第69話

「成功か……眠いな」

 もしかしていつも目覚める時間までに起きる事は出来ないのかと思っていたが、目覚ましで早くに起きる事が出来た。異世界で早目に寝たのも良かったのかもしれない。

 しかし眠い。いつもの時間に起きるなら短い睡眠時間でもすっきりと目が覚めて、眠気なんて感じないのだが今日は眠い。


 部屋のドアのノブのあたりがガリガリと鳴る。

 俺が目覚めた気配でも察したのかマルがやって来たのだ。

 ガチャリと金属音が響くと共にドアが開いて、隙間からマルの鼻先が覗くと、次の瞬間にはするりと隙間を抜けると俺目掛けて走ってくる。

「ワゥッ!」

「まだ早いから静かに!」

 嬉しそうに吼えたマルに注意をすると、小さく鼻を鳴らし頭を下げて勢いよく振っていた尻尾も垂れ下がる。

「暫く散歩に連れて行って上げられないから、これから散歩に行くぞ」

 散歩に言葉に反応して顔を上げて尻尾を振り出した。


 早朝と呼ぶにはまだ夜が明けていない午前四時過ぎの空気は五月とは思えないほど冷たい。

 暑いのが苦手なシベリアンハスキーのマルにはそろそろ厳しい季節に突入する事になるので、夏場の散歩の時間は今ぐらいの時間と夜はもう少し遅くなってからの方が良いだろう……そうなると両方とも俺が行く事になるのは良いのだが、夜の散歩と朝の散歩の間が短くなりすぎる気がしないでもない。


 マルが走るペースは、この二週間ほどで俺に合わせて少しずつ上がってきている。元々走るのが好きな犬種なので一歳になり身体が出来上がったら、散歩の時間も長くして毎日一時間ずつ二回の散歩でどれほど走るようになるか楽しみでもある。



 朝練前の校門前で部員全員で待っていると一台の軽ワゴンがやって来る。

 運転手の年恰好から清水先輩だろう……連絡は取りあっているが、はっきり言って直接の面識は無い。

 普通ならOBが部活中の現役に会いに来るなんてありそうな話だが我が空手部には一切無い。

 OBが大島のいる場所に現れるなんて事はまずありえないし、多分俺達がOBになってもそうなるだろう。


「おはようございます」

「おう、お前が高城か……苦労してるんだろう」

 いきなり先輩から同情かよ。

「頑張れ、三年生はあと一年だ。卒業したらお前らの人生は変わるからな。人生って素晴らしいと心の底から思えるようなる。負けるな挫けるな。高校では絶対に良い事があるぞ。モテ期も来るかもしれないからな……」

 泣くなよ先輩。こっちが悲しくなるだろう。


「これがテントだ。設営方法と注意事項はこの紙にまとめて置いたから読んでくれ。それとザイルだが出来るだけ多く必要って話だったから先輩達が部室に置いていって埃の被ってたザイルを全部持ってきた。古い分強度は下がっていると思うから数で補ってくれ」

「ありがとうございます先輩」

「それからこいつは俺からの差し入れだ」

 そう言って渡された段ボール箱の中はドライマンゴー、ミックスナッツ、チーカマ、魚肉ソーセージ、カキピーが詰まっていた。

「どうせ、カロリーメイトやゼリーなんかしか持ってないんだろう? 2日間テントの中で楽しみは食事くらいなのに、それじゃ精神的に持たないぞ。例え火は使えなくても食事は楽しまない駄目だ」

 確かに栄養だけは満たされても、ゼリー啜って、硬くて不味いクッキーを齧っても心は満たされないな……肝心な事を見落としていたな。

「気づきませんでした。おかげで助かります」

「気にするな。俺も雪山の天候悪化で三日間ビバークする羽目になって初めて気づいた事だ」


「そう言えばお前らエアマットは用意してあるか?」

「いえ用意していませんが」

「そうか用意する必要があるな」

「でも先輩も知っている通り、合宿ではテント無しで寝る時もエアマットなんて使った事はありませんが」

「それはテント無しだからこそだ。俺が硬い地面の上に寝て可哀相だからエアマット用意してやろうとか仏心を出したと思ってるのか?」

「幾ら先輩方でも、そこまで甘やかすとは思えません」

「当然だ、外は土砂降りの雨って状況で狭いテントの中に三人も居るだけでテントの内側は結露する。そうすると拭いても拭いてもテントの床部分は水浸しだ。そんな状況でエアマット無しに寝るには、最低丸一日完徹してからじゃない眠る事すら無理って事だ。用意して部活の前に持ってきてやるから誰か校門で待ってろよ」

