第52話

「クソっ! 駄目か」

 異世界でルーセの事を全く思い出せなかった。いや、何度か思い出す切欠はあったのに何らかの力で強制的に忘れさせられた。

 そんな事が何度も繰り返したらストレスが溜まるのも仕方ない。しかもそのストレスは現実世界にも持ち越されている。おかげでどれだけマルを撫で回しても余り癒されない。


 どうすれば異世界でルーセの記憶を維持することが出来るのか、まずそれを解決しない限りはルーセを探すことも出来ない。

 救いはシステムメニューの可能性は限りなく低いと確認出来た事だろう。


 残った候補は大地の精霊だ。俺が想像も出来ない別の原因があるのかもしれないが、想像も出来ないモノが対象では出来ることが無いので、現状では大地の精霊が原因として考察と対策を立てれば良い。

 そこで考えるべき事は、大地の精霊という存在に何が出来るのか、そして何をしたいという動機により現状が作り出されたのかである。


 分かっているのは、ルーセのように個人に加護を与える場合と、風の精霊だがグリフォンの様に種族に加護を与える場合が確認されいている。

 その加護とは、精霊の属性に似合ったものであり、ルーセの場合は地面に足……身体が触れている状態なら、レベルアップが馬鹿らしくなるほど強力な身体能力を付与する。そしてグリフォンのように空気を足場に自在に動くような特殊な能力も付与する。


 何故精霊は加護を与えるのか? ルーセを気に入ったから? それではグリフォンはどうなんだ。種族ごと気に入ったとでもいうのだろうか……個と種族か余り信じる気にはなれないな。

 理屈で考えるならば、加護を与えるのは精霊にとってそれが必要なことだからと考えるべきだろう。

 必要か、一体何が必要なのだろう。ルーセには敵討ち? いや違う。火龍を退治させた。

 そしてグリフォンにはワイバーンを狩る力を与えている……ワイバーンは翼竜。つまり龍の類だ。龍を倒すのが精霊の目的というのだろうか?

 その理由は分からないが、ルーセの事を思い出せない状況では何も出来ないのだから、とりあえず龍を中心に狩るくらいしか方針が立てられない。龍を倒し続ければ、その内に精霊からのアプローチがあるかもしれないし、ついでにレベルも上がるだろう。



 格技場に入ってきた大島は俺達を睨回し、誰もパンツ一丁で転がっていないことに舌打ちした……本当にそうなのかは知らないけど、そうとしか思わせないのが大島の大島たる所以である。


「お前らに言っておく事がある。今週も土曜日に鬼剋流の幹部が懲りずに来る事になった。だから土曜日は焼肉だ。出来るだけ財布へダメージを与えられるように腹は適度に減らしておけ……そうだな。三年生は何か策を考えて一発ぶちかませるようにしておけよ」

 流石に無策ではどうにもならないという事は分かっているようだが、一つ問題がある。

「先生。次に来る幹部の人は中学生に不意打ちで一発入れられて、良くやったと褒めてくれるような似非紳士でしょうか?」

「!」

 俺の質問に大島が真顔で考え込む。

 俯きながら『拙いか? 拙いだろう。奴に大人の対応を求める?……責任問題にして……いや、俺にも責任が……面倒は御免だな』と小さく呟くが俺にはほとんど聞こえてしまっている。


「……まあなんだ、出来るだけ正面からぶつかって一発入れろ」

 うん、井上よりはずっと大島に近いの生き物が来ることは間違いないようだ。

 嫌だな、大島みたいのが二人ってどうなのよ。大島が二人という事は1+1は2ではなく20だ。十倍だぞ十倍!


 いつもの様にランニングが始まる。

 昨日みたいな下級生にとって無茶なペースではなく普通のペースに、一年生達からは安堵の溜息が漏れる。何だかんだあったが、こいつらの体力強化のためのランニングメニューが始まって、十日以上を過ぎており、いつものペースなら大丈夫と思える程度には自信というかルーティン化してきているのだろう。

 別に悪い意味ではないランニングによる体力向上など決まりきった日課となって当然なのだ。


 問題は明日だ。二週間のランニングメニューの最終日がいつも通りのペースになる訳がない。一年生達は大島という人間をまだ全然理解していない。

 この安心した表情が凍り付き、そして絶望と苦痛に歪み、最後には全ての表情が消え去るのだ。そして大島の邪悪な笑い声だけが高らかに響き渡る……そんなランニング祭りを明日に控え憂鬱になったとしても仕方のないことだろう。


