第12話

 ホームルームの前に二年の女子が廊下で倒れるという騒ぎがあったが学校側からのアナウンスは無かった。

 この学校では時折似たようなことが起き、その度に教師は口を閉ざす。思い当たる節が無いわけではない。それが真実を突いているからこそ、誰もそれに触れようとはしないのだろう。

 まあ、その原因の手下と思われている俺達空手部部員が、全女子から思いっきり避けられるのは当然なのだろう……当然なわけあるか!


 成績は良い。運動も控えめに言っても出来る方だ。身長は百七十センチメートルを超えてまだ成長は止まっていない。身体は細マッチョで手足も長い。

 顔だって、顔だって空手部に入る前は、こんな女子どころか不良さえも避けていく『厳しく険しい』という、何処の山の難所だ? と言いたくなるよな例えが似合う目つきはしていなかった。

 むしろ可愛い系の甘いマスクだった……嘘じゃないんだ。信じられないだろうけど嘘じゃないんだ。

 俺だってこれが他人のことなら「この2年間で彼の身に一体何が?」と思うくらいだし、実の母さえも小学校の頃の家族旅行の写真を眺めている所に声を掛けたら、俺の顔を見て顔色を変え、視線を俺の顔と写真の間を何度も往復させながら「えっ? えっ? えぇぇぇっ?」と驚きの声を上げていたくらいだ……すごく傷ついた。


「高城ぃ~英語の訳を写させてくれよぅ~」

 二時間目後の休憩時間に毎度の事だが後ろの席の前田が悪びれた様子も無く教科書片手にせがんでくる。こいつが自力で宿題を済ませているのを俺は見たことが無い。

 そういえば三時間目の英語の授業で、鈴木(英語教師)が気まぐれでも起さない限りは俺達の列が当てられる日だった。


「悪い。今日はやってないんだ」

 昨日は死ぬかもしれないという覚悟で遺書まで書いて寝たのだ。予習までやってる場合でも心境でもなかった。

「えっ? お前が?」

 前田は驚きの声を上げる。それほどまでに空手部の俺が宿題や予習を欠かすというのはありえない事なのだ。


 教師として色々と問題の有りすぎる大島だが、空手部部員が平均点を大きく超える成績を維持している事があいつの立場を強めているのも事実であり、それだけの為に俺達は好成績の維持を強要されている。


 大島からは平均点以上と言われているのだが、平均点を割り込んだ場合の罰が恐ろしすぎて「平均点ギリギリで良いや」なんて冒険じみた事を考える奴は……あまり居ない。

 故に俺達は教師からは基本的に優等生と評価されている。俺だって成績ではクラスで三番目くらいだが予習復習課題の提出に関してはクラスで一番真面目だ。そう俺達は大島に飼いならされた優秀で憐れな犬なのである。


「昨日は調子が悪くて早目に寝たからやってないんだ」

「えぇぇぇ~、じゃあ俺はどうすれば?」

 正直知った事じゃないが、俺としてもこいつが気軽に話しかけてくれる事は、クラスの中でも浮く俺としてはありがたいのは事実であり無碍にも出来ない。

 今日の授業でやりそうな範囲をざっと眺めると、辞書を使わなくても訳せそうだった。昨日よりレベルが上がっている分だけ効果が現れていた。

 単に物覚えが良くなっただけではなく記憶を思い出す能力も向上している。以前に一度だけ英和辞書で調べた事のあるだけの、既に忘れていたはずの単語が思い出すことが出来るようになっていた。


「わかった。俺が今から口頭で訳していくから書き写せ」

「で、出来るのか?」

 今の俺なら問題ない。

「出来ないと思うか?」

「……頼む!」

 そう言うと前田は俺に手を合わせながら笑う。全く良い性格しているものだ。

「仕方ないな」

「……ん?」

 前田が不思議そうな顔をした事で気付いた。何んで俺はあっさりと教えてやろうとしてるんだ? 普段はもっと奴を弄ってから教えてやるのに……これも性格が良い人方向にレベルアップしてしまったせいなのか? 厄介だな気をつけないと。