「すいません。何から何までお世話になります」

「気にするな。今回の事は俺達の中でもかなり問題になってから、今お前達を助けないという選択肢はない……それから、くれぐれも大島に気づかれるな。気づかれても俺が持ってきたとは言うなよ」

 そう言い残すと、先輩は素早く軽ワゴンに乗り込むと逃げるように去って行った。卒業しても大島への恐怖は抜ける事はないという事をまざまざと見せ付けられたのだった。


 朝練終了後の部室においてもやる事は無くならない。

「ここに集まった道具一式は部室には置いておけない事は皆にも理解出来ると思う……そこで北條先生にお願いして女子剣道部の部室に預かって貰える様に頼む」

「そうだな、大島に見つかったらテントに穴を開けられかねないからな」

 田村の言葉に全員が頷く。何と言う大島に対する信頼感。


「では俺は、シャワーを浴びて飯を食ったら直ぐに北條先生を呼びに行くから、全員朝飯を食って待機し、北條先生が来たら直ぐに道具一式を剣道部部室に移すので準備をしておいて欲しい。以上だ」


 二分で汗を洗い流し、一分で身体に付いた水を拭き取ると、更に一分で制服を着て、二分で飯を口に押し込んだ……今日から暫く家に帰れないので弁当箱ではなくおにぎりだったので一分間は短縮出来ただろう。職員室に着いたのはジャスト八時だった。

 入り口から北條先生の席を確認するが居ない。若干焦りを覚えながら職員室の中を見渡すと、なにやら資料を抱えて席に向かう北條先生の姿を見つけた……駄目だ見惚れている場合ではない。


 周辺マップを確認する……大島はまだ格技場に居る。

「おはようございます」

 北條先生へと歩み寄ると、両手に持った資料の山を下からすくい上げるように彼女の手の中から、自分の手の中に移しながら挨拶をする。

「た、高城君……おはようございます。な、何か用ですか?」

「はい、お願いがあって来ました」

 応えながら北條先生の机に向かって歩く。


「……何かしら?」

「今日から、我々空手部は合宿に行く事になっているんですが」

「ちょっと待って、私はそのような話は聞いていませんが?」

「我々もスケジュールを知らされたのは昨日の練習の後なんです」

 資料を机の上に置きながら応えた。

 もっとも合宿の事に気づいたのは一昨日で、大島から合宿のスケジュールを渡されたのは『朝』の練習の後の昼休みの事である。

「そうなんですか……」

 俺の思惑通りに、昨日の放課後の部活の練習の後に俺達が合宿について知らされたと勘違いしてくれたみたいだ……ごめんね北條先生。でも先生がこの話を知って介入すると、余計ややこしい事になると思ったから相談出来なかったんだよ。


「それで、今回の合宿で必要になりそうなものを部員や空手部のOBに頼んで手配したんですが、空手部の部室に置いておくと大島先生によって隠されたり、細工をされる可能性があるので女子剣道部の部室に置いて貰えないかと相談に来ました」

