第29話

「では高城君。数学準備室に来てください」

 給食の時間を終えると北條先生はそう促して教室を出て行く。俺もその後を追って廊下に出て、前を歩く彼女の背中を見ながら歩く。

 数学準備室まで俺と北條先生は一言も口を利くことなく歩く。微妙な緊張感が二人を包み、数学準備室のドアの前にたどり着いてほっとした。


「入ってください」

 言われるままに中に入ると北條先生はドアを閉じて鍵をかけた。

 女性教師と男子生徒が二人っきりで密室というのは拙い気がしてならない。

 普通なら十歳以上も年下の中学生など男として意識するまでもないと判断したとも考えられるが、紫村辺りを性的妄想の対象にしている疑いのある彼女だから、単にてんぱった挙句に誰にも聞かれたくない一心で鍵をかけてしまったのが正解だろうと思う。


「鍵は開けておいた方が良いと思いますよ」

 気を使って声を掛けると、ビクっと身体を震わせる。そして顔に緊張の色を浮かべながら「そうね」と慌てて鍵を開けた……そんな先生の様子が、俺の中のS専用琴線が震えさせる。だからやばいって。


 でも本当に美人だわ、いつもの凛とした表情も美人だがけど今の表情も良い。普段は真面目過ぎて全く潤いを感じないのに、こんな顔を見せられたら惚れざるを得ないだろう。

 惚れるといっても恋愛感情という訳ではない……と思う。彼女が幸せなら俺が知らない男と結婚したとしても祝福できるだろう。まあ多少呪うのはご愛嬌というものだろう。

 これがもしルーセが嫁に行くとなれば「お父さん許しませんよ」的な感情が爆発しそうで怖い。


 先生に勧められて、向かい合って椅子に座る。

「呼び立ててごめんなさい」

「いえ」

「金曜の夜のことなんだけど……」

 躊躇いがちに話を切り出してきた。

「あの……あの時、助けてくれた高城君にお礼も言わずに立ち去って申し訳ありませんでした」

 項が覗けるほど深々と頭を下げる……脳内RECスタート!

「いいえ、気にしないでくださいよ」

 極めて紳士的に対応する。まあ中身は十歳に満たない女の子に変態と連呼されるような下種なんですがね。


「そ、それで……あの……本の事なんです」

 やっぱりこうなるよな。出来ればあの件に関しては全て忘れて、何事も無かったかのようにしてくれるのが俺にとっても一番助かる選択だったのだが、堅苦しいほどに生真面目な北條先生にとって、そんな誤魔化しめいた選択は無かったのだろう。


「個人的な嗜好についてとやかく言えるほど僕自身は清廉潔白な人間ではありません。それにあの件は誰に迷惑をかける趣味でもないと思うので気になさらないでください」

 これは俺の本心だ。人間は公的には建前に従って振る舞い。私的には本音に従って振舞えば良い。そしてその両者を破綻させずに両立させられる者が立派な人間であると言うのが俺の持論だ。


 時々「建前とかそんな風に自分を飾るのが苦手なんです」とか言う人間が居るが、そいつらは馬鹿か嘘吐き、さもなければ薄っぺらでつまらない人間のどれかだ。

 人は醜い本性を持つからこそ恥じる。そして恥じるからこそ美しくあろうとする。だから美しくなれる。

 だが恥じる事を知らない者はただ本性のままに醜くあり続けるしかない。


 建前とは斯くの如くありたいと願う自分のあり方。今は違っていても背伸びしてでもそうでありたいと願う目標。

 何度も口にして背伸びし続ければ、いつかそんな自分になれる可能性がある。

 だが上辺すら取り繕う事をしない者は理想は無い。ただ人は皆醜いと厭世的に哂うか、理想すら持たないちっぽけな自分に気づいてないだけだ。そんな人間に何の意味があるのだろう?


「違うの……あれは、あの本は……」

 状況が変わった。本音だ建前だなんてくだらない事を考えてる場合じゃない。

 北條先生が違うと言うなら違うに決まっている。そうだよ先生が腐ってるなんてそんな馬鹿な事があるはずが無い。

 ……まあ、昨夜は……あれだ……例の本を読みながら自分を慰める北條先生を想像しながら、右手を酷使させてしまった訳だ! えぇいっ自重はせぬ、自重はせぬ、自重はせぬぞっ!

