肉の三種詰め合わせで二キログラムほどある量に、驚きながら聞いてくる。
「紫村から貰ったんだ」
とりあえず、簡単に親への連絡がつかない紫村を出汁に使う。この嘘は長く引っ張るつもりは無い。今晩で決めるつもりなので今日一日位ならバレる事は無いだろう。
「……また紫村君? こんなにお世話になって、どうすればいいの?」
肉を受け取ったまま遠くを見るような目をしているが、慰めようにも自分の嘘のせいなのでかける言葉が無い。
「マル。道場に行くけどマルも一緒に行く?」
早目の昼飯を食べ終えた俺は着替えて準備をし終えるとマルに尋ねる。
『何? ドージョウって何?』
状況的に何処かに行くというのは分かったのだろう場所について聞いてくる。
『道場は俺と皆が勉強しに行ったあの家の事だよ』
『う~ん……行く!』
『だったら一回吠えて』
「ワン!」
「母さん、マルも行くって言ってるけど良い?」
「良いけど迷惑にならないの?」
「本道場の方に沢山の門下生や練習生が来るけど、誰か彼かが構ってくれてたんでマルは良い子にしてたよ」
「マルガリータちゃん。本当に大丈夫? 退屈して寂しくならない? お母さんと一緒に居ても良いのよ」
母さんが何を言っているのか、言葉は分からなくても大体想像がついている様で困った顔──ちょっと頭を後ろに引いて寄り目になる──をする。
「母さん。道場には小さい子供達も通ってるんだ」
マルは家族が大好きだが、知らない人間も好きなので色んな人に代わる代わる撫でられチヤホヤとされるのが好きだ。でも特に小さい子供が好きなので道場に通う小学生達に群がられたいのだ。
「あら、それじゃあ仕方が無いわね」
母さんもマルの習性は理解しているので名残惜しそうだが諦めた……というより、どうして母さんは俺が道場に行くという事をマルが理解したと判断したのか謎だ。
「いってらっしゃ。気をつけて、練習頑張ってね」
母さんに俺が小さく手を上げると、マルも「ワン!」と一吠え返した。
『今日もマルは待ってれば良いの?』
『先ずは、皆と一緒に走るよ』
『群れで走るの大好き!』
何度もジャンプを繰り返す大興奮。やはり群れで生活する動物だけに集団で走るのは本能的欲求のようだ。
「おはようございます。今日もお世話になります」
本道場を覗いて、中に居た北條先生の父親である東雲師範に挨拶をする。
「おはよう高城君。もうすぐ昼食だが良かったら食べていくかい? ……今日は父も居ないのでね」
「ありがとうございます。でも今日は学校が早く終わったのでみんな早目の昼を終えてから集まる事になっているので、申し訳ありませんが……」
「そうか、いや気にしないで欲しい。弥生に伝えておかなかった私が悪いのだから」
本当にこの人は、あの男の息子なのか疑わしいほど常識人で人当たりが良い。
「それでこれからの予定はどうなっているのかな?」
「全員が揃ったら、一時間ほどランニングに出ます。それから三年生は一年生達に基本の型を指導し、二年生達は組み手を中心に練習を行いますが、試験期間で身体が鈍っているようならば追加でランニングさせるなど流動的に対応しようと思っています」
「なるほど、基礎的体力の向上に随分と重きを置いているようだね」
「はい。『戦いは最後まで動き続けられた者が勝つ』が空手部顧問の教えです。傷つき動けなくなるのならばともかく体力が先に尽きるなどあってはならないことだと私も思います」
「それは至言だね。色々と噂には聞いていたが指導者として優れているのは確かだった様だね」
「人としてはとても間違った存在ですが、強く鍛え上げるということに関して残念ながら認めずにはいられない人です」
「私の身内にも似たような人がいるよ」
そう言って東雲師範は笑った……乾いた笑いだった。
「どう言う事だお前等!」
田村の怒声が下級生達に飛ぶ。
「香籐! お前はどう思う」
「はい。こいつ等は心身ともにぶっ弛んでると思います」
空手部一の人格者。常に場の空気を読み。先輩には素直で、後輩には親切で、同級生にはリーダーシップを発揮する。常に柔和な笑顔を忘れない香籐が抑揚の無い声で答える。
そして一年、二年生達に向ける視線は氷のように冷たい。
信頼する同級生達、そして目をかけてきた一年生達に裏切られたという失望と怒りが彼の全身から滲み出しているかのようだった。
ランニングが始まってさほど経たない内に一年生達が集団で遅れだし、二年生達は疲労の色は顔に出していなかったが明らかに足取りが重かった。
別にペースメーカーの櫛木田がレベルアップして体力向上したために、何時もよりペースが速まったなんて事は無い。
部活動が休止になりランニング祭り以降は、自主練ではランニングの時間を削り、基礎体力の維持向上は各自に任せていたのだが、こいつ等は少しずつサボっていたようだ。
そしてこの数日間は自主練すらなく勉強会だったため完全にサボっていたのだろう……良い度胸だ。
俺が大島じゃないと思って舐めた態度をとるならば、俺もまた【大島】であるということを証明してやろうではないか。
「香籐。このリードを渡すから、お前はマルと一緒にこのお馬鹿さん達に走る喜びを、もう一度魂に刻ん込んでやってくれないか?」
「分かりました!」
マルのリードを手にしてテンションが上がり踊りだしそうな勢いの香籐に対して、一、二年生達は顔色を無くす。
「ペースはこいつ等に合わせてやる必要は無い。マルが走りたいと思うペースで走れ。マルが満足して帰るまでな」
「脱落した者はどうしますか?」
「電話で知らせろ。俺達が回収して脱落した順番に思いっきり【可愛がってやる】二度と忘れない様に」
勿論、相撲部屋的意味でな。
「それは良いですね」
何が良いのか俺にもわからないが、そう肯定する香籐に笑顔で応える。一、二年生達の表情は死刑宣告を受けたかのように絶望に染まった。
『タカシ。マルどうすれば良いの?』
『マルが先頭を走るんだ。ただしリードを持った奴が止まってと言ったら言う事を聞いてあげて』
『マルが先頭? 良いの? 本当にマルが先頭で良いの?』
『良いよ。満足するか他の連中がついて来られなくなったら道場に戻って来るんだよ』
『分かった! マルがリーダー! マルがリーダー! わぉーん!』
「見えぞ! 私にも敵が見える!」
「誰が敵だ!」
互いにレベルアップの身体能力の向上分を抑えた状況で櫛木田と組手をやってみると、普段なら櫛木田にかわされた事の無いフェイントから入り、奴の意識の外から襲い掛かる攻撃が全てかわされてしまう。
「相手が見えるということが、これほど凄いとは思わなかった。これは身体能力の向上以上に意味があるな」
同じように紫村と組手をやっていた伴尾がレベルアップによる贈り物に驚きと喜びを示す。
「そうだろう。大島はこれに匹敵する……いや上回る目を持っていたということだ」
「大島が? だが奴は……」
普通の人間だと言いかけて田村は続く言葉を飲み込む。大島が普通の人間のはずが無いからだ。
「俺達とは違う、俺達の知らない方法で見ていたと考えて間違いない。だから俺達はそれを手に入れる必要がある。その一端でも掴まない限りは、今の俺達でも勝ち目があるか分からない」
下級生達が地獄のランニング祭り開催中に、俺達三年生達は大島復活に備えて大島対策に頭を悩ませていた。
大島を復活させる。この第一目標は全員嫌だけど実行すると決まった。だが復活させて今までと同様に大島の言いなりに成り下がるのはごめんだというのが香籐を含む俺達の総意だった。
大島を復活させ、同時に大島を抑え込む体制を確立する。この命題の答えは至極簡単で、ただ力のみ。大島を抑え込める力があれば良いのだ。
だが最大の問題は、大島の力は俺達のようなレベルアップによる身体能力の向上の延長線上には存在しない。勿論肉体的な強さもあるだろうが、どこかの時点で斜め上方へと逸れた先にあるという事だけは本能的に理解出来る。
「だが、どうやってそれを?」
「分からなければ、誰かから得るしかない。例えば……爺」
「アレは下手をしたら大島以上の狂犬だぞ」
「だから例えばだって、後は他には大島と同じ鬼剋流の連中ぐらいだろ」
「あの井上さんはどうだい? 彼なら少なくとも話は通じる相手だと思うよ」
鬼剋流の幹部のあの男か、確かに大島なんかに比べたら常識人だが──
「確かに話は通じるだろうが、ある程度計算の出来る人間で、元々俺達を懐柔して鬼剋流に引き込もうとしたくらいだから借りを作りたくないな」
せめて早乙女さんがいたのなら……惜しい人を亡くしてしまった……あれ?