「そんな、幾ら大島先生でも生徒の荷物にそんな事を──」

「しないと思いますか? 断言できますか?」

「……分かりました。剣道部の部室に避難させましょう。今日は剣道部の部活はありませんから、空手部の今日の部活が終わるまでなら問題ありません」

 やっぱり断言出来ないのが悲しい。


「それでは、空手部の部室に部員達を待たせているので、これから女子剣道部の部室の鍵を開けて頂けませんか?」

「分かりました。直ぐに行きますので先に戻って待ってて下さい」


「直ぐに北條先生が来るから、荷物を直ぐに移動出来るように準備しろ」

 周辺マップで大島は1階の廊下を移動している。一度技術科準備室に寄ってから職員室へ向かうつもりなのだろう。

「主将。北條先生がこちらに来ます」

「分かった。皆、荷物を女子剣道部の前に移動させろ」

 俺の言葉に、一年生と二年生が荷物を持って十メートルほど離れた位置にある女子剣道部部室の前へと移動を開始した。


「荷物はこれだけですか?」

「はい」

「では、これから鍵を開けますが、ここは『女子』剣道部の部室です。くれぐれも余計なものを見たり触れたりはしないで下さい」

「一年。分かったか?」

「はい!」

 二年三年は、既に学校の女子に何の幻想も抱いていない。とっくに自分とは縁の無い存在と諦めているのだ。


「ありがとうございました北條先生」

 荷物を運び込み終えて空手部一同は頭を下げる。


「これくらいは構いません。むしろ皆大変なのに力になって上げられなくてごめんなさい」

 逆に頭を下げられ俺達は恐縮しておろおろとする。

「お手数かけますが、帰りのHRの後で空手部の先輩が他に用意してくれる荷物を届けてくれるので、その時にも鍵を開けて欲しいのと、空手部の部活終了後に荷物を取り出したいので、その時もお願いします」

 唯一動揺していない紫村が俺の代わりに用件を伝えた。

「はい。部室の鍵は今日一日私が預かって誰も中に入れないようにしておきますから安心してください」

 立ち去ろうとした北條先生は、こちらを振り返ると「高城君は昼休みに数学準備室に来てください。今回の件で詳しく聞かせてもらいます」と言い残して再び背中を向けて去って行った。


「昼休み、数学準備室で北條先生と二人っきりか?」

「羨ましいな、おい」

 田村伴尾の考え無しコンビがちゃちゃを入れてくる。

「馬鹿が、もしも台風が通過する予定の海域の無人島なんて知られてみろ。北條先生は教師としての職をかけても中止に追い込もうとするぞ。大島を敵に回して……そんな事をさせる訳にはいかないだろ?、だからどうやって話を上手く誘導するか、ばれてた時にはどうやって説得するか、頭が痛い。誰か代わってくれるか?」

「すいません」

「二度と言いません」

 謝らなくて良いから代わってくれよ。頼むから!



 などと思っている内に昼休みがやって来た。

「高城です」

 ノックの後のそう名乗った。

「どうぞ」

 当たり前の対応にほっとする。やはり自分で呼び出しておいて「何処の高城様だ馬鹿野郎」とドア越しに脅しつけるのは人間として間違ってるんだよな。


「早速だけど高城君。今回の空手部の合宿について教えてもらうわ」

 ずばり事の核心を真正面から攻めて来た。

「今回の貴方達が用意した荷物を見る限り、何時もの合宿とは違ってますよね」

「どうしてそれを?」

「自分が担当しているクラスの生徒が、色々と問題がある大島先生に連れられて何日も合宿に行くのです気には掛けていました」

 つまり、長期休暇中の夏冬の合宿の出発日に学校まで来て見送ってくれていたのか……気づかなかったよ。じゃなくて! これじゃ言い逃れも難しいじゃないか。


「今まではテントとかの大きな荷物を持たずに合宿に参加していましたよね。でも今回に限り大掛かりな準備を、しかも大島先生に隠れてしています。一体今回の急な合宿には何があるんですか?」

 うん言い逃れ無理。折角上がった知力により閃いたアイデアも、その知力によって先回りされた予測により駄目出しされしまう。

「……答える前に、約束してもらいたい事があります」

 残されたのは正攻法のみだった。


「何ですか?」

「僕の話を聞いても、この合宿を中止に追い込もうとか、大島を顧問から下ろすように働きかけるとかしないと約束して欲しいんです」

「どうしてです?」

「はっきり言って、大島が未だに教師を続けていられるって事が間違っていると思いませんか? あいつのやってる事は滅茶苦茶ですよ」

「……た、確かに行き過ぎた指導が多々あるとは思います」

 直訳すると「そうね私も、すっとそう思っていたわ。あんなのが教師なんて同じ教師として恥ずかしいわ」である。


「どう考えてもおかしい。そのおかしなことがまかり通る。つまりそれを許す状況自体が大島本人以上におかしいんです」

「一体、どういう事なの?」

「大島のバックには何かが大きな権力を持った存在がいるって事です。もしかしたら大島自体が一教師の立場という立場を隠れ蓑にして、権力を握っているのかもしれません。それに逆らうような事をしたら、北條先生のお立場が危うい事になるかもしれません」

 それが一番心配なのだ。空手部部員一同にとって一番恐れているのは、自分以上に北條先生の事である。

 北條先生を守るためならば、俺達は大島とも正面切って戦う事を厭わない。


 だが戦いを避けられるなら避けたい。大島が北條先生に手を出すような状況にこそならなければ俺達には譲歩の余地がある。今回の嵐の無人島サバイバル合宿もその余地に含まれているのだ。


