第67話

「そうだ。俺、明日から火曜日の夜まで帰って来ないから」

 洗顔後にタオルで顔を拭きながら母さんに告げる。

「どうしたのいきなり?」

「まだ本決まりじゃないんだけど、空手部の合宿があると思うんだ」

「あら? 空手部の合宿って夏休みと冬休みだったわよね。どうしたの?」

「冬の合宿を中止にする代わりに、このゴールデンウィークに無理やり合宿を突っ込んでくると思うんだ」

「今年は冬の合宿が無いの? それなら久しぶりに母さんの実家に家族で行く予定立てようかしら?」

「母さん……俺も兄貴も受験生だよ」

 兄貴に至っては一月十七日から二日間に渡ってセンター試験だから追い込みどころか直前の段階だよ。


「ごめ~ん、母さん忘れてたわ。大と隆はお母さんに余り心配させてくれないから」

 日本一危険な目に遭ってる中学生と言っても過言ではない俺の心配だけは、三百六十五日二十四時間しても罰は当たらないと思うんだけど、やはり日本一危険な女子中学生と俺が認める、涼には勝てないと言う事なのか?


「それで、何処に行くの? 今度はいつもと違って海……う~ん島なんて良いんじゃない? 鳥も通わぬ絶海の孤島。しかも無人島……そこで起きる連続殺人……」

 おい……おいっ! 想定される二十人のキャストの内一人はあんたの息子だよ。

 連続殺人事件なら最低でも二人死ぬわけだから、十分の一の確率で息子が死ぬような妄想でウットリするなよ。

 こういうところが涼の母親なんだなと思う。


「……ねえどう思う?」

「ねえじゃないよ! 何で殺されなきゃならないんだよ!」

「大丈夫よ逆に島に侵入した殺人鬼達が次々と殺されていくの、オチを明かすと犯人は隆ね、随分と斬新な話になると思わない?」

 弁当を渡しながら言うことかよ、どうしようもないよこの人。


「息子を人殺しにするなよ! 大体、それじゃあミステリーでもなんでもなく、ただのアクション物だろ」

「何も知らずに島に上陸した殺人鬼達の視点から描けば十分にミステリー仕立てになるわ……やっぱり、島が良いわよね?」

「どうせ今回も山だよ山! 絶海の孤島は無いからね」

 ……多分。


「……という話があったんだ」

「コワっ! お前の母さん何を考えてるんだ?」

「ミステリーマニアの戯言?」

 そう答える自分自身ミステリーマニアだけでは説明がつかない気がする。

「流石は主将の母上ですね」

 香籐君。それは全く褒めてないからね。


「ところで一年、金策がつかなかった奴はいるか?」

 俺の問いに、6人中4人が手を上げた。

「すいません。親に言い出せなくて、貯金は3万円くらいしかなくて……」

「僕は2万円くらいです」

 まあ気持ちは分かる。いきなり「明後日から部活で合宿をします。そのために4万円ください」とは言い辛い。むしろそれを気軽に口に出来るとするなら「貴様、何処のお坊ちゃんだ!」と説諭することになるだろう。


「澤田、東田。お前達は工面できたのか?」

「はい、子供の頃から貯めてたお年玉貯金があったので」

「俺もです」

「そうか、すまないな。帰りにピザでも奢ってやるから勘弁してくれ」

 不足しそうなのは八万程度、まあ余裕を見て十万ってところだ。


「なあ、今回のカンパは俺達三年生だけでも良いか」

 櫛木田達に聞いてみる。

「良いんじゃないか?」

 田村は気風の良い男前っぷりを披露する。

「最初からそのつもりだ」

「当然だね」

「まあ、まだ余裕があるからね」

 残りの三人も同意してくれた。


「良いんですか先輩?」

 香籐が俺達の財布を気遣ってくれる。

「お前達は来年の一年生の面倒をしっかり見てやってくれ……さあ、朝の練習が始まるぞ」

 香籐の肩を軽く叩いて、格技場へと向かう……櫛木田。

「…………」

 美味しい所を全部掻っ攫われてしまったよ。



「全員そろったな。まず練習を始める前に伝えておく事があ──」

 大島の発言を遮り、その話を強引に引き継ぐ。

「明日の放課後、部活終了後に空手部は校外合宿を行う。部員一同は本日の放課後の部活終了後、合宿準備を行うように。ではランニングに出る」

「はい!」

 部員達は一部の隙も無く声を揃えて応えると、先に格技場の入り口へと向かう俺の後に続いた。


「待て高城っ! お前、何故それを?」

「簡単ですよ。昨日先生が何か余計な事を考え事をしながら、随分とぶっ弛んだ糞みたいな指導をしていたので察しがつきました」

「ぶっ弛んだ糞みたいな指導だと!」

「はい、いつもの先生の的確でメリハリ利いた指導に比べたら腑抜けとしか言いようの無い様。本当に時間の無駄としか思えないような酷いものでした」

 『いつもの』指導を……褒めたくはないが、俺に褒められた手前、自分でも思い当たる節がある昨日の指導態度をどう責められても文句は言えないだろう。どうだ大島? 悔しかろう? だがお前の手元に反撃するカードは無いんだよ。


