第58話

 朝起きたらマルが……俺の顔を舐めに来ないだと?

 上半身を起こして部屋の中を見回すとドアの傍の部屋の隅に丸まって、こちらを上目遣いでじっと見つめている。


 いかん、完全に機嫌を損ねたままだ。昨日帰ってくるのが遅かったため、晩飯の前に父さんがマルを散歩に連れて行ってくれたのだが、俺との散歩とは違い全力疾走で存分に走るという訳にはいかなかったのと、何より時間通りに帰ってきて散歩に連れて行かなかった俺に対する裏切られた感が強かったのだろう。それで昨夜から拗ねているのだ。


「マル、おはよう」

「キュ~ン……」

 悲しげに鼻を鳴らしながら目を逸らす。あからさまなほど「私、拗ねてるんですからね」という微笑ましい態度をとる。

 何故なら、これはすなわち「早く私の機嫌を取ってくださいね」というサインでもあるからだ。


「マル、まだ拗ねてるの?」

 ベッドから降りてマルに近づくと「クン」と小さく鳴くと身体を動かして背中を向ける。

「ごめんな、マル」

 そう呼びかけながら後ろから胸と首に手を回して抱き上げながら、両手で撫でてやると、耳をピンと立てながらもこちらを無視するように振り返らないが、すぐに尻尾がパタパタと俺の両腿の内側を叩きはじめた……チョロイな。



「結局、龍を倒すという考えは否定されなかったという事か……」

 学校へと向かう道すがら、異世界での行動について考えながら呟く。

 先日の課題である龍の件はよしとしても、問題はルーセが姿を消したミガヤ領北部の森からどんどん離れているという事だが、結果論だがこれにもメリットは見出せる。


 ルーセが姿を消した事や、俺を含めて誰もルーセの事を思い出せないのが大地の精霊の影響だとするならば、その影響力を及ぼす範囲から抜け出せば記憶を取り戻す可能性は高い。大地の精霊といっても単体で世界中の大地を支配しているわけでは無いだろう。

 一度異世界で記憶を取り戻す事が出来たなら、ルーセとの記憶を事細かくメモして、更にその内容を【文書ファイル】に登録しておけば、如何に大地の精霊といえども物理的に残された情報や、世界の法則の外に存在するとしか思えないシステムメニュー無いの情報にまで影響を与える事が出来るとは思えない。

 とりあえず王都まで向かうという予定なので、そこにたどり着くまでの間に件の大地の精霊の支配地域から外れる事を今は祈るしかない。


「おはよう」

 挨拶の声をかけながら部室へ入ると、一年生の神田が「おはようございます」と返事をしながら近寄ってくる。

「主将と櫛木田先輩と紫村先輩が来たら、格技準備室に来るようにと大島先生からの伝言です」


 ああ、昨日の話か……櫛木田を加えるという事は昨日の拉致に関して、警察がダメージを負わないように作り上げた『物語』を、了承して口裏を合わせろという脅迫を交えたお話だろう。

 正直なところ、そんな話に乗っかるメリットは無いが、乗っからないデメリットがある。

 俺は『まだ』大島を完全に敵に回す訳にはいかない。もしも現段階で大島を敵に回せば、確実に奴を喜ばす結果にしかならないだろう。

 当然、お礼参りは必ずしてやるが、普通お礼参りのタイムリミットは卒業式だから、それまでに何とかすれば良いんだよ。


 しかし、現段階で大島を敵に回さない事を前提に、今回の件に関してメリットをもぎ取ってやらなければ、散歩を反故にされて拗ねてしまったマルに申し訳ない……さあ、どうしたものか。


 紫村とそして少し遅れて櫛木田がやってきて全員着替え終えると格技準備室へと向かう。

「そういえば昨日はあれからどうなったんだ?」

 櫛木田に尋ねる。

「あの後か……とりあえず、俺は刑事さん二人と一緒に警察署に行って、主に拉致された時の状況や、その後にどんな事をされたかを詳しく聞かれたな。解放されたのは十一時前でパトカーで家の前に乗り付けたものだから、はっきり言って近所の人間がどんな噂になってるか心配だ」