 まだ六時を過ぎたばかりの朝の町並み。その中を一台の軽トールワゴンがゆっくりとした速度で車道を走って来て、ひとつ手前の信号のある交差点を青信号で通過しようとした時、左側から信号無視で右折しながら突っ込んできた大型のワンボックスが軽トールワゴンの右の前タイヤとフロンドアの間に衝突する。

 軽トールワゴンはそのまま左側面を下にする形で横転し、滑りながらルーフ部分をガードレールに擦り付けるようにして停車。ワンボックスはバランスを崩して蛇行し、再び後部を軽トールワゴンに接触させてから立て直し、そのままこちらに向かって走ってくる。


「おい!」

 大島が掛け声一つだけで投げてきた携帯電話を慌ててキャッチする。

「救急と警察を呼んでおけ」

 そう指示を出すと、ガードレールを飛び越えて車道に出ると逃走車の前に立ち塞がる。

 まるで映画のワンシーンの様だが、俺の口からは「正気か?」という驚きの声が漏れ出す。

 ワンボックス……これがまた、ヤンキー車とも痛車とも違う、いや十分……思いっきり痛いのだが、いわゆる暴走族と呼ばれるような連中の乗りそうなシャコタンで変なエアロ……だったら何でワンボックスなんだと説教したくなるような車だ。


 日本全都道府県の中で唯一、未だに昭和の年号を使っている県と某深夜番組で揶揄されるS県ならではとしか言いようがない絶滅危惧種は、全くスピードを緩めないどころか加速し、大島への殺意を隠すことなく突っ込んでいく。


 だが大島はその場でふわりと跳躍すると、空中で優雅に寝そべるかのように両の膝を軽く曲げて身体を横にすると、衝突の瞬間に膝を伸ばして両足でフロントガラスを蹴り砕くと、そのまま車の中へと吸い込まれるようにして消えた。


「出鱈目な! ……ちっ、小林と田辺はこの場に残って、大島の指示に従え」

 舌打ちをもらしつつ指示を出すと携帯電話で百十九番通報しながら横転した軽トールワゴンへと向かって歩き出す。

「……救急です。交通事故発生。場所は──寿町2-6の交差点。軽自動車の右側面にワンボックスが衝突、軽自動車は横転。ワンボックスは損傷軽微で逃走するが……とりあえず失敗。そちらにも怪我人が出ている可能性あり、こちらは現在軽軽自動車に向かって移動中のため怪我人の数や状態はまだ不明。また警察への通報もお願いします」

 必要な情報だけを伝えると電話をフリーハンドモードにして繋いだまま軽トールワゴンに向かって急いで走る。


「主将。中には運転席と助手席に年配の男女が二人。後部座席に子供が一人です」

 先に軽トールワゴンにたどり着いていた香籐が報告を上げる。

「意識はあるか?」

「子供には意識がありますが、前部座席の二人は呼びかけても返事がありません」

 確かに子供の泣き声は聞こえるが……


「救出は可能か?」

「後部ドアは開くので子供は救出できそうですが、前部ドアは歪んでいて開きません」

 前部ドアからの救出が難しいとなると面倒臭そうだ。しかもフロントガラスはよりにもよって奇跡的に無傷という状況だ。割れてたら引っ張って取り除けるのだが……


「ガソリン漏れはあるか?」

 フェンダー周りを確認している二年生の仲元に尋ねる。

「ガソリンかオイルかわかりませんが油の臭いは僅かにしますが、車体の外には漏れている様子はありません」

 事故の衝撃で歪んで出来たボンネットの隙間に鼻を近づけて確認しながら仲元は答えた。

 僅かという程度なら普通の状態でもボンネットを開ければ匂うだろう。


「紫村。子供を助け出してくれ」

 後部ドアを開けると、紫村は上半身を車の中に入れて反対側のドアの上に座り込んでいる子供へと手を伸ばすと「大丈夫だよ」と説得力のある爽やか声をかけながら子供の頭を軽く叩く、そして見上げてきた子供に優しく微笑むと左手で掬い上げるように子供を抱き上げた……畜生。いちいち男前過ぎて腹立つな。


 後ろから紫村の腰の辺りに腕を回す。

「あぁ……出来ればもう少し下か、それとももっと上を弄るようにしてく──」

 言わせねぇよ! 無言で奴の腹筋に指を食い込ませていく。

「痛いよ。子供が……痛い、子供がいるんだから……」

 ストマッククローを止めて子供ごと奴の上体をぐいっと一気に引っ張り出す。

「ありがとう高城君……役得だったよ」

 照れるな! 薄っすらと頬を赤く染めるな! もし要救助者達がいなかったら、こいつを車内に叩き落してドアを閉めて車ごと燃やしていたかもしれない。


「高城君。この子は見た限りは骨折とか大きな怪我はしている様子はないよ」

「よし分かった。救急車が来るまでその子の面倒と電話での状況説明を頼む」

 電話を渡しながら指示を伝える。はっきり言って、まだ空手部に毒されていない一年生を除けば、紫村以外は子供受けしないというか子供が泣き出すような鋭い目付きをしたのしか居ないので、安心して子供を任せられるのは奴だけだった。


