第32話
「マル可愛いよ。可愛いよマル」
朝目覚めた瞬間、俺の目の前で今にも顔を嘗め回そうとしているマルの首に腕を回して抱きつくと、もう一方の手で腹を撫でる事で、寝起きに顔中が犬臭くなるのを回避した。
現在、確実に父さんを抜いてマルの好きな家族ランキングで第二位に輝く俺としては、露骨にマルの朝の挨拶を下手に避けて機嫌を損ねるわけにはいかない。序列二位の座は父さんには渡さないよ。
登校中に校門の前で櫛木田と出会うと、挨拶もそこそこに昨日の成果を報告してきた。
「高城。昨日の西城先輩に電話で例の件を聞いてみたんだ」
西城先輩は俺達の一学年上の空手部の先輩で前の主将である。
「何か聞けたか?」
「ああ、俺達が入学する少し前に北條先生と鈴中が剣道の試合をして、鈴中がかなり一方的に負けたみたいだ。それにそれまでは鈴中は北條先生に言い寄ってたという話は噂として時々耳にしていたとも言ってた。それから身の程知らずがざまあ見ろとな。だけど噂に関しては知らなかったみたいだ」
ちなみに西城先輩は現在は空手を辞めてバスケットボールを始めて県内強豪校ですでにレギュラー入りを決めたらしい。確かに百八十五センチメートル近い長身で運動神経の塊の様な人だったが、幾らなんでも早いだろうとも思ったが、話を聞くと元々バスケットボールが好きだったらしく昼休みには体育館でクラスメイトと一緒にバスケをやっていたらしい……そんなクラスメイトがいるなんて妬ましい、バスケなら何で俺を誘ってくれなかったのだろう。
「野口先輩にも話を聞いたんだが、野口先輩が直接知った内容じゃないが、上の先輩達から聞いたことがあったそうだ」
野口先輩は俺達の二学年上の先輩で、同じく空手部の元主将で面倒見の良い先輩だったと記憶している。
「何でも試合の後に北條先生の悪い噂が立った事をその先輩が担任から聞いたらしいんだが、誰が流した噂か分からなくて立ち消えになったらしい」
「……そうか」
思ったほど情報が集まらなかった。これはやはり俺が、この俺がチートを使って事件を解決……と簡単には行かないだろうな。
「それで他の先輩達にも話を聞いてくれるって事になった。ちなみに北條先生は赴任直後からすぐに空手部では大人気だったらしいぞ」
「まあ当然だな。あれだけの美人でしかも俺達に対しても分け隔てなくしてくれるんだから」
「後、階段で突き飛ばされた北條先生をお前が抱き止めて助けたとか、しかもその時に眼鏡を掛けて無い素顔を見た事も伝えたら、『後で殺す』と言われたぞ」
「何してくれてるのお前!」
胸倉を掴んで、そのまま吊るし上げる。
「つ、つい悔しくて、その悔しさを先輩達にも共感して欲しかっただけだ」
「嘘を吐け、先輩達の力を借りて俺を亡き者にするつもりだろう!」
「悪かった……こ、このままじゃ死ぬから早く手を──」
落ちる直前で手を放してやった。やはり俺が今一番警戒すべきは、こいつと田村、伴尾の三人なのかもしれない。嫉妬に狂った男は見苦しい……これも一度は言ってみたい台詞ではあるが、単に抱きとめたとか素顔を見たぐらいで嫉妬とか余りにもレベルが低い。
せめて俺の野望が成就して北條先生と付き合うようになった時に言わせて欲しいものだ……無理だけどさ。
「おはよう」
「おう」
俺が挨拶をしながら部室に入ると、田村と伴尾が重々しい声で応じる。
「どうした?」
「これを見てみろ」
田村が自分のスマートフォンの画面を俺に向けて差し出してきた。
「鈴中の奴、もう尻尾を出したのか?」
「いいから見ろ」
受け取って画面を覗き込むと、校内の廊下で鈴中が北條先生の行く手を遮って顔を近づけて話しかける様子が映っていた。
俺の携帯と違って撮影側の解像度も表示画面の解像度も高いだけあって、十メートルほどの距離からの隠し撮りにも関わらず両者の顔の表情が良く見て取れる。
下卑た態度で絡む鈴中の表情には嘲笑が浮かんでいて苛っとする。
「野郎を去勢してくる!」
