第30話
数学準備室を出た俺は、その足で技術科準備室へと向かった。
担任を持たない大島が昼休みの全てをそこで過ごす事は知っていた。
もし大島が職員室に居座ったら、他の教師が寄り付かず職員室としての体を成さなくなるだろう。これは大島が空気を読んで職員室を避けたと言うよりは自分個人の空間として使える準備室を好んだ結果だった。
三十年ほど昔、ベビーブーマーの最盛期を迎えた頃のこの中学校は想定された収容数である一学年十クラスの一クラス四十人で、全校生徒が千二百人を大幅に超える総生徒数が千四百名以上だった頃には技術科の教師も二名体制だったが、現在は一学年六クラス。1クラスあたりの生徒数三十名で総生徒数が五百名を切る現在、技術科の教師は大島一人だけである。
準備室のドアをノックし「三年二組の高城です」と名乗る。ちなみに以前「高城です」と言ったら「何処の高城様だ馬鹿野郎」と怒鳴られた事がある……体育会系って面倒臭い。
一拍おいて中から野太い声で「入れ」と許可が下りる。
「失礼します」
ドアを開けて中に入ると、大島は授業で使う鉋の手入れをしていた手を止めて、こちらを振り返る。
「どうした?」
「先生に質問があってきました」
「空手部のことか?」
「いいえ、僕の担任の北條先生の事なんですが」
「ん? ああ、数学の北條か……彼女がどうかしたか?」
「北條先生と他の教職員の間で何か問題があったと聞いたんですが、本当でしょうか?」
「……本当だな」
あっさりと答えた。普通この手の話は生徒には教えないのだろうが、大島は普通の教師ではなく、元々異常な教師なのだから全くおかしくは無い。
「詳しく終えしえてくれませんか?」
「何故そんな事を知りたがる?」
「北條先生には恩がありますから」
言外にお前には無いけどなと含みを持たせる。
「恩?」
「この学校の教師の中で、俺達空手部の部員を他の生徒と平等に扱ってくれたのは北條先生だけですから」
「……俺は違うのか?」
「大島先生は、俺達を含めて生徒全員を等しく虫けらのように扱ってくれただけですから……」
「褒めるなよ」
褒めてねぇっ! そして照れるな! ……こいつは本気でドSである自分に誇りすら持っているのかもしれない。言い知れぬ恐怖を覚える。
「それで聞かせてはくれませんか?」
「まあ良いか、二年少し前、お前達が入学する前の事だが北條の良くない噂が流れた事がある。いわゆる人格批判と言われる汚い噂で全く根拠も無いが、北條の立場を拙くしたのは確かだ。特に女どもの間では評判が悪くなったな」
「それはどんな……いえ、噂の内容は良いですが、噂の出所はご存知ですか?」
どうせ不愉快な話だろう。そんな与太話なんかよりも問題は噂の出所だ。そいつの突き止めて己の愚かさを思い知らせてやれば良い。
「流石に職場内で同僚の中傷する噂を、出所がはっきり分かるようにばら撒く奴はいねえよ」
「つまり、はっきりとした証拠は無いけど出所は分かるってことですよね」
「ああ、要は証拠をつかまれさえしなければ、出所は分かった方が相手にダメージを与えられるからな」
そうだ。誰が犯人なのか周知でありながらそいつは、何事もなかったように薄ら笑いしているが、証拠はないから糾弾も出来ない状況は一番堪えるだろう。
「そいつの名前を教えて貰えませんか?」
「……北條の噂が流れる一週間ほど前に、体育の鈴中が北條と剣道の試合をして一蹴されたと聞いた事がある。それにあいつは北條にしつこく付き纏っていたからな。まあだから鈴中が噂をばら撒いたって証拠は無いがな。それをどう思うかはお前の自由って奴だ」
明らかに状況を楽しんでいるな。
「……ありがとうございました」
「いやなに、単なる与太話だ…………面白い結果を楽しみにしてるぞ」
頭を下げる俺に、最後に小さな声でそう囁いた。大島がどんな顔をしているかは頭を下げている俺には見えないが想像はつく。こいつはやはり悪魔の類で、ケツから黒い尻尾を生やしているに違いない。
だが俺も黒い尻尾くらい何本でも生やしてやる。誰を悲しませ、誰を怒らせたのか分からせてやるなら悪魔にもなろう。
「教師の間で北條先生を貶めるような噂が流されている」
部活終了後の部室の中で二年生と三年生を集めるて打ち明けた。ちなみに一年生はグランド脇で倒れている。
「それは本当ですか?」
二年生の仲元が詰め寄って来た。こいつらにとっては既に北條先生への思いは信仰の域に達している。
「高城。どういうことなんだ?」
田村も冷静さを失い、怒りで人殺しでもしそうな怖い顔になっている……やめろよ。チビッたらどうする。
「まあ、落ち着け。俺は昼休みに北條先生に数学準備室に呼び出された」
「抜け駆けか? 抜け駆けなんだな!」
「呼び出されるためにわざと問題を起こしたな。汚いぞ高城!」
そう思うのもしかたの無い事だ。俺達は基本的に優等生だ教師達の覚えはめでたくないが優等生なのである。俺が入学して以来、空手部の部員が呼び出しを喰らったという話は聞いた事は……余り無い。
「ずるいですよ先輩!」
伴尾に櫛木田だけでなく田辺まで俺を非難し始める……ふっ、持たざるものの僻み。心地好いわ!
