第89話

 目覚めて最初に紫村に香籐を床に転がし、そしてマルをそっと腕の中に出現させて抱きかかえる。対応に違いが出るのは当然だろう。

 マルの首元に鼻を突っ込んで深呼吸する……うん、宿で簡易洗浄法の実験にマルを全身丸洗いにしたので匂いはほとんど無い。

 簡易洗浄法とは、風呂に入れない状態でも清潔な状態を保つために香藤が必死に作り出したマル専用の魔法である……おい!


 脂質を分解するために普通に界面活性剤を使うか、アルカリ性の水溶液を使うか、もしくはアルコール使用するかで俺達三人の中でも意見は割れた……同時に俺と紫村もマル専用ではない簡易洗浄法を作っていたのだ。

 俺の推しは一番皮膚や毛にダメージが少なそうなアルコールだったが、乾燥時の臭いが強力過ぎて没となり、結局は紫村の「石鹸を使えばいいでしょう。元々安全は保証されてるのですし、おまけに安価で入手も簡単」で界面活性剤に決定した──


「やはり、俺の身体は現実世界と異世界にそれぞれ別の身体があるみたいだが、マル達の身体はどちらの世界も共通の身体一つというわけだ……」

 という事は、現実世界と異世界を往復させ続けると肉体の老化がかなり早まってしまうという事か……

 ファンタジーなんだからいずれ不老長寿の薬でも見つけたら飲ましてやろう……面白そうだしな。


『……う、うん、アレ? タカシだ。おはようタカシ!』

 早速ペロペロと挨拶代わりに顔を舐めてくる……やっぱり口は獣臭いのはいかんともしがたい。

『おはよう。マル』

 俺がマルの顔に顔をこすり付けてやるとマルも目を瞑って顔をこすり付けてくる。

 ちゃんと意思の疎通が出来るというのは素晴らしい。朝のスキンシップ一つとっても今までとは世界が違う……などと言ってる場合ではなく、散歩に行かなければ。


『散歩に行こうか?』

『うん、行く! 散歩大好き! タカシとの散歩が一番好き!』

 そんな可愛いく答えると、俺の腕の中から抜け出して、俺の周りを一周しながら匂いを嗅ぐような仕草をすると『今日も異常なし!』と伝えてきた。

『異常なしって?』

『タカシの臭いがいつもと一緒だから大丈夫ってことだよ』

『マル。お前は毎日おれの健康を気遣ってくれていたのか?』

 やばい。マルの心遣いに思わずウルッと来てしまった。

『?』

『マル。ありがとうな!』


「おはよう高城君。ところで何をしているのかな?」

 感激しマルを抱きしめて、頬ずりしながらワッシワシと撫でていると紫村が目を覚ました。

「おはよう紫村。何をしてるかって? マルがな毎日──」

 ちょっとドヤ顔で自慢してやった。


「それは単に犬の習性だよ。彼らは臭いで相手の状況が何を食べたか、健康状態はどうか、そしてその日の機嫌までもチェックするからね。だから特に君の事を思ってのことじゃなく……落ち込まないでよ」

「べ、別に落ち込んでなんか無い!」

 ……落ち込んでます。


「ところで、もう一晩泊まってもいいか?」

「構わないけど……何かあるのかい?」

「櫛木田達をここに呼び出すって話だけど、ついでにあいつらもあっちの世界へ連れて行こうと思うんだが、どう思う?」

「急だね。急だけど時間をおいて何かがあるわけじゃないから……うん、問題は無いね」

「そうか、すまないな迷惑をかけて」

「僕が迷惑というよりも、昌枝さんの仕事が増えるんだよ。お詫びにコカトリスの肉を、珍しい地鶏の肉が手に入ったからとでも言っておすそ分けしてあげて欲しいな」

「それなら全く構わないが、渡すのは任せる。何処の地鶏かと深く突っ込まれても困るけど、お前から渡すなら『貰い物だから詳しい事は分らない』で済ませられるだろう」

「その方が良さそうだね」


 早速、台所に行き、綺麗に磨かれたシンクにコカトリスの肉の塊を肉を取り出すと、流水で丁寧に洗い流してからキッチンペーバーで水分を叩くようにして拭き取る。

 適当に二キログラム程度の塊にして……二キログラム一塊の鶏胸肉など一体どんな鶏から取れるというのだろう? 間違いなくそれは鶏じゃない。


 皮のつき方で元の大きさを推測されないように皮を外して、適当に目見当で三百グラムくらいの塊に切り分けてからポリ袋に詰め、同様に今晩の晩飯の用にも二キログラムほどを切り分けてポリ袋に詰めて冷蔵庫へと入れておく。

 オーク肉とミノタウロスの肉は帰ってきてからでも良いだろう。


「本当に下ごしらえの手際だけは鮮やかだよね」

 その口調には全く誉めている様子はなく、むしろ呆れていやがる。

「これが味付け、過熱、そして人の口に入る形に包丁を入れると酷いことになるのですから不思議です」

「高城君。君は何か呪われてるんじゃないかな?」

「ウルセェ! お前は櫛木田達に連絡をいれておけ!」

 全くこいつらは俺の事を何だと思ってやがる。



 いつもの堤防上の散歩道を、いつもより少し速いペースで走ること二十分。

 少しずつペースを上げることで、護衛の連中を引き離して彼らが足による追跡を諦めた頃には、既に市街地を離れ、山に差し掛かった他人目の無い場所だったので一気に加速して距離を稼ぐ。