 そう言って、乾いた声で笑った……うん、それは心配だな。自分に置き換えて考えるだけで嫌な汗が浮かんでくるようだ。


 その後大した話が出来るほど準備室までの道のりは長くなかったので、俺はドアを叩いて「高木、紫村、櫛木田入ります」と告げると中へと入った……おっと、セーブだセ~ブ。


「おう、昨日はご苦労だった」

 今日の大島の心の天気は晴れ。昨晩は素敵な暴力に恵まれたようです。


「昨晩はあれからどうなったんですか?」

 練習開始まで、それほど時間も無く、ついでに言うと面倒なので話を進めるように促した。

「あれからか……あれは良い『狩り』だった。一網打尽、逃げ惑うヤクザどもを一匹残らず叩き潰して」

 促す俺を無視して、嬉しそうに笑みを浮かべながら思い出話を続ける大島に、俺と櫛木田は顔を見合わせ「ちょっと奥さん。今この人『狩り』って言いましたわよ」「しかも、捕まえるじゃなく『叩き潰す』って怖いですわ」「それより、この人笑っていますわ。キモイ」「すごいキモイわ」と何故か通じるアイコンタクトを交わした。

 ちなみに紫村は入れない。奴はどちらかといえば大島に近い感性を持っているから。


「それで警察としては今回の件はどう扱う予定なんですか? それが分からないとこちらも口裏を合わせる事は出来ませんが」

 内心の苛立ちを押し殺して、再び話を促す。

「櫛木田が拉致された事は公表する。これは目撃者もいるから隠蔽しようが無いそうだ。そして善意の市民から匿名での通報を受けて警察が動いて、追跡して犯人の車を捕捉して工場跡に逃げ込んだ犯人に説得を行った結果、犯人は自首して櫛木田は解放されたという話にまとまった」

 まあ無難な話だ、だが……


「櫛木田がヤクザに狙われた理由はどう説明付けるつもりなんですか?」

「それは、連中の仲間が捕まった事に対する報復という事になった」

「でも、そのためにはヤクザ達も口裏を合わせる事になりますが、ヤクザに譲歩したんですか?」

「未成年者への略取は外しようがねぇが、監禁・暴行を外してさらに自首をおまけしてやると持ちかけたら、すぐに首を縦に振ったそうだ……まあそりゃあ、そうだろうな」

 犯罪者の気持ちは分かるんだな。生徒の気持ちなんてこれっぽっちも分からない癖に。

「つまりヤクザ達は口裏合わせをするのに十分な報酬を得たということですね」

「そういう事だ」

「では我々は何を頂けるんでしょうか?」

 俺は逆襲に出る。そのためのセーブだ。


「何ぃ?」

「そんな凄んだところで仕方ないでしょう。我々には口裏を合わせる義理も利も無いということです。警察は不祥事を隠し通せた。先生は自分の先輩に恩を売りつつも自分も楽しんだ……さて、我々は? 櫛木田に至っては拉致され、殴られ、警察の取調べで夜遅くまで拘束されて、夜中にパトカーで家まで送りつけられたからご近所で変な噂が立つでしょうね。俺や紫村も余計な手間をかけさせられたし」


「高城。お前……根に持っているのか?」

「そりゃあ、根に持つでしょう。生徒をそっちのけでヤクザで遊ぶ事しか頭に無いような人に殴られたんですから。どの面下げて偉そうに生徒を殴れたんでしょうね? その人は……おかげで俺の口も随分と軽くなるかも……いえ軽くなるのは口じゃなく指ですね。キーボードであることあること全部書き連ねて、最後は人差し指のクリック一つで送信……なんて事になりそうです」

 俺は大島に対して脅迫と言う危険な賭けに出た……ロードと言う手段が無ければ絶対にやらない。


「何が望みだ?」

 余裕じゃないか、まだメロン熊になっていない。

 俺に喋らせるだけ喋らせておいてから、必要とあれば力尽くで交渉のテーブルをひっくり返す心算なのだろうか?

