第15話

 目覚めるとすぐに自分の身体の臭いを嗅ぐ……良かった血の臭いはしない。やはり異世界と現実とではその辺はきっちりと区別されているようだ。

 しかしシステムメニューの目覚ましは便利だ。セットした時間になったら【アラーム】という割にはアラームが鳴るわけでもないのに自動的に目が覚めるというのが凄い。

 ベッドを出て制服に着替えるためワイシャツに袖を通そうとして、ふと気付いてワイシャツ・ネクタイ・制服の上下・靴下を全て収納し【所持アイテム】からそれらを【装備品】へと移動させてみた。

「移動できた」

 そして装備を実行する。

「……実に惜しい」

 ネクタイが何故か頭に結ばれていた。だがそれ以外は完全に着る事が出来ていた。頭のネクタイを緩めて首まで下ろしワイシャツの襟下のポジションで締める。手間的にはそれほど悪くは無いが何か納得できないので、もう一度ネクタイを収納し装備し直してみると襟下のポジションにネクタイが現れた。

 これはもしかして、酔った水龍の頭にネクタイを締めるイメージをしたのが残っていたせいだろうか?


「おはよう」

「あら、今日はちょっと早いのね」

 台所の母さんと朝の挨拶を交わす。ちょっと早いのは人類最速の早着替えに挑戦したからだよ。

「ワァウ」

 マルが俺の足元にまとわり付くように動きながら、良く振れている尻尾でバシバシと俺の脚を叩く。

 しゃがみ込むと両手でマルの顎と頭を挟んで撫でてやる。マルは「クゥン」と鼻を鳴らし気持ちよさ気に目を細める……ごめんねマル。朝の散歩には連れて行ってあげられないんだよ。

 そんな謝罪の意味も込めて念入りに撫でまくること二分で、マルはすっかり床の上でお腹をみせて横たわり息を切らせていた。


 朝練では今日もランニングになる。

 一年生の体力づくりのために彼等が大島のペース──とはいってもかなり手加減をした──について来られるようになるまで、大体十日から二週間くらい続けられる。


「しかし、何なんだ……」

 大島の目が俺をロックオンしている。一年生の頃から俺が奴に特別目を掛けられていたが未だ嘗て無いロックオンぶりに不安と気持ち悪さが相乗効果で襲い掛かり吐き気を覚えるほどだ。

 二年生や三年生達もこの不穏な空気に緊張感を高めている……おい田村、屠殺場に送られる家畜を見送るような目で人を見るな。本気で怖くなる。


 数学の時間。俺にとってこの学校生活で唯一の潤いである北條先生の授業である。

 眼鏡の奥の美しい切れ長の目がとてもクールだ。板書する後姿。百七十センチメートル近い均整の取れたモデルと言っても通用するスタイルと腰まで流れるような艶やかな黒髪に見惚れずにはいられない。

 解答を読み上げていく玲瓏とした声もたまらなく素晴らしい。

 などと入れあげているが、彼女は特別俺に優しくしてくれるわけでも俺個人に笑顔を向けてくれるわけでもない。それに凄い美人だと思うが、とても厳格な性格で常に背筋がぴっと伸び、女性としての隙を一切感じさせない。

 そういえば彼女が笑ったのを見たことさえ無い……あれ? 何で俺は彼女に潤いを感じているんだろう。潤いを感じる要素がまるでない。


 今はっきりと気付いた。部活の後に部室で着替えながら「今日北條先生に問題を当てられたんだ」「やったなお前!」「それで?」「良く予習をしてきていますねって言われた」「おおおおおっ!」「先生ぃ~俺のことも褒めて!」とか騒いでる俺達って完全な馬鹿だったんだと……どんだけ俺達の思春期は乾いちゃってるの?