 マルだけじゃなく、紫村や香籐でも時速六十キロメートル程度での長距離は全く問題は無い。

 途中で散歩道は無くなり、上流にあるダムに向かう歩道も無い片側一車線の車道を走ってきたので、早朝という時間帯もあってマップ上で確認しても周囲五キロメートル以内には俺達以外には誰もいない。


『じゃあマル。この先を少しずつ速度を上げながら走るんだ。多分途中で上手く走れなくなるから、そうなったら走るのを止めるんだよ』

『マル走れなくなくなるの?』

『説明するのが難しいから、走ってみた方が早いよ』

『うん、分った!』


 どんどんと速度を上げていくマルに併走して走る。

 低い体勢で空力抵抗の少ないマルに対して、俺達は早い段階で限界が来る……だって人間だもの。

 一方でマルは更に速度を上げて、マップ機能グリッドを利用して百メートルのグリッド間の通過タイムから割り出した平均速度は時速百三十キロメートルとチーターすら越える……だが。


『タカシおかしいの。もっともっと速く走れそうなのに上手く走れないよ』

 そりゃあそうだろう。車輪で走る車などとは違って脚で走る場合は、より速く走るために地面を強く蹴れば蹴るほど、前進する力だけではなく上へと跳ぶ力も増える。

 そうなれば身体が浮いて着地するまでの間隔が伸びていき、加速出来ない空中で空気抵抗により失速してエネルギーのロスが大きくなるために、姿勢や地面の蹴り方を考えてフォームを改造しない限りは、今の速度が限界と言う事だろう。


『マル。どうやったらもっと上手に速く走れるようになるか自分で考えてみて』

 宿題を出す。今のマルならば解けない宿題ではないと思う。

『えっとね、今以上にもっと力を入れてドーン!って地面を蹴るの』

『それはやめて』

 きっと道なき山奥へとマルを探しに行く事になりそうだから。

『え~!』



「そろそろ戻らないと騒ぎになりそうだな」

 マルと香籐が追いかけっこしながら走り方を研究しているのを見ながら紫村に話しかける。

「そうだね、護衛の人達も今頃は必死になって僕達を探しているだろうね」

 徒歩での移動で振り切られた後に、車に乗って追跡をしたのは間違いないだろうが、振り切った直後から人類には決して出せない速度まで加速し、それを維持したまま長距離走ったとは想像も出来ないだろうから、追っ手としても常識的最大限にお代わりを盛って見積もった想定範囲内に俺達の姿が無いことにパニックになっていることだろう。少し可哀──

 ……くすっ。

 横を振り返ると、同時に紫村が同じ方向に振り返り顔をそらした。


 こいつ……今のタイミングから考えて俺と同じ想像をした上で笑ったんだよな?

「そろそろ戻ろう」

 横を向いたままで誤魔化そうとするが俺は突っ込まないでおく。


『タカシ! タカシ! マル速く走れるようになったの。ほめて! ほめて!』

 嬉しそうにじゃれ付いて来るマルを撫でながら『速かったよ。マルはとっても頑張り屋さんでえらいね』と答えた。

『うん、マル頑張ったよ!』

「ああして二人の世界を作って、マルちゃんとほっこりと心の温まる触れ合いをしてるんですよね」

「それは間違いないだろうね」

「妬ましい、妬ましい、妬ましい……」

「そこで、自分の家にペットの犬が来て、自分の使い魔にしてコミニュケーションやスキンシップをしている様子を想像して」

「……………えへっ、えへへへへへへっ……」

 自分の妄想に酔ったかのように蕩けた笑顔になる。そして香籐を良い様に玩具にしている紫村は邪悪な微笑を浮かべているよ。


 昨日から紫村の暗黒面が表に出てきているのは気のせいじゃないと思う。

 これを友人として打解けてきて素が紫村が現れてきたと喜ぶべきか……余り嬉しくは無いけどな。


『大人しくしててね』

 そう言って抱き上げると、マルは両の前足を越しに背中に回して同じ高さの目線になると、俺の頬に額をぐりぐりと押し付けてくるので、側頭部を軽くコンと額にぶつけてから【迷彩】を掛けて姿を消すと浮遊/飛行魔法で空に浮かび上がるとゆっくりとした加速で紫村の家へと向かう。


『高いね!』

『怖いか?』

『タカシと一緒なら怖くないよ!』

『そうか。それならもっと速度を上げるぞ』

『うん!』


『……なんて事を話してるんだよ』

『なんて羨ましい! マルちゃ~ん!』

 お前ら本当にうっさいわ!



 川沿いの散歩道の山へと向かうコースの反対側に少し行ったところで人目を気にしながら着地して【迷彩】を解除すると、何食わぬ顔で紫村の家へと戻る。

 紫村宅の玄関を伺える位置で路上駐車している車の中で運転手が焦った表情でどこかに電話しているのを確認した。

 ちなみに俺達はこいつらの連絡先は知らないが、こいつらは俺達の連絡先を知っているし通話局から俺達の携帯やスマホの位置を特定する事も出来るのだろうが、姿をくらます時には携帯は収納してあるので俺達の位置を特定する事は出来ない。


 その辺はごお疲れさんとしか言いようが無いが給料分の仕事だと思って諦めて貰いたい。

 最低限の礼儀として運転席の男に軽く手を上げてから目礼するとさっさと門扉の内側へと入る。男は聞こえてないつもりだろうが「この糞餓鬼!」と小さく罵ったのは俺達の耳に届いているので、最後に振り返りそして嗤ってやった。



