第63話

「ヒャウン」

 俺の顔を舐めようとして伸ばした舌を摘まれたマルが情け無い声で鳴く。

 こんな状況でも噛もうとしないのが躾の成果というよりも、この子、生来の優しさなのかもしれない……馬鹿飼い主です。

 耳を伏せて困ったような顔をする様子が可愛かったので舌を離して、抱きしめてやる。

「うひゃっ!」

 お返しとばかり項の辺りをペロペロと舐めてくるマルに思わず悲鳴を上げる……馬鹿飼い主です。


 しかし自分の性格を理解していなかった自分自身に失望せざるを得ない。

 龍を倒すだの、急いで王都に向かうだのと強迫観念のように強い意思を刷り込まれても、唯でさえ記憶の齟齬により自分の頭の中に対して疑心暗鬼になっている異世界での自分が納得するはずが無いのだ。


 むしろ何者かに意識まで誘導されていると考えて反発する事を想像出来ないなんてアホ過ぎた。

 昨日は二人のエロフから逃げるために王都への移動が予定以上に進んだが、今後は何か別の方法を考える必要があるだろう。


 もしもシステムメニューの【所持アイテム】【文書ファイル閲覧】機能が現実と異世界で共通化されれば、封じられた記憶に関して伝える事が出来るのだが、【文書ファイル閲覧】の方はともかく【所持アイテム】の共通化は拙すぎる。

 もしも、現実と異世界の間で互いにとって抗体を持っていない危険な細菌やウィルス。または有害な微生物や虫などが【所持アイテム】を介して行き来する事になったとしたら……そう考えると、もし共通化が為されたとしても恐ろしくて使えない。

 現実の俺の身体と異世界の俺の身体が、同じスペックでありながらも別の肉体である事が救いだ。

 異世界で負った怪我や傷跡が、こちらの世界の身体には無いことからの推測ではあるが事実だろう。



 朝練の為に学校に向かうと、肛門で……いや校門で紫村が待っていた。

「おはよう高城君」

「おはよう。昨日はすまなかったな」

 昨日は、大島を抑えるという面倒ごとを押し付けてしまったので頭を下げて謝罪する。


「君が頭を下げることではないよ」

「俺の感傷から始まった事に巻き込んだんだ。しかも昨日の事は、処分した荷物をきちんと確認しておかなかった俺のミスだ」

「僕だって今回の件に対する義憤の念は持っているよ。だから気にしないで欲しい」

 ……本当にいい男だ。嫌味の無いところが嫌味に感じさせる二号とは格が違う。これなら今年の一年生の誰かが性的に食われてしまうかもしれない思いながらも、邪魔しないでおいてやろうなどと考えかけてしまった……いや、それは流石にそれはまずい。


「なあ紫村……」

 異世界で二号にシステムメニューについて話すくらいなら、紫村にも話しておくべきじゃないだろうか? だが現実では今まで積み上げてきた人との繋がりが強すぎる。異世界なら二号に話して問題があれば二度と会わないようにすれば良いだけだが、現実ではそうはいかない。

 まだ十五年間に届かないちっぽけな人生だが、それなりに積み上げてきた人との付き合いもある。紫村との二年間も簡単に切り捨てられるような物ではない……

「高城君。無理に話さなくてもいいよ。何時か話してくれるんだろう? 待つのもまた楽しいものだよ」

 俺の中の迷いを汲み取ったかのように笑顔でフォローしてくれる……うん、やっぱり邪魔しないでおこう! 俺の尻以外は好きにして良いよ。


 部室へと向かう途中、ふと思い出して尋ねる。

「なあ、櫛木田の件なんだが……」

 だが紫村は、無言で肩をすくめて見せる……やっぱり駄目か、結果の可否はどちらについても期待していただけに、何というか微妙だな。

「まあ、なんだ……冬までには時間がある。まだ一度や二度のチャンスも必ず来るさ」

「まだやるつもりなのかい?」

 まだ諦めていない俺に、紫村が目を見開いて驚く。

「やるさ、考えてもみろ。大人になって、この中学校の三年間を振り返って『大島を喜ばせただけの中学校生活だった』なんて嘆くのは御免だ……今更収支がプラスになることが無いなら、奴にも後で思い出して悔しくなる、後悔って二文字を奴の心にも刻み込んでやってから卒業しない道理にかなわないだろ」


「全く君は……」

 紫村の目には珍しく呆れの色が浮かぶ。

「それに一年の頃から、卒業までにはあいつをボコってやるって決めてたからな」

 決して受け入れる事の出来ない理不尽な状況に抗うという決意。俺はその思いだけを糧に強くなった。だが強くなればなるほど大島の途方も無い強さを思い知らされる事になり、システムメニューが無ければ揺らぐ決意ではあったが。


「おはようございます」

 そう挨拶をする香籐の目が死んでいる。続いて挨拶をしてくる他の下級生もことごとく目が死んでいた。

 櫛木田め、やはり下級生からの評価を大きく下げたな。ここで俺が起死回生の逆転で冬合宿を中止に追い込めば、頼れる主将としての評価を不動のもの、いや伝説へと昇華させることが出来る……小さい。器が小さいぞ俺!