「早乙女さんを先に復活させて、説得して大島への対抗手段を教えてもらうのはどうだ」
「どうだ? 早乙女さんは大島と比べるから凄く常識人に見えるだけで、あの人もかなりといえばかなりな人だぞ」
俺の閃きを田村が否定する……うん、確かに大島と比べると常識人のスタンスになるが、単体では十分に非常識な人だ。なにより大島と仲良く先輩後輩の関係を維持している段階で異常者と呼んで差し支えないだろう。危ない危ないつい判断を誤る所だった。
結局結論は出ないまま、香籐からの連絡を受けて俺達は脱落した一年生達の回収に向かう事になった。
道々で壁に寄りかかるようにして失神している一年生を回収していく。大島の方針ではぶっ倒れるまで走らせるが、奴と違って周囲への配慮の出来る俺は他の歩行者などに迷惑をかけるので立ったままで失神しろと命じた……命じておいてなんだけど律儀だなと思う。
「香籐。ご苦労だった」
何とか走りきった二年生達を引き連れてマルと香籐が戻ってくる。ちなみに一年生達はまだ死んでいる。
『マルも頑張ったよ!』
戻ってくるなり必死に甘えてくるマルを抱きしめてやると、もがいて抜け出すとお腹を見せての寝転がり、服従というより構ってのポーズを取る。
『どうしたマル。リーダーを張り切ってやってたんじゃないのか?』
『リーダーね、やってみたら少し不安で怖かったの。やっぱりタカシと一緒が良いの』
余りにも可愛いことを言ってくるれたので、この! この! この! とマルを思いっきり撫でまくってやった。
「まず森口、お前だ!」
香籐からランニング時の様子を聞いて、一番遅れていたという森口の名前を田村が呼ぶ……ちなみに一年生はまだ死んでいるので後回しとなった。
「構えろ!」
田村の怒声に、弾かれた様に森口は構えを取る。
「大島が戻ってきた時に、先生が居なかったのでサボってぶっ弛んでましたテヘっとか言うつもりか? お前はそんなに俺達三年生を大島に殺させたいのか!」
私憤だ。悲しいほど的を射た事実だが完全に私憤だ。しかし誰だって自分が可愛い。下級生が努力の末に力足りずというのなら幾らでもフォローはしよう。例え大島を相手にしても庇ってやろう。
だがこいつ等のサボりで自分達に被害が及ぶなんて理不尽を受け入れられるほど俺達は聖人君子じゃない。何事にも一線がある。
三手と交えぬ内に突きで腹を打ち抜くと、倒れた森口を振り返る事も無く田村は次なる裁かれし者の名前を呼んだ。
「あ~、ちょっと良いかな」
1。二年生達が地獄を彩るには似合いのオブジェと化した道場に東雲師範が現れた。
「どうぞ」
「彼等は大丈夫なのかな」
「全く問題はありません」
三年生達と香籐を除く全部員の失神を確認した後で【中傷癒】で治療して壁際に転がしてあるだけなので、放って置けば勝手に目を覚ます。
「これは何時もの事なのかな?」
「いいえ、顧問の大島先生が居ない事を良い事にサボっていたために気合を入れるという名目での粛清です」
「しゅ、粛清……穏やかではないね」
「残念ながら我々の空手部に穏やかという単語は存在しません。彼等が弛んだままだといずれ地獄から復活するだろう大島先生に我々が責任を問われて粛清されます。そしてその粛清はこの比では無い事は間違いありません」
「君達、本当に中学生の部活動なんだよね?」
「はい、間違いなく中学校の部活動ですが、中学校の部活動として適当であるとは思いません」
「ああ……そうなんだ」
東雲師範は明らかに途中で理解するのを止めた。
「ところで君達の練習を少し見学させてもらっても良いかな?」
「勿論です。幾らでもどうぞ」
隠す事など何も無い。むしろ怖れられても興味を持たれる事は無く、そして誰かに見せる機会も無い我々だから見られるのはオールOK、バッチコイだ!
「それでは失礼する……物凄い苦悶の表情を浮かべてるのだが本当に大丈夫なのだろうね? さすがに生き死にに関わるような事は困るよ」
それは田村が、出来る限り痛みを与えるように倒したせいだ。
奴は「痛くしなければ覚えない」などと嘯いていたが、後進を指導するべき立場としてもっと言葉の力を信じないでどうする。
もっと大島を見習え。奴なら「あぁ?」の一言で相手に全てを悟らせてみせる……言葉じゃねぇ!
『速度的には素の状態に抑えておけ』
組手を始める伴尾と香籐に指示を出す。俺達クラスなら速度が一割向上したらボクシングの軽量級世界ランカーにも全く引けは取らないだろう。それは体格的に考えれば異常な速さとなる。
組手をする二人の姿は美しいとさ言える。互いに余裕を持った速度で動いているために体幹が全くブレず、まるで剣舞のように優雅でさえある。
それでいて、この世の常識で考えるなら速い。ボクシングの試合のように激しく拳が飛び交いながら、互いにかわし、受け流し有効打を一切受けない。
本来の実力なら香籐の方が何発か貰い始めているはずだが、この程度の速度なら互いに技を確認し合うために行うスローモーションの様にゆっくりとした動きで行う組手のようなものだろう。
「速い。そしてなによりよどみない……」
普通の人間にはそう見えるはずだ。それが例え武術の達人であろうとも。
「これは約束組手という訳ではない……そうだろう?」
「はい」
予め相手と手順を打ち合わせた殺陣のような組手ではない事のを見て取れるのは流石だ。これほど激しい動きの中で二人の視線や呼吸を読んで判断したのだろうから、流石一流派のトップに立つだけあって彼も並みの人間ではない。
「そうだろう。これが約束組手のはずが無い……だが本当に彼等は、君達は中学生なのか疑問に思うようなってきたのだが」
その疑問はもっともだが、返す言葉が見つからない。
「大島という君達の師は何を考えて、中学生をここまで鍛え上げたのか理解出来ない」
大島の頭の中に俺達をどう鍛え上げたいというビジョンが有ったかどうかは俺にも分からない。ただ奴が鍛え上げるという過程を愉しんでいた事は事実だ。
勿論、鍛え上げる過程と言っても、盆栽作りを愉しむお爺さんの様な心で我々の成長する姿を愛しむのではなく、ドSな心で我々が苦しみもがく姿を堪能するのが目的なのは間違いない。
こんな事を誰かに言えば、師匠の心が分からない愚かな弟子と笑われるだろう。
多分俺も俺達以外の人間がそんなことを口にしたら笑うだろう。
「高城君……こんな事を言うのは申し訳ないとは思うが、一度私と立ち合っては貰えないだろうか?」
「立ち会うんですか?」
「ちなみに「あう」は「かい」ではなく「ごう」の方だから」
「立ち合う。私と師範とですか?」
「その通りです」
左脇におかれていた木刀を握る腰を上げ、鍛え上げられた足腰は揺らぐことなく真っ直ぐと力を背筋に通して身体を立ち上がらせた。
一瞬で纏う空気が変わった。全身に鳥肌が立ち身体中の毛という毛が立ち上がっていく。これほどの恐怖感を人から感じたのは……大島、早乙女さん、井上、爺。結構ある自分が怖い。
「私はこれを使わせてもらうが構わないかな?」
「剣術家に素手でやれとは言えないでしょう。その代わりにどんな手を使っても勝ちに行きますよ」
「望むところです」
木刀対素手の戦いなら、基本的に最初の一撃が勝負を決する。
攻撃範囲で劣る素手の方は相手の間合いに入り込む必要があるが、一方木刀を持つ方は自分の攻撃範囲内かつ相手の攻撃範囲外の位置で攻撃を仕掛け一撃で倒すのがセオリーとなる。
奥行きにして二十センチメートルほどの狭い範囲が勝敗の分け目で、そこで攻撃を当てれば木刀を持つ方の勝利、その攻撃を掻い潜って更に相手の懐へ踏み込む事が出来れば素手方の勝利となる。
もっとも攻撃は外れ、素手方も踏み込む事が出来ずに仕切り直しになる事があれば、踏み込んだ先で木刀を持つ方が素手でも強かったという可能性もある。
だからこそ、木刀を持ち技量も経験も勝る相手に対して身体能力の優位を使わない俺では、相手が待ちに徹すれば全く勝ち目は無い。俺が相手の攻撃範囲に入り込んだ瞬間に決定的一打が打ち込まれるだろう。
櫛木田の合図と共に始まった立ち合い。
だが、どちらもその場を動かない。
基本的に弱い方が相手の隙を伺うために積極的に動くのが常套だろうが、俺がどんなフェイントを入れたとしても、それに引っかかって空振りするような事はするほど温い相手ではない。
俺は自分が動くのではなく相手を動かす事でしか勝ちは拾えない。そんな戦いだ。
俺の考えを察した東雲師範はゆっくりと間合いを詰めてくる。それに対して俺は左右へと切り替えしつつ全体的には後ろへと下がり続ける。
何度か態と距離を詰めさせては離れるを繰り返し、相手の勝ちたいという欲の基本である打突欲を誘うが全く動じた様子は無い。
そんな甘い相手だとは最初から思ってないから良いけど、それっぽい反応の一つも返す可愛らしさがあっても良いだろう……という表情を浮かべておく。これもまた誘い。
俺の表情を読み取るために僅かでも意識が集中したと思うタイミングで床に仕掛けをばら撒く。
人工イクラ……昔は安い回転寿司でよく使われたらしい、アルギン酸ナトリウムと塩化カルシウムの水溶液で作られたゲル状の膜の中に着色し味付けされた水(塩化カルシウム水溶液)と食用油を封じ込めたイクラのフェイク。