 多分、何かある。この程度の事を笑って済ませるだけの、むしろそれを知らずに自分に脅迫を掛ける俺を、そして逆転の一手を打たれて絶望に顔を歪ませるだろう俺を慈しむように見守る余裕が……ならばその余裕をぶっ潰してやる。



「そうですね。先生の先輩とやらからは、回らない寿司屋での食事を部員全員にしてもらいましょう」

「まあ、それくらいは当然だろうな。色々資金をプールしているみたいだしな」

 他人事だから軽く請合う……だがな。

「そして先生には……」

「待てこの野郎! まさか俺からも毟り取る気か?」

「いえ、毟り取るだなんて人聞きが悪い。ただ夏の……いえ、冬の合宿は今後取りやめて貰います」


 冬合宿……夏と同じ山で行われるのだが、違っているのは冬山だという事だ。

 それに夏に比べて短い冬休みのために期間も五日間と短いが、その分きつさは十倍だ。

 俺は一年生の時の冬合宿の時にそのカリキュラムを聞いて「冬山を舐めるな!」と叫んだ……胸の奥で。


 大島と早乙女さんの二人で、二年生から一人ずつスノーモービルの後ろに乗せて山奥の何処かに捨ててくる。

 二年生達を捨て終わると次は一年生を山の奥に捨ててくる。

 そして一日がかりで一年生・二年生達を山に捨て終わった後、残された三年生達が翌朝、山へ踏み入り下級生達を救助に向かうというクレイジーな真似をさせられるのだ。


 早乙女さんが所有する山林は幾つもの山にまたがるほど広大で、更に捨てた場所はスノーモービルで遠回りをして捨てるので、スノーモービルの轍を追って探せば、如何に三年生達といえども遭難するのは確実だ。

 しかも、その山は毎年冬合宿の頃は必ず吹雪くという悪条件である……どう考えても常識も法律も自然さえも俺達には救いの手を差し伸べてくれていないという事だ。


 部員達にはそれぞれGPSと無線機が渡されており、山頂には中継用のアンテナまで設置されており、その設備の充実さから俺達以外にもここを合宿所として使用されているようであり、安全性には配慮されているようだ。

 基本的に山に不慣れな一年生達は近場で雪洞を作るのに良さそうな場所を探して、更に発見されやすいように近くに目立つ旗などを幾つも立てた上で雪洞を掘って篭り救助を待つ。


 二年生達は、一年生より更に奥の山に、しかも間隔を広くして捨てられているので、三年生の手間を省くために二年生同士で合流して集団を形成するために移動を行う。集団で協力し合えばより広い範囲での目印の設置が可能となり、更には獲物を取るための罠の設置にも便利である。


 そう二年生は罠を設置して狩りをしなければ食料が持たない。開始から翌日で救助される一年生に対して、より早い段階でより遠くに捨てられて救助も後回しにされる二年生は渡された食料だけでは生存できない。勿論、非常用食料も含めれば十分な量を与えられているが、非常用食料に手を付ければ失格とみなされて、ペナルティーとして四月一日から始業式までの数日間、街から姿を消す事になるらしい……詳しい事は知らない。幸い俺の知る限りそんな事は一度も起きていないからだ。


 そして三年生は、通称犬役として手分けをして山の中に入り下級生を探す役だ。しかし三年生の持たされるGPSも自分達が遭難した場合の為の物であって、GPSで自分の位置を確認しながら下級生を探すなんて事は出来ない。

 当然無線も繋がる先は大島や早乙女さんの持つ無線機のみで、下級生どころか三年生同士の通信すら不可能だ。


 無線が使えるのは非常事態か、自分が遭難して失格になる場合か、見つけ出した下級生の情報を伝えて回収してもらう時だけだ。流石に見つける度に下級生を連れて下山していては四日間では目標達成不可能だから、連絡を受けると大島か早乙女さんのどちらかがスノーモービルでやってくるのだ。


