第93話

 朝起きて、真っ先にマルを取り出す。


『う~ん朝? ……朝! おはようタカシ!』

 夢世界の方でじっくり寝たので朝から元気一杯だ。

『おはようマル』

『おはよう! お母さんにも挨拶してくる! ……』

 そう言った後、何か忘れ物を探すように部屋の中をきょろきょろと見回す。


『タカシ大変! ネコちゃんいない!』

 うろたえた様子でぐるぐる回りながら訴えてくる。

『まだ外に出してないからな』

『出して。ネコちゃん外に出して!』

『駄目。テスト期間が終わるまで、あの子の事は家族には内緒にしておくし、出すのはあちらの世界でだけ』

 俺自身がどうかとかは関係なく、テスト期間中に突然野良猫の赤ちゃんを連れてきて「飼いたい」と言い出した息子に両親がどれほど心を傷めるかと思えば、そんなことは出来ないだろうと思う程度の常識はある。


『えぇぇぇ!』

『叫んでも無駄』

『お母さんにもネコちゃん見せてあげたかった。そうしたらお母さん喜ぶ。きっと凄い喜ぶ。お母さんの喜ぶ顔が見たいの。タカシは見たくないの?』

 マルめ、高度(笑)なレトリックを弄するようになったじゃないか、これもレベルアップによる知能チートの効果なのだろう。


『マルがお母さんとも話したいって言い出しただろ。それをするために皆と話し合うからその時に、あの子のお披露目もいっしょにするから待ちなさい』

『う~待つってどれくらい?』

『今週中。三日か四日くらいだな』

『そんなに?』

 顔には絶望の二文字が刻まれている……犬なのに。


『どうせあっちに行ったら会えるんだから、こっちでは母さんに甘えてなさい』

『お母さん! そうだお母さんにおはようしてこないと』

 レバー式のノブをガチャガチャと引っ張ってドアを開けると、廊下の床をカチャカチャと爪で鳴らしながらリビングへと走って行く。

『兄貴が起きちゃうから静かに』

『は~い!』

 返事だけは良いんだが、一階からはリビングのドアノブがガチャガチャと鳴る音がする……返事すらしてくれない誰かに比べたらずっとましだなと許す気持ちになってしまう自分が悲しい。



 中間試験の初日は英・国・理の三教科だが、俺は空手部の三年生達と香籐に対して『手加減せずに全教科満点を叩き出せ』と檄を飛ばしている。


 昨日の件で、俺はこの学校の教師達の首根っこを押さえることに決めた。

 お前達の授業なんて受けなくても満点を取れるんだぞと言う挑発。そうなれば奴等は自分達の面子を守るために満点を取った俺達六人へカンニング疑惑を被せてくるだろう。


 だが当然の事ながら、証拠は無いのだから俺達に濡れ衣を着せる事になる……英語ではカンニングをチートと呼ぶんだよなぁ、レベルアップによる知能向上は間違いなくチートだからな。


 ついでに浮気もチート。正規の方法以外で目的を達成する『ズル』は全てチート。つまりこの世の悪の殆どはチートなんだ……

 と、ともかくだ、例え俺達がチートだとしても証拠も無しに生徒に罪を着せるのチート行為だ。どちらもチートなら証明出来ないチートよりも証明出来るチート行為から責められるのは当然……当然なんだ!


 教師達がどんな方法で来るかは分からないが、手ぐすね引いて楽しみに待とうじゃないか。

「高城。キモ笑いしてないで英語の山を教えろよぉ~教えろよぉ~!」

 ……前田ぇ~。


「無駄にでかいフォントで書かれた僅か教科書十数ページの範囲が山だ馬鹿野郎! 誰がキモ笑いだ馬鹿野郎!」

「ば、馬鹿野郎二連荘!?」

「ノートを開け、板書した構文例などは必ず出ると思ってこの場で頭に叩き込め。それだけでお前なら点数が十五点は違ってくる。七十点を八十五点にするのは難しいが、四十五点を六十点にするのは要領を抑えれば短時間でも可能だ。要は普通に授業を受けていれば誰でも六十点前後は取れる様に問題は作られてるんだからな」

「さ、三十点が五十点……」

 お、お前中学三年生だぞ、受験を控えてるんだぞ? 分かってるのか?