そう言って出口に向かう俺の肩を田村が掴んで止める。
「放せ、ちょっと奴の金玉蹴り潰して男を引退させて新たな世界を開いてやるんだ」
抵抗する俺を伴尾と二人掛で抑える。
「お前、昨日と言ってる事が違うだろう!」
「そうだ。俺達がこれを撮影しながら、どんな気持ちで我慢したと思ってるんだ?」
本気で怒られる。
「……すまん。つい理性が遠くに旅に出てしまって」
「頼りにならない理性だな!」
返す言葉が見つからない。
その後、鈴中が何か紙を取り出して北條先生に見せている。その間もずっと汚い笑いを浮かべてやがる。
北條先生はそれを奪い取ると破って握りつぶした。
「なあ、北條先生は怒っている顔も美しいが、こんな悔しそうな顔は見ていて辛いな」
「全くだ。ここは俺が奴を去勢しに!」
今度は田村が立ち上がるのを伴尾と俺が止める。
画面の中では鈴中が自分のスマートフォンの画面を北條先生に見せて、次の瞬間彼女の表情が凍りついた。
その後、薄ら笑いを浮かべながら立ち去る鈴中と、悄然とした様子で紙をゴミ箱に捨てる北條先生の姿があった。
「そしてゴミ箱から回収してきたのがこれだ」
伴尾が差し出す破られた跡を十字にセロハンテープで止めてある紙を受け取った。
『北條 弥生は教師としてあるまじき趣味の持ち主である』
あれの事だ。金曜日の夜に本屋で北條先生があの本を買う様子をストーキングしていた鈴中が撮影したのだろう。
「これはどういう事だと思う?」
伴尾がそう尋ねてくるが、事情を説明せずに全てを隠して俺が一人で決着を図るというのが一番楽だろう。
「どうせでっち上げだろう。北條先生が教師に相応しくないような変な趣味を持っていると思うか?」
「い、いや、そんな事は思わないけど、思わないけど……もしもだ、もし北條先生が俺たちの様な年下の男が趣味だとすると……夢広がらない?」
惜しい。惜しすぎる。何故そこまで妄想を真実に寄せられるんだ? 俺は伴尾の妄想力の超高性能さに言葉も出ない。
だが他の面子は違った。
「北條先生をお前の邪な感情で汚すな。説諭!」
田村が伴尾を殴る。
「万一、先生にそんな趣味があっても、お前だけは別の意味で趣味じゃないに決まってる。説諭!」
櫛木田が伴尾を殴る。
「馬鹿を言うんじゃないよ。説諭!」
紫村が伴尾を殴る。
その後、二年生達にまで殴られて伴尾は床に沈んだ。
伴尾を無視して話を続ける。
「でっち上げだろうが、多分北條先生の立場を危うくしかねないモノだろう。ともかく鈴中が犯人だというのは確定的だ。今晩俺が動く」
「どうするつもりだ?」
「まず奴の家に忍び込む」
「犯罪じゃないか!」
「それから奴を縛り上げる」
「完全に犯罪だよ!」
だから犯罪なんだよ。盗撮、ストーキング、脅迫、名誉毀損を犯すような相手に正攻法で行って北條先生の立場を悪くするくらいなら非合法上等だ。もっとも証拠は一切残さずに完全犯罪にしてやるけどな。
「そして奴のパソコンのDドライブを漁る」
「Dドラ……やめてぇぇぇっ!」
同じくDドライブを誰にも触れさせることの出来ない聖域としている者達から悲鳴が上がる……俺もだけどな。
「奴のパソコンに登録されているメールアドレス全てに、厳選された恥ずかしいデータや犯罪に関わるデータをメールに添付して送信する……先ずは警察ではなく身内にな……はっはっはっはっは!」
「しゅ、主将は鬼です」
この程度の事で鬼だなんて人聞きの悪い事を言うものじゃないよ香籐。
「奴が自分が構築してきた人間関係の崩壊を体験した後で、警察に奴の犯罪に関わるデータを送り付ける。これで奴が逮捕されても誰一人面会にも来ないだろう。奴は完全なる孤独に打ちひしがれるだろう」
そう言って笑う俺に皆は怯えていた。
「でも君一人で出来るのかい?」
「出来る。それにこの手の事は人数を増やすとミスが増える」
