第11話「——殺されるくらいならば、殺してやる」と、確かに彼女はそう言った
これは昔、仕事上読まなければいけない資料から知った事実であるのだが、心理学の概念のひとつに、「ジョハリの窓」というものがある。
ジョセフ・ルフト、そしてハリ・インガム
自己(その人の行動・心理の側面)は四つに
その自己が「自分に分かっている/分かっていない」か、「他人に分かっている/分かっていない」の項目を組み合わせるのだ。
そしてこの四つの区分けには「公開された自己」や「盲点の自己」などそれぞれ名前が付けられる。ジョハリの窓とは本来、心理学において自己開示度という
「未知の窓」:自分に分かっていない。他人に分かっていない。
つまり、誰からもまだ知られていない自己。Unknown self.
誰であろうと、たとえ仲の良い友人であっても、家族であっても、そして自分であっても知らない自己。本人も他者も分かっていない自己。それが「未知の窓」。
だって、そうだろう。彼女が扉を開けてからまだ数秒も経ってないというのに、俺の心の体感時間ではもう一分に及ぶんじゃないかってくらい、長い時間が流れているように感じるのだから。だって、言うだろう。人は死の直前。周りの景色が死ぬほど遅くに見え、その一方で恐ろしい速度で思考することができると。
次の瞬間に脳裏に強く焼きついたのは、自分の明確な死の
「——おおっと、危ないじゃあないかッ!」
姿の見えぬ
「——っ。……ナイス黒川。死んだと思ったぜ」
つう、と首筋に冷や汗が流れるのを感じた。黒川の方を見ると、彼お得意の余裕ぶったニヒルな表情も、少しばかり崩れている。
「いやあ、白崎くん。これで貸しは二つというわけだ」
蹴られた大井青子の方は立ち上がりながら、静かに。何かを呟いている。明らかに平生の様子とは違う。顔は青ざめていた。圧のあまり血が
「未知の窓、未知の窓か。なるほどな」
感心と
突然、目の前の女は呪文のような言葉を
「あいたっぁ!」
投げられたパソコンは俺の頬をかすめ、後ろに居た黒川の顔に直撃したのだ。間抜けな声とともに黒川は後ろへ倒れ込む。
「黒川!」
俺は不意に後ろを振り向いてしまう。それが間違いであると気づくのは、それから一秒も掛からなかった。
そのセリフを聞いて、自分の体が熱を帯びたかと思うと、次の一瞬には血の気が引いて氷のように冷めて。
「やば——ッ」
気づいた時には目の前に彼女が居て、その手には語学辞典が握られていた。それを俺の頭めがけて
ならば、と俺は自分の肩に
一つ気合いを入れ、大井青子を地面に叩きつける。「へげっ」とカエルが
「痛ぅ……——」
緊張の糸がほどけて気が緩ゆみ、俺は深く息を吐いた。
辞典で叩かれたせいでピリピリと肩が痛いし、頭も軽くクラクラする。辺りを
錯乱した彼女が発した言葉が、俺の頭の中に響く。
「——殺されるくらいならば、殺してやる」
あの時。彼女は確かにそう言った。間違いなく、この耳で聞いた。
彼女は誰かに殺されそうになったのだ。しかし、彼女とは「大井青子」ではない、彼女とは別の、つまりは「未知の窓」に居た、「もう一人の彼女」のことだ。さすがに、俺もここまでヒントを出されて気がつかないほど鈍感ではない。
大井青子は多重人格者だ。
この事件、いや依頼は、自分の想像以上に複雑を極めるらしい。
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