「この俺が腑抜け? …………ふん、だからどうした?」

 まさか、一瞬で開き直っただと?

「明日から合宿に行くことは読めても、何処に行くかまでは分かっていまい? 違うか?」

「勿体つけたところで、どうせいつもの山でしょう」

 騙されるな。やはり奴が受けたダメージは大きく、精神的に立ち直るための時間稼ぎに吹かしているだけだ……

「違うぞ」

 違う? ……いや張ったりだ。


「今回は……島だ」

「………………はぁ?」

 ちょっと耳が遠くなったみたいだ。

「島。島だって言ってんだ。本土から遠く離れた無人島だ」

「げぇっ!」

 自分の顔が青褪めていくのがハッキリと分かる……何故ならみんなの顔がそうだからだ。

「連続殺人事件……」「死ぬのは誰だ?」「ミステリーの謎を解かなければ……死ぬ」「……犯人はこの中にいる」「ディナーの後じゃ遅すぎる!」「そうだ、殺られる前に殺ら無ければ……」「何人死ぬ? 何人殺せば良い?」

「お前ら何を言っている?」

 母さんが立てた不吉なフラグと現実の前に脳をやられてボソボソと呟きはじめた部員達。その様が想定外過ぎて大島が不審というよりも気持ち悪そうに退いてる……勝ったな、ある意味で。


「無人島に嫌な思いがあるんですよ」

「ふっ、そうか……そんなに無人島が嫌か」

 俺達の嫌がることが大好きな変態ドSが喜んでいやがる。

「ええ、殺人事件が起こりそうで嫌なんですよ……」

「はぁ……起きねぇよ、何いってるんだ?」

「しかも連続で……」

「だから起きねぇっていってるんだよ!」

「最初から殺人事件が起こると知ってるのは犯人だけですよ」

「ちっ、狐でも憑いたか言葉が通じねぇ!」

 それはいつもお前に対して俺……いや人類全体が感じている事だ。


「それで何故無人島を?」

「決まってるだろう。今更山じゃお前達も面白くないだろうからな」

「今更山じゃお前達『も』面白くないだろう……分かりました。その言葉はそのまま早乙女さんに伝えておきます」

 もにアクセント置いて話すと大島が焦る。

 さんざん早乙女さんの山を借りて合宿を行っていた癖に、本音では「今更山じゃ」などと自分も思っていた事を暴露されるのは流石に拙かろう。

 早乙女さんは大島が唯一、心を許せる相手で鬼剋流の先輩であり、色々と世話になっている人物で、実力では大島にも引けは取らない化け物である。

 大島の始末を早乙女さんにして貰う。もし早乙女さんが負けたとしても、大島も無事では済まない。そこを俺が漁夫の利……夢が広がりまくる。


「何だその嫌な笑顔は?」

「……さあ?」

 そう答えながら、自分の口角がキュッと吊り上がるのが分かる。


「洒落にならん! チクるなど男らしくないぞ!」

「面と向かって言えない事を隠れて言うのとどちらが男らしく無いか、早乙女さんに直接判断して貰った方が良いですね」

「あー言えばこー言う! 畜生っ! 分かった何が望みだ?」

「我々に無人島で何をさせるのか合宿内容を説明してください。そして書面に合宿内容とそれ以外の事はさせないと記して、今日の放課後の部活終了までに渡してください」

「……構わん。別にお前らが出発する前に絶望するか、現地で絶望するかの違いだからな……むしろ絶望がお前らを苛む時間が長くなるだけで結構な事じゃないか」

 とことん人でなしだよ。

 だが書面に残して俺に渡すという事の恐ろしをお前に教育してやる! といつか面と向かって言える様になれると良いな。


 例の事件のおかげで一週間も練習内容が地獄から夏休みのラジオ体操レベルに落ちてしまったが、最初こそ歓迎ムードだった部員達の様子も、今では一年生達を除く部員達からは物足りなさに「運動不足で体調が悪い」と愚痴が出るようになっていた……お前達の価値観はおかしい。今の練習量だって甲子園常連クラスの名門私立高校野球部で授業も受けずに一日中野球しかしてないような似非高校生部員達にも密度の面では決して負けてないんだよ。