 クルーダウンに

 紫村に風呂を譲ると俺と香籐とマルは、紫村の部屋で風呂代わりの簡易洗浄法で、ついでに洗濯も済ませ身を整えて風呂上りの紫村を迎えた。


「君達もふ……何故?」

「いや折角、風呂魔法があるんだから」

「そうじゃなくて、どうし──」

「お前が風呂に入っている間が一番安全だからに決まってるだろ」

 この世で最もホラー的なアレが現れて欲しくない風呂場という真っ裸で無防備な状態だ。

そこにこいつが嬉々として乱入して来るのを考えたら最良の判断だったいえるだろう。

「そんな、折角今日こそは──」

「今日こそは!?」

「危なかったんですね……」

 アブネェ! 本当に危なかったんだな俺達の貞操。

 ボディーブロウを喰らわせ、倒した紫村に比較的身体の接触面が少なくてすむロメロスペシャルを極めながら、背筋が凍るような恐怖を噛み殺すのだった。



 北條家へと向かう道すがら、背後から俺達を尾行する護衛達から恨みがましい視線が飛んで来るが無視する。

 確かに護衛が付いている事での恩恵はある。

 現在のところ一年生達の安全は彼らによって保障されているといっても過言ではない。それ以外の部員達も彼らが護衛しているためにちょっかいを掛けてくる馬鹿がいないということで無駄な手間が省けている。

 だけど、一日中黒服の男達が付いて回るというのはとても世間体が悪い。

 元々あまり世間体がよろしいとは言えない俺達だ。だからこれ以上悪くはしたくないので、はっきり言って迷惑である……彼らとはそんな微妙な関係だ。


「いらっしゃい」

 大きな門の前で北條先生が笑顔で出迎えてくれた。これで今日一日分の幸福を充電したよ……それじゃあ、今日はもう幸福が訪れないみたいだけど、良くある事だ。


「おはようございます。今日もお世話になります」

 俺に尻尾が生えていたならブンブンと振り回していただろう。

「おう、世話してやるぜ」

「……今日は良い天気ですね」

 曇ってるけど。

「……ええ、そうね。さあ道場の方へ」

 ぎこちなくだが先生も話をあわせてくた。その顔にはどこかほっとした表情が浮かんでいた。


「そうですね行きましょう」

「失礼します」

 俺達四人は、この場に自分達以外の人間は存在せぬものとしてその場を後にしようとする。

 マルが不思議そうに『この人、放っておいて良いの?』と聞いてきたので『良いんだよ。むしろ相手にしちゃ駄目だよ』と伝えた。


「待てぇい!」

 背後からそう叫ぶ声がしたが、それで待つくらいなら無視などしない。俺達は更に歩を早めて立ち去る。

「待てと言っておろうが!」

 爺が回りこんで、行く手に立ち塞がる。

「何ですかお祖父ちゃん。朝ごはんならもう済んでますよ」

「だから儂はボケとらん!」

「ボケてないなら昨日お祖母ちゃん叱られた事くらい覚えているよね?」

「弥生。それを言うでない! ……ともかくだ。昨日の借りは今ここで熨斗をつけて返してやるわ!」

「いい歳して叱られたんだ。可哀想だな」

「可哀想ですね」

「そうですね……」

 紫村、嘲笑はやめろ。そこは憐憫をプレゼントしてあげるところで、まだ爺を煽る場面じゃない。


「お前ら良い度胸だ」

 爺が低く構えて腰に伸ばした手は、何かを求めてさまよっている。

「お祖母ちゃんに取り上げられたでしょう? お祖父ちゃんたらボケちゃって」

「ボケてねぇ! た、単に何時もの癖で、ど忘れしただけだ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ。


「お、お前ら良い度胸だ……」

 つぼに入ったのか香籐が肩を震わせて耐えているが、明らかに耐え切れていない。

「……ぷっ」

 吹いちゃうくらいなら最初から笑ってやれよ。溜めただけに相手のダメージも大きくなると俺は思うよ。


「このっ──」

「父上。それくらいにしていただきたい」

 激発しかけた爺をお義父さん……いやいや気が早い。北條先生のお父さんが間に入って諌める。

「東雲、邪魔をする気か?」

「彼らは弥生の生徒であり、弥生が招き私が認めた客人ですよ。それを先代とは言え隠居の身である父上が狼藉を行うとは……あんな狼藉を……あんな狼藉を……」

 肩を震わせながら何度も呟き続ける。


 壊れたか? と疑った次の瞬間、振り返り俺の手を掴む。そして

「重ね重ね申し訳ありませんでした! 先日の朝の件だけではなく、帰り際にまでもあの様な真似を父に許してしまったのは、この私の落ち度。如何様にもお詫びをさせていただきますから、先日の件は何卒、何卒内密にしてはいただけないでしょうか!」と涙目で訴えてくる。

 何この、凄い親近感を覚える小市民っぷり。


「いえ、先日の件は気にしてはおりません。家族に凶状持ちがいたとして貴方が責められるのは貴方の子であった場合だけでしょう。それが父親ならば、誰にも貴方を責める事など出来ません」

 強いシンパシーに思わずそう答えた事を俺は後悔しない。家にだって凶暴な獣がいるから……マルの事じゃない。


「良い人だ。弥生、この少年はとても良い人だよ」

「はい、高城君は自慢の教え子です」

 北條先生。何と過分なお言葉……もうこうなったら結婚するしかないよね?


