第23話

 朝、目覚めると隣に女の子は寝ていないが、目の前に犬の顔があった。

「おはようマル」

「わぅん」

 甘えるように鳴くと顔を舐めてくる。おかげで朝っぱらから犬臭いよ。

 ベッドの上に上がっていたマルを抱き上げて床に下ろす。

「いいかマル。ベッドの上ったら駄目だぞ」

 そう諭すも、効き目があるとは思えない。何を言われてるのさっぱり分かっていない様子で俺の膝に頭をこすり付けている。

「こらっ」

 マルの頭を軽く叩くと「きゅ~ん」と鼻を鳴らして床の上で服従のポーズをとる……確か、服従のポーズをすぐにしてしまう犬って自分に自信がないとか動物番組で言ってたような。でもマルは尻尾をパタパタと振り、期待に満ちた目で俺を見つめている。まるで「ご主人様。怒らないで、あたしのお腹でも撫でてご機嫌を直してください」と言ってるような気がする。


「はいはい。わかりましたよ」

 基本的にマルには甘い俺は、お腹を撫でてやる気持ち良さそうに目を細め、更に首を伸ばしてそこも撫でろと要求する始末だった……自信がないのではなく単なる甘えん坊だと思いながら首も撫でてやるのであった。


 マルと散歩から帰って来ると、家の前に車が無かった。

「ただいま。こんな早くから父さんどこかに出かけたの?」

 玄関でマルの首輪を外しながら、出迎えてくれた母さんにそう尋ねる。

「涼(すず)とリーヤちゃんを駅まで迎えに行ったの」

「……えっ? 今なんと」

「だから涼がこっちに用があって家に来るのよ。来月からの柔道の大会で海外遠征がどうのとかで保護者の署名と判子が必要だって、それにリーヤちゃんも実家が北海道でしょ、学校への保証人はお父さんだから……それで始発の電車でこっちに来るから駅まで迎えに来てって電話があったの」

「じゃあ──」

「じゃあ母さん、俺は今日は図書館行って勉強してくるから」

 そう言って俺の横を通り過ぎようとする兄貴の肩を掴んだ。


「待てや」

「放せ、隆!」

「こんな時間から図書館は開いてないだろ」

 今は七時を過ぎたばかりだ。

「市立図書館に歩いて行くんだ。少し身体を動かした方が勉強もはかどるんだよ。だから放せ。放してくれ」

 確かに時間的には丁度良いのかもしれない。理由も正当だ。そして言葉通りに市立図書館まで歩いて行き、閉館まで勉強してから帰ってくるのだろう……兄貴には遊ぶ友達が居ないからな。

 だが嘘だ。勉強するために図書館に行くのではなく我が家の「末っ子」である涼に会うのが嫌で逃げるのだ。

「俺も行く!」

 はっきり言って俺も嫌だった。

「よし40秒で支度しろ!」


 俺達兄弟の妹である涼(すず)は武闘派である。しかも俺のような空手部に入部したという後天的な原因ではなく、生まれついての武闘派だ。

 生後数日にして、妹との初対面に喜び、その頬を触ろうとした兄貴の指を赤ん坊とは思えない握力で掴むと捻って脱臼させると言う惨劇を引き起こしたことを初めとし、その手の話題には事欠かない生まれついての乱暴者である。


 ともかく物事を力による解決する性質で、しかも無駄に正義感が強い。兄貴も俺も涼の将来を危ぶみ、その性格を改めようと色々と試みたが悉く失敗に終わった挙句に、俺達が二人でグルになって自分を責めると思い込んでしまった涼は俺達を嫌うようになってしまった。


 更に幼稚園の頃から柔道を始めると余程向いていたのか、めきめきと腕を上げて小学校に上がる頃には三年生の俺と六年生の兄貴では手に負えない状態になってしまった。


 その結果、妹と俺達兄の間には深い溝が出来てしまい。俺達の方も腕ずくでも勝てず、理を尽くしても通用しない──残念ながら典型的脳筋だった──涼を持て余し、やがて敬遠するようになっていた。

