第56話

 目が覚めると同時に、何故か知らないが『龍を狩ろう』という強い思いが胸に去来する……何でだ? 本当に最近は自分の頭が心配になってきた。これが現実なら病院に行くところだが、異世界で精神科医なんて最初から期待していない。


 手早く旅装束に着替えると部屋を出た。

「おはようさん。随分と早いね」

 宿の女将が声を掛けてきた。

「おはようございます。今朝は随分と良い天気ですね」

 俺も挨拶を返す。武道をやっている人間はとりあえず挨拶だけは礼儀が良いものなのだ……ただし大島は除く。


「昨晩は雨が降ったみたいだからね。おかげで空が綺麗に晴れてるんだよ」

 確かに東の窓から差し込む日差しは強く、近づいて窓越しに見上げた空は吸い込まれるような蒼だった。


「もう出るのかい? 朝飯の準備はまだなんだけどね」

「今日中に先の町へと進んでおきたいんでね。朝飯がまだ出来てないなら、パンに適当に何かを挟んだ物でも出してもらえるかな?」

 そう女将に頼んだ。ちなみにパンを『麺麭』と書くことはシステムメニューの翻訳機能で初めて知った。

 昨夜この店のメニューを見たとき、システムメニューは俺の視覚に介入して実際に書かれている文字を麺麭と翻訳して表示してくれたのだが、残念な事に俺はその文字をパンと読む事は出来なかった。

 おかげで現実世界で父さんから広辞苑を借りて一冊丸ごと頭の中に叩き込んだのだった。


「おや、パンかい? 昨日はシチューを頼んだのにパンを頼まなかったからパンが嫌いなのかと思ってたわ」

 良く見てやがる。頼むから忘れてくれ。

「じゃあ、適当に作ってくるからちょっと待ってるんだよ」

「はい」

 気の無い返事をしながら、椅子に座り【所持アイテム】内の昨日の内に購入しておいた物を確認する。



 先ずはクロスボウだ。やはりクロスボウはこの世界に存在した。しかしこれをクロスボウと呼んでいいのかいささか疑問だ。

 【装備品】のリストからクロスボウをチェックして表示された説明には、取り付けられた金属製の小弓の張力は百六十キログラムを超えるとある。

 現実で寝る前に少しクロスボウについてネットで調べておいたのだが、これは所謂、三国志などで知られる弩(おおゆみが正解でいしゆみは間違い)と呼ばれる類に属し、現在市販されるクロスボウの張力の高いタイプの倍の張力を持ち、ロングボウにも匹敵する射程を持つ化け物だ。だが十分化け物の類に足を突っ込んでいる俺ならば、一度射た後に弦を引いてボルト──クロスボウ使われる矢、和弓や洋弓の矢のように矢羽はなく、先端の尖った棒状で長さは和弓や洋弓の矢に比べるとかなり短い──をセットしなおすまでの時間は十秒以内、慣れれば五秒程度まで縮める事が出来ると思う……これが大言壮語ではなく、ほぼ事実だと確信出来てしまうのが我ながら恐ろしい。


 他には石鹸が手に入ったのがありがたい。

 高級品でかなり値が張ったが現代人としてこれだけは譲れないので、店頭に並んでいた香料を使っていないタイプを五個全て買い占めた。

 町の外を移動する事が多くなる俺にとって、香料を使った石鹸は選択肢に入らなかった。


 他はネハヘロでも購入出来た消耗品の補充。もしくは買い忘れた物の買足しで……そう、愛用の携帯食料も売っていたので補充した。

 本当ならば【所持アイテム】の中に入れておけば痛む事もないので、店にある全てを買い占めたかったのだが、店主に断られてしまった。

 それでも最初に持っていた分よりは増えているので暫くは安心だ。これと干し肉──流石に携帯食料をお湯で溶いただけのシチューだけでは物足りないので、干し肉をちぎって放り込む事を学習した──と果物さえストックしておけば町の外で飯を食う場合に、料理の下拵えには定評のある俺でも困ることは無い。