「東雲。当主面して儂に説教か?」

「家人の粗相を糾すのが当主のつとめならば」

「随分と偉くなったもんじゃないか……貴様如きが」

「勿論、父上の素行が問題になり、未だ大学生だった私が大学を中退してまで当主の座を押し付けられた時から」

「…………」

「大学卒業まで後一年を切っていたというのに、親族会議で貴方が当主の座から下されて、私に当主の座が押し付けられたんですよ。未だ二十少し過ぎの私がね。それからどれほどの苦労を──」

「…………じゃあ、そういうことで」

 形勢悪しとみて、素早く逃げ出す爺……こいつ、一体何をやらかしたんだ?



 勉強会は先日同様に滞りなく進む。

 若い頃の努力は買ってまでしろとも言うが、少年老い易く学なり難しともいう。

 努力は嫌だが、好き嫌いで努力を厭う事が許される立場には無い事を身をもって理解している。

 だがどんなに努力をしてもオーダーの水準が高ければ普通に努力していたのでは駄目なのだ。努力以上、つまり効率の良い努力が大事なのだ。

 間違った方向に努力している余力などは無い。救難ボートで太平洋を彷徨う遭難者みたいに、限られたリソースを最大限有効に使わなければ死んでしまうから。


 だから俺達は勉強にも効率を求める。

 英語なら、勉強する前の下地として無理矢理にでも単語を頭に詰め込み、文法を無視してひたすら語彙を増やす。十分に語彙を増やしたなら洋画を吹き替えではなく、そして字幕無しで観まくる。


 単語を聞き取れて単語の意味が分かるなら、後は画面を見ていれば大体の意味が分ってくる。

 この大体の意味が分かってくる事が何よりも大事だ。何も引っかかるものが無いつるつるに磨き上げて、更にテフロン加工を施した壁に水をかけても綺麗に流れ落ちるだけだ。


 そんな徒労としか言い様の無い真似をさせられて学習意欲が沸くはずが無い。

 それに対して「ああそうか」「なるほど」という知的刺激を得られる下地があれば、学校のどうしようもない屑みたいな授業でも学習効果は上がる。


 幸い一年生の中間試験の範囲なら十分な語彙さえ蓄えておけば高得点が可能で、教科書の試験範囲にある単語を全て叩き込むのは難しい事ではない。難しくないので試験範囲外の単語も強制的に叩き込んでいく。

 そう、既に彼らも大島の『出来ないとは言わせない』指導方針の下で『出来ないを出来るに変える不思議な(笑)心の力』に目覚めているのだから……



「本当に空手部の皆は勉強にも真剣に取り組んでくれるから教え甲斐があるわね」

 俺達は常に真剣に物事に取り組むから、余暇ですら限られた自由になる時間を有効に使うために真剣に全力で遊ぶ。

 その真剣さは、大島がいなくなり時間に余裕が出来た伴尾が大作RPGをネット情報無しに一週間でクリアするほどである……決してゲームにのめり込めるほどの時間は無いのにも関わらずだ。


「折角の休みだというのに時間を割き、その上に場所まで提供して頂いて、教えて頂いているのですから当然です。このご恩に報いるのは試験で結果を出すしかありません」

 櫛木田の必死のアピール。北條先生へのアピールだけなら許そう。実際俺も先を越されただけだ。だが、こちらを見てドヤ顔をきめられるとイラっとするわ

 だが、これは櫛木田はこちらを意識しているが、俺は櫛木田を意識していないという格の違いを示しているのだ……負け犬めが……もしかして、これはフラグ?


 そんな俺の葛藤とは関係なく、一年生達の北條先生への好感度は急上昇だ。

 一年生達の評価は「こんなに丁寧に優しく教えてくれるのは俺達の学年の先生にはいない」などは良いとして、小声で「美人だ」とか「可愛さもある」などと色気づきやがっている。

 一年生達の様子に田村は「貴様らには百年早いわ」などと先生には聞こえないように漏らしているが、年齢差的に俺達は九十八年も早いことになってしまう。



「弥生さん。昼餉の準備が整いました」

 二十歳過ぎくらいの剣道着に袴の女性が道場の入り口から控え目に声をかけてきた。


「ありがとうございます。これから参ります」

「はい。では皆さんお待ちしております」

 立ち去る女性の後姿を部員達がチラチラと追うのは仕方ない。剣道着の袴というのはそそる。腰高の位置でぎゅっと絞られてからの腰のライン。露出が低いからこそラインがヤバイほど引き立つ……北條先生が着てくれたならだ。

 もしも北條先生があの姿で勉強を教えてくれたなら……想像しただけで気が遠くなる。


 剣道部の部活の様子を見に行けば、北條先生のあの姿は見られるはずなのだが、剣道部の部活の時間は空手部の部活の時間でもあり、俺達は前世のどんな罪を犯したのかは知らないが、同じ学校の違う場所で苦役に就かされていたのだ。


 そうだ。テスト明けには、自主練で運動公園に行く前に剣道部の部活の様子を少し見学しよう。理由を考えるのは難しいが、多少理由が苦しくても一度くらいは許されても良い筈だ。



「いただきます」

 ……膳の上に載せられたカレーライスを見たのは生まれて初めてだよ。

 日曜日は、第二道場……そう驚くべき事に、本道場と俺達の使っている長刀教室用だった道場とは別に未だ道場があった……想像以上に手広くやっている様だ。


 そこで子供達に教える剣道教室があるということで、昼は毎週カレーライスだそうだ。

「……美味い!」

 一見するとカツカレーだが、プレートの脇に盛られた千切りのキャベツ。そして濃い目の味付けに独特のまろやかな食感で、所謂金沢カレーを思わせるが、酸味と香り、そして強いコク。チーズ……いや違う。クリームチーズがふんだんに溶かし込んである!