「……ま、まあ何だ……それはそれとして早くノートを確認して頭に叩き込め」

「……ノート持って来てない」

「舐めてるのかこの野郎。死ね! 今すぐ死ね!」

 怒りに任せてアイアンクローをかます。俺は前田の頭が破裂しないように手加減をする自信が無い。


「お前のノートを貸せ、早く貸さないと手遅れになるぞ!」

 前田は力では振り払えないとみると、「ぺっぺっ!」と唾を吐きかけてアイアンクローから逃れると図々しくも要求してくる。だがな……


「馬鹿め、俺はノートどころか教科書すら持ってきてない」

 カバンの中には筆記用具しか入ってないわ!

「舐めてるのはお前だろう! この馬鹿、バ~カ!」

「試験範囲の内容など、既に俺の頭の中に全て叩き込んである。今更、直前になってドタバタするなど滑稽以外何者でもないわ!」

 俺はクラス全員を敵に回した。


「一体なんだ、その根拠の無い自信は? まさか頭の病気か! ……や、止めろ頭がミシミシとぅ!」

 再びアイアンクローを先ほどよりも強く極める。

「俺達空手部の部員は、朝晩のシゴキによって家で予習復習出来る時間は限られている。どう都合つけても一時間取れれば御の字。そんな環境ですら好成績を維持する事を要求されてきた。だが大島がいなくなった今。俺達の学習時間は大幅に増えたのだ。それがどういう事か理解出来るか?」


「……それは良い点数が取れる様になるんじゃないのか?」

「甘いな、満点を取る。全教科満点を俺達空手部三年生五人は達成するんだよ!」

「寝言は寝て言え」

「賭けるか?」

「金か?」

 そんなもので済ますか。


「俺が全教科満点を取ったらお前は俺達の練習に一週間参加する」

「そんなの死ぬわ!」

「寝言なんだろ? さっさと俺が全教科満点を取れなかった時の条件を言えよ」

「どんなに確率が低くても自分の命を賭けてまで欲しいものなんて無い!」

 正論だ。この小心でリスクを犯さない所が俺と前田の気が合う部分なのだろう。


 前田の教科書を手に、テスト範囲の英文を口頭で訳して話の流れを憶えさせる。

 平均点六十点のテストで前田が三十点台しか取れないのには理由がある。

 余程の馬鹿以外なら、学校でも家でも学習するという態度をとってこなかった故だと判断せざるを得ない。


 その手の人間には、先ずはどんな内容について出題されるかを理解させるしかない。

「良いか、長文問題が出たら今の内容と照らし合わせて解け。それから長文問題はもう一つ、教科書からの抜粋ではない短めの出題者オリジナルが出題されるが過去数年間は三つの問題をローテーションで使い回しなので、この三つの文章の内容を今から言うから憶えておけ──」

 ローテーションのパターンから予測される、今回のテストで使用される長文問題を特定しなかっただけでも、手抜き教師どもは俺に感謝して貰いたい。



「隆。テストの出来はどうだったの?」

 帰宅早々に予想通りの質問をされる。ウンザリすると思う奴もいるだろうが、むしろ親がまだ自分に関心を持ってくれていると思うべきだろう。


「ばっちりだよ。満点を取れないと思う要素が無い」

 自分で言っておきながら何ていう不安な言葉だろう……これ英語のテストの後に前田が言ったまんまの台詞だから。

「隆がそういうなら安心ね」

 冗談交じりで受け取った母さんが笑顔で応じてくれた……しかし、この時はまだ、冗談では済まない事を史緒は知るよしも無かったのです。


『タカシお帰り!』

 興奮したマルが俺の開いた左右の脚の間を8の字の形にグルグルと回りながら話しかけてくる。

「ただいまマル」

 声に出して返事をすると一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに意味が理解出来たようで嬉しそうに「ワン!」と応えた。