食感や味はイクラと騙されない事もない程度には近いらしいが、一方で食べ過ぎると酷く胸焼けをするらしい……中の油分は動物性の脂ではなくサラダ油の類だから大量に食べればお察しの通りだ。
着色無しの塩化カルシウムの水溶液の中に一対一の割合で油を入れて徹底的に攪拌した状態でアルギン酸ナトリウム水溶液を入れた容器へ、一滴ずつ投入して作る。対大島用の奥の手として作られた仕掛けだが実戦投入は今回が初めてだ。
油などを使って大島の足元を滑らせて隙を作り襲い掛かるという計画は、俺達のずっと前の先輩達の時代から試行錯誤を繰り返されてきたようだが、そもそも油などで床や地面がテラッテラに光っていたら大島は避ける。スプレー潤滑剤のように油以上に滑るものを、目立たないように少量撒いておく方法は臭いがきつすぎてすぐにバレた。
ならば目立たないように何かの中に仕込んで大島に踏ませるという方向に開発は進んだが、ゲル状のビーズの中に匂い成分を染み込ませた芳香剤を乾燥させて油を染み込ませるなどというアイデアもあったが、残念ながらゲルが油を吸い込まないという致命的問題で頓挫していたが、ついに俺達の世代で開発に成功したのだが実戦投入前に大島は田村の【所持アイテム】内の住人となってしまっている。
ともかく対大島用の仕掛けを今ここで使わせてもらう。そのために「どんな手を使ってでも」と断りを入れさせてもらった。
左を前に半身に構えて【所持アイテム】内から人工イクラもどきを右手から道着のズボンの右足に沿って落として、そのまま右へと移動しながらスイッチして右を前の半身に構えて、相手の視野に人工イクラもどきが入らないようにする。これらの動作が不自然であからさまにならないように非常に気を使う作業だ。
そして人工イクラもどきゾーンの手前まで東雲師範を誘導したところで、強弱をつけていた下がる速度をほんの少しだけより遅くして自分の身体を木刀の攻撃範囲内に入れた。しかし打ち込んでは来なかった。
「足元を疎かにしない。これは基本だよ」
畜生バレてるんじゃんかよ! 東雲師範を試金石にしたのだが、この様では大島にも通用しないだろうな。
「斯くなる上は!」
手持ちの人工イクラもどきを全て東雲師範の周囲にばら撒く。
「これは!?」
「踏めますか? 何かも分からない怪しげな物体を素足で踏む事が出来ますか?」
俺なら嫌だ。命が懸かっているような状況でもなければ絶対に嫌だ。
「グッ……」
やはりそうだ。常識人で神経の細い所が見受けられる彼もまた、高々こんな立ち合い程度で訳の分からない謎の物体など踏みたくないのだ……流石は未来の義父上、親近感湧くわ。
「……多分は油の類で足も──」
「中にカプサイシンを濃縮した液体を入れて、踏めば一分以内に炎症を起こして火傷と同等のダメージを負わせる……という計画もあったよな」
そう紫村に話を振ると、俺の意を汲んで大きく頷いて応えてくれた。
ちなみに百円ショップで売ってる唐辛子の代わりにハバネロで作ったタバスコで試してみたが、脛などに掛かったならばすぐに炎症を起こすが、皮膚の分厚い足の裏は簡単には炎症を起こさなかった。
そこでカプサイシンの揮発性を利用して蒸留を行うことで濃縮する計画も進行中だ。
「……本当に君達は中学生なのか?」
「中学生がこうもならなければならない社会と大人が悪いんですよ」
「……私の中学生の頃は、真剣を抜いた父が『避けてみせろ、さもなくば死ぬぞ』と言って襲い掛かってくる程度だったのに」
東雲師範はがっくりと項垂れ構えていた木刀を下すと、そう呟いた。
「それ十分酷いから!」
俺達六人は同時に突っ込んだ。
その後はばら撒いた人口イクラもどきを回収して、俺達部員達と東雲師範での不幸自慢合戦になってしまい。
結果として理不尽な暴力に屈し続けてきた負け犬同士の奇妙な連帯感が生まれた。
帰りは寄り道して郊外まで足を伸ばして大型ホームセンターへと向かった。
ハイクラーケンの雷に対抗策として針金を使う事を考えたのだ。
勿論針金といってもただの針金ではない。材質こそ通常の鉄製で僅か0.7mmだが巻きの重量5kgで全長が1㎞を軽く越えるものを購入する。
勿論たかが針金であり先駆放電の一撃で蒸発するだろうが、鉄イオンを含む空気のトンネルが海面にいるハイクラーケンにまで届いていたとするなら、雷本体は間違いなくそこへと目掛けて流れ込む……多分。
駄目なら駄目で別の方法を考えるだけだ。
「う、美味いぞぉぉぉぉぉぉっ!」
炙ったミノタウロスの舌に塩にチョンとつけたのを口にした父さんが昭和な臭いのするオーバーなリアクションをした。
「母さん。これトンカツなのにトンカツじゃないよ!」
それはオークカツだよ兄貴。
「そうでしょう。このお肉、皆とても美味しいのよね」
満足しきった表情でコカトリスのささみ肉の入ったサラダを小鳥のように慎ましく食べる母さん。つまり味見という名のつまみ食いを名目にガチ食いしたという事に他ならない。
「この肉は何処のブランド肉なんだ?」
こんな当たり前の疑問が父さんの口から出たのは、食後、食卓から離れることも無く30分間まったりとした時を過ごした後のことだった。
「隆がお友達から貰ってきたのよね」
「友達って、これはかなり……いやそれでは済まない最高級の肉だろう。そんなに高価なものを貰ってきたのかお前?」
それ相応のお返しはどれくらいか掛かるのだろうか考えたのだろう青褪める父さん。
これで荒唐無稽な話をするための下準備である、家族が俺の話を真剣に聞く環境が整った。
「実を言うと貰ったんじゃないんだ」
「まさか、お前盗んだって言うのか?」
驚愕に顔を歪める兄貴。
「違うよ。貰った訳でも盗んだわけでもない。自分で狩ったんだんだよ」
「買った?」
「ああ、お金を出す方じゃなく、ハンティングの方の狩ったね」
同音異義語で天丼する俺ではなかった。
「ハンティングゥ~?」
「ちなみに牧場で飼育されている動物を勝手に狩ったわけではなく、あくまでも野生の生き物だから」
「野生? 鹿とかイノシシ……もしかして犬とか猫とか?」
「兄貴冷静になれ。しかやイノシシや犬猫が、こんなに美味しかったら、とっくに狩られまくって絶滅危惧種になって、保護されて飼育で増やされて肉が流通しているよ」
「そうだな……そうだろうけど、じゃあ何なんだこれは?」
「それを伝えるためには、幾つか理解して貰わなければならない前提条件があるから、見て貰いたいものがある」
いきなり異世界では誰も話しについてこれないからな。
「何だよ?」
家族全員をダイニングテーブルに着席させてから、【所持アイテム】内から、今日渡した肉とは別に袋詰めしておいた肉を10kgほど取り出してテーブルの上に積み上げた。
「これはどういう手品だ?」
たっぷり二十秒ほどの沈黙の後、父さんがそう切り出した。
「これが手品だと思うの?」
「手品で無ければ何だ。ネタもなくしてこんな事が出来る訳がな──」
父さんの発言の途中で、今度はテーブルの上の肉を収納して消してみせる。
「……待て英。冷静になるんだ……この状況を冷静に把握しろ。どんな時にも冷静に頭を働かせれば何とかなってきただろう。所詮は人間のする事だ、しかもその現象を直接目にしておいて解明出来ないはずが無い。解明出来ないとしたら、お前は息子の半分も頭の働かないボンクラだと証明することになる……頑張れ、頑張れ英。頼むから頑張ってよ……」
父さんは混乱の内に遠く心の旅へと出てしまった。
「隆。お前……」
「これが手品だと思うのかい?」
出したり消したりと連続で繰り返して見せる。
「……イリュージョンというより幻覚の類。催眠術か?」
「そんな面倒な事はしないよ」
「だったら──」
「つまり、目の前で起きていることが全て事実って事だよ兄貴」
そう言いながら【水球】を発動させて兄貴の目の前に浮かせて見せる。
「こ、これは……」
中に浮かぶ水の塊に触れ、それが実際に存在する水だと理解し、理解したけど納得出来ずに混乱し始めた兄貴。
そしてまだ帰ってこない父さん。そして最初から理解する事を放棄してオブザーバーという名の置物に徹する母さん。
頼む兄貴。兄貴が最後の砦なんだよ。
「……これは……これはSF?」
「残念ながらファンタジー」
「何だよぅ~、そこはSFにしておけよ。ついに人類の科学力はここまで来たのかとか言わせろよ」
ギリギリで土俵際で踏みとどまった兄貴は、以外に神経が太い所を見せ付けてくる……そう兄貴はメンタルが強い。フィジカルは驚くほど脆いけど。
「原理すら理解出来ない超科学とファンタジーに違いを見出せるのかよ? 結構ファンタジーって奴も、科学では解明出来ていない前提条件を加えただけで原理原則に従ったシステマティックなもんだぞ」
「それならばそれはファンタジーではなくSFの領分じゃないか、よし俺に教えろ!」
「まあ、教えるのは既定事項だから安心しろよ。だけどまだ説明しなければならない事がある」
まずは光属性レベルⅢの【覚醒】を使い。父さんと母さんを正気づける。こいつは闇属性の【昏倒】と対を成す魔術だが、二号なんかが相手の場合は殴って正気づければ良いので使い道が無かった。
かなり無理な事でも「そんな馬鹿な」では済まされる事の無い下地が出来たと判断し、これまでのことを説明した。