 一年生は近場に比較的まとまって放置されているので、三年生は手分けをして一日がかりで発見する。

 そして山中で一度合流して、作戦を練って一泊した後に広大な山地に散って二年生の救助に向かうことになる。

 一方、二年生は集団を形成した後に、出来るだけ発見されやすいポイントを探して、そこで救助を待つので、三年生達は三年間の山での経験から導き出したポイントを絞り込んで、そこを手分けをして効率よく回るのだが、そこは大島。必ず一人は三年生達が予測する範囲の外に捨ててくる。


 まあ何を隠そう、その一人が去年は俺だった。ギリギリまで発見されず凄く孤独だったのを憶えている。


そして今年は香籐がその立場におかれる予定だ……今年は何とか予定のみで終わらせてやりたい。そして悪しき風習を断ち切り、空手部という地獄に新たな風を吹かせたい。



「馬鹿野郎! 俺の楽しみを毟り取ってんじゃねぇか!」

 お前はもっと別の楽しみを見つけて己の人生を豊かにしろ。具体的に言うなら結婚して家庭を持って少しは落ち着けよ。

「では交渉は決裂と言う事ですね? 紫村頼んだ」

「分かったよ」

「まぁ待て……もし今年の冬合宿を中止したら、来年以降の冬合宿にも影響が出る。今年の二年は間違いなく来年の犬役が勤まらない」

 何をトンチキな事を言ってるんだこの男。


「だからもう止めて欲しいんですよ。合宿自体を」

「た、高城!」

「高城君。君はそこまで後輩たちの事を……」

 俺の言葉に櫛木田と紫村が驚きの声を上げる。

「お前が、そこまでの決意をもっているのなら……俺も付き合うぞ。副主将として!」

 そう覚悟を決めたような事を言い出す櫛木田だが……

「櫛木田ぁ~、お前が俺に逆らう決意を示すなんて先生は驚きだなぁ~、お前がそこまでの覚悟を持っているなら、俺もとことん付き合ってやろうじゃないか、教師としてなぁぁっ?」

「ひぃっ!」

 大島に凄まれると、何時もの様に蹴られた子犬の様な悲鳴を上げる……簡単に状況に流されずに、きちんと腹を据えた上で口にしてもらいたいものだ。


 しかし、そんな脅しは俺と紫村には通じない。

 紫村はともかくとして、以前の俺なら大島の圧力に屈しただろう。

 しかしレベルアップにより勇者的『善い人』に偏った自分の心を修正して状況を改善するために、意図的に逆の方向性のキャラクターを演じてきた。

 その演じる役柄は人生経験の少ない中学生としては身近な人間に求めざるを得ない……すなわち大島だ。システムメニューが導く先が勇者なら、大島は魔王なので当然の選択だろう。

 故に「最近大島に似てきてない?」と他の部員達に指摘されて「お前らだって似てきてるよ」と空しい反論しつつも胸を痛めてきた。

 だが自分が大島(仮)であるならば大島に屈することは無い。そう思い込む事で、今まで散々刷り込まれてトラウマとなった感情を押し殺す事が出来る……と思い続ける事が大事なのだ。


 一方、大島は苦々しい表情を浮かべながら、顎に手をやりながら瞼を閉じて考え込み始めたと思うと数秒で瞼を開くと、こちらの様子を探るように言葉を投げかけてきた。

「そういえばだな……高城」

「何ですか?」

「鈴中の事だが……」

 思いがけない名前に、俺は表情を変えずに聞き流す事が出来たが、システムメニューを開いて停止した時間の中で紫村と櫛木田を振り返ると、ポーカーフェイスを保つ紫村とは対照的に、顔にはっきりと「仰天」の二文字が刻まれている櫛木田にむしろ俺が驚いた。