「主将。僕らは綬日に行われるという例の奴に、この調子で耐えられると思いますか?」

「部活の後に自主練でランニングは欠かしていないんだろう?」

「はい、通常練習時のランニングメニュー劣らないように負荷をかけて距離を伸ばしていますが……」

「……隠しておいても仕方が無いのでハッキリ言っておく。今のお前達の体力なら十分合格ラインに達している」

「本当ですか?」

 今のペースで走りながら喜び笑みを浮かべられる余裕があるのが、その証拠だ。しかし……

「お前達が合格ラインの体力をつけていても、ゲロ吐いて倒れ伏すのは確定だ。奴にとっては合格ラインに達しているのは当然の事であって、本当の目的はお前達がもがき苦しむ様を楽しむ事だから」

「…………」

 一年生達の顔から笑顔も生気も覇気も全てが抜け落ちる。そこには悲しみも絶望も無く、ただの虚無だけがあった……だって空手部ってそういうものだし。



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五月二日

 一五三○ 部活終了

 一八○○ 食事(奢ってやる)

 一八四○ マイクロバスにて移動

 二〇四○ 神奈川県の漁港へ到着

 二一○○ 漁船に乗船し出港

 二三○○ 島に到着

 二三三○ 就寝


五月三日

 ○五三○ 起床。浜辺をランニング

 〇七三○ 朝食

 〇八○○ 水練

 〇九〇〇 遠泳

 一二○○ 昼食 休憩

 一三○○ サバイバル訓練

 一八○○ 夕食

 一八三○ 自由時間

 二〇三○ 野営準備

 二一三○ 就寝


五月四日/五月五日

 〇五○○ 起床 終日サバイバル訓練


五月六日

 〇六〇〇 起床。浜辺をランニング

 〇八〇〇 朝食

 〇九〇〇 乗船、出港

 一二○○ 上陸、昼食

 一三○○ マイクロバスにて移動

 一五○○ 学校到着 ランニング

 一七○○ 解散


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 ……なんだこのふざけたスケジュールは?

 昼休みに大島の元まで取りに行き、渡されて目にしたスケジュールに、最初に思ったのがそれであった。

 五月三日まで、細かい突っ込み所が幾つかあるものの、理解出来無い内容ではなかった。

 だがしかし四日、五日は何だ? これでは山での合宿と大して違いが無い。期間が短いだけにむしろ緩々とも思える。

 時間的にわざわざ高速道路を使い、漁船まで出して移動する意味が分からない。

 つまり、そこには必ず俺達を苦しめるための何らかの意図があるという事だ。無い筈がない。自分の命どころか全人類の命懸けても構わない。

「準備をしっかりしておけよ」

 そう言いながらニヤリと獰猛な笑みを浮かべる大島に一礼すると、技術科準備室を後にした……飯を奢ってやるなんて書かれても絶対に感謝なんかしてやらないからな!



「何を企んでいやがる?」

 スケジュール表に目をやりつつ、必死に考える四日、五日に何をさせるつもりなのか? しかし肝心なその日のスケジュールには具体的な事が何一つ書かれていないので想像するのが難しい……ならばその前後にヒントの欠片がある可能性にすがるしかない。


 ……ん、これは何だ?

 引っかかったのは五月三日の野営準備。しかも一時間もとってある。

 初日は島に到着して三十分後には就寝となっているに何故二日目に野営準備が必要なのか?

 いや必要なのだ。必要じゃない時間を大島が俺達に与えるはずがない。その時間がなければならない状況……待てよ。

 携帯を取り出して天気予報サイトにアクセスして関東地方の週間天気予報をチェックする。


「これか……」

 台風だった。台風六号が五月三日の夜半にかけて関東地方の南部から日本海沖まで暴風圏に収め、ゆっくりと北東へと進路を取りながら五月五日の午後まで小笠原諸島から伊豆諸島、関東地方へと大雨と強風、高波をもたらすとあった。

「ここまでやるというのか?」

 奴め正気か? 台風だぞ台風。しかも風速五十メートルクラスの強力な勢力を持つ台風だ。下手をしたら死人が出ると考えを抱く常識がないのか?