まあ別にミスしたらロードすれば良いだけだが、同行者がいたらチートを使うわけにもいかないので、鍵開けとか技術を持ってるわけでもないから侵入自体が不可能だよ。
「サポートは必要かい?」
「もし警察沙汰になった場合、お前達が現場の近くにいるのが見られたら拙い。それに鈴中以外にも北條先生にちょっかいを掛けている馬鹿が居るかもしれないから、交代で見張ってくれるとありがたい」
「そうさせて貰うよ。だけど君一人で全ての責任を被るのは止めてくれ。僕達は仲間だろ?」
胸にぐっと来る台詞だ。こいつがホモじゃなければ、俺はこいつを生涯の友として熱望するだろう……本当どうしてこれほどの男が、これほどの男だからこそ気を許して自分もそっちに転びそうで怖いのだ。
朝練はいつも通りにランニングから始まる。
今日はついに新居が今年の一年生として初めて完走することが出来た。それを見て大島は詰まらなそうにしている。教え子の成長を喜べよ……ちなみに澤田は定位置の俺の背中にいる。救いは吐かなくなった事である。
放課後の練習では、新居がぶっ倒れるまでペースをあげる事になるだろう。
そして新居に思い知らせるのだ「お前が超えたのは山頂ではなく、そこに至る途中の小さな峠っぽい奴だ」と、去年も一昨年もそうだったんだ。
朝のHRで北條先生はいつもの様な何処から見ても全く隙の無い凛とした佇まい。だがクラス全体を見渡す時に俺と目が合う一瞬だけ、ほんの僅か目元に優しげな表情が浮かんだ……そんな気がしただけどな。
「何か一瞬、こっちを睨んだ様な気がするんだけど……」
後ろの席から前田が声を殺して話しかけてくる。
睨んだだと? 馬鹿な少なくとも、そんな類の表情ではなかった。俺の希望が不断に盛り込まれているが、あれは目元だけだが笑っていた……だと良いな。
「お前が昨日余計な事を言うから目を付けられたじゃないか」
昨日北條先生の呼び出しから戻ってきた俺は、こいつにしつこく「何で呼ばれたんだ?」と尋ねられて、本当の事を話す訳にはいかず。
「誰かさんが課題などはきちんとこなしている割にはテストの成績が悪くて、他の教科担当の先生から誰かの課題を丸写ししてるのでは? と苦情が出ているが、その誰かとは俺じゃないのかと聞かれた」と答えた。
前田は「何て答えた?」と必死に聞いてきたが、笑顔で無視してやったのだ。
それにしても確かに生徒達も北條先生への感情は余り良くない。
どんな糞な教師にも、一人や二人は必ずいるティーチャーズペットが北條先生には一人も居ない。
……まあ、俺達空手部の部員がティーチャーズペットと言えばそうなんだが。
余り感情を表に出さないのでとっつき難い印象もあるだろう。だが成績が振るわない生徒には親身に補習もしてくれる良い教師だと思う……ふと二年生の仲元が一年の二学期に成績を落とした時には大島が親身に指導して成績を上げた事を思い出してしまった。
奴は大島の家に一週間泊まり込みで勉強を教えられたんだよな。二十四時間大島と一緒に過ごすというストレスからどんどん精神崩壊を起こしていく姿は見ているだけでも辛かった。確かに親身であれば良いという訳ではない。
正直なところ北條先生の補習ならば俺は進んで受けたいくらいだ。だがもし北條先生の補習を受けるほど成績を落とせば仲元の二の舞は避けられない……なんてジレンマだ。
ともかくクラスメイトというか空手部以外の生徒達はおかしい。明らかに北條先生に対して一線を引いた態度を取っている。
そして授業中やHRで北條先生が、ここまで担当しているクラスの生徒達から距離を置かれるような原因は見受けられない。
何か俺達空手部の部員には分からない北條先生が嫌われる理由がある……と言うか、俺達自体が他の生徒と繋がりが殆ど無いのが痛い。
だが一番疑うべきは部活だ。クラスメート以上に接点が無いといえばそれが真っ先に思い浮かぶ。
この学校では生徒は全員部活に入るのが規則だ。そして部活で顧問から余計な事を吹き込まれているとしたら……しかし鈴中が他の教師達に?
