第11話

 目覚めるとやはり自分の部屋のベッドの中。

 ベッド脇のチェストの上では目覚まし時計が耳障りな電子音を鳴らしていた。

「疲労感は無いのに、寝た。という満足感が全く無い……」

 納得いかないものを感じつつ、俺は布団を避けて身体を起すとベッドを降りた。

「クゥ~ン」

 ドアの向こうからマルが鼻を鳴らしながら爪でドアを掻く音が聞こえる。

 ドアを開けた途端、開いた隙間からマルが滑り込んでくると尻尾を勢い良く振りながら、青い瞳で俺を見上げる。

「マル。今日からは朝練があるから散歩は父さんにしてもらってね」

 朝練が中止されていたため、ここのところ俺が散歩に連れて行くことが多かったので、散歩のおねだりに来たのだろうが残念ながらこれから暫くは無理なんだよ。

 そんな謝罪の意味も込めて、マルの頭を優しく撫でる。

「クゥン」

 俺が何を言ってるかなんて分からないマルは、撫でられてただ気持ち良さそうに目を細めた。


「母さん、おはよう」

 いつもの様に台所に立つ母に声を掛ける。

 まだ5時半前だというのに、母は起きて俺の弁当を作ってくれている。弁当は昼食のためのものではない。学校ではちゃんと給食があり、これは朝練の後に食べるためのものだ。

「おはよう。今日から朝練頑張ってね」

 そう言いながら差し出してくるジョッキに入ったグレープジュースを受け取ると立ったままで一気に飲み干す。そして手早く顔を洗い歯を磨くと、自分の部屋に戻り制服のブレザーに着替えると荷物を持って階段を降り、玄関で母から弁当を受け取り靴を履いてドアを開ける。

「クゥ~ン」

 マルが散歩に連れて行ってもらえないことを悲しむように尻尾を垂らして鳴く。

「それじゃあマルガリータちゃんは今日はお母さんとお散歩に行きましょう」

「ワン!」

 そういえばマルは母さんが貰ってきたのだった。なのに普段は毎朝父さんが散歩に連れて行っているのである。

 マルの首を抱きしめる母さんと抱きしめられて嬉しそうなマルに見送られながら俺は家を出たのは、目覚めてから十五分も経ってはいなかった。



 朝練前の軽い準備運動代わりに、ゆっくりとしたペースで走るが五分ほどで学校の校門にたどり着く。

 大会前とかでもないのに毎朝6時から朝練をやってるのは空手部だけなので、辺りの人影は空手部の部員だけだ。

「おはよう」

 中学三年生にしてすでに百八十センチメートルを優に超える長身の紫村に声を掛ける。

「ああ高城君、おはよう」

 軽く手を挙げて爽やかに挨拶を返してきた。

 この無駄にイケメンの男。紫村はクラスは違うが同じ空手部部員として二年間を過ごしてきた仲間だ。仲間だが俺からは最も遠い処にいる男であり危険な男だった。気軽に一緒に並んで歩いて良い相手ではなかった。


「よし、全員揃っているな!」

 空手着に着替えた俺は、既に全員揃っている一年生に声をかけると慌てて集まってくる。

「とりあえず、準備運動をしながら話を聞け」

 目の前に横一列に整列した一年生に、俺は床に座り柔軟を始めながら話す。

「昨日の練習でお前等も気付いたと思うが空手部とは……地獄だ。これはお前達が卒業するまで変わる事は無い。むしろこれから厳しくなる一方だろう。しかも退部することも出来ない。どうしても空手部を辞めたいなら親を説得して転校するのがお勧めだ」

 俺の言葉に一年生どもは息を飲む。

「言っておくが冗談でも何でもないぞ。なあ?」

 他の三年生や二年生が俺の言葉に無言で頷く……田辺(二年生)泣くんじゃない。一年が怯えるだろ!