「相川興業の連中が薬……正確には覚醒剤だな……を流していた顧客リストが出てきたんだが……中に奴の名前があったぞ」

 確か先々週本屋で読んだ薬学関連の本の中にあった説明では麻薬と覚醒剤は、薬物を取り締まりでも麻薬と覚醒剤で別の法律が存在するくらいに別物だそうだ。


「何か拙い事でもあるんじゃないか……高城」

 カナリアを銜えた猫の様な笑みを浮かべる。

 大島の言葉の含みを俺は理解した。

 俺にとって鈴中が覚醒剤をやっていようが、そんな事はどうでも良い……紫村にしか話していない鈴中の犠牲者達の事を抜けばだ。

 そして大島がそれに気づいた理由も分かっている。


 大島は鈴中の失踪に俺が関わっていると疑いと言うより確信を抱いていた。

 そして鈴中の失踪後も数日間は奴の家を手下の連中に見張らせていたとすれば、そいて彼女達が呼び出しではなく決まった日にくる事を強要されていた場合は、大島が張った網に引っかかるのは当然だろう……完全に俺のミスだ。


 大島が彼女達と今回の覚醒剤の件を関連を結びつけるのは難しい事じゃない。

 更に俺が鈴中の失踪に関わっているなら彼女達の事を知っていると当たりをつけるのも当然だろう。

 俺が彼女達に対してどんな感情を抱くかも、この件を知ってどう苦しむかも……悔しいが正解だよ。


 その情報が確かなら鈴中の糞野郎は十三人……俺の知る範囲だけで三人追加で十六人の女達に薬を使っているはずで、そうなれば彼女達には既に禁断症状が出ていてもおかしくは無い……事は急を要する。



「……急用が出来たので帰らせてもらいます」

 この場合「今日は」と言わないのが肝だ。明日以降にも引っ張る可能性は十分にある。

「おお、帰れ帰れ」

 自分の描いた絵図通りに事が進んで嬉しそうな大島だが、最後までお前の思惑通りには進みはしない……紫村がいる限り。

「僕も付き合った方が良いのかな?」

 唯一事情を知っている紫村が心配気に尋ねてくる。「女」という存在には驚くほど冷淡だが、相手を「人間」として捉えた場合は人一倍情が深いのだ。面倒な奴だが……だからこそ俺はこいつの事を尊敬すらしているのだ。


「いや、大島が余計な事をしないように見張っていて欲しい」

 あえて大島を呼び捨てにした。この件に首を突っ込んできたらただじゃ済まさないという俺の意思表示だ。


「わかったよ。君も僕の助けが必要なら何時でも連絡して欲しい」

「ちょっと待て、お前ら勝手に何を言ってるんだ? こんな面白そうな事、俺が──」

「大島先生。僕が口裏合わせに協力する事へ、あなたが支払う代償は、この件に関して高城君の行動に一切介入しないという確約をする事です。もしも高城君の周辺で情報を探るような真似をしたら、昨日の件だけではなくあなたに関する情報がネットのみならず新聞やテレビに詳細な情報が送りつけられる事なるでしょう……明日の新聞の一面に顔写真が載るかもしれませんね。うらやましい事です」

「くっ! ならば高城が部活を休む事は──」

「それも介入とみなします。そもそも休日の部活への参加には義務はないのですから。それで高城君はどんな条件を出しますか?」

「そうだな……櫛木田が条件を考える際、そして条件を提示した後、その件に関して一切、脅迫や報復などの手段を用いない事を条件にしよう」


「高城てめぇ!」

「大島先生、あなたがこの二年間、櫛木田君との間にどれほどの信頼関係を築けたか次第ですよ……楽しみです」

「櫛木田。お前が一番迷惑を被ったんだ自分で好きに判断を下せ。紫村、後は頼んだ」

「ちょっと待て!」

 背後で大島と櫛木田が息ぴったりにハモったが、相手をしている時間が惜しいので無視して着替えるために部室へと向かった。



「主将。話って何だったんですか?」

 一人で戻って来た俺、香籐が心配そうに尋ねてくる。

「今年の合宿についての話だ。櫛木田次第だが上手くいけば……いや、確実でも無いのに期待を持たせるのもなんだしやめておく」

 櫛木田よ。これで判断を誤ったら後輩からの評価ががた落ちだ……主将より後輩に慕われる副主将など存在しないのだ。

 あれ? でもこれで櫛木田が上手く冬合宿を中止に持ち込めれば、奴の評価は鰻上りで相対的に俺の評価は下がる訳で、しまった! これから戻って……いやそんな事をしている暇は無い。