『今日はねお母さんと一緒にお昼寝したよ。日差しがぽかぽかして気持ち良かったよ』

『そうか……』

 今の時点で12時を少し越えたところなのに、もう昼寝を終えたとは? そんな疑問を抱きながらマルの頭を撫でてやりながらリビングに向かい、マルにズボンを毛だらけにされながら昼飯を食べた……抜け毛、埃取りにはぱ○ぱ○ローラーマジ最強だわ。



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 エスロッレコートインの朝は早い。

 町の東側が海に面しているために日の出が早い──地球と同じ自転方向という事になるのだが余り気にしていない。気にしたら負けだ──だけではなく、貿易港かつ漁港でもあるので、夜明け前から人々が動いていた事を感じさせる賑やかな声が閉じられた窓の外から聞こえてくる。

 ベッドを降りて窓を開け放つと、窓の向こうには既に太陽は昇ってしまっていて、少し高台の宿の2階から眺める俺の視線よりも僅かだが上に居る。

 太陽の日差しを浴び体内時計はリセットして眠気も吹き飛ばすと、着替えと僅かな保存食を詰めたカモフラージュ用の背嚢──【収納アイテム】内に全て入れて持ち運べるとはいえ、荷物一つ持たずに旅をしていますと強弁するほど神経は太くない──を肩に引っ掛けると部屋を出た。


『タカシ。これ楽しい!』

 マルと一緒に森の中を木の幹を蹴りつけながら跳躍し移動する。

 階段の上りは平気でも下りは苦手な犬が多いの事でも分かるが、犬は高い場所は好きだが、不安定な高い場所は余り好きではないという人間に似た性質を持つ。


 高い所なら足場とか気にせずにぐいぐい登っていく猫や山羊などとは違う。

 なので最初はマルは尻尾を巻いていたのだが、俺が目の前で何度もやってみせるとすぐに真似をして習得した。

 散歩がてらに一時間ほど森の中を追いかけっこして適当にマルを疲れさせてストレスを解消させる。


『そこでだ。マル』

『何?』

『今のやったことの上級編をやるからちゃんと見てて』

 そう言ってから、その場で大きく真上へと跳躍し、途中で足元に足場岩を出してそれを踏み台にして、周囲の木々よりも高く跳躍した。

『凄い! 凄いよタカシ!』

 着地した俺にマルが駆け寄ってきて、周りを駆け巡ってはしゃぐ。


『これはマルにも出来るよ』

『本当? マルもやりたいよ!』

『じゃあこれを受け取って』

 俺は【所持アイテム】内から足場用の岩を三個ほどをシステムメニュー経由でマルの【所持アイテム】と送る。

『これ何? マルどうすれば良いの?』

『受け取るって強く思って』

『うん、分かった。マルやってみるよ』

 無事に受け渡しが終了したのを確認する。


『よし偉いぞマル。次はね、今受け取ったものを取り出すんだ』

『タカシが何を言ってるのか良く分からない』

 そうか物を取り出すって感覚が無いのか……犬だものな。


『だったらよく見てて』

 そう言って、マルから少しはなれると右腕を横へと伸ばして手のひらを地面に垂直に立てた状態で、手のひらの先へと足場岩を取り出す。

『これさっきもタカシ空中で出して、蹴って跳んでた奴だ!』

『そうだよ。これを空中で出したり仕舞ったりする事で空を自由に移動出来るんだ』

『どうやって出すの? どうやって仕舞うの?』

 取り敢えずは収納だが、取り出すという感覚が無いのだから仕舞うという感覚も無いだろう。屋内飼いのマルは地面に穴を掘って隠す修正も無いし、きちんと躾けられているのでお気に入りの物をどこかに隠す癖も無い。ついでに言えば自分の玩具を自主的に片付けるほど賢くも無かったからな。