「紫村ぁ~、風速五十メートルの暴風雨の中、無人島で快適に寝泊り出来る方法って無い?」

 困った時の紫村えもんに助けを求めた。

「……もしかして、そういう事なのかな?」

 俺の言葉に自体を察した紫村が、珍しく不愉快さ隠すことなく表に出してる。


「そういう事なんだ。これは俺が冬合宿を中止に追い込んだせいだ。下級生達が無事に乗り切れるように何とかしなければならない。悪いが力を貸してくれ……頼む」

 紫村に深く頭を下げた。

「頭を上げてよ。この件に関しては僕にも責任があるから当然協力するよ…・・・それにしても困ったものだね。ファミリー向けテントじゃなく山岳テントならきちんと設営すれば台風にも耐えられたという話は良く聞くけど、山岳テントとしては大型の三人用を買うとしても六張は必要になるから金銭的に苦しいね」

 その辺のホームセンターで売られているランタン屋製のテントなら何とか買えるかもしれないが、本格的な登山に使われる山岳テントはその倍はするので六張も用意するのは流石に無理だった。


「つまり風さえ抑えられたら、ホームセンターで売ってるレベルのテントでも問題が無いって事だよな?」

「風除けの可能な場所を探すつもりなら止めておいた方が良いよ。台風は通過と共に風向きが回り込んで来るから、最低でも3方向が塞がれている場所が必要だけど、そんな都合の良い地形を期待して計画を立てるのは賛成できないよ」

「違うんだ。壁を作ろうと思う」


「……詳しく説明して欲しいね」

「ここ百年程度で隆起したような新しい島ならともかく、古くからある島ならある程度大きな木も生えて林や森も存在するはずだから、それを利用して、集めた流木とロープで簾の様な物を作り、それを木と木の間に渡して壁のような物を幾つも作れば、中央には風が穏やかな空間が出来るんじゃないか?」

「風を完全に遮るなら強度が足りないだろうけど、ある程度風を受け止め、一部は壁面に沿って流し、そして一部は通過させるなら無理ではないね。テントが耐えられる程度に風を抑えれば良いんだから……必要な物は僕がリストアップしておくから、高城君はテントの確保を頼めるかな?」


「分かった。部員や先輩達に頼めば集まるだろう」

「三人用までの天井の低い小型ドームテントを頼むよ」

「分かってる」

 ランタン屋製の天井の高い快適テントじゃ幾ら防風壁を作っても受ける風の抵抗が大きすぎる。天気の穏やかなキャンプ日和には良いテントなのだろうが……そんな楽しいキャンプをしてみたいが、自分達には余りに無縁すぎて泣けてくる。


 紫村のクラスを出ると、俺は他の三年生達に声をかけて使えそうなテントを聞いてみると、田村が持っている事が分かったので明日持ってくるように頼むと、二年生と一年生のまとめ役である香籐と新居にそれぞれの学年の部員に聞いてくるように頼むと自分の教室に戻った。


 自分の席に着くと空手部のOB達へと送るメールの文面を作成する。

 今回の無人島合宿のスケジュールと大島の企み。それに対抗するための俺の計画。そしてテントが必要という内容。ついでに何か良いアイデアが無いか質問を加えた。

 ちなみに空手部の主将には全OBの電話番号やメールアドレスが受け継がれている。

 空手部の部員には他の体育会系の部活の様に先輩による後輩いじめは存在しない。

 そんな下らない事をやっている余裕は無い。部員が一致団結して大島の理不尽に対して抗わなければ生き残る事が出来ない環境だからだ。

 従って空手部の先輩後輩の関係には、他の体育会系の様な厳しい上下関係に縛られた繋がりではなく互いに慈しみ合う愛が存在する。

 以前にも述べたように、行き過ぎた愛が育まれてしまう弊害も少数ながら紫村関係だけではなく存在するほどなので、現役の後輩達からのヘルプに対しては断る事はほとんどない……大島との直接対決は例外。


 文面が出来上がり、文面をセーブして保存する。するとそこに香籐と新居がやって来た。

「二年生全員に確認したところ、中元の兄が山岳用テントをもっているそうなので、借りられるか確認してみるとの事です」

「一年生の中には、主将がいうところの快適テント以外を持っている部員はいませんでした。申し訳ありません」

「分かった。それじゃあ中元に明日テントを持ってくるように頼んでくれ」

 先ほどセーブした文面に、部員達で二張のテントが用意できた事を書き加えるとメーリングリストサービスを利用して全OBへと送信した。


 五時間目の授業が終わって、携帯を確認すると沢山のメールが入っていたので、システムメニューを開いて時間停止状態で内容を確認していく。

 メールのほとんどが、大島の暴挙への批判と俺達への同情だったが、俺の六学年上の先輩にあたり現在大学生の清水先輩から、大学の山岳部の備品の予備のテントとザイル──基本的に部員が私物として個人の装備を持っているため──を明日の朝練が始まる前に部室に届けてくれるとメールが来た。