 また所謂ファンタジー物では定番の、袋状の内部に見た目の大きさよりも遥かに多くの荷物を入れることが出来き、しかも荷物の重量もある程度軽減、または無くしてくれる魔法の袋的なマジックアイテムは無かった。

 それが手に入ったなら、倒した魔物を町の中へ無理なく持ち込んで換金出来るようになるのだが、今はそれが出来ないので【所持アイテム】の中がスプラッタな事になっている。


「お待ちどうさま。これを食べて頑張って歩くんだよ」

 女将が厨房から出てくると、片手に持った大きな葉っぱに包まれた朝飯代わりの弁当を渡してくれた。

「ありがとう。またこの町に来る事があれば寄らせて貰うよ」

「ああ、その辺は大して期待しないで待ってるから、無茶な真似して死ぬんじゃないよ」

 こちらの社交辞令を軽くスルーしておきながら、暖かい気遣いを見せる……畜生! 人としての格付けで完敗だ。


 敗北感を噛みしめながら街を出るために西門へと向かった。

 入る時には簡単な荷物検査を受けたが、出る時は何事もなく通過が許される。ふと『出女、入り鉄砲』と言う二つの言葉が思い浮かび、俺が女だったら厳しく取調べを受けるのかな? と下らない事を考えていた。


「やあ、リュー!」

「…………」

 見覚えのイケメンが声をかけて来たが、俺はそのまま通り過ぎる。

「ちょっと待ってくれ」

「…………」

 待つはずが無く逆に走り出す。

「ま、待ってくれ! 頼むから!」

 背後を必死に追いかける気配を感じるが頼まれたって待つものか、振り返って一生に一度くらいは言ってみたかった「あばよとっつぁん!」と叫ぶと全力の半分ほどの力で加速し、俺は風と一つになった。



 遥か後方十キロ弱ほど後方へ置き去りにし、領境まで三キロといった場所で足を止めた。

「ボンボンめ待ち伏せするとはやってくれる」

 西門の外で俺を待ち受けていたのボンボンこと……えっと何だったっけ?

 確か名前は、貸すとか貸さないとか……駄目だ思い出せない。このどうしようもない程に高まってしまった俺の記憶力に憶える事を拒否させたという途轍もない男である。


 名前はともかくとして、この田舎臭く貧乏な領地を治める立場にありながら、実際治めていない役立たずな領主の次男坊で、親父を領主の座から、長男を後継者の立場から引きずり下ろして、自分が領主となり問題だらけの領地を立て直そうと企むが、その割には抜けている。

 まあ悪い奴ではないだろうが、関わりあって良い事などありそうも無い相手だ。是非とも何処か遠く、二度と係わり合いにならない場所で彼の幸せを願うようになれれば良いと思う。



 右腕の肘から先を上に上げて手を銃把を握りこむ形に構えてクロスボウを装備する。

 クロスボウを右手で銃把──現在の銃のように銃本体から突き出た形にはなっておらず、引き金の直ぐ後ろのクロスボウ本体に握りやすい形状の加工が施されているだけ──を握り保持したまま、左手で弦を掴み引きながら、右腕で押し出し両腕の力を使って発射位置のストッパーに弦をセットしボルトをセットするまでにかかった時間は七秒台に収まった。

 このタイムだと狙いをつけて射るまでには十秒以上かかる事になると思うが、大体想定の範囲に収まっているので初めてとしては悪くない数字だ。


 たった位置から正確に三十メートル離れた木の幹にある瘤に狙いをつけてみる。

 エアソフトガンや、ゲームセンターにある銃型コントローラーを使って狙いをつけたことはあるが、照門と照星を使うそれらと違って狙いをつける方法はセットしたボトルの描く直線を使って左右の狙いを定めるだけで、上下の狙いはほぼ感覚頼りだ。