 ちなみに学年の違う二生達には北條先生と直接的な接点は無いが、俺達の話を聞いて思いを積もらせた挙句、彼らの中では憧れを通り越して既に神格化されてるほどだ。

 学校は俺達にとって完全にアウェイだから公平なジャッジをしてくれる審判に感謝する気持ちを何倍も膨らませた状況なのだろう。


 美術の時間。

 恐ろしい事に自分が、目で見たことを写真のように完全に記憶する能力に目覚めていた事に気付いた。

 授業の課題である静物画のデッサンで、台の上に置かれた花瓶と花をしっかりと確認すると、それだけで目の前の白いキャンバスの上に花瓶と花のイメージを再現する事が出来た。

 まあ美術部部員でもない俺に技術的に大したものは無いので芸術性を感じるようなことも無いイマイチな出来だったが、輪郭や陰影の強さなんかは気持ち悪いくらいに正確で、なにより描く時に線に迷いが無いので十分も掛からずに書き上げてしまった。

 教師の評価も首を傾げながら「いや、授業の課題作品としては十分に良い出来だよ。良いんだけど……何なんだろうこれは? 愛が無いのかな?」という微妙なものだった。愛って何だよ?


 部活のランニングも三日目となり、一年生達がリタイヤするまでの距離が大分長くなってきた。そのことを彼等自身が一番感じているのだろう。走る彼等の顔付きにももっと頑張れば必ず走りきることが出来るという気迫が表れている。

 大島が大好きなのはその気迫をぶっ壊す事だと知りもせず……神様。彼等を救ってあげて! せめてその魂だけでも安らぎを。


 今日は格技場の使用権が無いので、ランニングから帰ってきた俺達は部室近くの校庭の脇で練習を行う。

 一年生を背負った二年生達と大島も、俺達3年生と香藤に遅れること十分ほどで戻ってきた。だが朝から続く大島の視線がウザイくて練習に気が入らない。非常に迷惑だ。

「高城! 気合が入ってないぞ」

 大島から檄が飛ぶが、お前が原因だよとは思っても言わない。


 一時間ほどして一年生の新居が起き上がり、ふらつきながらも健気に練習に参加しようとした時。

「よし。一年生全員起きろ!」

 大島の馬鹿でかい声が校庭中に響き渡った。フライの処理の練習をしていた野球部の外野が声に驚き落球する。近所の犬がワンワンと吠え出す……本当に迷惑な生き物だ。

 一年生達はゾンビの様にぎこちない動きで起き上がる。だがその目にはどんなしごきにも耐えてやるという気迫が満ちていた。

「じゃあ、これからもう一回ランニングに行くぞ」

 一年生達の気迫が一瞬で希薄になる。冗談でも言って無いと一年生達が可哀想過ぎてやってられない……二年前の自分達の姿が重なって。

 大島は本当に良い笑顔をしている。奴にしてみたら大好物ご馳走様といったところだろう。やはりこの男の本性は邪悪。生かしておけば必ず人類のためにならない……誰か倒してくれないかな国連軍とかで。


 二回の計に十キロメートルを超えるランニングを終えて、一年生達は言うに及ばず二年生達までも地面に座り込んでしまっている。三年生達は流石に座り込みはしないが流石に疲れた様子だ。息を荒げていないのは俺と大島だけだ。

 流石レベル二十二になり人類の枠を超えてしまっている俺だが、大島は本当に人の類なのか疑問だ。


 こいつはランニング中に、先頭から一番後ろまでダッシュで戻り、遅れている1年生の尻を嬉しそうに笑いながら竹刀でビシバシと打ち、またダッシュで先頭に戻ると一年生を慮り微妙にペースを落としていた副主将の櫛木田に「ちんたら走ってるんじゃねぇ!」と首が三百六十度、一周回転しそうな勢いのビンタを食らわす。

 それでも全く速度を緩めずに走り続けるのだから空手部で二年以上も生き残っている俺達も十分化け物なのだろう。

 とにかく大島はそんな事をずっと繰り返しつつの二十キロメートルを越えるランニングだ。

 奴が実質走った距離が三十キロメートルを越えていても不思議じゃない。



「ところで明日の土曜日だが、俺は学校には来られない」

 大島の言葉に部員達の顔に生気が蘇る。大島が学校に来られない……何て素敵な響きの言葉だろう。出来れば毎日聞かせてもらいたい程だ。

「明日の練習はいつも通り、櫛木田。お前が練習を見てやれ」

「俺ですか?」

 櫛木田も驚いているが、俺も驚く。ここはどう考えても主将である俺だろ。ということは明日の練習は大島が居ない。そして何故か俺も居ないという訳だ……どうにも嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。そして予感が外れる気がしない。


「高城。お前はちょっと残れ、話がある」

 嫌だ。絶対に嫌だ。お前の話なんて聞きたくない。大体お前と二人っきりということは俺がお前の話とやらを断ったら殺す気で、だから目撃者を出さないために他の部員達を先に帰すんだろう?