「でも教師として止めなければならない事なら、それから逃げる訳にはいきません」

「だからこそ、そんな立派な教師である北條先生には、この学校で教鞭をとり続けて欲しいんです。以前にも言いましたが我々空手部の部員にとって、どれほど先生の存在が救いになっているか話しましたよね。このどうしようもない中学生生活で先生が居たからこそ我々は耐える事が出来たのです。もし先生がこの学校を追われる様な事になったら我々はどうすれば良いのでしょう? 卒業が見えてきている俺達三年生はまだ良いですよ。でも二年生や一年生、それに来年になれば新しい一年生が入ってきます。そんな彼らが苦しんでいる時にこそ先生の存在が必要なんです」

 これは本心だった。それほど俺達が北條先生から大きな力を貰っているのだ。


「私は……無力です。教え子達を導ける人間になりたいという夢を持って教師になりました。でもそんな思いばかりが空回りして、職員室でも浮いてますし、生徒達からも煙たがられています……だからこそ、自分が教師として正しいと思える事を最後まで貫きたいと思って来ました。でもそれを行う力すらないなんて……」

 すまない……懺悔させてくれ。


 俺はこんな北條先生の落ち込み儚げな様子に……『エエもん見させてもらいました。心にREC』等と思ってしまいました。こんな己の下種さを懺悔したいと思います。

 そして最後に一言…………北條先生! 俺の嫁に来てくれぇぇぇぇぇっ! 以上です。


「自分を貶めるような事を言わないで下さい。我々は今回の合宿で酷い苦しみを負うことでしょう。でもそんな苦しみも先生がこの学校から居なくなるかもしれないという不安に比べたら、全く苦しみでは無いと思えるほどなんです。だからお願いです。俺達が合宿から帰ってきたら『おかえりなさい』と言って下さい。それだけで俺達はこれからも大島という過酷な現実と戦えるんですから」

「……そんな事で良いのですか?」

「それが目茶目茶嬉しいです……それ以上はちょっと思いつかないほどです」

 嘘だ。当然思いついてる。妄想の中で北條先生とあんな事やこんな事など考えないはずがある訳がない。だって中学生なんだもの。 たかし

「かならず皆を『おかえりなさい』と迎えてあげるから、だから無事に帰ってきてね。お願いよ」

「はい。必ず」


 結局、話の流れで見事に先生に合宿のスケジュールを話す事無く収められた。満足して数学準備室を後にする……おっと、ついでだ。


「北條先生。最近は前田とかクラスの連中も先生の事を随分と慕うようになってきてますよ。先生が今までどおりの北條先生であればきっと皆分かってくれますから」

 俺達だけの、いや俺だけの北條先生であって欲しいという気持ちもあるが、逆に「俺の北條先生」が皆に認められて欲しいという気持ちもある。だけど北條先生が笑顔を見せてくれるなら、どちらに天秤が傾くかなんて考えるまでも無かった。



 HRが終わると、俺は急いで校門へと向かう。

 朝見たのと同じ軽ワゴンが校門の向いに停まっていて、下校する生徒達から不審そうに見られている。

 うちの中学校は全生徒が何かしらの部に所属しているが、全ての部が毎日活動しているわけではなく、格技系の部活などは学校施設の使用状況では今日の女子剣道部のように休みが生まれるし、文科系では週に1、2回程度しか活動していない部もあり、塾通いの生徒の多くはその手の部に所属している。


「清水先輩!」

 軽ワゴンに近づいて窓越しに声を掛けると、ほっとした表情を浮かべる。

 大学生が、中学校の校門前で中学生からジロジロ見られながら待つというのは苦痛以外何ものでもなかったのだろう。

 いや、それ以上の大島と顔を合わせたらどうしようという恐怖かもしれない。


「よう高城! エアマットを用意してきたぞ」

 そう言って、後ろのハッチのロックを解除して、車を降りると荷台を見せる。

 そこには大きなダンボール二つ分の荷物があった。

「エアポンプはそれぞれに付いているが、余計な荷物になるからテント一つに1台にして残りは置いていけば良いぞ」

「ありがとうございます。それからエアマットの代金ですが──」

「金の事は心配するな。俺達OBに任せておけば良い」

「本当にありがとうございます」

「それと、他のOB達から指摘されたんで、スコップと土嚢袋を用意した」

 土嚢袋か……確かにキャンプ地への水の流入や、大きく積み上げれば風除けにも使えるな。


「ご配慮感謝します」

「それからエアマットを含め、今回渡した道具一式は最悪放棄しても構わない。弁償しろなんて事も言わない。だが最後まで守って使ってくれ。大島はお前達が持ち込んだ道具一式を全て使えなくしてから、『それじゃあ、俺が用意しておいた道具を貸してやろう』と言い出すはずだ。そして必ず代償を求める。それは冬合宿の実行だと思え」