「大丈夫ですか! 意識があったら返事をしてください! 声が出ないなら何でも良いから反応を返してください」

 紫村が子供を助け出した後、俺は後部ドアから大きく声を掛けながら手を伸ばして、運転席の老人の右肩を叩く。

「うぅぅっ!」

 老人が呻き声を上げる。意識不明ではなくてほっとする。


「大丈夫ですか? どこか痛みはありませんか?」

 呻き声を上げるくらいだから痛くないはずもないのだろうが、何処が痛いですか? と尋ねるのも変だろうと、そう尋ねた。

「む、胸が呼吸がしづ──悠は? ま、孫はどうなったか、分かる……か?」

「後部座席の子供は既に助け出しました。泣いていますが大きな怪我はなさそうです……素人判断ですけど。それから助手席の女性の様子は分かりますか? こちらからは状態を確認出来ないんですが」

「し、静江、お、おい聞こえ──」

 老人は苦しそうに声を詰まらせる。胸骨か肋骨を折って呼吸に支障があるの可能性がある。だとするなら横になった車の中でシートベルトに固定されている状況は拙い。それに助手席の女性の意識も無いみたいだし──


「高城。状況はどうだ?」

 俺が判断に困っているところに大島がやってくる。良いタイミングだ。今ほどこいつが来てくれて良かったと感じたことは無いし、多分これからも無いだろう。

 とにかく今は責任をこいつに押し付けられるならそれでいい。


「車内には運転席に六十代くらいの男性と助手席には同じく六十代位の女性。男性には意識がありますが女性の意識がないようです。それから現在のところはガソリンの流出は無くエンジンは停止していますが、いつまでも安全かどうかは分かりません」

「じゃあ、まずはフロントガラスを割るぞ」

「……いや、中に人が居ますが?」

 フロンガラスを割ったら、いくら飛散防止効果のある合わせガラスとはいえ、衝撃で砕けると同時にガラス表面から剥離した破片は飛び散る。

 しかも丈夫なフロントガラスを割るほどの衝撃を加えるのだから、中に居る二人の要救助者へ怪我を負わせかねない。


「任せろ大丈夫だ」

 そう自信満々に答えると、俺が止める間もなくフロントガラスの右端に向けて、五センチメートル手前から無造作に拳を突き出した。

 次の瞬間、フロントガラスが砕けた……普通ならそう見えたはずだ。いや常人離れした空手部の連中、その中でも特に天賦の才に恵まれた紫村でさえも、奴の反応から見るに気づいていない様だ。


 半ば肘は伸び、手首も軽く曲げた状態からその二つの間接を伸ばしただけの様な動きで繰り出された大島の突きは、一撃でフロントガラスを打ち砕いてなどいない……二度だ。二度度の打撃を加えていた。


 一度目のインパクトによりフロントガラスは水面の上の波紋のように波打つのを俺は見た。レベルアップによって高速度カメラに匹敵する俺の目だからこそ見えた。

 そしてその波が打ち返されインパクトのポイントに戻ってきた瞬間、身体をビクリと小さく震わせたかのように打ち出された大島の拳はわずかミリ単位のストロークで、寄せ返してきた波の中心を打ち抜いたのだ。


 唯の一撃によりフロントガラスを破壊したなら、その破片は容赦なく二人へと降り注ぐことになっただろう。

 だが大島は一発目の打撃ではフロンガラスを破壊せず、生み出された反発の波を二発目の打撃で迎え撃つことにより、エネルギーを相殺しつつフロントガラスを破壊したのだ。

 そのためフロントガラスの破片はほとんど飛び散ることなく、そのまま下へと落ちた。


「ば、化け物が……」

 大島のやった事を確認出来なかった他の部員達はただ不思議そうにするだけだが、見えてしまった俺はそう口にするしかなかった。

「どうだすげgだろ? 今まで以上に尊敬しても良いんだぜ?」

 得意気だ。得意気だけど今までお前を尊敬した事は一度も無い。


 しかし、自分と大島の間に存在する絶望的な高い技術の壁を自覚せざるを得ない……悔しいが大島の持つ技術はまだまだ奥が深く、俺の及ぶところではない。

 大島を相手にレベルを上げて物理で殴ればいい、なんていう博打を実践する前に、まだしておくべき事が幾つもありそうだ。



 右の後部ドアから車の中へと入ると、汗を拭くために首に掛けていたスポーツタオルを手に巻いて砕けたフロントガラスを中から押し出すと、大島もタオルを巻いた手でフロントガラスを引っ張り剥ぎ取る。