一月ほど前から寝ると異世界で目覚めて、魔物と戦うとレベルアップして強くなり、魔術や魔法を使えるようになりましたとさ……我ながら酷い話だ。
当然三人は頭を抱えたが、肯定せざるを得ない材料には事欠かないため、更に頭を悩ませながらも否定は出来ず、納得は出来ないものの飲み込むしか無かったのだろう。
「分かった……分かりたくないが分かった。だが隆はどうして今になってその話を父さん達にしようと思ったんだ?」
この世のあらゆる苦いものを飲み込んだような深みの有る悩ましげな表情で切り出してきた父に「マルが、お母さんやお父さんマサルともお話したい! っておねだりして来るんだから仕方がないでしょう」と答えた。
「ちょっと待って! マルガリータちゃんとお話が出来るの?」
父さんと兄貴が『何を言っているんだお前?』という視線を向けてくるのに対して、精神安定剤代わりに膝の上に乗せたマルの毛づくろいをしていた母さんが食いついた……一方、気持ち良くまどろんでいたマルはビクッと驚いて身を震わせる。
「俺は出来るよ。マルと使い魔の契約を結んでるからね」
「お母さんも結ぶわ!」
「残念だけど使い魔は何人も主は持てないよ」
そもそもパーティーメンバーの方のシステムメニューで使い魔と契約出来るのかどうかも確認してないし。
だが俺がそう答えると、母さんは「隆だけずるい!」と悔しがり、父さんと兄貴が目で俺を責める……母さんを不機嫌にさせると色々と被害を被るから。
「それで、マルと話が出来るようにするには、レベル六十一以上で憶えられる【伝心】という魔術を使えるようになれば良いんだ」
「お母さん、レベル六十一以上になるわ!」
「それは良いんだ。パワーレベリングすれば、一日でそれくらいは上がるから……でも問題が一つあるんだ」
「何、何なの?」
「マルがとっくに【伝心】を身につけているのに使いこなせない。使いこなそうとしないんだ」
「でもマルガリータちゃんはワンちゃんだし──」
「マルはレベルアップして、身体だけじゃなく頭も良くなってるから今ならその辺の中学生以上に理解力はあるよ」
少なくても前田以上には。
「……ま、マルガリータちゃん!」
突然、母さんは叫ぶとマルの背中とお腹を鷲掴みにして揺すりだした。
「キャン!」
驚いたマルはワタワタと足で宙を掻くと、身を捩って母さんの手から抜け出して俺の足元に逃げて来て「キュ~ン」と鼻を鳴らしながら『お母さん怒った! マル悪い子なの?』と聞いてくる。
俺はマルの頭を撫でながら『ほんの少しね』と敢えて否定をしない。
「母さん。マルが驚いて『マル悪い子なの?』って言ってるよ」
「!」
俺の言葉に、母さんはショックを受けたかのように顔が強張る。そしてマルの悲しそうな顔を見て目に涙を浮かべる。
「ごめんなさい。マルガリータちゃんは全然悪くなんて無いのよ!」
「……悪くないって事無いだろう」
床に膝を突いてマルを抱きしめる母の背中に向かって俺が小さく呟くと父さんと兄貴も頷いた。やはり母さんはマルに甘過ぎる。そういえば涼にも甘かった。
「お母さんも頑張って【伝心】って言うのを使えるようになるからね、マルガリータちゃんもお母さんが教えてあげるから一緒に頑張ろうね!」
母さんが【伝心】を憶えるまで頑張るのは俺なんだけどな~と思っていると、母さんがこちらをちらりと振り向いて顎をしゃくる……仕方が無いの、マルに伝える。
『本当? マルもお母さんとお話が出来るように頑張るからね!』
そのまま母さんに伝える……ああ面倒臭い。
ついでに雪猫の赤ちゃんを取り出して母さんに手渡す。
「はい、母さん」
「えっ? 何これぬいぐるみ?」
母さんがそう尋ねた瞬間、丁度良いタイミングで「ナァ~」と鳴いた。
「うそ! この子本物なの?」
自分の手の中で可愛く鳴く子猫の姿に母さんは感激中。
『あっ! ネコちゃんだ。ネコちゃん! ネコちゃん!』
マルは母さんの膝の上に両の前足を突いて、立ち上がって覗き込む。
「これは雪猫の赤ちゃんだよ」
「雪猫? そうね新雪みたいに真っ白でフワフワな子ね。可愛いわね、マルガリータちゃんもそう思うでしょ?」
「ワン!」
言葉は通じてないはずだが思いは通じたようで、タイミング良く吠えて返事をする。
こういう共感力が母さんがマルを溺愛する理由だろう。
「この子は、向こうの世界で昨日拾ったんだ。母猫も兄弟も他の魔物に襲われて生き残ったのはこの子だけだったんだよ」
「そうなの……今日から私がお母さんだよ。マルガリータちゃんがお姉ちゃんね」
「ワフッ!」
良し、これで子猫を飼う家で買う事が決定だ。母さんが認めた以上、既に父さんにも口を挟む権利は無い。これが我が家の掟である。
「この子にはまだ名前が無いんだ。母さんが付けて上げてくれる?」
「良いの母さんが付けても?」
「そうだぞ、史緒が付けると長くなるぞ」
「英さん。私の名前の付け方に何か不満でもあるのかしら?」
笑顔と優しい声。どうしてこの二つの組み合わせで、父さんはまるで背中に氷を入れられたかの様にビクッと震えたのだろうか。
「ちょっと長くて呼びづらいかなぁ~って」
それでも頑張る父さん。もっと頑張れ、ガツンと言ってやるんだ!
「私の名前の付け方に何か不満でもあるのかしら?」
空気がギシギシと軋む音を立てそうなくらいのプレッシャーが父さんへ一転集中で襲い掛かっているかのようだ。
そんな空気に耐えかねた兄貴が「ほら、隆に酷い事になるし母さんに任せればいいよ」とフォローを入れる。
ナイスな判断だが俺のネーミングセンスに関しては一度兄貴としっかり話し合う必要がある……肉体言語で。
ちなみにマルは『お母さんはどうしてマルの事をマルガリータちゃんと呼ぶの?』と言うくらい、自分の名前は『マル』だと認識しているので、父さんが正解だが、その程度の正論を武器に割って入るには空気が悪過ぎる。
「そうね、この子は──」
「スノーホワイトというのはありきたりだよね」
俺の中の危機回避能力がベストのタイミングで、それを言わせてくれた。
「そ、そうよね……」
ふぅ、間一髪だった。大体、世界的に見ても呼びやすい名称なんて四文字以内なんだ。だから外国では長ったらしい名前を付けても親しい者同士では短縮した愛称で呼び合う。
日本ではドラゴンクエストはドラクエで、丹羽五郎左衛門長秀はゴロウザだ。
それなのに母さんは横文字系の長い名前を付けて名前を省略しない。スノーホワイトとつけたら将来的に『どうしてスノーの事をお母さんはスノーホワイトちゃんって呼ぶの?』と聞いてくるだろう。そんなマルの二の舞を踏む訳にはいかない。
「母さん。日本的な名前はどうかな?」
兄貴が絶妙なタイミングで割って入ってきた。
「日本的な名前……それも良いかも」
「史緒はちゃん付けで呼ぶんだから、ちゃんがついて座りの良い名前が良いな」
父さんが良い提案をしたと思ったのだが「マルガリータちゃんが座りが良くないとでも言うの?」と再びプレッシャーをかけれれて尻尾を巻いて逃げ出した……
「この子のイメージは、雪と白よね」
それじゃあ、結局スノーホワイトだよ母さん。
「雪と白から連想されるイメージを使ってみれば?」
何とか方向性を変えようと誘導してみる。
「雪…氷、寒い、北、白くま、アイス、鹿児島──」
明らかに間違った方向へと流れている。
「母さん、次々に思い浮かぶ関連するワードを繋げていくんじゃなくて、あくまでも雪とか白から直接連想されるキーワードを使わないと訳が分からなくなるよ」
ちなみに俺のお勧めは単純明快に『雪』が良いと思ってる。語感も綺麗で呼びやすい。ちゃん付けしても『雪ちゃん』だ全く問題ない。
ずっと呼び、呼ばれる名前は変に捻る必要なんか無い。母さんが新雪に例えたように、雪猫の子を見て頭に思い浮かぶのは『雪』なのだから、これ以上相応しい名前は無いと思う。
その後三十分間以上にも及ぶ激闘の末に、雪猫の子の名前は『雪』に決定した。俺と父さん、そして兄貴は勝ったのである。
これでマルとユキのコンビが誕生である中々語呂も良いじゃないか。
「……という訳で、今晩は夢世界に備えて早く寝てください」
「俺はまだ行くとは言ってないからな」
往生際が悪いな。
「じゃあ別に良いよ。マルも兄貴とはそんなに話す事もなさそうだし」
「そ、そんなことは無いだろ!」
「あるだろ。滅多に散歩に連れて行かないし、余り遊んでもやらないから。マルからしたら一応家族くらいだろ」
「違う、ちゃんと遊んでる。勉強の合間の息抜きの半分はマルと遊んでる。お前となんかよりもずっとマルとコミュニケーションが取れてるぞ」
俺としても別に兄貴に含むところは無いが、思春期を迎えて兄弟と積極的にコミニュケーションを取るなって気持ち悪いことをする気は全く無い。
それでも十代半ばの男兄弟としては普通よりは幾分仲が良い方ではないのかとも思うけど。
ついでに兄貴もマルを可愛がっていないわけではない。単に勉強の息抜きの時間の絶対量が少なくてコミニュケーション不足に陥っているだけだ。
「兄貴が自分でそう思う分には自由だと思うよ。心の中でくらいは良いんじゃない?」
「何だその自分は全部分かってるって態度は? ……もしかして……まさか」
「涼よりはマシみたいだよ。マルから聞いた限りではね」
「……お、俺も行くぞ」
