第28話

 月曜日の朝は犬臭さと共に訪れた。

「今日は朝の散歩は父さんと行ってくれよ、マル」

 そうは言ってみたものの、ペロペロと俺の顔を舐めるマルには通じるはずも無い。マルはベッドから抱きかかえて下ろした後も、嬉しそうに俺の後を着いてまわる。だが俺が散歩ではなく学校に行くと分かると悲しげに鳴き、玄関で母さんに押さえ込まれながら泣きそうな目で俺を見送るのだった……そんなマルも実にラブリーだ。


 校門から体育館横を抜けてグランドを横切れば、古いプレハブ小屋の部室にたどり着く。

 少し立て付けの悪い部室のドアを開けると、すえた汗の臭いがムワっと流れ出てくる……別に見られて恥ずかしい身体はしてないから、ドアは開けておけよ。

「おはよう。昨日はちゃんと身体を休ませたか?」

 部室に入ると着替え中の下級生達に声を掛ける。

「はい。休ませてもらいました」

 一年生の澤田が応える。そう言えばこいつって俺の背中で吐いた奴だ。

「じゃあ二度と吐くなよ」

「は、はい!」

 澤田は全身を緊張させながらそう応えた。


「ところで主将。土曜日は先生と一緒に何処へ行ったのでしょうか?」

 着替え始めた俺の横に来た香藤が相変わらずの真面目な口調で尋ねてきた。

「香籐は卒業後に鬼剋流に入門するつもりか?」

「えっ……あ、いいえ」

「なら聞かない方が良い。関わったら負けだ」

「じゃ、じゃあ主将は鬼剋流に入も──」

「絶対に嫌だ! だから土曜日のことは忘れたい。分かったか?」

「は、はい。失礼しました」

 頭を下げて引き下がる香籐だが、代わりに一年生の新居(あらい)が話掛けて来た。

「ところで先輩。大島先生って一体どういう人なんですか?」

 まあ、そろそろその辺の事が気になってくるのも仕方のない事だ。どう考えても存在自体がおかしな男だ不審に思わない方がおかしい。だが俺に言えるのは……

「良く分からんだろ? だがそれが良いんだ。知れば知るほどお前の人生は幸せから縁遠くなる。そういう類の人間だと思え」

「もう十分縁遠い気がするのですが……」

「余計な事に頭を突っ込んだら、今の自分を思い出して幸せだったと思うことになる……まあ、本当かどうかは分からんが試してみるか?」

「い、いいえ。そこまで覚悟しての興味ではないですから……」

 当たり前だ、そこまで覚悟されたら怖いわ。


「はっきりしてるのは奴が理不尽なほど強いということだ。そして存在自体が理不尽だ。人は決して力で奴には勝てない」

 人間の枠を超えなければ勝てない。今の俺は十分超えてる気がするが、未だ勝てる気がしない。奴が俺達に見せている力は氷山の一角に過ぎない。そんな強迫観念にも似た思いが俺を縛っている。