 ケンシロウならこういうだろう。「お前のような金沢カレーがいるか」と、だが美味い。実に贅沢な味わいだ。このカレーをオークやミノタウロスの肉で作ったなら天国を垣間見ることになるであろう。


「お代わり!」

 子供達の声に空になった皿をじっと見つめていた部員達が「えっ! お代わりありなの?」という表情を浮かべて俺の方を見る。

 だが俺は目を瞑って首を横に振る。

 当然だ、彼らは月謝を払って修行をし、その修行の一環として同じ釜の飯を食っているのだ。ただ飯ぐらいの俺達とは立場が違う。居候は三杯目にはではなく一杯目で我慢しろという事だ。


「皆もおかわりしてね」

 上品そうな四十代後半位の女性、先生のお母さんで北條 芳香(よしか)さんが声を掛けてくれる。

 親子だけあって互いに面影を感じさせる顔立ちで、先生もこんな風に齢を重ねるのだろうと思わせる。

 単純に見た目だけなら妹の方が似てるのだろうが、纏う雰囲気がアレだけは明らかに別物のだ。


「いえ、僕達は身体を動かしていた訳ではないので──」

「中学生は寝てても勝手にお腹が空くものでしょう。遠慮なんてしないでどんどんお代わりするの」

 そういうと、俺の膳からプレートを取ると俺に手渡して「ほら、向こうでお代わりを貰ってくる」と言って、俺の背中を押した。

「ありがとうございます。ではお代わりを頂いてきます」

 頭を下げて礼を言うと部員達に目配せをする。すると連中は待ってましたといわんばかりにプレートを手に立ち上がると一斉に「ありがとうございます」と言って頭を下げた。


「なあ、兄ちゃん達、ここに来て身体動かさないで何してるの?」

 食事を済ませて暇になった子供達の一人、小学校の低学年くらいの男の子が俺の元にやって来て質問してきた。

「俺達は北條先生……弥生先生の教え子で、勉強を教えてもらっているんだ」

 この場で「北條先生」と呼ぶのはおかしいから咄嗟に言い直したが「弥生先生」か……素晴らしい響きじゃないか。弥生先生。今後はそう呼びたい。


「すっげえ! 休みなの勉強してるの? 兄ちゃん達すげえな。真面目か!」

 妙な感心のされ方をしたものだ。

「余り真面目じゃないから、休みなのに勉強する事になったんだ」

「それじゃあ、兄ちゃん達は不良か?」

「不良って程じゃないな。まあ普通だ」

「そうか普通か、普通が一番だな。父ちゃんもそう言ってたぞ!」


「そういえば、兄ちゃん達空手やってるんだってな」

 そう言いながら正拳突きの真似事みたいな突きをしてみせる。

「まあ、空手……みたいなことはやってるな」

 正直、本当に空手なのか未だに自信が持てない。俺達が所属しているのが空手部だという事以外に、何の根拠も無いから……実際、ネットの動画とか見ても微妙に違ってる気がするんだよ。

「強いのか?」

「う~ん、そこそこじゃないかな」

 大人な対応で適当に誤魔化す。


「……そこそこって、どれくらいそこそこだ?」

 想像もしなかった切り替えしに頭がフリーズする。そうだ子供に大人な対応が通じる筈が無かった。

「……ど、どれくらいそこそこ?」

 そんな言葉は聞いた事が無いぞ。

「うん!」

 俺の疑問に一切の曇りなき笑顔でそう答えた。まさか、あるのか? 『そこそこ』にどれくらいとか程度が本当にあるのか? そこまで日本語は奥が深いのか?


「ねえ、どれくらい?」

「どれくらい?」

 うわっ! 他のガキンチョまで集まってきやがった。

「そうだな……──」


「強いわよ」

 俺がどう答えたものかと逡巡していると、北條先生が答えてしまった。

 あのね先生。現代社会で生きていくにはほとんど意味の無い腕っ節の強さをひたすら磨いてきた様な馬鹿チン共が、自分の目の前で強いと名乗る人間が現れたらどう思うか、その辺を考えて発言して貰いたいんだけど。

