第92話

 今日はソロだと思うと何だか気分が軽やかだ。そのお陰か目覚めもやけにすっきりとしていた……マルがいるから完全に一人ではないがマルは家族なので問題なし。


 だが、そのすっきり感を台無しにする問題が目の前に存在する。

 家族に事情を話してパーティーに入って貰うにはどうしたものだろう?


 現在の身体能力を見せたり、魔法で浮かんで見せたりすれば十分に、俺が言ってる事が絵空事ではない事を理解させる事は出来るだろう。だが納得をさせられるか?


 納得させられるなら問題は無いが、納得させられなくて拗れると面倒だ。空手部の皆は、結局は他人なので決定的に拗れて対立するような事になっても、中学を卒業して、更に高校を卒業し大学進学や就職で地元から東京へと行けば人間関係をリセットすることも出来るが、家族はそう簡単にはいかない。


 そうとはいえ、一人を除けば面倒な性格なのは居ないから問題は無いと思う、だけど最後の一人である涼がな~。

 レベルアップした兄貴に柔道で投げられたら納得するかもしれないが、兄貴がレベルアップしても果たして涼に勝てるのかが疑問だ。


 レベルさえ上がれば、単純に走るとか重たい物を持ち上げるとかなら、簡単に涼を追い抜くことは可能だろうが、戦うという行動は突き詰めても突き詰めても底が見えないものであり、大島をしてまだ道ならずと言わせるのだ。

 年下の中学生一年生でしかも女子であるとはいえ、決してマイナーとは呼べない競技の、まがりなりにも国際大会で優勝する涼の武は決して浅くは無く、素養が無い兄貴が身体能力だけで勝てる可能性は……

 見えた! 開始三秒で一本背負いで畳の上に投げつけ、流れるような動作から間接技に移行してSTF(Stepover Toehold with Facelock)を裏で極める涼の姿が見えたぞ……兄貴が勝つなんて想像の中でも無理だよ!


 涼は父さんの影響でプロレス技にも精通している。いやむしろ柔道よりも得意かもしれないほどだ。

 そもそも最初の投げに柔道技を使うという俺の予想すら怪しい。



 それはさておき……おいたらマルに泣かれるのだが、今日はやるべき事がある。

 そいつを狩るだけで百七十七へのレベルアップが可能かもしれない大物との戦いに備えての準備を始める必要があるからだ。

 その獲物の名はクラーケン。ファンタジーRPGなど遊んだ事無い人でも、一度くらいは聞いた事があるだろうビッグネームだ。


 この世界においては正式に何と呼ばれているかは分からないが、俺が認識しているクラーケンと呼ばれるモノとイメージが一致するから翻訳機能が、夢世界の魔物にクラーケンの名を与えているのだろう。


 多くの魔物は、俺が知っている名詞に変換されるが、魔物以外の動物の半分くらいは、こちらの世界の言葉のままにアナウンスされるし、こちらの世界の人間が話す時もそう聞こえる。

 意外に、現実世界の動物と似ているが微妙に違う動物でも、俺自身の心理的な拒絶が強い場合なのだろうが、こちらでの呼び方で聞こえる事が少ないくない。


 だが、魔物に関しては実物は存在せずぼんやりとしたイメージで認識されているためか、何かに似ているけど現地の呼び方をされる魔物は今のところは居ない。

 まあ、映画やゲームなどの作品ごとに扱いや詳細な形が違っているので、俺自身の中で魔物に関しては受け口が広いためだろう。

 もしゴブリン、角無しだったり二本角だろうが、俺は気にしないので問題ないだから、もしも角が六本あっても「ゴブリンだな」と思ってしまえばゴブリンだというのがシステムメニューの翻訳機能なのだろう。


 クラーケンに関して分かっている事は、体長が最低でも百メートルを超えるという事である。

 もっともクラーケン相手に水中に潜って確認した勇者様──単に船から落ちたともいう──は当然往きて再び還る事無く、その全貌を知るものはこの世には居ないので、百メートルが二百メートルでも責任は取れないとの事……何て心強い。

 ただし、それよりもさらに大きな個体が存在し、別の名前で呼ばれることもあるらしいが出来れば出会いたくはない……フラグじゃなしに。


 そして奴が良く出現するポイントだが、王領の東にあるラグス・ダタルナーグ王国の北部で唯一海に接した場所にある港町エスロッレコートインから海岸線を北上する事百キロメートル程の海域だという。

 大河ポトセッドから流れ込む養分に富んだ水に育まれた豊かな海を根城とすることでその巨体を維持してきたのだろうが、最低でも百メートルを越す巨体を一つの餌場では維持するのは難しい。

 ポトセッド河口周辺の海域にクラーケンが居るのは今の時期の三ヶ月ほどという事なので、他に二つ、三つの餌場を移動しながら一年を過ごすのだろう。


 今日中に済ませておくのはエスロッレコートインへ移動すること。こ

 れは浮遊/飛行魔法なら全力で飛ばさなくても三十分も掛からず済む。

 残りの時間……龍狩りは止めておこう。クラーケンを狩った後の事を考えるなら【所持アイテム】内に、これ以上大物を溜め込むのは良くない。

 クラーケンを狩るためにはどんな準備が必要だろうか?

 船での移動は無理だから、やはり浮遊/飛行魔法に頼ることになるだろうが、いざという時の為に周囲の海面に足場となる丸太を浮かべるのもありだ……いや【所持アイテム】内に入れておいて必要に応じて取り出せば良いか。それに丸太状の木ならデカイのが幾つもストックされているが、足場だけでなく武器として使うためにもストックを増やしておくべきだな。


 実際にクラーケンを見てみないと分からない事が多いが、確実にいえる事は、クラーケンが海深くに潜って逃げられないようにする手段が必要だ。

 銛と浮きをロープで繋いおけば、銛を打ち込めば浮きが浮力となって潜る妨げになるのだが、相手が蛸のように身体が柔らかくする事も出来るなら銛の返しを避けるように傷口を変形させて脱出してしまうので、返しは一方向だけではなく、複数の方向に飛び出す形にしなければ役に立たないかもしれない。だがそのような形状にすれば貫通力は落ちてしまう。そして深くまで貫通しなけば返しの効果も発揮されないので、先ずはどれほど刺さるか確認しておく必要がある。


 それにクラーケン程の巨体を考えれば、潜水を阻止するために必要な浮きの浮力は……形状や大きさが不明な今の段階で計算するのも余り意味が無いだろうが、体長百メートルの蛸と考えるなら十万キログラム程度の浮力で潜水を阻止出来ると思うが、十万キログラムは百トンであり、大雑把に考えて十メートルx十メートルx一メートルの発泡スチロールの浮きの浮力──発泡スチロール自体の重量は水よりも大きな海水の比重で相殺──と考えて良いだろう。


 どこからそれだけの発泡スチロールを集めれば良いんだ? ちなみに夢世界で木を切り倒して浮きにするという方法は使えない。

 切り倒したばかりの生木の比重はちょっとだけ水より軽い程度で、重さがトン単位の大きな丸太で何とか成人男性一人分の浮力となる……屁のつっぱりにもならない。

 長時間乾燥させて生木に含まれる水分を抜けば杉などは比重はコンマ五を大きく下回るが、得意の【操水】では細胞内に蓄えられた水分などは操作することは出来ない……詰んでるな。


 物理的手段で駄目となれば、魔術か魔法となるわけだが魔法は駄目だ。今の俺の魔力なら大抵の力技が可能だ。

 例えば、これから夏に備えて綺麗で透明な氷を作る魔法を作ったのだが、その術式の中には氷の中に気泡を作らないために水に溶け込んだ二酸化炭素や酸素を除去する工程がある。ちなみに、この工程がなければ水中の二酸化炭素などを追い出すためにゆっくりと凍らせる必要があり時間が掛かる。