 誰も俺に目を合わさず部室へと消えていく。最後に部室に入りドアを閉める時の櫛木田の目は炉の扉を閉める火葬場の職員の様だった。


 辺りを振り返るが周りには誰も居ない。他の部の連中はとっくに練習を終えて帰宅している。

「高城。明日連れて行きたい場所がある。朝の七時に迎えに行く、朝飯は食わんで良い。動きやすい格好をしておけ」

 そう言い残すとあっさり背中を向けて去っていく。だが立ち去り際にニヤリと笑ったのが不吉だ。


 大体、朝飯は食わないで良いって何? あれか兵士が腹を撃たれた時に飯が胃に入っていると、腹腔内で飛び散って腐り命に関わるとか言うやつか? 明日は俺の命日かもしれない……いや黙って殺されてやる道理は無い。レベルアップだ。レベルアップして奴を返り討ちにする。どれくらいまでレベルを上げれば勝てるだろうか? 身体能力だけなら今でも奴に勝ってるだろう。だが強さはそんな単純なものじゃない、技量と経験が圧倒的に劣っている。せめて身体能力くらいは奴を圧倒する高みに達していなければならない。レベル四十か? 五十か? 忙しい事になりそうだ。


 晩飯前にマルの散歩を終えるために急いで家に帰る。

 玄関を開け「ただいま」と大きな声で上げると階段を駆け上がり、制服を収納して取り出してベッドの上に置くと、トレーニングウェアを収納し装備する。

 そして部屋を飛び出しリビングのドアを開ける「マル散歩行くぞ!」と声を掛けた。


「ワンワン!」

 マルは嬉しそうに尻尾を振りながら俺の後ろを駆ける。

 流石に母さんや父さんでは、こんな速さでマルを散歩させる事は無理だ。だから俺との散歩の時のマルは元気一杯だ。

 だが元気があれば何でも出来るという訳ではない。何事にも限界はある。立ち上がれないほどに疲れ果てたマルを前に、息一つ切れない自分の体力がどうなっているのか怖くなっていた。


 地面に伏してしまったマルが息を切らせてヒューヒューとか細く喉を鳴らしている……何処かで見たことがある状況で、何故かマルの考え無しの疾走を責める気になれない。

 責める気は無いが、携帯に母から『そろそろご飯よ。帰ってきなさい』とメールが入った。晩飯の後で本屋に行く予定もあり俺は焦りを感じていた。

「マル。家に帰ってご飯だよ」

「くぅ~ん」

 普段は食い意地の張った子だというのに「ご飯」に反応しない。はしゃぎすぎてトコトン限界まで走ったようだ。

「仕方ない奴だ」

 伏せの状態のマルを横に寝転がらせ、尻の方から背中に手を回して抱き上げる。犬相手にお姫様抱っこをする事になろうとは……

「ワゥ」

 マルは小さく吼えると、俺の顔をペロペロと舐め始める。耳は伏せているので自分の情けない状態を申しかけないとでも思っているのだろうか?

 マルを抱き上げたまま十分程走ったところで、一度地面に下ろして水を飲ませると元気を取り戻し家へと走り出した。



「じゃあ行くぞ」

 食事の後に、上着を着込んで居間に戻ってきた父の声に俺と兄貴は頷いて席を立つ。

「母さんは行かないの?」

「マルガリータちゃんがいるから母さんはお留守番するわ」

 兄貴の問いに、母さんは自分の膝の上に頭を乗せるマルを撫でながら答える。家でマルの事を略さずに呼ぶのは母さんだけなんだよな。


「じゃあ、英さん運転気をつけてくださいね」

「ああ」

「それとお土産をお願いね。これ最新作が出てるの」

 そう言って、超難解ミステリーシリーズとして有名な洋物の小説を見せる。おっとりとした母さんだが、何故か人が死にまくるミステリー物が大好きなのだ。

「……ああ」

 父さんは肩を落としながら答えた。


 道中、男だけの車内となれば父として息子達に聞いておくべきだろうと思ったのだろう「そういえばお前達、彼女とかは出来たのか?」と切り出すが、俺と兄貴が作り出す圧倒的沈黙の前に「まあ何だ。学生は勉強が本分だ……」と言葉を濁した。