『そうだな……例えばだけど、この袋の中には干し肉が入っている』

 カモフラージュ用の背嚢をマルの前に置く。

『思い出した! マルお腹すいてた! マルご飯食べたいよ。タカシご飯まだ?』

 ……食欲が先立ってきたか。確かに朝飯はまだだし、レベルアップで強化された身体能力を使って遊んだのだからお腹は空いているはずだ……だけど少しだけ待って欲しい。


『じゃあ、この中から干し肉を探し出──』

 俺が言い終わるのを待たずにマルは背嚢の中に頭を突っ込むと干し肉が入った巾着状の小袋を取り出した。

『食べて良い? 食べて良い?』

『先ずはそれをこっちに寄越して』

『くぅ~ん……』

 悲しそうな目をして差し出した俺の手の上に小袋を落す。


『今、マルがこれを袋の中から探し出して口にくわえて袋から出したのが、取り出すって事だよ』

『……』

 マルはお座りの姿勢で無言で首を縦に大きく振る。もう待ちきれないといった様子だ。

 小袋の口を開いて中に手を突っ込んで干し肉を取り出す。これもオークの肉なのだが味付けも無くカラカラに干してあるだけなので正直、人間の舌にはいまいち合わない。

 だがマルは干し肉が見えた瞬間、腰を上げる。


『待て!』

「キュ~ン」

『今の俺がやったことも取り出すって事だよ』

『……』

 マルの視線は俺が手にした干し肉だけに注がれている……駄目だ。もう何も聞こえていない。

 溜息一つと共に干し肉を半分に千切ってマルの前に置く。


『マルよし!』

 言い終わるか否かのタイミングでマルは干し肉に齧りつくと牙をむき出しにして硬い肉を噛み砕いていく……うん、野生の獣って感じだ。

 ついでにカリカリと水を与えてマルが食事を終えるのを待つ。


『マル満足!』

『満足じゃないよ。マルは何をしたかったんだい?』

 だがマルのお腹に入る分で十分に満足したという事は、やはりオーク肉等のこちらの食べ物は、かなり高カロリーなのだろう。


『……! 忘れてた』

 分かっている。マルはどんなに頭が良くなったとしても人間ではなく犬だと。

 人間より野生に近い生き物として目の前の欲望に対して率直な態度をとるのは当然なのだ。

 だからここで叱ったり怒ったりは駄目なのだ、何が悪いのかマルには理解が出来ないのだから。

 勿論これは人間も同じだ理解出来ない理由で叱られて納得出来る者など居ない。


『マルは俺がしたみたいに空を自由に跳び回りたいんだよね?』

『そうだ! マルはタカシみたいに自由に跳び回りたいの』

『だったら勉強しようね……真剣に!』

『アレ~?』


 マルに【所持アイテム】への出し入れ、特に狙ったものを引き当てて取り出す事を教えるのには一時間ほど掛かった。

 それは頭に思い浮かべた物を『取り出す』と強い意志で願う事方法で、リストからアイテムを選んで取り出すという方法は無理だったが、足場として取り出すのにいちいちリストから選択するなんて方法は、俺のように開くと時間停止が働くオリジナルのシステムメニューを持つものにしか出来ないだろから仕方が無いが、やはり言葉や文字は覚えてもらわないと困る。

 だがマルは基本マイペースの暢気者の上に犬だから学習に対する集中力は前田にも劣るので長く時間が掛かりそうだ。


『何か馬鹿にされたような気がする』

『誰だ? 可愛いマルを馬鹿にしたのは?』

 こんな時だけ空気が読めるマルであった。

 ……ちなみにまだ足場岩の出し入れに難があって、自由に空中を駆けるというのは出来ていない。


 その後、グラストの店に行って朝飯を食ってマルと子猫を預けて、俺は単身クラーケンの生息地付近へと偵察に出ることにした。


「気をつけてくださいリュー様。もしもクラーケンの全長が二百十二メートル級に達していたら即座に逃げてください。それは既にクラーケンではなくハイクラーケンと呼ばれる上位種に進化していてクラーケンとは完全に別の生き物です」


 ハイクラーケンの名前以上に引っかかったのは二百十二メートルだ。そう言えば以前にも「大体二十一メートル」という中途半端な数字を聞いたことがあったな。その時はメートル法とは別の長さの基準があるので、そちらのキリの良い数字をメートルに換算すると二十一とキリの悪い数字になるだけだと納得した……納得したはずなんだが、何時何処で、どんな状況でなのかが思い出せない。つまり例のアレだ。