 ともかくその工程を抜き出した魔法を組んで、水中の海水中の酸素を除去してやれば、エラ呼吸の烏賊蛸モドキなど潜れなくするどころか昇天させてやることも魔力面だけを考えれば可能だ。

 だが魔力で働きかける肝心の魔粒子の数で行使出来る力が制限される。魔粒子の数とは濃度なので周囲の魔粒子量が極端に高くなければ、紫村謹製の新型の【場】を用いても俺の無駄に多い魔力に対して魔粒子不足が起きてしまい、クラーケンの巨体を含む一帯の海水から酸素を除去するなんて真似は不可能だ。


 魔粒子を集めて保存しておく魔道具も存在するが、それは希少種の魔粒子を予め魔道具に集めておいて開放する事で魔法が発動する程度の魔粒子数を確保するためであって、元々普通に発動出来る量のある魔粒子の濃度を更に何倍にも高める様な使用目的では作られていないために、大量に魔粒子を集めておく事は出来ないからだ。


 魔術に関しても、今のところクラーケンの動きを掣肘するのに使えそうなのは……ないな。

 せめてクラーケンに関する詳細な情報があれば上手いこと活用する方法が思い浮かぶかもしれないが現状では無理

 これも宿題だな。何か宿題が増えてばかりな気がするが、違うぞこれは人生という物語の中の重要な伏線だ。そうフラグだよフラグ。


 とりあえずは【所持アイテム】からマルを出して、朝食の時間まで眠らせておくか……いや、もっと良い場所があるな。



『セーブ処理が終了しました』


 とりあえずセーブを実行してからミーアから預かった魔道具を使って、店への入り口を出してもらう。勿論セーブを実行したのは二号が店で待ち構えている場合にロードしてなかった事にして時間を開けてリトライするためだ。


 一分間も待たずに、宿屋の部屋の壁に扉が出現する……どれほどの魔法技術が注ぎ込まれているか今の俺には想像もつかないが、間違いなく魔法技術の一つの頂点と呼ぶべきものであるのは間違いないだろう。術式を教えて貰おうにも代価として何を要求されるかと思うと「教えて」なんて気軽に口に出来ないほど俺にプレッシャーを与えてくる代物だ。

 先ずは周辺マップで店内をチェックして二号がいないことを確認した。


「いらっしゃいませ。リュー様」

 両腕で抱き上げたマルに、一瞬ミーアの視線が流れるが、次の瞬間には何事も無かったかのように、見る者全てを魅了するような笑顔で迎えてくれた。

「ああ、それでニゴ……カリルは来てないよな」

 一応確認を取る。この店には狭い範囲ならバージョンアップしたマップ機能ですら阻害する手段があってもおかしくは無い。


「はい。先日の夕刻に一度お越しになりましたが──」

「いや、居ないならそれでいい」

「カリル様と何かあったのですか?」

「意見の相違という奴だ。昨今の状況をみれば『龍殺し』を名乗る事はメリットよりもデメリットの方が大きい──」

「それはリュー様が──」

「とにかくだ! あいつが『龍殺し』を諦めるまでは顔を合わすつもりは無い」

 強引に遮って結論のみを告げる。言われんでも、俺が龍を狩りまくった結果だとわかっとるわ。


「そうですか……分かりました」

 全て分かっていますと言わんばかりの笑みを浮かべながら頷く……あれ? 一瞬状況を受け入れてしまったが、これは相手に対して借りだと思わせる手法か?


 勿論、俺はミーアに対して借りだとは全く思っていない。だが今の状況自体を忘れて、印象的なその笑顔だけが記憶の中に残ったのなら、確かに俺はミーアに借りを作ったというイメージだけが頭の中に残ってしまうだろう。

 だが記憶力が物凄いことになっている俺には効かないだけではなく、普通に考えても効果は薄いだろう。


 しかし十人試して一人か二人でも引っかかってくれるとするならば……勿論、効かない相手には何度もやれば胡散臭い奴と思われて逆効果だが、効果が有った相手にのみ繰り返し使うとしたら、とんでもなくえげつないテクニックだな。


「そういうのは相手を見て使うんだな。無意識に相手構わず使ってしまうなら、二度と使わないと決めた方がお前の為なんじゃないのか?」などと説教は口にしない。

 いい歳した──本当に凄くいい歳しているよ──大人なんだから自分で痛い目に遭って学んだ方が良いだろう。先回りして問題点を解決する様な真似は小さな子供、俺の場合はマルにだけだ……ちなみに実の妹にはウザがられて盛大に失敗している。


「それでは今後カリル様の入店はご遠慮させていただくようにいたします」

 顧客名簿に載っていない客は店に入れなくする事が出来るのか? いや、違うな。それなら一見さんだった俺が店に入れた説明がつかない。

 そうかブラックリスト入りという訳だな。なんか二号が可哀想になってきたような気が……するようなしないような。

「そのように頼む」

 やっぱりしないや。


「それからコカトリスやミノタウロスを狩ろうと思うので、午前中マルを預かって欲しい」

「その子をですか?」

「名前はマル。まだ眠たいようなので店の隅にでも寝かせておいて貰いたい。粗相などはしないように躾けは万全だが、ミノタウロスはともかく、コカトリスを狩る時には子犬の好奇心で石にされる可能性も有るから」

「狩り方は前回と同じ──」

「当然だ。肉質を悪くするような狩り方をする必要があるか? マルを預かり肉の解体もやってくれるなら、獲物の半分は渡そう」

「それでおねが──」

「前回と同じという訳ではないが調味料は用意してある」

 テーブルの上に、先日北條家からの帰りにスーパーで買った。某SとBな会社の小瓶に入った一味、山椒、胡椒、粗挽き黒胡椒、ナツメグ、ガーリック、ジンジャー、クミン、コリアンダー、シナモン、花椒を並べていき、そして缶入りのカレー粉。ペットボトルの醤油、チューブのわさびとマヨネーズとケチャップ。そして最後に中濃ソースとウスターソースを置いた。


「こ、これは一体、どういう材質で?」

 マヨネーズの入ったチューブボトルをプニプニと手の中で変形させながら呟く。目の前にいる俺へ質問するのではなく、自問自答するほど驚いている。

 やはり何かガラス壜などのこちらにも存在する容器へ移し変えた方が良かったのかもしれないが、壜だってアルミか何かのスクリューキャップの段階でアウトだから開き直ってそのまま持ってきた。しかし特にマヨネーズの容器、薄く柔らかく、それでいて容器として十分な強度を持ち、さらには透けて中が見えるというポリプロピレンやポリエチレン製の容器はミーアに与えた衝撃は俺の想像以上だったようだ。


「これは世界が……世界が変わってしまう……」

 次は醤油が入ったペットボトルを手に虚ろな眼で呟く。

 分かる。密閉できる上にガラスや陶器の器に比べると遥かに軽く、しかも簡単には壊れない容器が普及するのらなら、現実世界においてペットボトルが、あっという間にガラス壜のボトルを駆逐してしまったように、この夢世界を大きく変える存在だろう。だが残念だが──