 俺は今更説明する事も無いが、兄貴はやはり俺が空手部に入ってしまった事で立てられた『仲の良くない弟を地獄部に売ったぐう畜』という噂のせいで、彼女どころか友達も出来ない有様だった。

 ちなみに俺の中学校の空手部は県内中に、その逸話が広く知られていて兄貴の学校でも地獄部で通じるらしく泣ける。


 そんな空手部の逸話の中でも特に有名なのは『こうやの七人』と呼ばれる話であろう。

 北関東に位置する我がS県(埼玉県にあらず)には、S県県立男塾と渾名される不良の巣窟として、また昭和の残照、生きた化石──学校はそもそも生き物じゃない──として有名な工業高校があった。


 始まりは、そこの生徒とその年卒業したばかりの空手部のOBとの間で起きた揉め事。OBの同級生を工業高校の連中がカツアゲしたところを止めに入ったのが原因だった。

 OBは工業高校の連中四人を怪我を負わせることもなく軽くひねってやっただけだったのだが、逆恨みした連中は後日仲間を十人ほど集めてOBに襲撃をかけて敢え無く返り討ちに遭う……阿呆の末路である。


 さすがにその時は、OBも手加減せず全員叩きのめした上で警察へ通報した。全員木刀やナイフなどの武器を所持していたため凶器準備集合罪で全員逮捕され大問題へと発展する。


 また、そのOBは鬼剋流に入門していないため、ただの白帯の空手経験者に過ぎず、相手の人数と武器の所持から完全な正当防衛として咎められるどころか逆に表彰された……連中の評判が悪すぎたのである。

 だが馬鹿者どもは更に逆恨みを募らせてOBに決闘状という名の脅迫状を送りつけてくる。


 内容は、日時を指定した上での『光野公園』への呼び出しで、来なかった場合はOBの周辺の人たちへの危害を臭わせ、警察に通報した場合も同様にするとの事だった。

 光野公園は郊外に位置する休日などには野外イベントに使われる大型の公園だが、周囲には民家はなく平日はほとんど人の居ない場所だったのだが、OBが公園に着くと百人を超える工業高校の生徒達が待ち受けていた。


 OBを包囲して襲い掛かるつもりの連中だが、実は包囲されているのは連中の方だった。

 そして百数十人を包囲するのは僅かに六人。だがそのいずれもOBの同期の元空手部部員達であった。


 終わってみれば、空手部OB達は切り傷打撲などの軽症を負っていたが、百人を超す工業高生が倒れていた。数十人は逃げたが後に全員逮捕され、工業高校は不祥事とともに多くの生徒を失った事で三年後の廃校が県議会で決定される。この事は一部の市民・県民からやりすぎとの批判もあったが、大多数から強く支持された……本当に評判の悪い連中だったのだ。

 その後、空手部OBの七人は『光野公園(ひかりのこうえん)』の『光野』を『こうや』と読み変えて『こうやの7人』としてS県において伝説として語り継がれている。


 まるで前世紀の不良映画のクライマックスの様な話で、とても俺の僅か五学年上の先輩の話とは思えない。さすが我がS県。日本の他の何処でも起こらないような時代遅れのことが平気で起きる。

 ちなみにその七人のOB達はいずれも鬼剋流への推薦を受けておらず、大島曰くハズレの年といわれる先輩達であった。


 気まずい空気の中、車は郊外を走り大型書店へと到着した。

 場所が郊外なため自動車での来客をメインと捉えているので駐車場が広い。そして書店の建物は二階建てだがフロアがまた広い。

 棚を敢えて高くせず百五十センチメートルくらいに抑えて通路を広く取っているので、圧迫感がなく本屋らしくない雰囲気だ。

 一階は雑誌・小説・漫画・地図・旅行関係で、二階が技術書・専門書・学習書籍・海外原書などとなっている。俺と兄貴が用があるのは二階なのでフロア中心に位置する大階段を使う。