「……ハイクラーケンとクラーケンの具体的な違いは?」

 正直なところ、機能確認したクラーケンは全体像が見えていないので正確な大きさは分からない。だが百メートルやそこらでなかったのは確かだ。

「ハイクラーケンは、水古龍、レヴィアタン等と並ぶ海の支配種なのです。リュー様といえども戦うべき相手ではないと──」

「心配してくれてありがたいが、相手の実力も分からずに尻尾を巻くというのは性分じゃないんだ」


 勿論、相手との実力差に気付けば尻尾を巻くのはやぶさかではないが、そのためにも一当てして判断する材料を得る必要がある……俺が「具体的」と言ったのに返って来た答えからして、ミーアが知っているハイクラーケンに関する情報は伝え聞いたお話レベルと察したので仕方が無い。


「お役に立てず申し訳ありません」

「龍を超える大物の更なる上位種なんて本当の伝説クラスの存在だろう。簡単に情報が手に入るほどありふれていたら既に世界は滅んでるはずだ」

「ありふれてると言うほどではないですが、そこまで珍しいという訳でも……それに」

「それに?」

「支配種の上に超越種のク・リトル──」

「言わせねぇよ!」

 とんでもない名前を挙げるな、そもそも口にすることを憚れ。聞いただけでSAN値直葬だよ。

 大体、何故もっとメジャーな方の名前が出てこないんだ俺の翻訳機能は?

 とにかく今はっきりと分かった。この夢世界は想像以上に物騒だ。魔王・宇宙人・改造人間・魔人・破壊神の順でインフレしていく某作品の世界観のようで、オラ全くわくわくしてこねぇぞ!


 海岸線沿いに北上しながらクラーケンの海域を目指す。

 マップ上に大きな河、多分ポトセッド河とおぼしき地形が見えてくる。

 その河口一体の栄養分の高い海域にクラーケンが居るはず……嫌な予感がするのでセーブを実行しておく。


 全力で加速しつつ高度を上げ海上へと出ると、クラーケンの反応を待つために適当な間隔で足場岩を海へと投下しながら沖へと向かう。

 海岸線から三キロメートル程沖。十四個目の岩を投下した直後に俺の直下に特大の水しぶきが上がる。

「ハイクラーケンかよ」

 海面から飛び出して見えている胴体部分だけでも百メートルは超えている。

 多分胴体部分だけでも百五十メートルはあるだろう。ならば長い二本の触椀の長さを考えれば全長は三百メートルを超える文句なしのハイクラーケンだ。


 俺がそう確信した瞬間、マップ内のハイクラーケンを示すシンボルが変化する。

 マップ機能の拡張により実装された超大型の敵はシンボルが通常の共通のマル印から、対象自体のシルエットが表示されるのだ。


 通常はゴブリンだろうがワイバーンだろうが同じ大きさのシンボルが使用されるのに対して、巨大なモンスターにのみ使用される対象のシルエットが使われる特別なシンボルはマップのグリッドから胴体だけで百五十メートルは越えているだろう。脚を入れたら触椀まで入れたら三百メートルを下回る事は無い。


 心の中で三割の怯え。三割の興奮。そして四割の大鍋の中で様々な感情が無秩序に混ざり合いグラグラと煮立てられている様な、何とも例えようの無い感情。

 それらが渦巻いていて胸が苦しいくらいだ。


 海面下から二本の黒く長い触手が矢のように飛び出して襲い掛かってくる。その狙いはかなり正確で、上空二百メートル以上を飛ぶ俺が二秒前に居た空間を正確に捉えていた。


「何で俺の位置を掴んでやがる?」

 とりあえず分かっている事は百五十メートルを越える胴体部分に二百メートル以上伸びる触手で三百五十メートルになり、普通の状態よりも伸びていると考えても三百メートル級であろう。つまりハイクラーケンとして小型とは呼べないのは確かなんだ。