「これは改造して照門と照星を取り付けた方が良いな」

 そう呟きながら引き金を引くと、文字通り弾かれたかのように飛び出した矢は、水平方向の狙いはほぼ正確だが、垂直方向は狙いに対して上向きに飛ぶと、真っ直ぐ軌道を変えることなく狙った瘤の上四十センチメートルほどの位置に突き刺さった。

「コンマ二秒か……時速五百四十キロメートルか。この重たいボルトでか?」

 その威力に驚きの声が出てしまう。


「やっぱり簡単には当たらないな」

 スコープのようなものとは贅沢は言わないが、やはり照星と調整の出来る可動式の照門が欲しい。

 リトクド領から二つ領地を越えた先にあるという王都にでも行けば腕の良い鍛冶屋が……いや、サイズと繊細さの要求される仕事なら彫金師などに頼んだ方が良いかも知れない。


 構造は古い軍用ライフルに取り付けられていたようなタンジェント・サイト(狙う距離にあわせて照門の高さを調節出来る照準装置)の参考にして、実際の距離と狙いとの擂り合わせは、出来上がってから取り付けて射て確認してみるしかないので、格好良く距離を彫りこんでもらうことは出来ないのが残念だ。それ以前に弦を交換したらボルトの速度も全部変わってしまうだろう……だがその面倒臭さもまた楽しみなのである。


 クロスボウを持ったまま標的にした木へと近づいて、刺さったボルトを確認する。

 深く突き刺さったボルトを掴んで引き抜こうとすると、直ぐに折れて外れた。

「発射速度が速すぎて突き立った時の衝撃にボルトの軸が耐え切れないのか……」

 標的までの距離が近すぎたのと、やはりボルトが金属製でも竹製でもない事が大きいのだろう。クロスボウ購入時にボルトも五十本買っておいたが余裕を持って補充しておくべきだろう。

 どうせ【所持アイテム】の中に入れておけば重たくも場所塞がりにもならないのだから。


 折れたボルトの軸を投げ捨てると、クロスボウの弦を引き新たなボルトをセットする。

 周辺マップの南に四十メートルの位置にオーク一体と、更に南西へ七十メートルの位置にオークが三体が表示されている。

 こいつらを狩るために足を止め、クロスボウの試射を行ったのである。やはり実際の狩に使ってみないと武器として使えるかどうかは分からない。


 ちなみにオークはコードアの村で全て売ってしまったのでストックが無い上に、オーガなどとは違い、一体ずつなら手軽に換金出来るので今の俺にとっては大切な現金収入源なので逃す手は無いという事情もある。


 斥候を出すほど組織だった行動が出来るのか疑問だが、群れから離れて単独行動を取っている一体が森の中から街道へ出ようとこちらに向かって来ている。

 オークが森を出てくる位置の方向にクロスボウを構え、引き金に触れるか触れないかの位置へと右の人差し指を伸ばす。

 残念ながらこのクロスボウにはストックとも呼ばれる銃床が存在しない。

 つまり火縄銃と同じで銃床を肩に当てて銃を安定させる事が出来ない。

 更にはこれはクロスボウと呼ぶにはサイズがかなり大きく重たいので、筋力の問題ではなく体重の問題によって、立射では脚を前後に大きく開いて立たないと狙った位置にむけて射線を固定させるのは無理なので、動く標的に合わせて左右に狙いを変えるのは難しい。

 地面などの上に寝そべり身を低くした状態で獲物を待ち構えて射るか、カメラの三脚の様なものを用意して使う道具なのだろう。


 狙いを付ければ付けるほど、細かな筋肉の動きが大きく小さく波の様にクロスボウを揺する。

 レベルアップの恩恵を受けてなお、負荷のかかった状態での静止は不可能であり常に動き続けようとする人体として当然の反応からは逃れる事は出来ない。

 