「いや、無理しなくて良いよ」
「無理なんかしてない!」
「それに俺も人数が増えて余計な手間は面倒だしね」
「…………」
「父さん、レベルアップすれば頭の回転も凄く良くなるよ」
「それは助かるな……最近はちょっと物忘れが多くなってきたからな、ところで体調も良くなるのか? 最近は朝起きても腰とかどこかしこか痛いんだ」
「大丈夫だと思うよ。もし身体を悪くしても自分で治せるようになるしね」
「それはありがたいな。楽しみだ」
「他にも魔法なんかも楽しいと思うよ。俺が作った空を飛ぶ魔法もあるから」
「空を飛べるのか? どんな感じだ?」
「じゃあ実際に見せるよ」
そう言って、その場で浮遊/飛行魔法を発動して宙に浮いてみせる。
「おおおおおっ! 凄いな。本当に父さんも飛べる様になるのか?」
「高所恐怖症の俺でも飛べる様になったんだから大丈夫だと思うよ」
「そうか……何かわくわくしてくるな」
「ちなみにまだ音速飛行は試してないけど時速八百キロメートルくらいは出せるから」
「それってプロベラ機の最高速度だろ」
「最初の頃は風の問題も有って、精々時速二百キロメートルとか色々限界があったけど、今は風防魔法というのを同時に展開して身体に当たる風を防ぐだけじゃなく、風の抵抗も極限まで小さくして安定して飛べるので旅客機で移動するより快適かもしれないよ」
「凄いな。本当に楽しみだ……ところで大が土下座してるんだけど、どうするんだ?」
「と言われて、単に変な格好で寝ているだけかもしれないし、そうだとするなら起こすのも可哀想だし」
「こんな格好で寝る奴が居るか!」
「へぇ~そうなんだ」
兄貴が怒ったところで主導権を握っているのは俺だった。
「外国語を覚えるのも結構楽だったよ。辞書を片手に字幕付きの映画を三本くらい観たら日常会話程度なら問題なく話せるようになると思う……ただし映画のジャンルは気をつけた方が良いよ」
態と父さんに話を振る。
「そうか、じゃあ明日は早目に仕事を切り上げてドイツ映画でも借りてくるか……それよりも英語をもっと上手く話せるようになった方が良いな」
父さんも兄貴を無視して話に乗ってくる。そう言えば近頃は北関東の秘境と呼ばれるS県といえども外国人の住民が増えてきて税務課でも英語くらいは話せる人間が常に一人はいないと困ることがあるとか言って、○ピード・○ーニングを通勤時に聞き流して英語の聞き取り能力を鍛えなおしているらしい……ちなみに聞き流すだけでは聞き取り能力以外は微妙らしい。
「ところでどうしてドイツ語? 英語以外ならフランス映画の方が面白いと思ったけど」
正直、日本でドイツ映画って選択肢が狭い。
「大学で選択した第二外国語がドイツ語だからまだ辞書を捨てずに持ってるからだ……全然ものにならなかったけどな」
肩を上下させて笑うほどかとも思ったが、笑っちゃうほどものにならなかったのだろう。例え旧帝国大学の有名じゃないところを卒業しても第二外国語が身につくことなんて無いって事だと考えると、その分の単位を英語に回せよと思わないでもない。
「隆……隆君……隆様……」
ついに兄貴は弟に対して下手に出る事を学習した。くだらない意地を張らなければ学習する事も無かったのに。
「ああ別に良いよ。どうせ兄貴がグダグダ言うのは想像ついてたし、それに元々兄貴が泣こうが叫ぼうが無理矢理にでも連れて行く予定だったから」
「それはそれで酷くないか?」
「勉強が生き甲斐な兄貴には、レベルアップして知能チートで人類のためになるような歴史的な発明とかして貰おうと思ってたから。例えば現在のエネルギー問題を全て解決するようなのをね」
実用核融合炉向けの技術や、体積・重量比で従来の10倍以上の容量を持ち、安価な素材で大量生産に向いた新型バッテリー技術の開発を期待している。
「そうか人類のためか、仕方が無いな……そんな訳あるか! 人類のためにならないような俺が一人でニヤニヤするようなしょうもない発明じゃ駄目なのか?」
駄目だこいつ……駄目だけど流石は俺の兄貴なだけはある。駄目すぎて素敵だ! 兄弟だけあって兄貴の想いが俺には痛いほどわかってしまうのが悲しい。
「そいつは素敵だけど、どうして兄貴にそんな素敵な思いをさせてやる必要があるんだ?」
「た、隆ぃ?」
俺のまさに外道な発言に兄貴の顔が絶望に歪む。
「……ノーベル賞とイグノーベル賞をW受賞する気で頑張れよ」
冗談じゃなしにそれくらい期待しても良いと思うのが知力チートだ。自分自身は人類のための研究に人生を捧げようとは思わないので、実の兄を捧げるので勘弁して貰いたい。
「世界一意味の無い発明の分野における世界的権威になりたいという夢は?」
「捨てちまえ、そんな夢!」
俺の想像以上だった。何て業の深い夢を持ってるんだこの男は。
その後、今までにも紫村と香籐、そして櫛木田、田村、伴尾へとしてきた説明だが、今回は奴等には話さなかったルーセの事を話した。
もしかしたら、俺以外の記憶は夢世界に行っても阻害されないと考えたからだ。
そして三人にはパーティーへの参加の手続きを経て、システムメニューを使えるようになって貰った。
悪戯に俺が兄貴の参加を拒否してやったら「何してんだよ!」と怒鳴りながら涙目で掴みかかってきたりもしたけど、問題なく全員パーティーメンバーとなった。
「これがマップ機能か……これは凄いな」
「本当ね、これなら無くし物が簡単に探せるわね」
抱き締められて安心して寝てしまったマルの背中を優しくなでながら、実に生活的な活用方法を思いついて喜んでいるが、母さんが良くやる自分で何処に物を置いたのか思い出せなくなるパターンは、今後のレベルアップによる知力チートで無縁になるのだが言わないでおいた。
一方俺としては、父さんと母さんがパーティーに参加した事で今まで以上にこの町のマップの表示率が向上し、更に東北や北海道を中止とした国内の表示率が向上した事がありがたかった。
「この【アイテム倉庫】も凄いな。一体どれくらい中に入れられるんだ?」
「限界まで入れたことは無いけど、家一軒程度で一杯になる事は無いよ」
「家一軒?」
俺の発言に、三人が驚いた表情で鸚鵡返しする。
「現段階でも最低で数軒分。多分というかきっと数十軒分は収納出来ると思うよ」
「それって……」
「自分の身体と不動産以外は、所有する物はすべて中に収納して持ち運べるって事だよ」
「……それは犯罪だってし放題ってことじゃないか?」
「そうだね、密輸だって簡単に出来るね。合法な物から非合法な麻薬や武器だって何処にでも持ち込めるよ……そして、そんな人間が世界には各国が把握しているだけでも数十人。把握されてないのは何人いるのか分からないけど確実に存在してるって事だよ。必ず世界各地で大規模なテロが発生すると思うよ。もしかするとこの日本でもね」
兄貴の言葉に、そう返した。
「隆、それに対して何か俺達に出来ることはないのか?」
「そうだね。一月ぐらい学校を休んで自由にする事を許してくれるならシステムメニューの能力保持者の移動を把握するための監視網を作って彼等の位置を把握出来るようにすることは出来るけど──」
勿論はったりである。逸れれを実現するためには、音速突破実験を成功させて浮遊/飛行魔法の能力を向上させ、最終的に音速の五十倍以上にまで高める必要がある。
システムメニュー保持者の移動をチェックする為には、最低限、緯度経度一度毎に沿って飛び、ワールドマップ上にアクティブ表示領域による世界中を覆い尽くす網目線を描き、二十四時間体制で【システムメニュー保持者】を検索し続けて、緯度経度線を通過したシステムメニュー保持者を一人一人特定する必要がある。
緯度経度一度毎の網目を描くためには音速の二十倍、約時速二万四千キロメートルの速度では描くだけでも、全く休みなく飛び続けても一か月半は掛かってしまう。
音速の四十倍でもシステムメニュー保持者の特定には時間が足りないだろう。
しかも描くのが細い線でも良いなら、ギリギリ高度一万メートルで飛んでも大丈夫だが、天候によっては周辺マップの範囲である三千メートル以下で飛ぶ必要がある……音速の五十倍で?
つまり最低でも年単位の時間が必要になる……想像しただけで気が遠くなる。
「──だけど、彼等が実際に事を起こそうとして止められるかといえば無理としか言いようがないし、責任も取れないし取る気も無い。俺は中学生に過ぎないし、父さんは自分の仕事の有る公務員だから」
我が身の全てを投げ打って世界の為に知らない誰かの為に尽くすなんて事は出来ないし、してはいけないだろう。
個人の力によって護られ、その犠牲の上にしか成り立たない世界など遠からず必ず滅びる。世界とは全ての人々が汗と血を流し、犠牲を払いながら支えるものだ! なんてそれっぽい事を適当に思いながら話題を流す。
世の中など、全ての人間が自分にとって本当に大事な人々を命懸けで守り、そこそこ大事な人々を適当に守っていれば、結局は多くの人間が互いに尊重しあえる社会が出来上がるというのが俺の持論だ。
勿論その枠から外れる人間もいるだろう。だが、それはそれこれはこれである。
全ての人間が救われないなら、それは間違いであるというならば具体的な対案を示してから抜かすが良い……聞く耳は持たんがな!