「高城……面目ない」

 櫛木田が頭を下げる。本気で反省しているようだが、俺が考えてる事を知ったら怒るだろうな。

「俺としては五分五分かなと思ってたからな……それにしても俺はお前を脅さないように釘を刺したつもりだったんだが、どんな手でやられた?」

「……笑うんだ」

 力なくそう呟いた。


「笑う?」

「俺に顔を近づけて、凄い嬉しそうに笑うんだ……それが、それが怖くて……」

 その大島の笑顔を思い出したのか櫛木田は自分の腕を抱きしめて肩を震わせる。

 大島の笑顔のアップ……それは怖い、夢でうなされるわ。システムメニューのせいか夢見なくなったけど。


「流石に、顔を近づけて笑ってるだけだと言い張られると、僕も止めようがなくてね」

「それは暴行に値するから止めような」

 実際に暴力を受けるどころか指一本触れなくても、相手が暴力を受けると恐怖を覚えた段階でも成立するのが暴行罪だ。

 半径二メートル以内に大島が居るという事は、刃物を振り回しながら追い掛け回すのとなんら違いは無いと司法は判断すべきだ。


「己の凶相を活かして、笑顔までも武器にするとはな。そりゃあしょうがないか……冬合宿の件は、また機会があるだろうから心配するな」

 トラウマものだなと思うと櫛木田にも優しく肩を叩くことが出来た



「おう、全員そろったな!」

 ……大島の機嫌が良い。櫛木田を凹ませて俺の冬合宿中止を阻止出来ただけとは思えない。それでは単に差し引きゼロな結果に過ぎないからだ。

 何があった? 何があったにせよ大島の機嫌が良くなるという事は、この世の誰かに不幸がもたらされたという事に他ならない。

 そして、もっともその対象になりやすいのは俺達を含む大島の関係者だ……大島の目が一瞬、俺に向くと目を細めた。


「お前ら昨日の飯は旨かったか?」

 飯……一体何の事だ? 昨日も鬼剋流の幹部でも来て焼肉でも奢らせたのか?

「旨かっただろう? 回らない寿司屋の寿司はな」

 そう言いながら、俺の顔を見ながらニヤリと笑う……やりやがったな、何年ぶりの回らないお寿司だと思ってやがる!


「残念だったな高城。だけど昨日は都合が悪かったんだから仕方ないよな。おいお前ら。昨日の寿司は高城のおかげで食べられたんだ。礼を言っておけ『主将。ありがとうございました。お寿司大変美味しかったです。主将と一緒に食べられなかったのがとてもとても残念です』とな!」

 ……こ、こ、こ、殺す! 許せないんだ俺の命にかえても体にかえても、こいつだけは!


 俺は怒りに任せて【昏倒】を大島に向けて放つ……『【昏倒】は対象の気合によって無効化されました』ってなんだそりゃ! システムメニューを開いて、【ログ閲覧】で確認しなおしても気合で無効化と書かれていた。【魔力】でしょ【昏倒】にレジストするには【魔力】でしょ? ちゃんと調べたらそう書いてあったのを憶えているよ。

 何なの気合って? 気合って魔力なの?


 困った時にはグーグル先生にも匹敵する権威である【良くある質問】の出番だ。『魔力によらぬ魔術の無効化』:ごく一部を除くほとんどの生物には生来魔力が備わっており、その魔力にて魔術に抵抗する事が出来る。しかしある種の生物には意志の力により少ない魔力を瞬間的に高めて魔術の効果を無効にする術を持っています。ただし人類は除く……除くって、おいっ!


「感じたぞ、圧力すら伴ったお前の怒り……実に心地好いじゃないか?」

 大島は【昏倒】を受けた時に、何らかの力を感じ気合ではね退けたのだ。最早システムメニューが認める人外の化物だ。この名状し難き怪物に俺は勝てるのか? 俺が進む道の先に、こいつに勝てる可能性が存在するのか? ……怖くなって来たぞ。