 射撃競技において、固定された標的を撃つ種目の選手は筋肉ではなく骨で支えると聞いたが事があるが、この糞重たいクロスボウを二本の腕だけで支えなければならない状況では、たとえ脇を締めて身体に密着させたとしても骨で支えるというイメージには繋がらなかった。


 ならば素人の俺に出来る方法は一つ、静止させてから射るのではなく逆に動かしながら射るという方法だ。

 左腕でクロスボウをゆっくり持ち上げるように動かしながら射て的に当てるためには、標的までの正確な距離と、発射されたボルトの速さなのだが、このクロスボウから発射されるボルトの速さは、先程の試射では時速五百四十キロメートル、秒速なら百五十メートルだ。

 現実世界で調べた際に、張力百八十五ポンド(約八十四キログラム)のクロスボウから発射されたボルトの速さは秒速百メートル程度というデータがあったので、その一倍半の速度が出る訳だ。


 大雑把に拳銃は九ミリパラベラム弾なら音速を少し超えて、四十五ACP弾なら音速を少し下回るので、クロスボウのボルトの速さは半分より少し遅い程度だが、これは馬鹿に出来ない数字だ。


 銃だろうが弓だろうがクロスボウだろうが等しく手ブレの影響を受ける。

 銃なら銃口から弾が飛び出すまで、弓やクロスボウなら弦から矢やボルトが離れるまで手ブレの影響を受けるのでその影響を受ける時間が長いほど本人が狙った位置との実際に当たる場所との差が大きくなる。

 つまり、発射速度が半分という事は手ブレの影響が大きい事に他ならない。



 とりあえず群れから離れた一体だけでもクロスボウで狩ってみる事にした。

 道から外れて、茂みに入り俺の身体ほどの太さのある木を盾にして半分ほど身を隠して構える。

 その時、クロスボウの右側面で弦の動きを干渉しない場所を木の幹に当てるとクロスボウが安定する事に気づいた。

「なるほど狩人はこうしてクロスボウを使うという事か」

 良く考えたら、地面に寝そべって視線の位置を低くしてしまえば森の中では下生えの草木で視界が遮られて狙いが付けられないから、こうして使うための道具だったのだと納得した……本当かどうかは知らないが。

 しかし草原では視線の位置を下げたら森の中以上に狙いが付けられないし、木も余り生えてはいないので、この手も使えない。

 やはり銃床の取り付けや照準器の取り付けは必要だな。


 こちらの方へとゆっくりと移動するオークの顔の中心に狙いをつける。

 先程の試射の時は狙いより上へと飛んだので、それを頭の中で修正しながらオークが三十メートルの距離に入ると同時に引き金を引く。

 ボルトはオークの顔をめがけて飛んで……消えた。


 顔面に突き刺さりもせず、貫通したとしても傷が見当たらない。頭の中にクエッションマークが飛び交う。

 オークがこちらに一歩、二歩と近づいて来る。外したのかと思った瞬間、オークはその場で崩れ落ちるように倒れた。

 倒れたオークの後頭部からは大量の血が流れている。どうやらボルトは口の中に飛び込んだようだ……そう分かって安堵の溜息を漏らした。


 まだ南東の位置のオーク三体に動きは無いので、俺は倒したオークに素早く駆け寄ると、【操水】を使いオーク死体から血液等の水分を抜き取っていく。本来生き物に対しては使えないのだが、対象が死んでいれば使えるので血抜き作業には必須というか血抜きの為に存在するような魔術だ。


 何せ洗濯物の脱水には使えるのだが乾燥と言うレベルでは水分を取り除く事は出来ない、布などに浸み込んでしまった水分は精々絞った程度にしか取り除く事が出来ない残念な奴なのだ。

