第11話「——殺されるくらいならば、殺してやる」と、確かに彼女はそう言った

 これは昔、仕事上読まなければいけない資料から知った事実であるのだが、心理学の概念のひとつに、「ジョハリの窓」というものがある。


 ジョセフ・ルフト、そしてハリ・インガムいわく。

 自己(その人の行動・心理の側面)は四つに区分くわけすることができる。


 その自己が「自分に分かっている/分かっていない」か、「他人に分かっている/分かっていない」の項目を組み合わせるのだ。

 そしてこの四つの区分けには「公開された自己」や「盲点の自己」などそれぞれ名前が付けられる。ジョハリの窓とは本来、心理学において自己開示度という概念がいねんをわかりやすく人に説明するために作られたパラグラフに過ぎない。にも関わらず、俺が走馬灯そうまとうではなく「ジョハリの窓」思い出した理由は、四つの自己の一つが、目の前に立つ「彼女」の様子を表すのにピッタリだったからだ。



「未知の窓」:自分に分かっていない。他人に分かっていない。

 つまり、誰からもまだ知られていない自己。Unknown self.



 誰であろうと、たとえ仲の良い友人であっても、家族であっても、そして自分であっても知らない自己。本人も他者も分かっていない自己。それが「未知の窓」。


 とびらの先に居たのは大井青子であった。俺と黒川が開いたのは大井青子の部屋の扉だから、一見すればそこに奇妙な点は何一つない。しかし、彼女が手に持っていたのは、一丁の包丁であった。しかし、これからそれが魚をさばいたり、野菜を切ったりするのに使われたりするわけではないのは、明確だった。


 だって、そうだろう。彼女が扉を開けてからまだ数秒も経ってないというのに、俺の心の体感時間ではもう一分に及ぶんじゃないかってくらい、長い時間が流れているように感じるのだから。だって、言うだろう。人は死の直前。周りの景色が死ぬほど遅くに見え、その一方で恐ろしい速度で思考することができると。


 次の瞬間に脳裏に強く焼きついたのは、自分の明確な死の映像イメージ。刹那の既視感きしかん。過去の自分の記憶は、その映像を強く際立たせた。足元から、むしが這いのぼるような恐怖が……——。



「——おおっと、危ないじゃあないかッ!」


 姿の見えぬむしが自分の体を覆ってしまうかと思った時、俺の後ろに立っていた黒川が俺の肩を引いて、大井青子をばした。彼女の持つ包丁は空を切る。


「——っ。……ナイス黒川。死んだと思ったぜ」


 つう、と首筋に冷や汗が流れるのを感じた。黒川の方を見ると、彼お得意の余裕ぶったニヒルな表情も、少しばかり崩れている。


「いやあ、白崎くん。これで貸しは二つというわけだ」


 蹴られた大井青子の方は立ち上がりながら、静かに。何かを呟いている。明らかに平生の様子とは違う。顔は青ざめていた。圧のあまり血があふれるのではないか、というくらい包丁を強く握り、その目は赤く血走ちばしっている。まるで、彼女と同じ姿をした別人が目の前にいるような。


か。なるほどな」


 感心と戸惑とまどいが一斉に襲いかかる。ただし、俺を戸惑わせたのは、姿が同じであれとも、自分の知っている大井青子とは別人のような行動を起こした目の前の女ではない。彼女の部屋の様子だ。俺が最後に見た彼女の部屋は、こまめにきちんと整頓せいとんされていた。端正たんせいな部屋だった。しかし、今となっては見る影もない。彼女の部屋は荒されている。ちょうど、今日の昼、彼女のアパートで見た光景のように。


 突然、目の前の女は呪文のような言葉を疳高かんだかく響く声で発したと思えば、彼女の手元にあったノートパソコンを、円盤投げの選手のように投擲とうてきしてきた。その速度は女の力から出るとは思えないほど恐ろしく早い。俺は反射的に上体をひねって回避するのが精一杯だった。


「あいたっぁ!」


 投げられたパソコンは俺の頬をかすめ、後ろに居た黒川の顔に直撃したのだ。間抜けな声とともに黒川は後ろへ倒れ込む。


「黒川!」


 俺は不意に後ろを振り向いてしまう。それが間違いであると気づくのは、それから一秒も掛からなかった。錯乱さくらん状態の大井青子は何か言葉を発しながらこちらへと近づいた。その時、確かに俺は彼女のセリフを聞き取ることができた。

 そのセリフを聞いて、自分の体が熱を帯びたかと思うと、次の一瞬には血の気が引いて氷のように冷めて。


「やば——ッ」


 気づいた時には目の前に彼女が居て、その手には語学辞典が握られていた。それを俺の頭めがけて横殴よこなぐりしようとしている。俺は一瞬、ほんの一瞬黒川に気を取られてしまったせいで反応が遅れてしまったのだ。もう、かわすことは出来ない。



 ならば、と俺は自分の肩にあごを付け、衝撃に耐えようと試みる。その直ぐ後に辞典が自分の肩に叩きつけられ、重い痛みが自分に襲いかかる。一瞬、フッと意識が自分の体から離れてしまったかのように錯覚さっかくする。しかし、幸いにもその衝撃は意識を失うほどではない。


 朦朧もうろうとしながらも、俺は彼女の両手を掴み、重心を後ろへと崩すくずす。すると彼女は押し倒されないように反発する。そこで、彼女の軸足じくあし足払あしばらいすれば、彼女を柔道の大外刈おおぞとがりの要領で投げ飛ばすのなんて簡単だった。


 一つ気合いを入れ、大井青子を地面に叩きつける。「へげっ」とカエルがつぶれるような声を出し、そして、そのまま気を失って伸びたようで、そこから立ち上がることはなかった。


「痛ぅ……——」


 緊張の糸がほどけて気が緩ゆみ、俺は深く息を吐いた。

 辞典で叩かれたせいでピリピリと肩が痛いし、頭も軽くクラクラする。辺りを見渡みわたせばひどく散らかりを見せる部屋と倒れた大井と黒川。問題は解決した。しかし、これからどうすればいいのか、俺にはてんで見当も付かず、なんだか泣きたくなった。外れかけていた戸棚とだなの扉がガタン、と音を立てて地面に落ちた。


 錯乱した彼女が発した言葉が、俺の頭の中に響く。

「——殺されるくらいならば、殺してやる」

 あの時。彼女は確かにそう言った。間違いなく、この耳で聞いた。


 彼女は誰かに殺されそうになったのだ。しかし、彼女とは「大井青子」ではない、彼女とは別の、つまりは「未知の窓」に居た、「もう一人の彼女」のことだ。さすがに、俺もここまでヒントを出されて気がつかないほど鈍感ではない。


 大井青子は多重人格者だ。

 この事件、いや依頼は、自分の想像以上に複雑を極めるらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る