「待ってください。一体どういう事なんですか?」

「詳しくは櫛木田に結果と一緒に聞いてくれ。悪いが今日は用事が出来たので帰る事になった」

「用事……ですか?」

「ああ大島にも話は通っている。時間が無いので着替えさせてくれ」

 そう告げて、手早く着替えると部室を飛び出した。


 鈴中の被害者の十六人の中で住所が分かっているのは、鈴中を駆除した西村先輩ともう一人彼女と同期で去年の卒業生のに人だけで、在校生の三人と西村先輩より前に卒業した五人。そして鈴中の前の赴任先の中学校の卒業生の三人と後から見つかった被害者の三人は名前以外は全て不明だ。


 とりあえず、在校生に関しては職員室で資料をあたり、卒業生は図書室で過去の卒業アルバムを当たれば良い。

 問題は、鈴中の以前の赴任先の学校だが、一つ救いがあるのは、我が校が県立ではなく市立であることだ。つまり管轄する自治体は県ではなく市であり、教師も市の公務員であり教員の移動は市内限定という事だ。

 しかし、その学校名をどう調べるかだ……図書館で過去の新聞の縮小版をあたって、3月末あたりに発表される教職員などの移動情報を調べるか……いや待てよ、教頭なら知っているはずだ。それに在校生の名簿のありかも知ってるだろう。


 流石に自分の携帯から教頭に電話をかける気にはなれない。それなら公衆電話か、最近見かけないよな駅には数台設置されているけど……そういえば学校の事務室の受付の横にあったな。

 周囲に誰もいない事を周辺マップで確認した上で【迷彩】を使って姿を消すと、格技準備室のそばにある昇降口から中に入ると、校舎の反対側にある事務室へと向かう。

 再び周辺マップで周囲に人がいないのを確認して、教頭の携帯へと電話をかける。

 まだ六時少し前なので、まだ寝ているかと思い十回以上コールする覚悟はあったが、五回目のコールで繋がる……流石年寄りは朝が早い。


『もしもし、どちら様ですか?』

「先週の木曜日の夜……と言ったら分かるかな?」

『君か?』

「そちらの想像通りの相手だと思ってくれて構わない。例の件で問題が発生した」

『どういうことだね?』

「昨晩、相川興業という暴力団組織が警察によって構成員が一斉検挙されたのだが、奴らは覚醒剤を扱っていて、その顧客名簿に鈴中の名前があった」

『奴は女の子達に薬を使っていたというのか!』

「その可能性はかなり高い。それで被害者達に接触するために、彼女達の住所を知りたいのだが、まず在校生と卒業生の住所を記したファイルのありかと、鈴中の以前の赴任先の学校と転任してきた年度を知りたい」


 教頭は俺の言葉に、息荒く声を震わせながらファイルのありかと、鈴中の前の赴任先の学校名を伝えると、更に集合写真のありかも告げてきた。

 まあ、鈴中の前の学校での情報は、紫村が調べてあるかもしれないが、鈴中の件が終わった片付いたと判断して調べるのを止めているだろうし、部活もそろそろ始まるのに聞きに行くのも抵抗があるので、こちらで調べる事にした。


「もしかしたら、他に聞きたい事があるかもしれないが、そちらは一切動かないでくれ」

 そう告げて通話を終わらせると2階の職員室へと向かう。

 職員室のドアとドアの上の窓には鍵がかかっているが、視界を遮るドアと違いガラス窓の鍵は【闇手】で解錠出来るので、後は窓から音を立てないように素早く侵入すると、教頭の机の窓側にある鍵付のキャビネットのガラスを割って中から歴代の在校生リストのファイルを取り出した。