 だがそういう意味でもやはり血抜きには向いているのだ。乾燥レベルまで水分を取り除いたら干し肉が出来てしまう。


 抜き取った血液等の水分は球形にまとめた上で「○メ□メ波ぁぁぁっ!」と叫んで森の奥へと飛ばして捨て、血抜きの終えたオークの死体を収納する。

 自分で解体すべきなのだが面倒臭いのでプロに任せるのが一番だ。

 ワイバーンやグリフォンなどは、その大量過ぎる血液を、その辺にポイする気にもなれず、そうかといってどう処分すれば良いのか分からないために血抜きすらせずに収納しているくらいだ……別にいいんだよ。【収納アイテム】内では時間すら経過しないみたいだし、そもそもオークと違って売りに出すあてすらない。



 先ほどの叫び声が届いたのだろう3体のオークがこちらに向かって接近して来たので、素早く近くの木に登り、枝と葉の中に身体を潜めて待ち受ける。

 そう言えば木に登るなんて、完全にトラウマだったはずなのに、今じゃ全く平気……改めてその事を思い出すとちょっと手足がプルプルしてきたのを必死に押さえ込む。


 俺の真下をオークどもがブヒブヒ言いながら通る。はっきり言って首から上は完全に豚以外の何者でもない。ゲームに登場するオークはもう少し人間寄りの風貌で口から長い牙を出していたのに……おかげで殺す事にさほど罪悪感を覚えずに済むのだから善しとする。


 通り過ぎたその背後へと着地すると、腰の剣を抜刀と同時にオークの短い首の後ろに斬撃を送り込んで、首の半ば頸椎までを切り裂いた。

 腰の位置からの抜き打ちで自分の身長より多少低い程度のオークのが短くて太い首を後から両断しようとすれば、角度的に刃は首の付け根から入って頬の辺りへと抜ける形になる……首が短いんだ。


 声を上げることなく絶命したオークの背中を蹴り、前を行く二体の背中へと剥けて飛ばす。

 慌てて振り返った手前の一体の目が俺を捉えた時には、俺は既に剣を構え終えており、そのまま左の耳から右の鎖骨へと抜ける一撃を繰り出して首を跳ね飛ばすと同時に【操水】で噴水のごとく吹き上がる血をまとめて前方へと押しやる。


「グフィィィッ!」

 仲間の血で視界を奪われた最後のオークが嘶く。それは驚きか、恐怖か、絶望か? だがそんな感情も全て、俺の振り下ろした一刀の下に魂ごと虚ろなる闇へと飲み込まれた……別に変なものを食べたわけではなく、ごく普通に厨二病がぶり返しただけだ。


 困った事になってしまった。

 【操水】では広く飛び散ってしまった液体を操作する事には向いていない。広い範囲でも全体として一つにまとまっている液体なら操作は簡単だが、先ほどの様に飛沫となって噴出した血液は一定方向に向かって移動させる程度なら可能だが、自在に操るとまではいかない。

 そして今は、広い範囲に飛び散ってしまった血液をどうするかという問題に直面している。

 ここは一応、領都であるタケンビニと他領へと繋がる重要な街道であり、もう暫くすれば多くの人間が行き交う場所でもある。


「それなのに、こんな道の脇に血を撒き散らして……」

 どう考えても大迷惑である。もちろん現代人の意識としての道の傍に汚物を撒き散らしてしまった罪悪感もあるが、それ以上に血の臭いに肉食獣や魔物が集まってくるという心配が強い。


 仕方がないので【大水球】を発動して、血が飛び散った木の幹や枝、下生えの草木を巻き込むように移動させながら血を水球内に取り込み洗浄を終えると、森の奥まで入って【大水球】を解除した。

 その後、街道まで戻りオークから血を抜き、先ほどと同様に○メ□メ波で血の塊を森の奥深くへと飛ばすと、オーク三体をまとめて収納した。


 ふと気づくと周辺マップ上の東に五十メートルほどの距離に見知った人間の反応があった。

「しまった時間をかけすぎたか」

 既に目が合う距離までボンボンは迫っていた。


 十キロメートル弱の距離。日本人の俺からすれば「街道w」といった程度の悪路を、大荷物というほどではないが荷物を背負い三十分少しの時間で走り抜くとは、中々の体力と根性と褒めてやるべきであろう。