「………………」

 一年生の顔が驚愕に歪む。まあそうだろう。こんな理不尽な事を告げられて驚かない中学生がいたら怖い。

 彼らはまだ心の何処かで、昨日の事は冗談か何かだと思っていた。いや思っていたかったのだろう……気持ちは痛いほど分かる。


「色々と諦めることだ。最初に、これからの三年間の中学生活を楽しもう何て考えは今この瞬間に諦めろ。お前達には普通の中学生が味わうだろう楽しい三年間。青春などと言う甘酸っぱいものは決してやってこない。希望を持ち続けていればとか諦めなければとかそんな言葉は忘れろ。それは単に努力する事を諦めなければもしかしたら目標に届くかもしれないという可能性に言及しただけだ。にもかかわらず必ず目標を達成するなんて事を言う奴がいたら、それはお前等を騙そうとする詐欺師だ。いいかもう一度言うぞ。お前達には普通の中学生としての生活は決してやってこない。朝は早くから練習。放課後もどの部よりも遅くまで練習。家に帰れば勉強だ。テストで成績が悪ければ本当の地獄を見るぞ。見てみろお前等の先輩がトラウマを抉り出された姿を」

 俺が指差す先では二年生の仲元が床の上で膝を抱えて項垂れると、涙で空手着の膝を濡らしながらドナドナを低く小さく歌い始めた。

「アレは辛い。日々心が壊れていく仲元の姿を見てるだけで辛かった。お前達にはそんな経験はして欲しくない。だから勉強だけは必死にやれ。頼むからあんなモノを二度と俺達に見せてくれるな」

「い、一体何が」

 おずおずと尋ねてくる一年生を「言わせるな!!」と鋭く一喝する。思い出すだけでも恐ろしい。


「いいから勉強して成績は必ず平均以上を必ずキープしろ。そうすれば何とかなる」

 そう断言すると「なんとかって……」と不安そうに呟き、救いを求める目を向けてくる一年生達に俺は決して目を合わせない。


「ともかく勉強すれば後は寝る以外の時間は無い。お前達には友達と過ごす楽しい休日なんてファンタジーは存在しないからな」

 そう俺にも小学生の頃には、そんな日々があった。今はもう思い出の中にしかない幻想だけど。

「じゃ、じゃ、じゃあ彼女とかは?」

「……カノジョ? カノジョとは何だ、香藤。お前は聞いた事があるか?」

「いえ、カノジョなる言葉など寡聞にして知りません」

 いかん。小芝居をする俺と香藤。そして紫村を除く二年生と三年生達が死んだ魚の目をして体育座りになりブツブツ言い始めているではないか。

 俺だって奴らと一緒に死んだ魚の目をしたいくらいだ。俺の発言は全部自分に返って来てるのだから。


「い、いえあの……仲良くなった女の子の──」

 分かりきってる事を抜かして先輩達のトラウマを掘り返そうとする馬鹿な一年生に怒りを覚え、その言葉を遮り「この学校にお前達と仲良くどころか普通に接してくれる女子さえ存在しない!」と斬り捨てる。

「えぇぇぇぇぇぇっ!」

 絶望の声が上がる……何故か二年生の方からも聞こえたような気がする。馬鹿め。まだ諦めていなかったのか?


「学校の女子どもは空手部というだけで決して近寄って来ないし声を掛けてもこない。はっきり言って我々は女子からはケダモノ扱いだ。例えお前達がジャニーズ顔であったとしても、来月の陸上記録会で大記録を打ちたてをようとも、球技大会で大活躍してクラスを優勝に導こうとも、テストで学年一番になっても女子は寄って来ない。絶対に寄って来ないんだよ! 俺なんて女子から避けられ過ぎて、もうクラスの女子と目を合わせるのも怖いくらいだ!」

 血を吐くような俺の叫びに、二、三年生が体育座りのまま手を挙げて「分かります!」「俺もだ」「女子が怖いです」と次々に答えると、ついに希望を失った一年生達が一斉にシクシクと泣き崩れた……だから俺だって泣きたい。


「いいかお前等。諦めろ。諦めが肝心だ。そして全てを諦めたどん底の中で見つけるだろう何か、その何かこそがお前達の心の支えとなり中学生生活の救いとなるはずだ。以上、時間だ整列!」