「でも、大島先生はそこまで強いんでしょうか?」

 大島の強さを疑う? 俺達にとって斬新過ぎる新機軸の発想であり、隣で香籐がおやおやといった風の呆れ顔をしている。


「……香籐、空のペットボトル無いか?」

「あれですか……ちょっと待ってください」

 そう言いながらゴミ箱の中を覗きに行く。

 俺は部室の入り口横にある何本もの壊れた竹刀──全部大島の仕業だ──が挿してあるバケツの中から、1本の棒を取り出す。

 長さ50cm弱。折れてバラけて完全に壊れた竹刀の残骸だ。

「ありました」

 香籐はゴミ箱から500mlの空のペットボトルを取り出すと部室の中央にある長机の上にそのまま立てて置いた。

 竹の棒を右手に持って右脇に挟んでペットボトルに近寄ると、新居に「よく見てろ」と言うなり竹の棒を脇から抜いて横に一閃する。

 棒の先がペットボトルの首に当たると、ペットボトルは回転しながら斜め上に跳ね上がるが、同時に飲み口の部分が千切れ飛び、開いていた部室の入り口から外へと飛んで行く。

「危ないじゃないか……気をつけてくれ高城君」

 飛んできたペットボトルの飲み口を何気ない素振りで受け止めた紫村が、俺に投げ返しながら部室に入ってくる。

「ああ悪い」

 紫村は何をやっても一々様になる男だ。これでホモでなければ空手部部員であっても、学校中の女が放っておかないだろう……羨ましいとかは一切思わない。ただ純粋に勿体無いと思う。


「せ、先輩。今のは一体?」

 驚きから我に返った新居が掴みかからんばかりの勢いで迫ってくる。

「見ての通り、棒で叩いてペットボトルの首をぶっ飛ばしただけだ」

「でもペットボトルですよ。しかも中は空で固定もしてないのに……こんな簡単に壊れるようなものじゃないですよ」

「まあ、コツがあるからそれが分かれば誰にでも出来る」

 実際、二年生、三年生なら誰でも出来る。飲み口の付け根の部分は適度に厚くて、厚すぎないので衝撃を与えると割れやすい。そして棒を振る際もあらかじめ棒は脇に押し付けるようにして力を加えておけば、脇から抜くと同時に最高速度に加速する。そして親指と人差し指の付け根を支点とし、小指の第一間接を作用点として一気に小指を握りこみ、棒を百八十度回転させる様に振りぬいて飲み口の付け根へと打ち込むだけだ。1時間も練習すれば誰でも出来るようになる程度で決して難しくは無い一発芸だ。

 だが……

「大島はこれを素手でやる」

「それは幾らなんでも冗談………………えっ?」

 思わず笑ってしまった新居だが、先輩達が誰一人笑っていないことに気づき、その笑顔が凍りつく。


「まあ、そう思うだろうな。俺は実際に見ても信じられなかった」

 空手特有の種も仕掛けもある隠し芸で手刀によるビール瓶の首飛ばしは有名だが、それとは全く次元が異なる。既に人外と化した俺が言うのもなんだが人間業ではない。


 当時、俺も大島の真似をして右手で手刀をつくり、親指の第一、第二間接をほぼ九十度に曲げて、右腕に力を込めながら左手で抑えた状況から一気に力を解放し、当たる直前に手首を振り切り親指の爪の先端をペットボトルの首の一点に打ち込んでみた。

 確かな手ごたえがあった、腕のスイング速度が後二倍ほどあれば成功しただろうという手ごたえが……


「つまり大島を人間だと思うのは止めておけって事だ。奴は我々に似ているが根本的に異なるおぞましい何かだと……だから命を賭ける覚悟が出来ないなら奴に正面を切て逆らうな。奴は真性のドSだが俺達の命をどうこうしようとは基本的に考えていない。たった三年の我慢だ。俺達は若い、わずか三年のために命を捨てるなよ」

「は、はい」

 新居は白茶けた顔で力なく頷く。分かってくれて良かった。空手部は地獄だ出来るだけ早く絶望しておいて損は無いのだよ。

 だが心を折られて絶望しても、いつか大島を倒すという意思だけは捨ててくれるな。正面から闘わなければ良いんだ。セコく汚く手段さえ選ばなければもしかしたら倒すチャンスがある可能性はゼロではない。もしそれさえも捨ててしまったらきっと心が壊れてしまうから……ということをいつか話してあげたいものだと思う俺だった。



 朝練を終えて教室に向かう。

「おはよう高城」

「おはよう前田」

 背後からの挨拶だが、振り返り確認する必要もなくクラスメイトの前田だ……俺に挨拶をするのは空手部の人間とこいつくらいだから。


「それで今日の数学の宿題なんだけど」

「……本当にお前は一年の時から変わらないな」

 認めたくないが前田とは一年生からずっと同じクラスだ……こんな時に、可愛い女子の顔を思い浮かべて前田じゃなくその子と一緒なら良かったのにと思うのがお約束だろうが、俺には思い浮かべる相手さえ居ない。男として生きている意味があるのかと本気で考えざるを得ない。