「み、見つけた……ぞ」

 しかし今のボンボンは、気取ったイケメン面は何処へやら、息も絶え絶え顔は汗まみれの、歩く姿はゾンビのように足元がおぼつかない……良い。実に良い感じになってきた。俺の中でボンボンへの好感度が鰻上りで、多少話くらいは聞いてやっても良いんじゃないかという程度には寛大な気持ちになれた。


「それで?」

「それでって、僕は君のせいで実家から勘当されて街を追われたんだよ。何か謝罪の言葉くらいあっても良いんじゃないか」

 俺のせい、俺のせい……思い当たる節がない。何を言ってるんだろうこいつは」

「また口に出してる! とぼけるのはやめてもらいたい!」

「お前が勘当になった理由って何?」

「しらばっくれるのか? 君が『義心から父や兄を排除しようとしているんだよな?』なんて言うから、僕は咄嗟に『勿論』と答えてしまったからだよ。公衆の面前でね!」

「……完全に自業自得だろ」

 その一言で、気力だけで立っていたボンボンは崩れ落ちてしまった。


「君が、君が……君さえ……」

「大体な、俺と二度三度言葉を交わした段階で、『ああ駄目だ』とか『関わり合っても得にならない』とか思わなかったのか? 俺は一目見た瞬間に気づいたぞ『こいつは自滅するタイプだな』と」

「酷過ぎる。君は悪魔か何かか?」

「認めたくないが悪魔の様な男の弟子……なのかな?」

 大島について疑問が残るのは、デーモンかデビルかどちらの悪魔かと言う疑問だけだ。


「もう少し強く否定してくれ!」

「まあ、落ち着け。それにしても今回の件がなかったにしても、お前の様なうっかり者に、親兄弟を廃して領主の座を奪うなんて真似はどのみち無理だったんだよ。あきらめろ……な?」


「その最後に間をおいて「な」って言うのは止めて、凄い気に障るから。大体、僕が領主にならずに誰がこのミガヤを変えるんだよ。ミガヤ領は、確かに辺境の田舎領地だったけど、他国と直接国境を接してもいないので長閑で平和な土地だったんだ。なのに父上が、あの盆暗が佞臣どもの口車に乗せられて、連中の私腹を肥やす狩場となってしまった。兄上も兄上だ。昔から連中にちやほやされ我儘放題に育ち、あれじゃあ父上の跡を継いだら、今以上に酷い事になってしまう。だから、だから僕が何とかしなきゃ──」

 確かに気持ちはわからないでもない。だけどな……「無理なものは無理だから」

 はっきり言ってやった方が本人のためだと思う。


「……そんな事は!」

「頭だけが変わったところで、実際に手足を動かす部分が腐っているなら何も出来ない。佞臣、奸臣を排除するのは良いけど、その代わりはいるのか? どうせ居ないんだろう。居ないのに連中を排除したらこの領の政(まつりごと)は長期にわたり滞り、無法地帯になるのが関の山で、今よりもずっと酷い事になるぞ。かと言って連中を排除せずにおけば、よくてサボタージュ。最悪ならお前自身が暗殺などの手段で排除される事になる」


 漫画じゃないんだから、悪い王様をぶった斬って王国は平和な良い国になりましためでたしめでたし、なんて事は絶対に無い。

 悪い王様に代わって王になった人間が、国民に対して最低限以前の生活レベル以上を保障しつつ、改革を進めてより良い将来の展望を示す必要がある。そうでなければ悪い王様を倒す意味が無い。

 そして王を打倒しなければならないほど国が乱れているならば、王だけが悪いということは無い。当然王の部下である重臣達も腐っているだろう。それらを丸ごと排除した上で、上記の条件を満たすのは非常に困難だ。所詮人間はしかるべき地位に就いて初めて、その役職をこなす為のスキルを身につけていく。