「あの……高城?」

「何だ?」

 俺が英文を黙読しながらリアルタイムで訳した内容を読み上げていると、前田が言い辛そうにしながら話しかけてきた。

「ちょっとさ……幾らなんでも、訳がおかしくないか? 俺だって"I love you"くらいは分かるぞ。どうして『愛してる』的な言葉が出てこないんだ?」

 俺の素晴らしい訳に文句をつけるとは……ちっ気付いたか。


「いいか、昔の映画翻訳家はこう言った『"I love you"を愛してると訳す者はプロとは呼べない』と」

「いや、俺はプロになる気は無いし、中学校の授業レベルで良いんだけ──」

「まあ待て、その言葉を聞いて俺はこう思った『元の英語の台詞だってプロの脚本家が考えぬいた上で、気の利いた言い回しではなくあえて”I love you”と書いたはずなのに、この馬鹿は何を得意気に恥晒してるの』とな」

「……だったら何でお前は"I love you"を愛してると訳さないんだ?」

「決まってるだろ。鈴木(英語教師)にお前が自分で訳してない事を気付かせるためだよ」

 やはりこれくらい弄っておかないと俺らしくない。


「この…………と、ところでその映画翻訳家は"I love you"を何て訳したんだ?」

 前田は爆発しかけた怒りを飲み込むと、冷静に必要な情報を引き出そうとする。

「『死んじゃうから……』だ。しかも照れながら。自分で言ってて照れてたら世話無いよな」

 いい加減な質問ははぐらかし適切な質問には正しい答えを与える。これも俺の流儀だ。

「……あるよ『死んじゃうから』が……何かおかしいとは思ったんだ。前後と話が噛み合ってないってさ」

 前田は教科書に書き込んだ訳を確認して肩を落とす。

 確かに教科書の文章はそんなシチュエーションでの"I love you"ではないから前後と噛み合うはずが無かった。


「他は大丈夫なんだよな?」

「大丈夫も何も、俺は英語のテストで100点を取れてる訳じゃない。つい間違う事だってあるさ」

「……信じてるぞ」

「誰かを信じるというのは、相手の裏切りさえも受け入れるという自分自身の覚悟のことだ」

「それも何かの映画の台詞だろ」

「正解!」

「なあ、俺達って友達だよな」

「……多分、お前がそう思っている間は」

「人でなし」

「友達になんて事を言う……良いのか休み時間が終わるぞ」

「ちゃんと教えてくださいお願いします」

 前田はいつも通りに頭を下げた。


 昼休み、給食を食べ終えた俺は教室から廊下へ出る。

 これからは昼休みを自由に動ける……なんて素晴らしい事なんだろう。

 以前は食べ終わったら即昼寝をし、放課後の部活までに僅かでも体力と気力の回復を図っていたのだが、今は身体能力向上のおかげで疲れがたまっていない。


 トイレに寄ってから図書室に行くと、古い紙が乾いた独特の匂いが俺を迎えてくれた。前に図書室を利用したのは何時の事だろう……記憶に無い。正確には入学したての頃に一度覗いて見たことはあるのだが、空手部に入部した後はここを利用するような機会は一度も無かった。


 俺が一歩中に踏み入ると部屋の空気が変わる。混雑とは真逆と言って良いほど利用者数は少ないが、彼等の発する緊張感が日差しの差し込む暖かな空間を凍りつかせる。「何で空手部の高城が此処に?」という空気を無視して中に入ると本棚に取り付けられた本の分類を表すプレートを見ながら歩く。すると俺の進む先にいる生徒達は皆逃げる……正直傷つく。ゴジラか俺は?


 だが目当ての異世界で役に立ちそうな知識が書かれた本は見つからない。図書室は広いといっても普通の教室の二倍半で半端な残りの半分は司書室である。

 蔵書は分厚い名作全集の類が数セット。広辞苑などの辞書の類が同じものが十冊程度、現代用語の基礎知識の類も各年度版ごとに並んでいる。それらの撲殺にも用いられそうな本達が場所塞がりで蔵書数は一万冊に及ばない。


 俺の必要とするのは異世界で役に立つ知識。その内容に関係するタイトルの本もあったが、所詮中学生向けの本であり実用と呼べるレベルの内容ではなかった。

 ネットで調べるべきだろうか? そう考えないでもないが、今の俺にはネットより紙の本の方が圧倒的に利便性がはるかに上。本を手にしてシステムメニューを開き、収納して【所持アイテム】の中から本を選択してチェックすれば、収納した状態のままで内容を読むことが出来るので、本を手にして戻す作業以外に時間が掛からない。