「やっぱり強いのか!」

「おっちゃん達が言ってた通りだ」

 なるほど年嵩の門下生達は、俺達の立ち居を見ただけある程度の実力を把握していたのか……侮れないじゃないか。


「このお兄ちゃんは、あのお祖父ちゃん先生の杖をへし折ったのよ」

「えっ? ……兄ちゃん、祖父ちゃん先生の杖を折ったのか?」

「いや……まあ、成り行きで」

「年寄りは労わらなきゃ駄目なんだぞ」

「駄目なんだぞ!」

「兄ちゃん、やっぱり不良か?」

 いきなり状況が変わった。俺が責められるのか? この世の理不尽の全てが俺目掛けて襲い掛かってきたかのような納得しがたい状況だよ。

 ちらりと視線を送ると、爺が嬉しそうに口元を吊り上げていやがる。


「良いのよ。元々お祖父ちゃん先生の方からいきなり襲い掛かったんだから」

「!」

 俺を批難していたガキンチョ共が驚きの表情で一斉に爺を振り返ると、爺はすっ惚けてお茶を飲んでいる振りをしている。

「爺ちゃん先生が悪いのか!」

「爺ちゃん先生! 本当にそんなことしたのか?」

 ガキンチョ共はそう言いながら爺の元へと突撃して行き、爺は脱兎の如く逃げ出した。


「あっ逃げた!」

「逃がすな!」

「吊るせ!」

 しかしガキンチョは簡単に諦めない。奴らは一度標的を設定すれば電池が切れるまで全力で追い続ける習性を持っているのだから。

 それにしても最後のは意味が分かって言っているのか?

 しかし、その追跡も長く続くことはなかった。

「あっ! 犬がいるよ!」

「うわっ、強そう!」

「格好良い!」

『何か子供がたくさん来た! 子供大好き! 遊んでも良いの? ねえ、遊んでも良いの?』

 追跡者達がマルという新たな獲物を発見してしまったからだ……爺め命冥加な。



「それでは今日はここまでにします。明日は先生は参加出来ないけれど、明日もここで勉強をしてください……サボっては駄目よ」

「はい!」

 北條先生にそう言われてサボれる奴は空手部にはいない……そう既に一年生達すらもだ。

「それでは先生。今日もありがとうございました」

「ありがとうございました!」

 空手部一同で頭を下げ、北條に見送られたながら北條邸を後にする。

 そんな和やかな空気の余韻は長くは続かなかった。



「どういうことだ高城?」

 そう強い口調で詰るように詰め寄る櫛木田の顔は青褪めている。

「紫村の家とは聞いてないぞ」

 田村の顔からも血の気は失せている。


 勉強会終了後、櫛木田達を連れてきたのは俺の家ではなく紫村邸だった事への当然の訴えだ。

「今晩、お前達が泊まるのはここだからだ。紫村からどう聞かされたかは知らないが、紫村の家に泊まると聞かされていないのかもしれないが、俺の家に泊まるとも聞かされていないだろう」

「だ、だが俺が紫村から聞いたのは『高城の家には今両親がいないから』という事だったぞ……まさか!」

 伴尾の顔には脂っぽい汗が浮かんでいる。


「その通りだ。俺の家に両親がいない事と、今晩紫村の家に泊まる事は全く関係は無い」

「汚いぞ!」

「そんなに紫村を誉めるなよ」

 だって、俺が言ったんじゃないもんね。


「まあ落ち着け。大切な話があるのは事実だ。それに美味い飯も食わせてやるから中に入れ」

「美味い飯とは?」

 半分近くが食欲で出来ているような中学男子には有効な言葉だ。

「滅多に手に入らない。希少かつ極上の牛豚鶏が手に入ったので焼肉パーティーを開催する。嫌なら良い、今からでも二年生達を呼ぶ」

「は、張ったりだ。そんなので俺達が騙されるとでも?」

 想定内だ。俺は予め冷ましてレンジバッグに入れておいたオーク肉の串焼きをスポーツバッグの中から取り出すと見せかけて【所持アイテム】内から取り出すと、張ったり呼ばわりした田村に投げつけた。


「焼いてから時間が経っているが、お……豚肉の串焼きだ。食ってみろ」

「こんな串焼き程度で……不味かったら帰るからな! いいな?」

 受け止めた串焼きを胡散臭げに見ていたが、大振りにカットされた肉の塊に「ごくり」と喉を鳴らす音が響く。

「食ってみてから言え」


 田村はレンジバッグから長さ二十五センチメートルほどの串焼きを取り出すと、警戒するようにじっくりと目で確認し、次いで匂いをかいで異変が無いかを確認する。

「断っておくけど、高城君の手は一切入ってないから安心しても良いよ」

「それを早く言えよ!」

 紫村……田村……お前らぶっ飛ばす。いやいつか俺の料理をお見舞いしてやる!


 田村は安心して串に打たれた五つの肉の一番上のに齧り付く。

「……な、何だこれは? 一体なんだというんだ?」

 身体を震わせる田村。

「どうした田村?」

「まさか、高城の料理? 謀ったな紫村!」

 ……うん、櫛木田にも俺の渾身のオリジナル料理をお見舞いしてやる。


「う、美味い。これは本当に豚肉なのか? だとするなら俺が今まで食ってきた豚肉とは何だったんだ?」

 ごめんね。本当は豚肉じゃないんだ。その件に関しては本当に謝る……多分、すぐ近い内に。


「大げさな。そこまで驚くようなものじゃ」

「だったらお前は食うな。これは全部俺が食う!」

 その後は三人による醜い肉の奪い合いになった……気持ちは分らないでもない。それほどまでにオーク肉の美味さは衝撃的だ。

 俺もその肉がどういう素性の肉か分っていながら食うことを止められない自分の浅ましさに泣けてくるほどだった。


「それで中に入る気にはなったのか?」

「仕方が無いから入ってやる!」

「……香籐。二年生達を呼び出せ」

「はい」

 香籐がスマホを取り出すと田村と伴尾が割ってはいる。

「ちょっと待った! 俺は入って話を聞くぞ」

「俺もだ。帰るのは櫛木田だけだ」

 清々しいまでの切捨てっぷりだった。人間の欲望とは簡単に友情すらも破壊するのだ。



 食事は、俺が下処理した肉を、香籐が適当な大きさに切りそろえ、紫村がキャンプ用の炭のコンロで焼いていく。他には家政婦さんが用意してくれた大量の具なしおにぎりと、ざく切りにした処理された野菜たちで、野菜は紫村がコンロの端に載せた鉄板の上でサイコロ状にしたオーク肉とミノタウロス肉と一緒に野菜炒めにしていく。