「おい! 大丈夫か婆さん!」

 大島は声を掛けつつ女性の首に手を伸ばして頚動脈で脈を取り、そしてフロントガラスから頭を突っ込んで口元に耳を寄せて呼吸を確認する。


「脈も呼吸もある。だが意識が戻らない……頭を強く打った様子は無いが頚骨か背骨を骨折して脊髄が損書してもショックで意識が戻らない場合があるからな」

「その場合は動かせませんね」

「そうだな。だが爺さんは多分肋骨を折ってるから、この体勢のままは辛いな」

 俺の言葉に大島は頷く。


「爺さん。足や手には感覚があるか?」

「んっ……ああ……感覚もあるし、何とか……動かせる……ぞ」

「痺れとかはあるか?」

「いや……無い……ただ……呼吸が苦しい……」

 そう答えるが、次第に具合が悪くなっているのが分かる……拙いぞ。


「高城! 爺さんを引っ張り出すからお前は車の中に入って手伝え」

「そんなことして大丈夫なんですか?」

「もう時間が無い。ガソリンが漏れ始めている」

 森口を見ると大きく頷いた……やばいな。大体ガソリンが漏れて炎上の可能性もあるのに生徒を車の中に入れるかな普通。


「そいつは大変ですね」

「だからやれ!」

「分かりました」

 命じる大島が普通じゃなければ、応える俺も普通じゃないのだろう。


 車の中に入ると「両腕で爺さんの腰と脇を支えろ。これからシートベルトを外すから落とすなよ」と指示される。

 後部座席を一番後ろまで押し下げて、運転席のシートを完全に後ろに倒し、老人の左の腰と脇に腕を差し入れて慎重に身体を支える。しかし、その口からは痛みを圧し殺した息遣いが漏れ出す。

「支えたな? これからシートベルトを外すからしっかりと支えろ。それからゆっくりとこちらに爺さんを送り出せ」

「了解」


「ぐぁっ!」

 大島が手を伸ばして、運転席のシートベルトの金具のロックを外すと同時に、俺の両腕に体重がかかった瞬間、老人の口からは堪え切れなかった悲鳴が短く漏れた。

 老人の体重は六十キログラムはあるだろう。それを支える俺の体勢は万全とは言えないが、そこはレベルアップの恩恵もあり、左足を伸ばしてフロントパネルから突き出した、シフトノブとエアコンの操作パネルが一体になった部分に引っ掛けて体重を掛けると、ゆっくりとフロントガラスの無くなった開口部の向こうに居る大島へと老人の身体を差し出した。


 老人は車から二十メートルほど離れた場所に、本人が楽だと言う姿勢で寝かされている。表情が穏やかになっているのが遠目でも確認できる……だが助手席の奥さんの方がまだ残っている。


「高城。これを耳元で思いっ切り鳴らせ」

 ホイッスルを差し出しながら指示してきた。

 大島は部活中は、こいつを首からぶら下げているが、あまり使うことは無い。普段は怒号だったらいいきなり殴られたりと……

 ホイッスルを受け取ると……まずは口に咥える場所を空手着の裾で丁寧に何度も拭った。

 俺の行動に大島が苛立たしげにするが、大島から変な病気は絶対に貰いたくない。

 そして諦めの表情を浮かべながら、嫌々ホイッスルを咥えると、女性の耳元で思いっ切り鳴らした。


「!」

 音というよりは鼓膜への暴力というべき衝撃に、女性の身体がビクッと反応を示す。単なる反射活動の可能性もあるので、もう一度、更に気合を込めて吹き鳴らす。

「……耳が……痛い」

 女性は意識を取り戻したのを確認できた……ちなみに俺の耳も痛いよ。


「おい! 俺の声が聞こえるか? 聞こえるなら返事をしてくれ!」

「あ……は、はい」

「手は動かせるか?」

 大島の言葉に女性は手を伸ばすが、直ぐに弾かれた様に自分の胸に手をやる。


「大丈夫か?」

「いっ……胸が……」

 旦那と同じく肋骨か胸骨を骨折している場合がある。

 早くこの体勢から開放して……それ以前に漏れ出したガソリンが問題だ。

 四月の朝、まだ気温は低いとはいえ、ガソリンの引火点は-40度。既に揮発して空気と交じり合っているはずだ。そして更にガソリンの流出が続けば静電気の火花放電一つで混じりあった空気ごと燃え上がる。