 それに対してネットで検索する場合は、ページ送りする度にシステムメニューを解除してパソコンの操作を行う必要があるので、ちょっとした調べものならともかく様々な分野の知識を大量に手に入れる用途としては向いていなかった。


「図書館か……」

 バスで三十分ほどの場所に大きな市立図書館があるので、そこを利用すれば必要な知識をまとめて手に入れることが出来るのだが、俺には図書館に行く時間がない。

 土日も関係なく行われる部活が終了する頃には図書館は閉まっている……今まであまり疑問に感じていなかったが、良く考えるとひどい話だ。中学生が図書館にも行けない部活動なんて教育委員会は文科省は何をしてるの?


「それとも本屋だな」

 近所の小さな本屋では頼りにならない。

 郊外に出れば書籍数四十万冊以上が謳い文句の大型書店があり、夜の十時か十一時までやっているので部活が終わった後でも行けなくは無いがちょっと遠い。

 何せ田舎なのでバスと電車を乗り継がなければならない。乗り継ぎの時間も考えれば片道一時間以上は掛かるだろう。

 今晩にでも父さんに、近い内に晩飯の後にでも車で連れて行ってもらえるように頼んでみるか。

 車なら四十分ぐらいだし……いや結構かかるぞ。父さん渋るだろうな。


 取りあえず図書室では、異世界で夜営する事も考えて料理本とボーイスカウトの本を読んで記憶した。食事のレシピとは別にマヨネーズやバター・ジャムの作り方などあったが、醤油や味噌に鰹節などの製法は無かった。

 別に異世界でこちらの料理を食べられなくても、毎日行き来するのだから異世界では異世界の料理を楽しめば良いのだが、やはり異世界トリッパーの端くれとしては異世界を現実世界の食文化で侵食してやるのが義務だと思う。


 ボーイスカウトの本は、石などの自然物を使った彼等固有のサインなどは役に立たないし、火の起し方や飲み水の確保の方法は道具や魔術があるから必要ないかもしれないが、図解で説明しているロープワークは役立つ。緩まない縛り方とか異世界ではなく雑誌を縛って捨てる時にも役に立ちそうだ。




 昼休みの後の音楽の授業時間に俺は生まれて初めて楽譜というものを理解した。

 今まで俺にとって楽譜とは、メロディーを憶えた上でどの音を出すかを示すための記号の書かれた紙に過ぎず、書かれた音符に縦棒が付いていようが、その棒になで肩が付いていようが、なで肩が二重だろうが何であれ、潰れた丸がどの位置にあるかだけしか見ていなかった。


 だが今は楽曲を聴きながら楽譜を目で追うだけで、それまで気にも留めていなかった音符の示す音の長さなどが分かる。それが分かると楽譜には音程だけでなくメロディーもちゃんと表記されている事が理解する事が出来き、教本に載っている知らない曲も楽譜を読めばメロディーが分かる。音符以外の他の記号の意味は分からないのだが、それでも大体は分かるようになった。

 楽譜を読めるようになった。ただそれだけの事が大きな壁を乗り越えたような清々しさをもたらす。


 しかし音楽の授業にも問題ある。小学校の時もそうだったが音符の意味を最初の授業時間にさらっと教えただけで、後は課題の楽曲もCDで曲を聞かせてから練習するので楽譜からメロディーを読み取るという能力が必要にならない。だから能力が身につかない。


 これは音楽だけではなく他の教科にもいえる。国語や英語の教科書なんかも単に古い小説などの一部を抜き出して教材としているが、生徒の立場にしてみれば一部分だけ読まされても全く面白くない。面白くないから興味も持てない。学年ごとに生徒が憶えるべき単語や言い回しを含んだ面白い小説……英語の教科書なら短編小説を人気作家にでも書き下ろしてもらい、それを教材として1年間を通して授業を進めれば生徒の食いつきも違ってくるはずだ。

 数学にいたっては数学が何に役に立つのかが全く教えられないのが致命的だ。学ぶ目的も無くただの数字パズルをやらされているようなものだ。

 ある時、競馬を趣味としている父さんが各出走馬の過去の出走データーを高校で習う三次方程式などを使い計算しグラフ化し比較して予想をたてながら「俺の人生で数学が役に立ったのはこれくらいだ」と言っていた。

