第4話

 目覚めるとベッドの中だった。見上げる天井はとてもよく見慣れた自分の部屋の天井だった。

「………………夢?」

 そりゃあそうだ。異世界トリップなんてあるはずが無い。ただの夢に決まっている。夢の中で必死になっていた自分が可笑しくて、堪えきれず口を突いて笑い声が溢れ出す。

 一頻り笑った後、時計を確認するとまだ5時半前。今日までは空手部の朝練が無いからもう少しゆっくり寝ていたかったのだが、目覚めてしまったものは仕方ない。

 中学に入って以来、ほぼ毎日朝練なために早起きが身に付き、二度寝するという習慣が無いため、諦めてベッドを降りると自分の部屋を出た。


「母さん、おはよう」

 階段を下りて廊下とリビングをつなぐドアを開け、台所に立つ母、史緒(ふみお)に声を掛ける。

「おはよう。今日も早いわね、朝練は明日からよね?」

 母さんは流し台で米を研いでいた手を止めて、こちらを振り返り挨拶を返してくれた。

「うん朝練は明日からだけど、夢見が悪くていつもより早く目が覚めたんだよ」

 そう答えながらソファーのひじ掛けの上に置かれた新聞を手にする。

「あら、どんな夢を見たの?」

「……知らない場所で苦労する夢だよ」

「それは……大変そうね」

「うん、大変だったよ」

 俺が答えにと母はクスクスと笑いながら「でも、ご飯はまだ出来てないけど、簡単なので済ませても良いなら少し待ってば……」と言いかけたのを「これからマルと散歩ついでにランニングしてくるから、ご飯は皆と一緒でいいよ」と遮った。


 手にした新聞の一面をざっと目を通してから居間を出て部屋に戻りトレーニングウェアに着替えた。

 そして居間と廊下をつなぐドアから「マル。散歩行くよ」と声を掛けると、奥からマルことマルガリータ(母命名 シベリアンハスキー 生後八ヶ月 ♀)が嬉しそうに尻尾をブンブンと駆け寄ってくる。ここ暫くは朝練が無いために時間がある俺が散歩に連れて行っているので、散歩に連れて行ってもらえると分かっているのだ。


 マルガリータ。お嬢さんと呼ぶには、シベリアンハスキーのドスの利いた顔で身体も既に成犬並に大きくがっしりとしているが、その仕草にはまだ仔犬の頃の面影があり愛嬌たっぷりで可愛らしい。

 期待感一杯といった感情を体中で表現するマルの頭を一撫でしてから、玄関で吊り棚からリードと糞始末の道具などのお散歩セットの入ったポウチを取り出す。そこへ自分から進んで「リード付けて」と言わんばかりに、頭を持ち上げ首元を見せながら擦り寄ってくるマルの首輪にリードを取り付けて、ポウチを肩から掛けると準備は整う。

「行ってらっしゃい。車に気をつけるのよ」と送り出す母の声を背に受けて「行ってきます」とだけ返事をすると家を出た。


「何だかやけにくっきりと見えるな」

 川の堤防の上の散歩道をマルと一緒に走っていると、遠く前方に見えるいつもの山々が妙にはっきりと、そう山の頂上にある鉄塔の鉄筋までもはっきりと見え、随分と今日は空気が澄んでるんだと思った。

 空気が澄んでるおかげか身体もいつもより調子が良く感じる。ランニングのペースをあげても息が切れる様子も無い。

 俺がペースを上げたことに軽い興奮状態になったマルがはしゃぎだし、俺よりも前に出ようと速度を上げるがリードを持つ者として、躾けの為にもそれを許すわけには行かない。

「うりゃぁぁぁぁぁっ」

 俺が更に速度を上げてリードを広げると、マルも「ワンワン!」と吼えながら速度を上げてくらいついてくる。


 二十分後。

 流石に息が切れて一休み。

 マルにはお散歩セットから取り出した、水飲み用の皿にペットボトルから水を注ぎ、自分には自動販売機でスポーツドリンクを買って一気に飲み干す。

 ペットボトルをゴミ箱に捨てて、戻って来てもマルはまだ、時折ハァハァと息を継ぎながら水を飲んでいた。

 犬のマルの息がまだ乱れているのに、自分の呼吸は既に整っていることに疑問を感じながらマルが水を飲む様子を眺めていると、俺の視線に気付いたマルが水を飲むのを止めて俺を見上げてくる。