 国の中枢の首を全て挿げ替えて、その座を未経験者達で占めて新たなる統治を推し進めたら、某民主党政権の二の舞になることぐらい中学生にもわかる話だ。


「それじゃあ、一体どうすれば良いと言うんだ?」

「何もかも全部ぶっ壊して、何の柵も無く一から秩序の構築?」

 他人事だと思うと幾らでも投げやりなアイデアが浮かぶものだ。


「そ、そんな事出来るか!」

 ボンボン個人としては、そうなのかも知れないが、国家の勃興とはそういう物で、どんなに素晴らしい国を興しても、どんなに素晴らしい統治制度を作り上げても、最終的には人が全てを腐らせて時と共に国は衰え、やがては滅ぶ。

 そして秩序崩壊の混乱から新たな秩序が生まれる。歴史とはそれの繰り返しに過ぎない。

 ちなみに新たな秩序が支持されるのは、秩序崩壊のどん底からの復興だから、よほど酷い状態にならない限りは「まだまし」と補正が入るからだ。


「それなら頑張ってミガヤ領の中興の祖を狙うんだな」

「中興の祖?」

「既存の社会システムを破壊することなく、バランスをとりながら改革して成功するまれな存在のことだ」

 一から国を立ち上げた祖と呼ばれる人間と中興の祖の成り損ないは国と同じ数だけ存在するが、中興の祖と呼ばれる人間はそれらに比べれば遥かに少ない。


「どうすれば?」

「知るか! 俺は別にこの領地を如何こうしようなんて考えたことも無い。お前が如何こうしたいなら自分で考えろ!」

 中学生に領地経営の知識があってたまるか。俺は技術チートで自分の異世界ライフを充実させることに興味はあっても、内政チートには興味がない。もし本屋に『初めての領地経営』なんて本があっても絶対にスルーするぞ。


 人生とは十分な金があって衣食住に困らず、嫌な奴に頭下げずに快適な生活を送れれば良い。

 領地経営など余計な苦労と責任を背負い込む事に何の意味があるのだろう。


 俺にとって、異世界で領地経営というのは鬼門だ。

 何をするにも大量の書類がやり取りされる官僚的な制度が確立されていながら、何故か全ての判断が組織のトップに集中していて、細かい事柄に関する書類までも全て自分で決済しなければならず、書類の山に囲まれてヒーヒーと泣きながら働き続ける謎の世界だろう……はっきり言って訳がわからん。


 何故きちんと組織分けして各部署に権限を持った責任者を配置しないのだろう。トップは責任者に方針だけを伝えて、後はそれぞれに、それぞれの職分の及ぶ範囲の全てのを任せて、トップは結果報告と各責任者の職分の及ばないトラブルなどの報告だけを受けて、それを判断し処理すれば良い様な合理的な組織を何故作らない。


 古いCMのコピーに『大統領のように働き、王様のように遊ぶ』というのがあったらしいが、異世界での統治者は何故か『大統領や王様のような立場で、奴隷のように働かさせられる』だ。

 こんな状況で領主になりたいとか王になりたいとか言い出すのは、余程の無責任か聖者様だよ。


「ヒントを、せめてヒントを……」

 こいついい性格してやがるな。俺には関係ないと突き放しても良いのだが、こうやってみっともなくても粘る奴は嫌いじゃないんだよ。

「お前がやるべきは事は、自分が領主になった後にどうしたいのか具体的なビジョンを明確にすることだろ。それを持たなければ誰もお前の夢になんかついてこない。だから皆がお前の目指す夢に乗ってやっても良いと思えるくらいのビジョンを示す必要がある。それが完成するまでは具体的な行動を行うべきではない。とりあえず今は自分を磨くことだろうな」

 当たり障りのない無難な正論を吐く。目的も定まらないまま走り出してもブラスかは博打だ。俺と大して変わらない年頃だろう。まだ人生先が長いのだから焦って博打に走る必要もないはずだ。