「これらの外への持ち出しや、他の人間に見せるのは無しな」

 我ながらまさに外道! いや、そもそもこちらでは製造は難しいし、量産などは夢のまた夢。


「そ、そんなぁ~」

「絶対駄目だから、誓約を立てないならこれは全部回収な。この缶の中に入ったスパイスは、俺の国では調味料の王様とも言うべきものだが無かったことに」

 慌ててテーブルの上の調味料を両腕に抱え込もうとするミーアよりも一瞬早く取り上げたカレー粉の缶を自分の顔の横にかざしてみせる。


「調味料の王様……」

 ごくりと喉を鳴らす。所詮この女もエルフの呪いからは逃れられぬ憐れな食いしん坊なのだ。

「世界とかどうでも良いだろう。大事なのは自分が美味しい物を食べられるかじゃないのか?」

「………………」

「今なら、オマケで野菜と肉を炒めたらひたひたになるまで水を張り、これを入れて煮込めば完成するカレールウもつけちゃう!」

 ミーアは文字通りに俺の前に膝を屈して、俺の要求を全て呑んだ……やはり家族の説得も食い物から入るのが正解なのだろうか? でも櫛木田達は結局は問答無用で眠らせて収納だったよな。



 先ずはミーアから近場でのコカトリスの群れの目撃情報を得ると、その周辺上空へとやってきた……朝飯食い忘れたよ。

 上空で視線の範囲内を全て表示可能範囲に収めると、広域マップマップ内には四十頭ほどのコカトリスの群れが表示された。

「全部狩る……のは拙いよな……でも駆除の対象? あれ?」

 他の魔物ならば容赦なく駆除なのだが、希少で貴重な肉の原料と思えば保護の対象としてみてしまう。

 どのみち何匹までなら狩っても群れの維持に問題が無いかなんて分かるはずも無い生態も分からない生き物相手だからな。

 仕方が無いので群れの一割、四体だけを狩るという方針でエスロッレコートインへと向かう。途中見つけるだろうミノタウロスは群れを作らないので容赦なく狩ればまさに一石二鳥である。



「一石二鳥などといった馬鹿はどいつだ!」

 ……俺だよ。


 一石二鳥のはずのミノタウロス狩り好評第四弾で問題が発生した。

 A5ランクを越える牛肉……もとい、ミノタウロスを前に舌なめずりをする俺。

 ミノタウロスからしてみれば自分を美味しそうという目でしか見ない小さな人間という未だ嘗て無いだろう状況に緊張感を漂わせる。


 俺が一歩踏み出せばミノタウロスが一歩下がる。

「へっへっへっ、逃げるなよ霜降りちゃん。俺が美味しく食べてやるからさ……ジュル」

 いかん、口を開いたらよだれが垂れてしまうじゃないか。

 ミノタウロスの表情が緊張から恐れへとシフトする。奴の本能が何か分からないけど関わっちゃいけない。関わったら不幸になる相手だと告げているのだろう……失礼な。俺はどこの変質者だよ。


 その時、足元で「ナ~ゥ」と何かが鳴いた。

「な、なう~?」

 聞く者の身体から力が抜けほっこりしてしまうような泣き声に振り返ると、そこには真っ白な長い毛足がまるで毛玉のような子猫が俺の靴の紐にじゃれ付いていた。

 この食うか、貪るか、美味しく頂くかいう殺伐とした空間に現れた癒しというファクターに、最近周囲から人間性を疑われ始めている俺さえも時間が止まった。


「こ、子猫が、子猫が俺に懐いている?」

 こんな純真無垢な存在に懐かれてる私もきっと純真無垢な存在なのだと感じました……いやそんなことは無いけど。


 俺の意識が子猫に向かった瞬間、俺からのプレッシャーが消えた事に気付いたミノタウロスは戦意を取り戻し攻撃に転じた。

「ブモオォォォォォォォオッ!」

 雄叫びと共にこちらに向かって踏み込むと、巨大な戦斧を球技において最速と呼ばれるバドミントンのスマッシュにも匹敵する速さで薙ぎ払ってきた。

 迫り来るのは一度たりとも砥がれた事の無く全体的に欠けて既に刃と呼んで良いのか疑問すらおぼえる戦斧の刃だが、時速三百キロメートルを軽く越える速度の硬くて幅の狭い物体を身体に受ければ今の俺の肉体をもってして両断されるのは必至であり、避ければ子猫が巻き込まれるかもしれない。


 この危機的状況に俺は外野フライを捕球するように左手を戦斧が描く軌道の延長上に翳す。

 そして戦斧が左手に触れる瞬間、素早く手を引いて相対速度がほぼゼロの状態で厚さ三センチメートルはあろう分厚い鉄の塊の縁を掴む。


 そして掴んでしまえば後はただの力比べ。真横に薙ぎ払われたら体重差で押し切られ吹っ飛ばされるが、身長差の為に斜め上から振り下し気味なために地面を支えとして踏ん張る事が出来る。

 逆に地面を強く蹴って得た反動で瞬間的に強く押し返すと、戦斧の柄が半ばから折れ、戦斧の頭俺の手の中から飛んびミノタウロスの頭部を襲う。

「グモゥゥッ!」

 ミノタウロスは咄嗟に角で受けるが、受けた右の角は砕け折れた。


「……」

 ミノタウロスは恐る恐るといった様子で己の右側頭部へと手をやり、その感触に驚き悲しみ、そして様々な感情を表情に浮かべ、最後には全て抜け落ち呆然とする。

 同時に股間でウザイくらいに滾りまくり自己主張をしていた雄の象徴たる一物が、まるで穴の開いた風船のように萎んゆき……そしてその最後に俺は恐怖した。


 雄の象徴である角を失った事がミノタウロスにどのように作用したのかは分からないが、もう一つの雄の象徴がどんどん小さくなって二センチくらいポークビッツになったと思ったら、直後股間からぽとりと落ちたんだよ。

 思わず自分の股間に手を伸ばして無事を確認するほどの衝撃的な光景だった……いかん、夢に見てしまいそうだ。


「恐るべき敵だった……今まで、俺にここまで深い心の傷を負わせたのは大島と涼に次いで三番目だよ」

 奴ほどではないが未だかつて無いほどに小さく縮んで、一向に元に戻ろうとしない股間の物にマッサージを施しながら、既に雄としてだけではなく生命的にも死んだミノタウロスを収納した。


「ナ~、ナ~」

 足元で俺を見上げならが鳴く子猫を抱き上げ、というより手のひらサイズなので片手で持ち上げて目線を合わせる……ついでに股間を見るが一見してフグリなどが分からないのでとりあえず雌(仮)とする。まあ小さい内は雄雌の区別は素人目には分からないというから。


「ナ~ァ」

 前足を伸ばして空を掻きながら何かを訴えてくる。妙に人馴れしているというか……そうかまだ警戒心が薄いのか。

「母親はどうした?」

 無駄だとは分かっているが声に出してしまった。現実の猫と同じとは限らないのではっきりはしないが、まだ離乳はしてないと思う。そうだとするなら母猫が近くにいるはずだが……


 試しに周辺マップで俺の手の中にいる子猫を確認すると雪猫と表示されたので、その名前で検索をかけるがヒットしない。

 嫌な予感がしたが、「雪猫の死体」で検索をかけると二十ほど離れた藪の中に四つ、そしてそこから五メートルほど奥でもう一つヒットした。


 下着と上着の間に子猫を入れると大人しくなったので、ヒットした場所へと歩く。

 離れたところにあった一つの反応は大人の猫と思われる前足の部分のみで、他の死体は子猫の兄弟と思われたが全て潰されていた。

 俺はそれらを全て収納すると周囲で抜きん出て大きな大木の傍に穴を掘って埋めると目印に足場用の岩を隣に立てた状態で置いた。

「ナ~ゥ」

 胸元で子猫が鳴く。母や兄弟が死んだ事も理解していないのだろう。

 母猫がいなければ子猫は生きていけない。つまり俺が飼う以外にこの子が生き延びる可能性は皆無。


 どうしよう? 単に俺が猫の仲間と認識しているだけの得体の知れない可愛いだけの生き物を飼うことになってしまった……一石三鳥? ふざけている場合か? 多分、この子を飼って可愛がったらマルが嫉妬すると思う。


 母さんも見た目的に断然マルより可愛いこの子に夢中になるだろう……そもそも飼って良いと許可が出るかはさっぱり分からないし、許可が出たとしても予防接種させて猫用の薬品が体内に入って大丈夫かどうかすら分からない。

 大体、大人に育ったらどんな生き物になるのかも分からないのに……難題山積みだが、何故かこの子を助けないという選択は俺には無かった。可愛すぎるんだよ!