 俺が後数段で、階段中ほどの踊り場にたどり着く状況で、階段の上の方が騒がしくなる。「どけ!」と叫びながら男が凄い勢いで駆け下りて来た。そして踊り場を駆け抜ける途中で女性を背後から突き飛ばした。

「きゃぁっ」

 短い悲鳴を上げて、女性はバランスを崩して踊り場から階段へとダイブするのを素早く下から抱き支える。

 その拍子に女性の手から書店の袋が飛んで階段の上を転がり、男がその袋を蹴散らしながら階段を駆け下りて行った。


「兄貴!」

「任せろ!」

 俺の声に兄貴は素早く男の前に颯爽と立ち塞がる。まるで映画のワンシーンのようだと思った瞬間、兄貴は突き飛ばされて階段を転がり落ちて行った。

「あ゛っ……」

 兄貴は俺と違って肉体派では無い。むしろ運動は出来ないし身体も身長こそ俺と変わらないがヒョロい。咄嗟に声を掛けてしまった俺が言うのもなんだが、兄貴は何を考えて男の前に立ち塞がったのだろう? 一瞬でも兄貴の事を格好良いと思ってしまった自分が残念でならない。


 しかし兄貴を突き飛ばして階段を下り終えた男の逃走はそこで終了する。階段の上り口にいた父さんが男の足を引っ掛けて転倒させた。そして起き上がろうとした男に歩み寄ると、その肩に蹴りを浴びせ転がし、足を取るとそのまま流れるようにヒール・ホールドを極めると顔に憤怒を露にして「俺の息子に何するんだ!」と叫んだ……凄いよ父さん。格好いい!


 その一部始終を眺めながら俺は女性を抱き支えたままだった。何故なら頬に感じる文字通りボイ~ンな感触が気持ち良すぎたのだ。この感触……半年は戦える!

「あ、あの……」

 頭の上から女性の声がする。何処か聞き覚えのある耳に心地好い響きと共に、この素晴らしい時間は終わりを迎えたのだ。俺は名残惜しいが彼女からそっと手を離した。

「ありがとうございます。おかげで助かりました」

「いいえ、当然の事をしたま──」

 女性の顔にも見覚えがあった。長い黒髪を下ろしているが、これをアップにして、かける人によっては少し野暮ったい感じがするだろう黒縁の眼鏡をかけて、春らしいライトグリーンのワンピースではなく紺色のスーツを着れば……

「……北條先生?」

「えっ? 高城君!」

 呆然と俺と北條先生は見詰め合う。いつもの張り詰めたような美貌とは違う、こんな風に力の抜けた顔も良いな~と思うと自然に顔が火照っていくのが分かる。

 北條先生の胸と俺の頬が触れ合っていたのだから仕方が無いのだ。いやむしろ当然。ここで童貞の俺が顔色一つ変えないなど、おっぱい様に対して失礼にあたる。


「いや、あの~そうだ。本を拾わないと」

 そうとはいえ、紅くなった顔を見られるのは恥ずかしい。俺は顔を見られないように逸らすと階段に落ちた本を拾おうと身を屈める。

「あっ! いいの高城君。それは私が拾うから!」

 北條先生の声には慌てたような響きがあったはずだが、その時俺にはそんなことに気付く余裕はなかった。

「いえ、僕が拾いますから」

 そう言って、破れた紙袋から飛び出してしまった本を拾い上げる。


 一冊目は『調和する数字』という、全世界で百冊も売れなさそうなタイトルの数学の本だった。しかし数学教師が買うに相応しい本と言えるだろう。

 そしてもう一冊は『女子禁制 いけない男子空手部。先輩と僕』という背筋が凍るようなおぞましいタイトルで、上半身裸の刺さりそうなほど鋭い顎と目尻の少年と女の子みたいな顔の少年がキスせんばかりの近距離で見詰め合う、如何わしさムンムンのイラストが表紙の本だった……

