第18話
「忌まわしい朝が来た。希望も尽きた」
今日は、何の因果かあの大島と一緒にお出かけという素敵なイベントの日だ……小惑星が地球に衝突して世界が滅んでしまえば良いのに。
昨晩は万引き犯の事件のせいで帰るのが遅くなって就寝時間もいつもより大幅に遅かったが、それでも目覚まし無しで目覚めたのはいつもと変わらぬ五時半前で疲れも一切残っていないのが唯一の救いだ。
「……マルと散歩に行こう」
ただ黙って大島が来るのを待つのは耐えられそうに無かった。
最近、俺と散歩する機会が多かったためマルの甘えっぷりは小さな仔犬の時以来の凄さだった。
マルを自分の妹のように可愛がってはいたが、毎日朝早くから居なくなり夕方の遅い時間に帰ってきて、飯食って風呂入って勉強した後の、寝るまでの僅かな時間しかマルと遊ぶ時間は取れなかった。
毎日に十分かそこらしか構ってあげられないが俺は短い時間を全力でマルと遊んだが、次第に活動範囲が広がり散歩が一番の娯楽になってしまったマルに対して、散歩に連れて行って上げられないために少しずつ溝が広がっていて、マルの好きな家族ランキングでは不動の3位をキープする事になっていた……それでも兄貴よりは上である自信はあった。
最近では父さんを抜いて二位にランクアップしているのだと良いが……そんな事を考えながら、ペースを押さえ気味にして三十分ほど一緒に走る。
時折「もっと早く走らないの?」と言いたそうな目で俺を見るが思いっきり走るのは帰りだ。
本日の折り返し地点でマルに水を与える。
ピチャピチャと音を立てながらマルの顔は、自分ではねた水で水滴だらけになっていた。
水を飲み終えるのを待って「マル」と声を掛けて、こちらを振り返ったところで首を捕まえて顔をタオル拭いてやる。嫌がる様子は無いが負けじと俺の顔を舐めて来るのは勘弁してほしい。
だが「こら」と一言でも声を発した途端、口の中まで舐めて来るので、しっかりと口を閉じたまま顔を拭いていたタオルで頭を押しやろうとすると、遊んでもらってると思ったのだろう更に夢中になって俺の顔を舐めようとするのだった。
「ふぅ……」」
胡坐を書いた状態でマルの首を右の脇に挟みこんで一息吐く。まだ興奮しているのか尻尾が左の膝にバシバシと当たる。
マルによって涎塗れになってしまった顔を首に掛けていたスポーツタオルで拭う。これは帰ったらシャワーを浴びないと駄目だろう。
「よし帰るぞマル」
「ワン!」
満足したのだろう良い返事で吼えた。
午前七時。家の前に国産SUVで乗りつけた大島が、最初に口したのは「……気合入りすぎだろう」だった。
空手着を着込み玄関前で待っていた俺を見た奴の顔に浮かんでいたのは紛れも無い苦笑い。
「取りあえず今は動きやすい普段着に着替えろ、そいつの出番は後だ。脱いだらちゃんと持ってこいよ」
どうやら大島の考えていたTPOに空手着は相応しくなかったようだ……それはつまり、すぐに命を取りには来ないという事だろう。
自分の部屋に戻り着替えるといっても、俺の普段外出する時に履くのはジーンズで、普通に動く分には差し支えないが決して動きやすいといえる服装ではない。となると選択肢が狭すぎて困る。
何せ普段は休みの無い生活を強いられているので、私用の外出という機会自体が余り無いのだ。
普通の中学生のようにおしゃれしてどこか遊びに行くなんていうのは、遠い別世界の出来事に等しい。
俺が空手着から着替える選択肢なんて、学校の制服。学校指定ジャージ。散歩用のトレーニングウェア。近所へ買い物に出掛ける時用のジーンズ・Tシャツ・ジャケット・パーカー・ダウンジャケット。そして去年親戚の結婚式に着て行ったスーツのみ。改めて悲しい中学校生活を送ってきたなと泣けてくる。
結局トレーニングウェアに着替えて階段を下りてきた俺が目にしたのは、玄関で大島と話す母さんの姿。
「態々迎えに来ていただき。本当に申し訳ありません」
母さん。こんな奴に頭下げる必要は無いよ。
「先生。よろしくお願いしますね」
それは死刑執行のGOサインだよ。
「それでは隆君をお預かりします」
俺にとっては誘拐犯の台詞にしか聞こえないよ。
そんなやり取りの後、俺を乗せて車は走り出してしまった……ドナドナド~ナド~ナ~