 最低限ハイクラーケンの奥の手の一つは引き出す。これが俺の今日のノルマだ。

 その為には、身体を張って奴を挑発してやらなければならない。胴体の一部を海面上に出したハイクラーケンへと足場岩を直撃させる。

 痛み、苛立ち、そして怒り。そんな感情を表現するかのようにハイクラーケンの体表は複雑なパターンで激しく色や模様を変えている。

 俺は船に乗ると必ず船尾デッキに行って、回転するスクリューが水面に作り出す、ランダムでありながら大きな枠組みの中で秩序だった波の模様を作り出し続ける様子を、時を忘れて見続ける習性があるが、何故かハイクラーケンの作り出すそれは不快に感じた。


 そのまま触手の届く限界の高さギリギリを飛びながら二度三度と岩を叩きつけていると、懲りもせずに再び触手を伸ばして──いや、今までとは比較にならないほど速く、そして触手の届く限界を越えて襲い掛かってきた。

 触手ではなく触腕による攻撃。つまりこいつは単に巨大なタコというだけではなくイカの性質も持つという事だ。

「まさに奥の手って奴か」

 触腕の動きは浮遊/飛行魔法の機動性で避けられる速さではなく、咄嗟に足場岩を出して蹴って軌道を変える事でやり過ごしながら高度を上げて逃げるが、千メートルを越えてなお、平らになった先端にある吸盤の円の内側に沿って幾つもの鋭い鉤爪見せながら触手は追って来る。


 だがお陰で触腕は長さに取られて随分と細くなり先端部の付け根の部分で五メートル以上は有った直径が先端付近では一メートル程度になっている。


 斬れるか? そんな疑問が頭に浮かぶ。違う! 斬れるかではなく斬るのだ! ……そんな剣豪小説の主人公じみた事は考えない。

 俺の頭の中にはどうやったら確実、かつ簡単に切断してやれるかという考えしかない。

 斬れるかどうかなら間違いなく斬れない。直径一メートルはあろうかという柔軟にして強靭で噛めばコリコリとした食感を味あわせてくれるだろう美味しそうな筋肉の塊を、丈夫だが切れ味の方はいまいちな俺の剣で一振りで切断するのは不可能。


 ならば得意の装備した瞬間に相手に突き刺さってるという方法もあるが出現した空間に有ったものが周囲に押しやられるだけなので柔軟性の高いハイクラーケンの身体には穴が開いたという効果しか残らないだろう。

 あれ? そもそも切断したとしてもすぐに新しく生えてきて何のダメージも無いって気がしないでも無いな。


 ……いや良いんだ。挑発して奥の手を引き出すのが目的なんだ、ダメージ自体は大した事が無くても怒らせさえする事が出来れば良い。岩を落として当てた程度でもここまでしつこく攻撃して来るんだから、十本の足の中でも最も重要な触腕にダメージを与えれば、次の段階の攻撃が始まる──


「しまった!」

 次の段階の攻撃はもう既に始まっていた。晴れ渡っていたはずの空の俺の頭上に気付けば暗く重い雲が出来上がっていた。

 雲の中に雷光が走り、低い轟が空気を通して俺の臓腑を震わせ、ツンと鼻を突くオゾン臭が周囲を包む。



『ロード処理が終了しました』


 そうロード! 圧倒的ロード! どんな攻撃も時間を撒き戻してしまえば怖くない……ほ、本当。全然怖くなかったから。

 とにかくだ、ハイクラーケンの奥の手の気候操作と雷を引き出すことは出来た。気候操作はまだ奥がありそうだが落雷は準備さえ出来れば差ほど怖くは無い。むしろ自分の身体で自分の雷を味合わせてやる……効くかどうかは知らんけどな。


 問題は雷だけで済めば良いのだが、それで済まないのが化け物達だ。どんな奥の手や隠し球を持っているか分からない。慎重に情報を集める必要があるが久しぶりの格上相手の命の懸かった戦いに俺も疲れ、もう一戦挑むという気力も無かった……既に龍を格下と決め付けている自分に驚く。