「助かるな……」

 やはり持つべきは頼りになる先輩だ。登山用のザイルは高いだけあって、ホームセンターで売られているロープに比べると細さの割には強度が高く、ホームセンターで売られているビニロン・ポリエステル混紡のロープに比べて同じ太さなら倍以上の引っ張り強度を持つ。

 感謝の言葉と共に『明日、よろしくお願いします』と返事を出した。



「……という事だ。何か質問か意見はないか?」

 三年生達は俺から直接、二年生、一年生達はそれぞれ香籐と新居から、今回の合宿のスケジュールと台風の件は聞かされているはずなので、それに対応するための準備について説明を行った。

「質問をよろしいでしょうか?」

 一年生の斉藤だ。

「質問や意見は貴重だ。忌憚無く述べろ」

「台風六号は最大風速五十メートルと聞きましたが、風速五十メートルの風が襲ってくると考えるべきなのでしょうか?」

「良い質問だ。台風は中心の目の周りを反時計回りの風が吹いているので、台風の進行方向に対して右側の場所では台風の周囲を回る風の速さに加えて、台風自体が進む速さもプラスされて、左側よりも風が強くなる傾向にある。だから島が台風の進行方向の左側にあることを祈れ。洋上の孤島だ遮るものは何も無いから、右側にあれば最大風速50mが容赦なく襲い掛かってくるからな」

「……はい、祈ります」


「それについて、僕の予想を言わせて貰っても良いかな?」

「どうぞ」

「漁船について調べてみたんだけど、二十人程度を乗せられるクラスの漁船になると、速いものでも三十ノット程度で余裕をもって見積もっても三十五ノット程度だと思うんだ。船の移動時間は二時間となっているから、三十五ノット……約時速六十五キロでは最大でも百三十キロ程度の移動が限界のはずだから、台風の予測進路から考えると風の弱くなる島の東側を通ると思うよ」

 不幸中の幸いとも言うべき情報に部員達から安堵の溜息が漏れる。当然俺も口からも漏れた。


「主将。質問があります」

 今度は二年の森口だ。

「言ってみろ」

「キャンプ地の周囲に壁を作るとの事ですか、強度的に大丈夫なんでしょうか? もしも壊れた場合。それがテントに向かって飛んでくる危険もあると思うんですが?」

「それについては計算している。風により物体に掛かる力である風荷重の計算は、空気の密度(kg/m3)x風速(m/s)の2乗x抵抗係数x物体の風の当たる面の面積(m2)x1/2で求められる。空気の密度は1.293kg/m3とされるが、湿度、気温、気圧によって変動するので、細かい事を気にしても仕方が無いのでざっくりと1.3kg/m3とする。抵抗係数はとりあえず壁を平面と考えて2.1とすると、壁1平方メートルに対する風荷重は1.3x50^2x2.1x1x1/2を計算すると3412.5ニューロン。つまり341.25kgとなる。一方で直径11mmのザイルの引っ張り強度は27500ニューロンで2750kgつまり2.75tだから計算上では約8平方メートル、2mx4mの壁を作っても耐えられることになる。だがあくまでも計算上であり、ザイルも経年劣化で強度は落ちるし、台風の風が瞬間的に風速50mを超えないとも限らない。だから壁には隙間を作る予定だ。木材と木材の間のスリットを風が抜ける事である抵抗係数を下げ安全マージンを確保する予定だ」

 建築関係の情報を仕込んでおいて良かったよ。


「正直良く分からないが、スリットを抜けてきた風の心配はどうなんだ?」

 櫛木田が突っ込んでくる……この心配性め。

「風は不規則な形状のスリットを抜けた後で互いに干渉して多くのエネルギーを失うから、山岳テントが耐えられる程度まで風は抑えられるだろうし、状況が許すなら防風壁を二重に構築することも考えている」

 現場に行ってみなければ分からないが、マップ機能を使って周囲の詳細な地図を作成し、どの木と木の間に壁を作れば効果的かも判断する事も出来る……はずだ。


「台風の進路を確認するための短波ラジオと、島の位置を特定するためにGPSは僕が用意しておくよ」

「流石は我が子房。見事なり」

「それじゃあ自害しそうで嫌だな」

 俺の下らない冗談に、紫村は苦笑いしながら応えた。


「本物の子房は自殺なんてしてないから安心しろ……他に何か無いか?」

「主将……」

「何だ香籐?」

「意見というわけではないんですが、本当にこんな事が許されるのでしょうか?」

「常識的に考えれば許される筈がないだろう。つまり常識的じゃない手段でこの暴挙を押し通せる事が大島には出来るという事だ」

 県の教育委員会……いや、県政のトップに近い位置にいる人間に鬼剋流、もしくは大島個人に便宜を図る人間がいるのだろう。

 何てつまらない事に権力を濫用しているんだ馬鹿共め! もう少しまともとは言わない、せめて万人にも理解し易い形に権力を使え。金や地位、名誉の為とかの方がまだ理解出来る。