「大いなる力には、大いなる責任が伴う……スパイダーマンだったな。だが責任は権限とワンセット。権限無くして責任を負わされるならば、それはただの奴隷に過ぎない。だから映画の中のスパイダーマンは民衆の期待という名の鎖に縛られた奴隷のようにも見えた」
父さん……俺はスパイダーマンは良く知らないんだ。ほら蜘蛛男って響き自体が生理的に受け付けないんだよ。
「とりあえず、何かがあったとしても自分を守れる程度の力を父さん達には付けて貰いたいんだ」
「それなら涼はどうするんだ?」
「父さん……俺にはどうやって涼に切り出せば良いのか分からないよ」
「……あ、諦めるな隆。お前は涼のお兄ちゃんなんだぞ」
「涼の父親である父さんに任せるよ」
「涼は中学生の女の子という、一番男親が簡単には踏み入れ難い時期なんだぞ」
「……俺は今まで一度も涼の心に踏み入れたことが無いよ」
「右に同じ」
「大。お前まで?」
兄貴も父さんに押し付ける気満々で俺に乗っかってきたために、父さんはいよいよ退路を失い苦い表情で口元を歪めた。
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エスロッレコートインの朝はやっぱり今日も早かった。
窓の外から飛び込んでくる喧騒を無視して宿を出ると、市場で卵や野菜、果物にベーコンっぽい奴やソーセージ、ついでに屋台料理を調達すると、人通りの少ない場所で【迷彩】で姿を消して空を飛んで街の外へと出る。
十年単位の昔、山火事でも起きて出来たのだろう森の中の切り取られたような一角に降りる。
そして中央付近を【分解】──有機物を分解して畑の肥料にする事が出来る。という将来俺に農業への道を歩ませようというシステムメニューの陰謀──で草や若木を枯れさせ、分解して平らな地面を作り出すと【所持アイテム】内から三人と一匹を取り出して、空手部の連中や二号とは違って少し丁寧に地面に寝かせてゆく。
予め、森の中を移動する事もあるので動きやすく丈夫な格好で寝るようにと伝えておいたので、寝入った所を収納しに行った時は三人とも登山に行く時のような格好をしていたので問題は無いだろう。
『……おはようタカシ!』
真っ先に目覚めたのはマル。起きて3秒で全力運転、俺の周りを元気に駆け回る。
『あっ! お母さんだ! お父さんもいる! ……マサルもだ』
兄貴に関しては扱いが違う。特別扱いだが、全く羨ましくない。
『お母さん起こして良い?』
『顔に優しくスリスリとして上げなさい』
『分かったよ!』
マルが母さんへと近寄り身を低くして母さんの頬に自分の頭をすり付け始めるとすぐに伸びた両腕がマルの首を抱きしめた……だが母さんは目を覚ましてはいない。
『捕まっちゃったよ』
『暫く起きそうも無いから捕まっておきなさい』
『は~い!』
そう応えるマルの尻尾は嬉しそうに振れている。
だが、そうなると俺が暇だ。他の家族が気持良さそうに寝ている中、どうして俺が黙って見守っていなければならないのだろう。
そんな疑問を解消するために、兄貴を蹴り起こした。
「うわっ! 何だ!」
驚いて跳ね起きる兄貴の脇に腕を差し入れて引き起こして立たせる。
「何するんだよ?」
「とりあえず散歩かな」
『散歩!』
真っ先にマルが反応したが『マルは後でね』と告げると鼻を鳴らしながら、自分を抱きしめる母さんに擦り寄った。
「何で散歩?」
「決まっているだろ。兄貴が運痴で体力無しだから、レベルアップしても元の体力が無いと効果が少ないんだよ」
「そうかゼロに何をかけてもゼロみたいなものか……誰が身体能力無しの植物状態以下だ!」
勿論、そんな事は思っていても言ってない……思ってはいても言ってはいない。これって大事。
「それにしても散歩と言っても……どうするんだよ?」
周囲は草木に囲まれている。
「はいこれ」
愛用の剣を取り出すと差し出す。これなら兄貴が適当に振って草むらに隠れた石や岩を切りつけても刃毀れしないから。
「剣? これをどうしろと?」
「高村光太郎だよ」
「高村光太郎?」
「僕の前に道は無く……」
「僕の後に道は出来る……お前まさか?」
「剣で草木を薙ぎ払って道を作って歩き回れと言っている。他に誤解しようも無いだろうに察しが悪いな」
「……何時まで?」
「父さんと母さんが起きるまで……叫んだりして起こそうとしたらペナルティーを課すから」
逃げ道を丁寧に塞いでいく。
「待て、父さんや母さんだって──」
「父さんは若い頃はしっかり運動していて、今でも身体を動かす事に全く抵抗を感じてない。鈍っていても兄貴とは土台が違う。それに身体能力が上がったら喜んでランニングとかを日課とするだろうから心配ない」
「か、母さんは?」
「母さんは、俺がいない時はマルをつれて散歩に出て三キロ以上は一緒に歩いたり走ったりしてるし、マルと一緒に買い物に行った帰りに遠回りして帰ったり結構身体を動かしてるから」
「……まさか家で一番体力がないのは俺なのか?」
「まさかも何も『ふざけた事を抜かしてるんじゃないぞ、このもやし以下の種粒が』と罵らなかった事をネット掲示板に書き込んだら、世界中から俺の忍耐力に賞賛の声が届くレベルだよ」
「種粒……何でワールド・ワイドな賞賛が……」
そう呟いて地面に膝を突いた……いや、膝を突くのは『散歩』を終えてからにして貰いたい。
父さんや母さんが目を覚ましたので、とりあえず朝飯にした。
市場で買った食材と、屋台料理を出して母さんに渡して作って貰う事にした。
俺が用意したキャンプ用の折りたたみテーブルに向かって母さんが料理している間も、兄貴は意識を失いぶっ倒れたままで、マルが前足で顔を突いてもピクリとも動かない。
父さんは朝飯の前に軽く運動しておくかと言って、俺から剣を受け取ると兄貴同様に剣で下生えの草木を薙ぎ払いながらの散歩を始める。
剣道の素養があったのかは分からないが、兄貴と違って剣の重さに振り回されること無く、鋭く振りぬいて草木を切り倒しながら悪くないペースで歩いていく。
『お父さん! お父さん! 何それマルもやりたい!』
料理中には絶対に近寄ってこないように母さんから躾けられているマルは父さんに構って貰いたくて追いかけていった。
お陰で一人何もする事が無い俺はユキを可愛がり続けているのだった。
さすがに、ここ最近のように『道具屋 グラストの店』へ家族でお邪魔して飯を食う気にはならない。遠慮というよりもエロフ姉妹の様な怪しい連中と知り合いだなんて家族には言えない。特に母さんには絶対に言えない。
「この卵の濃厚さは何だ?」
母さんが持ち込んだガスコンロで作った目玉焼きの味に良いリアクションをする父さん。
だが、あれがでっかいトカゲの卵だとは言えない……ついでに、昨夜の肉がオークとミノタウロスという人型モンスターとコカトリスという毒持ちモンスターの肉だなんて俺の口からは言えない。
いつの間にか両親に言えないことばかり、こんなにも増やしてしまった……とりあえず、今日中に一気にレベルを上げて、二度とこちらの世界に来なくて良いレベルにしてしまうのが正解だな。
「今日は忙しいから、早速狩りに行くよ」
食後、幸せそうな表情でまったりとしている三人に声を掛ける。
「忙しいって何を狩るんだ?」
「レベル六十って、兄貴以外の人間なら戦場で無双出来るくらいの強さだから、そのレベルをたった一日で超えようとするんだ……さて何を倒すべきだと思う?」
「失礼な! ……そうだな、スライム?」
「異世界舐めるなよ」
スライムと言っても本格的なファンタジーの登場するスライムではなく、某国民的RPGシリーズに出てくるスライムのイメージで言っているのだろう。
大体、本格的な方のスライムは決して雑魚じゃないので、兄貴は二重にファンタジーな異世界を舐めている。
「じゃあ何だよ!」
「皆ご存知、龍、ドラゴン」
「異世界舐めてるのはお前だろう! 何処の世界にレベル一でドラゴン戦に挑む馬鹿がいるんだよ!」
「安心しろ。ただのパワーレベリングだから。戦うのは俺、兄貴黙ってみてるだけでレベルが上がる簡単な仕事だ」
「それなら安し──」
「だけど時々、流れブレスとか飛んで来て死ぬかもしれないから気をつけてな」
「どう気をつければ助かるんだ?」
「諦めろ、気づいたら死んでるから」
「おま、気をつけろと言ったのは何なんだ!」
「死んでもロードして時間を巻き戻すから生き返れるが、記憶は巻き戻らないから死の記憶にビビッてお漏らししないように気をつけろと」
「そんなの気をつけていても余裕で漏らすわ!」
「えっ?」
「えっ? って何? 素で不思議そうにされると怖いんだけど」
「他の皆は今までに二桁は死んでるけど誰もちびった奴は居ないから」
「お前のところの部員達と一緒にするな。俺は普通の人間だからな」
いやだな僕らは何処にでもいる普通の中学生だよ……さすがにちょっと無理があるかな。
さすがに今の三人に龍のいる場所まで移動しろと言っても無理なので、【昏倒】で眠らせて収納すると地図に記されている風龍の狩場へと移動する。
そして俺が小ぶりな風龍を一体狩って見せて彼等のレベルを十八にまで上げた。
「分かる。自分の身体や頭の中が変わった事がはっきりと理解出来る」
「分かるの?」
「分かるさ!」
「だけど今まで、誰もそこまで確信していった奴はいないよ」
「俺も、確かに変わったような気はするけど……」
「若い連中には分からない。日々身体も頭も衰えていくのが分かる父さんの年齢になると上向くなんて事は無い。常にどんどん壊れていく自分と向き合って生きているんだ。今のこの感覚が分からないはずが無い……」
上を向いて感動を噛み締めている父さん。その目には薄っすらと涙が光っているようにも見えた。
「そうだよね史緒? ……史緒さん?」
そう同意を求めるが、マルと一緒にユキを愛でていた母さんはそっと視線を外し「私にはまだ分からないかな?」と自分はまだ若いから一緒にしないで欲しいと言わんばかりの態度をとった。
父さんも俺も、兄貴だって思う事はあったが誰も口にしなかった。父さんや兄貴が空気を読める男で良かった。それは父さんも兄貴も同じように思っているだろう。こうして男達(弱者同盟)の連帯感は無駄に強まっていくのだ。
「レベルアップ凄いな!」
試しに全力で走ってみた兄貴が目を輝かせて叫ぶ。
だけど『貧弱な坊やと女の子に笑われていた僕も、レベルアップのおかげで逞しい男と呼ばれるようになった』という訳ではない。レベルアップでどんな身体能力が増しても、兄貴の見た目は貧弱な坊やから一ミリたりとも変化は無い。
だが今は、今だけはぬか喜びでも喜んでいて貰いたい。
「凄い! 凄いぞ俺!」
長さ五メートル以上はある倒木を両腕で頭の上に持ち上げてくるくると回ってる……思いもしなかった新しい自分との遭遇に脳内麻薬物質がドップドップと分泌されて溢れ鼻から流れ出しそうな勢いだ。
「今なら必死に筋肉を鍛えようとしていた連中の気持が分かる」
分からなくて良いからあんたは勉強していろ……そんな俺の思いは虚しく、兄貴は自分がボディービルダーにでもなったつもりなのかポージングを始めた。
ああ、そんなダブルバイセプスを決めても、その棒っきれの様な細い腕じゃ上腕二等筋は力瘤と呼べるほど盛り上がらないよ。見せられてもこっちが悲しくなるから止めて。
サイドチェストはむしろ紙の様に薄い胸板を目立たせるだけだよ、もう恥ずかしいから止めようよ。
次々と「ふん! ふん!」と気合を込めながらポージングを続ける兄貴からそっと目を逸らせると「キレてる!」「デカイ!」と棒読みの心の篭らない声援を送るのであった。
「見て見て隆。マルガリータちゃんこんなに可愛いわよ!」
軽々と左腕一本でマルを抱き上げて、添えただけの右手はその首元をくすぐり続けながら母さんがドヤ顔でこちらを振り返る。
『マルね、小さい頃もお母さんにこんな風にして貰ったの憶えてるよ』
マルも嬉しそうで良かったねとしか言いようがない……あれ?