「変わらないさ。お前が居る限りはな」

 俺に頼れば良いから宿題をしないと言うだけの事を、何か格好良い風にまとめる前田。

 これが自分にとってクラスで唯一の友達かと思うと悲しくなってしまった。


「じゃあ来年から変わるお前を見れなくて残念だ」

 俺は兄貴と同じ進学校を志望校にするつもりだ。そして兄貴の悪評を晴らしてやりたい……まあ、兄貴は卒業してしまっているけどな。

 そんな俺に対して前田は成績があまり……かなりよろしくないので来年、学校は別になるのは決定的だ。実にめでたい……いや彼にとっては俺が居ない方がいいって意味で。


 教室に入り前田に宿題を見せてやりながら駄弁っていると予鈴の鐘が鳴り、担任の北條先生が教室に入ってくる。

 彼女と目が合った瞬間、ほんの一瞬だが表情を曇らせ視線をわずかに下にそらす……普段、他の女の生徒や教師からやられ慣れている態度で、彼女がそうする理由も分かっているのだが、北條先生からそんな態度をとられた思うとマジでダメージが大きい。


「なぁ、ちょっとおかしくないか? 先生が一度もこっちを見ないんだけど」

 前田も北條先生の異変に気づき始めた。

「気のせいじゃないか」

「いや、こうやって俺とお前が話をしてるのにこっちを見ようともしない」

 無駄に観察力がありやがる。

 確かに普段の北條先生は厳しく私語など一切許さない毅然とした態度で授業を進める。

「お前を泳がせておいて、後でまとめて説教するつもりだろ。俺を巻き込むな」

 そう言って、後は前田を無視した。


 一時間目終業の鐘が鳴り、北條先生は教材を片付けて「では授業を終わります。それと高城君。昼休みに数学準備室に来てください」と言い残すと教室を出て行った。

「何だ狙われてるのは俺じゃなくお前じゃないか」

 前田が嬉しそうに俺の背中を叩く。

「ずいぶんと嬉しそうだな?」

「別にお前が呼び出されたことが嬉しいんじゃなく、俺が呼び出しを喰らわなかった事が嬉しいだけだよ……心の友よ」

「心の友とやらに対する配慮はないのか?」

「いや、あの堅物の北條先生からの説教は俺には無理だけど、ドSの大島に慣れたお前なら楽勝だろ」

「お前さ、今の台詞を大島の前で言えるの?」

 前田の顔が一瞬で強張る。

「えっ何? お前、それを持ち出すの? 冗談は止めろよ前田陽一君が絶滅しちゃうよ」

「別に前田陽一なんて名前の奴なら日本中に沢山いるから安心して成仏しろ」

「違う。断じて違うから。お前の目の前に居る前田陽一君は、世界にたった一人だけの特別な前田陽一だよ」

「希少であれば価値があるって訳じゃない……さてと次は国語だな」

 俺は次の授業に備えて教科書を取り出す……北條先生からの呼び出しか、まあ当然アノ事の口止めだろうが、そもそも俺が吹聴したところで誰が信じるというのだろう? 正直なところ俺自身、何かの間違いじゃないのかと思わずには居られないほど、彼女のイメージにはそぐわない出来事だった。

 もし誰か、例えば前田が「北條先生はBL小説を愛読する腐女子」と言ったとする……うん、俺なら間違いなく鼻で笑っておしまいだ。全く信じるに値しない。やっぱり前田は馬鹿だなぁ~と思うだけだ。


「言うなよ。絶対に言うなよ」

「何という露骨な前振り」

「いや全然振ってないからな。本当に頼みます!」

 そんな前田に俺は生暖かな目で微笑むだけで、特に何か言葉を掛ける必要を全く感じなかった。

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