 いざとなったら【真空】で周囲から空気ごと気化したガソリンも排除して逃げることも出来るが、そんなオカルト現象じみた事を引き起こすよりも、さっさとこの女性を車内から救出した方が良い。


「足はどうだ?」

「……くぅ、大丈夫……動かせま……す」

「高城、出来るか?」

 俺は首を横に傾げて応える。出来るとも出来ないとも確証は無い。


「とりあえずやってみます」

 助手席のシートを一番後ろまで引き下げて、開いたスペースに身体を滑り込ませると、右膝の内側を彼女の腰の左の下に差し入れて支え、右腕で上半身を支えると、シートベルトのロックを外し、彼女が痛みに上げた悲鳴を無視して抱き上げてフロントガラスがあった開口部から外へと出た。


「車から離れろ!」

 大島が鋭く部員たちに指示を出す。

 外の空気は、想像していた以上にガソリンの臭いが強い。確かに危ないところだったみたいだ……って燃え始めたよ!



 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。俺の通報からまだそれほど経っていないのに……朝の六時台で道も空いているおかげだろう。


 直ぐに救急車が駆けつけ、それに遅れる事三分後に消防車とパトカーが到着した。


 老夫婦とその孫は救急隊員により、確認と処置を受けた後に救急車で搬送されていく。

 小林と田辺に取り押さえられていたワンボックスの運転手と同乗者は、パトカーの中で取調べを受けている。

 そして警察の実況見分への立会いは大島に任せて、俺達は授業があるので解放された。


「しかし、今回の事で大島の立場が強まるのは拙いな」

 学校へと走って戻る途虫──練習が中止になったので、せめて走って戻らないと運動不足になる。そんな強迫観念に駆られてしまう憐れな存在──櫛木田が深刻な表情で呟いた言葉に部員達は絶望に顔を歪める。大島の立場がこれ以上強化されたらどんな無茶がまかり通る事か……今でも十分まかり通っているような気もしないでもない。


「だが今回の件で、空手部が注目されたら大島も少なくても、暫くの間は学校の外では無茶が出来なくなるだろう。それに上手くいけば過去の大島の指導が問題になり……」

「問題になり?」

 俺の言葉にすがる様な顔をして先を促してくる。


「空手部が廃部に…………なんて都合の良いことが俺達の身に起きるとは思えない」

 いくら希望的な観測とはいえ、そんな夢のような事を口にするなんて事は、俺には出来なかった。


 皆が項垂れて落ち武者の集団のような力の無い足取りで学校に向かう中、一人だけ他人事のように超然と走り続ける紫村が呟く。

「犬は、子犬の時に越えられない壁に挫折すると、成犬になっても決してその壁に挑もうとはしない。諦める事を知ってしまうというのは悲しいことだね」

 俺達の心情を端的に説明してくれてありがとう! ああぁぁ苛々っとするぅっ!!


 学校に戻った俺達は、それほど汗はかいてないが、いつもの習慣で部室横のシャワールーム(笑)で水を浴び、着替えて朝食を食べる。

「明日はどうなると思います?」

 母の愛情のこもった弁当を食べていると……ご飯にハートマークは無いと思う。香籐が話しかけてきた。『どう』とは明日のランニング祭りという名の地獄についてのことだろう。


「中止……いや、延期になるんじゃないのか? 大島も暫くは大人しくしておきたいだろうし」

 大島は意味の無い無理はしない。必要とあれば耐え忍ぶ事も出来る。ただしストレスは溜まる。そして溜め込んだストレスはいずれ発散される……


「明日って何かあったんですか?」

 新居が話しに入ってくる。

「明日は、お前達一年生の体力強化のランニングメニューの締めくくりをする予定だったんだよ」

「締めくくりですか……嬉しく感じますが、でも嫌な予感がするのです、凄く」

 予感は大事だよ。地獄の闇を照らしてくれる生き残るための大切な光だ……時々思いっきり裏切るけど。


「まあ……お前が想像したより楽という事は無いと言っておく」

 去年の自分を思い出したのだろう。香藤は目を閉じ眉間に皺を寄せながら答えた。

「そうですか……でも延期になって良かった……」

 まるで分かってない! 大島がストレスを溜めるという恐ろしさを、何故想像出来ない。それが近い将来自分に向けられると何故想像出来ない?