 一応国立大学の経済学部を卒業して地元に戻り公務員となり、市役所の税務課で働いている四十五歳の立派な社会人が、数学が趣味以外で役に立たなかったと言っているのである。

 当時中学一年生であった俺にとって、これから自分が数学と付き合う事になるだろう長い期間を思えば衝撃的であり切なくなる話だった。

 社会科は常識教養レベルの知識を蓄えるだけの授業だから必要といえば必要で、憶えて置くべき知識が教科書に書かれていればどうでも良い。理科は好きだから文句は無い。


 俺が、その存在意義自体を疑う授業が創作ダンスだ。

 こんなモノを義務教育の授業として行う意味が分からない。これが国民の学ぶ義務だというのか? やりたい奴だけが勝手にやれば良いモノだろ……そう思っていた頃が俺にもありました。

 元々、空手などの格闘技には相手の呼吸と自分の呼吸を読むためにリズム感が必要であり、俺もリズム感には自信がある。また身体を自分のイメージ通りに動かすという能力も当然備わっている。だが羞恥心が先立ちダンスに対して苦手というよりも嫌悪感があった。

 しかし、レベルアップにより向上してしまった【精神】関連のパラメーターだが、【心理的耐性】の下の階層にある【羞恥心】【緊張感】などが軒並み上昇していた。

 つまり足を引っ張る羞恥心がなくなってしまい、結果「ヤッベェ~楽しいわ」とテンションが上がりまくってしまう。

 そしてクラスメイトや教師が「あの高城が楽しそうにダンスを……怖い」と退いていたのを見て我に返るのだった。



 放課後の部活はまたもやランニング。

 今回も一年生は全員リタイヤ。一年生を負ぶる番だった俺は、トレーニング用の重石だと思い背中に担いで走っていたところ、突如背中から「ウェレレレレレェェェ~」という呪いの言葉と共におぞましき呪詛を喰らう事になった。


「……まあ仕方ないな」

 鼻孔を突き上げる臭いの中、色々と思うところはあるが一年生を責めても仕方がない。俺も二年前はこうだったんだ。

 練習についていこうと必死で限界まで走って倒れた。そう思うと可愛いもんじゃないか? 可愛い後輩のゲロの一つや二つ被ってやるのも先輩としての……「仕方ない事あるか馬鹿野郎っ!」叫びながら肩越しに腕を背中に回し一年生の襟を掴むと投げ落とす。


 馬鹿野郎とは俺のことである。何故ゲロを吐きかけられて怒らない。仏さんか俺は? 性格が……俺の性格がエライ事になってやがる。何が可愛い後輩だホモ臭い! そんなのは紫村にやらせておけ。

 博愛精神溢れる人格者とか俺はそういうタイプの生き物じゃないんだ。小さな幸せを一つ一つ必死に拾い集めてちっぽけで平和な人生をセコく送る。そんな小市民で良い、いやそんな自分が好きなんだよ。



 その日の晩飯の時間に、父さんに郊外の大型書店に連れて行ってくれるように頼むと、明日の金曜日になら大丈夫と約束してくれた……マルの夜の散歩を五回と引き換えに。

 俺としては部活でそれほど疲れなくなったためにマルの散歩を代わるくらいは体力的に問題なく、後何回かは連れて行って貰いたいので「これからはマルの夜の散歩は俺がやるよ」と言ってご機嫌をとる。


「まさか隆。お前、父さんのささやかな小遣いを狙っているのか?」

「貴方。お小遣いに何か不満でも?」

「いや史緒、そんなことはないよ」

「それじゃあ隆、たまにはお父さんにおねだりしてみたら?」

「おい!」

「大も何か欲しいものは無いの?」

「う~ん、新しい問題集と試験問題の赤本の最新版が欲しいな」

「おーい史緒さん。学費関連は家計からじゃ──」

「良かったわね。お父さんが買ってくれるわよ」

「だからそれは家計から」

「だったら俺も一緒に明日本屋に行くから父さんよろしく」

「家族が、家族が誰も、一家の大黒柱である私の話を聞いてくれない……」

 そんなアットホームな会話の後、力なく呟く父の情けない姿に、家庭を持つのは大変だな~俺って次男だし無理に結婚しなくて良いんじゃない? などと考えるのであった。

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