 暫く狩りを続けたが昼近くになったので再び魔道具で店の扉を開いて貰う。

「この子はどういう生き物で、どんなものを食わせれば良いのか教えて欲しい」

 狩りの成果を尋ねてくるミーアを無視して、懐から子猫を取り出してミーアのテーブルの上に載せて尋ねた。


「まあ……これはとても珍しい雪猫の子ですね。純白の毛皮にとても愛らしい姿で──」

 興奮気味なミーアだが、子猫がお腹を空かしているかもしれないので話を遮って「それで何を食べさせれば良いか教えてくれ」と先を促す。

「私の専門分野ではありませんが、母親を亡くした犬や猫の子には山羊の乳を与えるのが一般的かと思います」

 白山羊さんに黒山羊さん。どの色まで山羊だと認識出来るんだろう? いや緑色でも狼と認識出来たのだから色は結構緩いのかもしれない。まあ幼稚園の頃にはのらエモンを緑に塗った色彩感覚に難のある俺だから紫山羊でもいける気がする。


「山羊の乳は手に入れられるか?」

「今日の午後のお茶はミルクティーにしようと思っていたのでお分けする事が出来ますが?」

「すまないが頼む。それとまとまった量を買ってストックしたいのだが注文できるか?」

「勿論。どのようなご注文でも」


「…………良いなぁ」

「はい、堪りませんわ…………」

 子猫が懸命に皿に注がれた人肌程度に温められたミルクを舐めながら飲む姿に俺とミーアは癒されていた。

 皿から直接飲む事が出来なければ哺乳瓶。それが無ければミルクに布を浸して吸わせようとも思っていたのだが、離乳時期が近かったのだろうとの事だった。


『あっタカシだ! おはようタカシ! ここ何処? あっ耳の尖ったお姉さんの所だ!』

 十分に睡眠をとったようで、起きた瞬間からテンション全開なマルが、俺の右の脇の間に鼻先からずっぽりと頭を差し込んで来たので、脇を締めて首を押さえて下顎と上顎をまとめて左手で掴んだ。

『おはようマル。今は静かにするんだ。分かったか?』

『く~ん、分かったから放して』

 さすがに嫌がる。

『本当だな。いきなり吠えたりするんじゃないよ』

『本当に本当! 吠えないから、静かにするから』

 身をよじって嫌がるので、先ず手を放して顎を開放してやる。

「クォン?」

 手が離れたことで視界が開けたマルは目の前の子猫の姿に驚いたように鼻を鳴らす。


『何アレ? タカシ、アレ何?』

『雪猫という生き物の子でまだ名前は無い。だけど今日からあの子は家の家族だ……まだ父さんや母さんに許可貰ってないけど』

『家族? あの子家の子になるの?』

『父さんと母さんが許してくれればな』

『家族! 家族! ねぇ妹なの弟なの?』

「まだはっきり分からないけど、多分妹かな?」

『マルの妹なの! マルに妹が出来たの。可愛い妹が出来たの!』

 だからまだはっきりと分からないし、それに飼うのは父さんと母さんの許可が必要だから、まあ許可が貰えない場合は、こちらの世界限定で飼う事になるけど……というかスルーしかけたけど気になる発言が有ったよな?

『……涼もマルの妹じゃなかったのか?』

『スズも妹。大事な家族で妹。でもスズは余り可愛くない』

 マル容赦なし……俺は生まれて初めて妹を憐れと思って心の中で泣いた。


『白くてフワッフワで可愛い。マルこんな妹欲しかった』

 もう止めて涼が憐れすぎて心が涙で溺れそう。

『良いな、良いな』

 マルは一心不乱にミルクをピチャピチャと舐めている子猫の周りをうろうろしながら色んなアングルで眺めてうっとりとしている。

『ねえ。マルはこの子に何をしてあげれば良いの? マル何をして上げられるの?』

 低いアングルから眺めるのがお気に入りなのか下顎を床につけてお尻を高く上げて尻尾をブンブンと振りながら聞いてくる。

『とりあえず落ち着いて、この子がミルクを飲むのに集中出来るように静かにしてあげて』

『ごめん……分かった』

 マルは大人しくその場に伏せた。


 子猫が飲むのを止めてミルク皿から離れる。

『もう良い? この子と遊んでも良い? スリスリしたり、ペロペロしても良い?』

『駄目。まだゲップをさせてない』

『ゲップ?』

『そう。子供は人間も犬も猫もミルクを飲んだ後にゲップをさせてあげるの。マルも家に来る前の小さな頃はそうして貰ったの』

『へぇ~……憶えてない』

 そんな事を放しながら子供を抱き上げると、上体を起こした体勢にして背中を軽く叩いたり撫でたりを繰り返すと、可愛く舌を出しながら小さくゲップを漏らした。

 そのままミルク皿の傍の床の上に戻す。

『良いの? もう良いの?』

『駄目。ゲップをしたらお腹に余裕が出来てまだ飲むかもしれないから待つの』

『くぅ~ん……』

 言葉で意思を伝えないところが犬なのだ……可愛くて善し!


『よし、飲み終わったみたいだぞ』

『良いの? 本当に良いの?』

『良いけど、ぐいぐいと距離を詰めて怖がられるなよ。初対面で怖がられたら絶対に姉として敬愛されないからな』

『えぇぇぇぇっ? 駄目なの』

『この子は犬じゃなく猫だから、犬式の初対面から馴れ馴れしく行くのは厳禁だ』

『……ま、マル馴れ馴れしいの?』

 まるで自分のアイデンティティーを根本から否定されたかの様に大口を開けて愕然とする。

『基本的にマルは誰とでも仲良くなれる、自分は嫌われる訳が無いと根拠の無い自信満々で周囲に接するからな』

『………………』

 力なく垂れた尻尾以外完全に硬直するマル。題するなら「落ち込んだ犬」といった感じだ。

『それがマルの良い所でもあり、可愛い所だから余り気にするんじゃない』

『マル可愛い? 本当?』

『うん、マルは可愛いよ。とても良い子だよ。だから少し空気を読んだり、真面目に文字や言葉を勉強して欲しい』

『マル頑張る! 頑張るから誉めて!』

 チョロイ……その言葉を飲み込むと、マルの首を後ろと前から挟むように強めにさすってやると大喜びだ。やっぱりチョロイ。


『でもね。この子にはいつものマルのやり方は通じないんだ』

『どうして?』

『先ず、猫は仲間と群れて生活しないから、同じ猫同士でも一定の距離に簡単に近づけさせないんだよ』

『でも近所の猫達は空き地に集まっているよ』

『あれは人間が作った町の中で暮らすために、狭すぎる縄張りの中で互いに喧嘩しないように努力してるんだよ。だから互いにしつこく干渉しないとか目を合わせないとか色々ルールを作ってるんだよ。だからマルが「一緒に遊ぼう!」って突撃すると逃げられるだろ?』

『うん、逃げる。マル悲しいよ』

『それにあの子は、お母さんや兄弟を殺されてたった一匹になって悲しくて寂しくて心細いんだ。そんな時に自分よりずっと大きなマルが勢い良く近づいてきたら怖がると思わないか?』

『…………もしかしたらそういう事も有るかもしれない?』

 おい、全く分かってねえだろう!