「……えっ? 良かったんですよね? ……香藤さん? ……主将?」

「ああ、今日も弁当が美味い」

「朝練の後の弁当は格別ですよね」

 俺と香藤は弁当に逃げた。

 新居、夢を見ておくんだ。夢を見ようが見まいが現実は否応無くやってくる。だからせめてその時まで、幸せな夢を見ておけ……俺は知らん。



「なあ高城。お前達が当て逃げ犯を捕まえたってのは本当か?」

 前田が興味津々と言った様子で話しかけてきた……面倒な。

「当て逃げ犯を捕まえたのは大島で、俺達は衝突されて横転した方の車から怪我人を救出しただけだ」

「凄いだろ。ヒーローじゃないか!」

「……宿題か? 数学の宿題を教えて欲しいのか?」

 こいつがストレートに俺を褒めにかかるなど宿題で無ければ、裏に世界的陰謀があると疑うしかない。


「宿題? 1時間目の数学の宿題ならやってあるからいいよ」

 ヤバイ。世界的陰謀の方だとは、第一こいつが宿題をやってくるなど天変地異の前触れだ……ごめん世界。守って上げられなくてごめんよ、俺の手には負えそうも無いんだ。


「前田が宿題をやってきた?」

 近くの席のクラスメイト達も目を剥き驚きの声を上げる。他者との間に『前田は宿題をしない』という共通認識を持つことで、これは世界の約束なんだと少し安心することが出来た。


「俺が宿題やったら駄目なのかよ」

 すねた目をしてこちらを責めてくる。

「宿題をやったことじゃなく、お前が駄目だというのが皆の認識だよ」

「駄目なのか俺?」

「駄目だよお前は!」

 返事は俺だけでなく、クラスの約半分が唱和した。

 とりあえず上手いこと話を逸らすのに成功した。前田さえ黙らせればこの教室で俺に話しかけてくる奴などいない……切なくて死にそう。


「それで本当に宿題はちゃんと出来たのか?」

「ちゃんとやってきたさ」

「見せてみろ」

「な、何だよ全く」

 文句を言いながらも数学のノートを取り出すと渡してきた。


 問題はきちんとやったかじゃない、きちんと問題が解けているかどうかだ。問題は結果だ。どんなに計算式を書き込もうが答えがあってなければ意味が無い──

「あってる! これも……これも? ……これもだと!」

 なんと全問正解だった。しかも難易度の高い重要問題さえも正解していた……

「どうだ?」

 ドヤ顔だった。たかが学校の宿題。本来やってきて当たり前の事で……とても痛々しいドヤ顔に胸が痛む。


「……誰から教わった?」

 そうだ何も不思議なことは無い。答えは俺以外の誰かから教わったに違いない。驚いた自分が馬鹿らしくなるほど単純な事実だ。

「自分で解いたよ!」

「……何があった? 悩み事があるなら相談にくらいはのるぞ」

 嘘だと思ったが口にするのは止めた。百歩譲って前田が宿題を自分でしてきたとするならば、余程大変な事情があったのだろう。一応友人として話くらい聞く態度を示しておこう。


「本当に何なんだよ気持ち悪い。別に悩みなんて無いぞ……ただ、最近数学が面白いって思えるようになったんだ」

「すうがくがおもしろい?」

 何を言っているんだ? 「スウガクガオモシロイ」どんな言語の言葉だ? 少なくとも英語ではないし、最近ネットで勉強してみたフランス語やドイツ語ではない。母音の占める割合の大きい事といい、随分と日本語に似た発音をする言語であるようだが……はて?


 そんな俺の現実逃避を無視して前田は説明を続ける。

「先週の放課後、北條先生が時間を作ってインド式計算を教えてくれた時に、授業で何か分からないことは無い? って聞かれたけど、俺って……ほら分からないことばかりで、何が分からないのか説明できないから、一番最初につまずいたマイナスとマイナスの掛け算について聞いてみたんだ。あのマイナスの数字とマイナスの数字を掛け合わせるって意味が分からないだろ? 足し算引き算とマイナスの数字とプラスの数字の掛け算ならなら借金で例えたりするけど、マイナスとマイナスの掛け算は借金じゃ説明がつかないだろ。それを北條先生に説明してもらったら、納得できる説明をしてもらって、そうしたら数学に興味が出てきたんだ」

 確かに数学の学習において一番最初にぶち当たる大きな問題となるのは、マイナスの数字とマイナスの数字の掛け算が出てきた段階で数学と現実の事象とのすり合わせが出来なくなり、そこから興味を失い脱落する者が多いということだ。