「や、やはり、そうなりますか?」

「そうなる。なるとしか思えない。奴が自分のやりたい事を簡単に諦めるはずはない。隙あらば必ず、どんな事をしてでも冬合宿に持ち込む。それが大島じゃないのか?」

「それが大島ですね……悲しい事に」

「ああ、悲しいな……」

 二年生達が集まって来て荷物を運んでいく。


「それからな、トランシーバーを6台エアマットと一緒に入れておいたから何かの役に立ててくれ。使い道が無いかもしれないが、これからお前達に何が起きるかは本当に分からないからな」

 そういい残して清水先輩は軽ワゴンを走らせて去って行った。


 先輩の言う通りだ。想定される事態に対応するための準備は整えた。想定以上の事にも有る程度対応出来るマージンもある。しかし想定外の事態に対応する準備は難しい。その時、その場にあるものだけで対応を迫られる。それがサバイバルなんだ……もう家に帰りたくなってきた。



「今日は部活の後に飯を食ってから移動だ。その分少し早目に部活を切り上げるからランニングもペースを上げていくぞ」

 流石に現在の緩々メニューの部活で、これ以上緩める気は無いために少ない時間にメニューを押し込んできた。

 ベースはグングンと上がっていく。だが一年生達も全く遅れる事無く走っていくので、俺の黄金の右足も暇を持て余している。

「一年、お前らちゃんと自主練してたみたいだな。よし、褒美に夕飯は中華じゃなく焼肉食い放題にしてやる」

 今回は自腹なのに太っ腹だ。まあ大島は機嫌さえ良ければケチ臭い事は言わないのが数少ない美点だ。


「ありがとうございます」

「おう。もう少しペースを上げるからついて来いよ!」

 これは一年生の自主練の成果に機嫌を良くしただけではなく、これから合宿に心を躍らせている機嫌の良さだな。

 つまりだ。大島がここまでご機嫌になるほどの試練が俺達を待ち受けているという事だ。

 二年生、三年生達は事情を察して顔色が悪い。一方、無邪気に喜ぶ一年生達の笑顔が憎くて、そして憐れだった。


 六十分焼肉食い放題を三十分で切り上げて戻ってくると、校門の中に見覚えのあるマイクロバスが停まっていた。

「おう皆元気にやってたか?」

 早乙女さんだよ。やはりこの人もこの合宿に付いて来るつもりなんだ。

 大島よりは遥かに常識があって人当たりも良いが、そこは大島と仲が良いだけあって、若い衆が必死にもがく姿が大好きなんだろう。

「よし、お前ら部室から荷物を取ってきたらさっさと乗り込めよ!」

 ふっ、持って来た荷物を見たら驚くぞ。


 俺達がプレハブの部室が集まるグランドの隅へと向かうと、北條先生が待っていてくれた。

「お疲れ様。鍵は開けてありますよ」

「ありがとうございます。お待たせして申し訳ありませんでした。皆、部室に置いておいた個人の荷物をまずは運べ。そして剣道部の部室にある荷物は大島に指一本触れさせないように最後部のシートに積んで……紫村が見張っておいてくれ」

「任せておいてよ……面白そうだね大島先生の呆気にとられた顔が見られそうだよ」

 紫村vs大村。紫村の紫色の薔薇の棘は大村すらも怯ませるとも言われる……怯まなかったら俺はとっく部活どころか学校辞めてるよ。


「怪我をしないように気をつけて、無事に帰ってきてください。頑張ってね」

 北條先生が、剣道部の部室から荷物を運び出す部員一人一人に声を掛ける。別に特別な事ではない、でもそんな当たり前な人の世の優しさが俺達の修羅の国の住人の心を打つのだ。


「じゃあ、高城君も気をつけて」

「はい。全員無事に連れて帰ってきます」

「お願いね」

「任せてください」

 皆に掛けた言葉より少ないが俺には分かる。先生の俺への気持ちが分かる……俺にだけは分かるんだよ!

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