『だから少し距離をおいて、子猫から近づいてくるのを待つんだよ』

『分かった。マルずっと見守るよ!』



『ズルイ! ズルイよ! タカシズルイよ!』

 マルが俺の周りを駆け回りながら訴えかける。

 どういうことかというと、ミルクを飲み終えて満足した子猫は俺に近寄ってきて甘えるように鳴くので、片手で拾い上げて手ごと胸元に寄せると、襟元から中に潜り込んで、お腹の辺りで丸くなって寝てしまったのだ。

『服の中に入ったら見守る事も出来ない! タカシひどい自分ばかり!』

 そんな事いわれても、一匹になってしまったこの子が、最初に頼ったのは俺なんだから俺に懐いても当たり前だし。


『分かった。分かったから。マルお座り!』

 この手の命令には機械的ともいえる反応速度で従ってしまう。

『丸くなって寝て』

「ハゥン?」

 不思議そうにしながらもやはり従うマル。

 俺はお腹の子猫を服の上から右手で包み込むように優しく押さえると、左手でウエスト部分を締めている紐を解いて、服の下に手を入れて子猫を取り出した。

 子猫の姿に思わず立ち上がろうとするマルを静止する。

『頭と首の横に少し間を空けて、そこにこの子を入れるから』

 俺の言葉に、耳をピンと立てて尻尾をパタパタと振りながら頭、首、お腹、後ろ足で囲まれたドーナツの穴の部分を少し広げる。

『俺が帰ってくるまで、この子をそこに入れてずっと見守ってあげるんだぞ』

『見守るよ! この子が起きるまでずっと見守るよ!』

『オシッコとかは大丈夫か? 何時間もじっとしてるんだよ』

『大丈夫だよ三日くらいなら我慢する!』

 そんなに我慢するなよ。

『……そ、そうかそれならこの子と一緒に留守番を頼むな』

『うん、留守番するこの子と一緒に良い子で留守番するよ!』

 あんなに俺と一緒に居たがっていたのに本当に現金だ。キャッシュだよ! キャシュマルと呼ぶぞ! キャスバルみたいで赤くなりそうだ。


 ちなみにそれから【所持アイテム】内から前回のコカトリスの肉を取り出して調理して貰い昼食としたので、かなり長い昼休みとなってしまった。

『タカシ。マルも食べたい!』

『じっと我慢してるんじゃなかったの?』

 大体、普段のマルの食事は朝と夕方で、昼飯を食わせていないから。

『食べたいよう~』

『それにマルは今日ずっと寝てただけだから』

 そう、寝てたから朝飯も食ってないのでお腹自体は減ってきてるだろうが、今日はこの後も眠る子猫のお守りなので身体を動かす予定は無いからな……

『…………』

 無言で悲しそうにじっとこちらを見るマルに、思わず【所持アイテム】内から取り出したオーク肉の串焼きをマルの鼻先に置いてしまうのをミーアは見ていた……その目が「駄目飼い主!」と詰っているような気がしたのは、単なる俺の被害妄想……ではないと思う。



 午前中の成果であるミノタウロス四体とコカトリス十九体を引渡して、マルと子猫の事を頼むと俺は狩りを続行するために店を出た。

 出た先は先ほどつないで貰ったミノタウロスの巣である洞窟近くの森の中で、少しは慣れたところには子猫の家族の墓標代わりの大木と目印の足場岩があった。


 何か意味があるわけでもないが自然に手を合わせてしまう。

「あの子は俺の家族になった。俺とあの子のどちらが……いや共に死すとも家族である事は変わらない。貴方達とあの子が今も家族であるように」

 ……何を言ってるんだ俺は? 自分の中に厨二病以外にもやっかいな魔物が潜んでいた事に驚く。


 狩りを続けながら移動しているとワイバーンの群れに遭遇した。

 経験値的にはオーガーの二倍程度と悪くは無い相手なのだが、少なくともオーガの五倍程度は厄介な上に個体数はそれほど多くないので狙って狩ろうとした事は無い。

 それに今は【所持アイテム】の容量をクラーケンに備えて空けておきたいので多少回りこんで回避しようとしたのだが、向こうから寄って来やがった。

 龍の下のカテゴリーである竜の一種に過ぎないワイバーンだが、それでも空では頂点に立つ種族の一つ。

 勝手に空を飛ぶものは許さないとでも思っているのだろうか? だとするならせめてグリフォンに勝てるようになってから言えよ。


 売られた喧嘩は、値札を財布の中身と相談して買うんだよ!

 ちなみにお前等の喧嘩の値札は毎日が半額だ! ……いつか公正取引委員会から是正指導が入るだろう。

 などと戯言を考えている内にワイバーンは距離を詰めてきた。戦意高揚、意気軒昂。喧嘩を売る相手を間違った事も含めて結構な事じゃないか。


 俺は正面左側から弧を描きながら迫ってくるワイバーンに対して、此方も緩やかに弧を描きながら相手の左側へと向かう。

 空中戦闘起動の基本中の基本、空中における水平面の上の戦い。互いに相手の横っ腹に喰らい付く為に旋回性能の限界を競い合う。

 より深く舵を切れば──俺にもワイバーンにも舵は無いが──相手の横っ腹への最短ルートを得るが速度を失う。

 速度を失えば失速しないために高度を下げ、相手に上を取られ喰われる。

 ただそれだけの単純なルールによる命の奪い合い。


 以前見たワイバーンとグリフォンの戦いでワイバーンには第二次大戦初期までの戦闘機と同様な戦い方しか出来ない……いつ俺はワイバーンとグリフォンの戦いを見たんだ?……またいつものあれか……くそっ!


 ……だがこちらは違う。全く異なる格闘戦しか出来ない零式戦闘機に対して優速を利した一撃離脱戦法を採用したアメリカ軍のように、異なるルールで戦う事が出来る。


 翼で風を遮り減速する事でしか向きを変える事の出来ないワイバーンに対して、こちらはそもそも翼が無い。異なる二つの推力による合成ベクトルによる方向転換は、直進にこそ劣るがそれでも方向転換をしながらの加速が可能だった。


 こちらの動きに対応してより鋭角に切れ込もうとして速度を落とすしかなないワイバーンに対して、更に鋭角に斬り込みながら加速して背後に回り込む。

 ワイバーンが長い首を動かして二度見するほど驚いている。


 背後に回り込んだ俺は、強力な武器である毒牙を持つ尾の一撃も虚しく空を切らせると、更にに加速して、右側からワイバーンを追い抜き様に右翼を斬り落とした。


 甲高い鳴き声を上げながら堕ちて行くワイバーン。

 その叫びはまるで始まりを告げるサイレンの様だった……結局、全部を叩き落すまで鳴り響いたけど。


 片翼を斬り飛ばされ飛行能力を奪われて落ちたといえども、ワイバーンにとって翼はあくまでも補助的な存在であり、俺の浮遊/飛行魔法と似た能力を持って生まれてきた奴等にとっては傷一つ負わずに軟着陸することなど容易いことだった。


 だがそれは幸いではなく災いの類である。

 ワイバーン達は空を飛ぶ能力によって地上の生き物に対して天空の覇者として君臨してきたが、今その立場が逆しまとなって自らに襲い掛かる。

 ワイバーンの群れは次々に翼を斬りおとされ、全て地上の住人になってしまった。

 そこは彼らにとって地獄である。自分達が餌にしてきたオークさえも今の彼らにとっては天敵に等しい。


 せめてもの慈悲で、俺は宙を舞いながらワイバーン達の首を落としていく……ミーアはワイバーンは高い需要があると言っていたが、これほどの数を買い取ってくれるだろうか?