 泣きながら立ち上がった部員達が整列を終えると、時計の針はちょうど6時を指そうとしていた。ちなみに俺を含む部員達の多くが見つけたのは大島への復讐心だ。それしか俺達の絶望の淵には転がってなかった。


「よし、全員集まっているな」

「オッス!」

 俺達の一糸乱れぬ声に満足そうにニヤリと悪党面で微笑む大島。

「一年ども!」

「はい!」

「昨日はお前達の無様さに大いに笑わせてもらった。ご苦労!」

 酷過ぎる。こいつのどSは酷過ぎる。

「は、はい!」

「そこでお前達に頼みがある」

「……はい!」

「今日もこれから俺を笑わせてくれ」

「……はい?」

 大島の言葉に戸惑う一年生達……察しが悪い。

「泡吹いてぶっ倒れるまで走れと言ってるんだ!!」

 大島の怒号と共に竹刀が床を打つ。

「はぃぃぃぃっ!!」

 1年生達は転び蹴躓きながら格技場を飛び出していく。

「おいお前等」

 残った二、三年生に大島が声を掛ける。

「リタイヤした一年は昨日背負わなかった二年が背負え。残りはそのまま此処に戻り、普段通りに練習。高城。サボらせるなよ」

「はい!」

 大島の目を逃れてサボる? そんな恐ろしい事を考える奴は少なくとも二、三年生にはいねえよ。


 四十分後、昨日と同じ惨状が目の前に展開していた。昨日と同じく最後まで頑張った新居(あらい)という名の一年生が自分で吐いたゲロの上に突っ伏して倒れこんでいる。

 香藤を除く二年性達がそれぞれ一年生を背中に負ぶっていく。新入部員が先輩の背に身を任せることで強い上下の絆が生まれる。 それは良いのだが時折、強すぎる絆が生まれて困った事になる……紫村だ。

 一年生の時に当時三年生の先輩相手に目覚めてしまった紫村は、一年生を負ぶっている二年生を羨ましそうに見ている……本当に、本当に空手部は地獄だぜ。前後左右上下斜め何処を見ても地獄以外の景色を見せてくれない。泣いてないよ。俺は泣いてなんていないよ。一年の三学期に忘れ物を取りに戻ったら誰も居ないはずの部室の中から紫村が攻め立てて先輩を喘がせる生々しい声を聞いてしまった事を思い出して泣いてなんていないよ。心がちょっと汗を流しただけなんだ。


 背後から「しゅ、主将が泣いている」「馬鹿、少し情緒不安定になられているだけだ」「無理も無い……空手部の主将なんて人に耐えられる重責じゃない」「俺達の力が足りないばかりに……」という二年生の声がする。

 頼むから同情は止めてくれ。また辛くなってしまうから……


 先に戻った俺達は、まずは型の練習を始める。一挙一動の全てに気を配り、その動きに意味を見出しながらゆっくりとしたペースで始める。

 ゆっくりした動きの中でも、素早い動きの時と同じように筋肉の緊張状態を保つ、そうでなければ練習にならない。その為にむしろゆっくりとしたペースで繰り返す型の方が疲労がかなり大きく、僅かな間に汗が玉となって額に浮かぶ。

 次に次第にペースを上げていく、どの間接にどの筋肉にどのタイミングで力を込め力を抜くのか、その一つ一つの選択が技のキレを大きく変えていく。毎日毎日気の遠くなるほどの繰り返しで、頭と身体にそれを刻み込んでいく。

 俺はレベルアップで身体能力が向上したことで、この繊細な感覚を一から再構築する事になるものと思っていたが心配は杞憂で終わった。

 見た目こそ筋肉量は全く変わっていないが筋力は以前の数倍に上昇しているにもかかわらず、空手部の練習だけでなく日常生活の動作で差し支えを感じることはほとんど無かった。

 力を出すという感覚は基本的に以前と同じで、漫画のようにサイボーグ化でパワーアップした主人公が指先だけで卵を割らずに持ち上げようとする。そんな訓練は必要が無くてありがたかった。