 飲み物は水か麦茶を用意した。ジュースの類では折角の味を邪魔してしまうからだ。


 下処理が終わってしまえば俺にはやることは無い。つうか何もやらせて貰えない。こうやって皆が俺から調理の機会を奪うから上達しないんだよ。


『タカシ。これ美味しいね! とても美味しいね!』

 マルが尻尾をブンブンと振り回しながら切り落としの部分の肉を食べている。

 これからは、今までの食事とは別にマルに餌を与えないと増えた運動量に対して栄養価が不足することになる。食事自体を用意するのはさほど問題は無い。

 適当な大きさに切った肉。それに野菜や果物は夢世界の方で調達すれば良い。だが何時マルに餌を与えるかとなると朝晩の散歩の時間になってしまうが、それ自体は問題ない。


 問題は俺がいない時だな。今年の夏は合宿も無いし修学旅行は去年済ませてある……とりあえず暫くは問題は無いか。あるとしたら来年高校に行って宿泊研修の時だろう。

 未だそれまで十分に時間はあるが何か手を考えておかないと……あれ? そういえば【所持アイテム】ってマルにも使用出来たから、それを使いこなせるようにすれば良いだけか。


 ただし、マルが何時でも取り出せる餌を持っていたとすると……際限なく食べてしまう可能性があるな。この場合、マルは自分で節制なんて出来るのだろうか?

 幸い時間は未だ十分にあるのだし、意思の疎通も出来るのだから話し合えば何とかなるだろう。


『マル。何時ものカリカリ──ドライタイプのドッグフード──もちゃんと食べるんだよ。これはマルの身体に良い物がたくさん入ってるからね』

『身体に良いって何?』

 そうか何気なく使っている言葉だが確かに漠然としすぎていて訳が分からないか。

『先ずね。マルが大きく立派に育つために必要なものがたくさん入っているんだ』

『大きくなれるの? マル大きくなりたいよ! タカシより大きくなって背中に乗せて走りたい!』

 それは随分と大きな夢だな。


『そこまで大きくなれるかどうかは分らないけど、美味しい肉だけを食べてるより大きくなれるよ』

『マル。カリカリもっと食べる!』

 他にも健康で長生きして貰いたいという思いもあるのだが、大きくなりたいという目的があるなら敢えて口にする必要もないな。



「……もう食えない」

 紫村邸の庭の芝生の上に仰向けに寝転んだ状態で伴尾が苦しそうに、そう口にする。

「誰がそうなるまで食えと言った?」

「いや、これだけの肉を出されたらそれは無理だろう」

「お前も、他人事のように言うなら立って言え」

 田村も伴尾の隣で仰向けになっていた。


「ほうでぃあこおだえいいいうぼ──」

「だからお前は何時まで食ってるんだ!」

 二人のようながっつく食べ方はしないが、上品でありながらも、一瞬たりとも口の中を空にはしないハイペースで食べていた櫛木田は、二人が倒れた後もペースを落さずに食べ続けている。

「こんにゃいうもいおお──」

「話しながら口に物を入れるな!」

 口に物入れて話すならともかく、話しながら肉を口に入れるとはどれだけ器用なんだ?


「お前達が望むなら、この肉が毎日でも食えるようにな──」

「俺はお前が予想通り悪魔だったとしても、たった一つの魂を売ろう」

「嫌な予想をするな!」

 櫛木田とはいっぺん話し合う必要がありそうだ。


「……命の保障さえしてくれるなら」

「命と肉か……やっぱり肉かな?」

「お前達は俺を何だと思っているんだ?」

「ちょっと物分りのいい大島」

「弱体化大島」

「大島よりはマシ」

 三人は一斉に即答してきた。


「だから言ったよね。最近大島っぽいって」

「ぼ、僕はそんなこと思ってませんよ」

 香籐。嘘でもありがとう。


 でも、そこまで言うなら大島風に問答無用でやってやろうじゃないか! 博愛精神に満ち溢れる愛の戦士になるくらいなら俺は大島で良い。

 いきなり【昏倒】を使って三人を眠らせると、すかさず収納する。


「えっ! 説得は?」

 紫村も驚きの表情を隠せていない。

「ここでグダグダ話をするより、実際にあっちの世界に連れて行った方が話が早いだろう……これが俺の考える大島のやり方だ。文句あるか!」

 もう開き直ったから怖いものなんて無い。だって俺は、いや俺が大島だからだ! ……やっぱり嫌だ。


「ところで、もう一日僕等もあちらの世界に行くことになったけど、例のアレを狩るのかな?」

「無理だな。アレを狩るには準備がいると思うし、櫛木田達にも実際に戦いを経験させておく必要があるからな」

 先ずは十分に情報収集をして、出来るなら軽く一戦交えて、その後じっくりと対策を立て必要な物を揃えてからだな、それをせずに戦うほど自信過剰ではない。


「それなら、次の休みぬい僕が一当たりして力量を探るから心配は要らないよ」

 抜け駆けするなと釘を刺してきた。

「僕の事も当てにしてください」

 畜生!