 想定外の戦いを経て、更に五体のミノタウロスと十八体のコカトリスという成果を得てエスロッレコートインに到着した。

 夢世界始めての海は現実世界の海と同じ潮の匂いがする。海無し県のS県県民の俺は海を見ると無性にテンションが上がってしまう。


 そもそも俺が伝説級の魔物の中で真っ先に倒す相手としてクラーケンを選択したのは、戦いの場が海であったからに他ならない。

 そのまま街の上空を通過して海に出る。

 小さく波打つ海面に踊る太陽の照り返し……海だ。これこそが海なんだ! などと海無し県の住人が海を語る。

「良いじゃないか! 海を当たり前に感じているような罰当たり共に海の何が分かる! 本当に海の有難味が分る我々にこそ海を語る資格があるのだ!」

 などと無茶苦茶な事を叫びながら海面近くまで一気に高度を下げていく。


 足元の装備を収納し、足の指先を海面に浸けながら水面ギリギリを飛ぶと後ろに水飛沫が舞う。【迷彩】で姿を隠している俺は良いが、その水飛沫に近くで舟で漁をしている漁民が驚いた様子でこちらを見ている……新たな都市伝説の誕生の瞬間である!


 更に【操水】で自分の前方の海水を左右に除けながら海面下へと潜って行く。

 最高だ! 俺は今海の中を自由に飛び回っているんだ……って岩は除けられねぇ!


「ぐぁっ!」

 周辺マップどころか前さえ見ずに左右の水面から見える海の中の景色に夢中になっていた俺は、前方に迫る岩礁に気付いた時には避けるタイミングを完全に逃していて、時速二百キロメート超の速度で両膝を岩肌に叩き付け、バランスを崩してぶっ飛び【操水】も浮遊/飛行魔法も糞も無く海水の中に突っ込んだ。


 これは膝は完全に砕けたな……そう思って 恐々手を伸ばして触れてみると、確かに打ち身の鈍痛は感じるが想像した様な痛みは襲ってこない。

 ん? ステータスメニューを開いて【現在の体調】から【傷病情報】の【怪我】をチェックしてみると膝は打撲となっており砕けるどころか骨折もしてなかった。

 一体、俺は何処に向かって進んでいるのだろう?


 水を蹴って泳ぎ海面まで辿り着く。

「何だこれは?」

 周囲には大小、数十、いや軽く3桁に及ぶ魚が浮いていてかなり不気味だ。しかもまだ海面下からどんどん浮いて来て、あきらかに根の魚ではなく大きな回遊魚の類まで浮き上がってピクピクと痙攣する様は地獄のようですらある。


「……まさかガッチン漁って奴なのか?」

 岩礁にには数多くの海の生物が集まる。海草やイソギンチャク、そして貝の類。そこには小さな魚達が集まり、それらを捕食する大型の魚達も集まり一つの生態系を作り上げる。

 つまり、一つの生態系を根こそぎ刈り取ってしまった可能性がある。


 今俺が持つ大き過ぎる力は、望まなくてもふとした事で多くの命を奪ってしまう可能性があるという事だ。

 そんな反省をしながら、浮いている魚達をどんどんと収納していく。

 何も問題は無い「奪った命は、全て残さず感謝して食せば良い」なのだ。折角獲れた獲物を逃す必要は無い。

 こちらの世界の海の幸も経験したいと思うのは人として当然の欲求だ。

 今までは流通手段の貧弱さから魚といえば川魚という選択しかなく、しかも調理方法のせいで泥臭くてとても食えたものじゃない。


 問題なのはこちらの世界の人間はその泥臭さを含めての魚料理だという認識を持ってしまっているので調理技術の問題ですらないということだ。

 分かるよ。俺も日本で唯一、加熱による殺菌処理をしない壜詰め牛乳を飲んだ事があるけど、紙パック特有の匂いや、加熱時にたんぱく質が変質したために発生する匂いも無いきわめて澄んだその味わいに俺は──

「これは牛乳じゃない」と結論付けるしかなかった。勿論誉め言葉じゃない。


 だけど、この世界の人間がどうであれ、俺には泥臭い川魚は無理なんだ。魚自体が美味いかどうか以前の問題なんだ。

 だから今日、この世界の海の魚を俺は喰う! これは絶対に譲れない。


 とりあえず【所持アイテム】内のリストで、収納した魚をチェックしてみると、食べられない毒持ちの魚が結構いた。

 仕方が無いので海へとリリースしていくが蘇生する様子は無い……全て残さず感謝して食べる……また嘘を吐いてしまった。


 だが次の瞬間、大型の魚が喰らい付き一飲みにする。

「そうだな。こうやって命は受け継がれていくのだ……」と言いながら、俺は槍でその魚を突いて収納していた……だって美味しそうだったんだ仕方が無いじゃないか?


 【所持アイテム】内の魚のリストを確認していると、面白い事に現実世界の名前そのままの魚が多かった。

 ただし俺自身の魚の知識の薄さが原因だろう、特徴的な縦縞模様でイシダイっぽい魚も、マダイっぽい魚なども全て鯛と表示されていた。

 正直、どいつも美味そうだ。いや、ここは無理に期待値を上げるべきではない平らな心で判断しなければ舌が曇る。

 テレビなどで持ち上げられた店のメニューが、いまいちに感じるのも全て上がり過ぎた期待値のせいだ。


 父さんも言っていた「誰かに勧められたわけでもなく、ぶらりと立ち寄った店の飯が美味かった時の嬉しさは格別だ」と……余程ぶらりと立ち寄った店が地雷である可能性が高いのだろうと子供の頃は聞き流したものだが、今なら少し分かる気がする。

 自分で見つけ出したという喜びは、高すぎる期待値とは魔逆に働き感動を増す。



『お帰りタカシ!』

「ナ~ゥ」

 『道具屋 グラストの店』の入り口の扉をくぐると、子猫を従えたマルがやって来てお出迎えしてくれた。

 膝の辺りに自分の頭や顔を擦り付けてくるマルを真似るように、子猫がブーツにスリスリとしている……実に可愛い。


 咄嗟に『この子マルの真似をしているよ』と告げると、マルは視線を俺の足元に落とした瞬間全身の毛を逆立てて硬直した。

『か、可愛い! これマルの真似? マルの真似してるの? マル感激!』

『落ち着け。猫との関係は距離感が大事。自分からは余り距離を詰めない。向こうから甘えてきたら構う。そして寂しそうにしてたら寄り添うんだ』

 マルの首から背中にかけてポンポンと叩いたり撫でながら諭して落ち着かせる。


『危なかった。マルちょっと訳が分からなくなりかけた』

『本当に危なかったな。可愛いい可愛い! 大好き大好き! と前足であの子を抑え付けてベロベロ舐めて嫌われる場面しか想像出来なかった』

『ま、マル、そんな事しないよ……しないしない、した事も無いよ』

 ……俺の目を見て言えよ。


「お帰りなさいませリュー様」

 何事も無いように出迎えているようだが、ミーアも子猫の姿に見とれていたのだから、子猫の魅力恐るべしだ。

「早速ですが解体作業に入りますのでこちらへ……それから午前中の分は既に処理を終えて枝肉になっておりますのでお持ちいただけるようにしております」


 つまりミーアは、最低でも午前よりも多くの獲物を狩ってきたと予想している。そして午前より多かった分を何とか買い取れるよう交渉するつもりなのだ。相変わらず食えない女……いや、食い意地の張った女である。


「じゃあ、午前の分と同じ数『だけ』卸そう。それで良いな?」

 ちなみに午前の狩りの成果はミノタウロス七体にコカトリス十四体に対して、午後の成果はミノタウロス十体にコカトリス十九体と少し多めに狩ってある。


「そんなぁ~、余りにもご無体です」

「無体も何も、それだけしか狩らなかったんだから仕方ないだろう」

「嘘です! リュー様は『同じ数だけ卸そう』と言いましたわ。絶対にもっと狩ってるはずです。きっと私が『数が多いので時間が掛かる』と言い出してどうにか多かった分を買い取ろうと交渉してくると思ってそんな事を言い出したんです……あっ」

 自分の発言に驚いたように目を見開き口元を手で隠す。

「……と、つい俺に気を許して失敗した所を見せた事で、ポイントを稼ぎつつ済崩しに多い分を買い取ろうと思っているんだろう?」

 ミーアは目を逸らした……全くどいつもこいつも。


 解体作業部屋に入ると、ミノタウロス七体にコカトリス十四体を【所持アイテム】から入り口付近の床の上に取り出した。

「まだ隣に十分スペースがありますから、遠慮なさらずにどうぞ」

 にこやかな笑顔で図々しい事を口にしやがる。段々と遠慮が無くなってきてないか?