 やはりシベリアンハスキーはアレだ。顔にも及ぶ毛皮の模様が陰影の様で顔の彫りを深く感じさせる上に青い瞳のせいでバタ臭くパンチの効いた外人顔に見える。

「お前って狼の血が入ってるんだよな」

「わう?」

 だが昨夜の夢の中の狼たちとは違って、俺の言葉に首を傾げる様子は愛嬌がある。もしかして夢の中の狼はマルをイメージで作り出したものかと思ったが、どうやら俺の気のし過ぎのようだ。はっきり言って家の子は多少ごっつい顔をしてても可愛い。


 帰りはペースを落としてゆっくりと帰る事にして、マルに「さあ帰るぞ」と声を掛けるが、普段の散歩ではこんな遠くまで来たこと無いマルは一瞬辺りを見渡し、困ったような顔で俺を見つめてきた……こいつ、家の方向が分からないのか?

 友人がペットのマルチーズと散歩に行った時、時間があったので犬の好きなように走り回らせたら、普段行ったこと無いところまで走った挙句に、突然道の辻で辺りの匂いを嗅ぎながら何度もグルグルと回った挙句に、「助けて」というような表情で友人を見上げた事があったそうなので、前もか? 小型犬並か? つうか一本道だろ迷うなよ! と思ったが、後で知った事だがシベリアンハスキーは帰巣本能が弱いらしい。犬なのに。。


「こっちだ行くぞ」

 俺がリードを引っ張るとマルは着いて来る。だがその様子は不安そうで尻尾が力なく垂れ、「何処に連れて行くの」と言わんばかりにおどおどとした視線を時折こちらに向けてくる。

 二十分ほどジョギングよりは早い程度の速度で来た道を戻ってくると、いつもの散歩──ロングバージョン──の折り返し地点に出た。その途端、マルは見慣れた場所に元気を取り戻す。

「現金な奴だな」

 嬉しそうに俺の膝の辺りに額を擦り付けてくるマルを、改めて「馬鹿だけど可愛い奴」と思った。



 家に帰りつくと玄関でマルの足元を濡れた雑巾で拭うとリードを外してやる。

 すると、母が台所に用意してあるだろう餌を目指して一目散に走り出した。

 俺は回収してきたマルの糞をトイレに流して始末すると居間に入る。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「おかえり隆(たかし)。マルの散歩ご苦労さん」

 料理をしていた母は振り返り、ソファーで新聞を読んでいた父、英(はなぶさ)は自分の代わりにマルを散歩に連れて行った俺への労いの言葉を、背中を向けたまま口にした。

「ご飯はもう少し掛かるからシャワーを浴びなさい」

「そうする」

 母の言葉に頷くと、台所の隅で凄い勢いで餌を食べるマルの後ろを通って風呂場に向かった。


 シャワーを浴び終えて出てくると、ダイニングテーブルには俺以外の家族「全員」が席に着いていた。

「おはよう兄貴」

 まだ眠たそうな顔をしてい三歳上で高校三年生の兄、大(まさる)に挨拶をする。

「ああ、おはよう……」

 受験勉強で大変なのかやはり返事も眠たそうだった。

 俺が席に着いて四人全員揃うと、父の「いただきます」の声と共に食事が始まる。朝から家族全員が揃って食事とは今時珍しい家族だと自分でも思う。


 我が家の食卓は朝からしっかりとした和食で、玉子焼きに塩鮭の切り身の焼きと、蕪の一夜漬けに胡瓜とニンジンとたけのこの細切りの酢の物。そしてご飯と、わかめと豆腐の味噌汁。更に俺と兄貴には茹でたソーセージとマスタードが追加されている。

「大。勉強は進んでいるか?」

「志望校は大丈夫だと思うよ」

 俺も成績は悪くないが、兄貴は県でもトップクラスの進学校に通っていて志望校とは東京の国立大学だった。

「そうか……隆。空手の方はどうだ?」

 父の言葉に、俺と兄貴の箸の動きが同時に止まる。

「そ、そうだね部活の引退までには、顧問の先生に一発入れるくらいにはなりたいな……なれるといいな……」

 そう答える俺の横で、兄は顔を伏せ「すまん。すまん隆……」と肩を震わせながら呟くのが聞こえる。


 俺が所属する空手部は、学校では別名「地獄部」と呼ばれ恐れられていて、一度入部すると強くなるか死ぬしかないとまで言われている。

 おかげで空手部部員というだけで全校の女子の九十九パーセント怯えられる始末だ。

 うちの学校の在校生および卒業生は自分の弟や妹や知り合いが入学する際には「空手部だけには入ってはいけない」と申し送りするのが不文律となっているのだが、同じ中学の卒業生である兄は、元々俺が「中学に入ったらバスケ部に入る」と表明していたため、そのことを俺に伝えていなかった。