鈴中にそれほどの影響力があるとは思えない。奴だってまだ三十前で教師の中では若い方だ。奴が流す噂だけでは状況をここまでコントロールする事は出来ないだろう。つまり状況をコントロールしている別の人間が居る可能性が高い。それも職員室の中に。
面倒な事になってきた。現状では俺には職員室の中で起こっている事を把握する方法は無い。今の俺なら夜にでも学校に忍び込んで盗聴器を仕掛けるのも難しくは無いだろう。だが盗聴器なんて持っていない。
金は小遣いがかなり溜まっている──俺には金を使うような趣味を持つ暇も無いので小遣いは使わずに貯まる一方だ──で買う金は有るが、鈴中の奴は今日中にも何かを仕掛けてくる可能性があるので間に合わない。
つまり職員室の事は大島に聞いてみるしかないって事か……奴は騒動が起きる事を楽しみにしているようなので教えてはくれるだろう。だが高い借りになるのは間違いない。
「また北條のことか?」
それが昼休みに技術科準備室を尋ねた俺に対する大島の第一声だった。
「はい」
「何が聞きたいんだ?」
「鈴中が北條先生にちょっかいを掛けているのは確認出来たのですが、鈴中の力だけでは今の状況を作り出すのは無理だと気づきました。奴に力を貸す誰かが居るはずです。それも校長、教頭、学年主任やベテラン教師の中で発言力のある連中の中に……」
「そこまでは当然、思いつくだろうな」
この野郎、俺を試してやがったのか?
「ヒントが欲しいか?」
ニヤニヤと笑いながら聞いてくる。
「いえ、答えを下さい」
即答してやった。
「…………」
大島が虚を突かれたという表情で言葉を失う。しかしすぐにまたニヤニヤと笑みを浮かべると答えた。
「教頭の中島だ」
随分と簡単に答えた。ちょっと不気味だ。
「教頭が何故?」
確かに候補の中に教頭を上げたのは俺だが、今ひとつ納得が出来ない。奴は教頭の地位にはあるが威厳も存在感も全く感じられないくたびれ果てたオッサンと言うのが俺の評価だ。
俺は鈴中に協力している人間が、主犯だと思っていたのだが、あのくたびれた教頭が主犯はありえないと思う。
それなら鈴中が主犯で教頭が共犯という方が可能性が高い。
「理由は知らん。だが何の根拠も無く他人を見下す事に慣れ切った糞餓鬼が、この学校の中で唯一恐れているのがあの禿げ親父だ」
いやいや、あんたの事が一番怖いに決まってるだろと思ったが言わない。まだ情報を引き出す必要があるのだ。
確かに鈴中の人間像は大島の言う通りで、奴は自分を大した人間だと勘違いしている痛い男だ。そして周囲に舐めた態度を取る馬鹿でもある。そんな奴があの教頭を恐れる? 全くイメージが湧かない。
「恐れるか……でも、どうして教えてくれたんです?」
土曜日の件を持ち出して駆け引きをしてでも、聞かせてもらうつもりだった。
しかし予想に反してあっさり教えてくれた意味が分からない。
「大して興味もねえから放っておいたが、お前達が騒ぎを起こせば面白い事になりそうだから教えただけだ……一応、貸しにしておくぞ」
「面白い事って……」
「別に問題が明るみになって騒ぎになっても膿が搾り出されるだけで学校が無くなるわけじゃない。俺は高みの見物で膿が搾り出される様を眺めさせてもらう。だから精々俺を楽しませてくれ」
うん、大島という生き物はこういう生き物なんだ……なんて嫌な生き物なんだろう。
「ありがとうございました」
そう言って退室しようとする俺の背中へ「警察に捕まるような真似をするなとは言わんが、警察に捕まるようなドジは踏むなよ」とありがたい言葉を掛けてくれた……流石ミスター非合法だ言う事が違う。
そして俺は去り際に「土曜日の件は、これとは別に貸しだと思ってますから」と言ってドアを閉めた。
背後から「焼肉」とか言ってる気がしたが気のせいだ俺は何も聞いてない。振り返らずにダッシュで逃げたのは太陽が眩しかったからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます