第9話「いや、まさか。その推理はおかしい」

 夜の十一時。

 場所は黒川探偵事務所(仮)。大井青子は事務所の空き部屋にいる。夜もけにけてしまっているため、さすがに彼女は眠っているだろう。彼女の部屋から離れたこの応接間では、多少大きな声で話をしていても、話の内容が彼女に聞こえることはない。


 黒川は車の中で自分の推理を披露することはなかった。事務所に戻ってもしなかった。大井青子がビルの裏口からひっそりと、この事務所に来た時も、彼が口を開くことはなかった。どうも彼は、自分の推理は、当の大井青子本人に聞かれたくない様子だった。彼女に関わる事件にも関わらず。


「……なあ、何時になったらお前の推理とやらを披露してくれるんだ? 

 もう日付も変わっちまうぞ」


 俺は黒川に話しかけると、彼は読んでいた本から目を離し、壁に掛けられた時計に目を向ける。秒針がぐるぐると時計を回る音が、部屋の中に響く。


「ああ、確かに。そうかもしれない」


 彼がそう言うと、ソファからのそり立ち上がり、納戸からホワイトボードを運びながら、再び戻ってきた。黒川は自分の名前と同じ色のペンを手に取ると、せっせと文字を書き始め、それと同時に話しだした。


「それでは、僕の推理を披露しよう。しかし、この事件はまるでからまってしまったイヤフォンのようなものだ。一見、その絡まりは複雑だ、深刻なほどにね。だが、絡まりの原因を、つまり結び目一つ一つ誤解を解いてやれば、案外簡単に解けてしまう」

「誤解?」

「ああ、だから、一つ一つ状況を確認しよう。

 この二つは、彼女の依頼の大まかな要点をまとめたものだ」


 ・ストーカーにつけ狙われている

 ・部屋が荒らされている(被害なし)


 俺はホワイトボートに書かれた二つの文字列を再確認する。「ここまでは大丈夫かい?」と黒川がたずねるので、俺は「馬鹿にするなよ」と返答した。それは推理が難解な段階に言うセリフで、こんな前提確認で使うものではないだろう。


「まあ、そんな前提確認をもう少しだけ続けようじゃあないか。

 次は登場人物だ。だがこれも多くない、いたって単純さ。刑事ドラマのように、何人ものの写真と相関図そうかんずを用意する必要はない」


 ・大井青子(依頼人)

 ・ストーカー

 ・昨夜現れた謎の男


 要点をまとめたところの下に、そのように黒川は書き加えた。「ストーカー」と「謎の男」は線で結ばれていて、「同一人物?」と二人の関係性書かれている。


「この二人は、同一人物なのか?」

「今日の事情聴取で知ったことなんだけれど。どうも警察はそう見ているらしい。なんでだろうね。まあ、今の僕らには関係ないことさ」


 彼の投げやりな言葉に俺は違和感を覚えた。犯人が何者であっても、関係ないとはどういうことだろう。しかし、俺がその疑問を口に出す前に彼がしゃべり始めてしまったため、その機会は永久に失われてしまった。


「重要なのは昨夜から今日未明にかけて起きた出来事だ」

「……それって、大井青子の部屋が再び荒らされていたことか?」

「そうそれ」


 

 ・大井青子の部屋が荒らされていた?!!!!!



 黒川はバカっぽく、そして鼻で笑いたくなるくらい大げさにエクスクラメーションマークを並べる。「小学生かよ」と言いたくなったが、無意識のまま、思ったと同時に口に出ることはなかった。


「僕がこの事実についてピタリと当てたことで、君はたぶん、白崎は驚きのあまり腰を抜かし、僕におそおののいただろうね。

 そして君は僕を再評価し、再定義しただろう。『この男はまさか口だけではない、本物の探偵なのではないか?』って、そんな具合にね」

「誇張が激しすぎる……」


 確かに驚いたが、おそおののいたり腰を抜かしたりはさすがにしなかった。

 感じたのは幾許いくばくかの不可解ふかかいだけである。偶然出会ってしまった黒川を刺してしまうほどの衝動的な殺意と、盗難も接触もない。影すら残さない緻密な、部屋荒らしという名の犯行。前者からは本能や衝動を感じる一方、後者からはしたたかな知性と理性を感じる。犯人像が全くつかめない。


「……とりあえず、俺のお前に対する評価なんてのはどうでもいい。問題はストーカーだ。あの黒服の男だ。どうやってアパートにある彼女の部屋へ侵入したのか、そして部屋を荒らす目的は何か。ということだろ」