「でも幾らなんでもおかしいです。下手をすれば死人が出ますよ……そんな事を学校の部活動でなんて」

「そうは言っても、下手すりゃ死人が出るのは合宿なら、特に冬合宿では当たり前だろう」

「はい」

「でも一度もその手の事故は起きていない……バックアップ体制が出来ている可能性がある」


 狡猾な大島が「生徒をうっかり死なせてしまった」なんて自分の立場を危うくする真似をするとは思えない。

 奴と同じく俺達を絶望的状況に追い込み抗う姿を楽しむ同好の士が、合宿をしている俺達の周囲で監視し見守りながら楽しんでいたとも考えられる。

 一見、まともそうに見える早乙女さんだが、俺達への無茶振りはせずフォローしてくれるが大島を止めたり諌めたりする場面は一度も無かった。


 冷静に考えたら彼は大島の協力者だ。そして鬼剋流にはそんな連中が他にもいても不思議は無い。

 自分の考えを皆に伝えた。


「確かに、自分の立場を守れるなら俺達の命なんて屁とも思ってないだろうが……」

「自分の楽しみのためだけに、自らを危うくするような真似を……しないとも言い切れない気がするな」

「馬鹿違うだろ。それは自分自身の判断や行動の結果、危険に陥るのを楽しめるかもしれないが、この場合は俺達が自分の命を守りきれるかどうかだ。自分の立場を危うくしかねない可能性を、俺達に委ねるなんて事は絶対にしない。生徒を信じるなんて信頼関係が俺達と奴の間にあると思うか?」

 流石は三年生。伊達に大島との付き合いが長くないだけあって奴への理解が深く容赦が無い。


「それでは我々の安全は確保されていると言う訳ですか?」

 香籐……嬉しそうだな。君は大島に守られていると知ってほっとしているのかも知れないが、それは早合点という奴だ。

「もしもバックアップ体制が整っていなければ、安全マージンが必要となり、俺達をギリギリまで追い込むことが出来ないという事であり与えられる試練も軽くなる。しかし万全のバックアップ体制があるからこそ、奴は俺達をギリギリまで追い込み、生かさず殺さずの体制を維持出来ているんだぞ」

 安全マージンとは大島本人にとってのものであり、むしろそれがあるから俺達はデッドライン上で踊る羽目になっているのだ。


「…………酷すぎる」

 下級生達はドン退きである。大島と自分達がおかれた状況に希望なんて持つからいけないんだよ。希望を持たずに絶望しておけば……絶望の先にまだ絶望があったのだなぁ~と驚くだけで済むのに。


「部活後の買い物だが、予定通り雨具は購入する。今回は無人島だから本格的な山歩きは無いと思うがトレッキングシューズは用意しておいた方が良いだろう。後は長靴も安い奴で良いから用意しておく方が良いだろう。そして、ほぼ2日間テントの中に篭る事になるから、テントの中に湿気を充満させないために、大量のタオルの類と、塗れた物をしまうためのポリ袋。そして除湿剤も用意しておいた方が良いな。当然だが水食料も用意しておいた方がいいな」

「後は携帯トイレと、消臭剤、除菌シートを用意しておいた方が良い。トイレの度に外に出ていたらテントの中の大量の水を持ち込んでしまう事になるからね」

 その発想は無かった。しかしトイレもテントの中で済ませるのか……潔癖症と言う訳ではないが嫌だ。嫌過ぎる。


「テントの中で火を使うのは辞めておいた方が良いから、食べ物はゼリー系か、ブロック系の栄養食品だな」

「いや加熱しないでも食べられる、ハムやチーズ、ビーフジャーキー、野菜ジュース、それに果物をそのまま持ち込むのもありだな」

「火や電気を使わない加熱用のヒートパックというのが有るはずだぞ」

「阿呆が、それをテントの中で使ったら蒸気噴射でキノコが生えるわ! 大体、狭いテントの中で一日中篭りっきりの状況で、普通に湯気が出るような食べ物を食ったら何時までも臭くて地獄だぞ」