 焼肉の後始末を手早く済ませると、マルと散歩に出ようとして香籐に止められる。

「何だ? マルとの散歩は俺がする。お前は諦めてさっさと寝ろ」

「そうじゃなくてですね」

 そこで一旦言葉を切って、ちらりと紫村を視線をやってから覚悟を決めた様に「僕が風呂を上がるまでここにいて下さい」と切り出した……割と必死だった。

「別に無理矢理どうこうしようと思うほど香籐君は僕の趣味じゃないよ。君の方からどうしてもと言うのならとも──」

「言いません。絶対に言いません。死んでも言いません」

 無理矢理じゃなければ、どうこうしたいとも受け止められる発言に、香籐は真っ青な顔で首を千切れんばかりに横に振った。



『夜はゆっくり~』

 夜の散歩は朝に続いて夜も失踪するのは可哀想なので軽く流しながら走る。

『こんな風にゆっくり走るのも好きか?』

『うん、好き~! お母さんと一緒に歩くのも好き!』

『そうか。俺もマルと一緒に歩くのも好きだよ』

「キャウン!」

 マルが大喜びでスキップするように跳ねながら俺の周りを回りだす……リード捌きが大変だよ。

『ずっと一緒にタカシと歩いたり走ったりするの。ずっとずっと一緒に!』

『そうだ。ずっと一緒だ』

 ならばどうしてもマルの寿命を延ばす方法を考えなければならない。猫なら気合を入れたら尻尾が二股になって妖怪化してくれそうだが、犬なら首が三つになってケルベロスか……正直、そんな風になったマルを想像するとちょっと……いやかなり気持ち悪い。

 他に思いつくのは人面犬……犬の化け物はどうしてこうもビジュアルが酷いんだ?


 紫村邸に戻り、マルと一緒にゆっくりと風呂に入る。やはりゆったりと寛げるかどうかというなら、魔法だろうが魔術だろうが本物の風呂には勝てない……要改良だな。

『プルプルして良い? 良い? ねえ、良い?』

『ちょっと待って!』

 身体の水を振るい飛ばすためにプルプルしたくて堪らないマルを制止すと【操水】でマルの毛の間にたっぷりと含まれた水分を抜き取り、排水溝へと流す。


『マル。もう我慢出来ない!』

 マルは全身を捻るように身体を動かすが、既にほとんどの水分は取り除かれているので飛沫は飛び散らなかった。

『あれ~?』

 何かいつもと違う事に気づいたマルが、俺をじっと見上げて何かを訴えかけてくる。

『先に魔法で水を飛ばしたんだよ』

『……魔法?』

『こんな感じに……』

 俺は再び【操水】を発動すると、天井や壁に付着した水滴すべてを集めてマルの目の前に浮かべて見せた。

『うわ~! 何これ? 魔法?』

 球形になった水の塊に鼻を近づけたが、触れて良いものなのか警戒しているので、水を少し近づけてマルの鼻先を少し飲み込ませた。


「キャン! ……クゥ~ン」

 驚いて一メートルほど後ろに飛び退くと、首を振って鼻に付いた水を振り払うと尻尾を丸めて情けなそうに鳴いた。

 その様子に笑いを堪えながら、水の塊を動かしてマルの周りを巡らせた。紫村邸の大きな風呂場だからこそ出来る真似だ。


『タカシ、タカシ、こいつで遊んで良いの? マル遊びたい!』

『……よし、やっつけるんだ』

 一応、興奮しすぎて風呂を壊した場合に備えて、セーブを実行し終えてから許可を出した。

『分った!』

 マルは嬉しそうに尻尾を振りながら、伸び上がって上体を起こすと前足で叩き落そうとするが、水は素早く軌道を変えてマルの一撃を掻い潜るとそのまま首の後ろへと回りこませた。

『何処?』

 首を振って周りを確認するが絶妙に頭の動きとシンクロさせて動かしているためにその姿を捉えることは出来ていない。

『さあ?』

『むぅ……』

 マルは凛々しく目を細めて身を低く構える。そして次の瞬間身体を捻るようにして飛び上がると左前足の一閃で水の塊を叩き割った。

『マルの勝ち! 誉めて誉めて』

 頭を差し出して撫でろのポーズを取るマルに、抑えきれず笑みを零しながら撫でながら『どうして分った?』と尋ねる。

『あのね、マルから見えないなら、マルから見えない所にいるからで、マルが頭を動かしても見えないなら、マルの頭の後ろにいるはずなの、それでね、耳を澄ましたら、マルの後ろから聞こえる音が何時もと違ったの。だから後ろにいると思ったの!』

 完璧だ。マルの知能は単に記憶力や演算能力だけではなく、論理的な思考を可能とするほど高まっていたのだった。



 風呂を上がり、居間に戻ってくると携帯にメールが入っていた。

「母さんとイーシャからか……へぇ、イーシャは銀メダルで、涼が別の階級で金メダル……すげぇな」

 イーシャと涼は、小学生の頃は全国大会でメダルを獲っていたが、世界レベルでも通用する? いや世界大会というわけではなくアジアでの親善試合的な大会みたいだな……それでも凄い事には違いない。帰ってきたら誉めてやらなければな。

 涼は喜ばないだろうけど。そう思うと気が重たいが、とりあえずメールで「おめでとう」と返事をすると寝た。

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