 北條先生が腐ってない可能性があると思っただけでテンションが上がるのが止められない。


「何か事情が?」

 そんなくだらない事を考えている事などおくびにも出さず、前のめりで聞き返す。

「あれは……し、信じてもらえないかもしれないけど……」

「信じます!」

 信じないはずが無い。信じるなと言われても信じるよ。信じたいものを信じる。それが人間だから。

「……あれは妹に頼まれたの」

 妹? 言い訳としたら余りにもベタな話だが、俺が突っ込みたいのはそこではない。

「妹さんがいるのですか?」

 さすが俺。やはりそこに食いつかずにはいられないのだった。

 先生の妹か、やはり先生に似てるのかな? 似ていて欲しい。何なら可愛い系でも許す! ……ああ妄想が宇宙の膨張をも超えて膨らんでいく。

「ええ、二つ年下なんですけど、そっちの趣味があって……あの日も本屋に買い物に行くって出て行って直ぐに、階段で転んだと言って帰ってきて、足を挫いて歩けないから代わりに買い物に行って欲しいと頼まれたの。私も買いたい本があったから引き受けたんだけど、まさか私まで階段で転ぶなんて……」 

 二歳下……二十三歳のドジっ娘か、アリって言えばアリなんだけど、腐女子属性は邪魔だよな。そもそも男女間の恋愛を必要としているのか生態自体が不明だしな。

 だが、それでも一度チェックしなければならないと心に誓った。


「まさかあんな本だとは思わなかったと? でもどうしてネット通販で買わなかったんでしょう?」

 余計な事を考えながらも、真面目に聞いていたかのようにきちん会話をこなす自分を流石だと思う。

 ネット通販なら自宅に居なくてもコンビニで受け取れるようにしておけば、発売日には確実に入手できるだろうに……俺はネット通販自体使った事は無いけどね。


「クレジット決済だと、もしも情報漏洩があったら我々マイノリティーは社会的信用を失うから駄目だと、それに今日中にどうしても読みたいと泣いて駄々をこねるから……」

 確かにここしばらくは聞かないけど、何年か前は良くハッキングによる顧客データの流出とかニュースになってたよな。

 それにしても、そこまで病的に自分の趣味の露呈を恐れる完全隠密型の隠れオタの上に、二十三歳にして泣いて駄々をこねるとは駄目人間だな。

 一方で北條先生に似た風貌のクールビューティー風の駄目人間。それはそれでぐっと来るものがある、妄想に限りが無さすぎるよ。


「でも社会的信用……あるんですか?」

「一応、あんな子でも銀行員だから。それで私も恥ずかしいから変装して遠いあの本屋まで行て……」

「あの騒動に巻き込まれたんですよね」

 一応筋は通っているし、細部まで話が出来ている。今咄嗟に思いついたとしたら情報漏洩の件は出てこないだろう。だがそんな理屈なんて関係なく俺の中では無罪だ。

「信じてもらえないだろうけど──」

「先生が言うなら何でも信じます」

「──本当なの……えっ?」

 俺が間髪いれずに答えると、北條先生が驚いた表情で固まる。

「……どうして? 私なら信じられないわ。都合が良すぎるもの」

 どう説明したら良いものやら……


「先生は、幽霊を信じますか?」

「幽霊ですか? ……いいえ信じません」

 唐突な俺の言葉に怪訝な表情を浮かべながら答えてくれた。

「それは良かった。信じてると言われたら困ったところです。それでですね。人間が幽霊だのUFOだのを証明出来ないものを信じるには二つの場合があるという話を聞いた事があるんです。一つは自分自身で見たり体験した場合。これは自分の常識を信じるか、正常を信じるかの二者択一です。信じる者もいて当然でしょう。そしてもう一つが『こいつが言うなら間違いなく存在するんだろう』と確信を抱けるような人物がそれらを肯定した場合です。まあ詐欺師に騙され易いタイプなのかもしれません」

「それは……」

「僕は先生が言うなら間違いないだろうと信じます」

「何故、そこまで私を?」

「先生が、先生だけが俺達空手部の部員を他の生徒と同じように公平に扱ってくれたからです」

 これは本当に嬉しかったし恩に着ている。


「ありがとう。でも生徒を平等に扱うのは当然のことです。その当然の事がこの学校で成されていないは、私の力が及ばなかったせいです」

 当然ね。じゃあ当然の事が出来ない教師どもは何なのだろう。

 それにしても力が足りないのは仕方が無いだろう。教師になって四年目に入ったばかりで、教師陣の中でも若手である彼女に他の教師を動かす影響力があるとは思えない。

 問題なのは大島と、大島の暴走を止められない──端から止められるとは思わないが──癖に、俺達空手部部員達への隔意を持った態度を改めない他の教師達だろう。

 大島の存在自体問題だと思うが、俺達部員が何をしたと言うのだ。


「生徒を平等に扱う。確かに普通ですよね。でも普通にすら扱ってもらえない俺達には、その普通はとても嬉しいことだったんです。学校生活を送るための力を与えてくれたんです」