 撮り鉄で小学校の頃は、同じく撮り鉄の父と一緒に日本中を旅し、テント泊にも慣れている田村から伴尾に突込みが入る。

「つまり、普通にさめたままで食べられる物を食うのが一番って事か?」

「その通りだ」

 俺の質問に田村はきっぱりと応えた。


「しかし、温めないで食べられるキーマカレーとカレーうどんが……」

「だから臭うって言ってるんだろう!」

「カレーは良い匂いだろうが!」

「風呂に入れない。着替えられない。どんなに頑張っても一日中いるテントの中は蒸してるって状況でカレーの匂いが混ざったら地獄だと言ってるんだよ!」

 粘る伴尾に田村が切れる。そんなにカレーが食いたいのか? 確かにキャンプといえばカレーだが……いかん俺も食いたくなってくるじゃないか。


「伴尾君。君の言ってる商品には、ご飯もうどんもついてないから、結局はご飯やうどんを加熱して作らなければならないからね」

「そんな……」

 がっくりと崩れ落ちる伴尾の肩に田村は手を置くと「アルファー化米は水でも戻して食べる事が出来るんだ」と告げる。

「田村ぁ……」

 僅かな希望に目を潤ませる伴尾に田村は残酷に止めを刺す。

「絶対に作らせないけどな!」

 ……まさに鬼畜。



 格技場へと入ると──「全員駆け足で集合して整列!」

 まだ廊下にいる部員達を振り返って声を掛ける……何をとち狂ったのか大島が既に格技場にいやがったのだ。

 大島の横に北條先生と、なにやら小柄な老人が居たが、ともかく部員を集合させ整列させなければ拙い。


 そして部員全員が整列したところで──

「!」

 襲い掛かる突然の強烈な殺気に、下級生達が思わず飛びのく中で俺は前へと踏み込み、殺気から下級生達を遮るように距離を詰める。横には紫村と櫛木田が並び、田村と伴尾、それに香籐が後ろに付く。


「やってくれるな爺っ!」

 大島の拳が、殺気を放った張本人である老人の顔の前に突きつけられ、老人が手にしていた閉じた扇子が大島の首元添えられている。

 大島と互角だと? この枯れ木の枝のような細く、そして小柄な爺さんが……既に妖怪の類だ。どうして俺の前にはこんな人外どもばかりが現れるんだ?


「やるじゃねぇか若ぇの」

 大島の末路と言った感じで、年齢を重ねる事だけでは人間としての品格は磨かれないってのを体現した、血の臭いを感じさせる爺さんだ。


「お祖父ちゃん!」

 北條先生が爺さん後ろ襟を引いて鋭い声で一喝する。

「おう、怒るな弥生。ちょっとした挨拶って奴だ」

「そんな挨拶、何処にあるって言うんですか!」

 怒る姿に声、共に相変わらず凛々しい……お爺ちゃん? 違う、お爺ちゃんは血縁関係を意味するだけの言葉じゃない。近所のボケ老人もお爺ちゃんに違いない。


「あ、あの北條先生?」

「何じゃ?」

 爺が呼ばれていなのに応える。つまり爺も北條または北條、しかし同姓だけという可能性も十分にある。

「面識も無い非常識な爺さんは先生と呼ばないから黙ってて下さいよ……先生。これは一体何者でしょうか?」

 俺は爺さんを華麗にスルーして、北條先生に尋ねる。


「ごめんね。言いたくないけど私の祖父です」

「……(言いたくない)気持ちは分かります」

 現実とは非情だ。

 あんな生き物の血が一滴でも自分に流れている事は北條先生にとっては忌まわしい事だろう。

 しかし北條先生の素晴らしさに疵をつけるものでは無い。


「おい! 弥生?」

「急遽学校を辞められた鈴中先生の代理として、男子剣道部の指導を行うために地元の全剣連へと指導員の紹介を頼んだら祖父が自薦というか……出しゃばって来て」

「良いじゃねぇか? 可愛い孫の仕事っぷりを見てみたいという年寄りのささやかな願いぐらい」

 後ろ襟を引っ張られたまま、同情を引くかのように悲しそうに訴えるが……まるで同情を覚えない。

「ならちゃんとして下さい!」

「お、おう……」

 妖怪爺も孫娘には勝てないようだ。


「それにしても大島とかいったな? 若ぇの、歳の割にはいいものを積み上げてきたようだな」

「爺も無駄に長生きしてきた訳じゃないみたいだな」

 言葉だけなら何か両者の間に通じ合ったものがあったと勘違いしそうだが、両者の間にあるのはいきなり出会ってしまった野性の肉食獣。互いに一瞬でも相手から目を逸らし隙を見せたら死につながる様な緊張感のみだ。