「あっ! それは駄目!」

 真っ赤になった北條先生が硬直した俺の手から本を奪い取り「ごめんなさい」と言い残して風のように立ち去るのをただ黙って見送った。見送る事しか出来なかった。ショックの余りに……

 なんて事だろう……あの北條先生が……いつも凛々しく、厳しく、そして正しい彼女が……腐女子だったなんて……腐っていたなんて……手遅れだ……遅すぎたんだ……

 俺達空手部部員にも他の生徒と平等に接してくれていた、その心の底で、彼女が俺達空手部で如何わしい妄想に耽っていたなんて……取り澄ました彼女の顔の下にそんなドロドロとした欲望が渦巻いていなんて…………いや待て、どうせ妄想の対象は無駄にイケメンな本ホモの紫村 啓。地獄に咲く妖しき一輪の華「パープル・ゲイ」と呼ばれて校内の生徒、教師を問わず男性陣から大島と並んで恐れられる彼と下級生辺りの絡みがメインだろう。

 つまり俺は気軽な第三者の立場だ。そう考えれば空手部の部員(紫村と後輩)のBLを妄想し自分を慰める北條先生は……………………とっても有りだと思います! 想像力と右手だけが友達の童貞少年のエロ妄想力は∞(無限大)なのだっ!


 普段から空手部でギリギリのストレスをかけられた上に、異世界トリップに加えて大島の呼び出し。そして駄目押しに精神的支柱とも言うべき存在の北條先生のキャラ崩壊で、レベルアップにより強化されたストレス耐性をも振り切ってしまい正気を失ってるわけじゃないよ……多分。



 結局、今回の件は警察沙汰になった……もちろん北條先生が腐女子であった件ではない。

 万引き犯の男は止めようとした男性店員を殴って逃走。更に北條先生や兄貴以外にも、女性客を突き飛ばし右腕の尺骨にひびが入る怪我を負わせていたので、強盗罪ではないが窃盗罪と傷害罪になるのだろう。

 犯人の男を取り押さえた父さんと、突き飛ばされて肩と肘を打撲した兄は警察の事情聴取を受けることとなったが、俺は突き飛ばされた北條先生を助けただけで、しかも北條先生は既にこの場を立ち去っていたので事情聴取を受けないですんだ。

 その為二人の事情聴取を終わるのを待つ間に本を読むことにした。

 その気になれば、この店にある全ての本をシステムメニューの文書ファイルの中に詰め込むことが出来たのだが、幾ら時間がシステムメニューを使えば、収納した本を開いて表示し、自分が内容を記憶したと認識すると自動で先のページが表示されるので楽な上に、本に手を伸ばして触れる以外の時間の経過は無いとしても、俺自身の体感時間は確実に経過する。

 機械的に情報を収集する作業が何十時間と続いても肉体的・精神的疲労は無い。眠気も空腹感も無いが『心』が疲れる。ひたすら読んでいくという行動がどうしても飽きが生まれる。しかも同じカテゴリーの本が幾つもあるので内容が被る様ことが多く気力が萎えてきてしまう。

 とりあえず工業史の本から、興味ある分野の技術に関する本をどんどん読み拾っていったので、頭の中で工業関連のwkiが構築されてしまった。

 閉店時間が過ぎても現場での事情聴取が終わらない──店側も多くの店員が残っていたため、俺が閉店後も店内の本を読むこと特別に許可してくれた──ために、尽き果てそうになる気力を振り絞るも化学、薬学、農業などの分野の本を読み尽くした辺りで切り上げた……脳みそがパンクしそうだよ。


 父さんと兄貴が解放されて車に乗って帰路に就いた頃には日付が変わっていた。

「ところでお前達、本は買ったのか?」

 運転しながら父さんが聞いてくる。

「あっ!」

 そもそも買う暇が無かった兄貴とは違い、俺はシステムメニューのおかげで本を買う必要は無いがカモフラージュのために一冊買っておくつもりだった。その事をすっかり忘れていた。

「父さんも、母さんに頼まれてた本を買い損なったよ……怒られるな……迷惑賃代わりに図書券ももらえたし来週また来るか?」

「……そうだね」

 肩を落とす父さんには申し訳ないが、俺にとっては願っても無い機会だった……父さん。ドンマイ!

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