 笑顔を無視すると、広い作業場の奥へと歩を進める。

「あの~リュー様? 龍の買取は暫くは──」

「安心しろ龍ではない」

 そう告げてから、次の瞬間に作業場の真ん中辺りにワイバーンの山を築いた。

「な、な、何ですかこれは!」

「ワイバーンだ。ついでに狩ってきた」

「……た、確かにワイバーンならば買い手も多いので、買取制限はありませんと言いましたが……こんなに沢山を『ついで』でなんて……」


 あの後、更に別の群れに出会って狩ったため最終的に数は二十四匹になった……今日狩ったのはな。

 【所持アイテム】内には他にもワイバーンは五十三体も入っていた。あんまり記憶が不明確なのだが確かに狩った記憶はあるのだが……どうせ何時もの忌々しいアレだろう。


「龍ではないのだから買い取って貰えるだろうな?」

「も、勿論です……ワイバーンは龍に比べれば一般的な素材としてとても需要が高い魔物ですから……」

 そうとはいえ、本来なら街道付近などは定期的に軍が多くの犠牲を出しつつワイバーンやオーガなどの危険な魔物の駆除を行っているが、しかし軍の成果でもこれほど沢山のワイバーンが一度に狩られる事は無いそうだ。


「買い取って貰えるんだろうな?」

 合計七十七体のワイバーン。大吉とは言わないが吉くらいは幸運そうな数だ。さすがに全部買い取れと言うのは酷かなと思うが、【所持アイテム】の空き容量を増やすためには心を鬼にして売りさばかねばならないので強気に出てプレッシャーを与える。

「売りさばく事は出来ます。でも……これも仕入先は秘匿なんですよね?」

「無論!」

「そんなご無体なぁ~~っ!」

 悲鳴が上がった。



「それでは解体処理が始まるので、作業が終わるまでこちらへ」

 少し疲れた様子のミーアに促されて、彼女の居住スペースへと繋がる扉をくぐった……物理的に繋がっているのかどうかは知らないし、解体処理というのがどのように行われるのかも知らない……

 おや? 突込みが無い。いつもなら俺の心を読んで先回りして突っ込みをビシバシ入れてくるのに……そういえば最近は突っ込み自体が無いな。


「最近は俺の心を読まなくなったみたいだが、性根を改めて真人間になったのか?」

「……?」

 俺の正論に対して「何言ってるんだこいつ?」的な視線を投げつけてくる失礼なエロフ。

「何か言いたい事があるなら言えよ」

「嫌味ですか?」

「嫌味も何もお前が俺の心を読んでたのは事実だろ」

「今は読めませんから……どんな方法を取ったのかは存じかねますが」

 今は読めない? 俺は別に何か対策を立てたおぼえは無いが……平行世界での大幅なレベルアップがあった。マップ機能がバージョンアップした事でこの店の魔法障壁を無視して店内が表示可能域になったように、システムメニューがミーアの読心能力を弾いたとしても不思議は無いというかそれしか思い当たらない。

「読めなくなったのなら別に良いさ」

 まるで読心への何かの対策を練った上で確認したといわんばかりの態度で応じると、ミーアは悔しそうにこちらを睨む……そんな目付きすらも色っぽいとは本当に魔性だ。だが読心という武器を失った今、その脅威度は大幅に減少したと考えても良いだろう。


「美味しいものが食べられると聞いて!」

 いきなりドMエロフが登場した……こいつの存在をすっかり忘れていた。

「そんな事、誰にも話した覚えは無いわよ」

「姉さん。霊感が囁いたのですよ」

「そんなのがあるなら私がこの手で真っ二つに引き裂いてやるから出して見せなさい」

「い、嫌だな姉さん。そんなの出せるわけ無いじゃないの──」

「もしかしたら絞れば出てくるかもしれないじゃない」

「ね、姉さん……?」

 怖っ! 何をどう絞るんだよ?


 少食ゆえにエルフ社会から去らねばならなかったはずなのに、この食に対する強い執着……エルフの業の深さの一端を思い知ったような気がするというよりも、普通のエルフってどれだけ食うのか怖くなってきたよ。


 肉料理は全て女性陣に任せて、俺は手に入れた魚の中からシステムメニュがマグロと表記する魚を取り出す。

 マグロと言っても全長百二十センチ程度と小ぶりだが、今までに自分でおろした魚のサイズはイナダあたりが上限でメートル超えは初めてだ。


 表面にはヒレの周辺などに僅かに鱗の手触りがあるが体表の殆どは分厚い皮に覆われているだけだ。

 マグロは暴れると激しい運動により筋肉が発熱して一気に身が焼けて劣化するといわれているので、失神状態が解ける前に一気に頭を落す必要がある……とテレビで言っていた。


 胸鰭の裏から頭の方へと斜めに一気に包丁を走らせる。そして太くて硬い背骨に当たった所で、手首を内側に返しながら刃先で静かに背骨の表面を撫でて背骨の節を探る。

 如何にミーア愛用の魔法的出刃包丁といえどもこのサイズの魚の背骨を断つのは荷が重い。

 だから背骨の継ぎ目である表面の凸凹の凸の節に刃を当てて力を入れるとスッと入っていく。それと同時にブルブルっと全身を震わせてマグロは絶命した。


 昔はこの感覚が苦手だった。北海道で海釣りをして釣ってきて捌く時に、まだ生きているカレイの首を切り落とす時には眼を瞑って一気に切り落としたものだったが、空手部に入って合宿で罠で捕まえたウサギを自分の手で締めるという経験をした後はそんな感傷は俺の中からいなくなっていた。


 次に腹を割いて内臓を抜く。本当なら順番が逆だが調理段階でまだ生きているマグロをまな板の上にのせるのが間違っているのだから仕方が無い。


 下っ腹の肛門部分から刃先を入れて手前に救い上げるようにしながら真っ直ぐ頭の方へと、硬い皮にショリショリと音を立てさせながら包丁が走る。

 内臓は心臓以外はそのまま収納して後日アラ汁と一緒にでも……誰かにして貰おう。

 今日の料理は刺身だ。腸を綺麗に洗って茹でて酢味噌和え、俺がするとかそんな無謀で勿体無い事はしない。


 俺が加熱や調味などを施すと何故か不味くなる。はっきり言って自分でもゲロマズだ。

 料理において塩梅という言葉がある。塩加減などの調味に関する言葉だが、いつの間にか按配と意味が交じり合ってしまったが、料理における味加減には美味さの絶頂ともいうべきそれ以上足す事も、そこから引く事も出来ない完璧なポイントがあるはずだ。親指と人差し指の先で一つまみしただけの塩を加えただけで崩れてしまうような。