「まあ良い……そこの小僧達も中々におもしれぇな」

 爺が意識をこちらに向ける。大島が襲い掛かるかと思ったが、流石に学校で自分から殺し合いに持ち込むのはためらいがあるのだろう手は出さなかった。これが夜、他人目の無い場所なら確実に襲い掛かっただろう。


「それはどうも……」

 こんな爺に面白い呼ばわりされてもまるで嬉しく無い。これが北條先生から「高城君って面白いわね」と言われたのだったら……妄想が素敵過ぎて意識が飛びかけた。


「儂を前にして怯えぬのは大したもんだ。小僧、空手なんて辞めて、俺の元で剣術の腕を磨いてみねぇか?」

 睨むような強い視線を俺に向けてくる。

「爺、老い先短いんだ生き急ぐんじゃねぇぞ」

 大島の爺さんとの間に渦巻く緊張感が物理的圧力を持ってピリピリと素肌の上を走り回る……現実だというのに何というファンタジー感。


「何とでも言え。この小僧は剣術向きだ。儂の目に狂いは無い」

「狂ってるのは目じゃなく頭だろ?」

 いかん、もう俺の手に負える状況じゃなくなってきている。この二人の間に割って入るならもう一度火龍と戦う事を選ぶよ。


「さあ先生。危険なので逃げましょう……お前たちもランニングに出るぞ」

 さりげなく北條先生の手を握ると出口の方へと誘導する。

「高城テメェ!」

 櫛木田達からの非難の声を受けつつ格技場を出ようとしたところで背後から爺が声を掛けてくる。


「小僧! 興味があったら弥生から聞いて道場に来い。俺の眼鏡に掛かったら孫を嫁にやって道場を継がせてやる」

「お、お祖父ちゃん!」

「何もお前とは言ってない。弥生とは一回りも年が違うが、皐月ならギリギリ歳の差が一桁だ何とかなるだろ」

「お祖父ちゃん? ……歳がな──」

 一周、季節が逆戻りしたかのような寒気が走るが、そんなのは関係なかった。


「剣術やります! 嫁は北條先生でお願いします!」

 俺は北條先生の言葉を遮り、そう宣言した。

 この話の流れに飛び込むしか俺には選択肢が無かったのだ。


「んです──えっ?」

 俺の言葉に戸惑いを見せた北條先生だが、他の奴らまで俺に続いてしまう。


「何を言う。俺が北條先生と道場を継ぎます!」

「いや、僕が!」

「お爺さんお孫さんを下さい!」

 後はもう、三年生と二年生が俺が俺がと必死の醜い争いとなる。


「弥生……いい歳して男も作らず、どうなるものかと息子だけではなく、この爺まで心配させておいて、こんなに沢山の若いのを誑し込むとは……生娘の分際で恐ろしいまでの深謀遠慮……見抜けなんだ。この爺の目を持ってしても、そんな恐ろしい事を企てていたとは……」

 そう言いながら床に崩れ落ちる。


 歳の話をするな、爺死ぬ気か? ……いや待て、爺は何と言った? 確かキムスメ……KI・MU・SU・ME……生娘!

 ああ何てことだろう? 今まで北條先生に「さあ、いらっしゃい……高城君」みたいに年上の魅力で導かれる妄想はしても、処女だという前提で妄想した事はなかった。

 勿論、先生が処女だったら良いなと願った事が無かった訳ではない。でも魅力的で美人の北條先生が処女だ何て信じる事は俺には無理だった……糞っ、人生損してきた!


「もういい加減にして下さい!」

 北條先生は恥ずかしさと怒りに顔を真っ赤に染めると、目元に涙を浮かべながら俺の手を振り払い走り去って行った。

「か、可憐だ……」

 心の奥底から湧き上がった、俺の本音が口を突いて出る。

「こ、この感情をどう表現したいいのか分からない。いや言葉にして消化しまうのが勿体無い」

「可愛すぎる」

「鼻血が……」

「おい。ランニングに出るぞ!」

 大島が毒気を抜かれた様に促してきたが、俺達は立てぬのだ。既に身体の一部が立ってるから立てぬのだ……紫村以外。

 ……猿と呼ぶなら呼ぶが良い。俺達はそういう生き物なんだ。

 そんな俺達に、大島は苦笑いを浮かべながら「仕方がねえな。この童貞共め」と吐き捨てると三分間の猶予をくれた……まさに武士の情けであった。

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