「借金で説明してくれたんだけどさ」

「借金の例えじゃ無理だろ」

 即座に否定する。

 前田自身が言ったように、俺達も経験した学校現場で行われる良くある間違った選択だ。教師自身が中学時代に納得できる説明を受けていないため、自分の生徒に対しても適当に流してしまう悪しきスパイラル……大体、上手く説明できないなら最初から下手な例えなど出さずに、単純に「-」という記号の数学上ルールを説明して、こういうものだと押し切れば良いのに、加算減算の説明で借金を例に持ち出すせいで生徒に余計な混乱をもたらすと気づけない愚かさ──

「俺は一年の時、北條先生に借金で教わったけど、マイナス同士の掛け算は納得できたぞ」

 横からそんな言葉が飛んできたので振り返ると、クラスの半数くらいが同意した風に頷いている。

「まあ、正確には借金の返済額と時間に例えて、ある時点の累積返済額とそこから遡った時点での累積返済額を差額を求めるという説明だった」

 なるほど、借金の返済額はマイナスで表現出来るし、時間を遡るのもマイナスで表現出来る。その結果は累積返済額の減少というプラスと表現される……確かに納得できる説明だ。そして基本である二つの数字による乗算が理解出来れば、数字が増えようとも対応していくのが人間だ。逆に基本が無ければ応用も無い。

 やっぱり北條先生は良い先生だよ。


「それでさぁ~、朝の事件の話だけど──」

「その話はするな! この件で大島の株が上がって、これまで以上に奴が傍若無人に振舞うようになったらどうする気だ? 何事も無かったかのようにしろ。今朝は何の事件も起きなかった。皆がそう振舞うことだけが奴へのプレッシャーとなるんだ。皆も覚えておけ!」

 俺の剣幕にクラスの皆が無言で頷く……これでまたクラスでの孤立を深めてしまった。


 北條先生の授業は本当に俺にとっての癒しである。二年生になって担任が北條先生でなければ、俺は不登校になっていたとしてもおかしくは無かっただろう……いや、一年生の時に北條先生に出会って話をする機会が無ければ学校にも行かず、部屋に引き篭もったとしても何ら不思議は無い。むしろ普通に学校に通い続ける俺を兄貴が不思議がっていたくらいだ。

 俺がどれほどの感謝を自分へと向けているか、彼女は分かっていないだろう。前に彼女へと話した感謝の思いなどは氷山の一角に過ぎない。

 それだけの事を彼女は当たり前の様にしてくれたのだ。他のどの教師にも出来なかった事を……しかも自分自身は教頭と鈴中。そして下らない噂話に乗せられる馬鹿な同僚や生徒達に傷付きながらも。

 何と北條先生を表現すべきか、そうだなもう女神様で良いんじゃないだろうか? これは部活の後で緊急集会を開いて提案すべき案件かもしれない。


『空手部部員へ大島先生からの連絡です。本日の給食後に空手部部室へと集合すること。繰り返します──』

 三時間目の授業の後、次の体育の授業に備えて体育館へと向かっていると、校内放送で呼び出しがかかった。大体、用件は想像がつく。

「面倒くせぇ~」

 無駄だと思っても愚痴をこぼさずにはいられない。

「何の呼び出しだ? やっぱり朝の件か?」

 学習能力の無い前田が早速食いついてきた。



「今朝は何も無かった、起こらなかった。そんなことも忘れてしまったのか? ……まあ良い。どうせマスコミ対策だろ。S日報(S県のローカル新聞)あたりが、記事にするのに取材に来るんだろう。それで俺達が余計なことを連中の前でしゃべらないように口止めしようって事だろ」

「何というか……お前ら大変だな」

「お前が取材に来た連中にある事ある事を全部ありのままにぶちまけてくれたら感謝するぞ。精一杯感謝するぞ」

「それって大島を敵に回すって事だよね?」

「そうだな。ちなみに、もしもテレビで放送された場合に顔にモザイクかけてボイスチェンジャーで声を変えても骨格や姿勢から、この学校の生徒なら間違いなく個人を特定してくるから気をつけろ」

「嫌だよ。ヤクザの鉄砲玉をやらされるよりも性質が悪い。生き残れる可能性が全く無いじゃないか!」

 やはり本気で怯えるのか。最近大島に対して強気で応じている俺だが、レベルアップの恩恵を受ける前には、今の前田と大して違いの無い態度だったはずだ。

 力が強くなったのもあるだろうし、死線を何度も潜り抜けて度胸がついたのもあるだろうが、一番は【精神】関係のパラメーターが上昇してしまったのが大きい……時々、俺ってこんな人間じゃなかったよな? と疑問を覚えるほどだ。

 多分、色々と設定を弄ったのが少しずつ迷走さている原因な気もする。



「全員揃ったな」

 お前の呼び出しを無視出来る奴はこの学校にいねぇよと皆思っているはずだ。

「今日の部活の時間にマスコミの取材が入ることになった。それで今日の部活は柔道部から使用権を譲ってもらい格技場で行う……当然、これがどういう事で分かっているだろうなお前ら」

 やはり言質を与えない口封じ。どこのヤクザだ?