 今にして思えば、力も理も駄目なら情に訴えるという手段もあったのではと後悔しないでもないが、当時小学生で頭でっかちだった兄貴と俺には無理な話だった。

 今となっては感情の拗れが大き過ぎていて関係修復も難しい。

 そして先月、涼が東京の柔道の名門校の付属中学にスカウトされて家を出た時、正直ほっとしている自分が居たのだった。


 自分の部屋に戻り、ジーンズとTシャツに着替え、パーカーを手にしたところで家の前から車のエンジン音が聞こえてくる。

「マジ!?」

 窓から左手の玄関側を見下ろすと父さんの車が車庫入れ体制に入っている。

「隆。すまんな先に行かせてもらう」

 右手の庭の方には兄貴が居て、そう言うと庭の垣根の隙間を通って隣の家の庭を抜けて走り去って行った。

「すまんじゃねぇよ……」

 窓際に崩れ落ちると窓の向こうから涼の声が聞こえる。

「母さんただいま!」

 男親である父さんは涼に甘いし、母さんも一人娘を可愛がっていてるので両親とは仲が良いのだ。


「おっマルじゃないか。こっち来い!」

 そう呼びかけるが、マルも決して自分をいじめる訳ではないが粗忽で気分屋の涼を苦手としている……というか涼が居なくなって明らかに生き生きとしている。

「こらマル。逃げるな」

 玄関からチャカチャカと床を爪で鳴らしながら走ってきたマルが、部屋へと走り込んできて俺の後ろに隠れる。それから数秒遅れて涼が部屋に飛び込んできた。


「……何だ隆、居たのか」

 途端に不機嫌そうに表情を変える。

「マルをいじめるな」

「ふん、一ヶ月ぶりだというのに挨拶も無しにそれか」

 履き捨てるような言葉にまるでチンピラを相手にしているような錯覚を起こす。

 見た目は決して悪くは無い。小柄だが引き締まった身体で、顔立ちも母親譲りの可愛い系だ。だがそんなベースとなる顔立ちも精悍というよりは粗暴さ感じさせるな目付き、俺を皮肉るために歪められた唇が全て台無しにしていた。


「そういうのは自分から挨拶してから言うものだ」

 そう返す俺の声も冷え込む。

「くぅ~ん」

 そして2人の間に流れる冷たい空気にマルは怯えた。


「出かけるならさっさと行けよ」

 俺が手にしているパーカーを一瞥して涼が言う。

「ああ、折角の休みだそうさせて貰う」

 出入り口の前に立つ涼の横を通って部屋を出る……マルもこっそり俺に続く。

「はっ、逃げるのかよ」

「お前がどう思うおうが、俺の知ったことじゃない」

 そう吐き捨てると財布をジーンズの後ろポケットにねじ込み、その場を立ち去る。どうして妹と話してるだけで、こんなに心がささくれ立たなければならないのだろう……


「あっ! リューちゃんだ。オイーッス! 久しぶりだね」

 制服姿の明るい栗色の髪をポニーテールにした少女が話しかけてくる。彼女は長家 イスカリーヤ(おさいえ いすかりーや)。その名前と色素が抜け落ちたような白い肌と明るい鳶色の瞳。そして日本人離れしながらも日本的な匂いを残した異国情緒を感じさせる美しい顔立ちが示す通り、母方の伯父とロシア人の母の間に生まれたハーフ。つまり俺の従妹だ。

 涼と同じ東京の中学校に進学し、同じく柔道部に所属している。そして女子柔道ジュニアの日本代表で、同じく日本代表である涼のライバルで親友だ。


「久しぶりだなイーシャ」

 母さん達は彼女の事をリーヤと呼ぶが、俺はイーシャと呼んでいる。ちなみにイーシャは俺のことは隆をリュウと読んでリューちゃんであり、兄貴は大(まさる)を普通にダイと読んでダイちゃん。涼(すず)もりょうと読んでリョーちゃんである。