「何処へ向かってるんですか?」
走り出して五分ほど過ぎ、無言の車内の空気に先に折れた俺は尋ねた。
「着けば分かる」
分かってからじゃ遅いんだよ! もしやこの野郎、目的地を聞いて拙いと思ったら、走行中に大島のシートベルトを外して、横からハンドルを切って事故を起し亡き者にしてやろうという俺の企みに気付いたのか? 恐ろしい奴だ。
車はすぐに最寄りのインターから高速に乗り日本海側へと向かい一時間半ほど走った後、高速を降りた。
そろそろ目的地の近くかと思えば、大きな公園の駐車場へと車を乗り入れる。
「トイレですか?」
大島は図体のでかいSUVを慣れた様子で駐車スペースにバックで入れると「朝飯を食うぞ」と答え、サイドブレーキを引いて、キーを抜き「降りろ」と告げて、自分はさっさと車を降りた。
車を降りて奴の後ろを追いながら、これが逃げる最後のチャンスなのではないかと思わずにはいられない。警察に駆け込んで大島の所業と学校側の不可解な対応について洗いざらいぶちまける……悪くは無い。悪くは無いが、今まで空手部の先輩が一人もこれを思いつかなかったとは思わない。
そして誰か一人くらいは実行していたとしてもおかしくない。むしろ実行して当然だろう。だが奴はまだ教師として学校にいる。奴のせいで学校を転向するために引越しした家もあるのだ。弁護士を立て行動を起したとしてもおかしくない。それでも奴は教師でい続けている。
ありえない。それとも俺の常識による理解の範疇にある社会。それとは全く異なる別の構造がこの社会には存在するのだろうか? ……言い知れぬ恐怖を覚える。
「ここだ」
大島は公園の駐車場入り口から出て、道を挟んだ向かいにある何か分からないが小さな食い物屋らしき店へと行くと暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
カウンター奥の調理場から店主らしき小柄な男性が愛想良く迎え入れてくれた。
店内はフローリングの床は艶が出るほど磨き上げられて清潔ではあるが、カウンター席とテーブル席。そして畳の小上がり。小上がりには黒く上の部分の格子に障子紙を張った仕切りの置かれたごく和風テイストのレイアウトで、どう見ても普通の蕎麦屋かうどん屋といった佇まいだった。
大島はカウンター席に座ると「いつもの」と注文する。すると店主は「あいよ。山菜ほうとう大盛り一丁」と応えて調理に取り掛かる・……畜生、連れの一見さんを前に自分は常連気取りか。糞、格好良いじゃないか。
「おごりだ。好きなのを頼め」
好きなものといっても他の客の食っているものを見る限りうどん屋じゃないか。俺は蕎麦派の人間だし、大体ほうとうって何だよ。俺のボキャブラリーの中では放蕩息子くらいしかヒットしないぞ。
「じゃあ蕎麦──」
「ここはほうとう屋だ」
俺の注文は間髪を入れずドスの効いた声で遮られた。
「いや、うちは蕎麦もありま──」
「ダ・マ・レ」
店主の言葉も間髪を入れずドスの効いた声で遮られた。
「……そもそも、ほうとうって何ですか?」
「!」
その時、大島の顔に浮かんだのは『そんな』『まさか』『どうして』『何で?』の全てをひっくるめた『衝撃』の二文字。
「し、知らないのか? ほうとうを」
「知りませんよ。どういう漢字で書くんですか?」
「!…………」
虚を突かれた顔をした大島は、視線を宙に彷徨わせた挙句に店主に向けた。それに対して店主は肩をすくめて首を横に振った。
「まあ何だ……基本的に平仮名だ」
誤魔化すようにそう答えられた俺としても「はぁ」としか応えようが無かった。
結局、俺もほうとうを頼むことになったが、正直朝飯とはいえ九時過ぎまで引っ張られて腹を空かせた中学三年生にとっては味や量はともかくパンチに欠けている……肉が入ってなかったのだ。
どうやら肉の入ったメニューもあったようだが、何を頼めば良いのか分からなかった俺は大島と同じものを頼んだのが失敗だった。
うどんと比べても太く平たい麺とたっぷりの野菜の具と、野菜から出汁の出た味噌ベースのスープ。しかし肉は欠片も入っていない。奴も三十代も半ばを過ぎて朝から肉を食う食欲は無かったのだろう……老いたな大島。霜降り肉をおかずに赤身肉を食らうような──あくまでもイメージ──男であったのに寄る年波には勝てぬか、愉快愉快。