だが悦に浸っていても仕方が無いので事情を説明する。
「全ては先週の金曜日の夜に始まった。俺は父親の車で郊外の大型書店に行ったのだが、万引きをやらかした馬鹿が逃走中に階段を下りる途中で、女性客を突き飛ばしたのを咄嗟に助けたんだ」
「まさか、それが……」
「ああ北條先生だったんだ」
「な、なんだってーっ!」
流石ノリが良い。お約束な突っ込みありがとう。
「羨ましい。羨ましすぎるシチュエーションだ」
「いやむしろ妬ましいだろ」
「何で俺はその場にいなかったんだよ!」
「本当に美味しすぎますよね」
「そんな都合の良い事が……まさか、これは主将の陰謀!?」
「そんな格好良い状況で先生が、お前に惚れてしまったらどうする気だ!」
などと口々に俺を攻撃し始めるが無視する。
「ちなみにその時の先生は、いつもの格好とは違って髪を下ろして可愛いくて明るい感じのワンピースを着て……」
そこで一呼吸間を取る。
「ワンピースを着て?」
櫛木田がゴクリと喉を鳴らして先を促す。
「……コンタクトをして眼鏡をしていなかった」
その一言に部室内は興奮に湧き上がる。
「眼鏡をしていない……どうなんだ。どうだったんだ? 眼鏡をしていない北條先生のお顔は?」
「羨ましすぎて、主将を殺してしまいたいと右腕が疼く」
「俺、今日から毎晩その本屋で張り込む。閉店時間まで張り込むよ」
「ああ、想像の中の北條先生が素敵過ぎて怖い!」
「当然、そのお姿は撮影したんだよな? メールで送ってくれ。頼む。今月の小遣い全部出すから!」
これは、先生を抱き支えた時に胸が俺の頬にしっかりと触れた事は言わない方がいいだろう。
奴らの羨ましがる様子を見て楽しむ前に俺の命が危ない。数を揃えて襲い掛かるとか奇襲ならともかく、こいつらはいざとなったら毒でも盛りかねない。
【傷癒】の上の【軽傷癒】という打ち身や捻挫くらいなら治せる魔術は憶えたし、【病癒】という軽い頭痛程度を即座に完治させるものや、その上の【軽病癒】も憶えたが、ちょっとした風邪を一晩で完治させるという、思わず「ちょっとした風邪は一晩寝れば治るわ!」と叫んでしまうよな微妙過ぎる回復系の魔術ばかりで、毒物による中毒症状を治す魔術は憶えていないのだ……こいつらを本気で怒らせるのはまだ早い。
「まあ、そんな訳で、その場では碌に礼もいえなかったということで、昼休みに改めて礼を言うと事で俺を呼び出したって事だ」
「待て! それよりも先生の眼鏡をかけてないお顔はどうだったんだ! 頼むそれだけは教えてくれ!」
懇願する櫛木田に俺は答えた。
「聞かなくたって分かるだろう…………美人だったさ」
部員達のテンションは嘗て無いほどに高まった。
「事情はわかったけど、本題の噂ってどういうことなんだい?」
紫村が話の先を促す。確かにこいつは女性には興味は無いが、それでも自分達に普通に接してくれる北條先生へには人としての尊敬の念を持っているので気になるようだ。
「お礼を言ってもらった後、少し話をしたんだけど、北條先生が他の教師からいじめと言うか、軽んじられてるみたいな話が出たんだ。それが気になったんで大島に聞いてみたら。確かに先生を中傷するような噂が二年ほど前から流されているみたいなんだ」
「へぇ、ふざけた事をする馬鹿がいるものだね」