「どうしたの?」
首を傾げる母さん……その顔が、いつもより、いや先ほどよりも若い感じがする。
待て冷静になれこんな時こそ、完全記憶の出番だろう。まず先ほどまでの顔を思い出して、そのイメージを今の顔と比較する……皺が、皺が少ないだと? それに豊齢線も目立たなくなっているのに頬の肉が全体的に2cmくらい上に持ち上がり──ともかくはっきりと若返っている。
父さんはそれほど変わってないのに……つうか男は顔より生え際の変化の方が大きいよな、父さんも昔の写真との違いは主に生え際の位置だし。
もし生え際の毛根が復活しても実際に毛が生え揃うのは数ヵ月後だから、多少若返ってもさほど変化を感じ無かったということか。
「母さん、若返ってるよ」
「えっ! 本当に?」
素早くマルを地面に下すと、取り出したスマホで自分の顔を確認しながら「まあ! まあ! 私ったらどうしましょう?」と言ってニヤニヤしている。
『お母さんどうしたの?』
『ちょっと嬉しい事があったみたいだね』
『お母さん嬉しいとマルも嬉しいよ!』
……良い子過ぎて涙が出てきそうだ。この健気さ純真さを忘れずにずっと持っていて貰いたい……そうだ。母さんが若返ったならレベルアップによってマルの寿命が延びる可能性も高いという事だ。
マルが三十年も四十年もずっと元気に行き続ける未来。それは何て素晴らしいんだろう。
…………ちょっと待て! 何をほっこりしているんだ俺は。マルが四十歳まで生きたとすると人間に換算すると俺達は200歳くらいは楽勝で生きる事になるぞ。
これって大問題だろ。どうするんだ?
空手部の連中や父さん達は、周囲から怪しまれるようになったら最悪でも夢世界の方に生活の場をシフトすれば、色々問題はあっても普通に暮らす事が出来る。
だけど俺は……拙いだろ。
絶対に拙いよ。変装をしてひっそりと生きる? いや現代社会では周囲の協力も無しに無戸籍の人間が密かに日本で生きていくなんてのは一年間とか短い期間に限るなら可能かもしれないが、何十年、下手をすれば百年以上もの間を隠れて生きるなんて絶対に無理だ。
こうなったら将来医学部に進んで薬品の研究分野に携わり、人間の寿命を大幅に伸ばす不老薬の類を開発する必要がある。
正直、そんな物を開発出来るとは思わないが他の人間の寿命を大幅に伸ばさない限り、俺の将来に安定した生活は存在しない。無理を通して道理を引っ込めてでも完成させないと北條先生との幸せな家庭は作れないんだ!
……不老薬と北條先生との結婚。一体どちらが無理なのだろう?
父さんに倒した風龍の収納を頼む。
「こんな物が本当に?」
尻尾から頭の先まで二十メートルはある巨体を前にして圧倒されている……龍としてはかなり小さな個体なんだけどね。
「イメージの問題だけど、自分の何処かに仕舞い込むというのを想像したら多分無理だから。あくまでもシステムメニューが提供する巨大な貸し倉庫へと放り込むイメージだよ」
自分の何処かにこんな巨大な物を入れるなんてイメージを出来るとするならば、そいつは頭のどこかがいかれている筈だ。
「そ、そうか……ジャンボジェット機の格納庫……ジャンボジェット機の格納庫…………よし入った!」
今時ジャンボかよと思ったのはジェネレーションギャップではなく、単に先月くらいにニュースでジャンボジェット機が全ての航空会社の路線で退役したと聞いたからに過ぎない。
「本当に入ったのか……」
「英さん凄いわね」
兄貴と母さんの温度差が激しすぎる。これがどれほど凄い事なのかを母さんがきちんと認識していないだけなのだが……母さんは暢気で良し。
「父さん……人間辞めちゃったのかな?」
一周して三人の【所持アイテム】内に龍が一体ずつ収納されて、レベルが三十九になったとこで父さんが血の気の退いた顔色でそう尋ねてきた。
「人間を辞める時の辞表は壜に詰めて海に流すのが決まりだよ」
「……そうか、まだ書いてもいないから大丈夫だな」
俺の小粋なジョークを真剣な顔でスルーしてくれましたよ。
「父さん。魔法で空を自由自在に飛んでみたいんでしょう?」
「それは……飛んでみたいさ。人間誰もが一度は見る夢だから」
「そんな夢を叶えたら、もう人間じゃないに決まってるでしょう」
「人類の夢を叶えたら……人間じゃなくなる?」
「夢には叶う夢と、叶わない夢があって、叶わない方の夢を叶えたら、それは人間の枠を超えるって事だよ父さん」
「……やっちまったのか? 俺」
「とっくに、やっちまってるよ。母さんを見てみなよ。どう見ても20代くらいに若返ってるよ。父さんの生え際だって数ヵ月後には四センチは前進してるはずだよ」
「四センチ?……いや、父さんの生え際はそんなに後退していな──父さんは自分の生え際を信じているから」
自分の最もデリケートな場所を触りながら、祈る様に声を出す。
「いい加減現実を見つめなよ」
「大、お前まで?」
「三日もすれば、額に青々とした髭の剃り残し状態の帯が四……五センチの幅で出来るから、前髪を垂らすとして隠さないと大騒ぎになるよ」
「隆! 繊細な数字を勝手に増やすな!……そうか、確かに隠さないと拙いな。この歳になってイメチェンでちょっと若作りしてみたとか言い訳をしないと駄目なのか?」
「嫌なら、頭に包帯でも巻いて役所に行くの?」
「それは……」
「じゃあ、毎日剃れば良いだけだよ」
俺が思っていても口にしなかった事を兄貴はあっさりと口にした。
「大! お前は父さんの抜け始めてから気付いた、なが~い友達を、いや親友を毎日この手で殺せというのか?」
激怒する父さんに兄貴は「知らんがな」と応える。俺も知らんがな。
二周目が終わり、三人の【所持アイテム】内には仲良く二匹の龍が収納されている。
今回も二十メートル程度の小さめの個体が揃ったのでだったので三人ともレベルはまだ五十四。
だが、そろそろ【伝心】が使えるレベルが近づいてきた。
「拙い。拙いよ父さん。母さんが若返りすぎてるよ」
服装さえもっと若い世代のものを着れば、パッと見で二十代前半と言われても納得する肌の張りと肌理の細かさだ。涼と並べたら歳の離れた姉妹と間違われても仕方の無い。
「史緒さんが若くて美人で何が拙い! お前等も喜びなさい」
「英さんも、結婚する前の頃のように若くて素敵よ」
「素敵とか言ってる場合かっ!」
ここは俺と兄貴が声を揃えて否定する。
「え~何で?」
「俺となんぼも歳が違わないような実の母親がいて堪るか!」
「いいから母さんは、老けメイクで誤魔化してね……そこから少しずつ周囲には分からない様に少しずつメイクを戻していくように」
「嫌よ折角、若返ったのに。それに老けメイクって何? 聞いた事無いわよ」
「ネットで調べれば多分すぐにみつかる。やっちゃいけないメイクのことだよ」
「ええ~~」
若返ったせいで、そんな拗ねた様な態度が似合うのが性質が悪い。
「可愛いな史緒さんは」
「父さんは黙っててくれないか?」
「すっかりポンコツだよ、この人たち」
俺達の抗議を他所に、二人でいちゃつき始めやがった。
三周目が終了。今回は30m弱の個体が居た事でついに目標のレベル六十一を超えて六十六にまで上昇し、【伝心】を使えるように難ったのでパワーレベリングを終了した。
『本当に電話も使わないで話が出来るのね』
ここまで、腕力が一気に強くなるとか、若返るとか色々なイベントを経て来て、未だに信じてなかった母さんが凄い。
『これでマルガリータちゃんとお話が出来るようになるのね』
『マルが【伝心】を使いこなせるようになったらね』
『どうしたら良いのかしら?』
『先ずは、システムメニューに書かれている字を読んで理解出来るようになってもらう必要があるから』
嘘なんだけどね。
システムメニューの機能の発動は、別にシステムメニューから選択する必要は合い。
一度マルに上から何番目とか説明しながら【伝心】を発動させてどういうものかを理解させてから、後は【伝心】を使いたいと念じるように言えば使えるようになるだろう。
だけど、そのやり方を憶えてしまうと、マルが文字や言葉を理解しようとする機会を完全に失ってしまう。
はっきり言ってマルは勤勉な性格ではない。大型犬らしい大らかでのんびりとした性格であり、特に興味が無い事には目もくれないで、そんなことに時間を取られるなら昼寝を愉しむタイプだ。
だからこそ、母さんと話をしたいと言う強い動機がある今だからこそ、それを利用して文字や言葉を憶えるための動機として役立てたい。
多分、先に【伝心】を使えるようにしてから言葉や文字を教えた方が学習効果はずっと高いだろうが、絶対に難航して高い確率で失敗する。
ここは母さんの力を借りて、マルに言葉と文字を身につけさせるというのが俺の結論だ。
「そういえばユキちゃんはどうするの? お母さんはユキちゃんともお話がしたいわ」
言うと思ったが、それは承知しかねる。
「ユキはまだ小さいからレベルアップして力が強くなると色々と大変な事が起こると思うよ」
俺の言葉に、パワーアップしてしまった雪が、無邪気な子供の暴れっぷりを発揮した状況を想像したのだろう、顔色を青褪めさせると「そうね半年か、もう少し落ち着いてからの方が良いわね」と答えた。
日が傾くまで父さん達とマルに魔術と魔法の使い方。後はお約束の足場岩を利用した空中移動をレクチャーする。
足場岩と浮遊/飛行魔法の組み合わせは速度と機動性を両立させる最高の技であり、俺の知る限りにおいて最高の空中での移動能力を持つ魔物であるグリフォンにさえも上回る事が出来る……もっとも浮遊/飛行魔法の速度が向上して音速を超えるようになったら、流石にレベルアップで向上した脚力を持ってしてもベクトルを大きく変えるのは難しくなるだろうが、それでもどんな戦闘機よりも鋭い機動が可能なのは間違いない。
また兄貴は魔法の原理を理解すると随分と興味を持ったようで「面白い事が出来そうだ」というと、地面に寝そべるとノートを開いてカリカリと何かを書き始める。
時折、愉悦の笑みを零すのが怖い。父さんや母さんも自分の息子の様子にドン引きだ。勉強が楽しいというだけあって、やはりどこかが壊れている人間だったようだ……何も異世界の岩山の上で本性をさらけ出す事は無いだろうと思った。
夕方前にはエスロッレコートインに戻る。
先日買っておいたマントを羽織った母さんが、市場をまわって食材を買い込んでいく……さすがにジーンズに、フードつきのゴアテックス製のジャンバーは異世界においてありえない。
朝市と比べると、夕市は近隣の農家からしか売りに来ないので野菜や果物の品数は少なくなるが、それでも港で揚がった海の幸は朝市に劣らない品数が揃い、母さんは満足気に見知らぬ魚を売り手に尋ねながら色々と買い込んでいく……金を払ったのは俺だけど。
『隆、金は大丈夫なのか?』
母さんには聞かせたくないのだろう【伝心】で父さんが話しかけてきた。
『大丈夫だよ。龍が売れれば大金が入るから……最近は俺のせいで供給過多で値崩れが起きないように買取を拒まれてるけど、今まで稼いだ蓄えで十分な大金持ちだよ。現実では使えない金だけど』
『……現実で使える金が欲しいのか?』
父さんの言葉に俺の感情が強く反応した。
『欲しいよ。欲しいにきまってるよ。いきなり俺を含めて千以上ものシステムメニューを持った人間が現れて、更に化け物しかいない別の地球に飛ばされて……明らかにおかしな事が起きている。前に話した大規模なテロ事件が多発するなんて事じゃあすまない何か大きな事が起こるという予感だけはずっとしているんだ。だから安心するためだけにでも、例え取り越し苦労となっても準備は欠かしたくないんだ。せめて家族全員が避難出来るシェルターを用意出来るだけの資金が欲しいよ』
実を言うと既に家の地下では内緒でシェルターの建設が始まっている。
【大坑】を使って家の庭に直径直径一メートル、深さ二メートル
竪穴を作って、その真下に【巨坑】で直径三メートル、深さ六メートルの竪穴を作り、更にもう二段【巨坑】で竪穴を作る。
そして深さ二十メートルの地底で今度は水平方向へ放射線状に【巨坑】で穴を作っていくと直径十四メートルの円盤状の空間が完成する。今度は空間の周辺マップで慎重に場所を確認しながら中心部に【巨坑】で竪穴を作り、その周囲にも【巨坑】を使い竪穴を横方向へと広げていく。
大切なのは【巨坑】の穴を作る時に穴の位置にある土砂や岩は円柱状の横の壁方向へと押し出すために、壁の部分は圧縮されて強度を増すという性質を利用して、可能な限り中心から外側へと土砂や岩を排除していくように【巨坑】で穴を作る事。
そうする事で、壁の強度が高まりシェルター全体の強度も上がる。
天井や床部分も同様にして上や下へと押し広げながら強度を高めていく。
そこまでしなくても、わが町は標高が二百メートル以上の高さにあり、土地は肥沃とは正反対で十メートルも掘らずに硬い岩盤にぶち当たるので強度的にはそれほど不安は無いが念には念を入れてだ。
そして出来上がったのは直径十四メートル、高さも十四メートルの広い空間だ。この内側に三か四層の居住空間を作り上げる予定だが、その先は資金不足で資材を調達出来ず一切手をつけていない。
その気になれば、このシェルターは地下深く幾らでも広げる事は可能だ。地熱で温度が上昇するといっても大雑把に言って深さ一キロメートル毎に四十度の温度上昇なので、百メートル程度くらいまでの深さにしておけば快適に過ごせるだろうが、そこまで作りこむ予定は今の所は無い。
内部の居住空間を作りこむことさえ出来たら、水は【水球】シリーズで調達が可能だから飲料水を含む生活用水の確保の心配はないし、それを魔法で酸素と水素に分離すれば、閉鎖的環境を作り上げても酸素の心配は無くなる。
食料は保存食を中心に【所持アイテム】内に確保しておけば問題はないし、夢世界で調達する事も出来る。
他にもまだ幾つも問題点はあるが、一番問題なのは電力だ。
魔法でも発電をすることは可能だが必要な電力を常に維持するのは現実的ではなく、電気自動車に搭載される大容量のリチウムイオン電池に魔法で充電するとしても数時間電力を供給し続けるのも面倒だ。
一番良いのは、水を水素と酸素に分離した後それをタンクに保存して水素燃料電池で発電するのが良いのだが、何年か前だが価格はン千万円だったはずだ。数年で値段が下がったとしても、数百万円はするだろう。
だが単純に金だけの問題ではない。タンクは補充時のことを考えると二系統が必要になるのだが、通常の家庭用水素燃料電池システムには水素タンクも酸素タンクも存在しない。
都市ガスなどの燃料ガスを改質し一酸化炭素と水素を取り出し、水素と空気中から取り込んだ酸素を化合させて電気を発生させるので、そもそも保存用の大型タンクは必要が無い。
一方閉鎖された空間である地下では、燃料電池に必要な量の水素と酸素をタンクから直接送り込むよう改良する必要がある。
だがメーカーがそんな改良をしてくれるとは思えないし、してくれるとしてもその理由を、上手く誤魔化す方法が分からない。
ちなみに酸素タンクが必要なのは、閉鎖空間で燃料電池が空気中の酸素を取り込めば死人が出かねないという理由だ。
『そうか、普通なら笑い飛ばすところだが、俺は今異世界にいるんだったな……何が起きたって不思議じゃないか……この世界の金(カネ)とは金貨とかあるのか?』
夢世界の物価は食品など、特に調理、加工されていない食材は安いので市場の買い物では銀貨で十分なので金貨は出していない。
『本当なら金貨ばかりで銀貨や銅貨は端数だけにしたいところだけど、この世界は両替にはお金が掛かるから、どれも沢山持ってるよ』
そう言いながら金貨を一枚取り出して渡す。
『なるほど……純度はどうなんだ?』
『金貨は他の金属を混ぜることはしてないみたいだけど純度は九十から九十五パーセントと結構ブレがあるよ。渡したのはこの国の金貨だけど、大体周辺国では同じ重さの金貨を使っていて一対一で交換されるから、他の国の金貨も持っているし』
土属性魔術の【鑑定】を使えば手のひらに載る程度の物体の、成分とその比率を調べる事が出来る……相変わらず派手な攻撃に使えそうなのは無い。
せめて各成分ごとに分離する事が出来れば凄い事が出来そうなのだが。
『さすがにこれはアンティークコインとして売るのも無理だな』
そりゃあそうだ。何せ文字が人類の歴史上のどの文字とも違う上に、超古代、例えばムー大陸の遺物だなどと強弁するには鋳造技術が、素人目にも中世から近世の金貨なイメージで、有史以前の時代と言うほどに低くも無ければ、オーパーツと呼ぶほどに高くも無い。
『……金がないって辛いね』
『……お前は知らないだろうが金を稼ぐってのも辛いぞ』
見事な切り返しだよ。
『そうだな……金を稼ぐなら、一つ思い当たる方法があるぞ』
『何?』
『言っておくが、限りなく犯罪だからな』
『という事は、警察にも捕まえようが無い完全犯罪の方だね』
『息子が察しが良すぎる! こんな事ばかり……』
『照れるな~』
『…………』
そんな呆れた顔してないで突っ込んでくれないと恥ずかしいんだけど。
『要するに株のインサイダー取引だ。お前は現実とこちらの二つの世界を通して、一日に一度だけセーブを行う。そして一日の株価の変動の大きかった銘柄をチェックして、何が買いか売りかを決めてからロード。確実に儲かるぞ』
『限りなくじゃ無く完全に犯罪だよ!』
公務員の癖に何を言っているんだ?
『……そうか、隆がちゃんとしたモラルを持っていてくれて父さんは嬉しいぞ』
『ちっとも嬉しそうじゃないよね? むしろがっかりしてるよね!』
『ぜ、全然がっかりなんかしてないぞ!』
……いや、すっげえしてるからさ。
『ちなみに俺は反対していないからね。どうせ捕まるのは父さんだし』
『息子が鬼だ……』
それは父さんの教育と遺伝子に問題があったんだよ。
『合法的に金を稼ぐなら俺に任せて貰おう』
突然兄貴が割って入ってくる。俺はきちんと父さんのみに相手を絞って【伝心】を使っていたが、父さんは【伝心】を使いこなせておらず、母さんを対象から除外しただけで兄貴には筒抜け状態で話していたようだ……年寄りって奴は新しいものを使いこなせないな。
『聞いていたのか?』
あんたが聞かせてたんだよ。
『父さんの話だけだよ』
『うん、まあ……隆も取り合えず話を聞こうじゃないか』
兄貴の金を稼ぐ方法とは特許をとるということだ。
魔法を使いこなせるという事は、魔力と魔粒子の反応を通してリアルタイムで原子の位置やそのベクトルまで認識する事が出来る。
勿論、知能チートがあってこそ認識出来るのであって、普通ならば膨大な情報の波に飲まれて頭が追いつかないだろう。
『研究開発とはつまるところ"Trial and Error"の繰り返しだ。魔法は試行の部分をどんな高価な実験装置よりも短時間で行え、錯誤の部分から得られるデータも精密にして正確。つまり俺はどんな研究者よりも百倍は早く研究を推し進める事が出来る! 素晴らしい。素晴らしいぞ! 隆。俺はお前を弟に持って良かったと思ったのは今日が初めてだ』
なるほど「今日ほど俺を弟に持って良かったと思った日はない」じゃないわけだ。
やはり兄貴は一度、締め上げておく必要がある。
「それで、その研究開発とやらの成果は何時頃出来上がるんだい?」
「そうだな……一年ほどあれば」
「遅いわ馬鹿野郎!」
次の瞬間、思いっきり殴った事を反省する日は、俺が生きている間に訪れる事は無いだろう。
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