 北條先生が居なかったら、俺達の学校生活は癒しのない殺伐としたものになり、登校拒否も十分にあり得た……今でも十分殺伐としているし、ちょっとした切欠で登校拒否に追い込まれかねないけど。


 二年の時から担任──二年から三年はクラスはそのままで持ち上がる──で、俺は櫛木田、田村、伴尾からかなり妬まれた。それくらい彼女の授業は奴等にとって救いになっていたのは事実だ。


「あ、ありがとう高城君……そんな風に言って貰えて、嬉しい……とても嬉しいです」

 うん? どうして感極まったかの様に泣くんだ。そんな風に言って貰えてだって? 俺の知る限りにおいて彼女は立派な教師だ。それなのに今までそんな風に言って貰えなかったって事なのか……おかしい。俺の北條先生像とは食い違う。

「ちょっと待ってください。先生は自分が立派な教師じゃないと思ってるんですか?」

 俺の言葉に北條先生は少し悩んだ後で口を開いた。

「私は融通が利かないところがあって、生徒の皆にも厳しい思われて敬遠されていて……それに女子剣道部の皆にも鬼顧問と呼ばれていて……」

 いつもの常に凛とした北條先生の姿とは違い、俯き自信なさ気に話す……それはともかく何処かで聞いたことのある様な話だが、あれで鬼呼ばわりなら大島は何だというんだ?


「それに……いえ、何でもないわ……」

 何かを言いかけて止める。引っかかるし、そもそも何でもないなら何故そんなに辛そうな顔をする。

 北條先生が教師として自信を失うような何か大きな問題が他にあると考えるべきだな。

 生徒からは恐れられるのとは別の理由。教師間の問題の可能性が高い……大島に聞いてみるか。空気を読まない男だから、その手の話に精通しているとは思えないが、俺にとって話を聞けるような教師は、大島以外には北條先生だけだから仕方が無い。


「そんな私に普通に接してくれたのが空手部の皆で……良く話し掛けてくれて……」

 ああ、確かにそういうものの捉え方もある……の?

 でも北條先生は俺達の態度に感謝しつつも特別扱いはせずに、他の生徒と同じように平等に扱ってくれた。もしも俺達に特別に目を掛けてくれていたとしたら、俺達はここまで彼女を慕いはしなかっただろう。プラスであろうとマイナスであろうと差別は差別であり、俺達はその手の態度にナーバスだった。


 はっきりと言えるのは、彼女の俺達への態度は公正公平であろうとする気高い精神の所産であり、俺達の態度は単に餌を貰った野良犬や野良猫が懐いてしまったに過ぎないという事だ……申し訳なさに心が痛む。

「とても嬉しかったのに……それなのに力になってあげられず」

「でも何とかしようとしてくれたんですよね」

「はい。職員会議で問題にしたのですが……全く相手にされなかったから」

「大島……先生は何と?」

 本人の前以外で大島に先生を付けて呼ぶのは久しぶり過ぎて違和感しか感じない。

「全く興味が無いようでした。どうしてでしょう……」

 やっぱりあいつは三度殺す。社会的に殺し、雄として殺し、生物的に殺す! ……今は無理だけど。


 それにしても、職員会議で全く相手にされないとは……やはりこの学校の教師達に何か問題がありそうだ。調べておく必要があるな。

 そして『俺の』北條先生を悲しませた糞共には必ず制裁を加えてやる……俺の北條先生か素晴らしいフレーズだ日記につけておこう……日記なんて付けてないけどな! 自分でも分かるほどテンションが変だ。



「ありがとう高城君。おかげで気持ちが楽になったわ」

 眼鏡を外しハンカチで涙を拭いながら、そう言うと小さく微笑んでくれた。

 しまったここは俺がハンカチを差し出して先生のハートをがっちり掴むシチュエーションだろ……分かってる、分かってるよ。どう転んでも先生の心が俺に傾くはずは無い事くらい分かってるよ。


 しかし、本屋で見た時も思ったが眼鏡を取ると本当に美人だよ。眼鏡美人という言葉があるが所詮は眼鏡の力を借りての美人。本当の美人は素が一番美しい。しかも普段は決して見せない微笑……癒されるわ~ますます惚れるね。

 だからこの人の笑顔を曇らさせるような真似を決して許す気は無い。

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