「えっ? 何の事か分からないんですけど……」

 一年生の東田がそっと手を上げて申し訳なさそうに尋ねる。良く言ったと褒めて上げたい。褒めて上げたいが褒めて上げられぬ俺達上級生の胸の内もついでに察して欲しい。


「ひぃがしだぁ~、先輩達からちゃんと聞いておくものだぞ」

 額と額が当たるほどの距離から地獄の獄卒も斯くやと睨付ける様は、ヤクザとヤクザに因縁を付けられた中学生以外の何ものでもない。

 東田は完全に半べそかいている。

「先生。その辺で、後はこちらで言い聞かせます」

「そうか、後は任せた」

 俺の言葉に、思い通りになったとばかりにニヤリと笑みを浮かべると大島はゆっくりと立ち去った。


「良いか大島先生は、俺達の普段の部活の様子がマスコミに知られることを恐れている。はっきりいって普通なら教員免許剥奪の上に刑務所にぶち込まれても仕方の無いことをしているのだから当然だのことだろう。本来なら自ら脅迫じみた手段で俺達の口を封じたいのだろうが、言質を与えるのを避けて俺からお前達に話が行くように小芝居をしたということだ。その気持ちを理解して上げて欲しい……面倒な事にならない様に」

 そう、理解してセコイ奴だと蔑んでやって貰いたい。もしくは誰か大島のことをカメラの前で告発して欲しいものだ。ただし、その結果何があっても当方は一切責任を負いかねます。


「今日の練習は極々軽いものになる。多分ランニングは最初と終わりに五キロずつ程になるだろう。後は型や組み手が中心になるが、くれぐれも組み手は、相手に当てるなよ。骨にガツンと当たらないのが寸止めという考えは今日だけは捨てろ。流血だけは絶対に避けろよ。それからマスコミからどんな質問を受けても当たり障り無い言葉と笑顔でしのげ……大島から顔が見られない位置では苦笑いでな。そして言いたい事は目で語れ……以上解散だ」


「主将。ちょっと相談したいことがあるんですが?」

 他の部員が「練習が軽くてラッキー!」「最初と終わりにランニングが五キロずつって運動不足になるよな」「じゃあ今日は晩飯は軽めにしないと」などと一般常識と激しく食い違う話をしながら立ち去る中、小林と田辺が残って話しかけてきた。


「どうした? 練習がきついから何とかしてくれとか、空手部を辞めたいとか言われも、残念ながら俺では全く役には立てないぞ」

「そんな恐ろしいことは言いません……練習がきついなんて泣き言を言ったら、練習量を倍に増やされますから」

 田辺は顔を左右に細かく振りながら否定する。

「むしろ三倍だろ」

「ですよねぇ~」

 自分で言っておきながら、流石に三倍の練習量は時間的には無理だろうと思うのだが、田辺は疑うことも無く受け入れる。これがどんな不思議も許容されてしまう大島マジックである。


「それでどんな話だ?」

「今朝のことなんですけど……これを」

 小林はそういいながら制服の内ポケットから何かの鍵を取り出して俺に差し出してきた。

 受け取って確認する。鍵はシリンダーキーではなく、家も防犯対策に五年ほど前に取り替えたディンプルキーだった。


「これは?」

「あのワンボックスに乗っていた連中を取り押さえていたんですが、一度暴れて逃げ出そうとしたんです。すぐに取り押さえる事は出来たんですが、その時にこの鍵を近くの家の庭に投げ込もうとしたのをジャンピングキャッチで確保しました」

 まあ、陸上部の連中をスキップしながらぶち抜くと言われる空手部部員から逃げられる者などそうはいない。


 しかし、そうまでしてこの鍵を捨てて、いや隠しておきたいとはな。面倒ごとの臭いしかしないが大島に預けて、何か重大な事件の解決につながってあいつが警察から表彰されるようなことがあったら……

「……ですが、そのままポケットに入れたまま忘れてて」

「分かったこいつは俺が預かっておく。部活の後に警察に届けておくから、もう少し詳しい状況を教えてくれ」

「すいません主将──」

 ……どうしてこんな面倒事ばかりが。

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