「磨く……自分を?」

「何でもあるだろう。知性、見た目、経験、評判なんでも良い。それを磨いている内に、自分が何をすべきかを見つければ、お前に力を貸してくれる人間も現れるだろう。そこからが本当の勝負だ」

 そう、お前の戦いはまだまだこれからなのだ……第一部完! 来世でのボンボンさんの活躍にご期待ください。


「という訳で、俺はこの辺で失礼させてもらう」

 そそくさと立ち去ろうとする俺の右足首を、ボンボンの手が掴む。

「……放せ」

「嫌だ」

 次の瞬間、腰の得物に手を伸ばすと振り返りながらの抜き打ちで、自らの右足ぎりぎりの空間を切り払う。

「指が、指が、指がぁぁぁぁ掠ったぁぁっ!」

 残念、ぎりぎりのところで手を放しかわされてしまった。舌打ちを漏らしながら剣を鞘へと戻した。

「いきなり何をする?」

 何をするもなにも……なんとなくこの男を憎めない理由が分かってきた。俺のクラスの前田に似ているのだ。確かにこっちの方がずっとイケメンであるが、何というか弄り易さと他力本願な性格など前田にそっくりだ。


「なあ、前田」

 自然にその名前が口を突いて出てしまう。

「誰だい前田というのは? ……不思議そうな顔はしないで……ああ、そうだったという顔もしないでくれ……だから何で、じゃあこいつは誰だったっけ? みたいな顔をするんだ?」

 俺の表情から考えを全て読み取るとはやるな、前田と呼ぶに相応しい逸材だ。こうなった以上は認めてやらねばならないだろう『前田二号』と名乗ることを。


「昨日俺が頼んでおいた事は、ちゃんとやってから街を出たんだろうな」

「勿論だ、私にも多少の影響力というものがある……あった。きちんと不正の証拠があるなら連中を裁いてくれるまともな家臣達だってミガヤ領にはいるんだから」

 多少でもまともな家臣が残ってなければ終わってるだろう……まあ、第一段階クリアだ。


「お前、王都に伝はあるか?」

「王都? 勿論、去年まで王都の学院に通っていたのだから、そこそこ伝はあるさ」

 学院? 貴族のお坊ちゃま学校ってやつか? 何にせよ伝があるなら、それに越したことは無い……俺もその伝を使わせてもらおうじゃないか。


「じゃあ、王都までは連れて行ってやるから、王都で揉まれてもう一度自分を磨きなおせ」

「私に力を貸す言うのか! 本当に本当か?」

 勢い良く立ち上がると、目の色を変えて、両腕を伸ばすと俺の肩を掴もうとするので、嫌悪感に一歩引いて身をかわす。

「……」

「……」

 再び掴みかかってくるので、左足を右後ろに引いて重心を左足に移し、体をかわしつつも右足をその場に残して二号の足をすくう。

「な、何故……避ける?」

 地面に突っ伏した状態で二号が怨嗟の声を漏らす。

「人の身体に勝手に触ろうとするな……俺にそんな趣味はない変態め」

 不細工や普通の顔の奴に触られるならなんとも思わないが、俺の中にはイケメン=紫村のイメージがあってイケメンとの肉体的接触は互いの拳で殴り合う範囲にしておきたい。


「ぼ、僕だって……そんな趣味は……無い」

 そう言い残すと二号は意識を失った……どうすりゃ良いんだよ。流石に連れて行くと言った以上、このまま放置しておく訳にもいかない……本当に放置したら駄目なのだろうか?


 待てよ、そう言えばこの状況は……うん、そういう事情なら仕方が無いよな。これは緊急避難なのだ。別に前から疑問だった事を試してみたくて、良い実験台を見つけたとかそんなことは少しも思っていない……ただ、どうしても必要だから致し方なく、それを為す。純粋なる善意に基づいた行為なんだ。


 俺は気を失った二号に向かって、あえて声に出して……「収納」

 本当に仕方が無かったんだよ……多分。

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