 割ったガラスに関して俺はどうでも良いと思っていたが、教頭が明日早くに学校へと行き、自分がよろけてぶつかり割った事にすると言っていた。


 ファイルを開いて、システムメニューを開いた状態で一気に流し読みして頭の中に全員の名前と住所を叩き込む。

 そして鈴中のパソコンの中にあったフォルダ名である姓と、携帯電話のアドレスにあったアルファベットの名前を組み合わせて、リストの名前と照合すると二年生の『佐藤 美咲』が二人居たので、記憶と集合写真アルバムで顔を照合して本人と確認、更に他の二人も集合写真の顔を確認して本人である事を確認した。

 ファイルとアルバムを元に戻すと、入ってきた時と同様にドア上の窓から外に出て【闇手】で鍵を閉めて、四階にある図書室へと向かい、同様に本人を特定して住所を頭に叩き込む、卒業アルバムは名簿と集合写真が一冊に収まってる分助かった。


 学校を出ると時刻は六時五分とかなり良いペースだが、これから他所の学校に忍び込むので出来るだけ早い時間に済ませておきたい。

 ここからは人が多くなるまで時間との戦いになる。

 二つ校区を挟んだ先にある桜台中学へと、周辺マップで歩行者との遭遇を避ける以外は自重無しの超高速立体移動で、都市伝説の一つや二つ作るのは止むを得ないと判断する……次第に色々と緩々になっていく気がするが仕方ない。


 早朝であるがゆえに散歩に出ている年寄りの数は決して少なくない。はっきり言って平日の昼間の方が路上の人口密度は下であろう。

 だから幾ら姿を消しているとはいえ全力で走るわけにはいかない。

 風属性の魔術である【伝声】は音の波に指向性を与えて遠くに伝える事が出来るので、伝える先を上空に向ければ足音などをある程度周囲に伝えずに済むが、今の俺は時速六十キロメートルを優に超える速さで長時間走り続けることが出来るのだが、そんな速度で人間が路地を走った時の周囲に与える風圧は、無駄な風の抵抗を減らし後方乱気流まで計算され尽くされたフォルムを持つ自動車どころか、馬の様に早く走るために進化した動物と比べても遥かに、そして無駄に大きい。

 すれ違う時の風圧で歩行者をふっ飛ばしかねない。


 また時速六十キロメートルから先の世界は正面からぶつかってくる風の壁との戦いであり、身体の体勢や足運びを一つ間違えばそのまま身体が浮いたり姿勢を崩して転倒するほどだ……人間の身体はフォルム自体がその速さで走るようには出来ていない。

 今以上に以上にレベルアップして身体能力が上昇しても、これ以上の速度を一瞬ならともかく長距離で維持して走り続ける為には、余程の修練か新たな魔術か、それとも魔法を使いこなせるようになって風圧を操作するような魔法を身につけるまでは無理だろう。


 結局、路上での走行をあきらめて他人の屋根の上を移動する事になるのだが、屋根を壊さない為には体勢を崩す事無く着地する必要があるので、V字ジャンプ以前のスキージャンプのように両足をそろえ、手を真っすぐ伸ばして太腿に添える様な形が一番空中で安定する様だった……まあ程度の問題でどのみち冷や冷やしながら飛ぶのだが。


 今後は屋根を使わずに移動出来るように空中を飛ぶ足場として使える岩をこちらの世界でも幾つか調達したいと思う。

 マルの散歩に使っている河辺の散歩道を上流へと向かえば使えそうな岩も見つかるだろう。



 しかし幾ら全身のばねを使って勢いを殺しながら静かに着地しても、足元で鳴る瓦の音は抑えきれない。、

 一度に五十メートル以上を跳躍するための踏み切りは、家の前を大型のダンプが通った程度には家を揺らす。

 ……この事がご近所ネットワークに俎上すれば都市伝説とまでは言わないだろうが噂として残る事になるだろう。

 いや、多分今日一日で都市伝説を作り出してしまう事になりそうだ。行かなければならない場所が沢山あるのだから。

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