 普通に戦うなら十分格上なんだけど、レベルアップによる身体能力や魔力の向上以前に、そもそもシステムメニューがチート過ぎる。


 まだ昼にはかなり時間を残しているので、ポトセッド河を上流へと移動しながら先日同様、コカトリス・ミノタウロス・ワイバーンを狩っていく。

 そこに緊張感は無い。切り立った岩場で【大坑】を使いマルに上げた足場岩を補充するのと変わらない作業だった……またホラ吹かしました。そこまで余裕はかませない。



『タカシ! タカシ!』

「ナァ~!」

 俺の大事な癒し系、いやもはや癒し係とも言うべきマルと子猫が出迎えてくれる。

 仕事を終えて家に帰ると子供達が笑顔で迎えてくれる。父さんがほとんど味わった事が無いだろう至福を俺は十四歳にして噛み締めているのだ……いや俺が憶えて無いだけで、まだ幼気盛りだった俺は「お父さんの帰りなさい」と可愛く玄関まで迎えに行っていたはずだ。

 きっと多分。憶えてないから分からないけど……まあ良い。悔やんだところでどのみち手遅れだ。今更俺がやったらなら家に帰ってこなくなるだろう。

 しゃがんでマルの首に腕を回して顎の下から首をくすぐってやりながら、もう一方の手で子猫を救い上げて頬ずりする。

 この二種類の感触が俺の心を深く癒していく。例えるならば野菜や海草をメインにしたグルタミン酸を多く含むスープと、肉や魚介から取ったイノシン酸の旨みスープを融合させる事で異なる旨味が脳内の受容体を二段構えで刺激してゆくダブルスープ状態だ。


「おかえりなさいませ」

「おかえりなさい。ご主人様」

 俺の癒し成分補給終了を待って声を掛けてくるとは中々の配慮じゃないか……この配慮がもう少し方向を変えて範囲を広げれば、俺からエロフと蔑まれることも無いだろうに。


「ああ、この子達の面倒を見てもらってありがとう」

「いえ、この子達に関しては何の面倒もありません。むしろ……」

 ほっこりした顔で視姦……いや、ギリギリ目で愛でているという事にしよう。


「そうだ。こんな商品を作ってみたんだけど」

 そう言って胸の無い方のエロフが銀細工のアクセサリーらしきものを差し出してきた。

 手にとって見てみるとマルと子猫をモチーフにしたブローチだった……おい、細かい所まで良く作りこんであるな!