 違うのは以前は限界以上に力を振り絞ろうとしても出なかった力が出るようになったということ。テレビの音量のボリュウムが最大五十までだったのが百とか二百まで出るようになってもボリュウムの目盛りを十に合わせたなら、以前通りの十の音量しか出ないといった感じだ。

 しかし、やはり以前の限界と感じる辺りでの加減が分かりづらい。そもそも限界まで全ての力を振り絞ろうとする時には加減なんて存在しない。またテレビの音量の例えになるがボリュウムが最大になってもボタンを連打し続けている状態と同じであるため、元から全力を出すという感覚は曖昧だったのだ。その為に以前の最大の力を出そうとすると瞬間的に二、三割くらい余計に力が出てしまう感覚だった。



「腕を上げたな」

 型の後、一緒に組手をやっていた三年生の田村が汗を拭いながら褒めてきた。

「そうか?」

 お前がそう感じているのは腕が上がった分ではなく、俺が手加減にしくじった分だとは思っても言わない。

「ああ、一つ一つの技のキレも速さも上がっている。この二週間どこかで修行してきたんだろ」

 とぼける俺に田村は「俺にも教えろよ」と脇を肘で突いてくる。こいつも「強くなるか死ぬだけ」と言われる空手部部員だけあって強くなる事に人一倍貪欲だ。

 しかし異世界でレベルアップしましたなんて教えられ訳もなく「色々とな」と誤魔化す。


「戻ったぞ!」

 流石に一年生を負ぶって息を切らせている二年生を引き連れて魔王が帰還した。こいつは当然のように息が上がるどころか汗すらかいてない。


「オッス!」

 俺達は組手を止めて大島に礼をする。

「お前達は手は休めるな、そのまま続けろ。二年は一年をその辺に転がして型を始めろ」

 大島の言葉に、一年生達は転がすというよりも床の上に投げ出されて痛みに呻くが二年生は目もくれず、無駄にした時間を取り戻そうと自分の練習に没頭する。


 相手を変えて香藤と組手をする。香藤も二年生の中では頭一つ飛びぬけた存在ではあるが、三年生とでは明らかに実力に差がある。

 勿論、香藤には才能がある。もしからしたら三年生の誰よりも才能があるのかもしれない。

 しかし才能は経験に及ばない。少なくともこの空手部の中では……


 二年生と三年生の経験の差は僅か一年だが、空手部での経験の濃度は途轍もなく濃い。コッテコテだ。その経験を覆すには天から惜しみなく与えられる溢れんばかりの才が必要だろう。

 香藤の放つ胸への右の突きを受けずに左へと流す。それと同時に香藤の右前蹴りが跳ね上がるが、一瞬早く踏み込んで右掌で膝を抑えて勢いのつく前の初動を殺す。

 香藤は右手が塞がり無防備に晒された俺の顔に左の拳を繰り出そうと左足を下ろそうとするが、まだ掴んでいる奴の左膝を右手で右方向へ動かす事でその動きを封じ込めた。

 香藤はバランスを崩しながら堪らず後ろへと下がるが、同時に俺も前へと踏み込んで香藤に距離を取らせず、そのまま腹へと体重の乗った左突きを放ち、空手着に当たった位で止めた。

「ありがとうございました」

 香藤が頭を下げたところで、大島の「よし時間だ。練習はここまで」という声が掛かった。


 朝練が終了したのはいつも通りの七時五十分。

 俺たちは走って部室に戻ると空手着を備え付けの物干しに掛ける。そしてタオルを手にパンツ一枚で部室を出て、部室横に角材とブルーシートで作られたシャワールームと呼ぶにはおこがましい場所でホースで頭から水を被り汗を流す。

 四月中旬の朝の空気と水はまだ冷たいが冬の寒さに比べたら天国だ。俺たち三年生に続き二年生、そして今は一年生が入っているが中からは水の冷たさに悲鳴が上がる……気持ちは分かる。慣れなければ辛いよな。

 一年生達の悲鳴を聞きながら俺たちはそれぞれの弁当を食べる。今日の俺は普通に食べているが日直の奴などは必死に飯を掻き込んでいる。そして多分一年生には飯を食う余裕は無いだろう。時間的な問題では無く体力的な問題で。

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