 一方、俺は負の味の絶頂を引き出す名人なのかもしれない。

 塩を入れすぎてしょっぱ過ぎて食べられたものじゃないなんて素人さんがやる一般的な間違いではなく、負の絶頂は正の絶頂の付近にこそ隠れている。


 そう塩にして小さじ一杯以内の差で存在するのだ。僅かな差で食材の味を台無しにするだけではなく、食材が持つネガティブな味わいを全開で引き出してしまう呪われし味のバミューダー海域が確かにある。

 僅かに加減を違えば単なるマズ飯で済むはずなのに、そこを味見もせずにピンポイントで引き当てる才能が俺にはあるのだ。


 だから今は刺身以外に料理はしない。完璧におろした魚を一口大に適当に切って並べて、味付けは醤油とわさびでお好みで食べる。

 つまり世界で刺身だけが、卵賭けご飯やインスタントの袋麺すらも不味く作るという都市伝説を持つ俺がまともに作る事の出来る料理だ……自分で言ってて死にたくなる。


 新鮮でプリプリとした弾力のある内臓をひきずりだして、腹腔内を【水球】を高速回転させて血の汚れを洗い流す。結構面倒な作業なはずだが締めたての新鮮さゆえに血管内の血が凝固していないのと魔術を使うことで簡単に済んでありがたい。


 首もとの方から尻尾へと向けて背側から背鰭と背骨に沿って包丁を入れていき、先ずは二枚に、そして身をひっくり返して三枚におろす。

 次に、脂の乗った腹側の場所にある人間の肋骨にあたるのだろう腹骨を、その下に包丁を入れて身ごと削ぎ取り。

 更に背と腹の境目に横に入った骨は、骨の左右に包丁を入れて、これも周囲の身ごと削ぎ取れば、イナダやワラサなら作業はほぼ終了だが、マグロには血合いがある。

 話には聞いていたが尾の方に集中してどす黒い身が背骨周辺に広く分布している。そして血合いの部分は想像以上に大きかった。


 血合いは最も激しく運動する筋肉の部分でそこに血液も集中するために栄養分が豊富な健康食材といわれるが調理しなければ食べられるものではないので収納。

 後は四分割されたパーツを一口大に切り分けていくのだが、人がそのまま口に入れる大きさと形状というのを意識して綺麗に切ろうとすると何故か失敗するのだ……これって呪いの類だよな?

 だから敢えて大きさがバラバラになるように『適当』に切る必要がある。


「……完成だ」

 俺の呟きに、エロフ姉妹から異論が上がる。

「ご主人様御乱心! ご主人様御乱心!」

「この状態に効く薬は……この状態?」

 ……異論ですらなく普通に頭のおかしい人扱いだった。


「生の魚とは想像以上……いえ想像した事もありませんでしたが美味しいものですね」

 わさび醤油で刺身を食べながら賞賛を口にするミーア。

 手のひらを返したような態度にあきれる。

「こんなものを食べさせるなんて、リュー様は鬼畜ですわ」とか言った事は俺は絶対に忘れない。


 ちなみにわさび醤油なのは、手本である俺が小皿に醤油を適当に入れて、小皿の縁にわさびをチューブから搾って、醤油に溶いて、箸で摘んだ刺身をわさび醤油に付けて口に運ぶという作業を全て目を瞑って行う必要があるから。


 目分量で、俺が「良い」と思ったわさびの量や刺身に付けるわさび醤油の量が味の負の味の絶頂を捉えてしまうのだ。

 以前はわさびを刺身に目分量で載せるのが危険なだけだった。目を瞑って適当な量のわさびを醤油に溶いておけば、後は目を開けて刺身をわさび醤油に付けて食べればよかった。

 だが意識すれば刺身についたわさび醤油の量が分かってしまうのが今の俺だった。


「魚の僅かな生臭さをも、この醤油とわさびが見事に打ち消して、経験した事の無い食感と美味を舌の上にもたらす」

 そうだな刺身や寿司で食べる生の魚に近い食感は無いだろう。そして何よりやはりこの世界の食材は魚も美味い。美味さの次元が違う。新鮮な心臓の刺身の食感にいたっては心が震えた。


 食事は全ての料理を食い尽くしたところで終わりを告げたが俺を含めて三人とも無言だ。俺は感慨に言葉が無くミーアは至福の表情を浮かべ、ドMは鍋の底まで確認して残り物が無いか確認している……とことんまでエルフという種族に対する憧憬を破壊しつくしてくれる奴だ。


「もしもっと早くリュー様に出会っていれば、私達姉妹はエルフとしての道を外れる事は無かったかもしれませんね」

「……どういう意味だ?」

「私達は子供の頃、食べるという事に喜びを持てませんでした……母の料理がとても……美味しくなかったのです」

 飯マズ故の悲劇か……悲しいな。飯マズは……

「その為に、すっかり少食が身に付いてしまった私達は精霊術を満足に使いこなす体力が無く、アエラよりも特に少食な私はエルフの里にいることが出来なくなりました」

 特に少食って、お前は俺の五割増しは食ったよな? 食い盛りの中学生で、しかもバリバリの体育会系で、更にレベルアップで消費カロリーが増大し食うことを宿命付けられた俺が限界まで詰め込んだ五割増しの量をな!

 何か悲劇のように語ってるけど十分喜劇だし、それにエルフの食欲はホラーですらあるわ。


「それなら、俺が渡した調味料を使った料理で食欲が出た今ならば精霊術とやらも使いこなせるんじゃないか?」

「いいえ、この程度では無理です。初級の術を一度使っただけで空腹と貧血で倒れる事になります」

「…………」

 どれだけ燃費が悪いんだよ? むしろ、良くもまあそんな使い勝手の悪い力に頼ろうと思ったものだと呆れて言葉が出ない。

「私だって精々、初級の術は二回か、三回。中級の術なら一回で倒れることになる」

 俺の三倍以上は食べたドMが言うと説得力あるわ。どんな力を持った術かは知らないが知りたくも無くなった。


「姉さん、この調味料などが里に持ち込んだなら精霊術は飛躍的に強力なものへと──」

「駄目よ。これらの調味料は『私』が個人的に使うためにリュー様が御用立てて下されたモノだから」

「私が個人的に? 姉さん、私は?」

「貴女は私の妹よだから……」

「姉さん!」

 ミーアは、自分の言葉に感動し目を潤ませる妹に冷たく続きを告げる。

「私じゃないわね」

「……姉さん酷い」

 本当に酷いな。


「ご主人様! どうか私にも──」

「持ち合わせが無いな」

「つ、次に入手できる機会は?」

「さあ、何時になることやら?」

「で、では入手出来たならば私に──」

「目処も立たないな」

 正直、このところ色々と買い込むものが多かったので俺の貯まるばかりだった預金額も大きく減少している。政府から出た見舞金代わりの口止め料から一部が預金に回されたが、その殆どは俺名義の定期にされたが通帳自体は母さん預かりになっているので、早々調味料を大量に買い込むわけにもいかない。

 やはり現実世界でまとまった現金を手に入れる方法を見つけるのは急務だな。

「そんなぁ~、このところのご主人様の放置プレイにもちゃんと耐えたのにご褒美が無いなんて~、幾らご褒美がないのが最大のご褒美といわれるこの業界においても過酷過ぎます」

 ……一体、どういう業界に身をやつしてるのか知らないが俺は無関係だ。



「ところでリュー様。クラーケンはご確認になりましたか?」

「ああ、想像以上の化け物だった……というかあれは島だろう。例えば『私は明日、島と戦います』と言われたら意味が分からないだろ……俺も意味が分からなくなった」

「それが普通だと思うのですが……」

 頼むからもう少しだけ時間が欲しい。多分その内慣れるから……


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広範囲で紫村の名前が柴村になっていた特大のミスの修正完了

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