 着色こそされてないが、日本のプライズフィギュアにも引けを取らない完成度だ。


「買う! 幾らだ?」

 そう言いながら、俺は近い内に二匹の3Dデータを撮影し、いつか金を工面して3Dプリンターを購入してマルと子猫のフィギュアを幾つも作るんだと心に決めた。


「勿論、リュー様には進呈させていただきます。その代わりと言ってはなんなのですが、これを当店で商いたいと思うのですが許可を頂けないでしょうか?」

「構わない」

 即答だ。マルや子猫を可愛いと思う心は、独占欲もあるが決して独占欲だけではない。むしろ自慢したくてしたくて堪らないくらいだ。


「では、この子達の姿を使わせていただく御礼として売り上げの──」

「いや、それは必要ないのだが……そもそもこの店に客が来るのか?」

 はっきり言って流行っているようには見えない。何故なら自分以外にこの店に客が居るのを見たことが無い。


「幾らなんでも失礼ですわ! 当店は伝統ある老舗の人気店です」

「そんな事を言われても俺以外に客が居たためしがないだろ?」

「それは当店がお客様のプライバシーを守るために完全入れ替え制を取り入れているからです」

「だが俺は結構長居をしているはずだぞ。それじゃあ他の客が──」

「ご安心ください。当店の店舗は十店舗あり現在も他の九店舗で九組の他のお客様をご案内しておりますわ」

 知らなかった新事実……別に深い興味があったわけではないが、知らされるとインパクトのある事実だ。


「各店舗の責任者は?」

 当然の疑問だ。出来れば担当をチェンジして貰いたい。

「私ですわ」

 久しぶりの魅力に溢れた余裕の笑顔……ドヤ顔だよ。


「それじゃあ、各店舗の責任者は?」

「勿論私ですわ」

 意味が分からないが、ここで驚いたら調子づかせてしまう。このウザイくらい満面の笑み。美人だけに濃すぎて胸焼けしそうで辛い。


「魔道具で姉さんの身代わりとなるパペットがお客の相手をしているんだよご主人様」

 そんな嫌な空気に、空気を読めない胸の無いエルフ──ちょっと昇格。未だかつて、これほどこいつの存在をありがたいと思ったことは無い──が割って入ってネタ晴らし。


 一方で胸の有るエロフの顔はドヤ顔のままに強張っている。

「……アエ──」

 良いところを邪魔されて怒気をこめて妹の名を呼びかけるが、今度は俺が割って入る。

「まあ客足が途絶えないというのなら、俺への分け前は要らないから、その分値段を下げて多くの客に売って、マルと子猫の可愛さをアピールしてやってくれ」

 妹に怒りをぶつけようとする姉の注意を引き付けて話をそらしてやる。

 俺がお前にしてやれるのはここまでだから後は自分で何とかして欲しいものだ。

 どうせ後で姉から叱られるまではこいつは自分の失敗に気付かないだろう……まあ仕方が無い。


「は……はい」

 怒るタイミングを外されて毒気を抜かれた様子で答える彼女に子猫を手渡す。

「えっ? ……」

 自分の手の中に居るこの世の愛らしさだけで作り上げられたような小さな温もりに、気持が悪いほど満たされきった顔をしたまま言葉を無くして固まる。


「ナァウ」

 大きく目を見開いて自分に呼びかけるような子猫の姿に、思わず「……な、なあう?」と可愛く返す姿は、普段の艶やかな妖女の雰囲気は何処へやら、どこか幼女っぽくすらあった。

『ネコちゃん返して!』

 一方マルは前足でミーアの膝辺りを叩きながら抗議する。基本俺が抱いてない時は常にマルが子猫を独占していたので、俺の手を離れた以上は自分が構う番だというのが主張だろう。


 俺はマルを後ろから持ち上げて、そのまま抱きかかえると頭に頬ずりしてやる。

『マルの相手は俺がしてやるから、子猫は任せてあげなさい』

『くぅ~ん』

 満足したのか拗ねたのか分からないような反応を返すと、マルの方からも顔をこすり付けてきた。


 ちなみに残された空気を読まない人は「姉さん、私にも~」と言いながら近づいて鳩尾へと下から突き上げるようなパンチを貰って床に這いつくばっている……カオスだ。


 昼食を終えて、再びマルと子猫を残して狩りにでも行こうとしたらマルが俺のズボンの裾を噛んで引っ張る。

『マルはネコちゃんとタカシと一緒にお散歩したい!』

『マルが本気で走ったら子猫は驚いて逃げちゃうかもしれないよ』

『それは嫌!』

『お姉ちゃんならわがままを言わない』

「キュ~ン」

 悲しそうに鼻を鳴らして頭を垂れる。時折上目遣いでこちらをチラ見しながら鼻を鳴らすのでウゼェ! ……全くろくな知恵を身に付けない。



『良いな、タカシ良いな。ネコちゃん抱っこ出来て良いな』

 結局連れて来てしまった……だって仕方が無いだろう。あんなに悲しそうにされたら、俺は何にも悪くないのにスゲェ罪悪感に駆られるんだぞ。

『マルがもっと勉強すれば同じような事が出来るようになるよ』

 【闇手】の上位版である【暗手】を使えば子猫程度は余裕で背中に乗せた状態で動いても落ちない程度には保持出来る。


『う~ん、じゃあ本気で頑張る!』

 ……本気で頑張ってなかったのかよ!

『明日は母さん、父さん、兄貴もこっちに連れて来てレベルアップさせて【伝心】を使えるようにするから、マルも早く文字や言葉を憶えて使えるようになるんだよ』

『…………』

 何故黙る?

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