 だが俺もその程度ではめげない。それならばアプローチを変えるだけだ。

「……大人気ない」

 ぎりぎり大島の耳に聞こえるように声を絞って呟く。

「何だと?」

「自分の半分も生きていない子供相手に、こんなせこい嫌がらせをして勝ち誇るなんて……人として小さすぎる。これじゃあ尊敬したくても出来ない」

 自分が十四歳の子供である事を盾にする。

 例え大島が「お前のような子供がいてたまるか!」と叫んだところで、俺が子供である事は動かしようもない。

 敵の多い大島だけに、奴がどう思おうが周囲は大島を責めるだろう……喜んで。

 それは大島ですら一定の配慮を必要とする鬼剋流の幹部や先輩達にとっていい機会となる事は想像に難くない。


「くっ!」

 舌打ちして見せたが、どうせ紫村に気付かれないように、隙をみつけて署長に連絡して、無理矢理昨日の内に寿司を奢らせる様に迫ったんだろう。

 そんな自分のやり方に、せこいの三文字が思い当たったのだろう。大島は言葉に詰まる……よし、突破口は開いた。ここを全力で攻めてやる。


「自分の師がこんなに器の小さい人間だったなんて……」

 むしろ大島の器は小さくない。容量は無限大だ……底が抜けているので。

 俺は自分のコンプレックスを相手になすり付けたのだ。ネットの掲示板でよく使われる常套手段だが、ごく自然な流れに持ち込めたと我ながら感心する。


 大島は『男気』的な部分を否定されるのに弱いというのが、この二年間の奴を観察、研究して得た数少ない成果である。

 まあ、それ以外に弱点らしい弱点が見つからない訳だが、確かに童貞疑惑もあったのだがそれが否定された現在、攻める場所はそれ以外に方法は無かった。

「……がっかりです」

 悲しそうに俯き、頭を横に振った……おい紫村「上手いな」とか余計な事を言うのは止めろ。


「ちょっと待て、俺の器が小さい? そんな馬鹿な事は無いだろう……な?」

 大島は櫛木田や田村に同意を求めるが、二人は目を合わせなかった。

「高城! 取り消せ。俺の器は小さくない」

「……そういうところが小さくて嫌」

 嘘泣きしながら答えてやると大島の顔が歪む。かつてこれほど動揺した大島を見た事があるだろうか?


 他の部員達もここぞとばかりに冷たい視線を大島に突き刺していく。

 未だ嘗てないほどに追い込まれた大島は、強張った顔の端で口元をピクピクと痙攣させると、意を決したかの様に口を開く。

「…………そうだ。今晩飯を奢ってやろうか? やっぱり寿司か? 何でも良いから言ってみろ」

 やはりそう来たか。


「……何でも良いんですか?」

「何でも構わん!」

「本当に、本当に何でも良いんですね?」

「男に二言は無い!」

「それじゃあ、冬合宿を中止して下さい」

 思ったよりもずっと早くチャンスがやって来たものだ。


「て、てめぇ、それは違うだろう!」

「何でも良いって言ったじゃないですか、今更反故にするんですか?」

「今晩の飯を奢る奢らないの話しだろ、無効だ!」

「先生。こんな言葉を知っていますか? 僕が尊敬する漢の言葉です」

「何だ?」

「何でもと言ったなら……」

「何でもと言ったなら?」

 そこで一呼吸おいた後、叩きつける様に叫ぶ。

「…………何でもしろ!」


「!!!!」

 俺の暴言に大島が仰け反る。あまりの飛躍に大島の理解が追い付かないのだろう。だからこそ更に畳みかける。

「男に二言は無いんでしょう。今更、細かい事でグダグダ言うのは男らしく無いんじゃないですか?」

 はっきり言って、我ながら無茶苦茶な理屈だ。だが無理が通れば道理は引っ込む! この場さえ、この場さえ押し通せれば良いのだ。


「男らしくない? この俺が?」

 もしかしたら、こんな事を言われたのは大島にとって初体験なのかもしれない。

 実に男臭い奴であり、自分自身それを誇りに思っているような所があるのだ。俺の発言はある意味エポックメイキングですらあり、大島の堅固な精神の支柱に大きな傷を入れ、新たな大島が誕生する可能性を……うん、無い。


「他の部員達も先生の男らしく無い態度に失望しています」

 俺がそう言った瞬間、紫村を除く部員達は瞬間的に項垂れてみせる。

「もうやめて下さい。泣いてる子もいるんですよ!」

 次の瞬間、二年生達がが一斉に泣き真似を始める。見事な連携だ。だが、この程度の小芝居を出来ないようでは空手部では生き残れないという悲しい事実でもある。


「ああ、五月蝿い! 冬合宿を中止すれば、それで良いんだろう?」

「ちなみに春の山は雪崩が怖いから嫌ですよ。それに俺達三年生は卒業して部活には参加できませんから」

 本来の悪魔のように狡猾な大島ならば、こうも容易く俺に考えを読ませたりはしなかっただろう。だが精神的な余裕を失い近視眼的に選択肢を自ら狭めてしまえば、この有様だ。


「ちっ!」

 そして普段の大島ならば、この状況からでも腹芸一つでひっくり返して見せただろうが、今は自ら認めてしまうような舌打ちしか出来ない……どうやら決着がついたみたいだ。


 不機嫌そうに「トイレに行ってくる」と言い残して、大島が格技場の外へと消えた瞬間、部員達の喜びが爆発した。

「ありがとうございました!」

「凄いです主将!」

「僕らは一生ついていきます!」

「高城。いや今は主将と呼ばせてくれ。胸がすっとしたよ主将」

 はっはっはっはっ、もっと褒めてくれても良いんだよ……でも一生ついてこられたら流石に迷惑だからね。


 そんな自分の人気の絶頂を味わう一方で、焦燥感がちりちりと首の辺りを焼きつける。

 これで俺が握っていた大島に対する唯一の切り札を切ってしまったという不安によるものだ。

 新たな切り札を探し出すか、それとも切り札無しで卒業式後の最終決戦(お礼参り)に臨むのか……それが問題だ。

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