紫村が怒っている。いつもは冷静で爽やかで朗らかで知的なこいつが怒りの片鱗を隠し切れずにいる。
「どいつがそんな噂を流したんだ?」
田村ははっきりと怒りを露にしている。
「聞いてどうする? これから殴りにでも行くのか?」
「当たり前だろう!」
やっぱりそうだろうね。だけどな……「迷惑だからやめろ」
「どういう意味だ!」
「北條先生に迷惑が掛かると言ってるんだよ。暴力沙汰にでもなろうものなら、殴ったお前が処罰されても相手に対しては然したる証拠も無いのでお咎め無しだろう。更にお前が余計な事を口走ったら間違いなく北條先生の立場が悪くなる」
「だったら何にもしないつもりか!」
直情的に怒りを叫びに変える彼が可愛くすら思えてくる。
だけど今、俺の頭の中で渦巻く怒り熱は、そんな風に叫んだところで少しも醒ますことが出来そうに無い。
「馬鹿だな田村は、そんな訳無いじゃないか。殴っておしまいなんて甘っちょろい事を俺が考えると思うのか? 駄目だな田村。駄目駄目だ。やる以上は徹底的だ。最低でも教師生命は絶たなきゃ駄目だろ。別の学校に転任してのうのうと教師を続けようなんて事は絶対に許さないよ。残りの人生泣きながら暮らすような目に遭わせなきゃさ……駄目だと思わないか田村君?」
顔を近づけて瞳を覗き込むようにして話し掛けてやると田村は怯えたように頷く。どうやら他の連中も一気に怒りが退いたみたいだ……結構結構。
「それでどうするんだい高城君?」
一人だけ紫村が楽しそうに尋ねてくる。
「まずこの噂が流されたのが二年前。人の噂も七十五日と言うのが、二年は効果が長すぎるだろ」
「つまり定期的に噂の効果をリフレッシュさせているって事だね」
流石は学力だけなら空手部一で学年全体でも一、二を争う程の優等生だ察しが良い……まあ素行に関しては大島が釘を刺すほど問題があるけどな。
「大島が怪しいと名前を挙げた鈴中の動向を皆で手分けをして見張ってほしい。後は櫛木田が先輩に当たって俺達が入学する少し前に、鈴中が北條先生と剣道で試合をした経緯を調べてくれ」
「それで高城君は何を?」
「俺は、奴の弱みを調べるよ。洗いざらいね」
ニヤリと笑みを浮かべてしまった俺に、紫村はあくまでも爽やかに微笑を浮かべて頷く。
自重をする気は無い。徹底的に調べてやるさ。戦闘用としてはイマイチ使い勝手の悪い魔術だが、今回の件で役に立ちそうなのが幾つかある。現実世界でも使える事は確認済みだが、【闇手】『三メートル以内にある目に見える物を自在に動かす黒い手を顕現させる。ただし最大出力はスプーンを曲げられる程度』という余りに使い道の限られた……役に立たないとも言う魔術も使い時が来たのだ。
部活を終えて帰宅後に俺はマルと一緒に夜の散歩に出た。
今晩はいつもの川沿いの散歩道ではなく住宅地を歩いて、鈴中の住んでる4階建てのアパートの前に来ている。
鈴中の住所を大島から聞こうと思ったが、二年生の小林が一年の時の担任が鈴中だったので聞いてみたら簡単に入手出来き、大島に借りを作らず済んでほっとした。
アパートを見上げながら、明日から忙しくなるなと呟いた。
北條先生を悲しませたような奴に掛ける情けなど全く無い。むしろ喜びを持って狩ってやると心に決めたのだから。
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