 学校では生徒は全員部活動に参加するのが規則で、俺はバスケ部を見学に体育館へ行ったのだが、その時ステージの上で練習している空手部の先輩達を目にしてしまった。空手部が強いという噂は小学生の頃から聞いていたが、その素人目にも一目で分かる実力に、俺の中の強くなりたいという秘めた想いに火が着き、今にして思えば何を血迷ったのかと言いたくなるような、その日の内に空手部への入部希望を出すという暴挙をなした。


 その日の晩御飯の時間に「母さん。空手部に入ったから、空手着とか買うのにお金ちょうだい」と言った途端。兄貴の手から茶碗が滑り落ちてテーブルの上でひっくり返りご飯を撒き散らした。

「た、隆、お前……バスケ部に入るんじゃなかったのか?」

 目を見開き、憮然とした表情で搾り出すようにそう口にした。

「えっ……うん、そう思ってたんだけど、空手部ってレベル高そうでしょ。おもしろそうだから……」

 兄貴のただならぬ様子に緊張感を覚えつつ答えると、兄貴はいきなり土下座した。

 目の前で土下座されるという初体験に呆然とする俺に「ごめん。ごめんな隆。俺が、俺が勝手にお前がバスケ部にはいると思い込んで、お前に大事な事を伝えなかったせいで、ごめんなぁぁぁぁ」と泣きながら床に何度も頭を叩きつける。

「な、な、何これ? 俺何か大変な事しちゃったの……もしかして命に関わる?」

 俺の言葉に、兄貴は背中をビクリと震わせると、顔を上げて俺をじっと見つめて、一拍置き「関わる」一言で答えると再び床に頭を叩きつけた。


 ちなみに兄貴は『仲の良くない弟を地獄部に売ったぐう畜(ぐうの音も出ないほど鬼畜)』と同窓生や先輩達にレッテルを張られた。高校でも彼等から陰口を叩かれ、3年生になった現在も散々な学校生活を送っているそうだ。

 そんな空手部で俺は、地獄の獄卒たる空手部顧問を何時かボッコボッコにして恨みを晴らすという希望だけを胸に、毎日地獄で自らの牙を研ぎ澄ましている。


 いつもの通りに家を出て、いつもの通りに学校に向かう。いつも通りに教室でクラスの連中に挨拶をして、昨日のテレビの話をしたり宿題の話なんてして、いつも通りの生活が始まるはずだった。

 一時間目の英語の授業を受けていて、あることに気付く。

 不思議と授業内容が頭に入ってくる……いや、不思議というよりは明らかにおかしい。

 アメリカ育ちでネイティブな発音が自慢の帰国子女の英語教師(三十二歳 男)のネイティブすぎて聞き取れない発音が、一つ一つきちんと英単語として聞き取れるし、その単語の意味もすっと記憶の引き出しの中から取り出すことが出来た。


 その後の数学の授業でも、やはりおかしかった。

 担任でもある北條先生(二十五歳 女 美人←大事)が黒板に書く因数分解の式が、書き終わらないうちに一瞬で解けていく。

 しかも、普通に組み合わせから導き出される答えと、同時に今まで何百問と解かされてきた答えの記憶の中から、今の問題と同じ問題の答えを思い出すことが出来るのだ。

 頭がキレ過ぎている。俺の頭がこんなに良いはずが無い。そう考えると散歩の時の体調も良すぎた。まるで自分の身体とは思えないほどの体力だった。

 そしてその原因に思い当たる節が無い訳でもない。勿論、そんなはずはないという思いがある。あってはいけないという思いがある。だけどそれしか思い当たらない。

 俺は心の中で一言呟いた『システムメニュー』と……


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 昨夜の夢の中で見飽きるほど目にしたシステムメニューが目の前に現れた瞬間、断末摩の如き悲鳴を上げた。

 当たり前だと思って生きてきた日常が、今その根底から覆されてしまったという事実が受け入れがたい。

 夢だけど夢じゃないとか言いながら傘を頭の上にかざして踊りだしたくなった。


 ちなみに俺の叫びは現実の時間が停止したシステムメニュー内のことだったので、授業中に突然叫び声を上げたりする問題生徒と内申書に書かれることは無かった。

 何よりもこの学校の中で唯一空手部部員である俺達を恐れずに普通に接してくれる女性である北條先生に、おかしな奴と思われるのだけは絶対に避けたかった。

 彼女のためなら、俺達空手部部員は顧問の大島と戦って果てる事すら厭わないだろう……そういえば一人例外がいたな。

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