「リューちゃんまた大きくなってる!」

「イーシャもな」

「へへ~、胸も大きくなってるよ」

「いらない情報だな」

「何お~! 八十二のCだよ。耳寄り情報だよ」

「あぁぁぁぁぁ聞こえない。親戚のそんな話は聞きたくない」

「こんな美少女のバストをそんな呼ばわりするなんて、この草食系め!」

「俺は肉食どころか草すら食ってないよ」

「うわぁぁ……」

 さすがにイーシャもドン引き。父さんは息子が不憫すぎて泣いてるよ。

「ま、まさかの断食系……んにゃ光合成する水耕栽培トマト?」

 ……失礼すぎる、事実だけに。

「じゃあトマトは南米の高地に帰るから後はよろしく」

「えぇぇぇぇっ! 出かけちゃうの? 久しぶりなんだよ一緒に遊びに行こうよ。デートだよデート。サービスしますから~ぁ」

「用事があって来たんじゃないのか?」

「あっ、そうだ」

 イーシャはカバンから書類を取り出すと母さんに渡して「よろしくお願いしま~す」と頭を下げて戻ってきた。

「よし行こう!」

「……はい、はい?」

 イーシャに腕を引かれながら家を出た。


「ところで遊びに行くって、こんな時間じゃ何も無いだろ」

「朝ごはんまだだからハンバーガー! モーニングセット食べたい! リューちゃんおごってね」

「しゃあないな……」

 俺も朝飯はまだだし丁度良いタイミングだった。

「寮だと栄養管理された決められたメニューしか食べられないの。学食だって柔道部は専用のメニューしか出してもらい無いの。可哀想でしょう? ジャンクフードに飢えても仕方ないよね」

 イーシャは俺の肘の辺りに腕を絡めると「たべるぞ!」と叫んでぐいぐいと引っ張って行く。

「おい、胸当たってるぞ」

「えへへ~、サービスサービス!」と言いつつ、顔が赤い。恥ずかしいならやめてくれ。恥ずかしくなくてもやめてくれ。俺が恥ずかしいんだ。


「わーい。アメリカ帝国主義の堕落した食べ物だ!」

「お前はいつの生まれだよ?」

「ママがそう言ってたよ」

 そう言えば伯母さんはソ連崩壊時には確か十代半ばか……ある意味歴史の生き証人だね。そんな本人の前では決して口に出来ないことを考えてしまった。

「う~ん、大して美味しくないのに堪らないな~。これがジャンクフードの魔法だね」

 うれしそうに頬張る。ああケチャップが顎に付いて。思わず手を伸ばして紙ナプキンで拭いてやる。

「全く子供だな。たっぷりの脂質に過度にエッジの効いた味付け。ジャンクフード効果に踊らされて」

 思わず手が伸びてしまった自分の行動が気恥ずかしく感じて、そんな事を言って誤魔化す。


「何? ジャンクフード効果って」

「塩分や香辛料が多く含まれた食べ物を口にして舌に強い刺激が加わると、脳は痛みを覚えたと判断して、痛みを中和させるために脳内麻薬を分泌するんだけど、これには麻薬にも負けない強力な快楽物質も含むんだよ。ところが脂質つまり油が口の中に広がると味を感じる味蕾という感覚細胞を被ってしまい、舌への刺激を遮断してしまうんだ。すると痛みが継続するものとして分泌された脳内麻薬の量が実際の痛みに対して過剰となり、気持ち良さを感じるんだ。だからイーシャはジャンクフードは大して美味しくないのに堪らないと感じたわけだ」

「う~ん。良く分からない」

 そうだろうね! 俺だって脳内麻薬と言う単語が出た段階で、この脳筋娘には理解出来ないだろうなと思ったよ。


「うん、リューちゃんは理屈っぽすぎるよ。もう少し単純に生きればリョーちゃんとも仲良く出来るのにな~」

 さらっと重たい事を言いやがって。そんな事は俺だって分かってる。だけどさ……

「簡単に自分を変えられたら苦労しないよ」

「だよね~」

 一緒にため息を漏らす。

「涼との仲を取り持つために誘ったのか?」

「ち、違うよ。単に私がリューちゃんと一緒に居たかっただけ」

「そうか……」

「そうよ……」


「ありがとうな」

「……うん」

 イーシャは照れたように笑う。良い子に育ったもんだ。

 それに比べて俺は……昨晩異世界の森の中で八歳位の女の子をロープで縛り上げて吊るし、その子がお漏らしするまでくすぐり続けたんだぜ。

 死んだ方が良いよな? つうか誰か俺を殺してくれ!

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