「どうだ美味かっただろう?」
そんな俺の思いに気付かず、自信満々に尋ねてくる。「美味い」と答えが返ってくることをこれっぽっちも疑っていない顔だ。
「美味しかったですよ。でも先生には良いのかもしれないけど、若い俺には肉無しは物足りないです」
そうはっきり言ってやった。どうせ拳で語り合う事になるならば、口で言いたい事を言っても俺の立場は何ら変わりようが無い。ならば言わないのは損だ。
「な、何を言う。俺は朝っぱらからでも焼肉だってドンと来いの男だ」
「無理をしなくて良いですよ。ほうとうを食べて『野菜から出た優しい味が三十代も半ば過ぎの身体に染み渡る』と思ったでしょう。二十年後には自分にも分かるようなるので気にしないで下さい」
「…………おう上等だ。これから焼肉を食いに行くぞ」
今俺の前にはメロン熊がいる。しかも赤いメロン熊だ。どんなに笑顔を浮かべても、こめかみから額に浮き出た血管がピクピクと皮膚の下で動いて気持ち悪い。だが恐ろしくは無かった……既に開き直っていたのだから。
「もうお腹は十分一杯になってますよ。朝飯をはしごしてどうするんですか?」
それにどうせ安い食い放題の焼肉だろう。そういう気分じゃないんだよ。
「くっ!」
拙いな怒らせすぎたか、目が赤い警戒色を放ち、大気が怒りに震えている……どなたか、どなたか蒼き衣を身に纏った方はいらっしゃいませんか?
ともかく無事に朝食を食べ終わると、俺を乗せた車は走り続ける。
「先生。いい加減何処に行くのか教えてくれませんか? 泊まりになるくらい遠くに行くなら、親には泊まりになるとは言ってないので一度連絡する必要がありますから」
「今日中には家に帰れるようにするから心配するな」
何? 生かして帰すつもりだと! しまった怒らせるんじゃなかった……迂闊なり、高城 隆。
「しかしお前。性格変わったな」
「……性格は全く変わっていませんよ」
気付かれた? この全く空気を読めない強引にマイウェイ男に、俺の性格の変化が気付かれたなんて……超意外。
「以前なら、俺にあんな口を叩く事は無かっただろ」
「そりゃあ猫を被ってましたから」
「ほう……それじゃあ、もう猫を被る必要は無くなった訳か?」
「いきなり先生に、部活を休んでまで付き合えと言われれば覚悟しましたから。もう言いたい事を言った方が得だと思いましたよ」
「ああ、それであの格好だったのか。なるほどな。可愛いところもあるじゃねえか」
そう言って再び苦笑いを浮かべる。
「今日のところは、そんなに大変な目──事をさせる気は無い。気楽に構えておけ」
ちょっとお前何を言いかけた? 大変な目に遭わせるつもりなの? しかも今日のところはって、何時か大変な目に遭わせるって事だろ。
普通の人間とは持つ感覚が違う生き物だ。骨折なんて大事じゃなく笑い事にしてしまうようなこいつが言う大変な目って何なの?
「着いたぞ」
大島にそう言われるまで、俺はもしかしたら此処が目的地ではなく、ちょっとトイレを借りに立ち寄っただけという可能性を諦めていなかった。
アスファルトで舗装された広い駐車スペースの先には、歴史を感じさせる木造の巨大な門が立ち塞がっていた。それだけなら良いのだが、門の右側の柱に「鬼剋流 甲信越支部 本道場」という看板があるのがどうしても受け入れがたかった。
「どうして?」
色んな意味を込めてそう尋ねた。
「まあいいだろう。行くぞ」
うわぁ~無視しやがった。こいつの都合の悪い事は恐ろしいほど強引に無視する態度が大嫌いだ。人の話を聞け! ……と思っても口にはしない。だって今日のところは安全を保証されてるんだから。
門脇の通用口を通り中へと入る。
一見神社のようで、門から真っ直ぐに伸びた石畳の道の先には門と同じように重厚さを感じさせる大きな木造の建物がある。まあ、あれが俺にとって面倒なことになるであろう道場なのだろうことは想像に難くない。
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