「残念、違うね。僕たちはまだその段階にいない。今、明らかにできるのは『大井青子の部屋を荒らす人物が何者か』という、たったこの一点にすぎない」

「は?」


 推理披露のショーの開幕早々という意外なところで俺の発言は否定される。そのせいで俺は不意に間抜けな声を出してしまった。「部屋荒らしの犯人?」と俺は黒川の言葉を反芻はんすうする。まず、その言葉の意味から、よく理解することができない。


「白崎くんの良いところは頭が良い、特に筋道立てて思考することにかけては一級品だけれど、悪いところはそれがかえって柔軟な思考をさまたげていることだね」

「聞き覚えがあって耳が痛いな」


 余計な御世話だ、と内心思いながら、俺は吐き捨てるように笑おうとした。しかし、確かに昔誰かから言われたことを思い出して、その笑いは嘲笑ちょうしょうから苦笑くしょうとなって外に出る。


「それで、さっきの言葉の意味を聞こうか」

「簡単なことさ。僕達は前提を間違えているんだ。この勘違いが絡まりの一つであり、これさえ解いてしまえば事件の半分は解決したようなものだったのさ」

勿体振もったいぶるなよ」


 俺は半分呆れ、半分イライラした状態で黒川を急かす。通販番組を取り仕切る販売員のようなばしに、もしくは小説の中の探偵のような身振り手振りがなんともじれったく感じた。俺はせっかちなのだ。


 その気持ちを黒川は感じ取ったのだろうか。芝居掛かった口調と手振りは変わらずとも、即座に推理の披露を再開する。


「さてさて、さて。

 部屋を荒らした犯人は誰か? 登場人物は二人。ストーカー、そして大井青子。

 ——しかし。

 そう『しかし』だよ。ストーカーは僕たち、主に白崎くん、君が見張っていたから彼女の部屋に侵入することはできなかったはずだ。相違ちがいないよね?」

「ああ、それは間違いないと思うぜ。お前が刺された後、しばらくは警察の現場検証が行われていた。お前が刺されて一、二時間くらいだったかな。まあ、俺がストーカーなら彼女のアパートに近づこうとは思わない。ストーカーが黒服であるかないか関わらずな」


 黒川が謎の男に刺される前は、俺たち二人が彼女の部屋を見張っていて、刺された後からは警察がアパートの前にいた。彼らは近くを通りかかったほとんど全ての人間に声をかけていた。警察が去った後も、俺は彼女のアパートに残って見張りを続けていた。彼女のアパートには誰も近づいていなかった。


「ではストーカーは侵入できないはずだ。異論はないね?」

「……? 

 まあ、ああ。そうだな」


 俺は黒川の言葉が、自分に同意を求めているような感じがして違和感を覚えていると、黒川は手持ちのペンで、ホワイトボートに書かれたストーカーという文字は二本線で消した。俺はその時の黒川の行動に疑問符ぎもんふが浮かんだ。その行動はまるで、部屋荒らしの犯人はストーカーとは別人であると表現しているようだから。


「犯人はストーカーではないね」


 そして彼は俺の予想と全く同じセリフを発した。

 まさか、と。俺はあわてて黒川の発言に異論を唱える。


「おいおい、待て待て待て。どうしてそこでストーカーを消すんだよ。

 お前はストーカーが、どうやって誰にも気付かれずに部屋へ侵入したのか、そしてその動機がわかったんじゃないのか?!」

「誰も犯人はストーカーなんて言っていない。それは思い込みだったんだよ。それが白崎君、君の勘違いなんだ。

 大井青子、彼女は『ストーカーが私の部屋を荒らしている』と、僕らに証言した。けれども、それは状況による憶測おくそくであって事実であると決まったわけではない。だって彼女は部屋荒らしの犯人なんて見ていないじゃないか」


 黒川はきょとんとした顔で、どんでもないことを言うものだと俺は驚く。こいつには常識というものが通用しないんじゃないか、と不安に思いながらも、俺は彼に言葉を返した。


「でも、でもだぜ。その憶測は九九パーセントの確率で事実だろう。

 だって、他に部屋荒らしをする候補なんていないじゃあねえか」

「それはどうかな。考えてみろ。

 この物語、この事件の登場人物はまだ他にいるんじゃあないのかい?」

「何を言っているん……だ?」


 俺はそう言いかけて口を動かすことを止めてしまった。「ストーカーが犯人でなければ、もう犯人はいない」というのはである。いないこともないのだ。この事件の登場人物はもう一人いるのだ。が、しかし、まさか。そんなのはありえない。だから、俺は困惑して声を上げずにはいられなかった。

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